青乃島のかぐや姫

尾崎中夜

青乃島のかぐや姫

 昔々、これはまだパソコンも携帯電話もなかった頃、ある年の八月のことだった。

 一人の若い女性が小さな旅行鞄をギュッと胸に抱きながら、青乃島商店街の大通りを不安げな表情で歩いていた。

 ――ありゃあ、きっと月の国のお姫様だよ。

 アパートの大家が何気なく口にした言葉から、商店街の人達は、彼女のことを密かに《かぐや姫》と呼ぶようになった。月の綺麗な夜に、寂れた駅のホームに降り立った都会のお嬢さんを、おとぎ話の人物になぞらえて。


 商店街の男達は、人見知りの月下美人にたちまち夢中になった。

 たとえば、彼女が青乃島に引っ越して来てから一〇日と経たないうちに、喫茶店のレコードが歌謡曲からお洒落なピアノジャズに変わり、雑貨屋の強面親父が当時都会で流行していた化粧品を店頭に並べるようになった。皆、デレデレデレデレ……。

 女達からすれば、当然面白くなかった。これでもし商売が疎かになったり、自分達のことを蔑ろにするようになったら、「耳の一つでも抓ってやる!」と来る日に備えて爪を伸ばしていたが、あいにくXデーがやって来ることはなかった。男達は商売を疎かにするどころか、《かぐや姫》にいいところを見せようと普段以上に働いた。レディーファーストの精神も一時期流行った。これでは文句を言おうにも言えない。

 ――いいところのお嬢さんが親と喧嘩して家出してきたのよ。

 溜まった分は、井戸端会議で発散させていた。

 ――恋人に捨てられて人生自棄になってるんじゃないの? でなきゃ、こんなド田舎に来たりしないわよ。

 ――生活費とかどうしてるのかしら?

 ――そんなの、ちょっとばかりニコッとすれば、男のほうから貢いでくれるわよ。

 ――この間、青乃橋で長い間ぼーっとしてるところ見かけたけど、まさか身投げとかしないでしょうね。

 ときに、誰かが品のない冗談を口にすることもあったが、彼女達は決してあることないこと吹聴して回って若い女の子を貶めようとか、村八分にしようとか、陰湿なことはしなかった。男達ほどではないにせよ、彼女達もまた、田舎の商店街にフラリとやって来たお嬢さんのことが気になってしょうがなかっただけなのだから。

 それに、内気なお嬢さんではあったが《かぐや姫》は無愛想ではなかった。明るい感情表現に慣れていないだけで、道端で擦れ違えば彼女のほうから会釈をするし、商店街の溝掃除にも嫌な顔一つせず参加していた。媚を売っておこうとか、こういうところでアピールしておこうとか、そういった下心もなく、ただ純粋に青乃島商店街に住んでいる者の当然の義務として参加していた。同じ年頃の女の子達がなにかと理由をつけてサボったり、遊びに出かけたりする中で。

《かぐや姫》のように若くて綺麗なお嬢さんが地味なジャージを着て、スコップで溝の泥を掬い続ける姿は、それだけで心を打つものがあった。男達がここぞとばかりに「手伝いますよ!」と鼻息荒く言い寄ってきても、彼女は小さな笑みを一つ返すだけで、あとは一人黙々と頑張り続けるものだから、この健気さには商店街のゴッドマザーの心も動かされた。若い子に嫉妬してわざと一番大変なエリアを振った、そんな意地悪な自分を恥じた。

 ――……まったく、いまどきの子はスコップもまともに扱えないんだから。スコップはこう、腰を入れて……腕だけで持とうとすると腰をやるよ。

 

★★★★★


 肉屋の倅――《悪たれのコウジ》と魚屋の倅――《怠け者のタロウ》

 この二人は《かぐや姫》がこの町に来るまで、商店街の大人達の悩みの種だった。

 二〇歳になっても高校時代の不良仲間とつるんでは、バイクに酒に賭け麻雀と、落語の放蕩息子さながらに遊び呆けていたコウジ。遊んでいるだけならいいが、酔うと誰彼構わず喧嘩をふっかけるのが困りものだった。

