秋
そしてある日、そのような小説家の一人の
「純度が違う」
彼女も既にたくさん酒を飲んでいた。純度?と聞き返すと、彼女は千夜を見た。
「あたしたちのような凡人と、全く純度が違う。あたしたちが必死にやろうとしていることを、この人は悠々と当然のようにしている。そっちでたくさん見て、出会って、生きてるんだろうね」
よく分らない、と俺の顔に書いてあったのだろう。彼女は笑い、まだ酒があるコップに水を注いだ。
「これが、あたしたちで」
そしていきなり、俺に純粋な酒を浴びせた。
「それが、
痛くて臭い。俺が怒ろうとした時、青谷は笑い出して、俺は動けなくなった。それは計り知れない絶望と羨望に満ちた、普段の彼女からは想像もできない笑い声だったからだ。
千夜はそれからも小説界で輝き続けた。二十三歳の時、彼女は二年をかけた三部作の長編小説を完成して一気に発表した。その中のある日、俺が原稿の一部を出版社へ届ける事になり、彼女の編集者と会った。
「ああ、三日月先生の旦那さんですか。はじめまして」
時間が余っていたのか、彼は俺と雑談をした。
「貴方の事は三日月先生から聞いていますよ。彼女が小説以外話題で興味を示すのは、旦那さんの事だけなので」
「そうですか」
「ええ。編集会議で突然、このシーンはあの人がら来たの、とか、これは彼が言ったの、とか。ま、半分も理解できないんですけど」
彼は苦笑いを浮かべた。
「三日月先生は天才です。だからでしょうか?先生は小説以外何にも興味がありません。なのにある日、結婚したわ、と言うのですよ?どれほど私たちが驚いたと思いますか?彼女を落とした男はどんなお方か、気になって仕方なかったんです」
俺が苦笑する番だった。
「こんな平凡な男ですみませんね。それに、落とされたのはこっちです」
「確かに、先生の事を本当に愛してらっしゃってるようですね」
「見えますか?」
「まあまあ」
帰ったら、千夜はいつものようにキーを叩いていた。丁度休みごろだったのか、ぐるりとこっちを向いて、背筋を伸ばした。それを見て、俺ははじめて、彼女を筆名で呼んでみた。
「ただいま、
彼女は眉をひそめた。それは彼女の不満の表情だった。
「違うわ」
「何が違う。それもお前じゃないか」
「そうよ。確か、私は三日月夜よ。でも貴方にはそうじゃない。貴方に、私の名前は
彼女は椅子から立ち上がった。
「原稿、ちゃんと届けてきた?」
「ああ。編集の人に会って、確認してもらったぞ、千夜」
「ね、お昼ご飯にはお寿司が食べたいの。とても高くて綺麗なところで」
「いま調べるから、着替えて」
「何を着ればいいの?」
「前に買ってきたスカートに……いや、持ってくるから待っててくれ」
彼女はどんどん俺にこういう事を依存するようになっていた。高校時代の彼女は、何もかも無神経だったんだけど、外に出る時には服を着る、食事は規則的に取る、などの常識は一応備わっていた。でも今はそんな常識すらあやふやに見えて心配だった。そしてそれを嬉しいと密かに思う醜悪な心も、確かに俺の中にあった。
千夜が二十五歳になった。発表した小説は二十を超え、日本で出版される前から翻訳家や外国の出版社との打ち合わせをするような、世界的小説家となっていた。
その年の冬に、千夜は俺が起こす前に起きた。俺は彼女より早く起きていた。ベッドの上で見つめ合いながら知って、相手が知ったことを知った。
俺は彼女を抱きしめ、どうする?と聞いた。
千夜は長く迷った後、
「産むわ」と言った。だからそうすることにした。
正直、俺は一度も、彼女がその子を産むことに確信を持てなかった。小説以外、彼女に確信できる事なで何一つ存在しなかった。
だけど、続けた。
妊娠は俺が想像していたよりも遥かに難しく、苦しいことだった。朝に来る目眩をはじめ、重くなって行く体、筋肉と関節が軋むような痛み、等々。あんなに好きだった酒も禁止された。
そして何より、そのせいで小説が書き辛くなる。
目眩のせいで、パソコンの画面が眺めるのが。頻繁にトイレに行くようになって、集中するのが。体が痛くて同じ体制でいられなく、指と手首の痛みでペンも握れない。
当然、彼女はそれでも書き続けた。苦しんで、時に吐いて、時に倒れて、苦しさで汗を流しながら、ずっとずっと書き続けた。書かなくては駄目なのだ。彼女に、体が辛いから書くな、というのは、喉が辛いから息をするな、と言う事に等しい。
