ゼロの乗算 / 雪六華 作

名古屋市立大学文藝部

ゼロの乗算 第1章

 私がこれより先に綴る文を読んでも、大抵の人は理解しがたいと感じることでしょう。いや、誰一人分かってくれなくてもおかしくない。

 それでも、遺書とは別にこの手紙を遺しておきます。そうでないと特に際立った悩みもない男が、突然自ら命を絶ったという不可解な謎を世にひとつ遺してしまうから。誰にも分からなかったとて、誰にも話したことのない苦しみを心の外へ出してから死にたいと、そう思ったのです。

 数少ない知り合い、恐らく現場検証か何かをする警察の方、ここまでの経緯を知りたいと思った物好きな方へ。つまらない身の上話になりますが、読んでいただけるのであれば嬉しい限りです。

 私の生まれ育った土地は、郊外と言えば聞こえは良いですが、駅へ行くのにも車を使うような田舎の奥地でした。かといって、田んぼの広がる自然豊かな場所でもありません。古いアスファルトの道路には亀裂から雑草が邪魔くさく生い茂り、ガードレールは遠くからだと薄茶色に見紛う程錆びてくすんでいました。ざっと四、五十年は前に立てられたような佇まいの家がぽつぽつと並び、コンビニと称するくせに午後十時には閉まる店が、同業者がいないのを良いことに幅を利かせています。そこに住んでいたのはもう二十年も前なのに、今でも町の様子が詳細に思い出せます。そんな片田舎で、私は貴重な青春時代を食い潰していました。

 そう説明すると、生まれ育った環境のせいで人生の春を謳歌おうかできていないようにも聞こえるでしょうが、まるっきり周囲のせいというわけでもありません。どんな辺鄙へんぴな土地に生を受けたって、学校で勉学に打ち込むなり、気の合う友人を見つけるなり、退屈な日々を充実させる何かしらの方法はあるはずですから。自分にはそれを見つける能すらないというだけの話でした。

 端的に言えば、自分は不登校と呼ばれる状態に陥りかけていたのです。陥った、と断言しないのは、一応月に何回かは学校に行くこともあったからです。といっても、そのうち教室まで行くのなんて稀なパターンで、大抵は保健室止まりでしたが。

 特にクラスでいじめにあっただとか、担任とそりが合わないだとか、明確な理由はありません。ただ、田舎の公立ゆえに、その治安は決して良いものとは言えませんでした。各学年に何人かは派手な金髪を携えた不良が肩で風を切って歩き、いじめは当然のように横行し、授業は生徒の私語でろくに教師の声が届かない有様。私のいたクラスは特に酷くて、いじめと言う名前の暴行や侮辱が平気で飛び交っているような環境でした。同じクラスの不良が窓ガラスを割って、学年集会が開かれたこともあるくらいでした。それでも、入学したばかりの頃は頑張って通っていました。その年の秋頃でしょうか。猛暑で体力を落としたせいか、風邪を引いて二、三日休んだことがありました。まあすぐに症状は治まったのですが、元気になった翌朝、布団の中でふと、ある考えがよぎりました。今日学校に行っても、いつものように誰かが何か問題を起こしていて、怒り心頭の学年主任に巻き込まれる形で怒鳴られるんだろうなあって。そこから足が遠のき始め、二年生に進級する頃にはそのような惨状に陥っていました。

 幸い、両親は学校の状況も行きたくない自分の心境にも理解を示してくれました。いや、理解を示さざるを得ないほど酷い環境だったからかもしれません。とにかく、家に引きこもる息子に対し、そっとしておいてくれているのは事実でした。勉強だけはしておきなさいと言われ、買いそろえてもらった参考書で机に向かう日々を送っていました。

 だけども、たかだか十四歳の独学なんて至らないことも多かったです。はっきりと比べたことはありませんが、同級生に比べて遅れを取っているのは明確でした。そのことに対し、うっすらとした危機感とコンプレックスを抱えてはいたけど、そんな焦りに刺激されてもなお、月に数回保健室に通う程度でした。教室に行ったところで、遅れを取り戻せる程授業が分かりやすいとは思えなかったし、かえって余計なストレスを抱えることになるのが目に見えているからです。アスファルトの照り返しで蒸された暑い気候とは裏腹に、生ぬるい環境に揉まれ、両親の理解に甘える自分に苛立ち、時間を浪費するだけの日々が続いていました。

