第四話  樺太戦

         6 ポツダム宣言





 甲板で、榎本中将は激をとばした。

「日本の勝利は君たちがやる! 鬼畜米英なにするものぞ! 神風だ! 神風特攻隊で米英軍の艦隊を駆逐するのだ!」

 若い日本兵一同は沈黙する。

 ……神風! 神風! 神風! ……

 榎本陸軍千余名、沖縄でのことである。地上戦戦没者二十万人……


 七月七日、トルーマン米国大統領はドイツのポツダムに着いた。

 そこで、「ポツダム宣言」を受諾させ、日本などの占領統治を決めるためである。

 会議のメンバーは左のとおりである。


 アメリカ合衆国     ハリー・S・トルーマン大統領

 ソビエト連邦      ヨゼフ・スターリン首相

 イギリス        ウィンストン・チャーチル首相               

 中華民国(中国)    蒋介石国民党総裁(対日戦争のため欠席)



 なおトルーマンは会議議長を兼ねることになったという。

 一同はひとりずつ写真をとった。そして、一同並んで写真をとった。

 有名なあの写真である。しかし、トルーマンは弱気だった。

 彼は国務省にあのジェームズ・バーンズを指名したばかりだった。

 トルーマンは愛妻ベスに手紙を送る。

 ……親愛なるベスへ。私は死刑台の前まで歩いているような気分だ。

 ……失敗したりしないか。ヘマをやらかさないか、頭の中は不安でいっぱいだ。

 議題は、

  一、ソ連対日参戦

  二、天皇制維持

  三、原爆投下(米国しか知らない秘密事項)

 

 七月十六日、トルーマンの元に電報が届く。

 ……手術は成功しました。ただ術後経過はわかりません。

              ヘンリー・スティムソン


 つまり、手術とは原爆の実験のこと。それに成功した。ということはつまり米国最新の兵器開発に成功したことを意味する訳だ。

 トルーマンは「ヤルタの密約」を実行するという。

 つまり、八月十五日に日本攻撃に参戦するというのだ。

 それまでのソ連はドイツ戦で大勢の兵士を失ったとはいえ、軍事力には自信をもち、いずれは米国政府も交渉のテーブルにつくだろうと甘くみていた。よって、ソ連での事業はもっぱら殖産に力をいれていた。

 とくにヨーロッパ式農法は有名であるという。林檎、桜桃、葡萄などの果樹津栽培は成功し、鉱山などの開発も成功した。

 しかし、「ソヴィエト連邦」は兵力を失ったかわりに米国軍は核を手にいれたのである。力関係は逆転していた。



 一九四五年八月昼頃、日本陸軍総裁山本五十六はプロペラ機に乗って飛んでいた。

 東南アジアのある場所である。

「この戦争はもうおわりだ」

 五十六はいった。「われわれは賊軍ではない。しかし、米国を敵にしたのは間違いだ」 だが、部下の深沢右衛門は「総統、米軍が賊軍、われらは正義の戦しとるでしょう」というばかりだ。

 五十六は「今何時かわかるか?」と、にやりといった。

 深沢は懐中時計を取り出して「何時何分である」と得意になった。

 すると、五十六は最新式の懐中時計を取りだして、

「……この時計はスイス製品で最新型だ。妻にもらった」といった。

 そんな中、米軍は山本五十六の乗る大型のプロペラ機をレーダーと暗号解析でキャッチした。米軍はただちに出撃し、やがて五十六たちは撃墜され、玉砕してしまう。

 Bー29爆撃機が東京大空襲を開始したのはこの頃である。黒い編隊がみえると東京中パニックになったという。「急げ! 防空壕に入るんだ!」爆弾のあれ霰…一面火の海になる。その威力はすごく阪神淡路大地震、東日本大震災どころの被害ではない。そこら中が廃墟と化して孤児があふれた。火の海は遠くの山からも見えたほどだという。10万人が死んだ。

 しかしリアクションの東京大空襲だった。被害者意識ばかりもってもらっても困るのだ。……恐ろしい戦争の影が忍び寄ってきて……勝手になにもしないで忍び寄ってきた訳じゃない。侵略戦争の果ての結果だった。

しかし、これで幼い子供たちが親兄弟を失い、女の子は体を売り、男の子は闇市で働くことになる。がめつい農家は傲慢さを発揮し、高価な着物などと米や野菜を交換した。日本人はその日の食事にもことかく有様だった。



