第11話 キズアト

「今日は本当にありがとう。色々買ってもらって、なんだかんだ晩ごはんまでごちそうになって」

「どういたしまして」


 叶望は素直にお礼を言った。もう、申し訳無さそうな顔をするのはやめたのだ。

 今はもらいっぱなしでも、きっといつか、なにかをたくさん与えられると、求めてもらえるのだと、今の自分はそう思える。

 おしゃれな服をきせてもらって、おしゃれな髪にしてもらった今の自分は。


 クボのサロンを離れ、レストランで食事を済ませた三人は、詠斗の部屋へと帰っていた。ソファしかない、海に孤島が浮かんでいるかのようなリビング。

 叶望と未来がそれに腰掛けて、詠斗がキッチンからこちらを眺めていた。


 すでに日は沈み、時刻は20時。

 テレビもなにもないので、静寂だけが部屋の中に落ちていた。することも、すべきこともない。だったら早く帰るべきなのだろう。もしかしたら、詠斗の仕事の邪魔をしているかもしれない。


(でも、なんだか帰りたくないなあ)


 そう思う。別に、もう少ししたら一緒に暮らすようになるのだが、それでも、今日この時、この瞬間、彼と離れがたかった。


「まーまー、ねむ」


 大きなソファで、ぐでんと未来が横になる。叶望にとっては心地よくて引き伸ばしたいほどの沈黙も、未来にとっては退屈な時間か。


「そうだねー。そろそろ帰る?」

「うんー。えいとも?」

「ん? 僕は帰らないぞ? 僕の家はここだから」

「やーだあ、えいともかえるー」


 どうする? と問いたげな視線が詠斗からもたらされ、叶望はううんと唸る。今日は土曜日で、明日は休みだ。別に詠斗を伴って帰ったところで問題はないのだが、しかし、帰ったところで結局、詠斗はこの家か、アトリエとやらに戻るのだろうか。であれば時間も、お金ももったいない。彼は車を持っていない。というか、免許を取得できる年齢でもないのだ。


「あ、だったらうちに泊まりに来る?」

「え?」

「私は明日お休みだし、未来もこう言ってるし」

「いや、さすがにそれはやめとこうかな」


(? 遠慮?)


 人に遠慮するなというのに、彼が遠慮するのは気に食わない、と若干腹を立てかけるが、しかし自分の部屋の狭さに思い至った。

 一人用の布団で大人二人とこども一人が寝るのは、たしかに厳しいものがあるだろう。


「じゃあ、今日はこの家に泊まっちゃだめ? ベッドもおっきかったし、バスタオルはあったよね」

「……まあ、だめじゃないけど」


 困り顔の詠斗。けれど、叶望には詠斗が何に困っているのかが分からない。

 けれど、一応に家主の了承を得られてほっとした。

 これで、今日は一緒にいられる。よくよく思えば、彼と一緒に朝を迎えたことなんてなかったなと、なんとなく、心が弾む。


「部屋着とかあったら貸してほしいんだけど、いい?」

「……わかった」


(ちょっと、図々しかったかな?)


 でも、きっとこれでいいのだと思う。

 だってこんなにも、彼と一緒にいたいのだから。


※※※※※※


(よく、わからない)


 詠斗はそう心の中でつぶやきながら、手首を額に押し当てる。

 広々とした浴室。久々に肩まで浸かった湯船の中で、詠斗は温められた蒸気のような、熱いため息を吐き出した。


 振り返れば息のかかる距離に感じられるほど近く、けれど、触れてしまえば消えて無くなりそうなほどに曖昧な関係。


 愛しているという言葉は確かだ。

 家族であるという意思も確かだ。


 だからこそ、壊したくないと願う。このままでいいのだと祈る。

 でも、彼女は無邪気に、悪く言えば無責任にこちらへと向かってくる。彼女が動けば動くほど、そこが水で満たされた器の中かと思えるように、大きな波が生まれ詠斗の心を押し流そうとする。

 こらえていないと、そのままどこかに流されてしまいそうだ。


 ふと、腕を上げて水面を覗くと自分の身体が視界に入った。

 まだらにまとわりつく、蛇のような入れ墨が身体を縦横無尽に駆け巡っている。他にも、たくさんの傷跡。タバコの押し付けられた痕、熱した食器を押し当てられた火傷、カミソリで削られた裂傷。長袖を着て隠れる場所の、そのほとんどが無惨に犯されたこの身体。


