第三話 樺太戦
四國五郎は、1924年(大正13年)5月11日に、広島県三原市大和町椋梨(むくなし)に誕生した。五人兄弟の三男。
一番と仲のいい兄弟に、五歳年下の弟・直登(なおと)……
五郎は絵が得意で、幼い頃から絵を描いていた。
直登も、絵が好きで、兄弟で絵を描いていた。直登にとって、五郎は尊敬できる兄貴だったという。
日本国の軍国主義が強く猛烈になる頃。
五郎さんが十四歳の頃、小学生から絵が得意だった五郎さんは、絵が県大会で入賞し、広島一の絵のうまさと称えられた。広島一の腕前であった。
五郎は東京の芸術大学で学び、画家になるのが夢であった。
だが、時代がそれを許さない。
大学生の、1944年(昭和十九年)、20歳で招集された。学徒出陣であった。
当然というか、近所では〝出征パレード〝というか、ミカン箱に立って、垂れ幕に、四國五郎の名前と、万歳三唱と、弾よけとお守りの千人針の布というものがあった。
「四國五郎君の、ご出征と、戦勝を祈願して、万歳三唱―つ!」
「バンザーイ! バンザーイ! バンザーイ!」
近所のひとたちが万歳三唱する。五郎は頭を下げ続ける。
千人針のお守りの布が渡される。
その場にいた最愛の弟の直登とは、「戦争がおわったら、一緒に広島の絵を描いてまわろう。実家にはお前しかおとこがおらんのじゃけえ、きばれよ! 母上を頼むでえ」
「おう! 兄貴、まかせろ!」
そういって、兄と弟は別れた。
五郎の父親や兄貴はすでに戦死だった。
四國五郎の出征地は満州国だった。
満州とは中国東北部の帝国日本軍の傀儡国家であった。
戦争も末期となると、日本の制空権はほとんどなくなり、サイパンも陥落、ダガルカナル戦争も敗北、ミッドウェー海戦にも大敗北、フィリピンもレイテ海戦で大敗北の末、陥落し、台湾、朝鮮半島も陥落寸前、支那(中国)との戦線も泥沼化していた。
もう、日本本土が空襲され、自暴自棄の〝神風特攻〝だけが戦略……という情けない戦況であった。四國五郎は満州からも弟宛に、〝絵はがき〝を送って居ていた。
「戦争がおわったら広島の絵を一緒に描いて廻る」それだけが希望だった。
だが、四國五郎は実は〝特攻〝で死ぬはずであった。
上官命令で、爆弾を抱えたまま、ソ連か中国の戦車に飛び込み、〝神風特攻〝で、爆死するはずだったのである。
だが、その前に、戦争がおわった。
帝国日本が、広島・長崎に原爆を落とされ、ポツダム宣言を受諾して、白旗を上げたのである。五郎は、広島・長崎の新型爆弾のことは知らず、昭和天皇の玉音放送も、ラジオで聴けなかったが、飛行機から蒔かれる日本国の敗戦を伝える〝宣伝ビラ〝を拾い、見て、
「戦争に……負けたのかあ」と肩を落とした。
だが、彼らは〝大陸〝にいる。
そんな彼らを、日ソ不可侵条約を破って、北から侵攻してきたソ連軍が、彼らを捕虜にした。ソ連軍は彼ら、元・日本軍兵士たちに武装放棄をさせ、銃などの兵器を道に捨てさせ、山となる兵器や食糧などや金品を略奪した。
ソ連軍は銃を武器に、元・日本軍兵士達を列に並ばせ、捕虜とした。
いわゆるここから〝シベリア抑留〝の悲劇が生まれる訳だが、〝シベリア抑留〝の被害にあった元・日本軍兵士は六十万人もいたという。(漫画『凍りの掌』参照)
ソ連軍のロシア兵たちは銃剣で脅しながら、元・日本兵たちを歩かせる。
「Возвращение домой・ダモイ!Возвращение домой・ダモイ!」
「ん?」元・日本兵たちはロシア語などわかるはずもない。「露助(ろすけ)たちは何ゆとるん?」「日本語で話せ!」「んだんだ」「せや、せや!」
「Возвращение домой・ダモイ!Возвращение домой・ダモイ!」
ある日本兵がロシア語が少しだけわかった。
「Возвращение домой・ダモイ!〝帰国〝です!〝帰国〝させてやるっていってるんですよ!!」
それが、四國五郎の戦友で、シベリア抑留時代に共に絵を描いて励まし合った栗崎英男さんであった。まだ若い日本兵だった。
「ホンマでっか? やったー! 日本に帰れるぞー!」
元・日本兵たちはその嘘を信じて、列をつくって歩きに歩いた。
港に、ソ連の船があった。〝乗れ〝、という。
「ソ連の船……? ソ連船で日本に帰るの?」
皆、不思議な顔をするが、乗るしか選択肢はない。銃剣でこづかれる。
だが、それが罠だった。
ソ連船は出航してすぐに港に着いたようだった。
「あれ? もう、日本?」
「いくらなんでも早すぎないけ?」
「そやなあ」「んだ、んだ、早すぎるずう」
そこは酷寒のシベリアの港だった。
猛吹雪(ブリザード)の中、日本兵たちは捕虜・奴隷として、収容所まで歩かされる。
「……寒い。寒い」
「寒くて……死ぬ。死ぬ」
「止まるな! 死ぬぞー! 目をつぶるな! 寝たら死ぬぞー!」
彼らは収容所に入れられたが、捕虜というより奴隷である。
僅かな食糧(一日、朝・晩の二食だけ。雑穀の混じったまずい黒パン一枚と、雑穀の混じったまずいスープ一杯)だけで、まさに奴隷として働かされた。
氷点下三十度、四十度……シベリア地方の開拓のために、極寒の中、樹を伐採したり、〝露天掘り〝といって、雪の積もる地面をツルハシで掘らされ、地中の石炭を掘らされた。
「Копай здесь!・カポーイ!Ты понимаешь? !!・ゴンマイ?(ここを掘れ! わかったか)」
氷点下四十度ならさすがに中止となったというが、氷点下三十度以上なら強制労働をさせられたという。もちろん、極寒だから手や足が凍傷で駄目になり、切断することになる元・日本兵士たちも続出……捕虜というより奴隷だから、収容所が冷暖房完備でぬくぬくな訳もなく、収容所の部屋にストーブはあるが、オマケ程度の小ささで、朝になると、凍死している元・日本兵も、続出した。
「今日は佐藤と鈴木伍長と、沼田くんが死んだか」
死んだ日本人は服や貴重品をすべて剥がれ、丸裸のまま棺に入れられた。
だが、棺も貴重品だから、簡素な葬儀のときに遺体を入れるが、墓に入れる前には棺から遺体は出され、墓……といっても凍った大地に掘った穴に入れられ、埋めただけ……。墓表は木の枝………シベリアの大地の日本人の墓や遺骨が見つからない訳である。
四國五郎と戦友で、絵の仲間の栗崎英男さんらは、励まし合って、なんとか死を回避するのがやっとだった。戦友の死を経験する度に、四國五郎は怒りで、泣きながら、飯盒(はんごう)に釘で〝戦友達の名前〝を堀った。
もちろん、シベリア抑留から解放されて、日本に引き揚げるときに、そういう情報を持ち帰ること自体が〝スパイ行為〝と罰せられる可能性もあった。
だから、五郎さんは飯盒の掘った名前を隠すために、黒いペンキで、塗りつぶしたという。
シベリア抑留からの解放者で、こうした例は四國五郎さんが最初で最後、である。
「栗崎さん! 俺は悔しい! これじゃあ、ソ連の露助たちの奴隷じゃあ!」
「四國くん! 辛抱じゃけえのう! きっといつか日本に帰るんじゃ。帰るんじゃ!」
「……お母さんの日本の天麩羅食いてえ」
「おれは……正月のお汁粉と卵の甘いやつじゃあ」
「……故郷の広島に戻ったら、弟・直登と広島の街の絵を、死ぬほど描いて廻るんじゃい。死ねんがじゃあ」
まさに、地獄の経験の日本人達であった。
やがて、三年間のシベリア抑留から解放される日が来た。
すると、またロシア人(ソ連兵・露助)たちが、
「Возвращение домой・ダモイ! Возвращение домой・ダモイ!」という。
四國五郎さんや栗崎英男さんら数十名はシベリア鉄道の貨物車両に乗せられた。
だが、「どうせまた嘘だろうなあ。もっと北の収容所へ……か?」
一同は無力感に包まれていた。
どうせ、また収容所で強制奴隷労働じゃあ。騙されるものか!
「おい!」しばらくして、日本人のひとりが声をあげた。
「……ん?」
「やっぱり、また北の収容所行き、か?」
「いや、違う!」日本人は貨物車両の隙間から外の風景を見た。「…見ろ! 海じゃあ! 日本海じゃあ!」
「なに?」
「ほんとじゃあ! 海、日本海じゃあ! アムール川(黒龍江)じゃない! 日本海じゃあ!」
「本当に祖国・日本に帰れるのか」
「かあちゃーん! とおちゃーん!」
今度のダモイ(帰国)は本当であった。
引き揚げ船は日本の元・駆逐艦だ。兵器はすべて取り外されている。
甲板から外を見た。港で、ロシア人たちが手を振っている。
「露助のバカヤロー! かあちゃーん! とおちゃーん!」
「氷の大地に眠る戦友たちよ、さようならー!」
「バカヤロー! バカヤロー! 成仏せいよー!」
「ロシアのバカヤロー! ソ連のバカヤロー!」
大声が出る。こうして、四國五郎は三年間のシベリア抑留から解放され、故郷に引き揚げた。京都の舞鶴港で、引き揚げ船を下りた。
しばらくぶりの日本、祖国日本国で、あった。(シベリア抑留者は60万人とされてきたが、近々の研究では抑留者200万人。うち死者40万人であるという)
話を戻す。
「それにしても驚きました。知里幸恵さんは本当の天才ですね」
大正時代に、かつて蝦夷と呼ばれた北海道に渡り、アイヌ民族の研究をしていた言語学者の金田一京助は破顔した。
知里幸恵は大正十一年(1922)生まれのアイヌ民族で、文字を持たぬアイヌ民族の本を上奏し、十九歳の若さで、心臓病で夭折した。アイヌ語と日本語のバイリンガルであり、その当時、アイヌ民族は和人によって狩猟権利や漁猟権利を取り上げられて、〝座して死ヲ待つ〟状態まで追いやられていた。
北海道を占領した日本人はアイヌ民族を駆逐した。いわゆる民族撲滅である。
アイヌは駆逐され、差別と偏見に苦しめられてもいた。今、現在もアイヌ民族を絡めた漫画やアニメ『ゴールデンカムイ』が人気で、アイヌ民族に注目が浴びせられている。
だが、それも下火になると、またアイヌは忘れられていく。琉球も同じようなものだ。
結局、世間でのアイヌブームも琉球ブームも、〝コンテンツ〟なだけである。
今、『ゴールデンカムイ』や『鬼滅の刃』がブームだが、ブームがおわれば閑古鳥が鳴く。NHKの大河ドラマで放送されているうちはいいが、放送が終わればその主人公は〝オワコン(終わったコンテンツ)〟になる。それと同じ事である。
「カント オロワ ヤク サク ノ アランケプ シネプ カ イサム」
知里幸恵さんは嘯く。『天から役目なしに降ろされた物はひとつもない』という意味のアイヌ語であった。ちなみに、アイヌ語は『アイヌイタク』という。
アイヌが住む国、まあ、蝦夷・北海道・樺太(サハリン)・クリル(千島)諸島な訳だ。が、これは『アイヌモシリ』(人間の国、人間の大地)である。熊は『キムンカムイ』といい、カムイとは神のこと。
歌謡曲でも有名な『イオマンテ』とは、霊送り、であり、アイヌ民族の儀式で多く執り行われた。その時に、『リムセ・ホリッパ』という踊りを舞う。
『ゴールデンカムイ』では、主人公のひとりのアシリパというアイヌ民族のヒロイン少女が、狩猟や食事シーンで活躍する。が、生き物を捌いて、生肉や脳味噌を食べるのは寄生虫や食中毒の危険が高いので絶対に真似しないで欲しい(どうやって(笑)?)。
とにかく、一過性のブームとはいえ、アイヌブームはいいことだ。
漫画やアニメという映像だからこそ、説得力や影響力がある。それをここで文字だけの小説などで書いても、到底、敵わない。だが、それでも書く。
〝滅び〟の道をひた走るアイヌ民族に注目が注がれることは意義のあることだ。
『ゴールデンカムイ』がヒットしたからと、同じような物語を書く気は毛頭ない。
さりとて、滅びていい文化などない。
支配されるべき民族などはいない。アイヌ民族もまた滅びの呪いから解放されるべきだ。
こういってこの節をおわりとしたい。
4 中国へ
スイス人医師、マルセル・ジュノー博士は海路中国に入った。
国際赤十字委員会(ICRC)の要請によるものだった。
当時の中国は日本の侵略地であり、七〇万人もの日本軍人が大陸にいたという。中国国民党と共産党が合体して対日本軍戦争を繰り広げていた。
当時の日本の状況を見れば、原爆など落とさなくても日本は敗れていたことがわかる。日本の都市部はBー29爆撃機による空襲で焼け野原となり、国民も戦争に嫌気がさしていた。しかも、エネルギー不足、鉄不足で、食料難でもあり、みんな空腹だった。
米国軍の圧倒的物量におされて、軍艦も飛行機も撃沈され、やぶれかぶれで「神風特攻隊」などと称して、日本軍部は若者たちに米国艦隊へ自爆突撃させる有様であった。
大陸の七〇万人もの日本軍人も補給さえ受けられず、そのため食料などを現地で強奪し、虐殺、強姦、暴力、侵略……
ひどい状態だった。
武器、弾薬も底をついてきた。
もちろん一部の狂信的軍人は〝竹やり〝ででも戦っただろうが、それは象に戦いを挑む蟻に等しい。日本はもう負けていたのだ。
なのになぜ、米国が原爆を日本に二発も落としたのか?
