第五話  樺太戦

元・日本兵①「これは作戦を実行すると死ぬ。やらなくても死ぬ。みんなやけくそでしたね」

元・日本兵②「いったら確実に死ぬ。そういう無謀っていうか……意味が分らない作戦だった」

樺太師団参謀「南樺太死守作戦はやめるにやめられない戦争だった」

元・日本兵③(当時・28)「一週間で数千人死んだ。日本兵は竹や葉っぱで機関銃のような音を立てて大軍にみせたり……みんな「くやしい」といいながら餓死したり病気で死んでいった。戦略どころかあれは作戦でさえなかった」

元・日本兵④「戦友を〝置き去り〟にした……悪いことをしたなあ。でも、生きて帰れただけましだった。」

そして、日本サハリン同胞交流協会元会長(2017年度7月31日死去、享年85歳)、老人ホームで車椅子で暮らしていた小川岟一(おがわ・よういち)さん(85)はいった。

「戦争はぜったいにやったらいけない。……樺太戦争の実行そのものが悪というより、戦争の愚かさ…を示しているのですよ。戦争をしたい人はいろいろ綺麗事を並べるけどねえ……樺太戦のような愚かさをみせるだけ。戦争だけは人間を狂わせるからぜったいに駄目……戦争が近づいたら樺太戦を……思い出して……」

 戦争はぜったいにやったらいけない。歴史とはまさにその刹那にさえ、葛藤と戦争と闘争の歴史である、という。小川さんは生まれは当時の樺太・大泊(おおどまり・現コルサコフ)。父親は薬剤師で1939年に一家で北海道の小樽に引き揚げた。日本とサハリンの架け橋として日本サハリン同胞交流協会会長として長らく活躍し、2013年に元アナウンサーの佐藤弘美さん(61)ら次の世代に運営をバトンタッチされた。「懐が深くて優しくて」(佐藤弘美さん談)。これが戦慄の記録・樺太戦のすべて75年目の真実で、ある。歴史の悲惨、樺太戦……まさに、戦慄の記録、で、あった。

 

戦争犯罪者は時に「勝者の為に犠牲者」になる。彼らだっていい訳ぐらいあるだろう。が、だからと言って、被害者意識丸出しで世界に訴えてもかわらない。小林よしのりは「A級戦犯などいない」という。なら誰が戦争を始めたのであろうか?軍部か?天皇か?何はともあれ「いい訳」で歴史を改ざんされては堪らない。歴史から逃げるな!と言っておわりとしたい。「こうして最悪の泥沼の地獄の太平洋戦争はおわった。そして敗戦より70年あまり、この物語をすべての戦没者たちに捧げる」    大河小説 樺太戦 おわり 







「樺太の戦い」ウィキペディア参照

樺太の戦い (1945年)

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日本の第88師団司令部が置かれた樺太庁博物館。

戦争:太平洋戦争

年月日:1945年8月11日-8月25日

場所:南樺太

結果:ソビエト連邦軍の勝利

交戦勢力

大日本帝国の旗 大日本帝国 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦

指導者・指揮官

大日本帝国峯木十一郎 ソビエト連邦レオンチー・チェレミソフ

ソビエト連邦ウラジーミル・アンドレエフ

戦力

約20,000 1個師団・4個旅団

損害

戦死 700-2,000

民間死者 3,500-3,700 不明

日本本土の戦い硫黄島 -

沖縄戦 -

菊水作戦 -

大和特攻 -

呉軍港空襲 -

本土空襲 -

飢餓作戦 -

バーニー作戦 -

日号作戦 -

ソ連の侵攻 -

樺太 -

占守島 -

本土決戦


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樺太の戦い(からふとのたたかい)は、太平洋戦争/大東亜戦争末期の1945年(昭和20年)8月11日から8月25日にかけ、日本の内地であった樺太南部で、日本とソビエト連邦の間で行われた戦闘である。

1945年8月9日に対日参戦したソ連は、8月11日に南樺太の占領作戦を開始した。その目的は南樺太の獲得と、次に予定された北海道侵攻の拠点確保だった。ソ連軍は北樺太から陸上侵攻する歩兵師団・歩兵旅団・戦車旅団各1個が攻撃の中心で、補助攻勢として北太平洋艦隊と歩兵旅団1個による上陸作戦が実施された。日本軍は、歩兵師団1個を中心に応戦し、国境地帯ではソ連軍の拘束に成功した。

8月15日に日本のポツダム宣言受諾が布告されて、太平洋戦争は停戦に向かったが、樺太を含めてソ連軍の侵攻は止まらず、自衛戦闘を命じられた日本軍との戦闘が続いた。樺太での停戦は8月19日以降に徐々に進んだものの、ソ連軍の上陸作戦による戦線拡大もあった。8月23日頃までに日本軍の主要部隊との停戦が成立し、8月25日の大泊占領をもって樺太の戦いは終わった。

当時、南樺太には40万人以上の日本の民間人が居住しており、ソ連軍侵攻後に北海道方面への緊急疎開が行われた。自力脱出者を含めて10万人が島外避難に成功したが、避難船3隻がソ連軍に攻撃されて約1,700名が死亡した(三船殉難事件)。陸上でもソ連軍の無差別攻撃がしばしば行われ、約2,000人の民間人が死亡した。


背景

北緯50度の国境標柱と日本の国境警察隊員

豊原市の大通りの風景

ポーツマス条約によって日本領となった南樺太には、1913年(大正2年)の樺太守備隊廃止以来、日本軍は常駐していなかった。軽武装の国境警察隊が国境警備を担当していた。しかし、1939年(昭和14年)5月に至り、対ソ連の防備のため樺太混成旅団が設置された。その後、第7師団(北海道駐屯)の改編や関東軍特種演習に伴い次第に駐屯兵力が増強された。

太平洋戦争中盤になると、従来はソ連を仮想敵としていた南樺太の戦備も、対アメリカ戦重視に方針が転換された。北樺太侵攻作戦は放棄されて、専守防衛型となった。北方軍司令官の樋口季一郎中将は、対ソ国境陣地を重視せず、主にアメリカ軍上陸に備えた南部の防備強化を指導した。本土決戦が想定され始めた1945年(昭和20年)2月には駐屯部

隊の大部分を再編成して第88師団が創設されたが、その主力は南部地区に置かれた。

備役(在郷軍人)主体の予備戦力の整備も進められ、1944年(昭和19年)5月に特設警備隊である特設警備大隊3個・特設警備中隊8個・特設警備工兵隊3個、1945年3月には地区特設警備隊9個が各地に設置された。このほか、国民義勇戦闘隊の組織も準備されていた。地区特設警備隊や国民義勇戦闘隊は、日中戦争での中国共産党軍にならい遊撃戦を行うことが期待されており、3月下旬に7700人が2日間の召集訓練を受けたほか、7月以降には陸軍中野学校出身者による教育が多少実施された。

約40万人の一般住民については北海道への緊急疎開が予定され、大津敏男樺太庁長官と第88師団参謀長の鈴木康大佐、豊原駐在海軍武官の黒木剛一少将による3者協定が締結されていた。樺太庁長官を責任者として陸海軍は船舶提供などの協力をするという内容であったが、実態は腹案の域を出ず、3人以外には極秘とされて組織的な事前打ち合わせは無かった。

一方、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、南樺太の奪還を狙っていた。ソ連の対日参戦を密約した1945年2月のヤルタ会談において、ソ連は南樺太占領を参戦後に予定する作戦の第一として挙げ、実際にヤルタ協定には「南樺太のソ連への返還」が盛り込まれた。当時、ソ連は北海道北部(留萌・釧路以北)の軍事占領も計画しており、南樺太は北海道侵攻の拠点としてすぐさま使用される予定であった。南樺太攻略担当には、北樺太に主力を置く第2極東戦線の第16軍(司令官:L・G・チェレミソフ(Л. Г. Черемисов)少将)が充てられた。もっとも、7月28日に通達された実際の作戦計画では、樺太・千島方面の攻略は満州方面に劣後した順位となっており、発動時期は戦況に応じて調整されることになっていた。現場では日本軍守備隊に関する情報を把握できないでおり、南樺太に日本軍戦車が配備されていないことすらも知らなかった。

日ソ間には日ソ中立条約が存在し、1945年(昭和20年)8月時点でも有効期間内であったが、ソ連の対日参戦は実施されることになった。なお、同年5月頃、日本はソ連を仲介者とした連合国との和平交渉を模索しており、その中でソ連への報酬として南樺太の返還も検討されていた。(日ソ中立条約との関係については日ソ中立条約及びソ連対日宣戦布告を参照)

ソ連軍侵攻前の樺太での戦闘としてはアメリカ潜水艦の活動があり、日本商船が攻撃されたり、海豹島などが砲撃を受けていた。7月23日には、アメリカ潜水艦「バーブ」から少数の水兵が密かに上陸して、樺太東線の線路を爆破している。

戦闘経過

全般状況

樺太庁の支庁区分

日ソ開戦前、日本軍の配置は北地区(敷香支庁・恵須取支庁)と南地区(豊原支庁・真岡支庁)に分かれていた。北地区は歩兵第125連隊が、南地区は第88師団主力が分担し、対ソ戦・対米戦のいずれでも各個に持久戦を行う作戦であった。北地区はツンドラに覆われて交通網が発達しておらず、国境から上敷香駅付近までは軍道と鉄道の実質一本道で、敵進路の予想は容易だった。現地の第88師団では、対ソ戦重視への配置転換を第5方面軍へ6月下旬から上申し続けていたが、ようやく8月3日にソ連軍襲来の場合には迎撃せよとの許可を得られた。

8月9日にソ連は対日宣戦布告を行ったが、ソ連軍の第16軍に樺太侵攻命令が出たのは翌10日夜であった。作戦計画は3段階で、第1期に第1梯団(第79狙撃師団・第214戦車旅団基幹)が国境警戒線を突破し、第2期で古屯「要塞」を攻略、第3期には第2梯団(第2狙撃旅団基幹)が一気に超越進撃して南樺太占領を終えるというものだった。国境地帯からの2個梯団が主軸で、塔路と真岡には補助的な上陸作戦が計画されていた。ソ連側の侵攻が開戦直後ではなかったことは、日本側が兵力配置を対ソ戦用に変更する余裕を生んだ。ソ連軍は第1期作戦から激しく抵抗を受けてしまい、第2期の古屯攻略のための部隊集結も遅れだした。

