高校に在籍している間、三日月みかづきよるは更に三つの小説を発表した。どれもがベストセラーになって、どこの本屋に行っても、真っ先に彼女の本が並んでいた。


三日月夜はデビューした時から日本の小説界に現れた新星だった。高校を卒業した時では、ひたすら輝き続けた彼女は巨星に昇っていた。


卒業の記念として、俺は彼女を旅行に誘った。最新作の発表の後、新しい小説のアイデアを掴めず迷っていた彼女なら、行くかもしれないと思ったからだ。


「そういえば、冬の海は見た事がないわ」


旅行が駄目でも彼女に何かしてあげるつもりだったため、俺はその前からバイトを頑張っていた。どうせ、成功した作家からすればさして大した金ではないだろう。でも、俺は彼女に何かをあげたかった。俺が、俺の努力で得た金で。


好きなんだから。


海の近くにある旅館を予約した。食事も、温泉も、何もかも良い評判の所だった。二人には大き目の部屋での連泊で、二ヶ月分の労働の代価が一瞬で無くなった。


でも、いい。これなら、彼女も楽しめるだろう。


当日の朝、彼女の荷物は全て小さいスーツケース一つに収まっていた。例外は一冊のノートだけ。彼女はそれを、とても大事に抱えていた。


宿泊先に着いて荷物を下ろし、俺たちは早速海を見に行った。冬だから泳げないけど、とても綺麗だった。波の音がしていた。


千夜ちやも感心した様子で長く海から目を離さなかった。そして一人で何かを呟き始めた。


「……『冬の海は、私の想像したものとは違った。降り注ぐ日差しは無数の波と一緒に揺らめき、淡い色を作り上げていた……』」


そして眉を寄せ、


「違うの。彼女はこんな感想、持たない。持てない。とても冷たい人。とても悲しい人。でも日差しと海は、いいわ」


俺にはその瞬間、彼女がとても、とても遠くにいるようだった。


何故だ。同じものを見ている。すぐ側を歩いている。なのにどうしてこんなにも遠いのだ。どうして。


不意に、彼女が足を止めた。


そして何秒かそのまま固まってから、目を見開いた。


「そうだわ!ええ、そうなのよ!」


彼女は振り返って旅館へ走り出した。彼女を掴もうとした俺の手は何も掴めなかった。


追って戻ったら、彼女はずっと抱えていたノートにペンを走らせていた。一分も遅れていないのに、既にページをめくっていた。ペンが紙の上を走る軽快な音が、いつものキーボードの音とは違う音楽を編み出していた。歓喜に満ちている彼女に、声をかけることすら躊躇ってしまった。


「もう、海は見ないのか?」


「邪魔しないで」


「温泉が良いらしいぞ。後でどうだ?」


「今はほっておいて」


「晩飯―」


「静かにしてってば!今、見えてるから!とても鮮やかに見えてるから!!」


叫ぶ途中さえ、彼女の目は俺に向かなかった。白い紙の上に、その奥に、固定されていた。


七日間、彼女はずっと書いた。ただ書いた。ひたすら書いた。いつもの規則正しい生活とは違った。目が覚めたらペンを握り、食事の時間も惜しんで書き、書き、書き続けた。疲れて倒れるまで書いて、気絶のような睡眠から脱出したらまた、書いた。燃えている人間が水を浴びるような必死さで。


髪はぐしゃぐしゃになって、目の下にはクマができた。服にも気をくれず、浴衣が崩れて胸や脚の素肌が晒されても彼女は気にしなかった。


彼女はとても、幸せそうだった。


七日が過ぎ、彼女に帰らなきゃならないと告げた。彼女は財布からクレジットカードを取り出し、俺に投げ渡した。ギラギラとしたプラスチックが畳の上に落ちた。


「四日、いや、五日延長して。あと、ノート、これと似たもので、一冊お願い。ペンも一本。絶対黒色で」


十二日目で、彼女は新作の草稿を完成した。普通なら、彼女でも何ヶ月はかかる作業量だっだ。


その十二日、俺はずっと彼女の元から離れるべきではないのか、と悩んだ。でも最初から答えは分かっていた。あまりにも単純すぎた。


俺は千夜を愛していた。彼女の全てが、愛しく思われる。見向いてもくれない女の何処が愛しいのかと問われるかも知れないけど、全て、と答えるしかない。離れるなど、最初から選べなかったのだ。


でも、傷つく。とても、酷く、辛く、傷ついた。愛するからこそ、深い傷を負った。生まれて、こんなに苦しい事は初めてだった。口から手を入れて心臓を握り潰した方がマシだと思うほどに、残酷で、苦しくて、痛くて、地獄のような、十二日だった。


最後の日の夜、彼女は震える手で『完』と端に書いて、崩れ落ちた。俺が背中を支えたら、彼女はどうして自分が畳に落ちないのか不思議そうだったが、そんなことはどうでも良いと言わんばかりに笑い出した。とても快く、心の底から満足したような笑い声だった。


