交差 〜天才の小説家と彼女を愛してしまった人〜

冬ノ晴天

俺が初恋をしたのは高校生の時だった。相手はバイト先の喫茶店で出会った女の子だった。半年以上彼女を見続けて不意に、ああ、これが恋なんだ、とその感情に気づいた。


彼女の名前は三郷みさと千夜ちやと言った。綺麗な名前だと思った。


多くの場合、彼女はお店でひたすら窓辺でどこか遠いところを眺めていた。だけどたまには恐ろしいほど真剣な顔になり、ノートに何かを書き出す。そしてまた不意に、ペンを下ろし、表情の少ない顔に小さい笑みを作る。その小さい笑みに何回見惚れてしまったか、数え切れない。


彼女とは学校も学年も同じだった。だけど彼女はいつも本を読んでいて、俺に特別な反応をしたことはなかった。


彼女は綺麗な子だった。だけど彼女に誰かが近寄るのを、俺は見たことがなかった。


ある日の午後、俺はその喫茶店で彼女とまた遭遇した。その日はいつもと違って、閉まる時間までノートにずっと何かを書いていた。営業の終了のことを伝えようとしたはずなのに、気づいたら俺は、彼女にこう言っていた。


「なにしてるんだ?」


お客さんとしても、初めて声をかけた女の子としても、それは間違いなく不適切な言葉だった。だけど彼女は少しも気にするそぶりを見せず、俺に振り向いた。


とても綺麗の瞳だった。憎悪や苦しみの欠片も見えず、覗いたらそのまま彼女の心の底が見えそうな透明な瞳だった。


髪が揺れて、甘い匂いが漂った。


「考えているの」


その声もとても透明で、綺麗だった。


「詰まって、見えないの。今日はとても長く迷ってしまっているわ」


「詰まるって、どういうことなんだ?」


彼女は不思議そうに柳眉を吊り上げた。何故分からないの?と言うように。


「私、物語を書くの」


「趣味で?」


「趣味の定義は、なに?」


「さあ。普通には、好きだからしてるものを趣味と呼ばないか?」


「じゃあ、趣味」


「じゃあって、なら定義が違うと趣味じゃなくなるのか?」


彼女は頷いた。


「私、小説家。そっちでは、三日月みかづきよると名乗ってるわ」


そう言い、彼女は挨拶もせず店を去った。


三日月夜は二年前にデビューした作家だった。デビューと同時に大衆からも文学界からも絶賛を貰い、今までの全作品がベストセラーになった作家だった。


『実存する人々の裸の心を暴いているようだ』、『読み終えて、物語を読んでいた事を思い出すに時間がかかりすぎて怖かった』、『作家として勝てる気がしないし、そんな望みもない。ただ次の作品を待つだけ』、等々。


俺にも興味が沸いた。だけど読まなかった。図書室であろう、本屋であろう、彼女の書いた小説は容易く手に届く。なのにそうしなかった理由を、俺自身もよく分らなかった。


その日から俺は彼女に声をかけられるようになった。彼女の反応は、二つのうちのどちらかだった。


「話しかけないで」


ぼおっとしているか、それとも何かを書いているか、こっちには目もくれずそう言う時は、駄目である。俺が勝手に彼女を見たり、隣にいたりしても何も言わないけど、全く相手をしてくれない。だけどそうじゃない時には、話してくれる。俺との会話を彼女が楽しんでいるのかは、その表情の少ない顔は教えてくれない。


「ねえ、キスした事ある?」


ある日、彼女は前触れなく俺にそう聞いた。ない、と答えた。


「そう」


彼女はそう言って、


「じゃ、私としてみる?」


俺は心臓が止まるかと思った。


でもすぐに頭が冷め、聞き返した。


「どうして?」


彼女の目は美しいほどに透明だった。あまりにも透明過ぎていた。愛情も、緊張も、性欲さえもない。強いて言うと好奇心があった。俺は今まで、彼女がそれと同じ目をこの世の色んなものに向ける事を何度も見た。