だがさすがに彼女も妊娠中期になってからは、腹が大きくなり、椅子に座ることすら難しくなった。その時、彼女はとても真剣に妊娠中絶の事を考えたが、もう遅かった。そして千夜は俺に要求した。
「ねえ、私の腕となって」
あの時でも、俺はまだ彼女の小説を一度も読んだ事がなかった。
俺は断った。
「どうして?」
「分からん」
それは、俺の本心そのものだった。
彼女は出版社に相談した。すぐに手伝ってくれる人が見つかった。
「早くおいで」
千夜は挨拶もなく言った。
「ずっと書けなかったわ。もう限界」
作業は、千夜の言う文章を椎名に書き取りさせる形だった。椅子などのセッティングを終え、まだ慌てている椎名さんのことを気の毒だと思いながらも、俺は二人を残して作業室から出た。
「『沈んだ太陽を追って』を開いて、最後の所から続いて頂戴。『私の心臓まで持っていった彼のことを、私は憎んだ』……いや、最初の一文、こう変えて……いや、完全に消して。できたら続行するよ」
俺は寝室で時間を潰した。千夜が一度読んで捨てなかった本は何もかも面白い。
椎名さんは夕食の時が過ぎてやっと俺を探して来て、千夜は眠り落ちたと告げた。とても疲れているようだったが、とても嬉しそうにも見えた。
「三日月先生は、本当にすごい方ですね」
彼女は言った。幸せそうだった。
「草稿だし、本で読んでる文章よりは荒いです。でも魅了されちまいました。先生が寝落ちしてしまったことにも気づけず、どれぐらいぼおっとしていたんでしょう。やはり、私なんかとは、格が違います。嫉妬さえできないほど、追いかけようとか馬鹿馬鹿しくなるぐらいに。だけどほんの少しでも近づきたいという願いが、炎を呑み込んじゃったように私を焼いてます」
彼女は笑った。それは千夜が見せるのと同じ、快楽を噛み締めているような笑い方だった。
「先生にとってこの世界はある意味、幻でしかないんでしょうね。ね、ね、旦那さん、今の良かったでしょ?すっごくぴったりだったんでしょ!ああ、気持ちいい!」
一人で盛り上がって喋る椎名さんを見つつ、俺は思った。
ああ、やっぱり、この人も、千夜の同胞なんだ。俺の知らない事を知り、分かれない彼女を分る、同胞なんだ。青谷も、他の小説家たちも皆そうだった。俺には理解できない彼女を、分かってしまうんだ。
不意に、椎名さんは俺の方に倒れてきた。驚いて支える俺に体を預けて、
「旦那さんは、本当に、先生の伴侶さんなんですね。ああ、残念。旦那さんのような人と結婚できれば、私はとても幸せそうなのに。でも絶対に先生の男だ、この人。残念」
そして俺から離れて、寂しそうな笑顔を見せて、帰った。それから彼女は長い間、毎日
ある日千夜が俺に言った。
「ねえ、貴方。この中に、いるのよね?育っている赤ちゃんが」
「そうだよ」
「貴方と、私の、半分半分が。いるのよね?私と貴方が、創ったのね?存在しなかったはずの人間を、私たちが、いさせたのよね?生き物を、人を。私が小説以外に何かを創るなんて、想像もできなかった」
その時の彼女の目は、小説について語る目と、どこか似ていて、どこか違っていた。だけど確かな嬉しさに満ちていた。
「そうさ。俺たちの子供だ」
「ね、私、どうしたのだろう。私嬉しいみたいよ。どんな人間になるんだろう?私のようになるかな?それとも貴方のような人になるかな?十歳くらいになれば分かるかな?ね、貴方は嬉しい?幸せ?」
俺は笑った。
「お前との子供だぞ?幸せだ。幸せすぎるくらいだ。生まれて、こんなにも幸せだったのは初めてだ」
おでこを合わせて、そっとキスした。今の彼女はとても弱く、少しだけでも力加減を間違えたら痛みを感じた。
妊娠三十五週目に、千夜は突然の痛みに襲われた。急に病院に行った。胎児が死亡したようです、と医者は言った。こんなに後期には珍しい、とも言った。死産にります、とも言った。その他にも色々ごちゃごちゃ言って言って言い過ぎて喉が裂けるまで叫びたくなるほど色々言った。
千夜は2週間入院した。彼女は恐ろしいほど何もしなかった。ただひたすら窓の外を眺めた。夜になってもカーテンを閉めてもずっと。俺が食べさせなかったら、食事もしなかったに違いない。まだ、草稿さえ完成していない作品があったのに。
「ねえ、貴方」
彼女は2週間ぶりに口を開いて、俺に言った。
「ペンとノートを、お願い」
彼女はその病室で『沈んだ太陽を追って』を完成した。
そして長い間、小説を止めた。
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