 想起される記憶に、胸が疼く。

 思い起こされるのは、けれど、自分を犯し続けた男女のものではなく、


『これ……舐めて』


 そう言う、いつかの叶望の姿。

 舌を這わせた、あの滑らかな肌。自分とは違う、汚れのない綺麗な身体。

 けれど、それが一瞬だけ、母親と重なって見えた。

 自分の上にまたがり恍惚に染まったあの顔と。


「くそっ」


 ざばあ、と音を立てて詠斗は立ち上がる。久々に風呂に入ったせいだろうか、血が巡り、身体が紅潮する。

 詠斗は熱気を追い出すように冷水を浴びた後、浴室を出た。

 無知は恐怖だ。

 知らない感情が、名伏し難い情動が、得体の知れない何かが、自分を変質させそうで、それがたまらなく怖かった。




「あ、詠斗くん――早いね」

「ああ。いつもはシャワーしか浴びないから、これでもゆっくりだけどな」


 部屋着のズボンだけ穿いてバスタオルで髪を拭いながらリビングに出てきた半裸の詠斗に、叶望が声をかけた。


「こうして見ると、詠斗くんにも筋肉付いてるんだね」


 近寄ってきた叶望が詠斗の周りを一周して、品定めするように視線を向けてそう言った。

 顎に手を当ててふむふむと頷いているのがすこし面白かった。日中、家具を選んでいる時の顔と同じだったから。


「まあ、これでも男なんでね」

「うんうん、でも少し痩せすぎかな。――あれ? 入れ墨増えた?」


 と、詠斗の背中を指さして、叶望は言った。


「ああ、これは、二年前に入れたやつ」

「そうなんだ。……私の知らない間に色々あったんだよね」

「まあ、お前には負けるけどな」


 叶望は「そんなことないよー」と言ってから、未来を連れて浴室へと向かう。その途中、


「のぞいちゃだめよー」


 と未来が言って、叶望が困ったように息を吐いた。




 ソファで横になりながら、自分のものではない身近な生活音に耳を澄ませる。流れる水音と、はしゃぐ未来の笑い声。


 施設で暮らしていたときも、その前も、これが本当に嫌だった。

 近くに人がいること、楽しげな声、響く怒声、差し伸べられる手、そのすべてが嫌で、嫌で仕方がなかった。嫌だから、息を殺して気配を殺した。


 けれど、それが叶望と未来だと知れれば、これほどまでに心地よく感じられる。ただ泰然と、彼女たちの入浴が済むのを待っていられる。


 やがて、がらがらと浴室の戸口が開かれる音が聞こえた。母子ふたりの入浴は案外短く、1時間もかかっていなかった。――と、


「ふいー!」

「あ、こらっ」


 何事か、未来の奇声と叶望の叱声が耳を打つ。

 詠斗は横になりながら浴室につながるリビングの戸口を見やった。

 勢いよくドアが開かれると、全裸の未来が、なにが面白いのか大輪の笑顔を咲かせながら駆け込んできて、詠斗の胸に飛び込んできた。


「わっ」

「あのねー、えっとー、でかっ!」


 どうやら大きな浴槽がたいそう気に入ったようだった。


「こら、未来。服を着ないで出てきたらダメって、ママに教わらなかったか?」

「うえ? うん」


 教わってはいないらしかった。


(あれ? 僕の常識が間違ってる?)