「……お元気でしたか?」

 スティムソンはトルーマンを気遣った。

 するとトルーマンは「私はとくになんともない。それより……」

 と何かいいかけた。

「…なんでしょうか?」

「あれが完成まで到達したそうじゃ。ジャップたちを倒すために『聖なる兵器』などと称しておるそうで……馬鹿らしいだけだ」

「馬鹿らしい?」H・スティムソンは驚いた。

「日本軍は満州を貸してほしい国連に嘆願しておるという」

「日本軍はドイツのように虐殺を繰り返しているそうです。罰が必要でしょう」

 トルーマンは、

「そうだな。どうせ原爆の洗礼を受けるのは黄色いジャップだ」と皮肉をいった。

 スティムソンは「確かに……しかし日本の技術力もあなどれません。戦争がおわって経済だけが問われれば、日本は欧米に迫ることは確実です」

「あの黄色が?」

 トルーマンは唖然ときいた。

 日本軍の満州処理を国連は拒否し、日本軍は正式に〝賊軍〝となった。

 同年、米国海軍は、甲鉄艦を先頭に八隻の艦隊で硫黄島に接近していた。

 同年、米国軍は軍儀をこらし、日本の主要都市に原爆を落とす計画を練った。アイデアはバーンズが出したともトルーマンがだしたともいわれ、よくわからない。

 ターゲットは、新潟、東京、名古屋、大阪、広島、長崎……

 京都や奈良は外された。


「さぁ、君達はもう自由だ。日本にいる家族までもどしてあげよう」

 連合国総指揮者・マッカーサーたちは捕らえた日本軍人たちを逃がしてやった。

 もう八月だが、マッカーサーは原爆投下のことを知らされてない。

 捕虜の中に田島圭蔵の姿もその中にあった。

 ……なんといいひとじゃ。どげんこつしてもこのお方は無事でいてほしいものでごわす。 田島は涙を流した。

 米軍たちにとって日本軍人らは憎むべき敵のはずである。しかし、寛大に逃がしてくれるという。なんとも太っ腹なマッカーサーであった。

「硫黄島戦争」の命運をわけたのが、甲鉄艦であった。最強の軍艦で、艦隊が鉄でおおわれており、砲弾を弾きかえしてしまう。

 米軍最強の艦船であった。

 それらが日本本土にせまっていた。

 日本軍部たちは焦りを隠せない。

 ……いまさらながら惜しい。原爆があれば……


 野戦病院ではジュノー博士は忙しく治療を続けていた。

 もうすぐ戦は終わる。看護婦は李春蘭という可愛い顔の少女である。

 中国人は龍雲という病人をつれてきた。

「ジュノー先生、頼みます!」

 中国人はジュノー医師に頭をさげた。

「俺は農民だ! ごほごほ…病院など…」

 龍雲はベッドで暴れた。

 李春蘭は「病人に将軍も農民もないわ! じっとしてて!」

 とかれをとめた。龍雲は喀血した。

 ジュノー病室を出てから、

「長くて二~三ケ月だ」と中国人にいった。

 中国人は絶句してから、「お願いします」と医者に頭をさげた。

「もちろんだ。病人を看護するのが医者の仕事だ」

「……そうですか…」

 中国人は涙を浮かべた。


 すぐに大本営の日本軍人たちは軍儀を開いた。

 軍部は「なんとしても勝つ! 竹やりででも戦う!」と息巻いた。

 すると、三鳥が「しかし、米軍のほうが軍事的に優位であります」と嘆いた。

 回天丸艦長の甲賀が「米軍の艦隊の中で注意がいるのが甲鉄艦です! 艦体が鉄でできているそうで大砲も貫通できません」

 海軍奉行荒井は「あと一隻あれば……」と嘆いた。

 軍人はきっと怖い顔をして、

「そんなことをいってもはじまらん!」と怒鳴った。

 昭和天皇は閃いたように「ならもうやることはひとつ」といった。

「……どうなさるのですか?」

 一同の目が天皇に集まった。

「あと一年以内に朕は降伏すべきであると思う。沖縄では戦争で民間人が犠牲になった」 天皇は決起した。「あと一年以内に降伏である」



 ツィツィンエルホーン宮殿で『ポツダム会議』が開かれていた。

 ソ連対米英……

 スターリンは強気だった。

 どこまでもソ連の利益にこだわる。

 トルーマンはスターリンに失望した。

「…神様は七日間で世界をつくったのに……われわれは何週間もここで議論している」

 会議は回る。

 余興で、ヴァイオリンとピアノの演奏があった。


 ………スターリンはすべて自分勝手になんでも決めようとする。私はソ連に、いやスターリンに幻滅した。………

            トルーマン回顧録より


 そんな中、米国アリゾナ州ロスアラモスで原爆実験成功という報が入ってきた。

 ……壮大で戦慄。まさに空前に結果。爆発から30秒後に辺りが火の海になった。全能の神の手に触れたかのように震えを感じた。………

               オッペンハウアー博士回顧録より


 トルーマンは自信を取り戻した。

 この最新兵器があれば、ジャップたちを終戦に導かせられる。

 原爆の人体実験までできるではないか……

 ……ソ連抜きで日本に勝てる!

 〝手術は八月十五日以降なら、八月十日なら確実でしょう〝

 トルーマンはスターリンに、

「われわれはとてつもない兵器を手にいれました」といった。

 その当時、情報をつかんでなかったスターリンはきょとんとする。

 しかし、チャーチルは情報を握っていた。

 チャーチルは「なにが卑怯なもんか! 兵器使用は国際法で認められた立派な戦法だ。卑怯といえばジャップじゃないか。天皇を担いで、正義の戦争などと抜かして…」

「それはそうですが……」

 チャーチルは無用な議論はしない主義である。

「原爆使用はいかがでしょう」

 チャーチルは提案した。「原爆を脅しとして使って、実際には使わずジャップの降伏を待つのです」

 トルーマンは躊躇して、

「確かに……犠牲は少ないほうがいい」

 といった。声がうわずった。

「どちらにしても戦には犠牲はつきものです」

「原爆を落とすのはジャップだよ。黄色いのだ」

「そういう人種偏見はいけませんな」

「しかし……原爆を使わなければ米兵の血が無用に流れる」

 チャーチルは沈黙した。

「とにかく……実際には使わずジャップの降伏を待つのです」

 やっと、チャーチルは声を出した。

「……首相………」

 トルーマンは感激している様子だった。


 さっそくゼロ戦に戦闘員たちが乗り込んでいった。

 みな、かなり若い。

 鈴木歳三も乗り込んだ。

 しかし、鈴木とてまだ三十五歳でしかない。

 海軍士官・大塚浪次郎も乗り込む。「神風だ! 鬼畜を倒せ!」

「おう! 浪次郎、しっかりいこうや!」

 大塚雀之丞は白い歯を見せた。

 英語方訳の山内六三郎も乗り込む。

「神風だ!」

 若さゆえか、決起だけは盛んだ。

 しかし、同じ英語方訳の林董三郎だけは乗せてもらえなかった。

「私も戦に参加させてください!」

 董三郎は、隊長の甲賀源吾に嘆願する。

 が、甲賀は「総裁がおぬしは乗せるなというていた」と断った。

「なぜですか?! これは義の戦でしょう? 私も義を果たしとうござりまする!」

 林董三郎はやりきれない思いだった。

 高松がそんなかれをとめた。

「総裁は君を大事に思っているのだ。英語方訳が日本からいなくなっては困るのだ」

「…しかし……」

「君も男ならききわけなさい!」

 董三郎を高松は説得した。

 こうして、神風特攻隊は出陣した。


「日本軍がせめて……きたのでしょう?!」

 病院のベッドで、龍雲は暴れだした。看護婦の李春蘭は、

「……龍雲さん、おとなしくしてて!」ととめた。

 龍雲は日本軍と戦う、といってきかない。そして、また喀血した。

「龍雲のことを頼みます、ジュノーさん」

 病院に蒋介石総裁がきた。

「あなたがジュノー博士か?」

 蒋は不躾な言葉で、ジュノーに声をかけた。

「ジュノーさん」

「はい」

「……元気で。お体を大切になさってください。戦は必ずこちらが勝ちます」

「しかし……」

「心配はいりません。わが軍の姿勢はあくまで共順……中華民国は共和国です。連合軍とも仲良くやっていけます」

 蒋介石自身にも、自分の言葉は薄っぺらにきこえた。

「誰か! 誰かきて!」

 李春蘭が声をあげた。「龍雲さんが……!」

「……す、すいません!」

 ジュノーは病室にむけ駆け出した。

         7 生還








 スイス人医師、マルセル・ジュノー博士は海路中国に入った。

 国際赤十字委員会(ICRC)の要請によるものだった。

 当時の中国は日本の侵略地であり、七〇万人もの日本軍人が大陸にいたという。中国国民党と共産党が合体して対日本軍戦争を繰り広げていた。

 当時の日本の状況を見れば、原爆など落とさなくても日本は敗れていたことがわかる。日本の都市部はBー29爆撃機による空襲で焼け野原となり、国民も戦争に嫌気がさしていた。しかも、エネルギー不足、鉄不足で、食料難でもあり、みんな空腹だった。

 米国軍の圧倒的物量におされて、軍艦も飛行機も撃沈され、やぶれかぶれで「神風特攻隊」などと称して、日本軍部は若者たちに米国艦隊へ自爆突撃させる有様であった。

 大陸の七〇万人もの日本軍人も補給さえ受けられず、そのため食料などを現地で強奪し、虐殺、強姦、暴力、侵略……16歳くらいの少年まで神風特攻隊などと称して自爆テロさす。 ひどい状態だった。

 武器、弾薬も底をついてきた。

 もちろん一部の狂信的軍人は〝竹やり〝ででも戦ったろうが、それは象に戦いを挑む蟻に等しい。日本はもう負けていたのだ。

 なのになぜ、米国が原爆を日本に二発も落としたのか?

 ……米国軍人の命を戦争から守るために。

 ……戦争を早くおわらせるために。

 といった米国人の本心ではない。つまるところ原爆の「人体実験」がしたかったのだ。ならなぜドイツには原爆をおとさなかったのか? それはドイツ人が白人だからである。 なんだかんだといっても有色人種など、どうなろうともかまわない。アメリカさえよければそれでいいのだ。それがワシントンのポリシー・メーカーが本音の部分で考えていることなのだ。

 だが、日本も日本だ。

 敗戦濃厚なのに「白旗」も上げず、本土決戦、一億日本民族総玉砕、などと泥沼にひきずりこもうとする。当時の天皇も天皇だ。

 もう負けは見えていたのだから、                      

 ……朕は日本国の敗戦を認め、白旗をあげ、連合国に降伏する。

 とでもいえば、せめて原爆の洗礼は避けられた。

 しかし、現人神に奉りあげられていた当時の天皇(昭和天皇)は人間的なことをいうことは禁じられていた。結局のところ天皇など「帽子飾り」に過ぎないのだが、また天皇はあらゆる時代に利用されるだけ利用された。

 信長は天皇を安土城に連れてきて、天下を意のままに操ろうとした。戊辰戦争、つまり明治維新のときは薩摩長州藩が天皇を担ぎ、錦の御旗をかかげて官軍として幕府をやぶった。そして、太平洋戦争でも軍部は天皇をトップとして担ぎ(何の決定権もなかったが)、大東亜戦争などと称して中国や朝鮮、東南アジアを侵略し、暴挙を繰り広げた。