 タロウはというと、悪い遊びや乱暴沙汰とは無縁だったが、彼もまた、高校を出てから長いことブラブラしていた。晴れの日は河原で一日釣り竿を垂らし、雨の日はゴロゴロ寝てばかり。おまけに、彼はコウジの二つ年上。二二歳だった。

 ――俺はもっとカッコいい仕事がしたいんだよ。こんな店継ぐなんてごめんだね。

 反抗期の辞めどきを逃し続けているうちに、いつしか不良と呼ばれるようになったコウジ。

 高校を出てからは無頼漢気取りでいい気になっていた。舎弟が一人、二人と真っ当な道へと戻って行く中で、自分はいつまでお山の大将でいるつもりなのか。

 こんな生きかたうんざりだと思っていても、いまさら大学に行けるような頭などなく、自分みたいなチンピラを雇ってくれる会社だってないだろう。これまで散々迷惑をかけてきた両親や商店街のおっちゃんおばちゃんに素直に頭を下げられたら……。

 ――俺はずっと、魚屋の与太郎なのかな……。

 タロウは自分の将来になんの期待も持てずにいた。

 自分が大した人間じゃないことは自分が一番よく分かっている。なら、なにか頑張ったって意味ないじゃないか。いつかは頑張らなきゃいけないときが来るんだろうけど、それはいつなんだろうか。なにを、どう頑張ればいいんだろうか。

 なんとなく大人になれなかった二人にとって、商店街の《かぐや姫》ブームは、更生のきっかけとなった。皆が異様な熱気に浮かれている間なら、自分達が少し変わった行動をしたって誰も気にしないだろう。――たとえば、店の手伝いをしてみるとか。

「俺だって《かぐや姫》にカッコいいところ見せたいのさ」と、いくらでも口実はつけられる。美人の前で真面目に働いている姿を見せたい。男として自然な欲求じゃないか。

 コウジが長い髪を切りに床屋へ行くと、既にタロウがいた。彼も丁度髭を剃ってもらっているところだった。

 ――あんた、店の手伝いすんの?

 ――うん。魚釣りは飽きた。……コウジくんも?

 ――……坊主にすりゃ親父も話聞いてくれっかな?

 お互い家業を継ぐ決心がついたからといって、肉屋と魚屋の先祖代々から続く敵対関係まで引き継ぐ必要はなかったのだが、啀み合っている親達の目を盗んで酒を酌み交わすほどの間柄でもなかったので、「なら、日々の仕事に張り合いが出るように」と、商店街きってのライバルを演じるようになった。

 はじめは親の見様見真似だったが、タロウが血気盛んなコウジに迫力負けしないようにと、ひょろひょろの身体を鍛え始めたあたりから、彼らの「てやんでえ」「べらんめえ」は、だんだん板についてきた。身体を鍛えているうちに、タロウは男の自信を得たようだった。

 やがて二人の喧嘩は、演技ではなくなってきた。そして、いつしか二人とも、自分達に更生のきっかけをくれた《かぐや姫》を嫁さんにしたいと、本気で考えるようになってきた。

 ――さぁて《かぐや姫》はどっちとくっつくだろうね。

 青乃島のような娯楽のない土地では、若者の三角関係ほど見ていて楽しいものはない。コウジとタロウが目の前で求愛合戦を始めると、初心な《かぐや姫》は赤くなったり、(どうしよう……)とオロオロしていた。それでも、彼らといるとき、彼女は楽しそうだった。笑顔が多かった。

 毎日毎日飽きずに喧嘩しているコウジとタロウに、《かぐや姫》は一度、当時流行っていた人情コメディ映画のタイトルをあげて「お二人の関係って――と――みたいですね」と、言ったことがある。

 コウジとタクロウは赤くなった。なぜなら、彼らはまさに彼女があげた映画の登場人物を参考にして自分達のキャラをさらに練り込んでいたから。

 気持ちのいい三角関係は、たとえどんな結末になっていたとしても、ドロドロの恨み辛みが残ることはなかっただろう。顔を合わせるたびに憎まれ口を叩き合おうと、(こいつならあの子を幸せにするさ)と、お互い相手のことを信頼してはいたから。