 その唯一通っている保健室でも、特別なことはしていませんでした。もはや教室よりも通う期間が長くなってしまったその部屋は、一歩踏み入れるだけで何となく窮屈きゅうくつな印象を覚えます。それは生徒数が少ないせいで、保健室だけでなく学校全体が小さく、こじんまりした建物だからというのが理由なのですが。

 ただでさえ狭い部屋の真ん中に、大きなオフィステーブルが陣取っています。時々の登校では、そこで教科書やノートを広げて勉強するのが常でした。保健室の先生はよく言えば生徒に対して放任主義、悪く言えば無関心な人で、本来怪我や病気をした生徒が利用するはずの保健室を勉強に使っても小言すら言いません。これが甘えた中学生の不登校を大いに増長させました。

 二学期が始まりしばらくたった九月中旬、私は今学期で二回目か三回目の登校を果たしていました。他の生徒が教室で担任の話に耳を傾けているように、自分も一応机に向かっていたのです。シャープペンシルを走らせていたのは、前に学校へ来た時に担任からもらった数学のプリント。文章題が何問か書かれており、Aさんが値段の分からないリンゴとバナナをいくつか購入した旨が書かれていました。

 実は、と言う程でもないが、主要な五教科の中で一番苦手なのが数学でした。国語は本を読むのが好きだから苦ではないし、英語も文法書とにらめっこをしてどうにか矛盾のない文章を書くことができていました。理科と社会は単語を覚えれば壊滅的についていけなくなることはありません。でも、数学だけはそうはいきません。教科書に載っている公式に数字を当てはめてみても、どうも正しい数字が出てこないのです。困って解説を見ても、何が何だか分からない理論が展開されていて、さっぱり分かりません。おかげで、他の教科は平均より少し上くらいの成績をつけてもらっていたのですが、数学だけはどうもできが悪かった。何とか勉強についていけてることが、親に学校へ行かないことを許容してもらっている要因のひとつなので、どこかでしっかり遅れを取り戻したいとはぼんやり考えていたのですが、解決策は思いついていませんでした。

 だから勉強をしていると言っても、適当に数字を書いて、消しての繰り返し。プリントも授業で使っているものをもらっているだけで、提出義務はないのでますますやる気が出ませんでした。はあ、と誰が聞くでもない溜息を零しながら、壁に掛けてある時計を見ると、時刻は十時四十分。そろそろ二時間目終わりのチャイムが鳴る頃でしたでしょうか。保健室には、真ん中のオフィステーブルとは別にある養護教諭用の机で、先生がキーボードをタイピングする音だけが響いています。きっと、保健だよりか何かを作っているのだろう。そう思いながら、意識がプリントから逸れ、ふわりと宙に浮かびかけた時、

 コン、コン、

 と、自分の背後で硬いものを叩く音が二回鳴りました。後ろにあるものと言えば、クリーム色に塗られた引き戸しかありません。つまり、ドアをノックする音です。

 そう認識するより前に、自分の脚は立ち上がっていました。

 普段は特に気にもせずに、保健室の真ん中を堂々と占拠していたのですが、他の生徒に見られるかも知れないとなるとそうはいきません。本来授業であるはずの時間に、健康な生徒がこんなところで勉強しているなんて、その時の私にとっては恥ずかしくて仕方がありませんでした。親や先生は許してくれているのだから別に良いのかもしれませんが、そうやって堂々と居直れるくらいなら最初から教室まで行っていることでしょう。だから本来の利用者の気配がすると、大急ぎで隠れる習慣がすっかり身についてしまっていました。

 と言っても、小さな保健室の中で隠れられる場所なんてひとつしかありません。部屋の大半を覆っているベージュのカーテンを開け、飛び込みました。中には無機質な白のパイプベッドが置かれ、急病で気分の悪くなった生徒を待ち受けています。がらり、と音を立てて開けられるドアを尻目に、慌ててカーテンを閉めました。