 日本人にとっては驚きのことであろうが、かの昭和天皇(裕仁)は外国ではムッソリーニ(イタリア独裁者)、ヒトラー(ナチス・ドイツ独裁者)と並ぶ悪人なのだ。

 只、天皇も不幸で、軍部によるパペット(操り人形)にしか過ぎなかった。

 それなのに「極悪人」とされるのは、本人にとっては遺憾であろう。

 その頃、日本人は馬鹿げた「大本営放送」をきいて、提灯行列をくりひろげていただけだ。まぁ、妻や女性子供たちは「はやく戦争が終わればいい」と思ったらしいが口に出せば暴行されるので黙っていたらしい。また、日本人の子供は学童疎開で、田舎に暮らしていたが、そこにも軍部のマインド・コントロールが続けられていた。食料難で食べるものもほとんどなかったため、当時の子供たちはみなガリガリに痩せていたという。

 そこに軍部のマインド・コントロールである。

 小学校(当時、国民学校といった)でも、退役軍人らが教弁をとり、長々と朝礼で訓辞したが、内容は、                   

 ……わが大和民族は世界一の尚武の民であり、わが軍人は忠勇無双である。

 ……よって、帝国陸海軍は無敵不敗であり、わが一個師団はよく米英の三個師団に対抗し得る。

 といった調子のものであったという。

 日本軍の一個師団はよく米英の三個師団に対抗できるという話は何を根拠にしているのかわからないが、当時の日本人は勝利を信じていた。

 第一次大戦も、日清戦争も日露戦争も勝った。     

 日本は負け知らずの国、日本人は尚武の民である。

 そういう幼稚な精神で戦争をしていた。

 しかし、現実は違った。

 日本人は尚武の民ではなかった。アメリカの物量に完敗し、米英より戦力が優っていた戦局でも、日本軍は何度もやぶれた。

 そして、ヒステリーが重なって、虐殺、強姦行為である。

 あげくの果てに、七十年後には「侵略なんてなかった」「慰安婦なんていなかった」「731部隊なんてなかった」

 などと妄言を吐く。

 信じられない幼稚なメンタリティーだ。

 このような幼稚な精神性を抱いているから、日本人はいつまでたっても世界に通用しないのだ。それが今の日本の現実なのである。


 一九四五年六月………

 マルセル・ジュノーは野戦病院で大勢の怪我人の治療にあたっていた。

 怪我人は中国人が多かったが、中には日本人もいた。

 あたりは戦争で銃弾が飛び交っており、危険な場所だった。

 やぶれかぶれの日本軍人は、野蛮な行為を繰り返す。

 ある日、日本軍が民間の中国人を銃殺しようとした。

「やめるんだ!」

 ジュノーは、彼らの銃口の前に立ち塞がり、止めたという。

 日本軍人たちは呆気にとられ、「なんだこの外人は?」といった。

 ……とにかく、罪のないひとが何の意味もなく殺されるのだけは願い下げだ!

 マルセル・ジュノー博士の戦いは続いた。



 戦がひとやすみしたところで、激しい雨が降ってきた。

 日本軍の不幸はつづく。

 暴風雨で、艦隊が坐礁し、米英軍に奪われたのだ。

「どういうことだ?!」

 山本五十六は焦りを感じながら叱った。

 回天丸艦長・森本は、

「……もうし訳ござりません!」と頭をさげた。

「おぬしのしたことは大罪だ!」

 山本は激しい怒りを感じていた。大和を失っただけでなく、回天丸、武蔵まで失うとは………なんたることだ!

