ハードボイルド・リーディング~元無職の俺が異世界スローライフで半熟無双しちゃいます!~

尾崎中夜

ハードボイルド・リーディング~元無職の俺が異世界スローライフで半熟無双しちゃいます!~

 その日は、朝から雨が降っていた。十日ぶりの雨だった。

 あの街で、彼女は今も泣いているんじゃないだろうか。

 窓を叩く雨に、ふっと過去が重なった。一人になってから五年。無邪気な笑窪はまだ思い出せる。口癖も。「いつか二人で普通の暮らしがしたいね」

 だが、誕生日はもう思い出せない。

 オーケー。人生なんてそんなもの。

 私は半分ほど残っていた煙草を灰皿に押しつける。

「所長さっきから難しい顔してどうしたんですか? あー、もしかして……」

「――そうだった」

 私としたことが忘れていた。今日は事務所の家賃が引き落とされる日だ。二十人の福沢諭吉に長いお別れを告げなければならない。

「大丈夫だ」

「それならいいんですけど……」

 小さな探偵事務所だが、これでも経営は悪くない。収入の大半が浮気調査なのは気に入らないが、世知辛い時代だ。贅沢は言うまい。衣食住プラス日々のニコチン。それで十分だ。私みたいな人間が人並みの幸せを求めてはいけない。かつて取り返しのつかない過ちを犯した。銃と嘘、そして涙。――すべて滑稽なおとぎ話さ。

「ところで塔子君」

「はい。何ですか?」

「さっきから何を読んでいるんだい? 君が本を読むなんて珍しいな」

 普段なら文明の機器――スマートフォン――と睨めっこしている塔子君が読書。雨でも降るんじゃないだろうか。もう降っていたか。

「実はですね!」

 その質問いい加減待ってました、と言わんばかりに顔を上げたが、

「あーでも、やっぱ恥ずかしいな」

 彼女の頬は薔薇のように赤く染まった。

「……私、二十歳にして初めて彼氏が出来たんです」

「ほぉ。そいつはめでたいな」

 三年前。塔子君は、まだ花も恥じらう女子高校生だった。アルバイトの張り紙を手に、おどおどしていたのをよく覚えている。そんな彼女にも、とうとう男を知る日がやって来たか。

 オーケー。悪くない。不肖三十二歳、祝福しよう。

「それで」

 続きを促す。

「はい。彼、凄くイケメンなんですけど……その、本を読むのが好きなんです」

 イケメンと読書の関係性についてはこの際置いておこう。本題はそこじゃない。

「所長も知っての通り、私、文学少女って柄じゃないじゃないですか?」

「そうだな。私が知る限りは」

 よくも悪くも現代っ子。藤原塔子は普通の女子大生だ。

「それで彼、『これを機に塔子ちゃんも本を読んでみたらどうだい?』って」

 なるほど。彼は、塔子君を自分色に染めたいというわけか。思い上がりだといえばそれまでだが、私も覚えがある。あれはそう。遠い南の国にいた頃――。

「最初は、え~って感じだったんですよ。彼のことは、そのぉ、好きですけど、本とか漫画ぐらいしか読んだことないから、あんまり難しいのすすめられたらどうしようって」

「ふむ」

「だから私、『あまり難しいのは読めないよ』って言ったんです。そしたら、『じゃあ、こういうのはどう?』って」

 私は目を疑った。

 金髪の、いかにも気の強そうな目をした少女がキッチンで料理をしていた。作っているのは、なんだこれは? 真っ黒なボール。どうやら彼女はなにか焦がしたらしい。

 いや、それよりもだ。私を驚かせたのは、彼女の服装だった。

 胸元が大きく開いたドレス。

 ――痴女か?

 今時の若者は、恋人に官能小説をすすめたりするのか。世代の違いを感じた。オーケー。君らのことを草食動物などと呼んで悪かった。君らは雄だ。立派な肉食獣だ。認識を改めよう。

「『彼女にこんなエロそうな本読ますの?』って思わず言っちゃったんですけど……でも、彼曰く『表紙はそこまで気にしなくてもいい』って」

 中身で勝負というわけか。私の塔子君に官能小説を貸すだけのことはある。モラルはともかく、度胸は買おう。

「それで、肝心の中身はどうなんだい?」

「それが……」

 塔子君の顔色がにわかに曇った。

「全然面白くないです」

 きっぱりと言った。

「全然面白くないのか」

「彼には悪いですけど、私にはちょっと……。あの人、何考えてんだろ……」

 男の考えが分からない。それもまた、少女が女になるため一度は通る道さ――野暮なことは言わずにおいた。賢い塔子君のことだ。いずれ気づくだろう。

「本、見せてもらっていいかな?」

「あ、はい。どうぞ」

 ポップなイラストで誤魔化しているとはいえ、これは確かに目のやり場に困る。どんな顔でこの本をレジへ持っていったのだろうか。若い女性店員を困らせるため? そういう趣味の持ち主か。