 ノックの主は足音と共に保健室へ入ってきました。しばらく聞き耳を立てていると、養護教諭と会話している様子が窺えます。しかし、そんな時間帯に来訪者なんて、とカーテンの中で不思議がっていました。生徒が少ない分、病人や怪我人も少ないし、静かな授業中より皆が部活で動き回る放課後の方が賑わっているイメージがあったからです。担任が自分のためにここまで来てくれることもありましたが、それも大抵は昼休みでした。

 しばらく息を潜めていると、ふと違和感に気づきました。聞こえてくる声が、やけに低いのです。養護教諭のやわい女声とは対照的な、低くかさついた声。声変わりの過渡期にある中学生のものとは思えませんでした。それに、カーテン越しにシルエットを見てみても、優に百八十センチはありそうです。恐らく先生のうちの誰かだろうと思ったのですが、その時の担任は女性でしたし、朧気な記憶を辿ってみても、思い当たる人物はいませんでした。

 そう思案していると、こちらへ呼びかける養護教諭の声が聞こえます。

小椋おぐらくん、開けても良いかな。先生がプリント持ってきてくれたみたい」

 やっぱり教師のうちの誰かだったようです。でも、いつもみたいに担任の先生じゃないのはどういうことだろう、と疑問に思いながら、恐る恐るカーテンを開けました。

 まず空けた隙間から見えたのは、見慣れた養護教諭の顔。丸く人当たりの良さそうな瞳がこちらを覗いています。その後ろで、存在感のある背丈が立っていました。

 顔を見てみても、やはり覚えはありません。男性にしてはやや伸びた髪が、フレームレスの眼鏡と相まって、どことなく大人しそうな印象を受けます。

「あ、ごめんなさい」

 先ほどまで聞こえてきた低い声が、こちらに話しかけてきます。

谷口たにぐち先生が忙しいみたいで。僕もこの後授業入っちゃってるので、先にと思って」

 そう言いながら、パステルグリーンが鮮やかなカーディガンの横から腕を伸ばしてきます。手には何枚かのプリントが握られていました。

 初対面の人を相手に戸惑いながらも受け取り、何とかお礼を告げると、「じゃあ、これで」とその男性はさっさと行ってしまいました。去り際、横から見たその猫背がやけに印象的でした。

 少しの足音と古いドアを閉める大きな音で、彼が部屋を出て行ったのを悟ります。すると、まだベッドの傍らにいた先生が何気ない様子で問うてきました。

「初めて会った? ヤサカ先生」

 そう聞かれるほど、訝しげな表情が出ていたのでしょうか。素直に頷くと、彼女もそうだよねとでも言いたげに小さな顎を上下させます。

「やっぱり。今年来た先生だし、授業もあまり担当してないから。確か小椋くんのクラスで、数学の担当なんだよ」

 それだけ答えて、養護教諭は自分のデスクまで戻っていきました。その後をついていくように、自分もベッドから立ち上がります。

 もらった用紙を改めて見てみると、国語や社会に混じって数学のプリントもありました。また『分からない』の感情が積み重なっていくようで、私の気分を重くさせます。とりあえず分かるものから片付けていこうと、数学のプリントはまとめて机の端に寄せていると、ふと考えが浮かびましだ。珍しく数学の先生が来たのなら、分からないところを聞けば良かったと。しかしこれから授業があると言っていたし、そうお願いするのも勇気がいるし。普段授業に出ていない生徒にわざわざ教えるなんて、面倒がられないだろうか。様々な不安がせっかくの思案を塗りつぶしていくようでしだ。

 ただ、短い時間で得た第一印象では、自分の苦手な体育会系の熱血な印象は受けなかったし、むやみやたらに叱責してきそうなタイプにも見えませんでした。一年生の時に数学を担当していた教師は、クラスが学級崩壊気味なのもあってやたらと怒鳴ってくる人だったのです。それが比較対象なせいか、あの男性はまだ穏やかそうに見えました。

