ゼロの乗算 第2章

 初めて自分から声を掛けた日から幾分か経った頃、クラスの担任は受け持ってないし、部活の顧問もやっていないと言うので、理由を尋ねてみたことがあります。すると、

「俺は非常勤だからねえ」

と答えてくれました。その時はよく分からなかったけど、授業だけ担当して時給をもらう形態をそう呼ぶのだと後々知りました。

 そんな先生が教えてくれる数学は、ことごとく分かりやすいものでした。どれくらいかと言うと、連立方程式を見ても「何故英語と数字が混ざっているのか」という低俗な感想しか抱けなかった自分が、代入法やら加減法やらを何とか使いこなせるようになったくらいです。

 先生は、分からないを連呼する自分に、怒ったりあきれたりするようなことはありませんでした。

「この二つの式はXの係数が一緒だから……。ああ、係数はこの隣にくっついている数字のこと。この式からこの式を引くと、Yだけになって……」

と、放課後の少ない時間をギリギリまで使って、懇切丁寧に教えてくれるのです。だから、私でもどうにかプリントの例題をすべて解けるくらいには理解度が上がったと言うわけです。

 最初の日は、簡単な連立方程式を理解するだけで精一杯でした。一度授業でやったはずなのに、もう一度説明させるなんて申し訳ない。そんな心苦しい気持ちで、お礼とさようならの挨拶を告げようとした私に、先生はかさついた唇を少しだけ開きました。

「ねえ、他の単元でもこうやって分からないところがあるの?」

と。私は正直に、去年の夏から学校へ来ていないこと、他の教科は独学で何とかなっているが、数学だけはどうにもついていけていないことを伝えました。すると先生は眼鏡のレンズ越しに黒目を彷徨わせて、こう言うのです。

「もし良ければ、なんだけど。分からないところがあれば放課後に教えるよ。これからの授業だけじゃなくて、今までのところでも。どうかな」

 何故遠慮がちに言われたのか分からないほど、自分にとっては魅力的な申し出でした。勉強はしたい、でも教室には行きたくない。そんなわがままな自分にわざわざ個別で教えてくれると言うのですから。それに、矢坂先生は物静かではあるものの、それが返って私とウマが合いそうな雰囲気を醸し出していました。これほど美味しい話はありません。

 それからと言うもの、私は先生のところへ度々教えを乞うようになりました。といっても、学校に行く回数が少ないので、週に一度でもあれば多い方でしたが。

 放課後の授業は毎回、教えてもらっているこちら側が、こんなに構ってもらっていいのか、他の生徒から見たら不公平ではないのかと恐縮するような心地になるほど、丁寧な、おもでした。どうしてそんなに親切に教えてくれるのか、その時の私には分かりませんでしたが、とにかく自分の長い間積み重なった疑問を解消してくれるので、これ幸いとたくさん質問していました。

 最初の内は別れ際に次はいつ来られるか、と相談してから帰っていたのですが、何回か放課後の授業を続けていくと、予め次の約束を決めなくても良くなっていきました。気まぐれに学校まで赴いた日、昼休みに職員室まで向かい、そこで先生と放課後の予定を確認します。(一応確認の体は取っていますが、先生の予定は殆ど空いていると言っても差し支えありませんでした)

 放課後にまた職員室まで行って、二人で理科準備室まで向かって、勉強を教えてもらう。大方このような流れが定着していました。

「職員室じゃ他の先生方の邪魔になるし、教室だと誰か入ってくるかもしれないし。理科室や音楽室があるんだから、数学室があればいいのに。それだったら、俺たちはこんなホルマリン臭い理科準備室なんかに押し込められなかったのにね」

と、先生がぼやくように言っていたのを覚えています。

 普通の教室の半分もない広さのそこは、壁際を古い木棚に囲まれていました。そこには、漫画にしか出てこなさそうな試験管や三角フラスコが立ち並び、棚の傍には人体標本が棒立ちになっています。不自然に艶めく偽物の内臓を初めて見た時、放つその非現実的な雰囲気に、同級生は本当にこんな人形を使って勉強しているのかと不思議に思うくらいでした。