「どういうことなんだ?! 森本!」とせめた。

 森本は下を向き、

「坐礁してもう駄目だと思って……全員避難を……」と呟くようにいった。

「馬鹿野郎!」五十六の部下は森本を殴った。

「坐礁したって、波がたってくれば浮かんだかも知れないじゃないか! 現に米軍が艦隊を奪取しているではないか! 馬鹿たれ!」

 森本は起き上がり、ヤケになった。

「……負けたんですよ」

「何っ?!」

 森本は狂ったように「負けです。……神風です! 神風! 神風! 神風!」と踊った。 岸信介も山本五十六も呆気にとられた。

 五十六は茫然ともなり、眉間に皺をよせて考えこんだ。

 いろいろ考えたが、あまり明るい未来は見えてはこなかった。

 大本営で、夜を迎えた。

 米軍の攻撃は中断している。

 日本軍人たちは辞世の句を書いていた。

 ……もう負けたのだ。日本軍部のあいだには敗北の雰囲気が満ちていた。

「鈴木くん出来たかね?」

「できました」

「どれ?」


 中国の野戦病院の分院を日本軍が襲撃した。

「やめて~っ!」

 看護婦や医者がとめたが、日本軍たちは怪我人らを虐殺した。この〝分院での虐殺〟は日本軍の汚点となる。

 ジュノーの野戦病院にも日本軍は襲撃してきた。

 マルセル・ジュノーは汚れた白衣のまま、日本軍に嘆願した。

「武士の情けです! みんな病人です! 助けてください!」

 日本の山下は「まさか……おんしはあの有名なジュノー先生でごわすか?」と問うた。「そうだ! 医者に敵も味方もない。ここには日本人の病人もいる」

 関東軍隊長・山下喜次郎は、

「……その通りです」と感心した。

 そして、紙と筆をもて! と部下に命じた。

 ………日本人病院

 紙に黒々と書く。

「これを玄関に張れば……日本軍も襲撃してこん」

 山下喜次郎は笑顔をみせた。

「………かたじけない」

 マルセル・ジュノーは頭をさげた。


  昭和二十年(一九四五)六月十九日、関東軍陣に着弾……

 山下喜次郎らが爆撃の被害を受けた。

 ジュノーは白衣のまま、駆けつけてきた。

「………俺はもうだめだ」

 山下は血だらけ床に横たわっている。

「それは医者が決めるんだ!」

「……医療の夢捨…てんな…よ」

 山下は死んだ。

 野戦病院で、マルセル・ジュノー博士と日本軍の黒田は会談していた。

「もはや勝負はつき申した。蒋介石総統は共順とばいうとるがでごわそ?」

「……そうです」

「ならば」

 黒田は続けた。「是非、蒋介石総統におとりつぎを…」

「わかりました」

「あれだけの人物を殺したらいかんど!」

 ジュノーは頷いた。

 六月十五日、北京で蒋介石総統と日本軍の黒田は会談をもった。

「共順など……いまさら」

 蒋介石は愚痴った。

「涙をのんで共順を」黒田はせまる。「……大陸を枕に討ち死にしたいと俺はおもっている。総統、脅威は日本軍ではなく共産党の毛沢東でしょう?」

 蒋介石はにえきらない。危機感をもった黒田は土下座して嘆願した。

「どうぞ! 涙をのんで共順を!」

 蒋介石は動揺した。

 それから蒋介石は黒田に「少年兵たちを逃がしてほしい」と頼んだ。

「わかりもうした」

 黒田は起き上がり、頭を下げた。

 そして彼は、分厚い本を渡した。

「……これはなんです?」

「海陸全書の写しです。俺のところに置いていたら灰になる」

 黒田は笑顔を無理につくった。

 蒋介石は黒田参謀から手渡された本を読み、

「みごとじゃ! 殺すには惜しい!」と感嘆の声をあげた。

 少年兵や怪我人を逃がし見送る黒田……

 黒田はそれまで攻撃を中止してくれた総統に頭を下げ、礼した。

 そして、戦争がまた開始される。

 旅順も陥落。

 残るはハルビンと上海だけになった。

 上海に籠城する日本軍たちに中国軍からさしいれがあった。

 明日の早朝まで攻撃を中止するという。

 もう夜だった。

「さしいれ?」星はきいた。            

「鮪と酒だそうです」人足はいった。

 荷車で上海の拠点内に運ばれる。

「……酒に毒でもはいってるんじゃねぇか?」星はいう。

「なら俺が毒味してやろう」

 沢は酒樽の蓋を割って、ひしゃくで酒を呑んだ。

 一同は見守る。

 沢は「これは毒じゃ。誰も呑むな。毒じゃ毒!」と笑顔でまた酒を呑んだ。

 一同から笑いがこぼれた。

 大陸関東日本陸軍たちの最後の宴がはじまった。

 黒田参謀は少年兵を脱出させるとき、こういった。

「皆はまだ若い。本当の戦いはこれからはじまるのだ。大陸の戦いが何であったのか……それを後世に伝えてくれ」

 少年兵たちは涙で目を真っ赤にして崩れ落ちたという。


 日本軍たちは中国で、朝鮮で、東南アジアで暴挙を繰り返した。

 蘇州陥落のときも、日本軍兵士たちは妊婦と若い娘を輪姦した。そのときその女性たちは死ななかったという。それがまた不幸をよぶ。その女性たちはトラウマをせおって精神疾患におちいった。このようなケースは数えきれないという。

 しかし、全部が公表されている訳ではない。なぜかというと言いたくないからだという。中国人の道徳からいって、輪姦されるというのは恥ずかしいことである。だから、輪姦             

れて辱しめを受けても絶対に言わない。

 かりに声をあげても、日本政府は賠償もしない。現在でも「慰安婦などいなかったのだ」などという馬鹿が、マンガで無知な日本の若者を洗脳している。

 ジュノー博士は衝撃的な場面にもでくわした。

 光景は悲惨のひとことに尽きた。

 死体だらけだったからだ。

 しかも、それらは中国軍人ではなく民間人であった。

 血だらけで脳みそがでてたり、腸がはみ出したりというのが大部分だった。

「……なんとひどいことを…」

 ジュノーは衝撃で、全身の血管の中を感情が、怒りの感情が走りぬけた。敵であれば民間人でも殺すのか……? 日本軍もナチスもとんでもない連中だ!

 日本軍人は中国人らを射殺していく。

 虐殺、殺戮、強姦、暴力…………

 日本軍人は狂ったように殺戮をやめない。

 だが、そんなメンタリティーでは駄目なのだ。

 鎖国してもいいならそれでもいいだろうが、日本のような貿易立国は常に世界とフルコミットメントしなければならない。

 日中国交樹立の際、確かに中国の周恩来首相(当時)は「過去のことは水に流しましょう」といった。しかし、それは国家間でのことであり、個人のことではない。

 間違った閉鎖的な思考では、世界とフルコミットメントできない。

 それを現在の日本人は知るべきなのだ。


 民間の中国人たちの死体が山のように積まれ、ガソリンがかけられ燃やされた。紅蓮の炎と異臭が辺りをつつむ。ジュノー博士はそれを見て涙を流した。

 日本兵のひとりがハンカチで鼻を覆いながら、拳銃を死体に何発か発砲した。

「支那人め! 死ね!」

 ジュノーは日本語があまりわからず、何をいっているのかわからなかった。

 しかし、相手は老若男女の惨殺死体である。

「……なんということを…」

 ジュノーは号泣し、崩れるのだった。



     8 原爆投下






 東京湾にも米国艦隊が迫っていた。

 沖縄の米軍も本土上陸の機会を狙っている。

 ハワイ沖の空軍らは軍儀を開いていた。

「あの男はどこにいった?!」

 マイケルはいった。あの男とは、同じく米国太平洋艦隊空軍のクロード・エザリーである。

 ……あの男が! 会議にも出ないで昼寝でもしてるのか?!

 ハワイ沖はほとんど米軍の支配化である。

「原爆か……」

 広島に原爆を落とすことになる爆撃機・エノラゲイの機長、ポール・ティベッツは興奮した。これからこの原爆を……ジャップめ!

 ジョンは「まだわかりません」という。

「大統領が原爆投下の動きをみせているのは本当なんですか?」

「まずは…」爆撃機・エノラゲイの機長、ポール・ティベッツは続けた。「まずは出撃の準備をしろということだ」

 昼寝から起きたのか、クロード・エザリー軍曹がやってきて、

「ジャップに原爆をとられたらどうする?」といった。   

 ポール・ティベッツは激昴して、

「このガキが! なにぬかしとる!」と喝破した。

 しかしエザリーも負けてはいない。

「この原爆(ドラム管ほどけっこう大きい)はリトルボーイといい、ウラニウム弾である」「それぐらい俺も知っとる!」

 エノラゲイの機長、ポール・ティベッツは声を荒げた。

 ……〝トゥ・ヒロヒト(裕仁に贈る)〟……

 エザリーやマイケルたちは原爆ミサイルにチョークで落書きした。

「これでジャップたちは降伏する。原爆を落とされ、あたりはまっ黄色だ!」

 そういったのはエザリーだった。


 七月二十四日、広島などへの原爆投下にむけて、リトル・ホワイトハウスでバーンズは『宣言』をつくる。

 トルーマンは思う。

 ……米英だけで決めてよいものか。中国にも打電しよう。

 トルーマンは重慶の蒋介石に「二十四時間以内に返事するように」と打電した。

 その間も、スティムソンは「天皇制の維持を…」とバーンズ国務長官にうったえていた。 七月二十四日、記念写真。チャーチル、トルーマン、スターリン……

 トルーマンは原爆投下の命令書を出す。

 ターゲットは、広島、小倉、新潟、長崎に変更された。

 ……原爆は日本に対してつかわれるだろう。爆弾は子や女子ではなく軍事拠点に。ジャップは降伏しないだろうが、シグナルにはなる……

                 トルーマン回顧録より


 蒋介石は日本への原爆投下を受諾した。

 こうして、『ポツダム宣言』は発表された。しかし、サインはすべてトルーマンの代筆であったという。降伏せねば全滅する。

 しかし、日本はそれを黙殺していまう。


「よし! 黄色いジャップに原爆の洗礼だ!」

 マイケルは無邪気だった。

 それは当然で、誰も原爆の破壊力など知らないからだった。

「これで戦争も終わる!」ジョンもいった。

 雲がたちこめている。

 結局、エノラゲイは日本上陸を飛んだが新潟は見えず…しかし、広島だけは雲の隙間があった。

 マイケルたちはまだ若く、軍略も謀略もできない青二才だった。

 ジョンは双眼鏡で広島をみながらにやにやと、

「広島上空異常なし!」と仲間にいった。

「……原爆ってどれくらい死ぬんだ?」とマイケル。

「知らない。しかし、相手は黄色だぜ。知ったことか」

「国際法でも認められている立派な策さ」

 そして、一九四五年八月六日午前八時十五分、広島に原爆が投下された。

「目がつぶれるから直視するな!」ティベッツ機長は叫んだ。

 双眼鏡で覗いて見ると、きのこ雲があがっている。

「………やった!…」

「うひょ~っ!」

 エノラゲイ機内に歓声があがった。

 仲間は「これてジャップも降伏だ……」という。

 しかし、予想は外れる。

 日本は、黙ったままだ。

 ……〝原爆の洗礼〟だ!