 とりあえず解答できそうな国語のプリントの上でシャープペンシルを滑らせつつ、ぼんやりと考えます。

 学校に来なくなってから、先生に分からない箇所を教えてもらうといった行為は、あまりしなくなっていました。どうしてもできないところがあれば親か、時々会う担任に聞くことで間に合っていたからです。けれど、親は中学数学でも難しいと言うし、今年の担任は国語の先生だから聞くわけにもいきません。かと言って、数学が得意な生徒や教師へのもありませんでした。

 たまには、思い切って聞いてみても良いのかな。そんな勇気のようなものが微かにあるものの、背中を押してくれるまでには至りません。

 揺らぐ気持ちを胸に抱えながら問題を解いていたけれど、人の脳はひとつのことをずっと考え続けられるほど器用にはできておらず、昼休みのチャイムが鳴る頃にはそんな思索もすっかり消え失せてしまっていました。

 その次に学校へ行こうという気になったのは、一週間以上後のことでした。

 何となく学校へ行く足が遠のいてしまったように、逆に今日は行ってみようとなるのも決定打はありません。朝早く目が覚めたから。起き上がった時に立ちくらみがしなかったから。原因は分からないけど、気分が明るかったから。そんな些細な体調や気持ちの揺らぎが、私の生活を支配していました。

 他の生徒と鉢合わせないように少し遅めの時間に家を出て、一時間目が始まった少し後に学校へ着く。音を立てないように上履きへ履き替えて保健室へ向かう。そんな、他の中学生はきっと体験していないであろう、ちゃちな習慣をなぞるような午前中。

 その日は普通に自習をしていると、あの男性ではなく、担任の女性教師が昼休みに保健室まで来てくれました。この人は幾分優しい気性の人で、時々教室に来てみないかと発破をかけてくることはあっても、無理に連れ出すようなことはしません。それが教育的な観点で正しいのかは分かりませんが、自分にとってはありがたい話でした。ただ、勉強は後れを取らずちゃんとついていけているのか、家ではどのように過ごしているのかと普段の様子を細かくチェックされることがありました。学校の先生としてそれは当たり前の責務と言えばそうなのですが、問い詰められているような気分でした。

 今日もそんな日で、問題集やノートを広げた机の側で向かいあって言葉を交わしていました。話題は、奇しくも数学の成績について。

「うーん、私が教えられたら良いんだけどね。来年は受験もあるし、あまり躓かないようにはしたいんだけど……」

 皺の入った白い手が触るのは、先週から殆ど書き込まれていない、もらったあのプリントでした。前から数学だけが苦手というのはもう知られていて、時々交わす会話も専らそれが話題を占有していました。その度に数学だけでも教室に来て授業を受けないかと言われているので、勝手ながら少々うんざりした気分もありました。幸い、断ればその場はしつこく誘われることはないのは救いでしたが。

 今日も同じように教室へ行く方へ話を持って行かれるのでは、と戦々恐々としながら女性物のブラウスの上で視線を彷徨わせていると、先生は細めた瞼の隙間からその紙面をじろじろと眺め回した後に、「そうだ」と目の前に座っている自分にしか聞こえないような声で呟きました。

「ヤサカ先生に直接教えてもらうのはどうかな」

 ヤサカ先生。この前聞いた名前です。思いもよらない名前と話の展開にやや面食らっていると、担任は構わず口を動かしました。

「ほら、この前先生の代わりにプリント届けてくださった人。覚えてる? あの先生、うちのクラスで数学の担当なの。本当はいつも言ってるみたいに授業を受けられたらいいんだけど……。実を言うと、毎回教室に行かないかって誘われるの、嫌でしょう?」

 彼女は見抜いてますよと言わんばかりに、いたずらっぽい笑みを浮かべました。思わず言葉に詰まります。

 先日の養護教諭と言い、そんなに私は隠すべき感情が顔に出てしまっているのでしょうか。

「ヤサカ先生は担当してるクラスもそんなに多くないし、確か部活の顧問もやってないはずだから、職員室に行けば大体いると思うよ」

 担任はここぞとばかりにヤサカ先生とやらのプレゼンテーションをまくし立ててきます。

「だからね、小椋くんがもし大丈夫なら行ってみるといいよ。よっぽど忙しくなければ、断られることもないと思うし」

 教室に行くよりはマシな提案に思えましたが、ほぼ初対面の相手に話しかけに行くという提案を迷いなく首肯できるほどの自信がなかったので、「考えてみます」と曖昧な返事を返すことしかできませんでした。すると、いつもよりは前向きな返答を得られたことに満足したのか、担任はニコニコと屈託のない笑みを浮かべ、その日の面談は終了しました。