息が切れて、目じりから涙が零れ落ちても、彼女はずっとずっと、とても幸せそうに笑っていた。


「最高よ!これ、この子で、私の今まで届いた事のない所まで届いた!こんなに鮮明に見たのも、感じたのも、吸い込まれたのも、初めてだわ!ああ、ああ、更に高く、更に奥に!」


彼女はまたも笑い、もう一度息が切れた時にやっと不意に俺を見上げた。


「そういえば、貴方はどうしてここにいるの?」


「……帰って、ないから」


「そう?ここは何処?」


「……分からないのか?」


「ま、どうでも良いでしょ」


千夜はまた、幸せそうに笑い出した。


そうだ。


どうでも良かったのだ。


別にここじゃなくても。俺が連れて来なかったとしても。


どうでも良かったのだ。俺なんか、いても、いなくても良い。俺は、ただそこにいるから、い続けているだけ。邪魔にならないから、い続けてもいいだけ。


俺は、疲れてロクに動けない彼女にキスした。あの日以来初めてだった。


悪い気はしなかったのか、彼女もはじめには拒まなかった。でも彼女が拒み始めた時からも、俺は止めなかった。


「ちょ、もう……っ」


強引に、強制的に、服を脱がした。


そして強引に、強制的に、俺は千夜を犯した。


その行為を促した感情は性欲ではなかった。強いて言うと名誉欲に近い、己の存在の証明を求める欲だった。


彼女は痛がった。涙し、悲鳴を嚙み殺した。それを見て暗い喜びが胸の中で湧き上がった。


どうしても、どうしても手の届きそうじゃなかった彼女が俺のせいで苦しんでる。泣いてる。痛がってる。


俺のことを忘れてご覧よ。お前の世界に逃げてご覧よ。俺はここにいるぞ。やっとお前にもそれが無視できなくなったんだね。


欲情が果て、彼女を俺で汚し終えて、彼女から離れた俺は真剣に自殺の事を考えていた。それは子供のロマンとは一切重なっていない、冷たく、硬く、真面目な思考だった。


ゴッゴッゴッ、と音がしている事に気づいた。


俺が犯した女は、スマホで何かを書いていた。それはあまりにも現実離れした景色で、俺は彼女が何をしているかを見られずにはいられなかった。


彼女は犯された感想をメモしていた。


恥、痛み、屈辱、絶望について、その欠片も感じ取れない無表情で書いていた。


血を流していて、体に傷ついていて、そんなのどうでも良いと言わんばかりに、いつもと同じように。


小説のために。


俺は彼女に触れてみた。


「なに?」


彼女は涼しい顔で振り向き、そう言った。その目の奥には侮蔑も、恐怖も、憎悪も、全くなかった。


次の日、俺と千夜は警察署に来ていた。俺は全てを自白した。警察官はそれを聞いて、千夜に聞いた。本当ですか、と。


「いいえ」


千夜はただ、それだけを言った。


俺たちは帰された。


帰りながら、俺は気づいた。


俺は許されてなどいなかった。


最初から、気にも留められなかったのだ。俺が思いつける最悪の手段でも、彼女に俺を刻めなかった。


その日から、俺は千夜に愛されようとするのを止めた。そしてもう意味を失った俺の人生を、丸ごと彼女に捧ることにした。


その時に書い原稿の完成と出版の準備に、彼女はその冬を費やした。そして次の春には本になって、世に出た。


ちょうど桜が咲き始めた時だった。


「ねえ、貴方」


新作の第一ページに、空欄の中で「貴方へ」と書いてあった。その文字の隣に彼女は白い指を置いた。そしてただ俺を見つめる彼女が何を言いたかったのか、分からなかった。


反応に困っていると、千夜は唇を噛んで、


「もう、いいわ」と、本を閉じた。


『静まり返った所へ』は、日本の中だけで五百万冊以上販売された。多くの国の言葉に翻訳され、世界全体で四千万冊以上販売された。それから彼女の今までの作品も改めて注目を浴びるようになり、次々と翻訳され、世界に出た。


俺には想像もできないほどのお金が手に入ったのに、千夜はそれで何もしなかった。前と同じマンションの一室で生活して、小説を書いた。俺が飲み物を作ってあげるようになってからは、喫茶店に行く事も減った。


あの旅行から帰って、俺は大学に進学するのを諦めた。両親は反対したけど、自分を生み、育てくれた父と母に真実を明かすこともできず、無理やり親と別れた。


彼女の世話をする事が俺のすることになった。食事を作って、朝には起こして、風呂の準備、洗濯や洗い物、家の管理など。彼女が俺のことを自分の中でどう考えていたのかは分らないが、段々と俺にその辺のことを任せ、昔よりも更に小説に没頭するようになった。