 しかし、この人情コメディは、思ってもみない形で終わりを迎えた。

《かぐや姫》が青乃島商店街に来て一年近く経ったある日、ゴッドマザーのもとに一通の手紙が届いた。

 手紙は《突然このような手紙を申し訳ありません》と、不穏な文言から始まっていた。

 謝罪や心苦しさの告白が半分以上を占めていた手紙を要約すると、いまにも潰れそうな家業を助けるために結婚をしなければならなくなった、そういう内容だった。

《かぐや姫》がどれだけオブラートに包んだ文章を綴ろうと、ゴッドマザーには相手がどういう男か、どういう条件の結婚か容易に想像がついた。

(親父さんもさぞ無念だったろうに……)

 相手の目が届かない土地に娘をやっている間に家業を立て直そうと、必死に頑張ってきた。

 だが、もう限界寸前まで来ていた。最早娘を差し出してでも、会社を、従業員の暮らしを守るか、それともいっそ一人で死んでしまおうか……と、縄に首を入れる寸前になって、我に返り、ついに心が折れた。

 青乃島で楽しく暮らしている娘に心配かけまいと、それまでずっと「家のことは絶対に言うな」ときつく言われていた母親も、もう約束を守れなかった。

《かぐや姫》が実家の惨状を知ったのは、夏祭りの二日前だった。

 コウジとタロウと三人で行く夏祭りを、彼女はずっと楽しみにしていた。けれど、

《なにも知らずにいた自分が本当に恥ずかしいです》

 家のために、望まない結婚をさせられる――。

 ゴッドマザーの世代だと珍しい話ではなかったが、それでもいざ孫のように可愛がっていた子が、こんな風に未来を決められてしまうことはやるせなかった。

《さようなら。いつまでもお元気で》

 手紙は、青乃島を離れる事情については書いてあったが、自分の本当の気持ちやこれからのことについては、ほとんど触れていなかった。ただ、

《商店街の皆さんには、この手紙のことは、どうか秘密にしておいてください》

 多くを語らないことが、ときに多くを語ることもある。

(あの子はきっと、泣くときも周りの客が眠ってからなんだろうね)

 夜汽車で独り、声を出さず静かに泣いている、そんな《かぐや姫)を思い浮かべながら、その日の夜、ゴッドマザーは窓辺でいつまでも月に両手を合わせていた。

 哀しくなるぐらい綺麗な月に両手を合わせながら、「どうか、どうか……」と、《かぐや姫》の幸せをいつまでも願い続けた。


 コウジもタロウも《かぐや姫》がこの町を去ることになった理由を、生涯知ることはなかった。

 きっとなにか事情があったのだ。そのことは察していながらも、あのとき、なにも訊かなかった。なにも訊けなかった。後悔はある。

 けれど、やはりなにも訊かなくてよかったのだ。

《かぐや姫》はいまこのときを、小さな町のなんてことない夏祭りを、かけがえのない青春の思い出として残そうと、心の底から楽しんでいたのだから。

 ――もう。コウジさんもタロウさんも喧嘩ばかりしてると、私、帰っちゃいますよ。

 あんな風に「ぷい」と可愛く拗ねられたら、男は骨抜きだ。

 ――花火綺麗ですね……。

 夜空に大輪の花が咲くたびに、鮮やかに彩られていた横顔。二人揃って見惚れながら、心の中では何度も「あなたのほうが綺麗です」と言っていた。

 ――私、今夜のこと、一生覚えています。


★★★★★


《かぐや姫》が青乃島を去ってから二年後、コウジは嫁さんを貰った。その一年後に、タロウも嫁さんを貰った。

 二人とも《かぐや姫》とは似ても似つかない、逞しい姉さん女房のどっしりとした尻に敷かれながら、これまで以上に商売に励むようになり、やがて子どもが生まれ、その子ども達が将来結ばれるのだが――それはまた別のお話。

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青乃島のかぐや姫 尾崎中夜 @negi3

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