 数多の実験器具に見つめられた部屋の中心に、埃を被った長机が置いてあります。理科準備室を訪れる度に、机上をぱっぱっと払ってそこに教科書やノートを並べ立てるのが常でした。放課後は夏でも多少陽が傾くような時間帯ですから、うっすら差した西日に数字やアルファベット、計算記号が書き連ねられます。それがとても綺麗でした。

 分からないところを教えてもらう以外にも、時々雑談を交わしました。といっても、私は人と話すのが苦手だし、先生も勉強を教える以外はあまり喋らない人だったので、勉強の合間に挟み込むような短さでしたが。

 それも、最近は寒くなってきただとか、家に帰ったらどのテレビを見るだとか、誰相手でもできるような話でした。ただ、特定の人としか話さない私にとっては、そんな無駄話ですら新鮮に感じられました。

 合わせて印象的だったことがあります。たまに混じっている難しい問題を解いた時、時間が長引いて遅くなった時、特に何もないけど、先生の気が向いた時。先生はスーツの胸ポケットに入れた、個包装の飴をくれることがありました。

「俺が他の先生に怒られるから、内緒で」

と言いながら。飴はクッキーだったり、チョコレートだったりすることもありましたが、決まって小さい、甘いお菓子でした。それを不思議に思って、甘いものが好きなのかと聞いたことがあります。すると、

「好きじゃないけど、デスクワークしてたら糖分がないと持たないよ。大人になれば分かる」

と、妙に悟ったような表情で頷いていました。それが甘党であるということと何が違うのかと思ったのですが、まあそういうものなのかと飲み込みました。

 休憩を挟みながら解説と共に問題をいくつか解く。それだけで、放課後の約一時間はあっという間に過ぎていきました。時々熱が入って長引くこともあるけど、大抵は遅くなりすぎないように、と早めのお開きとなります。それが惜しく思えるくらい、先生の教えてくれる数学は楽しいものでした。

 驚いたのは、その特別待遇は私が三年生に上がっても続いたことです。その頃には、今までの遅れをすっかり取り戻せており、普段の授業で分からないところを聞きに行くだけになっていたのですが。

 最初に先生と会った時から半年も経っていたので、些細な変化が生まれていました。私の方は、学校に来る楽しみができたことで、登校する頻度が上がっていったこと。そのせいか、先生に忙しくて予定が合わないと放課後の約束を時折断られていたことです。

 先生はそんな時、職員室へ来訪した私に向かって困ったような、寂しそうな顔を見せていました。眉尻を下げて、

「今日は明日の授業の準備があるから、時間が取れないかも。ごめん、次はいつ空いてるかな」

と、埋め合わせのために私の予定を聞いてきました。理由はそれ以外にも、テストの採点だったり、時には家の用事でと答えることもありました。学校の教師とは、得てして忙しい者だと聞きます。それは今も昔も変わらないので、当時の私も特に不満を感じることなく、分かりましたと答えていました。

 それにしても、先生はいつも忙しそうでした。クラスの担任や部活の顧問を受け持っていないとはいえ、それなりの数の授業を担当しており、授業やテストの準備にいつも追われているようでした。

 加えて、当時気になっていたことがあります。何かの話のついでに、ここ以外の学校で勤めていたのかと聞いたことがありました。すると、

「前は大学で教えてたけど、中学はここが初めて。ちょっと親との事情があって、地元に帰ってきたから」

と言っていました。今思うと、ご病気か何かで面倒を見なくてはいけなくなった、ということだったのでしょう。深く内情を聞くことはありませんでしたが。

 学校でも家でも忙しいせいなのか、三年生に上がったあたりから、先生から煙草が強く匂ってくることが多くなりました。それに比例するかのように、飴やチョコレートをくれる回数も多くなっていったように感じられます。

 そんな忙しい中で勉強を教えてもらうのは、ありがたいような、申し訳ないような気持ちでした。

 多少の気がかりはあれど、中学最後の一年はあっという間に過ぎていきました。自宅で過ごしたり、保健室だけ行ったり。三年生は親や担任に促されて、教室まで行くこともありました。そんな自分なりの小さな挑戦と、理科準備室の楽しい時間と、迫り来る受験のせいか、それまでの人生より体感スピードが早く感じられたような気がします。