「原爆! 原爆! 投下せよ!」

 トルーマンたちは動揺を隠せない。

 一九四五年八月九日長崎上空に、爆撃機ボックス・カーが接近した。そこにはマイケルたちは乗ってなかった。同時に爆撃機はプルトニウム爆弾を投下する。午前十一時二分。「くたばれ!」

 トルーマンの号令で、爆撃機にのっていた米軍兵士たちが原爆を二発もおとした。

 この原爆で二十万人もの民間人が犠牲になったという。



「斬り込め! 斬り込め!」

 日本軍は中国で次々と中国兵士を斬り殺していく。

 が、もはや時代は剣ではなく銃である。

 すぐに中国軍は回転式機関銃を撃ってくると、日本兵たちはやられていった。

 いわゆる初期のガドリング砲は、大砲ほどの大きさがあった。

 ガドリング砲の銃口が火を吹くたびに、日本軍兵士たちは撃たれて倒れていく。

「くそったれめ!」

 谷中はガドリング砲を撃つ中国軍たちの背後から斬り込んだ。そして、ガドリング砲を使って中国軍たちを撃っていく。が、戦にはならない。次々と米国艦隊がやってきて砲撃してくる。谷中少将はひととおりガドリング砲を撃ったところで、日本軍車に飛び乗った。 ……中国への進出(侵略)は失敗したのだ。

 日本軍は全速力で遁走した。

 日本は原爆を二発もうけて、大ダメージを受けた。アジア侵略が失敗したのはいたかった。が、それよりも貴重な兵士たちを失ったのもまたいたかった。

 東条は、

「こんなことなら戦争などしなければよかった」

 と悔がった。

 鈴木貫太郎は「なにをいまさらいってやがるんだこの男は!」と怒りを覚えた。

 とにかく原爆で損失を受け、大打撃であった。


 雀之丞の弟・大塚浪次郎が戦死した。

「浪次郎!」

 兄の大塚雀之丞は号泣し、遺体にすがった。

 榎本中将がきた。

「君の弟は優秀な人材であった。惜しいことだ」   

 とってつけたように、榎本はいって労った。

 涙で顔を濡らしながら、雀之丞は、

「弟の死は犬死にですか?! 中将!」と声を荒げた。

 榎本は戸惑ってから、

「戦は殺しあいだ。連合軍があくまでもわれら日本帝国を認めないなら、戦うしかない。これは〝義〟の戦ぞ!」

「……しかし…日本が血に染まりまする!」

「〝義〟の戦では勝つのはわれらだ。米英には〝義〟がない。勝つのはわれらだ!」

 榎本はどこまでも強気だった。

「……そうですか……」

 雀之丞は涙を両手でふいて、いった。

「義の戦ですね? 弟の死は犬死にではなかったのですね」

「そうだ! 大塚雀之丞……励め!」

「はっ!」

 大塚雀之丞は敬礼した。


           

 若く可愛い看護婦と、日本脱走軍の兵士の若者・英次郎は李春蘭とデートした。

「君、今好きなひととかいるの?」

 英次郎は勇気をふりしぼってきいた。

 是非とも答えがききたかった。

 李春蘭は頬を赤らめ、

「えぇ」

 といった。

 純朴な少年の感傷と笑うかも知れないが、英次郎は李春蘭が自分のことを好きになっていると思った。

「それは誰?」

「…ある人です」李春蘭は顔を真っ赤にした。

 そして「あのひとはもう治らないとやけになってるんです」と吐露した。

「………治らない? なんだ……俺のことじゃないのか」

「すいません」

「いや!」英次郎は逆に恐縮した。「いいんだよ! そのひと病気治るといいね」

「……はい」

 李春蘭は可憐に去った。

「ふられたか? 英次郎」

 兄・恒次郎はからかった。弟は「そんなんじゃねぇや!」といった。

 ふたりは相撲を取り始めた。

 兄が勝った。

「元気だせ。もっと可愛い娘がいっぱいいるって」

「だから! ……そんなんじゃねぇって」

 ふたりは笑った。

 まだ恋に恋する年頃である。


 ダガルカナルの戦地では、若者たちが英雄をかこんでいた。

 英雄とは、米国兵士を何百人と殺した男・今井信助である。

「今井さんは鬼畜米英を斬ったそうですね?!」

「…まぁな」

「斬ったときどんな気持ちでしたか?!」

 若者たちは興奮して笑みを浮かべながらきいた。

「うれしかったよ。なんせ鬼畜だからな」

「鬼畜はどういってましたか? 死ぬとき…」

 若者は興奮で顔をむけてくる。

「なんもいわなかったよ。でも連中は頭を斬られて死んだんだな」

「へぇ~っ」

 若者たちが笑顔で頷いた。

 かれらにとっては米兵は明らかな〝敵〟である。



 木之内と伊庭八郎は、敗退を続ける隊員を尻目に、銃弾が飛び交う中を進軍した。森の中で、ふたりは「これは義の戦だ!」といいあった。

 伊庭八郎は、「木之内! 日本にすごい武器がおとされたって知ってるか?」ときいた。 しかし、木之内は「知ってる。しかし、おれは最後まで戦う! お国のためだ」

「そうか」伊庭八郎はにやりとして、「まだサムライがいるんだな」

 といった。

「その拳銃の弾はあと何発残ってる?」

「いっぱつ…」

「そうか」

 そんな中砲撃があり、爆発が近くで起こった。木之内は額から出血した。

 しかし、伊庭八郎は直撃を受けて血だらけで倒れていた。

「伊庭さん?! だいじょうぶですか?」

「………木之内…」

 伊庭八郎は脇差しをもって切腹した。「かいしゃくを!」

 木之内は動揺したが、「分かりました」といい銃口を伊庭八郎のこめかみに当てて引き金をひいた。

 砲弾が飛び交う。

「やあああ~っ!」

 木之内は進軍する米国軍に剣を抜いて叫んだ。

 しかし、米軍はかれを射殺して進軍していった。

 米軍絶対的優位で、ある。

 長崎にも原爆投下され、日本大本栄は動揺した。すぐに閣僚会議が開かれた。軍部はポツダム宣言など受け入れれば国体が壊れる…と反発した。大和魂が死ぬ…とまでいう。鈴木貫太郎首相は穏健派で知られた。御前会議にもっていく。そこで裕仁の聖断を受ける。昭和天皇は「本土決戦では日本国そのものが滅亡する。忍び堅きを忍び…世界のひとたちを不幸にするのは避け、この地の日本人たちがひとりでも多く生き残って繁栄の道を進んでほしい。武装解除で、朕は別によいが指導者たちが戦犯として裁かれるのは辛いが日本国が滅ぶよりいい」という。8月10日、日本は条件付き降伏をする。しかし陸軍がいきりたっていた。しきりにクーデターで軍による政権をつくり世界と戦うなどと馬鹿げたことをくりかえす。そんなだから空襲はますます激しくなる。日本中火の海だ。

 8月12日、外務省は降伏状を訳していた。…〝サブジェクト トウ〟…『従属する』…陸軍や海軍ら軍部は「これでは天皇制が維持されず奴隷と同じである! 陛下のためにならない!」という。そこで鈴木首相は最後の懸けにでる。もう一度の天皇の聖断である。 御前会議が開かれる。天皇の前ではクーデターも文句もない。昭和天皇はいう。

「戦争はこれ以上は無理だと思う。ポツダム宣言を朕は受諾する。もう終戦である」という。こうしてすべて決まった。愚鈍だった天皇が、最後は役にたった訳である。


 そして、一九四五年八月十五日敗戦……

〝耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び…〟

 昭和天皇(裕仁)の声がラジオから流れてくる。日本軍敗戦、ポツダム宣言を受諾したのだ。やっと、泥沼のような戦争は終わった。

 日本国中、焼け野原だった。

 しかも、戦後は食料難がおそい餓死者まででた。

 日本を占領するためにきたのがマッカーサー元帥だった。パイプをくわえながらプロペラ機のタラップをおりてくる。「アイル・ビー・バック」……の宣言通り彼は日本に戻ってきた。連合国総指令部(GHQ)は、さっそく日本を統治しはじめた。

 憲法(いわゆる平和憲法)をわずか二週間でつくりあげる。

 マルセル・ジュノー博士は荒廃した中国の町で、「広島と長崎に原爆が落とされ、一瞬にして何万人ものひとが犠牲になった」というニュースをラジオできいた。

 ジュノーは思う。「広島へいかなければ…」

『戦争は悪で人殺しだ』……多くのひとたちはそう思っている。確かに、戦争は悪でありひと殺しである。ただし、その悪によってもっと強大な悪を叩き潰すこともできるのだ。

 例えば、太平洋戦争で連合軍が帝国日本やナチス・ドイツを叩き潰さなければ今頃、ヨーロッパやアジア諸国はどうなっていただろう? 確かに広島長崎の原爆、東京大空襲、沖縄戦、シベリア抑留、学徒出陣、神風…それらは悲惨なことだ。

しかし、被害者意識ばかりもってもらっては困るのだ。

じゃあナチスや帝国日本はあの戦争で何をやったのか? 虐殺侵略したじゃないか! ヒトラーや帝国日本はなにをしたのか?