「知らない女の子にこんな提案されると、普通はおかしいと思うでしょ?」


説明が足りないと思ったのか、彼女は付け加えた。


「私、面倒ごとは嫌いだわ」


彼女は俺を自分の家に招いた。学校の近くで、自分の金で一人暮らしをしていた。


家に入ると、三郷は無遠慮に俺に自分の唇を重ねてきた。それが俺たちの初キスだった。


書籍で得た知識なのか、彼女は色んなことを試した。唇で唇を噛んだらどうか、舌と舌を絡んだらどうか、思い浮かぶ様々をそのままに。


俺もただされるままいた訳ではない。思いっきり返したやった。彼女への想いがこれで伝わって欲しいと願いながら、キス以上を求める己の肉体を押さえた。柔らかい女の子の体に刺激されて性欲はどんどん高まり、体の中にベールのような高い音が響き、少しでも気を緩めたら彼女を押し倒してしまいそうだった。


そんな俺の心を他所に、彼女はひたすら愛撫を続けた。これを試して、あれに移る。


気が狂いそうだった。


やっと彼女が離れたとき、俺の自制力は切れる寸前まで追い詰められていた。そして俺は、見た。


三郷も人間だ。異性との接触で体も心も興奮していた。目は潤み、頬は熱く赤く染まり、息は荒く、女の子の甘い匂いがより強く漂っていた。


なのにその瞳の奥はいつもと同じだった。


あんまりにも透明すぎて、反ってその底が見えない。


そして彼女は荒く息をしながら、スマホでメモを取り始めた。


―」


「話し、かけないで」


彼女はキスの感想を書いていた。


どこの感触はどうだった、どこを刺激されるとどんな気持ちで、相手はどう反応した、等々。


その透明すぎる瞳が、堪えられなかった。


やっと書き終えたのか、スマホを下ろした彼女に俺は言った。


「三郷」


「何?」


「俺は、お前の事が、好きだ」


彼女は驚いたようには見えなかった。


「そう?」


いつもと同じ、表情の薄い顔で俺を見るだけだった。


「付き合ってくれ」


断られたら、彼女を諦める事ができたかもしれなかった。だが彼女はそうしなかった。


「それは、男女交際の事?」


「そうだ」


「男女交際って、どう定義すればいいの?」


彼女に問われ、俺は声を失った。


どう定義をすればいいんだろう。お互いを恋人だと認める事?だがそう答えたら彼女は『恋人』の定義を聞くだろう。好き合う事?だけど愛情の無い付き合いも存在する。


「知らないの?私も知らないけれど」


彼女は少し考え、俺に言った。


「付き合っても、いいよ。ただし、私の執筆は邪魔しないと約束して」


「……もし、邪魔したら?」


「別れるわよ」


あっさりと、迷いなく。


「私には小説が全てだもの。貴方だって、自分の全ては犠牲にできないでしょう?」


それは、何の言い過ぎでもない、彼女の本性、素、或るいは源と呼ぶべき真実だった。俺はその言葉で三郷千夜という人間の事を、知った。


「……もし、俺じゃなく、別の男が告白してたら、お前はどうしたと思う?」


「どうでしょう?」


そんなの、されてみない限り分からない、と。


「……お前はっ」


俺の事を、一体どう思ってるのかよ。


質問の残り半分は、喉の中で死んだ。


その日を境に俺と千夜は恋人同士となった。彼女が俺のはじめての彼女で、俺が彼女のはじめての彼氏だった。


「千夜と呼んでいいか?」


「いいよ」


「今日、お前のところに行ってもいいか?」


「邪魔しないなら、いいよ」


千夜はそのように、執筆の邪魔さえしなければ何でもさせてくれた。だけど、俺は彼女の体に関した要求は一切しなかった。それは本物の恋人同士になってからしたい、と、希望なのか、愚かさなのか、願いなのか、問われたら答えられない気持ちが俺をそうさせた。