 高校は同じ中学の人とは会いたくないという理由で、遠方の私立高校を選びました。あんな散々な出席日数でよく受かったものだと、自分でも思います。

 そうして私も、卒業の日を迎えました。

 卒業式の日は、それはそれは天気の良い、気持ちの良い朝でした。

 といっても、私は卒業式すら欠席したので、あまり関係はありませんでしたが。他のクラスメイトの顔もろくに覚えてないのに、卒業式だけ出席なんて、できるわけないのですから。それに、移動や合唱の練習もまったくしていなかったので、周りと違う動きをして恥をかくのが目に見えていたからです。

 それでも、卒業証書だけは取りに行かなきゃいけないと言われ、確か式がすべて終わった後に学校へ向かったと記憶しています。今考えれば、郵送か何かでも良かったと思うのですが、直接渡したいという学校側の意向があったのでしょうか。

 青空には微かな雲が残り、開花の早い桜が風に吹かれていました。大勢の卒業生が既に去った校舎は、いつもより寂しげに見えます。

 その時の担任と学年主任、校長先生がわざわざ私を出迎えてくれて、職員室で卒業証書を受け取りました。もしかしたら教室より、こっちの方が多く訪れていたかもしれない。そんなことを思いながら、軽く会話を交わすだけの卒業式でしたが、随分と気楽でした。

 簡単な式を終えて学校を出る前に、ちょっと校内を歩いてみようかと言う気分になりました。他の生徒に比べてそこまで思い入れはないはずなのですが、もう明日からくることはないと思うと、寂しくなるものなのでしょうか。湧き上がってきた気まぐれに身を任せて、足を校門から校庭へ向け、そのままふらふらと春風の中を歩きました。誰もいない運動場に、いつからか残ったままの石灰の跡。真ん中を突っ切るのは気が引けて、校庭の端に並んだ木々の影を辿っていると、後ろから何かが聞こえてきます。最初は気に留めなかったのですが、耳を澄ませていると、音の正体は私を呼ぶ声のようでした。

 振り返ると、何度も見たスーツ姿がそこに立っていました。日溜まりの中で、その身長以上に伸びた影が揺らいでいます。駆け寄ると、先生は大きな手を肩の辺りまで上げ、まるで今日が何も変わりのない一日のように、軽く手を振りました。

 聞けばその日は式に来る予定はなかったそうなのですが、私が後で卒業証書だけもらう予定だと聞いて来てくれたようでした。

「もしかしたら、迷惑だったかも知れないけど。俺の自己満足」

と言って、先生は唇の端を少しだけ上げ、微笑みのような表情を私に向けました。それが私にとって、嬉しくないはずがありません。

 校舎の端をなぞる足跡が、二人分に増えました。

 春の日差しとは裏腹に薄暗い木陰の中で、先生は誰に聞かせるでもないような声色で少しずつ話してくれました。

「覚えてる? 最初に小椋くんがプリント持って、ここを教えて欲しいって来た時。あれねえ、実は初めてだったんだよ。放課後に、生徒にわざわざ質問に来られるの。子どもって苦手だし、仲良くもなかったから。それに、授業しかしてなくて、他のイベントには一切顔出してなかったからね。だから、嬉しかった。それで柄にもなく張り切っちゃって」

 少し上を向く先生の表情は窺えなかったけど、息づかいと、微かなタールの匂いだけが私の元へ届きます。

「結局小椋くんが学校に来なかった理由とか聞かなかったけどさ。……俺、押しつけがましくなかったかな。来る度に勉強教えるなんて」

 この人は今更何を言っているんだろう、というのが正直な感想でした。学校に来た日は必ず職員室を訪れていたのはこっちの方なのに。むしろ迷惑を掛けていないか心配していたくらいなのに。そう頭の中で考えていたのが、気づけば脊髄だけを通って口から漏れ出ていました。

 先生はしばらく何も言いませんでした。ただ、バラバラの足音が、静かに静かに凪ぐ空気の中で浮かんでは消えていきます。ふと見上げると、綺麗に磨かれたレンズから私を見る眼があります。一年半で、あんなに遠かった先生の顔が少し近くなったような気がしました。

