第十四話  広瀬、紅艷しのはゆ 

紅艷偲こうえんしのはゆ……紅い鮮やかな花を、遠く思いをはせて懐かしがる。




   *   *   *




 たつの刻(朝7〜9時)



「ひいぃ───。」


 おみなの悲鳴が上毛野君かみつけののきみの屋敷の裏庭、池のほとりにこだまする。


 つるばみの木の下で、吊り目の女官が左腕をおさえ、しゃがみこんでいる。

 血が流れ、女の左手の小指と薬指はなかった。

 氷のような表情で、そばに立った三虎が、剣を振り、血を吹き飛ばす。


於屎売おくそめ。おまえいつも、大川さまを見張っていたな? 不自然なほど、いつも近くにいた。

 気が付かなかった己の至愚しぐにヘドがでる。」

「そんな……誤解ですぅ……。」


 三虎は吊り目の女官の左脇腹を蹴り倒す。


「ぎゃあ!」


 おみなは草地に転がり、その拍子ひょうしに、おみなの懐から小豆あずき色の木綿の袋がこぼれ、ぱさ、と草地に落ちた。

 はっ、と顔を引きつらせたおみなは必死に右腕を小豆色の袋に伸ばす。

 三虎は袋を拾い上げ、女官の左腕を、だん、と左足で踏んだ。


「ひぃ───。」


 と女官は草に顔を埋めながらもがいた。

 三虎は小豆色の袋の中身を取り出した。右手には抜き身の剣を持っているので、袋はぽい、と地面に捨てる。

 中身は銀細工のくし

 とうてい、一女官が持てる品物ではない。

 ……大川さまや、広河さまなら、自由にできる品物だ。

 三虎は、かがみこみ、目に怒りの炎をたぎらせ、


「……こんな物でか!」


 左腕をふりかぶり、銀細工の櫛の刃を、女官の目の前の地面に思い切り刺した。櫛は、ざぐ、と音をたて、土に立った。


「ひっ……、ひぃ……。」


 おみなは銀の櫛を見つめ、恐怖と苦痛の表情であえいでいる。


「大川さまがおみなとさ寝した、と、広河さまに報告したな?

 そうでなくば、説明がつかない。

 他に息のかかった仲間はいるのか。言ってみろ。」


 於屎売は、ひぃ、と喘ぐだけで、答えない。

 三虎は左手の中指と人差し指を切り落とした。

 おみなの悲鳴がまた裏庭にこだました。

 三虎は魂が凍てつくような冷たさで告げる。


「おまえが流した血の量は、大川さまの流した血の涙の一滴にも及ばない。

 オレはおまえを黄泉渡りさせても良い。」

「許してえ! 広河さまが、大川さまを見張れ、おみなとさ寝したら、必ずすぐ教えろって、それだけで良いからって、おっしゃったんですわ。

 あたしだって、賊に襲われるなんて、知らなかったんです!」

「他に広河さまの息のかかった仲間はいるのか。」

「他に仲間はおりません。お願い、許してぇ……。」

「信用できないな。親指も落としておくか?」


 おみなはもがき、


「やめっ、やめてぇ、許して、本当です!」


 と言いつのった。

 三虎は左足をどけ、


「どこぞに行け。もうオレと大川さまの前に現れるな。次は……、どこを刺すかわからないぞ。」


 と静かに言った。


 おみなは素早く銀のくしを土から引き抜き、小豆色の衣も拾い、さっと懐にしまい、血があふれる、親指しかなくなった左手を右手で抑え、存外、力強く立ち上がり、


「ぐぅぅぅぅ、あぁぁぁぁ。」


 怨嗟えんさのこもった目で三虎を見てうなり、泣きながら駆け去った。

 三虎は眉一つ動かさず、剣の血を飛ばし、はし布で拭き取った。


 遠く空を見る。

 雪雲が遠くに見えた。


(広瀬さまは人払いをなされて、大川さまを呼んだ。

 きっと、今ごろ……。)


 三虎にできる事は、もうない。


 ため息をつき、三虎は屋敷にむかって歩きだした。



   *   *   *



 同時刻。庭闈ていい上毛野君かみつけののきみ広瀬ひろせの部屋)。



「バカ者!」


 大川は右頬を父の拳で殴られた。

 思ったより力が足りない。

 身体が吹っ飛ぶまでいかず、身体が傾いで、そのままぺたんと床に腰を下ろす。

 もう父より大川のほうが背が高い。

 父を見上げる姿勢になったのは久しぶり……。

 薄ぼんやりとした目で、大川は自分をたった今殴った父を見上げた。


(おや……?)


