コラム:韓玄と長沙韓玄墓
韓玄の正史での記述は多くありません。『三国志』先主伝に「先主表琦為荊州刺史,又南征四郡。武陵太守金旋、長沙太守韓玄、桂陽太守趙範、零陵太守劉度皆降」とあるのと黄忠伝に「及曹公克荊州,假行裨將軍,仍就故任,統屬長沙守韓玄」とあるだけです。
『三国志演義』ではせっかちで軽率に人を殺戮するため皆に憎まれている人物として登場し、関羽と黄忠が正々堂々と戦う様を疑り深い目で見て黄忠を処刑しようとして魏延に斬られる役になっています。拙著『漢の忠臣韓玄とくそまみれの黄忠』の後半はあえて『三国志演義』の流れに沿った出来事を記していますが、解釈が全く異なるように書きましたのでぜひ見比べてみて下さい。第3話「弾劾状」の魏延の「韓玄は平生から性急で軽率に人を処断し皆の恨みを買っている」というセリフは『三国志演義』の地の文をもとに書いたものですが、全く別の見え方をすると思います。
現在、長沙には韓玄の墓があるそうで、墓碑には「漢忠臣韓玄之墓」と刻んであるそうです。私は中国での語学留学中の夏休みに長沙へ行ったことがあり、韓玄の墓があるという場所を訪ねましたが、学校の敷地内となっており入ることができませんでした。守衛のおじさんに韓玄墓のことを尋ねたところ、移転したと言われたのですが実際はどうだったのか……他の方のブログ記事を見ると、見ることのできた方もいらしゃるようです。韓玄は祟り神として祀られているというような話も見えます。そういう話があるということは、ほんとに韓玄は『三国志演義』で書かれているほど一方的に悪いやつだったのか? と疑う人が昔にもいたのかもしれませんね。
私が長沙へ行った日は最高気温が39.5度にのぼり、持っていたペットボトルの水がお風呂のように熱くなって生命の危険を感じるような天気でした。馬王堆遺跡のスタッフのおばちゃんに「日陰で涼んでいきなさい」と言ってもらって扇風機を当ててもらったから生還できたと思っています。中国三大火炉と言われる街は南京、重慶、武漢ですが、四大火炉だと長沙もランクインするそうです。
長沙の街は市街の中心を湘江が流れ、大きな橋がかかっています。中洲ではパラソルを広げて水遊びを楽しむ人たちがいました。街は栄えておりおしゃれなお店が立ち並んでいて、私が留学していた北京と比べるともっと大昔から自然に商業が栄えていた場所なのではないかと感じさせられる賑わいがありました。そんな長沙の発展の礎の一部には、韓玄の事績もあったかもしれませんね。
漢の忠臣韓玄とくそまみれの黄忠 居林里和(イバヤシリカ) @fc7shm
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。