「うん……。そうか。ありがとう。小椋くんがそう思ってたなら良かった。君に教えているのが、すごく楽しかったから」

 私たちは校庭をゆっくり一周回って、校門で別れを告げました。最後に「高校でも頑張ってね」と握手をしてくれたのが印象に残っています。

 もう行く度に会えるようなことはないんだと、苦い薬を飲み込んだような気分。それを覆い隠すように笑ってから、そっと通学路へと足を踏み出しました。


 あんなに苦労した中学時代が嘘のように、高校生活は楽しいものでした。

 流石に最初はクラスに馴染めるか、また同じ失敗を繰り返さないかと不安を覚えながら通っていました。しかし、遠方の学校を選んだおかげで、自分の過去を知る者がいなかったのも幸いし、何人かの友人にも恵まれ、順調なスタートを切ることができました。

 ハンデを背負っていたにも関わらず、勉強も何とかついていくことができました。入ったハンドボール部も自分には合っていて、夢中になっていたせいか身長も伸び、体格も変わりました。中学の同級生がその時の私とすれ違っても、きっと気づくことがないだろうと思うくらいに。休み時間中に友人と雑談に興じることも、テスト前に放って置いた課題を必死に終わらせることも、部活終わりの空きっ腹にコンビニで買ったアメリカンドッグを詰め込むことも、全部が楽しく、渦潮のように私を呑み込んでは過ぎ去っていきました。

 気づけば年齢は十八歳。大学受験も第一志望に合格し、高校生活も終わりを迎えようとしていました。

 進学先は県外にある理学部の数学科を選びました。自分の住む県に数学を学べる大学がないので、親に頭を下げて一人暮らしの許可をもらいました。そこまでして数学科を選んだのは、楽しい高校生活を経てもなお、脳髄に染みついた矢坂先生との思い出が私をそうさせたからです。

 最初は無意識でした。周りが何となく受験を意識しだした三年生の春、自分なら理学部か工学部か、と漠然と考えてはいました。

 確か夏休みに入る前、進路希望表を書かされました。志望する大学と学部・学科をいくつか書け、というものです。

 その時はまだ具体的に考えられていなかったから、この大学の理学部、物理学科、数学科……と適当に並べていました。その時に矢坂先生の顔が思い浮かんだのです。

 あんなにお世話になった先生なのだから、忘れていたなんてことは断じてありません。ただ、あまりにも楽しかった高校の思い出の数々が、黒歴史とも言える十代前半の記憶を先生ごと塗りつぶしていたのは事実でした。

 受験を機に思い起こされた先生の存在は、進路に迷う私の背中を押すのには十分でした。

 進路先を決めた動機こそ少し特殊だったものの、それ以外は至って普通の受験生活を過ごしました。学校で問題集を解き、放課後は塾に通い、帰りの電車で単語帳を開く。それなりの努力が実り、三月頭には合格発表の掲示板に張り出された自分の受験番号を見つけることができたというわけです。

 そして合格発表の一週間後、私は母校である中学へ出向いていました。

 高校最後の春休みは、人生でこれ以上暇な時はもうないんじゃないかと思えるほど、やることがなかったのです。一応友人と遊ぶ約束はあるし、大学から出された事前課題も終わらせなければいけなかったのですが、それらも一ヶ月という膨大な時間を埋めるには到底足りませんでした。

 それなら、もう一度矢坂先生へ会いに行こうと。中学を卒業して以来会っていないし、引っ越す前にもう一度顔を見てみたい。それに、先生のおかげで数学科の大学へ行きますと伝えたら、きっと喜んでくれるはず。そう思ったのです。

 中学ももう春休みに入っているらしく、フェンス越しに見る校舎に人の出入りはありません。校庭で野球部らしき男子生徒たちがランニングをしているくらいでした。

 先生は自分が卒業した次の年もここで働くと言っていたけれど、その後の行方は分かっていませんでした。しかし、ろくに友人もいないため、先生の行方を知る術はこうして直接学校に向かうしかなかったのです。

 昔は誰かに会わないかと緊張しながら校門をくぐっていたが、今は卒業生だからと違う理由で心臓がドキドキと鳴ります。それは自分が少し大人になったからのように感じられて、悪い気はしませんでした。

 一度も使ったことのなかった来客用の入り口で靴を脱ぎ、何年かぶりの職員室へ向かいます。靴下越しに踏む冷たい廊下の感触が、やけに踵へ響いていました。当時の記憶を辿りながら歩いていると、

