第12話 恋をしようよ
引っ越し作業は予定通り、午前中には滞りなく終了した。
開け放たれたベランダへ通じる大窓から生ぬるい7月下旬の風が、物と人が増えたリビングを吹き抜け、さらわれたカーテンがなびく。
買い揃えた家具と家電がそれぞれ設置されていた。
リビングにはもとからあったソファの意匠に合わせたカーペットが引かれ、ローテーブルが置かれた。
ダイニングには大きめのテーブル。4脚の椅子が備えられている。
キッチンは見繕った家電が整列し、叶望の家にあった彼女愛用の調理用品がところどころに点在していた。
叶望は買い足したものを含めた食器類を流しで洗いながら鼻歌を奏でて上機嫌。未来は引っ越しのために保育園に預けられている。
引っ越しはしたが保育園を変えることはしなかった。このあたりにもあるようだったけれど、すでに1年以上も通っている保育園。それなりに友達もいるだろうし、距離的にも前のアパートとさして変わらなかったので、問題はない。
仕事は――迷ったが結局辞めることにした。
派遣会社の管理者には「やっぱりね」みたいな顔をされて少し嫌な気分になったけれど、こればっかりはしかたがない。
ともあれ、始まった新生活。これからは家族3人でいられることが、今はなによりも嬉しい。
「はい、詠斗くん。これ拭いて、向こうの棚にしまって」
「おう」
隣で手持ち無沙汰に呆けていた彼に、仕事を与える。
詠斗は慣れていないのか、少し緊張の面持ちで食器を受け取るとおずおずと布巾で水気を拭い始めた。
いつもは憮然とした態度で何事もそつなくこなす彼のそんな反応に、思わず笑みがこぼれてしまう。
「違う違う。布巾を動かすんじゃなくて食器の方を動かすの。りんごの皮むきとおんなじ感じで」
「いや、洗い物もろくにできないやつがりんごの皮むきなんてわかるわけないだろ」
「たしかに……。あ、でもそんな感じだよ。うまいうまい」
未来にそうするように褒めてやると、詠斗は「うぜー」と悪態を吐く。彼は基本的に、口が悪い。とても悪い。刺々しくて、荒々しくて、聞く人が聞けば眉を顰めるかもしれないだろう。けれど、叶望は知っている。未来がいる時は、一応言葉遣いを改めようとしていることを。……たまにできてない時もあるけれど。
幸福な時間。
未来のいないふたりきりの時間。
そう言えばと思い至る。こうして家族として一緒に過ごすようになってから今まで、長い時間ふたりきりになったことなどなかった。
ふたりきりといえば、と思い出す。ほんの少しの時間だけ寄り添った彼が自分の傷跡に唇をつけたあの日。
(すごく、うれしかったなあ)
なんだか愛のある行為のように思えた。くすぐったいだけの行為でしかない、稚拙な代替行為。
(あぶないあぶない)
と、反芻すると同時に顔が赤らみそうだった。なぜか。その答えなんてとっくに知れている。性欲だ。情欲だ。穢れた劣情がまたちらちらと身を焦がしている。
未来がいないと、母親としての自分が薄くなって、身の内の熱を自覚してしまうのだ。
(私って性欲強いよね……)
すぐそこにいる彼に、この熱い身体が悟られぬように、平静を保つ。
でも、自分は昔ほど愚かではない。同じ愚行は犯さない。大人になった自分はきっと、この秘められた熱をもきちんと管理できるはずだ。
キッチンで並ぶふたり。すこし身体を動かせば、肩と肩が触れ合ってしまいそうな、そんな距離。
戸惑う。どう接すればいいのか急にわからなくなって、心地よかったはずの静寂が、急にもどかしく思えてきた。
「そ、そう言えば、詠斗くんってひとりで寝たいタイプなの? この前せっかく3人で寝れると思ったのに、結局来てくれなかったよね?」
先日のこと、この家に泊まった日、詠斗は『あとから行くから』と言って叶望を寝室へと送り出した。少しのあいだ寝ずに待っていたけれど、睡魔に負けた叶望はそのまま寝入ってしまったのだ。
そして朝起きれば、詠斗はすでに起きていてソファに座ってスマートフォンをいじってた。
「あー、ごめん。俺、あんまりベッドで寝ないんだ」
「ん? じゃあどうやって寝るの?」
「ソファとかで丸まって寝ることが多いかな。しかも眠り浅いし、3時間くらいしか寝れない。だから、起こしちゃ悪いと思って行かなかったんだ」
「それって、体調悪くなったりしないの? 大丈夫?」
ショートスリーパーという言葉自体は聞いたことがある。1日6時間は寝ないとその日は終日ぼーっとしてしまう叶望には縁遠いもの。