日本の第5方面軍は、8月9日早朝にソ連参戦の一報を受けたが、隷下部隊に対し積極的戦闘行動は慎むよう指示を発した。この自重命令は翌日に解除されたが、通信の遅延から解除連絡は最前線には届かないままに終わり、日本側前線部隊が過度に消極的な戦術行動をとる結果につながった。自重命令解除に続き、第5方面軍は、第1飛行師団の飛行第54戦隊に対して落合飛行場進出を命じたが、悪天候のために実施できなかった。一方、ソ連軍機も悪天候には苦しんでいたが、なんとか地上支援を成功させている。第5方面軍は、13日には北海道の第7師団から3個大隊の増援を決めるとともに、手薄と見られたソ連領北樺太への1個連隊逆上陸(8月16日予定)まで企図したが、8月15日のポツダム宣言受諾発表と大本営からの積極侵攻停止命令(大陸命1382号)によって中止となった。

日本側現地の第88師団は、8月9日に防衛召集をかけて地区特設警備隊を動員した。8月10日には上敷香に戦闘司令所を出して参謀数名を送り、13日には国民義勇戦闘隊の召集を行った。一般住民による義勇戦闘隊の召集は樺太戦が唯一の実施例で、ねらいは兵力配置があるように見せかけてソ連軍の進撃を牽制することだった。師団は、8月15日に玉音放送などでポツダム宣言受諾を知り、防衛召集解除・一部兵員の現地除隊・軍旗処分など停戦準備に移った。しかし、8月16日に塔路上陸作戦が始まると、同日午後、第5方面軍司令部はソ連軍が樺太経由で北海道に侵攻する可能性があると判断、第88師団に対して自衛戦闘を継続してソ連軍の転進を阻止し、特に北海道への侵攻拠点に使われるおそれがある南樺太南部を死守するよう命令した。

8月16日以降も、ソ連軍は引き続き侵攻作戦を続けた。アメリカ軍のダグラス・マッカーサー元帥はソ連軍参謀本部に対して攻撃停止について申し入れたが、ソ連側はソ連軍が攻撃停止するかは地域の最高司令官の判断によるとして、協議に応じなかった。Cherevko(2003年)は、満州と樺太で日本軍が降伏せずに戦闘行動を続けたため、ソ連軍は攻撃を進めたと述べている。他方、中山(2001年)によれば、ソ連側が樺太南部への侵攻を続けた理由は、樺太から北海道への日本側の引揚げ阻止と、北海道北部占領のための拠点確保にあった。8月18-19日には、極東ソ連軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥が、8月25日までの樺太と千島の占領、9月1日までの北海道北部の占領を下令した。国境地帯の古屯付近では8月16日にソ連軍が総攻撃を開始したが、日本側守備隊の歩兵第125連隊が即時停戦命令を受けて8月19日に武装解除するまで、主陣地制圧はできなかった。ソ連軍は同じ8月16日に塔路上陸作戦も行ったが、上陸部隊の進撃は低調だった。交通路は避難民で混雑し、日本軍は橋の破壊などによる敵軍阻止を断念することが多かった。この間、日本側は現在位置で停止しての停戦を各地で交渉し、峯木師団長自身も北地区へ交渉に向かっていたが、進撃停止は全てソ連側に拒否され、しばしば軍使が処刑される事件も起きた。

8月19日、日本の大本営は第5方面軍に対して、停戦のための武器引き渡しを許可した(大陸指2546号)。満州方面よりも3日遅れの発令であった。ただし、第5方面軍は8月19日17時30分にも、第88師団に対して、ソ連軍が無理を要求して攻撃を中止しないであれば自衛戦闘を継続し、南樺太南部を死守するよう命令していた。8月21日に峯木第88師団長が第5方面軍の萩三郎参謀長に電話でソ連軍が進撃停止に応じない状況を説明し、全面衝突回避のため武装解除とソ連軍の進駐容認の承諾を得た。翌8月22日には上記の大本営からの武器引き渡し許可が伝えられ、知取でソ連軍との停戦合意に達した。この間にも、8月20日には真岡にソ連軍が上陸して多数の民間人が犠牲となり、やむなく応戦した日本軍と激戦となっていた。ソ連側は、日本人と財産の本土引き揚げ阻止を図り、8月22日に婦女子老人を優先的に本土に返す為出港した引揚船3隻を撃沈破(1700名以上死亡)したうえ、23日には島外移動禁止を通達した。24日に樺太庁所在地の豊原市はソ連軍占領下となり、25日の大泊上陸をもって南樺太占領は終わった。

国境地帯への侵攻

国境の北地区守備を担当する歩兵第125連隊は、8月9日の時点では主力は内路・上敷香にあり、第2大隊だけが古屯でソ連軍に備えていた。開戦と同時に、連隊長の小林大佐は、国境付近の分哨や住民の後退と道路破壊を命じ、連隊主力を率いて北上した。ソ連軍が砲撃を行うだけで進撃に着手しなかったため、10日には古屯北西の八方山へ布陣を終えることができた。住民誘導や道路破壊作業は、上敷香に進出した師団参謀の指導で、特設警備隊や地区特設警備隊を中心に進められた。

日本の国境警察隊。陸軍部隊とともにソ連軍を迎撃した。

ソ連軍の中央軍道方面からの侵攻は、8月11日午前5時頃に始まった。最前線の半田集落は歩兵2個小隊と国境警察隊28名の計100名程度の守備兵力ながら、戦車と航空機に支援されたソ連軍先遣隊を丸一昼夜阻止した後、8月12日にほぼ全滅した。この玉砕は付近の日本軍に士気高揚をもたらし、他方、ソ連軍には野戦築城レベルの半田に要塞があったかのように記録させるほど衝撃を与えた。8月12日昼には、武意加からツンドラ地帯を強行突破したソ連軍第179狙撃連隊が古屯に進出しはじめたが、訓練用の木銃と銃剣で武装した輜重兵第88連隊第2大隊や憲兵の突撃で足止めされている。なお、第5方面軍が9日に発した積極攻撃禁止命令は、この頃に歩兵第125連隊へと届き、以後の戦術を制約していった。

8月13日、ソ連軍第1梯団は、日本の歩兵第125連隊に対し、軍道上の梯団主力と迂回した第179狙撃連隊による包囲攻撃を開始した。日本軍の速射砲などではソ連戦車を撃破できず、軍道上の師走陣地守備隊は大損害を受けて撤退したが、激しい抵抗に驚いたソ連第1梯団主力も数百m前進しただけで防御態勢に移行した。古屯の兵舎周辺では、日本の歩兵第125連隊第1大隊とソ連軍第179狙撃連隊との激戦が続いたが、8月16日夕刻までに日本側は大隊長小林貞治少佐、岩貝大隊副官が戦死し、撤退に追い込まれた。8月16日にソ連軍主力も火砲213門等を投じた総攻撃を再開し、古屯までの軍道を開通させたが、主陣地である八方山は陥とせなかった。8月17日から18日頃、日本の歩兵第125連隊本部に師団からの停戦命令が届き、自衛戦闘に移行した。8月18日、連隊長の小林大佐は軍使を派遣して、降伏に応じた。歩兵第125連隊は、8月19日10時に武装解除して戦闘を終えた。

北地区の日本側指揮は、歩兵第125連隊降伏後、上敷香にいた第88師団参謀らが実質的に引き継いでいる。中央軍道方面での戦闘の間に、8月17日朝には上敷香の住民避難が終わり、その市街地は放火とソ連軍機20機の空襲で全焼している。敷香も8月20日に放棄され、総引き揚げとなった。内路鉄橋や知取川鉄橋爆破による防衛線構築が検討されたが、避難民が残っていることから断念された。#全般状況で既述のように、前進してきた日本側の師団長・師団参謀長らとソ連側の交渉の結果、22日に停戦合意が成立した。

また、中央軍道とは別に、8月12日に西海岸の西柵丹村安別にもソ連軍の侵攻があったが、歩兵第125連隊の安別派遣隊(1個中隊)などが住民の支援を受けて対抗した。安別派遣隊は、8月20日に連隊本部からの停戦命令を受けた後も投降せず、他隊の人員を吸収して約500人で南下した。名好町北部に至って部隊を解散し、私服に着替えて自由行動をとり、一部は北海道の第5方面軍司令部への報告に成功している。

北地区の戦闘で日本軍の受けた損害は、戦死568名であった。そのほとんどは古屯周辺の戦闘で生じた。他方、ソ連側の損害は不明であるが、日本軍の推定では戦死1千名と戦車破壊数十両となっている。

なお、日本海軍の敷香基地部隊は飛行場周辺で対空戦闘を行っていたが、8月14日夕刻、陸軍とは連絡を取らずに独断で大泊基地への撤退を決めた。北東空司令部の制止も無視して通信設備を破壊し、翌8月15日早朝に高角砲台などを爆破して大泊基地へと自動車で撤退した。当初は大泊を守備する構想だったが、移動中にポツダム宣言受諾を知って戦闘を放棄し、大泊基地部隊とともに海防艦「占守」へ優先的に搭乗して北海道へ引き揚げた。ただし、豊原海軍武官府は同行せずに残留し、民間人の保護にあたっている。

塔路上陸作戦

恵須取町の市街地(浜市街)。

ソ連軍は、第2期作戦の一環として、南樺太第2の都市である恵須取町に近い塔路上陸作戦を計画していた。そのため8月10日以降、恵須取港と塔路港はソ連北太平洋艦隊航空隊の攻撃目標とされていた。8月13日には魚雷艇とカッターボートによる偵察が行われ、ほとんど守備兵力はないと判断された。上陸決行は陸上侵攻と連携して実施する予定だったが、アンドレエフ北太平洋艦隊司令官は好機と考えて、8月16日の上陸を独断で決めた。

