温泉の霊、進まぬ時間。

萬賢(よろずけん)

短編

バスを降りた。スマホから地図を出して、案内されたまま僕は坂道を上っていく。

 ここか。へえ、神社っぽい建物だね。

 視線を感じて、独り言が恥ずかしくなって、僕は支配人らしい老人に軽く会釈した。 そして、適当なサイトで適当に探した立派そうな旅館に、案内されて入った。

「お前さんは幹事か?」

「はい」

 支配人はポケットから折りたたみの老眼鏡を取り出し、片手にそれを振って開いてかける

「斉藤祐介、10名の予約ですね、他の皆さんは?」

「たぶんもう少しで到着すると思います」

 声が小さかったせいか、怪訝そうな目を向けられた、気がする。

「えっと、チェックインはみんなを待ってからでいいので、館内を先に見て回ってもいいですか」

「構わない」

 自由にどうぞと言っている風に、手の平をみせてくれた。

 見る、と言っても僕は大して「幹事の責任」らしいものはないと自覚している。適当にぶらぶらして、すぐさまそこらへんにある年季の入ったソファに腰をかけた。

 チクタクチクタクと時計の針が、集合時間の12時に近づけば近づくほど、そわそわしてやまない。間違いなく、クラスでは3軍以下の存在だった僕が、チャラチャラした1軍の集まりに、会話が成り立つだろうか。大学では、それなりに頑張った。髪も染めたし、髪も染めた。

「髪、くらいか。変わったのは」

「うん?」

 受付で新聞紙の上から顔を出して、支配人が僕を見た。

「なんでもない、独り言でした」

 彼から見れば、僕は親の迎えが大幅に遅れた可哀想な学生だろう。

 

 集合時間は過ぎた。

 電話してみた。しかし、唯一連絡先が分かる“真”の幹事は、出なかった。

 ひょっとして――、とある可能性が浮かび上がって額に脂汗が滲み出る。

 事故などではなく、すっぽかされた可能性はないか。脳に浮かぶ今日集まる予定の面々は、不適な笑い方が似合う連中じゃないか。

 そう、僕は負の想像の渦に巻き込まれていく最中に、声がした。

「ひとりぼっちね」

 女性の声だった。柔らかく、低くも高くもない声。

 僕は支配人のほうを見た。彼はうとうとしていている。彼と僕の以外に、他誰もいなかった。

「誰?」

 と僕は小さな声で聞いた。

「知りたい?」と、女性が質問した?

 声の方向に振り向くと、いた。しかしいたのは、人間ではなく、壁に丁重に飾ってある和服姿の美しい女性の絵だった。鮮やかな髪に優美に佇む彼女を見とれて、僕はしばらく自分の意思と関係なく、気づけばもう絵の前に口が開いて立っていた。

「あんたがしゃべったの?」

 絵は黙ったままだった。

 夕日は沈み、辺りが暗くなり、柔らかい灯が館内を淡く照らした。

 露天風呂の看板が壁のすぐ横にあって、怪しき世界へ案内するように、その歩道の両側の壁のニッチにゆらゆらと燃えている蝋燭が並んでいく。まるで黄泉路のようだと僕は思った。僕の気配を感じたように、通っていく度に近くの蝋燭が激しく揺れる気がする。

「1000年の湯」と看板を頭上にして、僕は門をくくった。裸身になって、自然の一部に溶け込んでいく。

 白色の森に抱かれた温泉に浸かり、体温が上昇し、僕はこれまでの出来事がまるで夢だったように我に返った。

 なにやってんだ僕、幻聴まで聞いて。

 すっぽかされて、すっぽんぽんで、ひとりぼっち。

 僕は仰いで、大きなため息を吐いた。すると、「あなた」と女性の声がして、僕はギョエー、と奇声を上げ飛び跳ねた。

 霧の中に突如、女性のシルエットが見えた。湯に浸かるまで、気配を感じなかった

「あの、すみません、ここは男湯だったんじゃ」

「あら、そこはちゃんと確認したのね」

「はい?当たり前です」 

「でもその当たり前が、普段出来ていない」

 急に訳分からない説教をされて、僕が何かを言い返そうとしたが、言葉がみつからなかった。

「誰なの」

「そのうち、知るさ」とシルエットが言って、霧が強くなった気がする。やがて、僕はそれに覆われ、目の前が暗くなった。


 次の瞬間に目を開けたら、僕はローカル線のバスに乗っている。旅館に向かっている途中だ。

 なんだ、夢か。

 安心した。今見たのは間違いなく、よくできた悪夢の類いだ。同窓会の幹事を頼まれて、クレジットカードのポイントが貯まるからといって、10名の予約を先払いし、すっぽかされた。夢が現実ならば、僕に20万の回収が無理だったろう。