しかも、あんなに大きくてふかふかなベッドがあるのに使わないのはもったいないように思う。
「大丈夫。昔から、それこそお前と出会う前からの癖みたいなものだから」
出会う前。それはきっと、遠藤叶望として出会う前という意味ではなくて、マリアとして出会う前という意味だろう。
そう言われると――弱い。
一緒に眠りたいとは思うけれど、彼の過去がそれを厭うなら、それを無理強いするのは気が引ける。でも、
「私は、一緒に寝たいな。家族一緒に、3人で」
「……そうだな、俺もできればそうしたいとは思ってるよ」
よかった、と心のなかで安堵する。そもそも他人と眠ること自体が無理だ、なんてことであれば、もうどうしようもなかったけれど、一応に、彼はそうしたいと思ってくれているらしい。
「あ、だったら練習しようよ。別に寝なくてもいいからさ。30分でも、10分でも、一緒の布団で寝てみよう? 無理なら無理でもいいからさ、眠るまでそばにいてくれたら、それだけでうれしいから」
「わかった。……でも、未来はいいのか? 未だに僕はあの子にとって詠斗でしかない。父親と認識していないのに」
「それは――詠斗くんが『自分が父親だよ』って言わないからじゃん。認知するって言ってたのに、それもまだだしさ。なに? 新しい詐欺なの?」
詐欺と言っても、そもそも叶望には搾取されるものなどないし、むしろ今のところ搾取しているのはこちら側であることはわかってる。故に、単なる冗談。少し、困らせてやろうと思って意地の悪いことを言ったのだ。
実際、詠斗は苦虫を噛み潰したような顔で押し黙っていた。
(だめだなあ。未来がいないとこどもっぽくなっちゃう)
未来がいる時、いなくとも未来のために働いている時。
そうでない時間なんて、未来が生まれてから今までなかった。母親である自覚はそのままに、けれど、常に母親らしい自分であろうという意思が薄れていることを悟る。
それが、よくないことなのか、悪いことなのかわからない。でも、どうしてか彼の隣にいると、ふたりきりであることを思うと――。
そんなことを考えていたら、詠斗が神妙な面持ちで口を開いた。
「……口だけのやつだって疑ってるか?」
「へ? ううん、そんなこと思ってないよ?」
冗談が冗談として伝わっていなかったらしい。
叶望が「冗談だよ」と言うと、詠斗は「じゃあなんだよその顔」と返され、叶望は自分の顔に手を触れる。
「なんか神妙な顔してたぞ。マジでそう思われてるのかと思ってちょっと焦った」
「あはは、ごめんごめん。すこし考え事してたから」
「悩みごとか?」
叶望はうーんと首を傾げる。
悩みではあるのだろう。けれど、それは別に苦しくも辛くもないものだった。なにせ、自分たちのこれから、将来、未来のことに対する悩みなのだから。
「この先、どうなるのかなって、思ってただけ。こうして一緒に住むことに決めて、君とちゃんと家族になれた気がして、現金な話だけど、お金の不安が減って、心に余裕が生まれて、その余った部分をどう使えばいいのかなあ……みたいな?」
「怖いか?」
「ううん。楽しみ。これ以上ないと思っていた幸福に、もっともっと先があるんだって思えて、ああでも、そういう意味では少し怖いかな。幸せ過ぎて怖いってやつかも?」
そんな恐怖なら、願ったっていいくらいだ。
どんな恐怖でも、未来がいて、彼がいれば、きっと竦まずに進んでいけるとそう思う。
「僕は、怖いよ」
ぽつり、と詠斗が言う。
「いつまでこの幸福が続くんだろう。明日には、足元から崩れ落ちて、全部壊れてしまうかもしれない。取返しのつかないことが起きるかもしれない。ここ1ヶ月のことが、すべて夢で、朝起きたらひとりきりの、なにもないリビングに戻っているかもしれない」
力なくつぶやかれた詠斗の言葉。
抽象的な言い回しだけど、きっと、その言葉が指し示すものははっきりとしていた。
詠斗も、そして叶望も、まっとうとは言えない家庭環境に身を置いていた。
詠斗の母親がどうして片親だったのかは知らないが、叶望の場合は単純明快、父親の不倫が原因だった。それは、すでに詠斗の知るところでもあった。
人の心はそのまま、写真のように切り取って置いておくことはできなくて、なにかの拍子に愛憎が転じてしまうことを、身をもって知っている。
明日、急に愛されなくなるかもしれない。愛が消え失せるかもしれない。愛は上にも下にも限りなく、だからこそ無限なのだろう。
「だから、全部捨てずに持ってきたの?」
「…………」