 ……だが、オーケー。世の中は広い。何事もまずは受け入れよう。

「所長……読んでみます?」

「私が?」

「ゆで卵とか好きでしょ?」

「ハードボイルドのことかい?」

「そう。それです! これ、一応ゆで卵の話ですよ」

「ほぉ」

 このポップ官能小説が実はハードボイルドだと。どうも信じがたいが――いや、ハードボイルドの世界に色の描写は不可欠か。


『元無職の俺が異世界スローライフで半熟無双しちゃいます!』


 はじめはタイトルの意味が分からなかった。が、しかしなるほど。この小説がハードボイルドと聞いた後なら――ふむ。面白いじゃないか。

 ハードボイルドはそもそもロマンの文学。現実に生きる男達が、ここではないどこか、荒唐無稽とさえ言える夢を追い求める――つまり異世界。

 塔子君が戸惑うのも頷けた。男の世界というものは、ひどく癖があるものだからな。男を知ったばかりの彼女には、まだ早い。

「ふふ」

「所長。あの、軽い冗談ですから、無理に読まなくても――」

「いや、読ませてもらおう」

「へっ?」

「この雨だ。どうせ誰も来ないだろう。こいつを読ませてもらうよ」

「はぁ……」


『元無職の俺が異世界スローライフで半熟無双しちゃいます!』


 ハードボイルドを料理しますよ、という作者の決意表明だとしたら――面白いじゃないか。怖いもの知らずな馬鹿は嫌いじゃない。

 それに探偵という仕事自体、依頼人が来なければ半ば無職みたいなものだ。親近感がわくじゃないか。

 これは案外掘り出し物かもしれない。

「塔子君、ギムレットの用意をしてくれないか」

「まだ二時ですよ」

「そうか」

 ギムレットには早すぎるか。


【俺の名前は邦彦。二十二歳。無職で童貞だ】

 ほぉ。いきなり邦彦と来たか。いい先制パンチだ。

 開始早々、五ページに渡り、主人公は独白する。惨めな現状。社会への不満。ネットゲームにのめり込んでゆく自分を、半熟ゆで卵を上手く作れることしか能がない自分を自虐しながらも、しかしどこか堕ちてゆくことに酔いしれているような――彼は、複雑な性格の持ち主だった。「彼女が欲しい」が口癖。そのくせ、暗く閉ざされた部屋から出ようとしない……。気持ちと行動の歯車が噛み合わないもどかしさ。日に日に肥大する自己愛。屈折した若者の描き方がリアルでいい。まるで身近にモデルがいるみたいだ。

 独白が終わり、腹を空かせた邦彦は深夜のコンビニへ――ハードボイルドを背負った男は、夜にしか生きられないものだ。よく分かっている。

 と、安心して読み進めていたのも束の間、物語は思いもよらぬ方向へと舵を切る。

 悲劇――邦彦がトラックに轢かれてしまった。

 轢かれたというより、ミニスカートの女性に見惚れた彼がうっかり車道に出ただけだが。何とも間の抜けた話だ。しかし、これもまた一種のメタファーか。――女の色香は、男をいとも容易く狂わせる。

【こんなのあんまりだ。俺、まだ童貞なんだけど!】

 童貞のまま死ぬのがよほど嫌らしい。死の淵を彷徨う男の叫びは悲痛だった。命の危機に瀕した時、人は性欲が高まると言うが、普通なら親や友の顔が浮かぶだろうに、パソコンに保存した(口に出すのも憚られるような)画像の行末について心配するとは……さすが野獣。

 しかし、後悔や絶望も虚しく意識は徐々に薄れてゆく。

【こうして俺、邦彦は童貞のまま死んでしまった】

 私は言葉を失った。

 開始十ページでまさかこんな展開になるとは……。野獣が死んでしまった。

 作者が「死んでしまった」と書いた以上、邦彦は死んでしまったのだろう。これから先、話をどう進めるつもりなのか。新しい。どこまでも挑戦的だ。

 一度深呼吸をしてから、私はページを捲った。

【俺はどうやら、異世界に転生したらしい】

「ぶっ!」

 コーヒーを噴き出してしまった。

「ど、どうしました?」

「何でもない。大丈夫だ。本にもかかっていない」

「はぁ」

 何の脈絡もなく生まれ変わった野獣。しかも、それをさも当たり前のように受け入れている。現実と違う世界(中世ヨーロッパ風?)に戸惑うことなく、それどころか「これこそ俺が望んでいた世界だ!」と大喜びしている。