恵須取町・塔路町付近は、開戦時には歩兵第125連隊の1個中隊と若干の後方部隊がいるだけだった。安別へのソ連軍侵攻後、本斗安別線からの襲来の危険が生じたため、歩兵第25連隊の正規1個中隊(機関銃小隊配属)と訓練中の初年兵1個中隊(山砲1門配属)などが8月14日に増派されていた。そのほか、特設警備第301中隊と豊原地区第8特設警備隊、義勇戦闘隊(学徒600名と女子80名を含む)も召集されている。豊原地区司令部から出張中だった富澤健三大佐が臨時に指揮官に任じられた。日本軍は正規歩兵2個中隊を恵須取市街から内陸の上恵須取へ続く隘路に配備して防衛線を張り、特設警備第301中隊のうち1個小隊(義勇戦闘隊40人配属)を塔路飛行場の破壊と塔路港守備に充て、残りは住民避難の援護のため恵須取市街に置いた。住民の多くは上恵須取方面へ避難に移り、塔路ではソ連軍上陸時に約20%だけが残っていた。なお、日本軍は13日のソ連軍偵察隊を本格上陸と誤認し、特設警備中隊の射撃で撃退に成功したと考えていた。

8月15日、ソ連軍は警備艦1隻・機雷敷設艦1隻・輸送船2隻・小艦艇多数を、ソヴィエツカヤ・ガヴァニから4波に分けて出撃させた。8月16日早朝、第365海軍歩兵大隊と第113狙撃旅団第2大隊が、艦砲射撃と海軍機の援護下で塔路港に上陸を開始した。塔路の町は焼失し、守備の1個小隊は壊滅した。阿部庄松塔路町長(義勇戦闘隊長も兼務)らは、恵須取支庁から終戦と抵抗中止を通知されてソ連海軍歩兵との停戦交渉に向かったが、武装解除と住民の呼び戻しを要求されて人質に取られ、まもなく処刑された。上恵須取へ避難する民間人は、無差別な機銃掃射を受けて死傷者が続出した。

日本の特設警備第301中隊(中垣重男大尉)は、初年兵中隊や地区特設警備隊、国民義勇戦闘隊、警察隊などをかき集めて、塔路から続く道の恵須取の山市街入口に布陣し、避難民の援護にあたった。中垣隊は、塔路から南下侵攻してきたソ連海軍歩兵2個中隊を阻止したうえ、逆襲に転じて敗走させ、王子製紙工場付近まで追撃した。その後、中垣隊は恵須取支庁長以下400名の避難民の後衛を務め、翌17日午前3時頃には上恵須取へ到着した。ソ連軍は8月17日午前7時~8時30分に恵須取山市街を占領、午前10時30分頃に恵須取港から上陸した独立機関銃中隊とともに浜市街を占領した。ソ連側記録によると8月17日にも恵須取で市街戦があったことになっているが、実際には日本側の部隊は残っていなかった。

上恵須取の町は8月17日午後に空襲を受けて焼失し、疎開する中で特設警備隊や義勇戦闘隊は隊員が家族のもとに戻って解散状態となっていった。恵須取方面総指揮官として派遣された吉野貞吾少佐(富澤大佐から指揮権引き継ぎ)によってソ連軍との停戦交渉も行われたが、ソ連側が要求する住民の帰還を避難民らが拒み、武装解除にも応じず妥結に至らなかった。恵須取支庁長や吉野少佐は日本兵の士気が高く戦闘拡大のおそれがあると判断し、避難民や軍部隊をまとめ、内路恵須取線を東進してソ連軍から離れることにした。内路付近まで達した8月24日に、師団司令部から連絡将校が到着して投降命令が伝達され、部隊は武装解除を受け入れた。

真岡・大泊上陸作戦

ソ連軍侵攻以前の真岡町の市街

ソ連軍は、第3期作戦の補助作戦として真岡上陸作戦を計画していたが、国境方面の戦況などにかんがみ、8月15日に真岡上陸作戦の発動準備を下令した。その目的は、日本側の本土への引き揚げ阻止と、北海道侵攻のための拠点の早期確保にあった。上陸部隊の第113狙撃旅団主力(約2,600人)と海軍混成歩兵大隊(820人)は、18日に間宮海峡付近のポストヴァヤ湾とワニノ湾で輸送船5隻と掃海艇4隻、警備艇9隻に乗船し、翌19日朝に出航した。上陸部隊指揮官は第113狙撃旅団長のI・Z・ザハーロフ大佐、船団指揮官はA・I・レオーノフ海軍大佐だった。

日本側は、真岡港を本土への引き揚げ乗船地として使用中で、町は地元住民と避難民1万5000人以上であふれていた。守備隊としては歩兵第25連隊主力が置かれていたが、すでに軍旗の焼却や約1割を占める古年次兵の除隊、特設警備隊の防衛召集解除などを完了していた。歩兵第25連隊のうち第1大隊だけが海岸正面に陣地構築中だったが、8月16日に海岸の陣地や市街地から兵を引き上げ、1-2km内陸の荒貝沢の谷地にテントを張って野営して待機した。市街地付近に残されたのは、監視哨の機関銃・連隊砲各1個分隊と戦力のない陸軍船舶兵程度であった。

8月20日の日本側時間午前6時頃(ソ連側記録によると午前7時半頃)、警備艦と敷設艦各1隻に護衛されたソ連軍船団が、霧の真岡に上陸を開始した。ソ連軍は浅瀬に座礁した魚雷艇が日本軍の先制射撃を受けたため艦砲射撃で応戦したと記録しているのに対し、日本側は舟艇の座礁を目撃したが射撃は加えていないと記録している。ソ連軍は艦砲射撃に援護されて侵攻、ソ連側記録で12時頃までに港湾地区を、14時頃までに市街地を占領した。港内にあった貨物船「交通丸」と機帆船・漁船は、拿捕されるか撃沈された。日本側記録によると、日本軍は一切の発砲を禁じて内陸の高地の影に後退し、豊原方面へと民間人を誘導するとともに軍用物資を放出して配布した。ソ連側記録は、市街戦で建物や地下室に立て篭もった日本軍を掃討し、日本兵300名以上を死傷させ、600名以上を捕虜にしたとするが、日本側記録によると真岡市街には防御陣地はなく、日本軍も応戦していない。攻撃目標にされたのは民間人、特に軍服類似の国民服を着用していた者だった。ソ連軍に捕まった町長は銃殺刑(重傷で生存)、日本軍が派遣した軍使の第1大隊副官らも拘束のうえ処刑された。電信局の女性職員が集団自決した真岡郵便電信局事件も起きている。ソ連側は、自軍の損害として、陸軍兵60人と海軍歩兵17人が死傷したとしている。

豊真線の宝台ループ線。付近で8月21-22日にソ連の真岡上陸軍と日本軍の戦闘が行われた。

ソ連軍の行動を見た日本軍は、衛戍勤務令12条と13条(警察行動に類する規定)に基づいて限定的な武器使用許可を行い、8月20日15時30分頃に山中でソ連軍と小競り合いを生じた。8月21日になって豊原へ向けて進撃を始めたソ連軍は、日本の歩兵第25連隊第1大隊を攻撃し、日本側も自衛のため応戦した。次第に浸透された日本側は同日夜に逢坂へ撤退し、新たに第3大隊を熊笹峠と宝台ループ線へ布陣させた。ソ連側は逢坂集落など各地に空襲と艦砲射撃を行いながら進撃し、日本側は豊原防衛のために熊笹峠などで8月22日まで遅滞戦術をとった。日本側は衛生兵までが白兵戦を行った。豊原も8月22日には空襲を受け、避難民が終結していた駅前広場周辺が焼夷弾などを浴びた。豊原駅には白旗が掲げられ、広場の救護所には赤十字の対空標示があったが、何度も空襲が繰り返されて100名以上が死亡、400戸が焼失した。全ての民家の屋根には大きな白旗が取り付けられたがソビエト軍は猛爆撃を行った。

8月22日夕刻に、第88師団司令部からの降伏命令が歩兵第25連隊に届き、ソ連側と交渉の後に8月23日までに武装解除が終わった。この交渉の際にも軍使一行が銃撃を受けて死傷している。その後の豊原占領時にも、海軍武官府から派遣された軍使の主計大尉が、「交渉中に刀で斬りかかった」として射殺されている。真岡の戦いでの日本軍の損害は、停戦直後の調査では第88師団所属の137人戦死とされたが、その後の調査で総数300人を超えると推定されている。

8月23日早朝、ソ連軍は真岡から海軍歩兵混成旅団(3個大隊)を出航させ、翌日に本斗を経由して、8月25日に大泊へ上陸した。日本軍の抵抗はなく、大泊の海軍基地などが占領された。このほか真岡北方の小能登呂飛行場は、輸送機で強行着陸したソ連海軍空挺部隊によって、8月22日に占領されている。

結果

日本軍の損害は、戦死者700人ないし戦死・行方不明2,000人とされる。ソ連軍の記録によれば、日本兵18,302人が捕虜となった。戦闘中の民間人の被害は軍人を上回っており、3,700人に及ぶと見られている(詳細は#民間人で後述)。なお、厚生労働省の資料で「樺太・千島等」の戦没者総数24,400人となっているのはアッツ島の戦いなどアリューシャン方面の戦いを含めた数値で、樺太・千島及び周辺海域での大戦全期間の戦没者数は18,900人とされている。

生き残った日本軍将兵は、いち早く北海道へ引き揚げた海軍部隊主力と、現地復員して民間人に紛れることができた一部兵士を除いて、シベリア抑留による強制労働を課された。シベリアへ多くは移送されたが、一部は樺太島内に設けられた捕虜収容所での労役に従事した。