 そう言えば、父に直接殴られたのは、これが初めてだ。

 前に三島木綿みしまゆうで殴られた時は八十敷やそしきに殴らせてたし……。

 と思ったら、急におかしくなった。


「ふっ……、ふっ……。ふっ……。」

「何を笑っておる!」

「あはははは! 何もかも……、何もかもですよ父上……!」


 今朝方、赤土の小屋の前で大笑いしていた兄も、こんな気持ちで大笑いしていたのだろうか。

 今ならなんとなく分かる気がした。


「なぜわたしは生まれながら全て兄に捧げなきゃいけないんです。

 なぜもっと自由に生んでくれなかったんです?

 そもそもなぜ母刀自ははとじを愛したのです?」


 言葉が止まらない。


「いや違う。あなたは母刀自を愛してない、私のことも、兄のことも、意弥奈いやなさますら。誰も……、誰も……。」


 左の頬を殴られた。


 頭のてっぺんまで衝撃が、がん……、と響くが、黙ってやるものか。


「あなたが憎い!

 兄が憎い!

 比多米売ひたらめを盗んだ兄が憎いッ!」


 もう一発来ると思い、身構えたが、父は無言でこちらを見下ろしている。


「そのおみなに心底恋うたか。他のおみなはこの世にいない、と思うほど。」


 意外な事を訊かれ、


「わかるものか!」


 大川は叫んだ。


「一昨日の夜、会ったばかりだ。むこうから誘われたんだ。さ一夜ひとよして、もう盗まれた。

 陽の下での……、顔も知らない……。」


 限界が来た。

 場所も時もわきまえず、うわあああ、と声がせり上がってきて、大川は泣きに泣いた。


(比多米売……、比多米売……。)


 父は倚子に座り、じっとしていた。


「うわあああああ…………。」


 海のように、めどもめども汲みつくせぬ大量の涙を流している間、父はそこを動かなかった。


 やがて大川の嗚咽が鎮まると、父は静かに語り始めた。


宇都売うつめも、意弥奈いやなも、愛したから子供を産んだ。

 おまえはなじるが……。

 私はそう思っている。だが……。」


 父は言葉を切り、しばらく何事かを考えていたが、ゆっくり口を開いた。


「私は昔、一人のおみなを恋うた。

 恋うてはならぬおみなを、全てを捧げても良い、おのこは私一人、おみなはおまえ一人。

 そう思い定めて、身を焦がし、なりふり構わず、そのおみなを求めた。

 私の恋の炎は、そのおみなを焦がし、そのおみなつまを焦がし、全てを失わせてしまった。

 おみなつまが黄泉渡りをし、そのおみなも黄泉渡りをした時、私は、私自身をも燃やし尽くし、心は灰になったことに気がついた。

 もう、他のどんなおみなも、同じように愛せはしない。

 あのおみなは、一度も私のことを愛子夫いとこせとは呼ばなかったが、あのおみなこそ、正しく私のいもであった。

 私の一部は灰になり、黄泉に渡り、今もそのいもと共にあるのだから。」

「…………。」

「おまえも、いつか必ず出会う。一人のいもに。

 自分の全てを捧げ尽くす、相手の全てを奪い尽くす、それでも止まることのできぬ恋に。

 それは、今回の女官ではない。」

「なぜそんな事を……。」


 反感を持って睨むと、


「正しくいもであったなら、今頃、おまえは泣いているだけではすまない。三人して黄泉路よみじだ。そういうものだ。」

「……私は、秋津島に妻はおらず、です。」

「なんだ。私はそんなもの気にしておらん。おまえも、広河も、必ずいもに出会う。

 私の血が濃いからな。むしろ心配なのは、恋の炎で己も相手も破滅しないかだ。」

「そんな恋……、しません。」


 父の目がふわっと動いた。

 薄く笑い、


「……そうだな。それが一番楽だ。私のようになるな。」

「なりません。」


 しばし父子で睨みあう。

 目をそらしたのは父だった。

 父は疲れたように目の付け根を右手でもみ、ため息をついた。


「この父にそのような口をきけば、もう充分だろう。

 上毛野君かみつけののきみおのことしての役目はわきまえておるな?」

「はい。」


 その質問に否はない。


「おまえは明後日、奈良へ発て。大学で学べ。」

「えっ!」


 奈良は上野国かみつけののくにとは比べ物にならないほど、豪奢なところだと聞く。

 人も、物も、手に入らぬものはない、と。

 大学は役人の登竜門だ。

 ……二日前の自分なら、小躍りして喜んだはずだった。


「見るべきものは多く、得られるものは多いだろう。ただ、すぐ大学に入れるわけではない。試しがあるからな。」

「はい。」

「わかったら、もう行け。」

「はい。」


 本当なら、感謝を述べるべきだ。

 だが、感謝の言葉は喉の奥にからまって出てこなかった。

 かわりに礼の姿勢をとり、庭闈ていいを退室する。


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