 座面だけは柔らかいパイプ椅子に太ももを敷き直して、考えます。

 多少はリップサービスも含むとは言え、そんな度胸もないくせに肯定的に返してしまいました。だけど、こんな私ですら気に掛けてくれる担任の提案を蹴り続けるのも気が引けます。それに、ただでさえ良くはない成績や内申のことも気がかりでした。先週の記憶なんて既に霞の中でしたが、あの先生の穏やかそうな悪くない印象は辛うじて形を留めています。無碍にされることはないだろうし、頑張れば話しかけられるんじゃないか……。そんな脳内で蜷局とぐろを巻く思惟しいが、一応は前向きに頭をもたげていました。

 昼休みが終わる頃、保健室の片隅で誰も気づかないほど小さな決意を固める音が鳴りました。といっても、職員室へ行く過程で他の生徒に会うことは避けたい事態でした。保健室から職員室へはそう遠くなかったと思いますが、万が一を考えると守られた箱庭から出る気にはなれなくて、結局ささくれたドアに手をかけられたのは六時間目が終わってから少し後のことでした。

 大抵の生徒は帰路に着いているか、部活に取り組んでいる時分でした。校庭からは練習に精を出す野太い掛け声が聞こえてきます。

 職員室は何度か行ったことがあったので、迷わずに辿りつくことができました。部活の指導に出ている人も多いのか、並ぶデスクの数の割には人が少ないように見えました。それでも、あちこちに積み重なった書類や教科書のせいか、そこまでうるさくはないのに賑やかさを感じる不思議な空間でした。

 声を掛けるために二、三度呼吸を落ち着けていると、近くに座っていた若い女性の先生がドアの側で立ち尽くす私に気づいたようで、大きな二重の瞳をこちらに向けました。私がヤサカ先生の名前を出すと彼女は立ち上がり、スカートの裾をひらめかせて煩雑なデスク同士の隙間を縫っていきました。しばらく待っていると、申し訳なさそうな色を浮かべた表情と共にこちらへ帰ってきます。

「ごめんね、今はいないみたい。多分煙草吸いに行ってると思うから、喫煙所かどこかだと思うよ」

 その場ではお礼を言って職員室を後にしたものの、そこからが大変でした。生徒である自分が喫煙所の場所なんて分からないくせに、そこまでの経路を聞き忘れたからです。その事実に気づいたのは数分廊下を歩いた後で、わざわざ引き返すのもと横着したのがいけませんでした。小さな中学校とはいえ、当てもなく彷徨うには広い場所です。結果として、掃除が甘く埃が薄く積もった廊下を十分と少し歩くことになってしまった。誰にも会わなかったから良かったけれど、せっかく放課後まで待った努力も無駄になってしまうところでした。

 晩夏は陽が傾くのも早く、伸びる影が気持ちを焦らせます。

 散々歩き回って脚に疲れが見え、ふと諦めかけたその時、くたびれたスーツの影が廊下の奥から歩いてくるのが見えました。

 顔はよく見えなかったけど、肩と首を前に突き出したシルエットは、保健室で会った男の人と一致していました。間違いなく、あれがヤサカ先生でした。何となく気の抜けたような顔をして、窓の向こうに目をやりながらすり足で歩いています。少し近寄ってみると、青いネクタイの結び目が緩く、皺が寄っていました。

 十数分をかけて校舎を探し回っていたのに、いざ話しかける段になると、途端に緊張が襲ってきます。普段、両親くらいとしかまともに会話を交わさないのです。ましてや、自分から他人に話しかけるなんていつぶりでしょう。しかし、ここまで来て引き返すのも、ただでさえ無駄にしている時間を余計に消費してしまったような気分になりましたので、逸る鼓動を押さえ込むようにぐっと一呼吸置いて、意を決して一歩二歩と近づきます。