ソ連軍は、予定されていた北海道及び北方四島への上陸作戦のために南樺太の前進基地としての整備を進め、ウラジオストクから第87狙撃軍団を移送し始めた。8月25日までに、計15隻の客船を中心とした3回の護送船団で、3個師団が真岡へ送られている。しかし、以後の作戦のうちソ連軍による北海道占領は、8月18日にアメリカ大統領ハリー・S・トルーマンがスターリンに対して北海道占領を認めない旨の書簡を送ったのをふまえて、8月22日以降に中止命令が出された。北方四島の占領は、大泊から出航した第113狙撃旅団などによって8月28日から9月3日に行われた。北方四島やその他の千島列島で捕虜となった日本兵は、樺太を経由してシベリアへと送られた。

樺太の戦いでの日本軍の抵抗は、占守島の戦いと並んで、ソ連の北海道占領断念につながったと評価する見解もある。元防衛大学校教授の中山隆志によると、スターリンがトルーマンから反対されてから作戦中止命令まで4日間もかかったのは、日本の降伏文書調印(9月2日)までに北海道占領の既成事実化が可能かを検討していたためと見られる。その上で中山は、侵攻拠点となる南樺太確保の遅れや占守島での抵抗の激しさが、早期の既成事実化は困難との判断をソ連側にさせたものと分析した。

なお、戦闘後の南樺太はソ連(後にロシア連邦)によって実効支配されているが、日本政府は帰属未確定の地域であると主張している。(領土問題の詳細は樺太を参照)

民間人

緊急疎開

ソ連軍侵攻時の南樺太には、季節労働者を加えて約40万人、一説によると45-46万人の民間人が居住していた。ソ連の参戦後に北海道への避難が始まったが、多くの民間人が戦渦に巻き込まれて被害を受けた。

8月9日のソ連の対日参戦後、大津樺太庁長官と鈴木第88師団参謀長、黒木海軍武官の三者が前述の事前協定を確認し、北海道への民間人の避難作業が始まった。といっても具体的な事前計画が無かったので、樺太庁長官主催で樺太鉄道局と船舶運営会が加わった緊急輸送協議会が開かれたものの、輸送計画が決まって各市町村へ通達されたのは12日になってからだった。

日ソ開戦前の真岡港

立案された計画では、本土避難の対象者は65歳以上の男性と41歳以上の女性、14歳以下の男女とされ、16万人を15日間で移送することが目標だった。この選別基準には、戦力とならない足手まといを片付ける意図と、食糧不足や冬季に渡る野外行動が予想されるために体力の弱い者から優先避難させるという意図があった。大泊を主たる乗船地として稚泊連絡船「宗谷丸」や海軍特設砲艦「第二号新興丸」など艦船15隻を使用するほか、本斗から稚斗連絡船「樺太丸」と小型艇30隻、真岡からも貨客船「大宝丸」などを運航することに決まった。陸上では乗船地に向けた疎開列車編成とトラック輸送が行われた。

避難指示を受けた住民は、乗船地を目指して列を成した。多くの住民は、尼港事件の再現となるのではないかと恐怖していたという。

8月13日夕に大泊を出港した「宗谷丸」を皮切りに、8月16日に真岡、8月18日には本斗からも引揚船が出始めた。本斗には貨物船「能登呂丸」や海防艦が追加投入された。避難民側の準備が間に合わなかった大泊第1便を除くほか、定員の数倍ずつ乗船するなど、急ピッチで海上輸送が進められた。しかし、真岡は8月20日にソ連軍に占領されて使用不能となり、本斗も危険なため運用断念された。最終的に8月23日にソ連軍から島外への移動禁止が通達され、同日夜に緊急脱出した「宗谷丸」「春日丸」で終了となった。この間8月22日に「小笠原丸」「泰東丸」「第二号新興丸」の3隻が、北海道沿岸で国籍不明潜水艦の攻撃で撃沈破され、計1,708人が死亡する三船殉難事件が発生している。ソ連潜水艦による攻撃であると推定されている。同じ日に「能登呂丸」も樺太へ向かう途中、宗谷海峡でソ連機の空襲を受けて撃沈された。

結果、目標の約半数にあたる76,000人が島外への緊急疎開に成功したとみられている。その後の密航による自力脱出者約24,000人を合わせても、南樺太住民の1/4以下だけが避難できたことになる。市町村単位で見ると、42市町村のうちで疎開が完了したのは8町村のみであった。『戦史叢書』は、今日思うと避難の決行時期があまりにも遅かったと評している。急な避難指示で準備が間に合わず、第1便の「宗谷丸」は乗船定員を割り込み、軍や官庁の関係者が多くを占める事態も起き、満州の疎開列車での類似事例と並んで後日非難されることにもなった。

犠牲者

住民台帳などの行政記録が失われているため、正確な犠牲者数は不明である。厚生省資料では、空襲や艦砲射撃、地上戦など島内での戦闘に巻き込まれて死亡した民間人の数は、真岡の約1,000人を筆頭に、塔路で約170-180名、恵須取で約190名、豊原で約100名、敷香で約70名、落合で約60名など合計で約2,000人と推定されている。前述の引揚船での犠牲者を合わせると、約3,700人に達する。なお、前述のように、厚生労働省資料にいう「樺太・千島等」の戦没者数24,400人はアリューシャン方面を含めた数値である。

落伍したり避難が間に合わなかった民間人の中には、ソ連兵に捕えられることを恐れ、自殺するものもあった。8月20日に郵便局の女性職員12人が集団自決を図った(真岡郵便電信局事件)ほか、塔路上陸作戦時には大平炭鉱病院の看護婦23人の集団自決(6人死亡)が発生している。

停戦後

1945年8月23日にソ連は樺太島外への住民の移動を禁止し、脱出できなかった住民はソ連の行政下に入ることになった。一般住民を中心とした引揚事業は、1946年(昭和21年)12月に本格的に始まり、日本側では函館援護局が受け入れを担当した。1949年(昭和24年)6-7月の第5次引き揚げまで、千島方面とあわせて20隻の引揚船が投入され、樺太からは軍民合わせて279,356人が、千島からの13,404人とともに北海道へと渡った。2006年1月1日時点の厚生労働省データでは、千島方面と合わせた引き揚げ総数が軍人・軍属16,006人、民間人277,540人となっている。樺太に長期在住していた者が多かったことから、本土に縁故の無い引揚者が約1/3と高い割合を占めていた。そのため、住宅の入手や就職にはかなりの困難が伴い、長期にわたって引揚者援護寮に滞在せざるを得ない者も多くあった。身元引受先がないまま函館滞留中に死亡した引揚者も、航海中の死者とあわせて1,000人を超えた。引揚者とその遺族の相互扶助のために、1948年(昭和23年)に全国樺太連盟が結成されている。

ソ連軍の占領直後に約2万3千人いた朝鮮系住民は、ほとんどがソ連当局の意向によって樺太に残留させられ、1952年(昭和27年)6月にはこの在地系の朝鮮系住民が2万7千人と記録されている。戦後に北朝鮮から移民した者や、ソ連によって中央アジアから強制移住させられた「高麗人」と合わせて、在樺コリアンと呼ばれ、多くはそのまま定住を余儀なくされた。(詳細は在樺コリアンを参照)

朝鮮系以外の日本人住民でも、経済的事情から朝鮮系住民やロシア人と結婚するなどしたため、樺太残留を選択した者があった。1990年代中ごろには、終戦後に生まれた子孫も含めて約300人が樺太で生活していたが、高齢化による死去やソ連崩壊後の日本や韓国への移住などで2010年には約200人に減少している。日本政府は、これらの残留者を対象に集団一時帰国事業を行っており、1年半に1回程度の日本帰国が実現している。

参加兵力

日本軍

陸軍 第88師団(峯木十一郎中将) - 編制定員は20,388人 配属部隊:特設警備第351-第353大隊、特設警備第301-第306・第308中隊、第301-第303特設警備工兵隊

宗谷要塞重砲兵連隊第2中隊 - 西能登呂。15cmカノン砲4門。 配属部隊:特設警備第307中隊

豊原地区司令部(柳勇少将) - 対ソ開戦後は第88師団指揮下に編入。 豊原地区第1-第9特設警備隊 - 計3,628人を防衛招集。

海軍 北東航空隊樺太地区隊(久堀通義大尉) - 敷香基地、大泊基地。地上要員のみ。

大湊防備隊の一部 - 主に基地防空部隊。うち敷香に12.7cm連装高角砲3基、20mm連装機銃5基。

宗谷防備隊の一部 - 砕氷艦「大泊」、特設砲艦「千歳丸」、宗谷防備衛所、西能登呂防備衛所。

豊原海軍武官府 - 武官:黒木剛一少将。

樺太庁警察部(国境警察隊) - 重機関銃8丁、軽機関銃10丁、小銃141丁。

航空部隊 陸軍第1飛行師団 - 在北海道。稼働航空機44機。

民兵・自警組織 国民義勇戦闘隊 - 樺太鉄道連合義勇戦闘隊ほか、職場や地域ごとに編成。

その他 - 樺太庁管轄の防空監視隊(20歳前後の女性を主力)、旧制中学校生徒による学徒隊ほか。

ソ連軍

第16軍(レオンチー・チェレミソフ(Л. Г. Черемисов)少将) 第56狙撃軍団 - 北樺太より出撃。 第79狙撃師団

第2狙撃旅団

第5狙撃旅団 - オハ方面の守備配置。

独立サハリン機関銃連隊、第82独立機関銃狙撃中隊

第214戦車旅団

第178・第678独立戦車大隊

第433砲兵連隊、第487榴弾砲連隊

第113狙撃旅団 - ソヴィエツカヤ・ガヴァニより出撃。

海軍 北太平洋艦隊(ウラジーミル・アンドレエフ(В. А. Андреев)中将) 警備艦「ザルニーツァ」(en)、機雷敷設艦「オケアン」、潜水艦「L-12」「L-19」など12隻、掃海艇8隻、哨戒艇・魚雷艇多数、輸送船3隻以上

海軍歩兵 - 第365独立海兵大隊など3個大隊以上、艦隊空挺部隊

航空部隊 第255混成飛行師団 - 106機

海軍航空隊 - 80機


参考文献

木俣滋郎 「ソ連潜水艦L19」『撃沈戦記 PART IV』 朝日ソノラマ、1993年。

示村貞夫 『旭川第七師団』(覆刻版) 総北海、1984年。

ボリス・ニコラエヴィチ・スラヴィンスキー(著)、加藤幸広(訳) 『千島占領―一九四五年夏』 共同通信社、1993年。

中山隆志 『一九四五年夏 最後の日ソ戦』 中央公論新社〈中公文庫〉、2001年。

函館市史編さん室(編) 『函館市史 通説編第4巻』 函館市、2002年。

久堀通義 「白夜の北緯五十度線―樺太国境の海軍部隊による対ソ戦闘顛末記」『丸別冊 秘めたる戦記』 潮書房、1992年。

防衛庁防衛研修所戦史室 『北東方面陸軍作戦(2)千島・樺太・北海道の防衛』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1971年。

Cherevko, Kirill Evgen'evich (2003). Serp i Molot protiv Samurayskogo Mecha. Moscow: Veche. ISBN 5-94538-328-7.