 良かった、良かった、ふー。

 バスを降りて、僕は口を空いたまま、持っていたカバンを床に落としてしまった。

 来たことがないのに、全部はっきりと、くっきりと覚えている。

 とにかく僕は走って旅館につなぐ坂道を上っていく。

 怖いくらい、全てが夢と一致している。旅館、支配人。

 受付に行くと、夢と同じように、彼はポケットから折りたたみの老眼鏡を取り出し、片手にそれを振って開いてかける。

「斉藤祐介、10名の予約ですね、他の皆さんは?」

 聞かれて僕は答えられなかった。

「斉藤さん?」

「はい、もう少しで着く、と思います」そして念のために聞いてみた。

「今更ですけど、もし来ない人が出た場合ってキャンセルは無理っすよね」

「ええ、キャンセルは昨日までとなっております」

 すごく、すごく怪訝そうな目で見られた。「わかりました。チェックインはみんなを待ってからでいいので、館内を見て回ってもいいですか」

「構わない」

 夢と同じく、支配人は手の平をみせてくれた。

 ソファに座って、スマホを持つ手が微かに震えている。まだ集合時間ではないが、やつに、電話をかけてみたが、出っこない。指を噛んで、僕は整理した。夢じゃない、となると、タイムリップだ。でも、トリガーは何だったんだ。

『誰なの?』

『そのうち、知るさ』

 最後の会話を思い出した。それが何のヒントにも繋がらなかった。

 あ、そうだ。シルエットの女性は絵の女性の声が一緒だった。飛び跳ねて、僕は絵のほうに歩いた。

 和服姿の美しい女性、しかし夢と違っていたのは、微かに笑っているところだった。とはいっても、夢みたいな記憶だったので、僕自身も、本当に違うかどうかは定かではなかった。

「ねえ、喋ってよ、一体何が起きているんだ」

 周りが静寂に吸収されていくだけだった。 まだ壁の蝋燭が灯っていないが、僕は温泉のほうに駆け込んだ。夢が本当なら、会える。

 脱衣して、僕は備品のタオルを腰に巻いて、露天風呂に入った。

「ねえ、いる?」

 返事はなかった。

 困った。悪夢が現実になった。いや、悪夢が繰り返す、悪夢よりも質の悪い現実が目の前に広がる。

 ため息を吐いた。

 夕日が沈み、空は怪しき紅色になった。

 霧が一段と強くなり、僕の鼓動が早まった。

「気が早いわね、あなた」

 女子の影が霧に潜み、華奢なシルエットから声がした。

「一体どういうことですか、僕はあなたと会って時間が巻き戻された」

「ええ、自然なことです」

「自然?どこがですか」

「言ったじゃないですか、あなたがひとりぼっち、いいえ、孤独が怖い理由、それを克服しないと、時間は進みません」

 意味がまるで分からなくて、考え込んだ。すると、時間ですと、女性は言ってまたしも僕は霧に包まれ、起きるとバスの中にいた。


「斉藤です、10名の予約をしています、もしかして、他の人は来ません」

 支配人は、まだ手に老眼鏡を持ったままで、こちらを見据えた。

「あの、聞きたいのですが、あの絵の女性は誰なんですか」

 僕は絵の女性を指して、気づいた。今度は和服の袖を口元を隠して、優雅に笑っている。

「この旅館の創業者、美人だろう」

「はい、彼女は温泉の掃除係りかなんかやってるんですか」

 そう聞いて、支配人はハハハ、腹を抱えて笑った。

「なんだその質問、300年も前の人ですよ」と言って、急にぐいっと支配人は体を突き出して、僕の顔を覗き込む。「もしかして、見たのか」

 うん、と僕は頷いた。

「なるほど、過去にも見たお客さんがいるって聞いた。あれを見ると、時間が戻されるだの、なんだので、キャンセルしたらしい、ほら」

 旅館の注意事項を書いた木の板を渡された。その一番下に、美人の幽霊を見たものは、当日のキャンセルも受付しています、と書いてある。

「ネットでの予約も、これを乗せているが、読まないよね、今の子は、どうする?キャンセルしますか」

 僕は黙って、考えた。ここでキャンセルしたら、すっぽかされた分も帰ってくる。 絵に映る、笑う女性を一瞥して彼女の言ったことを思い出す。

 あなたがひとりぼっち、いいえ、孤独が怖い理由、それを克服しないと、時間は進みません――

「いいえ、キャンセルしません」

 そう言って、僕は旅館の外に出た。あらためてその築百年の古い旅館を見上げた。木のぬくもりと歴史の息がついていて、耳を澄ませば、風鈴の音色が時を刻む。

『心の宿、せせらぎ荘』

 初めて、名前を見た気がする。そこに宿る創業者の思いに思い馳せた。

 館内に改めて入っていくと、重厚な木造建築だからこそ感じる懐かしい匂いと温かみを五感で受け取った。僕が二度も座り込んだソファの後ろに、和風庭園に隣接していて、苔むした石灯籠や清らかな池で泳ぐ錦鯉が風情を漂わせている。

 なぜ、今まで気づけなかった。

 ここは、こんなに立派な旅館なのに、人生の旅の疲れを癒す素敵な空間なのに。

 館内をぐるりと歩き回って、女性の絵にたどり着いた。

「君は、大切なことを教えてくれようとしたんですね、ありがとうございます」

 僕は微笑み、彼女に声をかけた。

 絵は、緑の木々に囲まれた庭園で、心の宿の創業者たる美しい彼女が優雅に佇んでいる。髪は鮮やかに流れ、繊細なかんざしが、光を捉える。彼女の着物は、淡い桜色を基調に、金糸で描かれた模様が舞い踊る。夕陽が彼女の姿を照らし、彼女の微笑みは見る僕の心を和ませ、ここにいて幸せだと思わせてくれた。

「いらっしゃい」と、声が聞こえた気がする。そして、僕の携帯電話が鳴った。

 

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温泉の霊、進まぬ時間。 萬賢(よろずけん) @Yorozuken

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