 なぜ日本人は被害者意識だけしかもてないのだろう。

なぜ靖国に参拝し続けるのだろう。

反日デモがおきたとき著者はそう問いつづけた。

だが、日本人からの反応はなかった。

 改革を念じるしかない。ただこの拙著だけではかわらないかも知れない。しかし、信じるしかない。太平洋戦争が間違った、侵略戦争であったということを…日本人たちが誰もがわかるまで……。                        



天皇御服を着用し伊勢神宮へ終戦報告に向かう昭和天皇(1945年11月12日)。

戦前の天皇は一般国民との接触はほとんど無く、公開される写真、映像も大礼服や軍服姿がほとんどで、現人神、大元帥と言う立場を非常に強調していた。

ポツダム宣言には天皇や皇室に関する記述が無く、非常に微妙な立場に追い込まれた。そのため、政府や宮内省などは、天皇の大元帥としての面を打ち消し、軍国主義のイメージから脱却すると共に、巡幸と言う形で天皇と国民が触れ合う機会を作り、天皇擁護の世論を盛り上げようと苦慮した。具体的に、第1回国会の開会式、伊勢神宮への終戦報告の親拝時には、海軍の軍衣から階級章を除いたような「天皇御服」と呼ばれる服装を着用した。

さらに、連合国による占領下では、礼服としてモーニング、平服としては背広を着用してソフト路線を強く打ち出した。また、いわゆる「人間宣言」でGHQの天皇制擁護派に近づくと共に、一人称として朕を用いるのが伝統であったのを私を用いたり、巡幸時には一般の国民と積極的に言葉を交わすなど、日本の歴史上最も天皇と庶民が触れ合う期間を創出した。

スポーツ観戦

相撲

詳細は「天覧相撲」を参照


1913年(大正2年)頃、傅育官と相撲に興じる裕仁親王(12歳)

皇太子時代から大変な好角家であり、皇太子時代には当時の角界に下賜金を与えて幕内優勝力士のために摂政賜杯を作らせている。即位に伴い、摂政賜杯は天皇賜杯と改名された。観戦することも多く、戦前戦後合わせて51回も国技館に天覧相撲に赴いている。

特に戦後は1955年(昭和30年)以降、病臥する1987年(昭和62年)までに40回、ほとんど毎年赴いており、贔屓の力士も蔵間、富士桜、霧島など複数が伝わっている。特に富士桜の取組には身を乗り出して観戦したと言われ、皇居でテレビ観戦する際にも大いに楽しんだという。上述の贔屓の力士と同タイプの力士であり毎回熱戦となる麒麟児との取組は、しばしば天覧相撲の日に組まれた。天皇は後に、「少年時代に相撲をやって手を覚えたため、観戦時も手を知っているから非常に面白い」と語った。

武道

詳細は「昭和天覧試合」を参照

1929年(昭和4年)、1934年(昭和9年)、1940年(昭和15年)に皇居内(済寧館)で開催された剣道、柔道、弓道の天覧試合は、武道史上最大の催事となった。この試合を「昭和天覧試合」という。

野球

詳細は「天覧試合#プロ野球」を参照

1959年(昭和34年)には天覧試合として、プロ野球の巨人対阪神戦、いわゆる「伝統の一戦」を観戦している。天覧試合に際しては、当時の大映社長の永田雅一がこれを大変な栄誉としてとらえる言を残しており、相撲、野球の振興に与えた影響は計り知れないと言える。この後昭和天皇のプロ野球観戦は行われなかったが、1966年(昭和41年)11月8日の日米野球ドジャース戦を観戦している。

靖国親拝

「靖国神社問題#天皇の親拝」も参照

昭和天皇は、終戦直後から1975年(昭和50年)まで、以下のように靖國神社に親拝していたが、1975年(昭和50年)を最後に行わなくなった。ただし例大祭(春と秋の年に2回)に際しては、勅使の発遣を行っている。

1945年(昭和20年)8月20日(昭和天皇行幸)

1945年(昭和20年)11月・臨時大招魂祭(昭和天皇行幸)

1952年(昭和27年)4月10日(昭和天皇、香淳皇后行幸)

1954年(昭和29年)10月19日・創立八十五周年(昭和天皇、香淳皇后行幸)

1957年(昭和32年)4月23日(昭和天皇、香淳皇后行幸)

1959年(昭和34年)4月8日・創立九十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸)

1964年(昭和39年)8月15日・全国戦没者追悼式(昭和天皇、香淳皇后行幸)

1965年(昭和40年)10月19日・臨時大祭(昭和天皇行幸)

1969年(昭和44年)6月10日・創立百年記念大祭(昭和天皇、香淳皇后行幸)

1975年(昭和50年)11月21日・大東亜戦争終結三十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸)

昭和天皇が親拝を行わなくなった理由については、左翼過激派の活動の激化、宮中祭祀が憲法違反である、とする一部野党議員の攻撃など様々に推測されてきたが、近年『富田メモ』(日本経済新聞、2006年)・『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞、2007年4月26日)などの史料の記述から、1978年(昭和53年)に極東国際軍事裁判でのA級戦犯14名が合祀されたことに対して不快感をもっていたからとの説が浮上している。

なお天皇の親拝が途絶えた後も、高松宮および三笠宮一族は参拝を継続している。

「崩御」前後

内閣

来るべく天皇崩御に備え、内閣は新元号(平成)の名称を検討しており、マスコミに「(内定していた)平成」の名称をスクープされぬよう徹底していた。

記帳

1988年(昭和63年)以降、各地に病気平癒を願う記帳所が設けられたが、どこの記帳所でも多数の国民が記帳を行った。病臥の報道から一週間で記帳を行った国民は235万人にも上り、最終的な記帳者の総数は900万人に達した。

各地の記帳所、記帳所の設置された場所は以下の通り。

皇居前記帳所

千葉県民記帳所

葉山御用邸通用門記帳所

名古屋熱田神宮境内記帳所

京都御所前記帳所

福岡市庁舎内記帳所

東京都大島町 天皇陛下病気お見舞い記帳所

同町は伊豆大島に存在し、前年には三原山噴火という天災に見舞われたばかりであった。

市民の動き

「自粛」ムード

1988年(昭和63年)9月19日の吐血直後から昭和天皇の闘病中にかけ、歌舞音曲を伴う派手な行事・イベントが自粛(中止または規模縮小)された。自粛の動きは大規模なイベントだけでなく、個人の生活(結婚式などの祝宴)にも波及した。具体的な行動としては、以下のようなものが行われ、「自粛」は、同年の世相語となった。

中日ドラゴンズのリーグ優勝にて、「祝勝会」を「慰労会」に名称変更し、ビールかけを自粛、西武ライオンズのリーグ優勝時もビールかけを自粛した。ただし、1988年の日本シリーズ後には日本一となった西武ライオンズがビールかけを行っている。