I.S. Danylenko, 〝The Great Patriotic War of 1941-1945〝, Military University of the Ministry of Defence of the Russian Federation, 2012, M. Kuchkovo pole, v.5


樺太の戦いを主題としたその他の書籍・映像作品

書籍

藤村建雄 『知られざる本土決戦・南樺太終戦史―日本領南樺太十七日間の戦争』 潮書房光人社、2017年。

映像作品

『樺太1945年夏 氷雪の門 - この戦いで起きた真岡郵便電信局事件を題材にした1974年公開の日本映画。

『霧の火 樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち - 同じく真岡郵便電信局事件を描いたテレビドラマ(2008年放映)。

『樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇』 - 2017年8月14日に放映されたNHKスペシャル。


「シベリア抑留ウィキペデイア」より参照

シベリア抑留

シベリア抑留(シベリアよくりゅう)は、第二次世界大戦の終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜らが、ソビエト連邦(ソ連)によって主にシベリアなどへ労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する、日本側の呼称である。厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、多くの抑留者が死亡した。

このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反するものであった。ロシアのエリツィン大統領は1993年(平成5年)10月に訪日した際、「非人間的な行為」として謝罪の意を表した。ただし、ロシア側は、移送した日本軍将兵は戦闘継続中に合法的に拘束した「捕虜」であり、戦争終結後に不当に留め置いた「抑留者」には該当しないとしている。

背景編集

「ラーゲリ」および「グラグ」も参照

ソビエト連邦では1920年後半頃から政治犯などの囚人に過酷な強制労働が課せられたが、これは労働力不足を補う側面もあった。スターリン体制下の1930年代以降は強制収容所(ラーゲリ)の数が爆発的に増加し、強制労働の対象となる囚人も増加した。初期の労働環境は非常に劣悪であり、白海・バルト海運河建設などに動員された白海・バルト海強制労働収容所では1932年から1941年にかけての10年間で3万人近い死亡者を出し、死亡率が最も高い1934年には囚人の10.56 %が死亡した。

スターリンの捕虜観をあらわすエピソードとして、ポツダム会談でウィンストン・チャーチルが炭鉱労働者不足を嘆いた際に「ドイツの捕虜を使えばいい。わが国ではそうしている」と答え、4万人のドイツ人捕虜を本国に移送することをすすめた。ヤルタ会談ではかつてドイツが賠償支払いのための外貨を市場で調達したため、世界的な貿易不均衡を生み出した問題(トランスファー問題)を回避するため、賠償は外貨や正貨支払いではなく、役務や現物による支払いで行われることが合意された。この役務賠償の考え方は、捕虜の強制労働を正当化する理由ともなった。ソ連は1929年のジュネーヴ条約に加わっていなかったため、1931年以降独自規定として戦時捕虜の人道的な扱いを定めていたが、実際にはほとんど守られなかった。ポーランド侵攻以降獲得した各国人捕虜は389万9397人におよび、1949年1月1日の段階で56万9115人が死亡し、54万2576人が未帰還のまま抑留されている。これらの捕虜の多くは内務人民委員部等の各省庁に貸し出され、その監督下で使役された。特にドイツ人の死亡率は高く、スターリングラード攻防戦での捕虜6万人のうち、帰還できたのはわずか5千人であった。

経緯編集

ソ連軍侵攻と停戦編集

第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日未明、ソ連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告をし、満ソ国境に展開する174万人のソ連極東軍に命じて、満州帝国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻した(ソ連対日参戦)。8月10日には、モンゴル人民共和国も日本に対して宣戦布告した。日本は8月14日に中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は8月16日には日本領南樺太へ、8月18日に千島列島へも侵攻して占領した。樺太では直後に、千島の占守島では8月22日に、日本から停戦命令が下り、降伏した。

これらの行動は、ソ連・アメリカ・イギリスのヤルタ会談に基づくものであった。当時非公開であったヤルタ秘密協定では、ソ連に対して対日参戦の見返りとして日本からの南樺太の返還とクリル諸島の引き渡し、満州においては旅順租借権の回復および大連港や中東鉄道・南満州鉄道に対する優先的権利の認定が記されていた。

日本がポツダム宣言を受諾したのち、8月16日には大本営から即時停戦命令が出たため、関東軍総司令部は停戦と降伏を決定した。8月17日に派遣された皇族・竹田宮恒徳王が新京に到着し、8月18日には満州帝国が滅亡したため、関東軍総司令官山田乙三大将とソ連極東軍司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥は8月19日に東部満ソ国境ハンカ湖の近くで停戦交渉に入り、8月26日頃にはソ連軍とのすべての戦闘が終わった。満州では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たが、ソ連軍がその通りに行うことはなかった。日本軍崩壊後の民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出た。また捕虜の扱いについては一切言及されなかった。

抑留の決定編集

スターリンは8月16日には日本人を捕虜として用いないという命令を内務人民委員ラヴレンチー・ベリヤに下していたが、8月23日にはこれを翻し、「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍捕虜50万人のソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下した。

関東軍密約説編集

8月26日に関東軍総司令部は「軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の経営に協力させ、そのほかは逐次内地に帰還させてほしい。帰還までは極力貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい」という内容の「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」を作成した。この報告書は関東軍参謀・草地貞吾の述懐によると、草地が関東軍総司令官・山田乙三と関東軍総参謀長・秦彦三郎の決定を受けて作成しソ連側に送付したものだという。また同日には「大陸方面二於テハ在留邦人及武裝解除後ノ軍人ハ『ソ』聯 ノ庇護下二滿鮮二土著セシメテ生活ヲ營ム如ク『ソ』聯側二依賴スルヲ可トス」ことを記した「關東軍方面停戰狀況二關スル實狀報告」が作成されソ連側に送付された。ただしこれを作成したという大本営参謀・朝枝繁春本人は、この文書が偽造されたものであると主張している。

なおこのソ連軍との停戦交渉時に日本側とソ連側との間で密約が結ばれ、日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たのではないかというという疑惑が、全国抑留者補償協議会(全抑協)会長・斎藤六郎や近代史が専門のノンフィクション作家・保阪正康らによって主張されているが、ロシア側はそのような史料を公開していない。またこの交渉に同行した瀬島龍三は、停戦協定を結んだヴァシレフスキーと秦には密約を結ぶ権限はなかったと反論している。

北海道代償説編集

8月16日にスターリンは、ヤルタ協定で約束されていた千島列島・南樺太の占領のみならず、日本敗戦直後に米大統領ハリー・S・トルーマンに連絡し、北海道の分割占領(留萌町(当時)から釧路市を結ぶ線の北東側と両市町を占領)を申し入れた。理由は、「日本によるシベリア出兵によってソ連は占領されたため、ソ連も日本の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない」というものであった。しかし、トルーマンはこれを一蹴した返書を8月18日に送った。このため「北海道の代償として捕虜をシベリアに送った」という説があるが、8月23日に決定された「国家防衛委員会決定 No.9898」は非常に細かい内容であり、トルーマンからの回答後に作られたとは考えにくい。

移送編集

占領地域の日本軍はソ連軍によって8月下旬までに武装解除された。この際多数の死傷者が出たという。また、このとき、日本人捕虜は内地への帰還を望んだが、ソ連軍は復員を認めず、すでに離隊していた男性も強引に連行した。

日本人捕虜は、まず満州の産業施設の工作機械を撤去しソ連に搬出するための労働に使役され、のちにソ連領内に移送された。9月5日の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満州民間人・満蒙開拓移民団の男性が続々とハバロフスクに集められた。彼らは日本に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を1,000名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んだ。行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり、絶望したことが伝えられる。また、この時抑留された捕虜の証言によると、ソ連兵はダモイ(帰れるぞ)と叫び、捕虜を貨車に乗せたという。抑留された捕虜の総数は、作業大隊が570あったため、当初は総数57万5千名が連行されたと考えられたが、65万人というのが定説である。

一説には70万人近くが移送されたと言われ、最高数としては200万人以上との説がある。モスクワのロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されている。

移送先編集

◾コムソモリスク・ナ・アムーレ

◾ハバロフスク

◾シベリア

◾ブラーツクダム

◾ナヴォイ劇場

◾タシケント

◾ナホトカ

◾エラブガ

シベリア以外にも、モンゴルや中央アジア、北朝鮮、カフカス地方、バルト三国、ヨーロッパロシア、ウクライナ、ベラルーシなどソ連の勢力圏全域や中華人民共和国にも送り込まれたという証言があるが、ソ連側の史料が全面提供されないなか、厚生省(現厚生労働省)によってまとめられた地図によれば、ソ連国内70か所をこえる収容所において抑留日本兵が強制労働に従事させられた。 日本政府による遺骨収集がソ連国内数か所において許可されているので、その進展にしたがいより正確な収容所拠点、抑留者数、死亡者数が解明されることと期待される。

