冬
一年。
高校時代から、一日の執筆の時間が増える一方だった
余った時間を彼女は普通の人のように使った。読書に入り浸ったり、俺と雑談をしたり、趣味程度で料理にも手を出してみたり。
そして何より、もっとこちらへいるようになった。起きていながら夢を見るような、空を飛びながらその向こう側を眺めるような、そんな目をしないようになった。変わり者なのは同じだけど、ちょっと不思議ってくらいで済む程度になった。体が回復した彼女をまた抱いたとき、俺は初めて彼女を抱いたような気がした。
「もう書かないのか?」
「うん。色々と、もうなくなったの」
今までできなかったデートもたくさんした。愛している彼女の手料理も食べられた。外国で地図に頼るように俺に頼る千夜と、俺は充実な日々を過ごした。
楽しかった。幸せだった。人が生きる意味が分かった気分だった。何より望んで、だけど決してできないと思っていたことが、できるようになった。
年月を重ねながらも千夜は美しくなる一方だった。肌は白く、髪は黒く柔らかで、時間の流れと共に大人びって来た顔は、少女から女性へ変わって来たものの、羽織っている儚さのせいか、雪のごとく純粋な印象を与え続けた。
「ねえ、貴方、桜を見に行きましょう。とても綺麗らしいわ」
「夕食は何?もうできたの?一緒にしたかったのに」
「お買い物?私も連れて行って」
「バーに行ってみたかったから、貴方も来て。大丈夫、ノンアルコールもあるらしいから」
ある日、俺にしがみつき、
「ねえ、貴方は、私の事、好き?」
「好きだ。お前と出会ったその日から、俺はお前の事が好きだった」
「どうして?どうして私の事が好き?」
「お前がお前だからだ」
千夜は微笑んだ。彼女は一度も俺に、俺を愛していると言ってくれた事はない。そして俺は、未だ一度も彼女に聞けたことがなかった。
その冬、
お祝いのために、椎名さんと交流のある業界の人数人でちょっとした飲み会をすることになったが、椎名さんの小説界の人間関係は千夜を通ったのが殆どで、何故か場所も
当然、話は小説と創作、締め切りなどがメインになった。俺は適当に相槌を打つことしかできなかったのだが、それでも楽しかった。
ただ、千夜の様子がおかしかった。いつもより無口になって、会話を交わす彼らを眺めた。そして段々、目つきが変わって行った。俺はその目を、知っていた。
何かを探すような、伸ばした手が何に触れたのか分からず迷ってるかのような、とても必死で、とても悩んでいるあの目を。
とても遠く、ここじゃないどこかを見る目になる。段々とこの世界から、引き離される。
「そうだわ!」
突然、千夜が叫んだ。
感動に震え、快楽が背筋を走ってるかのように身を翻して。息は荒く、頬は赤く、目を見開いて。
美しい。ああ、なんと美しい。
空を飛ぶ鷹が美しいよう、海を泳ぐイルカが美しいよう、なんと美しい姿。
千夜は立ち上がって、何回も転びそうになりながら作業室に駆け込んだ。ペンがガラガラと床に落ちる音とガラスの割る音がした。
俺を含めた全員は、彼女を目で追っていた。
「わあ、いったい何になるんでしょう!?楽しみです!」
「どれぐらいかかるんだろ?『五月雨』のように一ヶ月は無理だろ、さすがに」
「一年もブロックあったんですよ?まあ、先生なら逆かもしれませんけど」
「全く。あたしもあんな思いつき、一回だけで良いからしてみたいわ」
「あの人と自分を比べちゃだめよ。格が違うんだもん」
そして俺以外は全員、理解者の顔だった。
絶叫したかった。
あれは俺の妻だ。俺が、あの女と一番長くいた。なのに、なのに何故お前たちだけ分かるんだ。俺の知らないあいつを、生涯理解できないあいつを、どうして苦労も無く理解するんだ。
俺はいつの間にか、千夜を追っていた。
「にしても、あの人も大したもんだ。さすがあの
「真っ直ぐ過ぎ。一切曲がりのない二つの線なら、一致しない限りたった一度の交差しかできないのに」
千夜はすでにノートを何ページも埋め尽くしていた。壊れたペンから漏れたインクが白い両腕を黒く塗りつぶしていた。狂人じみた眼光を放ちながら、彼女はペンを紙の上に走らせていた。
俺はその場で固まった。千夜の美貌が鈍器のように俺を殴って、動けなくした。
「お前は―!」
次の瞬間、彼女の手から万年筆を奪おうとした俺に彼女が見せた顔を、俺は永遠に忘れられない。
「私のよ!」
子を守る母のような表情。
手が滑った。
鋭いペンの先が、俺の腕を切り開いた。デスクの上に散らばっていた紙を、俺の血が赤く濡らした。
「これは刺青のようになる可能性があります。また来院してください」
病院を出た。千夜は治療中ずっと俺の隣にいた。傷を負ったのは左腕だったが、俺は構わずその手で彼女の右手を握った。