京都国体にて、花火の打ち上げを自粛

明治神宮野球大会中止

自衛隊観閲式・自衛隊音楽祭など自衛隊行事を中止

各国大使館・在日米軍基地にて、イベントの自粛・規模縮小

広告演出の自粛

日産・セフィーロのCMで「みなさんお元気ですか?」の音声が失礼に当たると差し替え

トヨタ・カリーナも同様に「生きる歓び」というコピーが問題となり、東京トヨペットのポスターが撤去

崩御後のTVCM放送の大量自粛(崩御から2日間は完全に自粛、その後はテレビ局や番組提供のスポンサーが独自に判断、水戸黄門のようにアイキャッチが出たままCMへ移行せず音楽のみが流れた例がある)。その穴埋めとして公共広告機構(現:ACジャパン)のCMが放送された。同様の事例は、1995年1月17日に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)や、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)でも起きている。

テレビ番組放送・演出の自粛

派手なバラエティ番組を、映画や旅行番組に差し替え

同年の『第39回NHK紅白歌合戦』についても中止になるかと懸念されていたが開催された。しかし、結果的にこれが昭和最後の『NHK紅白歌合戦』となった。

百貨店でのディスプレイを地味なものに変更

神社における祭りを中心とした、伝統行事の中止・規模縮小

地域イベントや商業イベントでの「○○フェスティバル」「○○まつり」の自粛・名称変更

学校での文化祭(学園祭・大学祭)の中止・派手なイベントの自粛[注釈 9]

小・中学校における運動会、体育祭の自粛

忘年会・新年会の自粛

年賀状での「賀」「寿」「おめでとう」等、賀詞の使用自粛

服喪

崩御後、政府の閣議決定により崩御当日を含め自治体には6日間・民間には2日間弔意を示すよう協力が要望された。その結果、各地での弔旗掲揚などの服喪以外に、以下のようなスポーツ・歌舞音曲を伴う行事などの自粛が行なわれた。

全テレビ局でニュースおよび追悼特番のみの特別放送体制(崩御から2日間、NHK教育テレビ・衛星テレビ第1放送を除く)。

大相撲初場所の開催延期(初日を1日延期して1月9日から)

昭和64年度の全国高校ラグビー大会決勝中止(大阪府・大阪工業大学高等学校と茨城県・茗溪学園高等学校の両校優勝)

昭和64年度の全国高校サッカー選手権が2日間順延

第一回中山競馬および京都競馬の開催順延(1月13日 - 16日に開催)

1989年(平成元年)1月8日のラジオ体操の中止

各地で1月8日の公演(コンサート・演劇・寄席など)を中止・延期、「めでたい」内容の変更

1月7-8日の公演を宝塚歌劇団や爆風スランプが全て中止。

1月7-8日は企業・商店・レジャー施設が臨時休業や店内放送の自粛。

1月15日の成人式にて、装飾を地味にしたり派手なイベントを自粛

その後も自粛の動き自体は続いた。テレビ番組では歌舞音曲を控えることからベストサウンドが再放送等で差し替えられるなどの影響が出た。

この後、2月24日の大喪の礼では、再び企業・商店・レジャー施設が臨時休業した。民間での自粛・服喪の動きはこれを以って終息に向かった。

殉死

昭和天皇の崩御後は、確認されているだけで数名の殉死者(後追い自殺者)が出た。崩御と同日に和歌山県で87歳男性が、茨城県でも元海軍少尉の76歳男性がそれぞれ自殺した。1月12日には福岡県で38歳男性が割腹自殺を遂げ、3月3日にも東京都で元陸軍中尉の66歳男性が自殺している。

マスコミ報道

昭和天皇が高齢となった1980年代頃(特に開腹手術の行われた1987年(昭和62年)以降)から、各マスコミは来るべき天皇崩御に備え、原稿や紙面構成、テレビ放送の計画など密かに報道体制を準備していた。その中で、来るべき崩御当日は「Xデー」と呼ばれるようになる。

1988年(昭和63年)9月19日の吐血直後は、全放送局が報道特別番組を放送。不測の事態に備えてNHKが終夜放送を行ったほか、病状に変化があった際は直ちに報道特番が流され、人気番組でも放送が中止・中断されることがあった。また、一進一退を続ける病状や血圧・脈拍などが定時にテロップ表示された。9月時点で関係者の証言から癌であることが判明していたが、宮内庁・侍医団は天皇に告知していなかった。そのため天皇がメディアに接することを想定し、具体的な病名は崩御までほとんど報道されなかった。


        9 昭和天皇崩御





 ジュノー博士は、荒廃した中国の町で「広島に原爆が落とされ、一瞬にして数千万人が死亡した。これによって日本は降伏…」というラジオ・ニュースを聞くことになる。

 つねに平和を願っていた彼は愕然となり、それからこう思う。「広島にいかねば…」と。 ジュノーは日本軍に頼み込んで飛行機に乗り、日本に向かう。千島列島に侵攻してきたソ連軍のミサイルをかいくぐって。しかし彼は東京でとめられ、頼んでも「広島」には連れていってもらえなかった。「軍の機密だから」というマッカーサー総司令官につめよった彼は、無惨な子供の死体や焼け野原となった写真をたたきつけていう。

「これが広島です。いまも多くの人々が何の治療もうけられず外部から見捨てられたまま苦しんでいるのです。軍の機密は、人の命より大事なのですか?!」

 死体の山、砂漠のような瓦礫の町「広島」、薬は底をつき、人々はバタバタと死んでいく。そこに彼がやってくる。「薬がきましたよ」彼のはにかんだ表情がまたすごくいい。こうして何万トンもの薬が届けられ、多くの人々が救われていく。

 去っていくジュノーと日本人医師の別れは、夕暮れの空がとても美しく印象的だ。

「センキュー・ベリーマッチ、ドクタージュノー」

「ザッツ・オーケー」

 ジュノーは八時十五分でとまった駅の時計をみていう。「あれは新しい時代の始まりです。けして戦争をしてはならないという証しです」それはとても感動的な言葉だった。

 しかし彼の意思に反して、世界は、朝鮮や、ベトナム、中東でも、同じ様な過ちを繰り返してしまう。それがとても哀れで仕方がない気持ちを覚えたりもする。

……「もし不幸にも戦争がさけられないのなら、せめて治療方のない兵器は使わないで下さい」

「戦争がもし不幸に起こっても戦う両者とは別に第三の戦士がいなければならない」


 ジュノーは引退してミズリー州に引き籠もっていたトルーマンと接見した。

 彼は、無惨な子供の死体や焼け野原となった写真をたたきつけていう。

「これが広島です。いまも多くの人々が何の治療もうけられず外部から見捨てられたまま苦しんでいるのです。軍の機密は、人の命より大事なのですか?!」

 トルーマンは「この戦争の全責任は私にある。しかし、米国人の犠牲を最小限におさえるために、戦争を早くおわらせるために仕方のなかったのだ」と頭を下げた。

「それは詭弁でしょう?!」

 ジュノーはトルーマンに迫った。

 しかし、トルーマンは同じことを繰り返すばかりだった。

「……日本人たちをどうする気かね?」

 ジュノーは迫った。

「裁判にかける」トルーマンはいった。

「殺す気かね?」

「……裁判次第だ」

 ジュノーは声を荒げた。

「人材の浪費は駄目です! 今日本国を思えば……たとえ敵軍だったとしても貴重な人材は残すべきです! 違いますか? 閣下」

 トルーマンは感銘をうけた。

 ……まさしくその通りだ!

