君は青空を見上げているか?

都山琴葉

君は青空を見上げているか?

北アルプスが遠くに見える竜ヶ岳りゅうがだけの山頂。

空は快晴。風も穏やかで心地がいい。

 最近、わたしの身の回りで嫌なことが立て続けに起きていた。どこから話そうかな。

 まず、二ヶ月前に就職した会社の上司からセクハラを受けていること。

 家の鍵を失くして『合鍵を作るんじゃなくて、鍵を丸ごと交換しないと危険だよ』と言われて費用がかさんだこと。

 

 でも一番は、親友が結婚したこと。


 親友が結婚したことは嬉しい。おめでたいことだとも思っている。結婚式にだって参加するよ。

 でも、わたしはいつになったら結婚出来るんだろうっていう焦りが、毎日波のように押し寄せてくるんだ。

 気が付いたら、マッチングアプリ開いているわたしがいる。

 色々なことが、心をむしばむように積み重なってきたから、思い切って遠出した。

 ううん。正直、思い切り叫びたかった。上司のバカヤローって。


 猫もまどろむ柔らかな陽差しの山頂。登山口から三時間ほどで山頂に着く初心者コースを、わたしは選んだ。

 道中、ミツバツツジの花。アカヤシオといった春の花の彩りがわたしを楽しませてくれた。昨日の夜に奮発ふんぱつして買った茶色のハイキングシューズは、うっかり水溜まりを踏んでしまって、山頂に着いた頃には泥だらけ。

 山頂には年代バラバラの人がちらほらいる。わたしは邪魔にならないように、撮影ポイントと書かれている看板に近付くと、北アルプスの全景が見渡せた。富士山は帽子被っている。

 

「綺麗……」


 わたしはぎこちなく声を漏らした。

 本栖湖もとすこに富士山。日常の些細なことを忘れさせてくれる雄大な景色が広がっていた。わたしの身体が景色に吸い込まれて溶け込むような不思議な感覚。

 思わず、右手に力が入ってリュックのショルダー部分を強く握ってしまう。

 周りに声を出していいかと確認したあと、わたしは深呼吸した。


「セクハラ上司のバカヤロー! 」


 目の前の景色を斬ってしまうような大きな声。

 さすがにやまびこは来なかった。でも、少しだけスッキリしたかもしれない。

 

「君は青空を見上げているかい? 」

 

 ふいだった。後ろを振り返ると六十代後半に見える男が立っていた。季節に合わない赤黒のチェックシャツに、ベージュのチノパン。

 優しそうな目には年齢とし相応のしわが深く彫られていた。


「天気は、毎日見上げて確認してますよ」


 わたしは無難にそう答えた。悪い人じゃなさそうだし。


「いや、そうではないよ。何も考えずに空を見上げているか? と聞いたんだ」

 

 男はそう答えると、顔を上げて空を見上げた。眩しそうに目を細める。


「何も……ですか」


 そういえばと、わたしは思った。ぼーっと空を見上げたのは、ここ何年も無いかもしれない。下手したら子供の頃から。

 日々の忙しさを紛らわせるような趣味ならある。家に積み重なったライトノベルの数は、百冊以降数えていない。

 でも、今のわたしに必要なのは紛らわせることではなくて、心の余裕なのかもしれない。

 右からゆっくり雲が流れていく。チラ見した程度では分からないけど、じーっと見ると、雲の流れが分かる。男はわたしを見て、優しく頬を緩ませ、柔らかな笑みを浮かべながら会釈した。

 それに気付いて、わたしも慌てて会釈する。自然と笑顔になった。


『君は青空を見上げているかい? 』


 はい。今見上げています。


 穏やかな風が、わたしの身体を通り抜けた。

 額から流れるのは気持ちの良い汗。眩しそうに、けれども、キラキラと輝く瞳。


「綺麗」


 それは素直な声。いつも見る空が、違って見えた。些細なことでも幸せに感じれるかもしれない。そんな心の余裕を、わたしはこれから大事にしたい。


 帰ったら親友に電話しよう。

 改めて「結婚おめでとう」って言う。

 最初は「どうしたの? 急に」って怪訝けげんな反応されるかもしれないけど、その時は、また言いたくなったって素直に伝えるつもり。


 だって、大切な友達に変わりないんだから。


 会社は辞めることにした。心が泣いているなら、無理しないでって、わたしはわたしに手を差し伸べる。

 

 そう決めたら心が軽くなった。

 

 午後の昼下がり。刷毛はけでサッと書いたような雲の帽子は風に流れ、富士山が晴れやかに姿を現した。

  

        〈了〉 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君は青空を見上げているか? 都山琴葉 @ocean_00

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