それはけして、
……米国軍人の命を戦争から守るために。
……戦争を早くおわらせるために。
といった米国人の詭弁ではない。
つまるところ原爆の「人体実験」がしたかったのだ。
ならなぜドイツには原爆をおとさなかったのか?
それはドイツ人が白人だからである。
なんだかんだといっても有色人種など、どうなろうともかまわない。アメリカさえよければそれでいいのだ。それがワシントンのポリシー・メーカーが本音の部分で考えていることなのだ。
だが、日本も日本だ。
敗戦濃厚なのに「白旗」も上げず、本土決戦、一億日本民族総玉砕、などと泥沼にひきずりこもうとする。当時の天皇も天皇だ。
もう負けは見えていたのだから、
……朕は日本国の敗戦を認め、白旗をあげ、連合国に降伏する。
とでもいえば、せめて原爆の洗礼は避けられた。
しかし、現人神に奉りあげられていた当時の天皇(昭和天皇)は人間的なことをいうことは禁じられていた。結局のところ天皇など「帽子飾り」に過ぎないのだが、また天皇はあらゆる時代に利用されるだけ利用された。
信長は天皇を安土城に連れてきて、天下を意のままに操ろうとした。戊辰戦争、つまり明治維新のときは薩摩長州藩が天皇を担ぎ、錦の御旗をかかげて官軍として幕府をやぶった。そして、太平洋戦争でも軍部は天皇をトップとして担ぎ(何の決定権もなかったが)、大東亜戦争などと称して中国や朝鮮、東南アジアを侵略し、暴挙を繰り広げた。
日本人にとっては驚きのことであろうが、かの昭和天皇(裕仁)は外国ではムッソリーニ(イタリア独裁者)、ヒトラー(ナチス・ドイツ独裁者)と並ぶ悪人なのだ。
只、天皇も不幸で、軍部によるパペット(操り人形)にしか過ぎなかった。
それなのに「極悪人」とされるのは、本人にとっては遺憾であろう。
その頃、日本人は馬鹿げた「大本営放送」をきいて、提灯行列をくりひろげていただけだ。
また、日本人の子供は学童疎開で、田舎に暮らしていたが、そこにも軍部のマインド・コントロールが続けられていた。食料難で食べるものもほとんどなかったため、当時の子供たちはみなガリガリに痩せていたという。
そこに軍部のマインド・コントロールである。
小学校(当時、国民学校といった)でも、退役軍人らが教弁をとり、長々と朝礼で訓辞したが、内容は、
……わが大和民族は世界一の尚武の民であり、わが軍人は忠勇無双である。
……よって、帝国陸海軍は無敵不敗であり、わが一個師団はよく米英の三個師団に対抗し得る。
といった調子のものであったという。
日本軍の一個師団はよく米英の三個師団に対抗できるという話は何を根拠にしているのかわからないが、当時の日本人は勝利を信じていた。
第一次大戦も、日清戦争も日露戦争も勝った。
日本は負け知らずの国、日本人は尚武の民である。
そういう幼稚な精神で戦争をしていた。
しかし、現実は違った。
日本人は尚武の民ではなかった。アメリカの物量に完敗し、米英より戦力が優っていた戦局でも、日本軍は何度もやぶれた。
そして、ヒステリーが重なって、虐殺、強姦行為である。
あげくの果てに、六十年後には「侵略なんてなかった」「慰安婦なんていなかった」「731部隊なんてなかった」
などと妄言を吐く。
信じられない幼稚なメンタリティーだ。
このような幼稚な精神性を抱いているから、日本人はいつまでたっても世界に通用しないのだ。それが今の日本の現実なのである。
一九四五年六月………
マルセル・ジュノーは野戦病院で大勢の怪我人の治療にあたっていた。
怪我人は中国人が多かったが、中には日本人もいた。
あたりは戦争で銃弾が飛び交っており、危険な場所だった。
やぶれかぶれの日本軍人は、野蛮な行為を繰り返す。
ある日、日本軍が民間の中国人を銃殺しようとした。
「やめるんだ!」
ジュノーは、彼らの銃口の前に立ち塞がり、止めたという。
日本軍人たちは呆気にとられ、「なんだこの外人は?」といった。
……とにかく、罪のないひとが何の意味もなく殺されるのだけは願い下げだ!
マルセル・ジュノー博士の戦いは続いた。
戦がひとやすみしたところで、激しい雨が降ってきた。
日本軍の不幸はつづく。
暴風雨で、艦隊が坐礁し、米英軍に奪われたのだ。
「どういうことだ?!」
山本五十六は焦りを感じながら叱った。
回天丸艦長・森本は、
「……もうし訳ござりません!」と頭をさげた。
「おぬしのしたことは大罪だ!」
山本は激しい怒りを感じていた。大和を失っただけでなく、回天丸、武蔵まで失うとは………なんたることだ!
「どういうことなんだ?! 森本!」とせめた。
森本は下を向き、
「坐礁してもう駄目だと思って……全員避難を……」と呟くようにいった。
「馬鹿野郎!」五十六の部下は森本を殴った。
「坐礁したって、波がたってくれば浮かんだかも知れないじゃないか! 現に米軍が艦隊を奪取しているではないか! 馬鹿たれ!」
森本は起き上がり、ヤケになった。
「……負けたんですよ」
「何っ?!」
森本は狂ったように「負けです。……神風です! 神風! 神風! 神風!」と踊った。 岸信介も山本五十六も呆気にとられた。
五十六は茫然ともなり、眉間に皺をよせて考えこんだ。
いろいろ考えたが、あまり明るい未来は見えてはこなかった。
大本営で、夜を迎えた。
米軍の攻撃は中断している。
日本軍人たちは辞世の句を書いていた。
……もう負けたのだ。日本軍部のあいだには敗北の雰囲気が満ちていた。
「鈴木くん出来たかね?」
「できました」
「どれ?」
中国の野戦病院の分院を日本軍が襲撃した。
「やめて~っ!」
看護婦や医者がとめたが、日本軍たちは怪我人らを虐殺した。この〝分院での虐殺〝は日本軍の汚点となる。
ジュノーの野戦病院にも日本軍は襲撃してきた。
マルセル・ジュノーは汚れた白衣のまま、日本軍に嘆願した。
「武士の情けです! みんな病人です! 助けてください!」
日本の山下は「まさか……おんしはあの有名なジュノー先生でごわすか?」と問うた。「そうだ! 医者に敵も味方もない。ここには日本人の病人もいる」
関東軍隊長・山下喜次郎は、
「……その通りです」と感心した。
そして、紙と筆をもて!、と部下に命じた。
………日本人病院
紙に黒々と書く。
「これを玄関に張れば……日本軍も襲撃してこん」
山下喜次郎は笑顔をみせた。
「………かたじけない」
マルセル・ジュノーは頭をさげた。
昭和二十年(一九四五)六月十九日、関東軍陣に着弾……
山下喜次郎らが爆撃の被害を受けた。
ジュノーは白衣のまま、駆けつけてきた。
「………俺はもうだめだ」
山下は血だらけ床に横たわっている。
「それは医者が決めるんだ!」
「……医療の夢捨…てんな…よ」
山下は死んだ。
野戦病院で、マルセル・ジュノー博士と日本軍の黒田は会談していた。
「もはや勝負はつき申した。蒋介石総統は共順とばいうとるがでごわそ?」
「……そうです」
「ならば」
黒田は続けた。「是非、蒋介石総統におとりつぎを…」
「わかりました」
「あれだけの人物を殺したらいかんど!」
ジュノーは頷いた。
六月十五日、北京で蒋介石総統と日本軍の黒田は会談をもった。
「共順など……いまさら」
蒋介石は愚痴った。
「涙をのんで共順を」黒田はせまる。「……大陸を枕に討ち死にしたいと俺はおもっている。総統、脅威は日本軍ではなく共産党の毛沢東でしょう?」
蒋介石はにえきらない。危機感をもった黒田は土下座して嘆願した。
「どうぞ! 涙をのんで共順を!」
蒋介石は動揺した。
それから蒋介石は黒田に「少年兵たちを逃がしてほしい」と頼んだ。
「わかりもうした」
黒田は起き上がり、頭を下げた。
そして彼は、分厚い本を渡した。
「……これはなんです?」
「海陸全書の写しです。俺のところに置いていたら灰になる」
黒田は笑顔を無理につくった。
蒋介石は黒田参謀から手渡された本を読み、
「みごとじゃ! 殺すには惜しい!」と感嘆の声をあげた。
少年兵や怪我人を逃がし見送る黒田……
黒田はそれまで攻撃を中止してくれた総統に頭を下げ、礼した。
そして、戦争がまた開始される。
旅順も陥落。
残るはハルビンと上海だけになった。 上海に籠城する日本軍たちに中国軍からさしいれがあった。
明日の早朝まで攻撃を中止するという。
もう夜だった。
「さしいれ?」星はきいた。
まぐろ
「鮪と酒だそうです」人足はいった。
荷車で上海の拠点内に運ばれる。
「……酒に毒でもはいってるんじゃねぇか?」星はいう。
「なら俺が毒味してやろう」
沢は酒樽の蓋を割って、ひしゃくで酒を呑んだ。
一同は見守る。
沢は「これは毒じゃ。誰も呑むな。毒じゃ毒!」と笑顔でまた酒を呑んだ。
一同から笑いがこぼれた。
大陸関東日本陸軍たちの最後の宴がはじまった。
黒田参謀は少年兵を脱出させるとき、こういった。
「皆はまだ若い。本当の戦いはこれからはじまるのだ。大陸の戦いが何であったのか……それを後世に伝えてくれ」
少年兵たちは涙で目を真っ赤にして崩れ落ちたという。
日本軍たちは中国で、朝鮮で、東南アジアで暴挙を繰り返した。
蘇州陥落のときも、日本軍兵士たちは妊婦と若い娘を輪姦した。そのときその女性たちは死ななかったという。それがまた不幸をよぶ。その女性たちはトラウマをせおって精神疾患におちいった。このようなケースは数えきれないという。
しかし、全部が公表されている訳ではない。なぜかというと言いたくないからだという。中国人の道徳からいって、輪姦されるというのは恥ずかしいことである。だから、輪姦さ
れて辱しめを受けても絶対に言わない。
かりに声をあげても、日本政府は賠償もしない。現在でも「慰安婦などいなかったのだ」などという馬鹿が、マンガで無知な日本の若者を洗脳している。
ジュノー博士は衝撃的な場面にもでくわした。
光景は悲惨のひとことに尽きた。
死体だらけだったからだ。
しかも、それらは中国軍人ではなく民間人であった。
血だらけで脳みそがでてたり、腸がはみ出したりというのが大部分だった。
「……なんとひどいことを…」
ジュノーは衝撃で、全身の血管の中を感情が、怒りの感情が走りぬけた。敵であれば民間人でも殺すのか……? 日本軍もナチスもとんでもない連中だ!