 そんなことを考えていると、「だめだよー」と未来を追いかけてくる叶望の気配。

 ああ、やっぱり間違っていないよなと、叶望の方に顔を向けると。


「……いや、お前らなんで服着てないわけ?」


 下着姿の叶望。水色のブラとショーツだけを身に着けて、バスタオルを頭に巻いた姿で出てきた彼女を見咎めて、詠斗は胡乱げに目を細めた。


「あ……つい癖で。――未来、パンツは穿きなさいっていつも言ってるでしょ?」

「ああ! そうだた!」

「……いや、パンツ以外も着てから出てきてくれる?」

「…………そっか」


 詠斗は渋面を浮かべると、叶望は「ごめん!」と短く叫んでから未来を小脇に抱えて去っていった。




「さっき、ちらりと見えたんだけどさ」


 詠斗はそう、隣に座る叶望に声をかけた。

 時刻は22時をまわり、すでに未来は寝室のベッドで寝ている。未来は甘えん坊ではあるが、別段、ひとりで眠ることに恐怖を感じないようだった。


「ん? なあに?」

「お腹の……」

「ああ、これ?」


 叶望は詠斗が貸し出した部屋着用のTシャツをがばっとたくし上げる。綺麗な形のへそが出て、ほんのすこしだけショーツが顔を覗かせている。

 叶望はおっと、と言いながら少しだけズボンを引っ張り下着が見えないように調整する。


 けれど、詠斗はそのシルクの生地なんか視野にも入れておらず、ただ、そのへその下にある傷を見やる。


「どうしたんだ、これ」

「私、帝王切開だったんだよね。年の割には身体が大きかったから、本当は自然分娩の予定だったんだけど、なんかすっごいお腹痛いなって思ってたらいつの間にか手術ってなって、いつのまにか終わってた」

「…………」

「本当はね、普通の『産みの苦しみ』ってやつを味わいたかったんだけど。まあ、でもそのおかげで母子ともども無事だったわけだからお医者さんには感謝だね」

「痛かったか?」

「そりゃあ痛かったよお。陣痛もそうだけど、産んだらはい終わりっていうわけにもいかないからね。帝王切開だったからここもくしゃみする度に激痛だったし」


 痛み。そして傷跡。詠斗がどれだけ女のような顔つきをしていても、どれだけ女性の支持を集めようとも、類まれなる想像力を持ってしてでも、理解することは決してできない母親の勲章。


「ごめん」

「これのこと? だとしたら、怒るよ? 私はこの傷を誇りに思う。あの痛みを誇りに思う。だって、これがあるから未来がある、未来がいる。君と、こうして一緒にいられる」


 そう言って、叶望は詠斗の手を優しくとって、自らの誇りにあてがった。痛々しく盛り上がったその傷は、きっと、見方を変えれば自分が与えたものに他ならない。


 でも、それを、彼女が全く気にしていないのだろうことはすでにわかっていた。そう思われることを嫌がることも。

 故に、詠斗の謝罪は別のところにあった。


「……そうじゃない。叶望が辛い時に、苦しい時に、側にいられなかったことが、悔しい」

「ああ、そういうこと。――でも私、少しも辛くなかったし、苦しくなかったよ? 痛かったけど、それだけ。痛みなんて、我慢できるもん。――それは、詠斗くんだって知ってるでしょ?」


 服に秘された傷跡を透かしてみながら、叶望が言う。


「その後悔はいらないよ。だってそれは、詠斗くんが許してくれた、ただいるだけで、君の痛みを知りすらもしなかった私の後悔そのものだもん」

「そうか……。そうだな」

「うん。……でもね、残念だったなって思うことはあるんだ。さっき、詠斗くんにお腹を触ってもらってね、すごい心地よかったんだ。それを、まだお腹に未来がいる時にしてもらえたらなって、ちょびっと思った」


 そう言って、彼女はにへらと柔らかに微笑んだ。


「この傷は、未来が生まれた証。でもね、君がいたって証でもあったんだ。これを見る度に、君のことを身近に感じられた」

「…………」


 この、縦に伸びる傷跡。自分がいた証、自分と彼女と、そして未来とのつながり。目に見えないはずのそれが、そこにたしかにあることが、ひとつの奇跡のように思えて、


「なあ、叶望」

「なあに」

「これ、舐めていい?」


 なんでかはわからない。けれど、無性にそうしたかった。理由も理屈も存在しないその衝動を、しかし、叶望は別段不快な顔も驚愕の顔もせずに、


「いいよ」


 詠斗はその暖かく盛り上がった傷跡に、下を這わせた。

 匂い立つのは詠斗と同じ石鹸の香りと、懐かしい彼女の素肌の匂い。


「あはは、くすぐったいよ」


 無邪気に笑う彼女の声が降ってくる。


 これも、愛の味だろうかと、詠斗は思った。

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