ソ連側の史料が全面提供されないなか、厚生省(現厚生労働省)によってまとめられた地図によれば、ソ連国内70か所をこえる収容所において抑留日本兵が強制労働に従事させられた。厚生省作成地図には各地点の抑留日本兵の動員数、死亡者数が含まれるが、地名はカタカナのみで記されてあったため、米国、英国ならびにソ連において発行されたソ連地図を参照し、地名を特定した。 (厚生省援護局。「昭和21年頃におけるソ連・外蒙領内日本人収容所分布概見図」『引揚げと援護三十年の歩み』厚生省。1976年。p56。厚生省社会・援護局50年史編纂委員会。「ソ連邦・モンゴル(外蒙古)内各地点死亡者発生状況概見図」『援護50年史』。ぎょうせい。1997年。pp524-525。 A)Union of Soviet Socialist Republic. Compiled and drawn in the Cartographic Section of the National Geographic Society for the National Geographic Magazine. Grovesnor, Gilbert. Ed. Washington. U.S.A. 1944. B)U.S.S.R.and Adjacent Areas 1:8,000,000. Published by Department of Survey, Ministry of Defense, United Kingdom. British Crown Copyright Reserved Series 5104. U.K. 1964. C)USSR Railways. J.R. Yonge. The Quail Map Company. Exeter. U. K. 1973. D)USSR Railways. J.R. Yonge. The Quail Map Company. Exeter. U.K. 1976. E)Soviet Union. Produced by the Cartographic Division. National Geographic Society. National Geographic Magazine. Grovesnor, Melville B. Ed. Washington. U.S.A. 1976. F)Union of Soviet Socialist Republic. Moscow News Supplement. Main Administration of Geodesy and Cartography under the Council of Minister of the USSR. U.S.S.R. 1979.)

収容所での生活編集

シベリア抑留では、その過酷で劣悪な環境と強制労働が原因で、厚生労働省把握分では抑留者全体の1割にあたる約6万人の死亡者を出した(犠牲者数に関しては後述)。

一方、共産主義の教育が定期的に施され、もともと共産主義的だったり、隠れ共産党員だった捕虜が大手を振い、また「教育」によって感化された捕虜も多数いる。新聞として「日本しんぶん」が発行された。 「革命」や「階級闘争」の思想を育てるため、兵卒や下士官に元上官を殴らせる事もしばしばあったため、兵卒や下士官が(もともと農村出身者が多いことも影響しているが)熱心な共産主義者になることが多かった(シベリア天皇、浅原正基、袴田陸奥男)。また日本共産党委員長志位和夫の伯父志位正二などソ連のスパイとなり、戦後日本で諜報活動を行った者もいる。

共産主義者の捕虜は「民主運動」を行い、革命思想を持たない捕虜を「反動」「前職者」と呼び、「反ソ分子」の執拗な吊し上げや露骨な暴行を行った。抑留中に起きた事件として「暁に祈る」事件がある。

共産主義の労働ノルマに対する報酬、資本主義との違いゆえ、捕虜達の中にはストライキを起こした例もある。

ハバロフスク裁判編集

詳細は「ハバロフスク裁判」を参照

1949年12月に戦犯裁判としてハバロフスク裁判が行われ、関東軍司令官の山田乙三や731部隊が裁かれた。ボンダレンコはこのハバロフスク裁判について国際法違反だと述べている。

日本側の対応編集

「引き揚げ」を参照

1945年(昭和20年)11月になって日本政府は関東軍の軍人がシベリアに連行され強制労働をさせられているという情報を得る。1946年(昭和21年)5月、日本政府はアメリカを通じてソ連との交渉を開始し、同年12月19日、ようやく「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立した。

1952年(昭和27年)に緑風会の高良とみが収容所を訪問した。このとき健康な者は営外作業に出され、重症患者は別の病院に移されるなどの収容所側による工作が行われ、高良の「他の収容者はどうしたのか」との問いに対し、所長は「日曜日なのでみな魚釣りか町へ映画を見に行った」と平然と応えている。

1955年(昭和30年)に当時ソ連と親しい関係にあった社会党左派の国会議員らによる収容所の視察が行われた。視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものであったが、調理場の鍋にあったカーシャを味見した戸叶里子衆議院議員は思わず「こんな臭い粥を、毎日食べておられるのですか」と漏らしたという。過酷な状況で強制労働をさせられていた収容者らは決死の覚悟で収容所の現状を伝えたが、その訴えも虚しく視察団は託された手紙を握りつぶし、記者会見や国会での報告で「とても良い環境で労働しており、食料も行き渡っている」などと虚偽の説明を行った。元収容者らが帰国後に新聞へ投書したことから虚偽が発覚し、視察団団長の野溝勝らは海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会で追求を受けている。

帰国編集

1947年(昭和22年)から日ソが国交回復する1956年にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われた。

1950年(昭和25年)には、一部の引揚者の帰国が遅れたのは日本共産党書記長徳田球一の要請として、国会で問われた徳田要請問題が起こった。

中華人民共和国への移管編集

「撫順戦犯管理所」を参照

最長11年抑留された者も居れば、日本に帰国すれば共産主義を広める活動をすると収容所でソ連側に誓い念書し、早期に帰国した念書組と呼ばれる者、満洲国皇帝であった愛新覚羅溥儀やその弟愛新覚羅溥傑、満洲国国務総理であった張景恵など満州国の要人らと共に1950年代に中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所などに収容される者もおり、洗脳による「改造」教育が行われた。

ソ連への残留編集

「日系ロシア人」を参照

また、ソ連当局の勧誘を受け民主運動に関係した、日本に身寄りがなく帰国しても行くあてがなかった、現地の人間と恋仲になった、などで帰国せずにソ連に残留して帰化した例(川越史郎など)もある。ソ連にとどまった総数は約1,000人とみられ、2017年(平成29年)時点でもロシア北西部レニングラード州に、満州国軍元軍曹で北海道出身の田中明男が存命であることが明らかになった。田中の回想によると、1950年代に入って抑留者の日本帰国が本格化すると、収容所幹部が「末端の兵士以外は、帰国すれば裏切り者として迫害(抑圧)される」と残留を勧めるようになり、信じて残留を決めた者もいたという。

犠牲者数編集

ソ連側(現ロシア政府)はこれまでに約4万1千人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡している。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモによれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。

日本の厚生労働省は2017年(平成29年)現在でも、ロシア連邦などから提供された資料を基に、旧ソ連や満州で死亡して新たに判明した日本人の氏名などの名簿更新を続けている。

賃金未払い問題編集

国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金と、捕虜の給養費は捕虜所属国の負担となっており、この慣習はハーグ陸戦条約などで確認されているが、日本政府はハーグ会議でもこの規定採用に反対していた。

国家賠償訴訟

ウィキニュースに関連記事があります。

シベリア抑留の国家賠償訴訟で原告側の請求棄却 - 京都地裁

シベリア抑留を巡っては、日本全国で4件の国家賠償訴訟が行われている。このうち、京都地裁では2009年(平成21年)10月28日に、「国による遺棄行為は認められない」などとして、原告の請求を棄却する判決が出された。

シベリア特措法

旧ソ連、シベリアやモンゴルで強制労働させられた元抑留者に対し、1人25万から最高150万円を一時金として支給する、「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法(シベリア特措法)」が、2010年(平成22年)5月21日に本会議で可決。法案は抑留された期間に応じて、元抑留者を5段階に分類。独立行政法人「平和祈念事業特別基金」の約200億円を財源に支給される。

遺骨収集事業編集

冷戦終結後に、ロシア側から収容所や墓地の所在地リストが日本政府に手渡されたことに基づき、厚生省(現・厚生労働省)や民間の遺族団体などによって、遺骨収集事業が進められ、遺骨のDNA型鑑定などによって2010年(平成22年)までに約828名の身元が特定され、遺族に引き渡された。

現地慰霊碑編集

「 日本人墓地」および「タシケント抑留日本人墓地」を参照

厚生労働省の事業により、抑留された各地に小規模な慰霊碑の建立が進められている。

ロシア編集

◾エラブガ(2000年)

◾クラスノヤルスク (2000年)

◾チェルノゴルスク(2001年)

◾ニジニ・タギル(2001年)

◾ケメロボ(2006年)

◾ノボシビルスク(2007年)

◾ビイスク(2007年)

◾オレンブルグ(2008年)

◾アルチョーム(2010年)

ウズベキスタン共和国編集

◾タシケント(2003年)

グルジア共和国編集

◾トビリシ(2010年)

被害者・関連団体編集

抑留被害者については「Category:シベリア抑留経験者」を参照

◾全国抑留者補償協議会(全抑協 1979年結成、シベリア特措法成立と会員の高齢化により2011年5月解散)

◾近畿地区シベリア抑留者未払い賃金要求の会

◾財団法人全国強制抑留者協会

抑留者による記録編集

当事者による手記(小説は除く)◾伊藤政夫『マホルカ - シベリア抑留記』(2002年、文芸社) ISBN 9784835539515

◾井戸邊正則『シベリヤヤポンスキーサルダート』(2007年、文芸社) ISBN 9784286032665

◾乾常美『捕虜の文化』(所収『捕虜体験記(3)ウラル以西篇』ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会編、平文社、1984年(初版)、1998年(重版))