千夜は、俺が聞くと自分のことを何でも話してくれた。


作家デビューをしたのは高校入学と同時だったが、その時に既に並みの人が生涯読むよりも多い文学を堪能した。そしてある日に好奇心半分で、小説を書いてみた、と。


「その時の事は、絶対忘れられないわ」


彼女は愛しいものを思い浮かぶように、吐息を零した。


「信じられないほどの快楽と幸福感だった。一度味わったら、もう後戻りなどできないと思ってしまうほどに。舌が痺れて、指先が疼いて、心臓が高鳴って、胸が熱くて熱くて焼き尽くされるみたいだった。違う世界に完全に引きずり込まれて、でもそれが全然怖くなくて、ああ、私はここにいるべきなんだ、こここそが私の住まう世界なんだ。私はその瞬間、作家として生まれた」


千夜の彼氏になってから、俺は頻繁に彼女の家にいるようになった。学校から近いマンションで、寝室のベッド、作業室のパソコン、そしてたくさんの本と本棚以外の家具は何もない部屋だった。


千夜は学校から帰ったらまずシャワーを浴びる。そして飲み物を淹れて作業室に入って、書く。


三、四時間は何気なくただひたすら書き続ける。タッタッタッとキーボードを叩くの音と、たまに挟まれる沈黙しかその部屋から聞こえない。そしてやっと集中が途切れると、彼女はパソコンの前から離れる。


「お腹が空いたわ」


「腹は減るのかよ」


夕食の時間ではあったが、彼女なら食事抜きで書き続けてもおかしくないと思っていた。


「頭がくらくらすると、小説も書けないわ」


最初の日には、もしかしたら手料理、と少しだけ期待していた。だが彼女は早速靴を履いていた。


「私が料理できると思ったの?」


あんまりにも堂々で、もはや凛々しい。彼女はコンビニの弁当をよく食べるようだった。


食べ終わったら、千夜は小説を少し読んで、また書き始めた。俺はその横顔を眺めた。


恋に落ちた男の感想だから客観性の欠片もないかもしれないが、千夜は美しい。


肌は透き通るように白く、唇は触れたくなる赤色。瞳は黒く、ここでない所を見るような目つきは、細い体と小さい顔に相まって、儚げな美貌を造りあげている。


だけど彼女は小説を書いている時、その瞳が熱で爛々と煌く時には、その美貌はもう一段階上のものに昇華する。楽しそうに、時には謎を解くように、また時には快楽に溺れているように、そして一貫に真剣に小説に向き合っているその姿に、俺は何度も見惚れてしまった。


夜になってやっと、千夜はとても気持ちよさそうに背中を伸ばして、パソコンの前から離れた。そのときの彼女の顔は、ああ、今日も頑張ったわ、と言わんばかりの満足感に溢れていた。


そして俺を見て、きょとんとした。


「どうして貴方がここにいるの?」


「……帰ってないから」


「何時?遅いね。帰れるの?」


「ちょっとやばいかな。多分歩かなきゃいけねえ」


実は大丈夫だった。でも彼女がどう反応するかが気になった。


「そう?」


何回ゆっくりと瞬いて、


「じゃ、泊まって行く?」


その言葉に何も含まれていない事は、彼女の目を見れば分ることだった。


その夜は千夜の部屋で寝た。小さい一人用ベッドで、彼女と密着して、その寝顔を眺めた。千夜がすやすやと寝息を立てるまでには長くかからなかったが、俺はその後にも眠れずにいた。理由は言うまでもない。


(これぐらいは、許してくれ)


許しを請う相手は自分なのか、それとも彼女なのか。


俺はそっと、彼女の頬に口付けをした。そしてトイレで数回欲情を慰め、彼女を襲わない自信ができてからベッドに戻った。

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