「あれ? 小椋くん?」

 自分の名を呼ぶ声に思わず振り返ると、桜色のブラウスを着た初老の女性が立っていました。少し人相が変わっていたものの、その顔には見覚えがありました。二年の時に私のクラスを担当していた先生です。

「私のこと、覚えてる? 今日はどうしてここに?」

 彼女はパタパタとスリッパを鳴らし、こちらまで駆け寄ってきます。会うのは中二の時以来だが、白い肌の中に浮かぶいたずらっぽい笑みは変わっていません。

「随分大人っぽくなってたから、一瞬分からなかったけど。よく来てくれたね」

 聞けば、顧問をしている新聞部のために春休みも学校へ来ているのだと言います。並んで職員室まで向かいながら、高校は楽しく通えていたこと、大学に受かったことを報告しました。

 いざ職員室に着いた時、ドアに手を掛けながら先生はこちらへ視線を向けます。

「そういえば、何で来たのか聞いてなかったね。誰か呼ぶ?」

 そう聞かれ矢坂先生の名前を告げた瞬間、ドアに掛けられた手が止まりました。数秒の静寂が流れ、不審に思って先生の顔を見ると、先ほどまで明るかった顔色に寒い青の色が差しているように見えます。

 先生は開けかけていた引き戸を閉め、顔をぐいっと近づけてきました。ただならぬ雰囲気に、少し腰が引けてしまいます。

「あのね、小椋くん。落ち着いて聞いて欲しいんだけど。実はもう、矢坂先生はいらっしゃらないの」

 学校を辞めたということか、と聞くと、先生は小さく首を振ります。

「矢坂先生ね、……、お亡くなりに、なっていて」

 頭が言葉を理解するまで、永遠のように長い五秒を要しました。

「多分、小椋くんが卒業した次の年だったんだけど。その時全校集会が開かれたんだけど、卒業生に連絡はしてなかったのよね、そういえば」

 聞くと、私が卒業した翌年の秋、普段は滅多に休まない矢坂先生が突然来ない朝があったそうなのです。携帯に掛けても連絡がつかない。そこで緊急性があると判断され、警察を呼んだ結果、自宅で死亡が確認された……という経緯だそうです。

 そこまで説明を聞いても、未だ『お亡くなりに』の六文字が飲み込めない私は、唯一の情報源である彼女を問い詰めました。何故彼は死んだのか、事故か? 病気か? 死因など聞いても矢坂先生が生き返るわけではないのに、パニックになったその時の自分にはそんな簡単なことも分からなかったのです。押し問答を四、五分は続けていたでしょうか。私のあまりの剣幕に、谷口先生は折れたようでぽつんと呟きました。

「……そうね。小椋くん、矢坂先生にはよくしてもらってたもんね」

 そう言って、先生はドアから数歩離れ、私を手招きしました。そこには、他の人には聞かれたくないという意思が見られます。

「絶対に友達とか、親御さんには言っちゃだめだからね」

 谷口先生は鮮やかな口紅を引いた唇を、言いづらそうに二、三度上下させた後、ごくりと唾を飲み込みました。

「自分で、らしいの。流石に方法までは分からないけど。……私もだけど、学校の先生って残業が多いから。それに加えて、家のご都合とか色々あったって。詳しくは知らないし、知ってたとしてもそこまでは言えないけどね。とにかく、他の生徒にはただお亡くなりになったとだけ知らせてるから、絶対に口外しちゃだめよ……」

 よく頭を殴られたような衝撃、と言いますが、そんな優しいものでは例えられないショックでした。私が高校生活を謳歌している間、私を見守ってくれた恩師はとっくにこの世にいなかったのですから。しかも、自ら命を絶ったなんて……。

 私はどうにかして帰った実家の自室で、中学時代に使っていたプリントを広げていました。いつか使うかもと取っておいたもので、国語やら英語やら色んな教科が入り交じっていましたが、その中でも圧倒的に書き込みが多いのは数学のものでした。そこには自分の字も多かったのですが、所々に際立って筆圧の強い、目立つボールペン書きの文字があります。先生の書いた文字でした。数字、計算記号、時々アルファベットや日本語。そのどれもが、もう書かれることのない筆跡だなんて、とても信じられませんでした。