◾井上三次郎『地獄のシベリア抑留記』(2010年、文芸社) ISBN 4286085600

◾今川順夫『私のシベリア抑留 地獄の記録 - 負けてたまるかの奮闘記』(2011年、岐阜新聞社) ISBN 9784877971663※品切れ

◾内村剛介『生き急ぐ:スターリン獄の日本人』(1967年、講談社 / 講談社文芸文庫) ISBN 4061982605※品切れ

◾宇野宗佑『ダモイ・トウキョウ』(1982年、シベリア抑留叢書)※品切れ

◾蝦名熊夫著・蝦名賢造編纂『シベリア捕虜収容所 四年間の断想 死の家の記録』(1989年、西田書店)※品切れ

◾大塚茂『ダモイの道は遠かった』(1995年、国書刊行会) ISBN 9784336037282)※品切れ

◾小川護『私のシベリヤ物語 - 捕虜生活三年間の青春』(2011年、光人社NF文庫) ISBN 4769827121

◾川越史郎『ロシア国籍日本人の記録 - シベリア抑留からソ連邦崩壊後まで』(1994年、中公新書) ISBN 4121011732※品切れ

◾川島一芳『シベリア抑留の軌跡 - 私にとっての戦争』(2000年、文芸社) ISBN 9784835501543

◾川堀耕平『カラガンダ第八分所 - 中央アジア抑留記』(2008年、溪水社) ISBN 9784863270190※品切れ

◾草地貞吾『地獄遍路』(1958年、日刊労働通信社シベリヤ叢書)※品切れ

◾後藤治夫『シベリア抑留記 - 奥三河の山里から』(2005年、春風社) ISBN 9784861100543

◾後藤敏雄『シベリア、ウクライナ私の捕虜記』(1985年、国書刊行会) ISBN 9784336022516

◾斎藤邦雄『シベリヤ抑留兵よもやま物語 - 極寒凍土を生きぬいた日本兵』(1987年、光人社NF文庫) ISBN 9784769825067

◾坂間文子『雪原にひとり囚われて - シベリア抑留10年の記録』(1975年、講談社)※品切れ

◾佐藤千一『シベリアさすらいの記 一抑留兵の体験記』(1993年、日本図書刊行会) ISBN 978-4773317688※品切れ

◾佐藤友治『朝が来て知る捕虜の命 - シベリア抑留生活千余日』(2002年、文芸社) ISBN 9784835543055

◾佐野巌『シベリア抑留1000日 - ある日系二世の体験記』(1999年、彩流社) ISBN 9784882025955

◾信田守夫『シベリア捕虜紀行』(2006年、文芸社) ISBN 9784286011295※品切れ

◾新宮富士郎『大陸の孤島 - シベリア抑留記』(2008年、文芸社) ISBN 9784286041711※品切れ

◾杉本四郎『シベリア抑留の思い出記』(2011年、文芸社) ISBN 9784286100517※品切れ

◾鈴木祥蔵『シベリア捕虜収容所「ラーゲル」の中の青春 - 一学徒兵五十五年目の回想』(1999年、明石書店)

◾鈴木良男『遥か青春シベリア』(1995年、共和印刷企画センター)※品切れ

◾宗前鉄男『北斗の下で - 私のシベリア物語』(2010年、東京図書出版会) ISBN 9784862233981

◾高木啓太郎『シベリア抑留記 お陽さんぽつんと赤かった』(1983年、サン文庫)※品切れ

◾高杉一郎『極光のかげに - シベリア俘虜記』(1950年、岩波文庫) ISBN 4003318315

◾竹田正直『酷寒シベリヤ抑留記 - 黒パン三五〇グラムの青春』(2001年、光人社NF文庫) ISBN 9784769823063

◾棚橋嘉信『東京ダモイ - 日本に帰る』(1997年、日本図書刊行会) ISBN 9784890391844

◾中村信一『ウラジオストック物語 - シベリア抑留体験記』(2004年、新風舎) ISBN 9784797442854※品切れ

◾西尾康人『凍土の詩 - シベリア抑留八年、爪で書いた記録』(1995年、早稲田出版) ISBN 9784898271636※品切れ

◾西本諦了『命めぐまれ、今を生きる - シベリア・ウクライナ抑留記』(2002年、文芸社) ISBN 9784835533100※品切れ

◾新田直人『シベリアの歌 - 続シベリア抑留体験記』(1987年、シベリア抑留者友の会) ISBN 9784897500225※品切れ

◾萩原金八『俘虜記 - シベリアの詩』(2004年、文芸社) ISBN 9784835570037

◾古川和夫『試練の八年間 - シベリア抑留』(2008年、文芸社) ISBN 9784286039954

◾穂苅甲子男『シベリア俘虜記 - 兵士の過酷なる抑留体験』(2009年、光人社NF文庫) ISBN 9784769826200

◾松井功『青春を埋めた初年兵の抑留記』(1995年、近代文芸社) ISBN 9784773347623

◾三浦庸『シベリヤ抑留記 - 一農民兵士の収容所記録』(1984年、ちくま文庫) ISBN 978-4480024824※品切れ

◾皆川太郎『ダモイ - シベリアからの帰還』(2006年、光陽出版社) ISBN 9784876624201

◾村山常雄『シベリアに逝きし人々を刻す ソ連抑留中死亡者名簿』(2007年、プロスパー企画) ISBN 9784861800214※品切れ

◾村山常雄『シベリアに逝きし46300名を刻む ソ連抑留死亡者名簿をつくる』(2009年、七つ森書館) ISBN 9784822809966

◾森野勝五郎著・森野忠編纂『遺稿 我が抑留記』(2002年、文芸社) ISBN 9784835535661

◾森本良夫『シベリア俘虜記 - 死と絶望からの帰還』(2001年、春秋社) ISBN 9784393436202※品切れ

◾山川速水『ラーゲルの軍医 - シベリア捕虜記』(1984年、北風書房) ISBN 4795232245

◾山下静夫『画文集 シベリア抑留1450日・記憶のフィルムを再現する』(2007年、デジプロ) ISBN 9784490206135

◾山本喜代四『シベリヤ抑留記 - 21世紀を拓く青少年たちへの伝言』(1999年、元就出版社) ISBN 9784906631445

◾勇崎作衛『画文集 キャンバスに蘇るシベリアの命』(2010年、創美社) ISBN 9784420310444

◾渡邉雅彬『ダモイの虹』(2004年、新風舎 / 2009年、文芸社) ISBN 9784286072555

◾與田純次 他多数『シベリア慰霊訪問記』(1994年、1997年、1998年、全国強制抑留者協会)

ユネスコ記憶遺産編集

白樺日誌(シベリア抑留者が白樺の皮に書いた日誌・舞鶴引揚記念館)

「ユネスコ記憶遺産」に、舞鶴引揚記念館に収蔵するシベリア抑留と引揚関係資料『舞鶴への生還 1945-1956 シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録』が、2015年(平成27年)10月10日に登録された 。舞鶴引揚記念館資料寄贈者の木内信夫、安田清一は日本初の生存作家となった。

シベリア抑留に関連する作品編集

小説◾ソルジェニーツィン『収容所群島』

◾相沢英之『タタァルの森から』(1992年、米子今井書店) ISBN 9784896780130※品切れ

◾井上ひさし『一週間』(2010年、新潮社) ISBN 9784103023302

◾鏑木蓮『東京ダモイ』(2006年、講談社 / 講談社文庫)第52回江戸川乱歩賞 ISBN 9784062764407

◾胡桃沢耕史『黒パン俘虜記』(1983年、文藝春秋 / 文春文庫)第89回直木賞 ISBN 9784167402013※品切れ

◾村尾靖子『クラウディア 奇蹟の愛』(2003年、海拓舎) ISBN 9784907727314※テレビドラマ『遙かなる約束』の原案。ノンフィクション

◾村尾靖子『クラウディアの祈り』(2009年、ポプラ社) ISBN 9784591108536

◾村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』(1994年 - 1995年、新潮社 / 新潮文庫)

◾山崎豊子『不毛地帯』(1976年 - 1978年、新潮社 / 新潮文庫) ISBN 9784101104409

絵本◾井上こみち『氷の海を追ってきたクロ』(2010年、学習研究社) ISBN 4052032810

◾神津良子・北野美子『氷海のクロ - シベリア抑留(語り継ぐ戦争絵本シリーズ)』(2011年、郷土出版社) ISBN 4863751117

◾村尾靖子・小林豊『クラウディアのいのり』(2008年、ポプラ社) ISBN 9784591104071

戯曲◾浅利慶太『ミュージカル異国の丘』(劇団四季)

◾まきりか『音楽劇君よ生きて』

漫画◾おざわゆき『凍りの掌』(2012年、小池書院) ISBN 9784862258311 - 著者が実父のシベリア抑留体験を基に執筆

◾滝沢聖峰『幻の豹 The panther in Ukraina 1950』(1995年、大日本絵画) ISBN 9784499226479

◾本宮ひろ志『国が燃える』(2003年 - 2006年、集英社・ヤングジャンプコミックス) - 主人公の本多勇介が抑留された。※品切れ

歌曲◾『異国の丘』(1948年、作詞:増田幸治、補詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正、歌:竹山逸郎、中村耕造など)

◾『岸壁の母』(1954年・1972年、作詞:藤田まさと、作曲:平川浪竜、歌:菊池章子、二葉百合子など)

映画◾『異国の丘』(1949年、制作:新東宝、脚本:渡辺邦男・北沢誠、監督:渡辺邦男)出演:花井蘭子・上原謙・大日方伝

◾『帰国(ダモイ)』(1949年、制作:東宝・佐藤一郎、脚本:岸松雄、監督:佐藤武)出演:堀雄二・池部良・藤田進・山口淑子

◾『私はシベリヤの捕虜だった』(1952年、制作:東宝、脚本:沢村勉、監督:阿部豊・志村敏夫)出演:北沢彪・土屋嘉男

◾『岸壁の母』(1976年、制作:東宝、脚本:村尾昭、監督:大森健次郎、原作:端野いせ)出演:中村玉緒・江藤潤

テレビドラマ◾『岸壁の母 (テレビドラマ)』(1977年、TBS / 松竹)出演:市原悦子・大和田獏

◾『遥かなる約束 〜50年の時を越えた運命の愛〜』(2006年、フジテレビ)主演:阿部寛・黒木瞳

その他◾太田三郎 (芸術家)


参考文献編集

◾村井淳「ソ連における強制労働と建設 : 囚人と捕虜は、どのように労働利用されたか」、『研究論集』第91巻、関西外国語大学、2010年、 117-135頁、 NAID 110007531511。

◾戸松建二「第二次大戦後における日本兵シベリア抑留問題 : 収容所における「民主化政策」をめぐって」、『愛知県立大学大学院国際文化研究科論集』第10巻、愛知県立大学、2009年、 171-206頁、 NAID 110007326001。