彼女はおずおずと俺の手を握り返した。
その日以来、千夜は二度と小説を書こうとしなかった。その代わりのように、いつも俺にしがみついていて、絶対離れようとしなかった。決して、絶対に。眠る途中でも、俺と肌を密着させていた。
このままでいいと、俺は思った。このまま生きて、老い、いつか死ぬなら、俺は十分だった。
だけど、千夜がおかしくなって行った。時に、何も無いのに一人で驚き、泣き出したり笑い出したりした。いつも不安で、いつも悲しそうだった。何気ない動きで空に、ペンを握っているかのように手を動かして、ハッとして我に返ったりした。ある日は、自分の生理血で指を筆代わりに布団の上に字を書こうとして、我に返ってワアワアと泣き出した。
俺は決してこんな姿が見たかった訳ではない。彼女が愛用していたペンとノートを彼女に持ってきてあげた。でも、それを見て、彼女は俺の胸に顔を埋め、
「嫌」
そして俺の腕に残ったインクの残痕を、血が出るまで噛んだ。
「また貴方を傷つけてしまう」
説得してみた。無駄だった。
どんどん、千夜は無口になった。食欲も減った。酒ばかり昔よりも多く飲むようになって、ほとんど酔っ払ってからやっと眠り落ちた。逆に、酒を飲まなかった日は夜になっても長く眠れず、ただ何時間もぼおっと俺の手を握って座っていた。
ある日、換気をしようと全ての窓を開けた。千夜は不意に、空を見た。まるで生まれて初めて見るかのように、目をいっぱい見開いて、雲一つのない深く濃く透明な青空を見た。
「そう」
彼女は呟き、笑った。文章を書かなくなった以来初めて聞くその笑い声は、彼女が物語を書き終えた時にしか聞けなかった、とても明るく、朗らかな笑い声だった。
千夜は俺の手を離して、窓辺に寄った。そして俺に振り向いた。その瞳は、初めて、俺をちゃんと見ていた。
「そう。貴方は、ずっとそこにいたのね」
そして俺が今まで見た事のない、至福の笑顔で、
「ありがとう」
そして千夜は空を舞った。
些細な事たちが終わるには二日がかかった。彼女を愛した人たちによる巨大な葬式が開催されているらしいが、俺はそこにいなかった。棺の中の屍の中には、もう千夜はいない。
俺は彼女の作業室に入った。そこには彼女の全ての小説が発表順に並んでいた。全部にて、三十二券の長編と、四券の短編集だった。俺は並んでいるのと同じ順番に読み始めた。
彼女の小説の中には様々な人たちがいた。感情が豊かな人がいれば、極端に感情のない人もいて、どこの誰も同じではなく、沢山、沢山の人たちが小説の中で生きていた。物語は、時には速く、時にはゆっくりと、人々を描いていた。
泣く人、笑う人。愛し、嫌い、頑張り、怠け、望み、諦め、
飲み込まれる。物語の世界があんまりにも鮮明で、紙の上の文章を読んでいる事さえ忘れる。美文はその美しさで俺の心を開いて、物語は俺の中へ流れ込んだ。
俺は読んだ。読み続けた。淀みなく、食事もせず、姿勢を崩さず、千夜の生きてきた世界を、生きた。
千夜は歌っていた。
人の残酷さを、憎悪の苦しみを、涙の重さを。
命の高貴さを、愛の救いを、握った手の温もりを。
やっと、俺は気づいた。
千夜には小説しかなかったのだ。
それ以外には表現の仕方を何も持っていなかったのだ。俺が歌で感情を伝えられないように、彼女は小説じゃないと何も伝えられなかった。
千夜の小説は、読者が目を離せない物語だった。善悪構わず人間の本姓を晒す文学だった。だけど俺にだけは、また違う存在だった。
俺と出会ってからの千夜の小説には全て、俺への愛が染み渡っていた。
『愛しているわ』と、繰り返され、重ね合い、木霊するメッセージ。
一度も口で表現できなかった俺への千夜の感情が、紙の上に描かれていた。俺を愛する事も、俺に感謝する事も、俺に不満だった事も、全てが暖かい愛情に包まれてそこにあった。
とうとう、俺は千夜の小説を全て読み終えた。
長い長い夢から覚めた気がした。
ここは、どこだ。
千夜の作業室だと分っていながらも、怖いほどに見知らない場所のようだった。
俺は立ち上がった。脚が酷く震えた。何かが動くのが見えて目を向けたら、鏡があった。鏡の中の自分の顔も、怖いほどに見知らないもののようだった。
目を閉じて開けたら、俺は窓辺にいた。夜明けだった。窓の外には千夜がいた。窓の向こうから千夜が、俺に笑いかけていた。その目は確かに俺を見ていた。
俺も初めて千夜を見ていた。今になってやっと、俺ははじめて彼女を見る事ができた。
千夜に釣られて俺も笑った。
そして唇を重ねるべく、俺も窓から飛び出た。
交差 〜天才の小説家と彼女を愛してしまった人〜 冬ノ晴天 @fuyu1317
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