 あの時の放課後のような、うっすらオレンジ色の入った夕日が、部屋の窓から差して私や広げられたプリントを照らしていました。

 本当に先生は死んだのか? そう懐疑的になる自分もいなくはなかったのですが、谷口先生があんな悪趣味な嘘をつく理由も見当たりません。それに、先生は確かに学校でもその外でも忙しそうにしていましたから、谷口先生の話とも辻褄が合います。

 とにかく、亡くなったのが嘘でも本当でも確固たる証拠が欲しい。そう思い、母にひとつ頼み事をしました。近所で連絡が取れる、私と同級生だった知り合いはいないかと。母は突飛なお願いに驚いていたようですが、私と違い社交的な性格をしていたせいか、何人かの連絡先を教えてくれました。

 そして、その連絡先に片っ端から電話を掛けました。普段の私からは想像もできないほどの行動力です。とにかく、真実を知りたくて必死でした。

 最初の二、三件は同級生が留守でしたが、同じ中学に通っていた一人と連絡を取ることができました。私のひとつ下の男子高校生で、矢坂先生が死んだとされる年に在学していた子です。

 初対面でこの先生を覚えているか、と不可解な問いをしたにも関わらず、彼は丁寧に教えてくれました。

「矢坂先生? あー、覚えてますよ。数学の先生ですよね。確か授業を受けた記憶があります。あ、はい。そうですそうです。俺が三年生の時、全校集会が開かれたんですよね。その矢坂先生が亡くなったので、黙祷をしましょうって。死因ですか? 流石にそこまでは言ってなかったかな……。突然だったから全然信じられなかったんですけど、確かにその後矢坂先生を見かけなかったし、学校がそんな意味のない嘘をつく理由も分かんないかなって。まあ多分、そういうことなんだろうなって……」

 お礼を言って電話を切った後も、しばらく信じられない自分がいました。だって突然、貴方の恩師は数年前に死にましたなんて、受け入れられるはずがありません。

 何でそんな、急に死んだなんて。私が高校生活を楽しんでいる内に、自ら命を絶ちたい程の苦しみにさいなまれていたのでしょうか。動機が分からない以上、想像の余地もありませんでしたが。

 再び部屋に戻ると、そのままにしてあったA4の紙が散らばって、私を待っていました。そこへ書き走られた文字が、事実を否定したい心をますます揺さぶります。

 先生がいつも匂わせていた、重い煙草を思い出します。忙しいと申し訳なさそうに私のお願いを断っていたこと、よくくれた飴にクッキー、チョコレート。あれらももしかしたら、彼が自ら死を選んだことへの予兆だったのでしょうか。

 あまりにも非現実的で、涙ひとつ流れては来ませんでした。その代わりに、ただ夕焼けの中でプリントを眺めるだけの空虚な時間を貪ります。私を癒やしも慰めもしない、吹き溜まるような重い時間を……。


 それからの大学生活は、高校とは打って変わって中身のない、空気を齧っているような生活でした。

 三年も矢坂先生のことを忘れていたのに、ここまで悲しく、空虚な気持ちになるなんて。無意識下にあの思い出たちがフィルムカメラのようにくっきりと焼き付いていたとでも言うのでしょうか。

 自分で言うのも気が引けますが、そこそこ名の知れた良い大学でしたので、こんなにも怠惰な気持ちで通っているのが申し訳ないと思えるほどでした。講義で学ぶ高等な数式や理論の数々は確かに楽しくは感じられました。しかし、線形代数も、常微分方程式も、フーリエ解析も、私の心を動かすには至りません。いつまでも私の心を捉えて放さないのは、あの夕焼けの中で教えてもらったごく簡単な一次方程式なのですから。

 こんなことではいけないと、普通の大学生として世に溶け込む努力をいくつもしてきました。興味が持てそうな演劇サークルへ入って脚本を書いたり、塾講師のアルバイトにいそしんだり。幸いなことに大学でも友人に恵まれ、一時期でしたが女性と付き合うこともありました。それなりに充実した大学生活だったと思います。数学自体も嫌いではなかったので、勉強も苦ではありませんでした。就職活動と天秤に掛けて、大学院への進学を選んだほどです。親がお金を出してくれたことにも甘えて、修士課程、博士課程と二十代の大半を学問に費やしていました。

