第五章   金のかんざし

第一話  恋者邐倚 〜れんじゃりい〜

 恋者れんじゃ……恋する者。または、恋は。

 邐倚りい……道が長く遠く曲がりくねっているさま。





   *   *   *




 貴賓席きひんせきにいる日佐留売ひさるめは、倚子に座った五歳児、難隠人ななひとさまが寝てしまったのに気がついた。


(この時間では無理もないわね。)


 日佐留売の息子、同じく五歳の浄足きよたりは、眠そうに目をこすりつつ、舞台を興味深そうに見ている。


(浄足は、静かに良い子にしてられる。母刀自として助かるわね。)


 浄足から舞台へ、日佐留売ひさるめも目を移す。

 歓声の中、弟、三虎が遊行女うかれめと唱和している。


(やるじゃないの……。)


 立派な桂甲かけのよろいが良く似合っていて、声も堂々としている。

 姉として鼻が高い。


 しかし論語とは。

 正直何を言ってるかさっぱりだ。

 まあ、大川さまや、賓客たちにはわかっているのだろうけど。

 衛士や女官たちには、わからないはずだ。

 かっこよければ良いのだろうか。

 聴衆はやぁやぁはやし立てているから、うけてはいるみたい……。



 と、一番盛り上がっている、三虎の卯団うのだんに目が行った。

 手をたたき、飛び跳ね、思い思いに体を動かしている衛士たちのなかで、一人うつむき、静かにしてる人がいる。

 弟の唱和が終わり、見事な矢の腕前を披露し、いっそう皆が盛り上がるなか、その人影は一人皆の輪を抜けた。


(あ……! なんてこくな……!

 あれは古志加ね。んだわ。

 どうしよう。

 今すぐ福益売ふくますめを使いにやって、あたしの部屋にかくまう?)


 でも、三虎にあらかじめ、古志加を七夕に女官として使いたいと言ったら、その日は警邏けいらの仕事があるから、女官はさせられません、と断られていた。

 警邏は朝まで続くはず。かくまったら、やりすぎになる……。


(可哀想に、今、すごく傷ついているはずだわ。

 短い間、あたしの部屋で泣かせてあげるくらいはしてもいいでしょう。)


福益売ふくますめ、部屋に引き上げます。

 卯団うのだんの詰所にいって、古志加をすぐにあたしの部屋に呼んでちょうだい。

 卯団の大志たいしに断られても、是非に、と言うのよ。」


 とそばにいた福益売に言い含め、


「さ……、浄足きよたり。もう寝ますよ。ご挨拶を……。」


 と浄足に声を優しくかけ、


「うん、皆さま、おやすみなさい……。」


 と眠そうに言う、可愛い浄足の声をききながら、難隠人ななひとさまを倚子から抱き上げる。




     *   *   *




 日佐留売ひさるめは一人、高麗錦こまにしきの袋から、金のかんざしをとりだす。

 自分の髪にはさない。

 髪に挿したのは、あの方の手によって、一度きり。

 あの雪の夜。

 あたしの想いは届かなかったけど、あの方は、あたしの手を取って、あたしの顔を見て、


「美しい日佐留売。」


 と言ってくれた。

 あの一瞬だけは、あの方の時間はあたしのものだった。

 一枚の美しい絵のように、あの一瞬が常敷とこしへ(永遠)となり、今もあたしのなかで色褪せない思い出として残っている。

 それで、充分だ。


 つまの妻問いをうける夜も。

 石上部君いそのかみべのきみと、有馬君ありまのきみの人々が集まって、婚姻の宴が開かれた夜も。


 あたしは一人こうやって無言で、この金の簪を手に取り、見つめた。

 それで、充分だった。



 母刀自ははとじの言ったことは正しい。


 ───自分が恋うていなくても、むこうが恋うてくれているのなら。


 つま有馬君ありまのきみの浄嶋きよしまは、たしかにあたしを恋うてくれていた。


「一生、あなただけだ。あなたは完璧だ。美しい……。

 大事にします、オレのいもよ。」


 月光を一身に浴び、うっとりした笑顔で、あたしにそう言ってくれた。

 つまはいつも、あたしに優しくしてくれた。

 その安寧あんねいに、あたしはとろとろと微睡まどろみ、


(ああこれは、これで良いのだわ……。)


 そう思っていた。




 けれど、驚くようなめぐり合わせで、難隠人ななひとさまの乳母ちおもとなり、えやみが落ち着いて、上毛野君かみつけののきみの屋敷に住まいを移し、実に一年ぶりに群馬郡くるまのこおりの、あたしとつまの屋敷に戻ってきたとき……。


 その時は、夜寝るわけではなく、昼餉と夕餉のあいだだけ、つまのために時間を作った。

 浄足も上毛野君の屋敷に置いてきた。

 難隠人さまだけ置いてくるのは、気が引けたからだ。



 つまの様子がおかしかった。

 人払いし、問い詰めたら、すぐに吐いた。


「オレはうけひを破ってしまった。許してくれ。吾妹子あぎもこを一人、作ってしまった。」


 とつまは泣いた。

 本当に地面がかしいで、穴が空いて、黄泉まで吸い込まれていきそうに感じた。

 あたしも泣き、なじり、わめき、つまの胸を叩き、自分の胸を叩いた。


「オレに愛想をつかさないでくれ、出て行かないでくれ、オレを捨てないでくれ……!