 先ほどまで死にかけていた男だと思えない。頭を強く打ちすぎたのか、あるいは肝が座っているのか……。

 そんなこんなで邦彦は、村一番の美少女の世話ヒモになるわけだが、文章から察するに、村一番の美少女は、表紙の「痴女」のようだった。年頃の、しかも一人暮らしの娘が、初対面の男を家にあげるだろうか? ……いや、野暮なことは言うまい。それだけ邦彦という男が魅力的なのだ。少女が積極的になるのも無理ないか。

【村長さんに頼まれたから、仕方なくなんだからね。別に、あんたのことなんか何とも思ってないんだから!】

 何とも思っていないのならば口を噤んでいればいいのに……だが、悪くない。ハードボイルドのヒロインたるもの、男にそう易々と屈するようではいけない。幼すぎる気がしないでもなかったが、ヒロインの造形自体は悪くなかった。

 そうして、何だかんだと愛を深めていく二人。

 個人的にはもっと血で血を洗う展開を見たかったが、これもまた嵐の前の静けさか。愛の営み(ただイチャイチャしているだけ)は、三十ページ強に渡った。

 そして唐突に、卵をゆで始めるヒロイン(本当に唐突だった)。鍋の前で一体いつまでジッとしているのか、半熟ゆで卵を至高とする邦彦は「さすがに長すぎでしょ……」と声をかけるのだが、気の強いヒロインは

【じゃあ、あんたは私より美味しいゆで卵を作れるの?】と噛みつく。

【よし、やってやろうじゃんか! 俺の半熟無双見とけよ】

 異世界に転生した当初は【え、あの、その】と、ヒロインを前にみっともないぐらいテンパっていたのに、彼はいつの間にか男らしくなっていた。成長を感じさせるエピソードはこれといってなかった。なのに、この男――性格どころか言葉遣いまで変わってしまっていた。

 不自然な豹変ぶりに作者の力量を疑いそうになったが、しかしこれは私の読み落としだった。邦彦の男としての成長は、何らおかしくなかった。昔から言うではないか――男子三日会わざれば刮目して見よ、と。

 水浴びをしているヒロインに出くわすシーン。これが営みの前振りだとしたら、邦彦が男らしくなったのは……つまりはそういうことなんだろう。文字通り一皮剥けたというわけか。それをあえて書かなかった。

 なるほど。この小説はハードボイルドであり、ビルドゥングスロマンでもあるわけか。多くを語らずに多くを語る。この作者はなかなか巧い。もしかしたら、この道数十年のベテラン作家が、作家生命をかけて新たな作風に挑んでいるのかもしれない。

【え、美味しい! あんた天才じゃない!】

 初めて半熟ゆで卵を口にしたヒロインは、思わず手を叩き、絶賛する。

 が、そこですぐに【ま……まぁまぁね】と言い直すところが巧みだった。ハードボイルドの世界において、本心を打ち明けるのは死が二人を別つ時だけだ。安易に流されたりしない。作者の不器用なまでのストイックさが伝わってきた。「ハードボイルドを料理する」と大口を叩くだけのことはある。

 ただ、邦彦の「半熟ゆで卵」を至高とする考え方は、私としてはやはり肯定し切れないものがあった。

 いや、ここで思考停止してはいけない。クールになれ。

 これもまた一種のメタファーだとしたら……。彼はまだ異世界でよちよち歩きを始めたばかりの坊や。それに、男として、ハードボイルドの主人公として、邦彦はまだまだ……はっ! そういうことだったか。

 私は膝を打った。

 塔子君は肩をびくりと震わせた。

「すまない」

 あえて半熟ゆで卵。固ゆで卵にしなかったのは、そういうことか。作者は、この何気ないシーンに、邦彦がまだ「未完成」「半人前」であるというメッセージを込めたのか。これはテーマのリフレインだ。

「くっ、やられた!」

「何にですか!?」

 半熟ゆで卵で無双し始めた邦彦は、二章になると内気な眼鏡っ娘、セクシーな酔っ払いお姉様、固ゆで卵家の堅物跡取り娘と、次から次へとヒロイン達の間を渡り歩くようになる。

