第4話 堕ちた聖獣

 気負いながら杖を振るうハルナは、ふいに日が陰ったのを感じた。

 咄嗟に反転して仰向いた彼女は、全身にめり込むほどの風圧に見舞われた。

 青黒く、翼開長が十メートルを超えるのではないかという巨鳥が、いつの間にやらハルナの頭上に飛来して、耳をつんざくように鳴いたのだった。

 巨鳥の頭には、満開の薔薇の花を思わせる、特徴的な冠羽が存在した。

「あれは、もしや……堕ちた聖獣ジルクーア!」

 既に牧場主夫妻を捕縛して、粛清の大半が終わった地上には、空を見上げて巨鳥の正体を言い当てる神聖騎士もいた。

「聖なる光芒!」

 ハルナは、すかさず神聖魔法の光線を放ったが、それが巨鳥の体に吸い込まれたのに効果がないことを、誰より間近で目撃した。その直後、荒ぶる巨鳥の羽ばたきに吹き飛ばされて、まっすぐに地上へと墜落したのだった——


治験ちけんのこと、陽菜に話せそうもないか……」

 病院の喫茶室で、陽菜の父である宏樹ひろきは、円佳と合流していた。

「ええ、とても。またすぐに眠ってしまったし……」

 円佳は、溜め息を零す。

 病前の陽菜は、誕生日やハロウィンに、円佳の手作りの衣装を着飾って記念撮影するのが大好きだった。円佳は、とある劇団の衣装係を勤めていたのだ。

「今の陽菜に、着飾ることを楽しんでもらおうだなんて、押しつけがましかったかしら」

「ちょっと特別なこと、と君は言った。ルーティンの闘病生活とは一味違うイベントのことだとわかりそうなものなのに、癇癪を起こすとは、やはり陽菜は子供だな。近頃、多少は親に気を遣うようになったと思っていたが、やはり精神的に未熟で余裕に乏しい」

 宏樹は、顔を顰めた。

 宏樹は、劇団の脚本家で、かつて円佳と職場結婚したのだ。家族で写真を撮ることを口実に三人で集まり、治験のことを陽菜に伝えようと計画したのも彼なのだ。

「あなた、なにもそこまで……」

「僕だって陽菜のことは可愛いよ。けれどそれは、君が産んでくれた一人娘だからだ」

 宏樹は、妻の手を取った。

 実は、陽菜の病気に効くかもしれない新薬が開発された。しかし、まずは試しに、希望する患者に投与して効果を確認する、治験の段階なのである。

 陽菜の主治医は、治験への参加を勧めてくれた。

「もういっそ、治験の件は断ってしまおう。陽菜に知らせるまでもない」

 宏樹は、妻の手を握る手に力を込めた。

「治験のせいで陽菜の寿命が多少は延びたとしても、それは君の苦労が長引くことと同義でしかないんだよ、円佳」


 神聖騎士たちは、素早く円陣を組んで、クリスタル製の槍の穂先を突き合わせた。その後いっせいに騎士たちが後退すると、各自のクリスタルから女神の加護が発動して、瞬く間に白金の光の網を編み上げたのである。

 空から降って来た戦巫女は、その光の網に優しく受け止められた。どこか蜘蛛の巣に絡め取られた蝶のようでもあったが。

「あれは、おそらくジルクーア——堕ちた聖獣です」

 騎士団長は、戦巫女の無事を確認するや申し出た。

「そう……わたしも、教皇聖下から、そういった存在については教わりました」

 魔物殺しが原因で砂漠化した土地は、回復するまでに百年以上を要する。しかし、神殿で育まれた聖獣をそんな砂漠に住まわせることで、回復までの年月を短縮することができるのだ。

 ただし、魔物による穢れを浄化しきれず、聖獣が堕ちてしまうことも、稀ながらある。

 ジルクーアは、数百年前に西の穀倉地帯が砂漠化した際に派遣され、土地の回復に貢献したが、自身は堕ちてしまった元聖獣だという。

「元が聖獣であるせいか、やつには神聖魔法も通じません。しかし、火属性の魔法を嫌うため、滅ぼすのは無理でも追い払うことはできると伝わっております。それゆえ、後は我々にお任せを」

 騎士団長は、これで幼気いたいけな戦巫女の重荷を分け持つことができるとばかりに、一礼した。

 ジルクーアは、魔物同然の存在へと堕ちて以来、山岳地帯へと去ったらしいが、時として人里に現れて悪さをする。例えば、牧場の家畜を魔物化してしまうのだ。

 女帝にして教皇たるカンヌマリアは、巡察使の報告を受けた時点で、家畜の魔物化にジルクーアが関与していることを、最悪の事態として想定していた。


 牧場のあちこちから、巨大な火柱が立ち上がった。火柱たちは揺めきながら、上空の巨鳥を舐めようとする。

 騎士団の中で火の魔法を使える者たちが、青黒き巨鳥を追い払おうとしていた。

「そんなの、だめです」

 ハルナはしかし、呼吸を整えるや、毅然として飛び立った。

「三日月の輪舞曲ロンド!」

 瞬く間に巨鳥の傍らへと到達したハルナは、新たな神聖魔法を放った。

 三日月型の白金色の刃が、無数に生み出されて宙を舞い、ジルクーアの身に迫った炎を、ことごとく反射して退けたのである。

 ハルナは、堕ちた聖獣へと向き直り、その頭部に両腕を回した。

「お願いだから助けてほしい——そう叫んでるつもりでも、周囲の人たちにとっては、ひどい暴言や暴力でしかないことだってあるんだよ」

 ジルクーアは、戦巫女の胸に顔を埋めた。

 そして、もう一度鳴いて、目映い光を放ちながら消滅したのである。


 エルナーヤ神の加護と戦巫女の慈愛により、堕ちた聖獣は苦しみより解き放たれ昇天した——

 帝国の吟遊詩人たちは、後に、こぞってそう歌い上げた。

 戦巫女の胸元のリボンが食いちぎられ、紅く染め上げられたことは伏せられたのである。


 ジルクーアの他にも、堕ちた聖獣は存在する。とある片田舎で、神聖魔法の才覚に恵まれた子供を生贄として捧げたところ、以降、堕ちた聖獣が姿を見せなくなったという情報を、カンヌマリアは予め掴んでいた。

 そしてそれを、ハルナにもそっと耳打ちしたのだった。


「なんだか、コポコポいってる。とっても小さな小人たちが、ダンスを踊って飛び跳ねてるみたい」

 ハルナは、エルナーヤ神殿へと帰還して、魔法の培養液に満たされた浴槽に体を浸していた。大きく鋭いくちばしに食いちぎられた胸肉が再生してゆく様を、そんなふうに表現したのである。

「こっちのわたしは……こんなに生きてるのにね」

 少女は、胸元に手を当て、若葉色の瞳を揺らめかせた。

 薔薇の花を思わせる冠羽を生やした青い小鳥が、浴槽の傍らで、労るようにクーと鳴いたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エルナーヤの戦巫女 如月姫蝶 @k-kiss

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