七、死ぬな、韓玄

 悩むことは性に合わない。何も考えずに寝て疲れを癒やす。

 朝だ。会戦の時刻を約束しているわけではないが、こちらの炊煙がやみ一段落した頃を見計らったように敵が行動を開始する。こちらからも軍を出す。昨日の魏延の奮戦により敵の数は一割ほど減少しているが士気は旺盛である。こちらのやることは前日と同じだ。魏延は部隊の指揮、私は関羽の相手である。

 両軍が動き始めた。関羽は今日もまた馬鹿の一つ覚えのようにこちらへ向かってくる。関羽の矢への反応の速さを確認するために馬をめがけて射る。関羽は長刀で矢を叩き落とした。なるほど。真正面から射てだめならやはり昨日韓玄に言ったように騙し討ちにするしかあるまい。関羽が私の馬を突いてくる。長刀の向く方向に私の刀を叩きつけ刃の行方をそらす。長刀の柄のほうで私を突きに来る。上体をそらしてよけながら刀を引き関羽の腿をめがけて突く。関羽の馬が自分の意志で刀を避けようとするかのように遠ざかる。その間合いから長刀を振ってくる。この三日間やってきたことの繰り返しだ。頃合いを見計らって退却をこころみる。関羽は追ってきた。さて、本気で矢で狙えば殺しかねないがどうしたものか。とりあえず矢をつがえずに空弓を引く。関羽はさっと屈んだがその動きでは避けられまい。もう一度試したが、やはり反応が遅い。私の本気度を韓玄に見せつけながら関羽を殺さないためにはどうすればいい?

 私は関羽の反応速度を計算しながら慎重に矢を放った。矢は関羽のかぶとえいに突き立った。


 城に戻る。城内では人々が私の矢の腕に喝采して沸き立っている。城壁の上から韓玄がしずしずと降りてくると、こう言った。

「将軍は関羽と内通しているのですね」

この質問は当然想定しておいてしかるべきだったが頭が真っ白になってしまった。

「弁明はありますか」

「何を根拠に……」

「三日のあいだ様子を見ていましたが、互いに本気で相手を討つ気はないように見えました。将軍が落馬したさいには関羽は将軍を見逃しましたね。今日は将軍が二回空弓を引いて関羽に合図をしてから矢を射ていました」

ああこれはやっかいだな。異変を察して周囲が静まり返る。

「戦時かつ現行犯ですので……」

韓玄の手元からカチャリと音がした。スーッと宝剣が抜かれていく。嘘だろ。この長沙を劉備の手から守りきることは不可能だ。抵抗を続ければ討ち死にするしかない。あんたはほどよいところで劉備に降伏できるのか? ――死ぬな、韓玄。

「おい!」

魏延の声だ。

「黄将軍に手を出すならあんたはここでおしまいだ」

「待て文長!」

私の言うのも聞かず魏延は刀を抜いて上に突き上げた。

「黄漢升は長沙防衛の要だ! 漢升を殺すことは長沙の民を殺すのに等しい! 韓玄は残忍暴虐にして不仁、賢を軽んじ士を侮る者だ。韓玄、討つべし! 俺についてくる者はいるか!」


 そのあと何が起こったかは分からない。気がつくと私は自宅の厠の下で豚の糞にまみれて仰向けになっていた。

「クソッ! クソッ! くそくそクソッ!」

外では何者かが雷のような大声で

「出てこないなら俺がふんじばって引きずり出してやる」

と騒いでいる。どうしてこういうことになったのか。誰かが私を厠へ投げ込んだわけではあるまい。自分で駆け込んだのだろう。韓玄は死んだに違いない。空では燕が楽しげに飛んでいる。真っ昼間だ。私が関羽の盔の纓を射たのは夕方だったのに。いつからこうしているのだろう。

 外から騒音が聞こえる。家の者の悲鳴も聞こえた。門を壊したのか。しばらくすると腕の異常に長い陰惨な気配をまとった男が私のはたまで来て立ったままこちらを見下ろした。姿かたちはいい。表情にも気品がある。しかし目に光がない。こういう人間の顔は知っている。本物の人殺しの顔だ。戦って生きていれば好むと好まざるとに関わらず人をあやめなければならないこともあるのだろう。

 そのまま小半時も経っただろうか。男はおもむろにかがんで豚の糞を拾うと空へ向けて思いっきり投げつけた。

「あ~あ」

心底うんざりしたように言うと、男はその場に仰向けに寝転がった。

「つまらないことになったものです」

砂粒のようにつまらなさそうに空をにらみつけている。

 日が傾いた。街からゆうのしたくをする匂いが流れてくる。虎のようなひげを生やした体格のいい男が近づいてきた。

「どんな時にも腹は減るんだぜ」

家の門を破壊したのはお前か。関羽も近づいて来た。

「食べれば治る」

なにが治るというのだろうか。私はさしのべられた手につかまって立ち上がった。虎鬚の男が背中に手をまわしてきた。


 現在、韓玄の墓碑には「漢忠臣韓玄之墓」と刻まれている。誰も異存はないだろう。


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