 向こうは少しづつ近づく自分に気づかないようでした。あの、と声をかけてみる。すぐに反応は返ってこず、一、二秒経ってゆっくりと窓からこちらへ目線だけを動かしました。先ほどまでしていた気の抜けた表情と、呼びかけられた驚きのようなものが入り交じっているのが、半分も見えない顔から覗き見えます。まるで物思いに耽(ふけ)っていた授業中、突然当てられた生徒のようでした。

 顔がようやく自分の方を向いても、自分が誰か分かりあぐねている様子でした。名前を思い出そうとしてるのか、向こうの口からは「うーん、えっと」と時間稼ぎの感嘆詞が零れるだけです。

 この前保健室で、と告げると、ようやく合点のいったと言わんばかりに大きく頷かれた。

「ああ、そうだったね。何かあった? もしかして、プリントが足りなかったとか」

 早合点を遮って、プリントの分からない箇所を教えに来てもらったのだと告げました。頭の中ではいくらでも言葉を並べ立てられるのですが、何せほぼ初対面の人との会話は久しぶりです。浮かんだ言葉を切れ切れに絞り出すのがようやくでした。

 私が手に持っているプリントを、蜆(しじみ)のような瞳がフレームレスの眼鏡の向こうからじっと見つめてきます。

 見つめ返してみると、もう消えたと思っていた驚きの表情が、僅かに滲んでいるように思えました。ぱちぱちと瞬きを数度繰り返し、唇を少し開き、呆気に取られているような……。

 そんなはずはないのだけど、もしかしてこの人、数学の先生じゃなかった? と思わせるような反応でした。焦りが脳裏を過ぎった瞬間、

「ああ、ここね。いいよ。どこが分からないの」

 何事もなかったかのように、こちらの頼みを引き受けてくれました。びっくりしているように見えたのは気のせいだったのかと思いながらも、快く教えてもらえそうな様子に安堵の溜息をつきます。

 差し出したプリントには、数学なのにアルファベットがいくつも並んでいました。それが連立方程式という名前で、手順を踏めばXとYが示す数字も分かるようにできていることを理解できるほど、その時の私の頭と勉強時間は足りていませんでした。

 全部と答えると、前髪から覗き見える眉尻が、少し下がったのが見えました。

「一次方程式は分かるの?」

 去年くらいにそんな単語を聞いたような、聞かなかったような。思い出そうとしていると、「ちょっともらうね」とプリントを持っていかれました。先生は一旦壁側に振り返り、ポケットに入っていたボールペンでプリントの隅に何かを書き走り、再びこちらを向きます。

「これは?」

 そこに書かれていたのは「2X+3=7」という文字列でした。こんな風な計算式を去年学校に通ってたか、通ってないかくらいの時に見た気はします。まったく解き方が分からないわけではないけど、あの時教えてもらった解法は記憶の奥底で霞んでいて、思い出すのに時間がかかりでしだ。

 どう答えていいか分からず心の中で唸っていると、うぅ、と口に出していなかったはずの唸り声が聞こえました。自分より二十センチは上にある先生の口からです。いかにも困ったと言いたげに唇を歪め、僅かに天を仰いで何かを考えている様子でした。十数秒ほど待っていると、ようやく視線をこちらへ向けてくれます。

「分かった。この後、時間空いてる? ちょっと長くなるかもしれないけど、教えるよ。せっかく聞きに来てくれたんだし」

 そう言って先生はまた考えるように首を傾げた後、迷うような手つきで側にあった教室を指さしました。古びた学級表札には『理科準備室』と掠れた黒で書かれている。そこで教えてもらえるということだろうか、と首を傾げました。

「ここなら机あったし、邪魔にならないと思う」

 こんなところへ勝手に入って良いのか、と戸惑ったものの、どいうやら鍵もかかっていない様子でした。先生が開けたドアの隙間から、薬品臭い空気が鼻腔に届きます。

 忙しいであろう教師の手を煩わせてしまった罪悪感と恥ずかしさ、初めて訪れる部屋に足を踏み入れる緊張感。それらが入り交じった感情を胸に抱えつつ、長い脚に似合わず小股で歩く先生の後ろに引っ付いて、やや傾き始めた日の差す教室に入りました。

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