 恋うているいもはお前だ、日佐留売!」

「ならなぜ! なぜうけひを破ったのです……!」

「お前は、お前は……。」


 つまは言いよどみ、絞り出すように、


「完璧だから……。」


 と苦しそうに笑った。

 あたしはつまの頬を張り倒した。


 

 わけがわからない。

 あたしの何が完璧なの?

 完璧の、何が悪いの?

 それがなぜ、吾妹子あぎもこを作る理由になるの?

 寂しかったから、そう言われたほうがまだ納得がいった。

 さみしい思いをさせた自覚はあった。



 たしかに、石上部君いそのかみべのきみ有馬君ありまのきみほどの家なら、吾妹子の二人や三人いても、全くおかしいことはない。

 でも、父上は母刀自ははとじ一筋で、他に吾妹子あぎもこを作ろうとしなかった。

 あほの布多未ふたみが父上と三虎と酒を飲みつつ、


「吾妹子を作りたいと思わないんですか?」


 と父上に訊いたことがあった。


「そんなことしたら、母刀自が遠くに逃げていっちゃうだろ。

 自分が失ってはいけないいもは、この世にたった一人だ。

 その一人を、見極めるんだぞ。布多未ふたみ。」


 と父上は、照れつつ、幸せそうに笑っていた。



 だからあたしも、自分のつま吾妹子あぎもこを作られるなんて、思いもしなかった。


「一生、あなただけだ。」


 浄嶋のその言葉に、安心しきっていた。

 つま吾妹子あぎもこを作られることが、こんなに腹立たしく、情けなく、悔しいものだとは……!



 母刀自が、むこうが恋うてくれているのなら、と言った意味がわかった。

 おのこの首に鈴と紐でもつけられればいいが、そうはいかない。

 妻は、何人、吾妹子あぎもこを作られるかわからず、つまの愛もたのめず、幾夜いくよ、涙で袖を濡らすことになるのだろう……。


 無性むしょうに腹がたった。


「どんな吾妹子あぎもこなんです……。ああ、いいえ! 何も知りたくない!

 ただ、なにか問題を起こしたり、あたしに楯突くような生意気なおみなだったら、あなたが与えた屋敷であろうと、あたしが追い出してやる!

 火をつけてやる!」


 涙をぼろぼろこぼしながら叫ぶと、その言葉のあまりの激しさにつまは目をき、青い顔になった。


「そ、そんなおみなではない……。お前のほうが、ずっと美しい、日佐留売ひさるめ。」





 こうなった以上、

 あたしが取れる行動は二つだけ。


 つまを捨て、遠くに逃げていってしまうか、つまを受け入れるか、だ。


 あたしは己の胸に問いかける。


(あたしは、あたしは、どうしたい……?)


 すると、


 ───この目の前で、恋うているいもはお前だ、と泣くおのこには、あたしが必要。


 とつぶやく小さな声が、胸のうちから聞こえた。


 ───捨てないでくれ、などと口にするなんて、情けない。

 あたしがついててあげないといけない人……。







(ならば与えよう、あたしを。)









 あたしは、目の前のおのこを睨みつけながら、張り倒した反対の頬を、ぐいっ、とつねりあげた。


「あっ、痛い!」


 と浄嶋きよしまは情けない声をだす。

 あたしは浄嶋にむかって一歩踏み出し、


吾妹子あぎもこはその一人だけ。それ以上は許しません。」


 とささやき、両頬に手を添え、一息に唇を重ねた。

 軽い口づけではない。

 ゆっくり、唇の柔らかさを伝える口づけだ。


「ゆ、許してくれるの……?」


 揺れる声で浄嶋が問うので、


「本当に、次は、あたし、遠くに逃げていっちゃうんですからね。絶対よ。」


 と念押しし、頬をゆるませ、


愛子夫いとこせ。」


 と親しくささやいた。

 あたしのつま、浄嶋さま、と呼んでも、思えば、愛子夫いとこせと呼んだことはなかった。

 いもと呼んでくれるのだから、愛子夫いとこせで間違いない。


 愛子夫いとこせはあたしを強く抱きしめ、熱く唇を重ねてきた。身を離し、


「嬉しい、オレは本当に……。」


 と泣き笑いをし、やがて目を丸くした。


「何を……?」


 日佐留売は顔を赤らめ、だが己の手は止めない。

 女郎花おみなえし色(かすかに緑がかった黄色)の己の衣をどんどん脱いでいく。


 さは月が昇ってから。そうではあるが、


「あたしには時間がないんです。もうっ、もう……。あなたも早く脱いで!」


 この愛子夫いとこせとともに道を歩く。

 決めたのだ。




     








 人払いはしてあるから心配はないが、白昼に、人に見られたら腰を抜かされるようなことをつまとしたあと、


「また、時間は作りますから……。」


 と言って別れ、難隠人ななひとさまと浄足きよたりの待つ上毛野君かみつけののきみの屋敷に戻ってきた。


 長くほったらかしにし、すっかりすねた緑兒みどりこ(赤ちゃん)二人のご機嫌を取りつつ、世話が一段落し、二人とも寝た夜。






 一人、月明かりのもとで、金のかんざしをとりだし、じっと見つめた。

 泣くわけでは無い。

 なにか喋るわけではない。





 ……あたしは、あの方のいもではない。


 ……あたしは、浄嶋きよしまいもだ。





 だが、このかんざしを見つめ、心の中の……おそらくは、あの方の心のなかには残っていないであろう、ほんの一瞬の、あたしには常敷とこしへの、一枚の絵のような光景を、心に思い浮かべることぐらいは、許して欲しい。

 それだけで、充分だから。



 そう、思ったものだった。



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