「ねえ、貴方、私と同棲しない?そっちの方が時間の無駄がなくなるらしいわ」


そんな生活が続いて一年が経った時、彼女は俺に聞いた。今回は驚きも何もせず平然と、もうしてるよ、と答えることができた。


「そう?狭くない?引っ越しする?」


彼女は大丈夫そうだった。俺も大丈夫だったので、ベッドを二人用に変えるだけにした。枕も布団も無く床で寝る生活はそれで終わった。


二十歳になった日、彼女は酒を試してアルコールの魔力に惚れこんだ。冷蔵庫には各種の酒が揃っているようになった。


さらにその一年後、彼女は不意に、俺の作っていた夕食を、俺の準備した酒と食べながら、俺に聞いた。


「結婚する?」


俺は水が気道に入って咳き込んだ。俺はお酒に酷いほど弱く、一切飲めなかった。


「どうして、そんな事を?」


「男女が同棲するなら、そっちの方が色々楽らしいの。本当にそう?」


期待はしていなかった。だから傷つかずに済んだ。


式は省いた。彼女のはんこを借りて書類を作成して、それを出す事で俺たちは夫婦となった。


予想外のことに、彼女は結婚指輪を欲しがった。


「興味あったの」、と。


彼女ならすぐ飽きて、嵌めたその日に捨てるかもしれない。もしそうなっても俺は死ぬまで嵌めていようと思った。


完全に彼女好みのデザインの指輪を、俺は俺の嫁の指に嵌めてあげた。彼女はじっと、俺と、自分の指と、そこに嵌められている指輪を興味津々と眺めた。そして、


「そうなんだ!」と、俺を残して、新しい小説を書きに行った。


彼女はその指輪を一生外さなかった。そして稀に俺との関係を聞かれると、「私の旦那です」と、ちゃんと言ってくれた。その度、俺はとても嬉しかった。


「ねえ、貴方、どうして貴方は、私の小説を読まないの?」


ある日突然聞かれて、俺は答えに迷った。


「……分からない」


彼女はその答えに目を細めた。そして突然言った。


「私を抱いて」


俺はあの日から彼女の体に触れなかった。そしてあの日以来はじめて、俺は彼女の要求を拒んだ。


力でなら、当然彼女は俺に勝てない。だけど俺は彼女を傷つけることはおろか、そうする可能性があることもできなかった。そして千夜は俺を押さえつけ、俺が拒んでいるにも強制に、性行為をなした。


「これで、同じよ」


「何が、かよ」


未だにも、俺には彼女のその言葉の意味が分からない。だがそれから俺たちは、男女として体を交わすようになった。何故かそれがとても自然なことのように思われた。それは千夜も同じようだった。


千夜は快楽で溺れてる時はいつも、必死に何かを見極めようとしているように見えた。俺に手を伸ばし、何か探っているみたいに触ってきた。とても必死で、とても頑張っていたけど、彼女が求めていた何かを見つけるのを、俺は一度も見られなかった。


彼女は酒を頻繁に、だけど一回には少しだけ飲んだが、たまには喉が渇いた人が水を飲む勢いで酒を呷った。そして完全に酔って、酔い潰れて、俺にしがみついてくる。


「ねえ、貴方、貴方は私を愛しているの?」


『あなた』より『あらは』、『わたし』より『わらひ』、に聞こえるぐしゃぐしゃになった発音で、彼女は必死に俺に聞いた。


「そうだ。愛している。お前と一緒にいると、俺は幸せだ」


「本当?本当に私の事を愛しているの?知らない。分らない。愛の定義はなに?どうして自分が感じてるその感情が愛だと分るの?」


俺の胸板に顔を埋め、頬を擦りながら、


「本当にそこにいるの?本当に、ここに貴方はいるの?貴方は、本当に貴方なの?知らない。私には、何も分らないよ。理解できないよ」


子供のような泣き声。不意に顔をあげ、


「私?私は誰?三郷みさと千夜ちや?千夜って誰?この手は誰のもの?千夜の?千夜は私?そんなのただの名称じゃない。私は誰なの?」


「お前は、俺の妻だ」


彼女をベッドに運びながら、その他にも彼女の名称は沢山あるはずなのに、俺はそう言っていた。


「貴方の妻?ああ、そうやって、人々は定義し合うの?そうやって、支え合うの?ああ、素敵。素敵だわ。でも私にはできない。私には、見えないの。こっちのものは、どうしても、どうしても、見えないのよ。あっちはあんなにも鮮明なのに」


彼女はパソコンの前に座りたいと駄々をこね出した。


「無茶言うな。まともに指も動けないんじゃないか」


「嘘よ。私は書ける。いつだって書ける。私は書くの。書くのなの。それが私なの」


「駄目だ。俺がさせん。俺が悪いんだ。お前は書けるのに、俺がさせてないんだ。だから今は寝ろ」


「ねえ、貴方、抱いて。私を抱いて」


「無理だろ」


「じゃあ、お酒。頂戴。もっと頂戴」


千夜はしばらく駄々をこねて、やっと眠り落ちた。その寝顔はまるで、解けない巨大な謎を前に苦しんでいるように見えた。

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