当初は、引っ越しの際に新しく買い替えて不要になった物の全てを廃棄処分するはずだった。けれど、彼が急に「やっぱり全部持っていこう」と言い出したのだ。あの、壊れかけのダイニングテーブルまで。さすがに重複する家電などは処分したようだが。
今は物置となった一室にその全てが置かれている。
その理由に、得心がいった。
「もしも、お別れすることになっても、私が簡単に出ていけるようにってこと?」
「……ああ」
もしも、そんなことは想像もできないけれど、そのもしもがあったとして、きっと叶望は詠斗が買ったものの全てを、仮に彼が譲ると言ったとしても受け取らない。であれば、こうして置いておくことで、その時が来た時に、別離しやすいように取っておいていると、そういうことらしかった。
その可能性を危惧することが、悔しい。
その可能性を危惧して、自分に配慮してくれることが、嬉しい。
だからこそ、未来に本当のことが言えないその弱さが愛おしい。
「私だって、いつ愛想尽かされちゃうかわかんないもんね」
「…………」
詠斗はなにも言わない。なにを言っても、その恐怖が消えることはないことを悟っているのだ。
どれだけ愛を囁いても、どれだけ言葉を弄しても、破綻した家庭を身近に見ていた彼と自分には、その神話は神話でしかないことを知っているから。
「それでもね、私は怖くないって言うよ。来るかもしれない恐怖ばかりに気を取られて、今ある幸福から目を離したくないもん。詠斗くんはさ、すごい賢いんだと思う。だから、この先にあるリスクとか、もしものことを考えてくれてるんだって思う。でも、それじゃあ息が詰まっちゃうよ。未来も大事だけど、今だって大事だもん」
「……叶望は、強いよ」
「ううん、強くない。前はそうだったかもしれないけど、君ともう一度会って、家族になって、よく泣くようになっちゃった。でも、その弱さが、君と寄り添えて得られたものだって思うと、それすらも嬉しくなった。多分私――馬鹿になっちゃったんだと思う」
詠斗が、「なんだよそれ」と微笑んだ。
たしかに、「なんだよそれ」って感じだ。でも、きっとそれが真実。
張り詰めて、研ぎ澄まして、息を詰めて、視野を狭めて、選択肢を減らして、削ぎ落として、損なって、そうして得た母親というひとつの在り方が、知性が、ひとりとひとつの出会いと再会で、こうまで変容してしまう。
馬鹿になったとしか思えないほどに、全ての不安が消失している。
「きっと私たちは普通じゃない。ひとによっては、異常だって言ってくる人がいるかもしれない。それはたしかにその通りなんだって思う。私たちはいろいろなものをすっ飛ばして家族になっちゃった。でも、それを間違いとは思わない。順番なんて、大した問題じゃないもん。全ての過程を踏みさえすれば、きっと私たちはちゃんとした家族だって胸を張って言えるようになるんじゃないかな」
間違いを認めてしまえば、その上に成り立つ全てのものに瑕疵が生じてしまうだろう。だから、間違っていない。
ただ、順番飛ばして、階段を駆け上がってしまっただけのことなのだ。だから――、
「ねえ、恋をしようよ」
「恋?」
「いつか、君が言ったよね。『僕はお前に恋していない』って。だから、君は私に、私は君に、これから恋を始めよう?」
「恋なんて、知らない」
「私も知らない。でも、恋をしよう。恋して、馬鹿になって、不安も恐怖も全部全部、なくしちゃおうよ」
「そんなんで、本当になくせるものなのか?」
「うん、きっと。――だって、よく聞くもん『恋は盲目』ってね」
恋は知らなかった。愛だけが溢れていた。
でも、今の自分はたしかに焦がれている。彼の視界を、自分いっぱいで埋め尽くしたいと、そう思う。
恋の作法は知らない。すでに、身体を重ねてこどもすらいる自分だけれど、きっと、
だからって、この恋は許されないものなどではないと、そう思う。
とりあえず、手始めにと――、
「詠斗くん、ちょっと屈んで」
叶望は未来にするように、けれど、未来に対する愛とは違う色の愛を乗せて、そっと唇をその額に落とした。
(恥ずかしい)
燃えるように、頬が熱い。でも、それを悟らせてはいけない。
(私はだって、お姉さんだからね)
いたずらに笑ってやると、詠斗が呆けた顔で見返してきた。
勝ち負けなんかないのだろうけれど、その時ばかりは、叶望は『勝った』なんて、そう思うのだった。
聖女創造 中村智一 @tomo_nakamura
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