日本軍人は中国人らを射殺していく。
虐殺、殺戮、強姦、暴力…………
日本軍人は狂ったように殺戮をやめない。
だが、そんなメンタリティーでは駄目なのだ。
鎖国してもいいならそれでもいいだろうが、日本のような貿易立国は常に世界とフルコミットメントしなければならない。
日中国交樹立の際、確かに中国の周恩来首相(当時)は「過去のことは水に流しましょう」といった。しかし、それは国家間でのことであり、個人のことではない。
間違った閉鎖的な思考では、世界とフルコミットメントできない。
それを現在の日本人は知るべきなのだ。
民間の中国人たちの死体が山のように積まれ、ガソリンがかけられ燃やされた。紅蓮の炎と異臭が辺りをつつむ。ジュノー博士はそれを見て涙を流した。
日本兵のひとりがハンカチで鼻を覆いながら、拳銃を死体に何発か発砲した。
「支那人め! 死ぬ!」
ジュノーは日本語があまりわからず、何をいっているのかわからなかった。
しかし、相手は老若男女の惨殺死体である。
「……なんということを…」
ジュノーは号泣し、崩れるのだった。
5 日本軍の虐殺
ユダヤ人たちを乗せた貨物列車が、アウシュビィッツ強制収容所に到着した。もはや、名簿係も名札もなにも必要ではない。ユダヤ人女性は髪をきられ、女や男にわけられて、ガス室へ入れられるのである。
シュウウウゥ…っ、とガス室に猛毒ガスが広がるのと同時に、きゃあぁ…つ!という悲鳴が響き渡る。そして、それから間もなく、バタバタと毒ガスによってユダヤ人たちは床にドサリと倒れていった。
そして、数分後には、死体の山があるだけとなる……。
ー虐殺者の数、実に六百万人、……おそるべき数字で、ある。……
アンネ・フランクの日記……
〝だれよりも親愛なるキティーへ、
「本日はDデーなり」きょう十二時、このような声明がイギリスのラジオを通じて出されました。まちがいありません、まさしく、きょうこそはその日、です。いよいよ上陸作戦が始まったのです!
イギリスはけさ八時に以下のようなニュースを流しました。カレー、ブローニュ、ルアーヴル、シェルプール、そして(例によって)パドカレー一帯に、空からの猛烈な攻撃がくわえられた。さらに爆撃地帯に住むひとびとの安全のため、爆撃避難を…と英軍はビラをまくであろう。
十二時、アメリカのアイゼンハウワー将軍が、「本日はDデーなり」の声明を読み上げました。「フランスの国民には犠牲がともなうかも知れないが、われわれは必ずや上陸してナチスを追い出す。そのために後ほんのしばらく我慢していてほしい」そのあと、ベルギーの首相、オランダの国王、イギリスの国王、フランスのドゴール将軍のあと、ついにイギリスのチャーチル首相の演説……。
隠れ家は興奮のるつぼです。まちにまった解放があるのでしょうか?とにかく、希望です。希望がもてます!
ちなみに、チャーチルはDデーには、自分も軍隊の先頭にたって出陣したい、といい、フランスの将軍やアメリカの大統領にとめられたそうです。なんと豪気な老人でしょう。もう、七十歳以上いっているというのに。でも、希望がみえてきました!〝
「わたしは今、希望をもって十五才の誕生日をむかえることができました。今年こそは皆さんをわたしの家へ招待したいと思います」
アンネ・フランクは、隠れ家の誕生日会において、そんな風に明るくスピーチをした。 一同から拍手がおこる。デュッセルさんは、立派な作品が書けるようにと万年筆をプレゼントした。ファン・ダーン一家はブローチを、パパとママは下着だった。マルゴーは、大事にしていたペンダントをアンネにプレゼントした。大事な大事な宝物を…。
〝キティー、
15才の誕生日に、みんなから素敵なプレゼントを頂きました。でも、一番の宝物は、人間って素晴らしい、生きてるってことは素晴らしい、って知ったことです。〝
〝「心の奥底では、若者はつねに老人よりも孤独である」なにかの本でこの格言を知ってから、わたしはずっとこれを忘れられずにきましたし、これが真理だということを確信しました。この生活の中で、わたしとたちより大人たちのほうが苦しんでいるのでしょうか?いいえ。そんなことはありません。大人たちはすでに確固とした自分というものをつくりあげていて、それに従って生活できるからです。それにくらべて私たち若者は、現在のように、あらゆる理想が打ち砕かれ、踏み躙られ、人間が最悪の面をさらけだし、真実や正義や神などを信じているかどうか迷っている時代において、自己の立場を固守し、見解をつらぬきとおすということは二倍も困難なことなのです。
わたしたちは、この世界が破壊され序序に崩壊していくのを目の当たりにみています。しかし、希望がないわけではありません。もうすぐ、こんな戦争も終り、平和がやってくる……といいと思います。〝
〝親愛なるキティーへ、
やっとほんとうの希望が湧いてきました。ついにすべてが好調に転じたという感じ。えぇそう、本当に好調なんです! すばらしいニュース!ヒトラー暗殺が計画されました。しかも今度は、ユダヤ人共産主義者がたくらんだものでも、イギリスの資本主義者がたくらんだものでもありません。純血のドイツ人の将軍、おまけに伯爵で、まだかなり若いひとだそうです。〝神の摂理〝か、総統の命に別状はなく、あいにく被害は軽いかすり傷と火傷だけですみました。同席していた数人の将軍、将校らのなかに死傷者が出、計画の首謀者は射殺されたとのことです。
いずれにせよ、この事件は、ドイツ側にもいまや戦争に飽き飽きして、ヒトラーを権力の座からひきずり降ろそうと思っている将軍や軍人が大勢いることを、物語っています。このようにして、ドイツ人同志が殺しあってくれれば、連合軍にとって都合がいいのです。 あぁ、はやく、ヒトラーがこの世からいなくなればいいのに…。〝
〝前にもいったように、わたしは何事につけ、けっして本当の気持ちを口には出しません。そのおかげで、男の子ばかり追いかけてるお転婆娘とか、浮気っぽいとか、知ったかぶり、とか、安っぽい恋愛小説の愛読者だとか、いろいろ汚名をこうむってきました。活発なほうのアンネはそんなことは笑いとばし、へっちゃらって顔をします。が、おとなしいほうのアンネは、まったく正反対の反応を示します。正直な話、ショックで泣きたくもなります。努力しても、汚名は消えません。
胸のうちですすり泣く声がきこえます。
いい面を外側に、悪い面を内側にもっていきたい。それができるはずなんです。きっとなれるはずなんです。もしも…この世に生きているのがわたしひとりであったならば。〝 (アンネの日記はここで終わっている。)
『隠れ家』の一向は、食事中に、解放後の夢について語っていた。まず、ファン・ダーンが口火を切った。
「私は、解放されたら、タバコをプーカプカとやりたいものですな。ペーター、お前は?」 ペーターは少し考えてから、「僕?」といい、続けて「僕は…いろんな場所にいってみたい」と答えた。
ファン・ダーンのおばさんは、「いいわね。わたしはオペラをみにいきたいわ。マルゴーあなたは?」といい、マルゴーにせかすように尋ねた。
「私?……私もいろんなところへ行ってみたいわ。そして公園の芝生で寝転がるの」
「私はひとりっきりになりたいわ」
「おいおい、エーディット。私のことを忘れんでくれよ」
オットーは冗談めかしに言った。そして、
「アンネ、お前は?」
と、愛娘にきいた。
「私は学校にいきたい。そして、皆と一緒に勉強がしたい!」
アンネは純粋な瞳のままでいった。
「ほおーっ、そりゃあすごい答えだ。マルゴー的答えだね」
冗談が飛び、一同は大笑いしていた。
一九四十四年八月四日。
マルゴーとデュッセルは本を読んでいた。もうすぐ昼なので、ファン・ダーンのおばさんは食事を作っているところだった。ファン・ダーンはテーブルのイスに座って、新聞を読んでいるオットーに、
「なにかかわった記事はありますか?」
と、きいた。が、別になにもないので「いえ、別に」とだけオットーは答えていた。
ペーターの部屋では、ペーターとアンネが楽しそうにおしゃべりしていた。しかし、そんな平凡な時間もやぶられようとしていた。
「ミープたち、遅いわね」
シチューをつくりながら、ファン・ダーンのおばさんが呟いたとき、ウーウ、というサイレンの音が響いて、すぐ前で止まった。
午前十時半のあたりに、プリンセンフラハト二六三番地に建つ家の前に、一台の車が停った。ツカツカと制服姿のナチス親衛隊幹部カール・ヨーゼフ・ジルバーベルクと、私服で武器を携行した、ドイツ秘密警察(グリユーネ・ポリツアイ)所属の、数名のオランダ人が車から下り立った。『隠れ家』にひそむユダヤ人について、誰かが密告したのは明らかだった。
秘密の扉をぶちあけて、ナチスの手先達が銃をかまえて『隠れ家』に入ってきた。そして、その後、私服の男がツカツカ歩いてきて、
「五分でしたくしろ」
と、低い声で命令した。
「あぁ……神さま」
一同は愕然とするしかなかった。ーもう、すべての終りだ…。ー
グリューネ・ポリツアイは、八人のユダヤ人の他、潜伏生活を助けたクレーフルとクレイマンを連行しーミープは逮捕をまぬがれたーさらに『隠れ家』に置かれていた現金などをすべて押収(着服)した。
「なにっ?!原爆は完成しない……研究が大幅におくれているだと?!」
SSの高官は電話を切って、テーブルを強くたたいた。なんてこった、ドイツの存亡がかかっているというのに!