「わかりました。ジュノー先生」

 昭和二十五年九月、東篠らA級戦犯は巣鴨の牢獄の中にいた。

 一番牢  東篠英機、木戸孝一、大島浩、武藤章、土肥原賢二、松岡洋石、永野修身

 二番牢  岸信介、重光葵、広田弘毅、賀屋興宜、東郷茂徳、小磯国昭、白鳥敏夫、

 岡敬純、南次郎、大川周明、佐藤賢了、星野直樹、橋本欣五郎、荒木貞夫、嶋田繁太郎、 畑俊六、鈴木貞一

 三番牢  笹川良一、板垣征四郎、木村兵太郎、平沼騏一郎、梅津美治郎、松井石根

 四番牢  児玉誉士夫………


「馬鹿野郎!」

 東篠英機の前の首相、近衛文麿は電話を受けてそういい、そして服毒自殺した。

 東篠英機は東京法廷で「自分には統帥権(軍の指揮権利)がなかった」という。つまり、天皇でも自分でもなく、陸軍がすべてを取り仕切っていたというのだ。

 彼等らは『A級戦犯』と呼ばれて東京裁判で裁かれた。

 しかし、A級戦犯とは『もっとも悪い戦争犯罪者』ではなく、『戦争を指揮した人間』で、BC級は戦争による虐待殺戮などをした戦犯だ。東篠英機らは死刑になった。       

 重光葵は戦後、副首相兼外務大臣になり、賀屋興宜は戦後、法務大臣になった。

 岸信介は戦後、首相になったのは有名だ。あの安倍晋三の母方の祖父だ。

 昭和天皇は戦争末期、防空壕内部で只、頭を低くして陸軍の暴挙を黙認していた。

  1945(昭和20)年、昭和天皇はマッカーサーと会見した。場所はGHQ本部…

 そして、例の写真を撮影した。戦争ではアジア人二千万人、日本人三十四万人が死んだ。

マッカーサーはミス・インフォメーションを信じていた。〝天皇制を廃止すれば日本人は激怒して暴動になる〝というのだ。それで彼は天皇制を維持することになる。

 たった数週間で「平和憲法」がつくられた。

 極東裁判が開かれ、東条秀樹らは死刑となり、露と消えた。

 昭和天皇は『人間宣言』をする。           

「私は現人神ではない。ただの人間である」

 日本は敗戦により、ほとんど焼け野原となり、浮浪者やホームレス、孤児、餓死者、食料難があり、またパンパンと呼ばれる売春婦たちがアメリカ兵たちに体を売り、外貨を稼いだ。疎開地でも餓死者が出た。GHQではそれでも無視した。

 しかし、日本が破壊されたのは建物や工場や軍事施設といったいわばハードであり、ソフト……つまり人材は守られた。松下幸之助、本田宗一郎、井深大、盛田昭夫、田中角栄、吉田茂、岸信介、司馬遼太郎、山田風太郎、三島由紀夫、川端康成、美空ひばり、石原裕次郎、黒澤明、そして皇族たち……世界に冠たる人材は守られ、日本はパックス・アメリカーナ(米国の核の下の平和)により冷戦でも奇跡の経済成長を遂げることになる。

 それは昭和天皇の願いでもあった。

「私は、夢は、日本国が平和な、経済大国・技術立国になることである」

 そして、昭和天皇は荒廃した地方を、日本全国を巡幸していった。どこでも歓迎と拍手の嵐である。しかし、沖縄にだけはいけなかった。巡行慰問予定の年に体調を崩し、そのまま崩御してしまったのである。ひめゆりの生き残った女性は悔しがる。「……昭和天皇には沖縄にきてひめゆりの塔におがんでほしかった……」

 朝鮮戦争、JFK兄弟暗殺、ベトナム戦争の泥沼、日米安保による学生デモ、大阪万博、中東戦争、イラン革命、日米貿易対立、プラザ合意、ウォーターゲート事件……

 昭和四十年には息子の現在の上天皇(当時・皇太子明仁)と民間人・美智子との結婚の儀が行われた。孫も出来た。テレビも売れに売れ、日本経済は奇跡の発展を遂げた。

 東京オリンピック、日本の高度経済成長、それにともなう南北貧富の格差…

 田中角栄による中国国交正常化、電電公社、国鉄の民営化………

 昭和の間、天皇はすこやかに静かに暮らした。そして、昭和の暮れ、ガキどもがメルトダウンしだし校内暴力、学力低下があいついでホームレスをリンチで殺したりいろいろ犯罪を犯した。バヴル経済でみんなが浮かれ、株価の意味もわからぬ主婦までもが「財テク」などと称して湯水のように金を遣った。アグリーに不良債権だけがふえた。

 ベルリンの壁崩壊、東西冷戦終結、ソ連崩壊、中東情勢が緊迫化して湾岸戦争が勃発、世界同時不況、株価下落……

 石原祐次郎、美空ひばり、田中角栄が、松下幸之助、井深大、本田宗一郎が死んだ。

 昭和天皇・裕仁は病に倒れた。

 多年の苦労と不摂生がわざわいした。病気は進み、喀血は度重なった。

 回復の望みはなかった。

 ……せめて世界が平和になるまで。

 世界平和の業が成るのをこの目でみたい。それが願いだった。

 肌はやつれ、痩せて、骨まで痛むようになった。

 ……沖縄にだけはいきたかった……

 昭和天皇は病の床にあった。

 一九八九年、一月九日、昭和天皇は死を迎える。

 彼が愛してやまなかった日本赤十字委員会の医師たちは「俺がかわってやりたい」と泣いた。

 昭和天皇の死は朝まで気付く者がいなかったという。

 一進一退の病魔が昭和天皇の躰を襲った。

 その夜、昭和天皇は目が覚めた。

 不思議と躰が軽い。

 ……もうおわりだから最後に軽くなったか。

 昭和天皇は気力をふりしぼってようやく起き上がり、負けじと気力を奮いたたせた。

 ……まだ死ぬ訳にはいかぬ。

 ……まだ世界平和をみてはおらぬ。みるまで死ねぬ。

 昭和天皇は不敵な笑みを浮かべた。壁をつたって歩いた。

 ……私はまだ…死……ね…ない。まだやることがある…

 ……まだせめてもう一度平和活動をさ…せてください…被害者への謝罪がまだです…

 窓を開けて夜空を見上げると満天の星空がみえた。

 走馬燈のように懐かしい顔が浮かんだ。

 大正天皇の顔。

 マッカーサーの顔。息子の顔。妻の顔。孫の顔。虐殺した無辜なアジアの民…

 その他の顔、顔……

 裕仁なくして、日本の平和はあり得なかったはずだ…この私が…まだ謝罪してません… 昭和天皇は喀血し、倒れた。そして、その血により溺れ死んだ。

 享年八十七歳……

 元号は『昭和』から『平成』にかわった。故・小渕恵三が『平成』の文字をかかげる。ベルリンの壁崩壊、ソ連崩壊、冷戦終結、同時多発テロ、学力低下、イラク戦争……

 時代は刻々と変わっていく。オゾン層の悪化で環境は破壊の一途を辿り、環境が悪化。 日本は深刻な不況にみまわれた。女性天皇も認められた。愛子ちゃんが天皇になる?

 04年には孫でもあった皇太子が「雅子のキャリアを否定するような発言があった…」と異例の会見をし、また高松宮喜久子(最後の将軍・慶喜の孫で昭和天皇の弟の妻)が十二            

月に他界した。また昭和天皇の孫娘にあたる清子は、05年黒田さんと結婚した。

 中国は世界の工場としてめざましい経済発展を遂げていく……

 イラクや中東、北朝鮮は『ベトナム化』していく、EU(欧州連合)拡大……

 新時代『令和』……東日本大震災、新型コロナウイルス不況、通り魔……

日本の改革も往々として進まない。子供がひとを殺し、自殺率も失業率も高くなる…

 世界大恐慌で何百万人もの失業者が路頭に彷徨う…。平成(今上)天皇はよむ。           

……〝戦なき 世を歩みきて 思い出づ かの難き日を 出きし人々〝……

 太平洋戦争敗戦から七十年以上が過ぎた。すべてが終わった訳ではない。

 しかし、昭和天皇はどんな悪人だったのだろう? どんな善人だったのだろう?

 我々日本人にひとつに疑問をなげかけた。




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