 そして、怒涛の展開が続く三章。彼女達は彼を巡り、熱い火花を散らし始めるわけだが――スパイ小説さながらの頭脳戦は読み応えがあった。

 やれやれ。強い男は罪づくりだ。無職で童貞だった彼は最早いない。そのことが少し寂しくもあった。馬鹿な子ほど可愛い。

 物語は最終章へ――

 何らかの事情があって(何らかの事情は何らかの事情だ)元の世界に戻らなくてはいけなくなった邦彦に、ヒロインが時計を見ずに半熟ゆで卵を作るラスト。

 邦彦と過ごした日々を思い返しながら一生懸命作るのだが、料理が下手なヒロインは、最後まで半熟ゆで卵を作ることが出来なかった。

 ピンポン玉のような黄身に、涙を零すヒロイン。

【最後なのに……あんたみたいに半熟れなくてごめん……】

 初めて心を開いた彼女に、邦彦は言う。背中を強く抱きしめながら、

【確かにお前は最後まで半熟れなかったかもしれない。――だからどうだというんだ】

 その後、二人がどういう道を歩んだか。それは言わぬが花だろう。


 作中、物語の展開がやや唐突だったり、回収していない伏線も十個以上あったが、つまらない批評など野暮ってものだ。


 


 最後の最後にこの台詞を持ってくるセンス。ベタかもしれないが、この作者のハードボイルドへの愛は本物だ。

 あとがきは、あえて読まなかった。私と彼(おそらく)の間に、これ以上の言葉は必要ない。

「……面白かったよ」

「うえ! 本当に読み切ったんですか?」

「あぁ。私はこの一冊にハードボイルドの新境地を見たよ」


『元無職の俺が異世界スローライフで半熟無双しちゃいます!』

 

 まったく。これだけの王道ハードボイルドを書きながら、最後まで「半熟」と謙遜し続ける奥ゆかしさは実ににくいじゃないか。

「これはきっと、後世に語り継がれる傑作だ」

「……所長、一体どんな読み方したんですか? ちなみに絶版です」

「君もいずれ分かる日が来るさ」

「はぁ」

「いい男を選んだな、塔子君」

「ど、どうも……?」

 私は窓辺へ歩いた。熱く伝うものを、誰にも見られたくなかったから。

「日本の将来は君達に任せた」

「…………分かりました」

 かなり間があったのは気のせいだろうか。

 目元を拭ってから、私は振り向いた。

「ところで塔子君」

「はい」

「この作者は、他にもこういった作品を出しているのかい?」

 読めるものなら、他の作品も読んでみたかった。

 しかし、思いもよらぬ答えが返って来た。

「残念ですけど、この人、これ一冊だけみたいですよ」

「何!?」

「こんなアレな表紙だと、読者も限られるでしょうし。所長には悪いですけど、隠れた名作っていうか、単に埋もれた駄――」

 確かにこのレベルの傑作はそうそう生み出せないだろうが、一冊だけというのは――いや、作者はこの作品にすべての力を出し尽くしたのだ。きっと。

「……そうか」

 私は、ソファーに深々と腰を下ろした。

「今日、友達をひとりなくした」

「いつ友達になったんですか?」

 忘れてしまったよ――そう言いかけた時、雨音にノックが紛れ込んだ。

「こんな雨の中、お客さんみたいですよ。それも夕方の六時過ぎに」

「テリーかな」

「誰ですか、テリーって?」

「古い友人さ。ほんとのさよならはもう――」

「どうぞ。こちらへおかけください」

 決め台詞はどこかへいってしまった。

「ええと……」

 入って来た婦人は、落ち着かないようだった。

 ふっくらとした顔。高価なネックレス。服のブランドは――

「コーヒーと紅茶、どちらになさいますか?」

「……紅茶を」

「紅茶ですね」

「私には――」

「ギムレットにはまだ早すぎます。てか、事務所で飲まないでください」

「やれやれ」

 塔子君がキッチンへ消えた後も、婦人は落ち着かないようだった。

 ――これは久しぶりに大きな事件かもしれない。

 長年の勘が、私にそう告げている。

「探偵事務所は初めてですか?」

「え、えぇ。初めてです」

 ぎこちなく答え、彼女は私の顔をじっと見た。

「私の顔に何か?」

「いえ、あの、あなたがここの……探偵さんなのよね?」

「はい。私が探偵です。さっきの子はアルバイトです」

「そうなの……」

「あなたが考えていることは大体分かりますよ。同業者にも未だによく言われますから」

 口元に薄く笑みを浮かべて、私は言った。


「探偵は――女には向かない職業だって」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ハードボイルド・リーディング~元無職の俺が異世界スローライフで半熟無双しちゃいます!~ 尾崎中夜 @negi3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