ペーミンデの事務所で、高官の男はふりかえってから、つったっているウォルナー・フォン・ブラウン博士に、「すまない博士、原爆は間に合いそうにない」
と、残念そうに告げた。
「そうですか」
フォン・ブラウンは冷静に答えた。しかし、心の中では安堵の溜め息をついていた。ーよかった。…原爆などをV2号につんで飛ばしたら、それこそ世界中が火の海だ…。
そう考えていた次の瞬間、
V2号ロケットが爆発した。ー事故?いや、違った。連合軍が基地をかぎつけて、大編隊を送りこみ、大空襲を開始したのだ!
次々と〝ドイツ存亡の星〝〝期待のロケット〝が爆発していき、そして炎に包まれていった。…結局、ドイツ最後の秘密兵器V2もまた戦局を大きくかえることはできなかったのである。もはや、ドイツは敗色一色に染まっていた。
「ヒムラー長官、収容所のユダヤ人たちはいかがしましょう?」
廃墟の中を歩いていた軍服のヒムラーに、SS上官が尋ねた。ヒムラーは冷静な顔をくずすことなく、
「全員、殺してしまえ」
と平然と命令していた。
ソヴィエト赤軍のベルリン総攻撃が始まった。
五十六歳の誕生日を、アドルフ・ヒトラーは地下壕の中で迎えた。形式的な祝賀に連なった要人、軍首脳は、ヒトラーにベルリン脱出を勧めたが、ヒトラーは同意しなかった。ヒトラーはベルリンにとどまり、帝国を死守するといったという。そして、二十九日、ヒトラーは愛人のエバァ・ブラウンと地下壕の中で結婚式を挙げ、それからピストルによってふたりは自殺した。ガソリンをかけて焼き尽くす間、ゲッベルスらは右手をあげて敬礼していた。夜、ゲッベルスは妻と子供とともに自殺。遺体は、ヒトラー夫妻ほど念入りに焼却されることなく、その黒こげのまま放置された。誰も、マイケルでさえも、それ以上かかわっている余裕はなかった。
ナチス・ドイツは降伏した。
こうして、アンネたちが連れていかれてから、約九ケ月で戦争が終わった。オットーだけは生き残ったが、他のひとたちは生き残ることができなかった。
ファン・ダーン 1944年秋 アウシュビィッツ収容所のガス室にて死亡
夫人 ペトロネラ 1945年春 テレージュンシュタット収容所にて死亡
長男 ペーター 1945年5月 マウトハウゼン収容所にて死亡
デュッセル 1944年12月 ノイエンガメ収容所にて死亡
オットー・フランク 1945年 アウシュビィッツ収容所から解放 1980年 没
夫人 エーディット 1945年1月6日 アウシュビィッツ収容所にて死亡
長女 マルゴー 1945年2月ころ ベルゼン(ベルゲン)収容所にて死亡
アンネ・フランク 1945年3月 ベルゼン(ベルゲン)収容所にて死亡
ジュノーの努力もむなしく、日本軍によるアジアでの侵略、野蛮行為はやまなかった。日本人はいつも第二次世界戦争というとナチスやヒトラーの虐殺のことばかり考える。
まるで映画『シンドラーのリスト』のような光景だ。
しかし、過去の日本人だって、ナチスの虐殺と同じようなことをしていたのだ。
中国人被害者はいう。
「殺された何百人の人のうち若い女性はひとりだけでした。妊婦でしたが、強姦され、腹を切られて胎児が飛び出したまま死んでいました。すざまじい状態でした。
その占領の当時、強姦され殺された女性もいましたが、強姦されても言わない人もいます。わたしが知るかぎり、親切な日本人はひとりもいませんでした。
過酷な労働を強いて、賃金ひとつ払わない。母は精神に異常をきたして廃人のようになって死にましたが、それは日本軍によって父を殺されたからでした。
私たちは只の田舎の農民でした。しかし、日本軍人がわれわれの家庭をめちゃくちゃにしたのです。
日本人を恨んでないといったら嘘になります。もちろん十一歳のときに感じた恨みと今の恨みは違います。日本人全部が悪かったとは今思ってません。悪かったのはひとにぎりの軍国主義者です」
「日本軍たちは村の家を焼き払った。
父や母もころされた。母は輪姦され、殺されたのです。
私が思うに、ここにきて日本人が事実を無視するとか、認める認めないの問題じゃないんです。日本軍国主義者たちが勝手に他国を侵略して、多くの罪なき民を殺し、家々を焼き、女性をもてあそんだのは厳然たる事実だ。
だから日本人の一部が何を言おうがそんなことは問題じゃない。これは賠償金しかない。謝罪もほしい。毛先生は戦争で国と国とが争って被害を受けるのは国民だ、といってます。 日本政府は賠償金をわれわれに払うべきなんです」
「八・一三(上海陥落)から八・一五にわたって南京は爆撃されたんです」
「南京で殺されたのは圧倒的に市民が多かったです。銃ももたない農民や一般市民が虫ケラのように殺された。われわれのおじいさんもおばあさんも子供も殺された。
被害者がやられたと訴えているのに、やった張本人の日本人がやらなかったと否定するのはどういうことですか! まるで子供じゃないですか!」
参考文献『目覚めぬ羊たち』落合信彦著作(小学館出版)より引用*
南京大虐殺を日本人は認めていない。
まさに子供だ。確かに三十万人という犠牲者の数は多すぎるかも知れない。原爆でも落とさない限りそんなに殺せないだろう。
その盲点をついて、一部の日本人は「南京大虐殺なんてなかった」などと主張する。こうした連中は「侵略」じたいも認めない。
侵略を少しでも認めたら、虐殺も認めざる得ないからだ。
確かに三十万人という犠牲者の数は多すぎるだろう。しかし、考えてほしい。たとえ千人でも百人でも、殺されれば虐殺なのだ。
日本軍人全員が虐殺をしていたかは知らない。
しかし、日本軍人は過ちを犯した………
これだけは忘れないでいてほしい。
『いわゆる昭和天皇論』
激動の昭和。昭和恐慌から政治不信を背景に軍部の台頭、満州事変へ。シナ事変の泥沼化から侵略戦争や虐殺行為をした帝国日本軍。絵に描いた餅『大東亜共栄圏』をお題目にしてアジア諸国を侵略して「大東亜共栄圏によってアジアの人々を白人の支配から解放した!」とぬけぬけと抜かす右翼。(日本軍=悪、侵略・虐殺は自虐史観。確かに悪いこともしただろうが、戦争下のことであり、すべて悪の東京裁判史観だけでは甘い。むろん戦争を美化する気はさらさらない。が、自分で資料に当たって「日本軍=侵略戦争を犯した」というみかたが正しいのか自分の頭で考えて貰いたい。例えば「南京大虐殺で30万人」も、「数が例え百人でも人を殺せば虐殺」とか。死者数が30万人でなければ間違っているということ。当時、南京には20万人以下しか中国人はいないのに、どうやって30万人殺したのか?従軍慰安婦の強制連行は正しいのか?「連行がなくても強制性はある。」とかふざけるな!数十年前の、「日本軍が何もかも悪かった」という嘘はもう通用しない。なら原爆や大空襲の米軍の虐殺行為は悪ではないのか?頭を使って考えて!自虐史観などに騙されないで!)
その中で昭和という時代を一身に背負って苦悶する偉大な存在があったという。昭和天皇・裕仁、そのひとである。先の大戦では現人神であり、神の子孫というペテンで軍部のパペット(操り人形)と化し、統帥権=軍部で、敗北を一身に受けて戦後をつくった昭和天皇。
「天皇陛下万歳!」国民はそれでも、戦争に敗北しても昭和天皇を神のように崇めたという。天皇陛下のために命を捧げた英霊たち。
ちなみに小林よしのりの漫画では、神風特攻隊や回天特攻隊で若い日本軍兵士が特攻体当たりの際、「天皇陛下、万歳!」と叫んだという描写があるが嘘である。本当は「おかあちゃーん!」と叫んで死んだのだった。
〝海行(ゆ)かば 水(みず)漬(く)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむす)す屍 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ かへりみはせじ〟
実際、当時の兵士は昭和天皇=現人神と思って特攻や戦をした。だが、神ではなかった。天照大神の子孫というのはペテンであり、詭弁でしかなかった。
戦争責任論
「昭和天皇の戦争責任論」、「大日本帝国」、および「大日本帝国憲法」も参照
概要
大日本帝国憲法(明治憲法)において、第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」を根拠として、軍の最高指揮権である統帥権は天皇大権とされ、また第12条「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」を根拠に軍の編成権も天皇大権のひとつとされた。政府および帝国議会から独立した、編成権を含むこの統帥権の独立という考え方は、1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約の批准の際に、統帥権干犯問題を起こす原因となった。
統帥権が、天皇の大権の一つ(明治憲法第11条)であったことを理由に、1931年(昭和6年)の満州事変から日中戦争(支那事変)、さらに太平洋戦争(大東亜戦争)へと続く、「十五年戦争」(アジア太平洋戦争)の戦争責任をめぐって、最高指揮権を持ち、宣戦講和権を持っていた天皇に戦争責任があったとする主張
大日本帝国憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と、規定された天皇の無答責を根拠に(あるいは軍事などについての情報が天皇に届いていなかったことを根拠に)、天皇に戦争責任を問う事は出来ないとする主張
との間で、論争がある。
美濃部達吉らが唱えた天皇機関説によって、明治憲法下で天皇は「君臨すれども統治せず」という立憲主義的君主であったという説が当時の憲法学界の支配的意見であったが、政府は当時、「国体明徴声明」を発して統治権の主体が天皇に存することを明示し、この説の教示普及を禁じた。
終戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)において、ソビエト連邦、オーストラリアなどは天皇を「戦争犯罪人」として裁くべきだと主張したが、連合国最高司令官であったマッカーサーらの政治判断(昭和天皇の訴追による日本国民の反発への懸念と、円滑な占領政策遂行のため天皇を利用すべきとの考え)によって訴追は起きなかった。
昭和天皇崩御直後の、1989年(平成元年)2月14日、参議院内閣委員会にて、当時の内閣法制局長官・味村治は、大日本帝国憲法第3条により無答責・極東軍事裁判で訴追を受けていないの二点から、国内法上も国際法上でも戦争責任はないという解釈を述べている。
マッカーサーに対する発言に関して
『マッカーサー回想記』によれば、昭和天皇と初めて面会した時、マッカーサーは天皇が保身を求めるとの予想をしていたが、天皇は、
「私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の採決にゆだねるため、あなたをお訪ねした」
と発言したとされる。この会談内容については全ての関係者が口を噤み、否定も肯定もしない為、真偽の程は明らかではない。昭和天皇自身は、1975年(昭和50年)に行われた記者会見でこの問題に関する質問に対し、「(その際交わした外部には公開しないという)男同士の約束ですから」と述べている。翌1976年(昭和51年)の記者会見でも、「秘密で話したことだから、私の口からは言えない」とした。
その後、現代史家・秦郁彦が、会見時の天皇発言を伝える連合国軍最高司令官政治顧問ジョージ・アチソンの国務省宛電文を発見したことから、現在では発言があったとする説が有力である。また、会見録に天皇発言が記録されていなかったのは、重大性故に記録から削除されたことが通訳を務めた松井明の手記で判明し、藤田尚徳侍従長の著書もこの事実の傍証とされている。
また、当時の宮内省総務課長で、随行者の一人であった筧素彦は、最初に天皇と会った時のマッカーサーの傲岸とも思える態度が、会見終了後に丁重なものへと一変していたことに驚いたが、後に『マッカーサー回想記』等で発言の内容を知り、長年の疑問が氷解したと回想している。
天皇自身の発言
1975年(昭和50年)9月8日・アメリカ・NBC放送のテレビインタビュー
[記者] 1945年の戦争終結に関する日本の決断に、陛下はどこまで関与されたのでしょうか。また陛下が乗り出された動機となった要因は何だったのですか
[天皇] もともと、こういうことは内閣がすべきです。結果は聞いたが、最後の御前会議でまとまらない結果、私に決定を依頼してきたのです。私は終戦を自分の意志で決定しました。(中略)戦争の継続は国民に一層の悲惨さをもたらすだけだと考えたためでした。
1975年(昭和50年)9月20日・アメリカ・ニューズウィークのインタビュー
[記者] (前略)日本を開戦に踏み切らせた政策決定過程にも陛下が加わっていたと主張する人々に対して、どうお答えになりますか?