 そこまで行ったらもう突き詰めてしまった方が良いだろうと考えて、そこからは一応研究職を名乗っています。ポストドクターを経て、いまや助教授です。笑っちゃうでしょう。ろくに学校へ通えなかった私が、大学の教壇で偉そうに講義なんてしているのですから。

 ここまで書いてみて、自分でも恵まれた人生だなと思います。親は学校に行かなくても自分を応援してくれて、恩師に出会ったおかげで立ち直れて、厳しいと言われる研究の世界で職にもありつけているのですから。今から死ぬのがもったいないくらいだ。

 一年程前でしょうか、休みのついでに実家に帰りました。学生の頃はよく顔を出していたのですが、仕事をするようになるとなかなかに忙しくて、久しぶりの帰省でした。年を重ねて褪せた白壁や、角の削れた机、皺の増えた両親。すべてが懐かしく、私をセンチメンタルな心境にさせます。

 それらの中に、あったんですよ。あのプリントです。未だに置いてあった私の学習机の引き出しへ、山のように眠っていました。

 最初は懐かしいなあなんて独りごちながら、一枚一枚を丁寧に眺めていました。二十数年ぶりに見る中学数学の問題は、まるで幼い子ども向けのなぞなぞのように感じられます。

 先生の書いた文字も、未だ彼が存命しているかのように生き生きと綴られていました。

『これを二つに分ける X+1 X+7』

『サイコロの合計が7になる時』

『合同の条件 線分と角度』

 ……ふと、文字をなぞる指先が目につきました。もう若くない男の手です。浅黒い皮膚と血色の悪い爪が目立ちます。

 その時は、中学生の頃に比べて成長した部分に目が行ったんだろうと思っていました。でも、そうではありませんでした。

 それから、やたらと鏡を見るようになりました。出勤前の準備で、クローゼットを開ける時に並べられた服を数秒見つめることがありました。なぜだか毎日、気味悪く思いながら伸びた髭を剃っていました。それらの不可解な感情や行動がすべて、昔の自分と比べて、違うところを探しては気持ちが悪くなっているからだと気づいたのは、帰省から三ヶ月は経った後でした。

 私は今年で四十になります。世間一般で言えば中高年と呼ばれる年齢に差し掛かっていますし、いつまでも十代、二十代と同じ若さを保てるなどと愚かな考えを持っているわけではありません。ただ、顔に刻まれた皺や髭の剃り跡を見る度に、恐ろしく虚しくなるのです。私は随分と年を重ねてしまったんだと。先生に追いついてしまうほどに。

 先生の年齢を明確に聞いたことはありませんでしたが、大体四十前後だったように見えました。よく自分のことをおじさんだと言って自嘲していたのを覚えています。

 先生。私、学校を卒業した後に身長が百七十三センチまで伸びたんです。靴のサイズは二十六センチ。煙草も吸っています。この前は健康診断で、血圧を注意されちゃって。研究と教師の真似事で毎月お給料をもらって、時々親にご飯を奢ったりしているんです。ねえ。先生と同じ、数学の先生になれたんですよ。

 先生、こんな私じゃ、もう先生に数学を教えてもらうことなんてできないでしょうか。

 三十九歳になった頃から、次の誕生日がだんだん脅威に感じられてきました。三十代を抜けたら、これ以上年を取ったら、いよいよ先生に教えを乞うことができなくなってしまう気がして。分かってます。元々先生は死んでいるってことくらい。それでも怖かった。

 今まで先生が死んだ事実は受け入れて、普通の生活を送っているつもりでした。でもそれはとんだ勘違いでした。私は初めて先生の訃報を聞いた時のショックを、無意識下に押し込めていただけだったのです。それが四十を目前にして、春を目前にした花々のように、ゆっくり蕾が解けていくのが分かりました。

 あの理科準備室で過ごした時間が、もう二度と手に入らなくなること。それが私にとって何より恐ろしい……。

 明日の十月一日、私の誕生日です。ちょうど、大学の授業も始まる日です。学生や他の先生方を驚かせてしまうでしょうか。そこまで真似をするつもりはなかったのですが。

 馬鹿なことをしたと、笑ってやってください。最後に飴でも舐めて、それから先生に会いに行こうと思います。

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ゼロの乗算 / 雪六華 作 名古屋市立大学文藝部 @NCUbungei

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