◾白井久也「国際法から見た日本人捕虜のシベリア抑留」、『ロシア・東欧学会年報』第23巻、東海大学平和戦略国際研究所、1994年、 33-42頁。

◾阿部軍治『シベリア強制抑留の実態 - 日ソ両国資料からの検証』(2005年、彩流社) ISBN 9784779111068

◾阿部軍治『慟哭のシベリア抑留 - 抑留者たちの無念を想う』(2010年、彩流社) ISBN 9784779115738

◾石崎誠一『シベリア抑留者 - 大統領の謝罪と抑留問題の決着』(1997年、全貌社) ISBN 4793801463※品切れ

◾独活章『クロ物語 - 氷海に飛び込んだ犬』(2005年、けやき出版) ISBN 4877512942

◾御田重宝『シベリア抑留』(1991年、講談社文庫) ISBN 9784061849402※品切れ

◾エレーナ・カタソノワ『関東軍兵士はなぜシベリアに抑留されたのか』(2004年、社会評論社) ISBN 9784784513109

◾亀井励『シベリア抑留者と遺族はいま』(1992年、かもがわ出版) ISBN 9784876990672※品切れ

◾ヴィクトル・カルポフ『スターリンの捕虜たち - シベリア抑留』(2001年、北海道新聞社) ISBN 9784894531352※品切れ

◾栗原俊雄『シベリア抑留 - 未完の悲劇』(2009年、岩波新書) ISBN 9784004312079

◾栗原俊雄『シベリア抑留は「過去」なのか』(2011年、岩波ブックレット) ISBN 4002708047

◾坂本龍彦『シベリア虜囚半世紀 - 民間人 蜂谷弥三郎の記録』(1998年、恒文社) ISBN 9784770409768※品切れ

◾白井久也『ドキュメント シベリア抑留 - 斎藤六郎の軌跡』(1995年、岩波書店) ISBN 4000029541※品切れ

◾白井久也・佐藤清『写真集 シベリア抑留 - 歴史の流れの中で』(1997年、ヒューマン社) ISBN 9784894611016※品切れ

◾白井久也『検証 シベリア抑留』(2010年、平凡社新書) ISBN 9784582855159

◾嶌信彦『日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』(2015年、角川書店) ISBN 9784041035375

◾立花隆『シベリア鎮魂歌 - 香月泰男の世界』(2004年、文藝春秋) ISBN 4163657509

◾長澤淑夫『シベリア抑留と戦後日本 - 帰還者たちの闘い』(2011年、有志舎) ISBN 4903426491

◾中村紀雄『シベリア強制抑留 - 望郷の叫び』(2005年、上毛新聞社出版局) ISBN 9784880589312※品切れ

◾ウィリアム・F・ニンモ『検証 - シベリア抑留』(1991年、時事通信社) ISBN 9784788791060※品切れ

◾畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのか - 詩人・石原吉郎のみちのり』(2009年、岩波ジュニア新書) ISBN 9784005006182

◾辺見じゅん『収容所から来た遺書』(1989年、文春文庫)講談社ノンフィクション賞・大宅壮一ノンフィクション賞 ISBN 9784167342036

◾辺見じゅん『ダモイ 遥かに』(2008年、メディアパル) ISBN 9784896100839

◾松本宏『告発 シベリア抑留 - 国民に隠された真相』(2004年、碧天舎) ISBN 4883465012※品切れ

◾若槻泰雄『シベリア捕虜収容所』(1999年、明石書店) ISBN 9784750311807

◾稲垣武 『「悪魔祓い」の戦後史』 (第1版) 文藝春秋〈文集文庫〉、1997年。ISBN 4041040035。

おわり


この作品の参考文献一覧をご紹介します。『東京裁判』(上)(下)児島襄(中公新書)、『東京裁判』(上)(下)朝日新聞東京裁判記者団(朝日文庫)、『私が見た東京裁判』(上)(下)冨士信夫(講談社学術文庫)、『秘録東京裁判』清瀬一郎(中公文庫)、『世界がさばく東京裁判』佐藤和男監修/終戦五十周年国民委員会編(ジュピター出版)、『日本の歴史30十五年戦争』伊藤隆(小学館)

『昭和史をさぐる』伊藤隆(朝日文庫)、『東京裁判 勝者の敗者への報復』新人物往来社戦史室(新人物往来社)、『別冊歴史読本 A級戦犯 戦勝国は日本をいかに裁いたか』(新人物往来社)、『東京裁判の全貌』平塚柾緒/太平洋戦争研究会編(河出文庫)、『看守が隠し撮っていた 巣鴨プリズン未公開フィルム』織田文二/茶園義男監修(小学館文庫)、『東条英機 大日本帝国に殉じた男』松田十刻(PHP文庫) 

『祖父東条英機「一切語るなかれ」』東条由布子(文春文庫)、『大東亜戦争の真実 東条英機宣誓供述書』東条由布子編(WAC)、『週刊日本の100人東条英機』(ディアゴスティー二・ジャパン)、『昭和の発見』花山信勝(朝日新聞社)、『秋霜の人 広田弘毅』渡邊行男(葦出版)、『黙してゆかむ 広田弘毅の生涯』北川晃二(講談社文庫)、『落日燃ゆ』城山三郎(新潮文庫)、『昭和天皇独白録』寺崎英成/マリコ・テラサキ・ミラー(文春文庫)

『秘録 板垣征四郎』板垣征四郎刊行会(芙蓉書房)、『秘録 石原莞爾』横山臣平(芙蓉書房)、『コンビの研究 昭和史のなかの指揮者と参謀』半藤一利(文藝春秋)、『秘録 土肥原賢二 日中友好の捨石』土肥原賢二刊行会編(文藝春秋)、『軍務局長 武藤章回顧録』武藤章/上法快男(芙蓉書房)、『南京事件の総括』田中正明(展転社)、『「南京大虐殺」はこうして作られた』冨士信夫(展転社)、『日本陸軍 指揮官総覧』新人物往来社戦史室(新人物往来社)

『松岡洋右 その人間と外交』三輪公忠(中公新書)、『その時歴史が動いた13』NHK取材班(KTC中央出版)、『東郷茂徳 伝記と解説』萩原延濤(原書房)、『時代の一面』東郷茂徳(原書房)、『危機の外相 東郷茂徳』阿部牧郎(新潮社)、『海よ永遠に 元帥海軍大将永野修身の記録』永野美紗子(南の風社)、『最後の参謀総長 梅津美治郎』上法快男(芙蓉書房)、『葛山鴻爪』小磯国昭(小磯国昭自叙伝刊行会)、『怒り宰相 小磯国昭』中村晃(叢文社)

『平沼騏一郎回顧録』平沼騏一郎(平沼騏一郎回顧録編纂委員会)、『大川周明 ある復古革新主義者の思想』大塚健洋(中公新書)、『決断した男 木戸幸一の昭和』多田井喜生(文藝春秋)、『木戸幸一関係文書』木戸日記研究会編(東京大学出版会)、『南次郎』御手洗辰雄編(南次郎伝記刊行会)、『忠鑑畑元帥』梅谷芳光(国風会本部)、『畑俊六 巣鴨日記』小見山登(日本文化連合会)、『橋本欣五郎一代』田々宮英太郎(芙蓉書房)、『荒木貞夫風雲三十年』有竹修二(芙蓉書房)

『駐独大使 大島浩』鈴木健二(芙蓉書房)、『佐藤健了の証言 対米戦争の原点』佐藤健了(芙蓉書房)、『鈴木禎一氏談話速記録』(上)(下)木戸日記研究所(日本近代史料研究会)、『完本・太平洋戦争』(上)文藝春秋編(文藝春秋社)、『嶋田繁太郎海軍大将裁判中参考資料』、『見果てぬ夢 満州国外史』星野直樹(ダイヤモンド社)、『評伝賀屋興宣』宮村三郎(おりじん書房)、『重光葵 上海事変から国連加盟まで』渡邊行男(中公新書)、『孤高の外相 重光葵』豊田穣(講談社)

『「勝者の裁き」に向き合って』牛村圭(ちくま新書)、『昭和の動乱』(上)(下)重光葵(中公文庫)、『共同研究パル判決書』(上)(下)東京裁判研究会(講談社学術文庫)、『パール判事の日本無罪論』田中正明(小学館文庫)、『國、亡ぼす勿れ 私の遺書』田中正明(展転社)、『平成22年版日本の防衛 防衛白書』(防衛省)、『海をひらく 知られざる掃海部隊』桜林美佐(並木書房)、『そのとき自衛隊は戦えるか』井上和彦(扶桑社)、『ホントに強いぞ自衛隊!』加藤健二郎・古是三春(徳間書店)

『別冊歴史読本 江田島海軍兵学校 写真で綴る江田島教育史』(新人物往来社)、『今こそ知りたい江田島海軍兵学校 世界に通用する日本人を育てたエリート教育の原点』平間洋一・市来俊男・雨倉孝之・影山好一郎・北澤法隆・齋藤義朗・中村梯次・左近允尚敏・長田博・手塚正水(新人物往来社)、『中国大虐殺史なぜ中国人は人殺しが好きなのか』石平(ビジネス社)、『TPPが日本を壊す』廣宮孝信・青木文鷹・監修(扶桑社新書)、『自由貿易は、民主主義を滅ぼす』エマニュエル・トッド(藤原書店)

『原発と日本の未来 原子力は温暖化対策の切り札か』吉岡斉(岩波ブックレット)、『原発のウソ』小出裕章(扶桑社新書)、『福島第一原発「放射能の恐怖」全記録』(FRIDAY6・29増刊号)、『偽善エネルギー』武田邦彦(PHP新書)、『日本は原子爆弾をつくれるか』山田克哉(PHP新書)、『国土学再考「公」と新・日本人論』大石久和(毎日新聞社)、なおここから数行はウィキペディア、『国防論』小林よしのり(小学館)と『いわゆるA級戦犯』小林よしのり(幻冬舎)から引用いたします。盗作ではなく引用です。あらかじめご容赦下さい。裁判とか勘弁してください。

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