[天皇] (前略)開戦時には閣議決定があり、私はその決定を覆せなかった。これは帝国憲法の条項に合致すると信じています。
1975年(昭和50年)9月22日・外国人特派団への記者会見
[記者] 真珠湾攻撃のどのくらい前に、陛下は攻撃計画をお知りになりましたか。そしてその計画を承認なさいましたか。
[天皇] 私は軍事作戦に関する情報を事前に受けていたことは事実です。しかし、私はそれらの報告を、軍司令部首脳たちが細部まで決定したあとに受けていただけなのです。政治的性格の問題や軍司令部に関する問題については、私は憲法の規定に従って行動したと信じています。
1975年(昭和50年)10月31日、訪米から帰国直後の記者会見
[問い] 陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、「私が深く悲しみとするあの戦争」というご発言をなさいましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか? また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか?(ザ・タイムズ記者)
[天皇] そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。
[問い] 戦争終結にあたって、広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられましたか? (中国放送記者)
[天皇] 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。
1981年(昭和56年)4月17日・報道各社社長との記者会見
[記者] 八十年間の思い出で一番楽しかったことは?
[天皇] 皇太子時代、英国の立憲政治を見て、以来、立憲政治を強く守らねばと感じました。しかしそれにこだわりすぎたために戦争を防止することができませんでした。私が自分で決断したのは二回(二・二六事件と第二次世界大戦の終結)でした。
陵・霊廟・記念館
武蔵陵墓地の昭和天皇陵「武蔵野陵」(東京都八王子市)
昭和天皇記念館(東京都立川市)
陵(みささぎ)は、東京都八王子市長房町の武蔵陵墓地にある武蔵野陵(むさしののみささぎ)に治定されている。公式形式は上円下方。
皇居・宮中三殿(皇霊殿)においても、歴代天皇・皇族として祀られている。
2005年(平成17年)11月27日、東京都立川市の国営昭和記念公園の「みどりの文化ゾーン・花みどり文化センター」内に、「昭和天皇記念館」が開館し、財団法人昭和聖徳記念財団が運営を行っている。館内には「常設展」として、昭和天皇の87年間に渡る生涯と、生物学の研究に関する資料や品々、写真などが展示されている。
敬称
平成に入ってからは「昭和天皇」が一般的であるが、敬称(「陛下」を付けた呼び方)で「昭和の天皇陛下」や「先帝陛下」と称される場合もある。また、「昭和天皇」という呼称は、それ自体に敬意が込められた追号であるため、昭和天皇陛下とは言わない。
皇后美智子は義父にあたる昭和天皇を「先帝陛下」と公の場では呼んでいる。
財産
終戦時:37億5千万円。現在の金額で7912億円ほど。
崩御時:18億6千900万円、および美術品約5千点。美術品は1点で億単位の物も多数という。
皇室は不動産のみならず、莫大な有価証券を保有したが、昭和17年時点までには、日本銀行、日本興業銀行、横浜正金銀行、三井銀行、三菱銀行、住友銀行、日本郵船、大阪商船、南満州鉄道、朝鮮銀行、台湾銀行、東洋拓殖、台湾製糖、東京瓦斯、帝国ホテル、富士製紙などの大株主であった。
なお皇室の財産も課税対象であり、昭和天皇崩御のときには相続税が支払われている。香淳皇后が配偶者控除を受け、長男の今上天皇が全額を支払った。この時に御物とよばれる古美術品は相続せずに国庫に納められ、それを基に三の丸尚蔵館が開館した。
終戦後、GHQにより皇室財産のほとんどが国庫に帰したとされるが、1944年(昭和19年)に参謀総長と軍令部総長から戦局が逆転し難いとの報告を受けた後、皇室が秘密裏にスイスの金融機関に移管して隠匿させた財産が存在した、という主張がある。
著書
自身の著書
裕仁『日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討』(1967年、生物学御研究所)
裕仁『相模湾産ヒドロ虫類』(1988年、生物学御研究所)
宮内庁侍従職編『おほうなばら―昭和天皇御製集』(1990年、読売新聞社、ISBN 4643900954)
昭和天皇(山田真弓補足修正)『相模湾産ヒドロ虫類2』(1995年、生物学御研究所)
その他の著書
国立科学博物館『天皇陛下の生物学ご研究』(1988年、国立科学博物館)
田所泉『昭和天皇の短歌』(1997年、創樹社、ISBN 4794305222)
昭和天皇は自らの『戦争責任』を自覚していたという。だから当時日本を統治していたGHQ連合軍のダグラス・マッカーサーとの会談や写真撮影のときも、
「朕には戦争責任がある。私の命はどうなってもいいから国民を日本国をなんとか無事にお願いする」というような意味のことをマッカーサーに言ったとされる。
マッカーサーは驚いた。昭和天皇・裕仁は命乞いをして醜態をさらすと勘違いしていたのだ。まさに守護神である。
このことは秘書と昭和天皇陛下とマッカーサーしか知らないことではあったが、自己顕示欲とプライドの高い自慢屋のマッカーサーは晩年『回顧録』でばらしている。
マッカーサーの回顧録は自慢話や憶測や勘違いからの誤記が多く、参考文献としては信憑性が低いが、昭和天皇は例の写真で覚悟を示したのであった。
マッカーサーは軍服で、昭和天皇は黒のモーニング姿にネクタイ。マッカーサー元帥はいばったようにわざと演出し「猫背で身長の低い近眼の男(GHQやマッカーサーの談)」を負け組の元帥として貶める意図で写真を撮った。
だが、この無礼は日本の知識人たちを激高させた。作家の高見順は「かかる写真は、誠に古今未曾有」、詩人の斎藤茂吉は「うぬーっ、マッカーサーの野郎!」と怒ったという。
現在の今上天皇である明仁皇太子(当時)は御学友とともに租界地の新聞で、例の昭和天皇とマッカーサーの写真を見て「日本が勝った!」「マッカーサーはネクタイさえしていない!田舎っぺだ!」「日本の三千年の礼節が、たった200年の白人米国文化に勝利した!」と逆に裕仁の株をあげただけにおわった。
マッカーサー元帥は全ての日本人を支配する雲上人としてふるまい、吉田茂などごく一部の日本人以外は会いもしなかったという。例の記念写真の時もたばこが嫌いな昭和天皇にわざとたばこを差しだし「一服したら?」とすすめたらしい。
こうしたことは最近の研究でわかったことで、当時のマッカーサーの人気はすざましかったという。ファンレターが全国から何万通と届き、中には「あなたの子供を産みたい」などの手紙まであったという。
だが、元帥の目標は米国大統領である。日本人など好きではなかった。だから、後に「日本人の精神年齢は十二歳だ」と発言したのだ。
この言葉を聞いてやっと我に返った日本人はマッカーサーを嫌悪しだした。歴史に詳しいひとならご存知だが、マ元帥は朝鮮戦争で「朝鮮半島に原爆を落としてくれ」とトルーマン大統領に要請してクビになっている。
「アイ・シャル・リターン(もう一度戻ってくる)」とフィリピンで負け惜しみを言って遁走し、アメリカ代表のような地位を得たと勘違いし日本に飛行機で来て、日本を支配し、無礼を働いたマッカーサー元帥。嫌われるのは当然だが、昭和天皇も元帥を嫌いだった。
のちに米国訪問した昭和天皇は、死去したマッカーサー元帥の記念館となっていた施設にも絶対に訪問しなかった。車でわずか数十分でもいかなかった。
どれだけ恨みが強いか?がわかるエピソードである。マッカーサーの夢は米国大統領に当選することであったが、無理だった。
ちなみに玉音放送を阻止しようと軍部の過激派がクーデターをおこした事件をご存じだろうか?終戦というか敗戦の当時の内閣は鈴木貫太郎内閣である。昭和天皇にご聖断をあおいだ。一方で、軍閥系の最高責任者だった軍人・阿南惟幾(あなみ・これちか)は電話で「(外国と徹底抗戦を叫ぶ軍部関係者に)まだ本土決戦!一億総玉砕の道はある」と嘘をいった。ご聖断の有効の為である。
鈴木貫太郎首相はかつて軍部の若手将校の暗殺者に銃で殺されかけており、死後、荼毘に付すと骨とともに身体の内部にあったであろう銃弾が発見された、という。阿南は玉音後、「ご聖断はくだったのである!もし、不服ならこの阿南を殺しその屍をこえていけ!」と軍幹部たちに怒鳴るように伝えた。
「朕はどうなってもいい。日本国の「国体」や日本人達の命が無事ならば朕は死んでも構わない」敗戦の玉音放送後、阿南は皇居外苑で自刃して果てる。自らの死で軍部の強硬派を抑えたのだ。昭和天皇は自ら統帥権の呪縛をやぶって、敗戦のご聖断を下し、人間として象徴天皇としての道を選んだ。まさに英雄、まさに天皇陛下万歳!陛下は共産主義の悪もわかってらしたという。
クーデターは失敗におわり、昭和天皇が録音した『玉音(天皇の言葉)』が1945年8月15日に放送された。
二度のご聖断で、敗北を決定した昭和天皇。まさに満身創痍の決断である。
「玉音放送」(内容)
概要
御署名原本「大東亜戦争終結ノ詔書」
1945年(昭和20年)8月14日、日本は御前会議において内閣総理大臣・鈴木貫太郎が昭和天皇の判断を仰ぎポツダム宣言の受諾を決定した(いわゆる聖断)。ポツダム宣言は「全日本国軍隊ノ無条件降伏」(第13条)などを定めていたため、その受諾は太平洋戦争において日本が降伏することを意味した。御前会議での決定を受けて同日夜、詔書案が閣議にかけられ若干の修正を加えて文言を確定した。詔書案はそのまま昭和天皇によって裁可され、終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)として発布された。この詔書は、天皇大権に基づいてポツダム宣言の受諾に関する勅旨を国民に宣布する文書である。ポツダム宣言受諾に関する詔書が発布されたことは、中立国のスイス及びスウェーデン駐在の日本公使館を通じて連合国側に伝えられた。
昭和天皇は詔書を朗読してレコード盤に録音させ、翌15日正午よりラジオ放送により国民に詔書の内容を広く告げることとした。この玉音放送は法制上の効力を特に持つものではないが、天皇が敗戦の事実を直接国民に伝え、これを諭旨するという意味では強い影響力を持っていたと言える。当時より、敗戦の象徴的事象として考えられてきた。鈴木貫太郎以下による御前会議の後も陸軍の一部には徹底抗戦を唱え、クーデターを意図し放送用の録音盤を実力で奪取しようとする動きがあったが、失敗に終わった(宮城事件、録音盤事件)。
前日にはあらかじめ「15日正午より重大発表あり」という旨の報道があり、また当日朝にはそれが天皇自ら行う放送であり、「正午には必ず国民はこれを聴くように」との注意が行われた。当時は電力事情が悪く間欠送電となっている地域もあったが、特別に全国で送電されることになっていた。また、当日の朝刊は放送終了後の午後に配達される特別措置が採られた。
放送は正午に開始された。初めに日本放送協会の放送員(アナウンサー)・和田信賢によるアナウンスがあり、聴衆に起立を求めた。続いて情報局総裁・下村宏が天皇自らの勅語朗読であることを説明し、君が代の演奏が放送された。その後4分あまり、天皇による勅語の朗読が放送された。再度君が代の演奏、続いて「終戦の詔書をうけての内閣告諭」等の補足的文書のアナウンスが行われた。
放送はアセテート盤のレコード、玉音盤(ぎょくおんばん)再生によるものであった。劣悪なラジオの放送品質のため音質が極めて悪く、天皇の朗読に独特の節回し(天皇が自ら執り行う宮中祭祀の祝詞の節回しに起因するという)があり、また詔書の中に難解な漢語が相当数含まれていたために、「論旨はよくわからなかった」という人々の証言が多い。直後のアナウンサーによる終戦詔書の奉読(朗読)や玉音放送を聴く周囲の人々の雰囲気、玉音放送の後の解説等で事情を把握した人が大半だった。また、ほとんどの国民にとって、現人神である昭和天皇の肉声を聴くのは、これが初めての機会であったため、天皇の声の異様さ(朗読の節、声の高さ等)に驚いたというのもしばしば語られることである。また、沖縄で玉音放送を聞いたアメリカ兵が、日本兵捕虜に「これは本当に天皇の声か?」と尋ねたが、答えられる者は誰一人いなかったというエピソードがある。
玉音放送において「朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」(私は米国・英国・支那・蘇連の4か国に対し、共同宣言を受け入れると帝国政府に通告させた)という文言が「日本政府はポツダム宣言を受諾し、降伏する」ことを表明する最も重要な主題ではあるが、多くの日本国民においては、終戦と戦後をテーマにするNHKの特集番組の、〝皇居前広場で土下座して昭和天皇に詫びる庶民達〝の映像と共に繰り返し流される「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の部分が戦時中の困苦と占領されることへの不安を喚起させ、特に印象づけられて有名である(この文章は「以て万世の為に太平を開かんと欲す。朕は茲に国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚(しんき。信頼)し常に爾臣民と共にあり。」と続く)。
なお、ラジオ放送のマイクが昭和天皇の肉声を意図せず拾ってしまい、これが放送されるというアクシデントが、1928年(昭和3年)12月2日の大礼観兵式に一度起こっているが、その後、宮中筋は天皇の肉声を放送する事は憚りあり、として極端にこれを警戒し、結局第二次世界大戦の終結まで公式に玉音放送が行われたのは、この1945年(昭和20年)8月15日一度きりであった。天皇の声が電波に乗って正式に放送されたのは、玉音盤によるものが最初である。
終戦詔書
『大東亜戦争終結ノ詔書』は「終戦詔書」とも呼ばれ、天皇大権に基づいてポツダム宣言を受諾する勅旨を国民に宣布するために8月14日付けで詔として発布された。文体は非常に古典的な漢文訓読体なので、一部の民衆にとっては分かり難い。大まかな内容は内閣書記官長・迫水久常が作成し、8月9日以降に漢学者・川田瑞穂(内閣嘱託)が起草、さらに14日に安岡正篤(大東亜省顧問)が刪修して完成し、同日の内に天皇の裁可があった。大臣副署は当時の内閣総理大臣・鈴木貫太郎以下16名。第7案まで議論された。
喫緊の間かつ極めて秘密裡に作業が行われたため、起草、正本の作成に充分な時間がなく、また詔書の内容を決める閣議において、戦争継続を求める一部の軍部の者によるクーデターを恐れた陸軍大臣・阿南惟幾が「戦局日ニ非(あらざる)ニシテ」の改訂を求め、「戦局必スシモ好転セス」に改められるなど、最終段階まで字句の修正が施された。このため、 現在残る詔書正本にも補入や誤脱に紙を貼って訂正を行った跡が見られ、また通常は御璽押印のため最終頁は3行までとし7行分を空欄にしておくべき慣例のところ4行書かれており、文末の御璽を十分な余白がない場所に無理矢理押捺したため、印影が本文にかぶさるという異例な詔勅である。全815文字とされるが、異説もある。
録音と放送
玉音盤
(玉音放送で流すべく、天皇の肉声(玉音)を録音したレコード盤)
NHK放送博物館所蔵
終戦詔書を天皇の肉声によって朗読し、これを放送することで国民に諭旨するという着想は情報局次長・久富達夫が総裁の下村宏に提案したものというのが通説である。
日本放送協会へは宮中での録音について8月14日13時に通達があり、この宮内省への出頭命令を受け、同日15時に録音班8名(日本放送協会の会長を含む協会幹部3人と録音担当者5人)が出かけた(録音担当者は国民服に軍帽という服装であった)。録音作業は内廷庁舎において行われ、録音機2組(予備含む計4台)など録音機材が拝謁間に用意され、マイクロホンが隣室の政務室に用意された。録音の用意は16時には完了し、18時から録音の予定であった。しかし、前述の詔書の最終稿の修正もあって録音はずれ込み、詔書裁可後の23時20分頃から録音作業は始められた。2回のテイクにより玉音盤は合計2種4枚(1テイクが2枚となる理由は後述)製作された。2度目のテイクを録ることとなったのは試聴した天皇自身の発案(声が低かったため)といわれ、さらに接続詞が抜けていたことから天皇から3度目の録音をとの話もあったが下村がこれを辞退したという(下村宏『終戦秘史』)。
玉音放送は日本電気音響(後のデノン)製のDP-17-K可搬型円盤録音機によって、同じく日本電気音響製のセルロース製SP盤に録音された。この録音盤は1枚で3分間しか録音できず、約5分間分の玉音放送は2枚にわたって録音された。
作業は翌日1時頃までかかって終了。情報局総裁・下村宏及び録音班は坂下門から出ようとしたが、玉音放送を阻止しようとする近衛歩兵第二連隊第三大隊長・佐藤好弘大尉らによって拘束・監禁され、録音盤が宮内省内部に存在することを知った師団参謀・古賀秀正少佐の指示により録音盤の捜索が行われた(録音盤事件、宮城事件)。このとき録音盤は見つからなかったが、録音盤は録音後に侍従の徳川義寛により皇后宮職事務官室の書類入れの軽金庫にほかの書類に紛れ込ませる形で保管されていた。
当日正午の時報の後、重大放送の説明を行ったのは日本放送協会のアナウンサー・和田信賢である。
玉音盤が戦後しばらく所在不明とされていたため、玉音放送の資料音声は公式には現存していないことになっていた(この件に関しては、真偽のほどは不明ながら、放送を恥辱と考えた宮中筋による隠匿説もある)。しかし玉音放送から1年後、玉音盤を押収したアメリカ軍が複製を製作するに際して、担当の日本人技師が内密に自己用の複製を製作、これにより玉音放送は散逸を免れる事となった。この複製盤はNHKに寄贈され、その当時の再生技術で当時の磁気テープに記録された音源が現在でも継続使用されているが、複製盤製作時の玉音盤の再生速度と複製盤の回転速度、そして複製盤の再生速度、磁気テープの再生速度の誤差により現在通常に流布している音源は一様に遅く、音声が低い。
後に発見された玉音盤はNHK放送博物館に収蔵され、入念な修復作業を経て現在は窒素ガスを充填したケースで厳密な温度・湿度管理のもと保管・展示されている。ただし、完成から1年で劣化するアセテート盤なので状態は悪く、実際の再生は困難であるとされている。
国際放送(ラジオ・トウキョウ)では平川唯一が厳格な文語体による英語訳文書を朗読し、国外向けに放送した。この放送は米国側でも受信され、1945年8月15日付のニューヨーク・タイムズ紙に全文が掲載されることとなった。
玉音放送と前後のラジオ放送
正午以降の玉音盤を再生した玉音放送は約5分であったが、その前後の終戦関連ニュース放送等を含む放送は約37分半であった。また、放送を即時に広く伝達するため10キロワットに規制されていた出力を60キロワットに増力し、昼間送電のない地域への特別送電を行い、さらに短波により東亜放送を通じて中国占領地、満州、朝鮮、台湾、南方諸地域にも放送された。
予告放送
玉音放送の予告は14日午後9時のニュースと15日午前7時21分のニュースの2回行われた。内容として「このたび詔書が渙発される」「15日正午に天皇自らの放送がある」「国民は一人残らず玉音を拝するように」「昼間送電のない地域にも特別送電を行う」「官公署、事務所、工場、停車場、郵便局などでは手持ち受信機を活用して国民がもれなく放送を聞けるように手配すること」「新聞が午後一時頃に配達される所もあること」などが報じられた。
15日正午の放送内容
特記なき文は和田信賢によるアナウンス。
正午の時報
「只今より重大なる放送があります。全国聴取者の皆様御起立願います」
「天皇陛下におかれましては、全国民に対し、畏くも御自ら大詔を宣らせ給う事になりました。これより謹みて玉音をお送り申します」(情報局総裁・下村宏)
君が代奏楽
詔書(昭和天皇・録音盤再生)
君が代奏楽
「謹みて天皇陛下の玉音放送を終わります」(下村)
「謹んで詔書を奉読いたします」
終戦詔書の奉読(玉音放送と同内容)
「謹んで詔書の奉読を終わります」 以降、終戦関連ニュース(項目名は同盟通信から配信されたニュース原稿のタイトル)
内閣告諭(14日付の内閣総理大臣・鈴木貫太郎の内閣告諭)
これ以上国民の戦火に斃れるを見るに忍びず=平和再建に聖断降る=(終戦決定の御前会議の模様を伝える内容)
交換外交文書の要旨(君主統治者としての天皇大権を損しない前提でのポツダム宣言受諾とバーンズ回答の要旨、これを受けたポツダム宣言受諾の外交手続き)
一度はソ連を通じて戦争終結を考究=国体護持の一線を確保=(戦局の悪化とソ連経由の和平工作失敗と参戦、ポツダム宣言受諾に至った経緯)
万世の為に太平を開く 総力を将来の建設に傾けん(天皇による終戦決意)
ポツダム宣言(ポツダム宣言の要旨)
カイロ宣言(カイロ宣言の要旨)
共同宣言受諾=平和再建の大詔渙発=(終戦に臨んでの国民の心構え)
緊張の一週間(8月9日から14日までの重要会議の開催経過)
鈴木総理大臣放送の予告(午後2時からの「大詔を拝し奉りて」と題する放送予告。実際は総辞職の閣議のため、午後7時のニュースに続いて放送された)
15日の放送
1945年8月15日のラジオ放送は下記の6回であった。
午前7時21分(9分間)
正午(37分半、玉音放送を含む)
午後3時(40分間)
午後5時(20分間)
午後7時(40分間)
午後9時(18分間)
全文
ウィキソースに大東亞戰爭終結ノ詔書の原文があります。
詳しくはWIKISOURCE 日本語版の「大東亞戰爭終結の詔書」を参照のこと
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
御名御璽
昭和二十年八月十四日
その他
学習院初等科に在学中だった皇太子明仁親王は、疎開先の奥日光の南間ホテルで迎えた終戦の玉音放送の際に、ホテルの2階の廊下に他の学習院生と一緒にいたが、皇太子という立場を慮った侍従の機転によって(内容が内容だけに、何が起こるか分からない)御座所に引き返して東宮大夫以下の近臣とともに放送を聞いた。放送の内容には全く動揺を示さなかったが、放送が終わると静かに涙を流し、微動だにしなかったという。
宮脇俊三の『時刻表2万キロ』・『時刻表昭和史』では父・宮脇長吉と今泉駅で玉音放送を聴くが、その際も鉄道が動いていたことが描写されている。
佐伯達夫(後の高校野球連盟会長)は玉音放送を聴いた瞬間、「これで中等学校野球(現・高校野球)が復活するぞ!!」とひらめき、連盟設立に奔走するきっかけとなった。
佐藤卓己の著書『八月十五日の神話』(ちくま新書・2005年(平成17年))では、「当時の人々は、玉音放送の内容を理解できなかった(後に流されたアナウンサーの解説で理解した)」「報道機関には前もって日本の敗戦が知らされ、記者は敗戦を知ってうなだれるポーズを撮影した写真を、放送前にあらかじめ準備した」といったエピソードが紹介されている。
この玉音放送以後、昭和天皇が直接国民に対してその声を放送波に乗せるということはなかった。なお、他の天皇のものも含めれば、この66年後、東日本大震災において今上天皇が発した「東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば」があり、これは「平成の玉音放送」と呼ばれることもある。
「昭和天皇の戦後の御巡幸」「人間宣言」
昭和天皇の戦後の巡幸都道府県一覧
昭和天皇の戦後の巡幸都道府県一覧(しょうわてんのうのせんごのじゅんこうどとうふけんいちらん)は、戦後の混乱期と復興期に当たる1946年(昭和21年)から1954年(昭和29年)までの間に、昭和天皇が巡幸した都道府県と年月日の一覧である。ほとんどの巡幸にはお召し列車が使われた。
1946年(昭和21年)
神奈川県 2月19日 - 20日
東京都 2月28日 - 3月1日
群馬県 3月25日
埼玉県 3月28日
千葉県 6月6日 - 7日
静岡県 6月17日 - 18日
愛知県 10月21日 - 23日
岐阜県 10月24日 - 26日
茨城県 11月18日 - 19日
1947年(昭和22年)
大阪府 6月5日 - 7日
和歌山県 6月7日 - 9日
兵庫県 6月11日 - 13日
京都府・大阪府 6月14日
福島県 8月5日
宮城県 8月6日 - 7日
岩手県 8月7日 - 10日
青森県 8月10日 - 11日
秋田県 8月12日 - 14日
山形県 8月15日 - 17日
福島県 8月17日 - 19日
栃木県 9月4日 - 8日
長野県 10月7日
新潟県 10月8日 - 12日
長野県 10月12日 - 14日
山梨県 10月14日 - 15日
福井県 10月23日 - 27日
石川県 10月28日 - 30日
富山県 10月30日 - 11月1日
鳥取県・島根県 11月27日 - 12月1日
山口県 12月1日 - 5日
広島県 12月5日 - 8日
岡山県 12月9日 - 11日
1949年(昭和24年)
福岡県 5月19日 - 21日
佐賀県 5月22日 - 23日
長崎県 5月24日 - 27日
熊本県 5月29日 - 6月1日
鹿児島県 6月1日 - 4日
宮崎県 6月4日 - 7日
大分県 6月8日 - 10日
1950年(昭和25年)
香川県 3月13日 - 17日
愛媛県 3月17日 - 20日
高知県 3月21日 - 24日
徳島県 3月25日 - 30日
兵庫県 3月31日
1951年(昭和26年)
京都府 11月12日 - 14日
滋賀県 11月15日 - 17日
奈良県 11月18日 - 19日
三重県 11月20日 - 25日
1954年(昭和29年)
北海道 8月8日 - 23日
※ 1948年(昭和23年)は東京裁判の判決に備え、御巡幸は行われなかった。御巡幸では漁民に「大漁おめでとう」。背広の袖をつかんだままずうっとついてきた子供から「またきてね」に「またくるよ」と笑顔。「天子さまはどこかいな?」と人ごみをかきわけたおばあさんが昭和天皇と並んで歩いていて気づかずみつけられず一緒に歩く。田舎の山道でキノコ狩りしていた御嬢さんに「これなあに?」「ずぼたけ」「これは?」「まいたけ」という不思議な会話もおおかったという。
ちなみに昭和天皇の口癖は「あ、そう。」という言葉だ。高校生時代の担任の先生が、〝昭和天皇の口真似〝をしていたのを思い出す。
※ 北海道へは津軽海峡に機雷の残留の可能性もあり、危険の回避から1954年(昭和29年)に先送りされた。
※ 復帰後の沖縄県への巡幸はついに叶わなかった。なお、次代の天皇によってようやく47都道府県すべての巡幸が達成されたほか、即位後15年間だけですべての県への訪問が完了している。
人間宣言
人間宣言(にんげんせんげん)は、1946年1月1日に官報により発布された昭和天皇の詔書『新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ』の通称である。当該詔書の後半部には天皇が現人神(あらひとがみ)であることを自ら否定したと解釈される部分があり、狭義にはその部分を表現する名称としても用いられる。なお、人間宣言という名称は当時のマスコミや出版社が付けたもので、当詔書内には「人間」、「宣言」という文言は一切ない。
詔書の概要
日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、詔書の主な目的だった。人間宣言については最終段落の数行のみで、詔書の6分の1しかない。その数行も事実を確認するのみで、特に何かを放棄しているわけではない。
いわゆる「人間宣言」についての記述は以下の通りである。
朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ
新日本建設に関する詔書より抜粋
このGHQ主導による詔書により、天皇が神であることが否定された。しかし、天皇と日本国民の祖先が日本神話の神であることを否定していない。歴代天皇の神格も否定していない。神話の神や歴代天皇の崇拝のために天皇が行う神聖な儀式を廃止するわけでもなかった。
名称
この詔書には公用文としての「題名」は付されていない。題名に準ずる「件名」は「新年ニ当リ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス国民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」(官報目録)及び「新年ヲ迎フルニ際シ明治天皇ノ五箇条ノ御誓文ノ御趣旨ニ則リ官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ、新日本ノ建設方」(法令全書)と2度にわたり付与されている。しかし、ともに冗長で引用に不便であるため、天皇自身の神格や優れた日本民族が世界を支配する旨を否定する詔書後半部に着目した通称として、学術・教育(教科書)・報道等の場で「人間宣言」、「天皇人間宣言」、「神格否定宣言」などが用いられる。国立国会図書館においても「人間宣言」の名称で所蔵されている。
一方、昭和天皇が詔書の主目的としている五箇条の御誓文を前半部で引用しており、また、詔書全体の文意としては神格等否定を踏まえつつも終戦後の新日本国家の建設を国民に呼びかけたものである。そのため、特定部分に依拠しない通称として、「新日本建設に関する詔書」、「年頭、国運振興ノ詔書」などを用いる例もある。国立公文書館では、片仮名の「新日本建設ニ関スル詔書」の名称で所蔵されている。
(註)法令・公用文における「題名」は、固有の名称としての性格を有し、その改題には正式な改正手続を要するため、引用時に片仮名を平仮名に置換するなど引用側が任意に改変することは認められない(旧字体の新字体置換のみ可能である)。一方、「件名」は、他の公用文において用いる便宜上の名称であって、正式な改称手続自体がないため、引用側において字体のみならず片仮名←→平仮名、文語体←→口語体などの置換が許容される。
起草の経緯
ポツダム宣言受諾による終敗から4か月余、日本は大日本帝国憲法の施行下にあった。
1945年(昭和20年)12月15日、GHQの民間情報教育局 (CIES) 宗教課は、国家が神道を支援・監督・普及することを禁止する「神道指令」を発した。さらに、天皇は他国の元首より秀でた存在で、日本人は他の国民よりまさっている、といった教説を教えることを非合法化した。しかし、天皇が皇居で執り行う宗教儀式(宮中祭祀)は私的な事柄とされて、禁じられなかった。占領当局は天皇自身で自分の神格を否定してほしいと期待したため、神道指令では天皇の神格について言及しなかった。自分を神と主張したことのない昭和天皇は、占領当局の意向に同意した。
宮内省は、学習院の英語教師・レジナルド・ブライスに、占領当局が納得するような案文を練るよう依頼した。ブライスはGHQの教育課長で俳句の造詣が深かったハロルド・ヘンダーソンに相談し、ふたりは人間宣言の案文を作成した。
12月23日、昭和天皇は、木下道雄侍従次長に対し、前日進講した板沢武雄・学習院教授の講義の内容について語った。板沢の講義は「マッカーサー司令部の神道に関する指令について」と題するもので、昭和天皇が語ったところによれば、最後の結びの言葉は「この司令部の指令は、顕語を以て幽事を取り扱うものでありまして、譬えて申しますならば、鋏を以て煙を切るようなものと私は考えております」というものだった。また、昭和天皇は、興味を引いた点について、「後水尾帝御病にて疚(きゅう)の必要ありしも、現神には疚を差上ぐる訳には行かぬと云う所から御譲位の上、治療を受け給いしこと」、「徳川氏が家康を東照宮と神格化し、家康の定めたることは何事によらず神君の所定となし、改革を行わず、時のよろしきに従う政事を行わず、遂に破局に至りしこと」、「幽顕二界のこと。謡曲の発達、君臣の濃情を言い現わせる謡曲はかえって皇室衰微の時代に発達せること。顕界破れて幽界現われたること」の3点を挙げた。また、天皇は、23日にマッカーサー司令部の高級幕僚たちと鴨猟を行う予定であった石渡荘太郎・宮内大臣に命じて、板沢の話を高級幕僚たちにも聞かせようと考えたが、石渡がすでに鴨場へ出発していたため断念した。
12月24日、昭和天皇は幣原喜重郎・内閣総理大臣を召して、「ご病気の後水尾天皇が側近に医者を要請されたところ、医者の如き者が玉体にふれることは、汚らわしいとの理由でおみせしなかったそうだ。同天皇はみすみす病気が悪化して亡くなられた」という歴史的実例を挙げて、神格化の是非について暗示した。また、昭和天皇は、明治天皇の五箇条の御誓文を活用したいとも話した。これに対し幣原は「これまで陛下を神格化扱いしたことを、この際是正し改めたいと存じます」と答え、昭和天皇は静かに肯定し「昭和21年の新春には一つそういう意味の詔書を出したいものだ」と言った。
12月25日、昭和天皇は、拝謁した木下侍従次長に対し、「木下は昨日留守なりしが、大臣(石渡宮内大臣)より大詔渙発のことは、幣原がこれは国務につき是非内閣に御任せを願うとの希望を聞き、幣原を呼び、これを伝えた。Mac(マッカーサー司令部)の方では内閣の手を経ることを希望せぬ様だ。これは一つには外界に洩れるのを恐れる為ならん」と語った。
12月25日以降、幣原自身が前田案をもとに英文で原案を作成し、秘書官に邦訳を命じた。推敲は前田多門文相、次田大三郎書記官長、楢橋渡法制局長官等で行った。過労の幣原に代わり、前田文相が天皇に会い、天皇から「五箇条の御誓文」付加の要請を受ける。マッカーサーにも案文を示す。
12月29日、木下道雄侍従次長は原案に手を入れて別案を作り、石渡宮相・前田文相に示した。別案は天皇が神の末裔であることを否定するものでなく、「現御神」であることを否定するものであった。
12月30日、木下は石渡が手を入れた木下案を次田に渡し、閣議で検討された。同日午後4時30分、岩倉書記官が閣議案を木下の元に持参した。木下は更に手を入れ、天皇に中間報告を行い、閣議に戻した。5時30分、前田文相が天皇に会い、文案の許可を得た。午後9時、正式書類が整い、完成した。
12月31日、幣原の意を受けて前田文相は木下侍従次長を訪問し、マッカーサーに案文を示した天皇が神の末裔であることを否定する内容の復元を求めた。木下は侍従長とともにこれに同意し、天皇に報告した。天皇も天皇が神の末裔であることを否定する内容への変更の許可を与えた。また、天皇は、首相がマッカーサーとの信義を重んじて詔書の修正を願い出たことについて、嘉賞の言葉を与えた。
しかし、日本語で発表されたものは天皇が神の末裔であることを明確に否定したものではなく、「現御神」(現人神)であることを否定するものであった。これに対し、原案の英文は「the Emperor is divine」を否定するものであった。ただし「divine」は王権神授説などで用いられる「神」の概念である。
英文の詔書は2005年(平成17年)に発見され、2006年(平成18年)1月1日の毎日新聞で発表された。渡辺治は同紙に以下のコメントを寄せている。
資料は、草案から詔書まで一連の流れが比較検討でき、大変貴重だ。詔書は文節ごとのつながりが悪く主題が分かりにくいが、草案は天皇の神格否定が主眼と分かる。草案に日本側が前後を入れ替えたり、新たに加えたりしたためだろう。
渡辺治(一橋大学大学院教授・政治史)、毎日新聞2006年1月1日付
社会的影響
この詔書は、日本国外では天皇が神から人間に歴史的な変容を遂げたとして歓迎された。退位と追訴を要求されていた昭和天皇の印象も好転した。しかし、日本人にとって当たり前のことを述べたにすぎなかったため、日本ではこの詔書がセンセーションを巻き起こすようなことはなかった。
1946年1月1日、この詔書は新聞各紙の第一面で報道された。朝日新聞の見出しは、「年頭、国運振興の詔書渙発(かんぱつ) 平和に徹し民生向上、思想の混乱を御軫念(ごしんねん)」だった。毎日新聞は、「新年に詔書を賜ふ 紐帯は信頼と敬愛、朕、国民と供にあり」だった。新聞の見出しでは神格について触れておらず、日本の平和や天皇は国民と共にあるといったことを報道するのみだった。天皇の神格否定はニュースとしての価値が全くなかったのである。
詔書の起草に関わった人物の見解
昭和天皇
昭和天皇は、公的に一度も主張しなかった神格を放棄することに反対ではなかった。しかし、天皇の神聖な地位のよりどころは日本神話の神の子孫であるということを否定するつもりもなかった。昭和天皇は自分が神の子孫であることを否定した文章を削除した。さらに、五箇条の誓文を追加して、戦後民主主義は日本に元からある五箇条の誓文に基づくものであることを明確にした。これにより、人間宣言に肯定的な意義を盛り込んだ。1977年の記者会見にて、昭和天皇は、神格の放棄はあくまで二の次で、本来の目的は日本の民主主義が外国から持ち込まれた概念ではないことを示すことだと述べた。
詔書草案と五箇条の誓文
昭和天皇は、1977年8月23日の会見で記者の質問に対し、GHQの詔書草案があったことについて、「今、批判的な意見を述べる時期ではないと思います」と答えた。
また、詔書のはじめに五箇条の誓文が引用されたことについて、以下のような発言をした。
それが実は、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした。当時はアメリカその他諸外国の勢力が強く、日本が圧倒される心配があったので、民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった。日本の国民が誇りを忘れては非常に具合が悪いと思って、誇りを忘れさせないためにあの宣言を考えたのです。はじめの案では、五箇條ノ御誓文は日本人ならだれでも知っているので、あんまり詳しく入れる必要はないと思ったが、幣原総理を通じてマッカーサー元帥に示したところ、マ元帥が非常に称賛され、全文を発表してもらいたいと希望されたので、国民及び外国に示すことにしました。
昭和天皇、1977年8月23日の会見
この発言により、この詔書がGHQ主導によるものか、昭和天皇主導によるものかという激しい議論が研究者の間で起こった。その後の1990年に前掲の『側近日誌』が刊行され、GHQ主導によるものとしてほぼ決着した。
また、昭和天皇が1977年になって詔書の目的について発言したのは、人間宣言をした昭和天皇を厳しく非難し、1970年に自決した三島由紀夫へ意を及ぼしたためではないかとする指摘がある。
侍従長・藤田尚徳
当時、侍従長であった藤田尚徳は英語で起草された文を和訳した経緯もあり風変わりな詔書となったが、昭和天皇の真意を示すことができたと述べている。また藤田は、明治維新と個性有る明治天皇の登場により明治以降天皇は人間として尊敬されていたが、大正末期から天皇の神格化が行われるようになり、昭和天皇はこれを嫌っていたという見解を示している。
文部大臣・前田多門
文部大臣・前田多門は、学習院院長・山梨勝之進と総理大臣・幣原喜重郎とともに、人間宣言の案文に目を通し、吟味した日本の要人である。また、クェーカー教(プロテスタントのフレンド派)の信徒であり、多くの日本人クリスチャンと同様に天皇を尊崇していた人物である。1945年(昭和20年)12月、天皇は神であると、議会の質疑応答で答弁した。西欧的な概念の神ではないが、「日本の伝統的な概念で、この世の最高位にあるという意味で」は神である、と答えている。
当時の人物の見解
山本七平
終戦後フィリピンで米軍の捕虜になった山本七平らの日本軍将兵に対し、米軍軍人は熱心に進化論の基本概念を教育しようとした。日本人捕虜たちが一向に反発も感銘も示さないことを不思議に思う米軍軍人に対して、山本が「そんなことは日本では子供でも知っている」と言ったところ、その米軍軍人は驚いて「ではなぜ日本人は天皇が神の子孫だと信じているのか?」と反駁したという。
このすれ違いについて山本は、アメリカでのキリスト教根本主義と進歩派の創造論を巡る対立や、東アジアの「父子相隠」の倫理観が根底にあると考察する。さらに「『戦前の日本人が神話を事実と信じていた』という〝神話〝を戦後の日本人は信じている」と述べる。
また、外来の概念を、自文化の似て異なる概念の意味で理解した気になることや、その逆に「元々わが国にあったものだ」として受容させようとする〝掘り起こし共鳴現象〝についても言及している。
三島由紀夫
三島由紀夫は、「僕は、新憲法で天皇が象徴だということを否定しているわけではないのですよ。僕は新憲法まで天皇がお待ちになれず、人間宣言が出たということを残念に思っているのです。いかなる強制があろうとも」と述べている。また、小説『英霊の聲』では、二・二六事件で処刑された青年将校たちや、神風特攻隊で戦死した兵士たちの霊に、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」、「もしすぎし世が架空であり、今の世が現実であるならば、死したる者のため、何ゆゑ陛下ただ御一人は、辛く苦しき架空を護らせ玉はざりしか」、「あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、たつたお孤(ひと)りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。清らかに、小さく光る人間であらせられた。それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人間としての義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、陛下は人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた」と語らせている。
戦後の論説
大原康男と伊藤陽夫の疑義
昭和天皇による神話と伝説の否定、天皇の人間宣言という解釈については、神道界や右派勢力の一部から疑義が提出されている。
大原康男は「日本語の「且」には並列的意味のほかに「その上に」という添加的な意味もある」ことを指摘し、「その上に」という意味にとれば、「架空ナル観念」とされたのは、「天皇ヲ以テ現御神トシ」ということ自体ではなく、それに「日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス」ということが加えられたことと解釈できると述べている。同様のことは、伊藤陽夫も「動ぎなき天皇国日本」(展転社)で主張している。
大辞林は、「且つ」(接続詞)の語義を、「二つの動作・状態が並行あるいは添加して行なわれることを示す。同時に。また。その上。」と説明している。
当時の侍従次長の木下道雄の『側近日記』には、GHQが天皇が神の末裔であることを否定することを要求したのに対して、天皇が「現御神」であることを「架空なること」とすることで切り抜けたことが自慢げに書かれている。『国体の本義』(1937年)などで主張した「現御神」(現人神)を否定したのである(天皇を現御神とすることは古事記・日本書紀に始まることであって『国体の本義』によるものではないが、明治以降の公文書に「現御神」(現人神)が最初に登場したのは「国体の本義」であった。)。
また、大原康男は、皇室では元旦の宮中祭祀のために通例は詔書が出されなかった事を指摘し、さらにこの詔書はGHQによるものであることを検証し、日本人の神観念・天皇観を根底から変革した「人間宣言」の無効を主張している。
小林よしのり
小林よしのりは、GHQが人間宣言を薦めた理由は日本人は天皇を「絶対神」と信じていると誤解したためであるとしている。
漢字の「神」を英訳すると「GOD」となる。しかし日本語(やまとことば)の「カミ」・シナ語の「神(しん)」・西洋の「GOD」は全て違う意味なのだが日本人は十分の自覚も無く三つ全てを「神」と表記する。かつてフランシスコ・ザビエルらのポルトガルの宣教師は「DEUS」を「デウス」で通した。この時代では「DEUS」と「カミ」は違うものであると理解して、この様に通したがシナではアメリカの宣教師が「GOD」を「神(しん)」と訳したが「神(しん)」の意味は自然界の不思議な力を持つ物や心などを表す文字なので「GOD」の意味合いは無いので、いわゆる誤訳である。その後明治時代になり、アメリカの宣教師が来日する様になるとシナ同様、「GOD」を「神(しん)」と訳し日本人も古代からの「カミ」を「神」という字を当ててきたので、明治辺りから「カミ」と「GOD」の混合が始まりGHQは、この混合から日本人は天皇を「GOD」(絶対神)だと信じていると誤解したために昭和天皇に人間宣言をさせたが、それをあえて言うなら「漫画の神様」手塚治虫や「経営の神様」松下幸之助に「人間宣言」をさせるような滑稽な行為であるとしている。また天皇は昔も今も「アキツミカミ」であるが西欧流の「GOD」(絶対神)では決して無いとしている。
また天皇に対する伝統的な「アキツミカミ」の概念は手塚治虫を「漫画の神様」・松下幸之助を「経営の神様」・サッカーのゴールキーパーや野球の抑え投手を「守護神」と呼ぶ様に生理的には人間でも、とてつもなく貴重な人を「神様」と呼ぶ、日本人が思わずやっている伝統的な習慣と同じようなものとしている。また日本人の、こういう感覚は一神教しか知らない欧米人には理解が困難としている。
参考文献
藤田尚徳『侍従長の回想』中央公論社〈中公文庫〉、1987年。ISBN 4122014239。
ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎 (翻訳)、講談社、2003年01月。ISBN 978-4062116756。
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