第3話 羊に一撃、羊にニ撃……
「お耳に入れたいことがございます」
リュウナは、神殿にて、教皇の仕事に勤しんでいたカンヌマリアの前に跪いた。巡察使としての報告である。
女帝にして教皇でもあるカンヌマリアは、戦巫女たるハルナに同席を命じた。
「近頃、うちの劇団の若い男優を贔屓にして、ずいぶんと貢いでくださるご婦人が現れました。夫婦で牧場を営んでいるらしいんですが、どうにも羽振りが良すぎるようで。しかも、ご婦人がこれ見よがしに身につけたアメジストから、魔物の残り香が感じられたと、その男優は言うんです」
「それって!」
ハルナは、声を上げた。
カンヌマリアは、静かに眉根を寄せる。
魔物を退治すると、宝石が採れることがある。オパールやアメジストによく似ており、素人目には本物と区別がつかないほどに美しい石である。紛い物でありながら、時には本物と偽って売買されているのが実情だ。
「牧場か……」
過去の事例を鑑み、女帝は、最悪の事態を想定した。
「え……こんな時に!」
ハルナが再び声を上げたのは、ふいに視界が白く明るすぎる光に染め上げられたせいだった。女帝や巡察使と大切な話をしている最中だというのに……
「あら、陽菜。目が覚めたのね!」
母の嬉しそうな声が耳に入った。
そこは、陽菜の肉体がほとんど寝たきりで過ごしている、病院の個室だった。
こちらの世界で彼女が目を覚ましたのは、おそらく数日ぶりだろう。
「陽菜、ちょうど良かった! ねえ、ちょっと特別なことをしてみない?」
母の
それは要は、希望する入院患者が、ウイッグを借り、プロにメイクをしてもらって、重病人には見えないほど飾り立てて、家族と記念写真を撮影できるというサービスだった。
余命の短い患者が集まる病院にはありがちだ。
「いらない……わたしは、寝ていたい……」
ハルナは大切な話の途中だったのだ。早くエルナタリアに戻りたい一心で、陽菜は言った。
きっぱりと首を横に振ったつもりだったのに、陽菜の肉体は弱々しくしか動いてくれないのがもどかしかった。
だが、円佳が浮かべた悲しげな表情が、ふいに鮮やかに陽菜の目にしみた。
そうだ、彼女も犠牲者なのだ——
陽菜は、重病が判明した当時、怒りや悲しみや恐れに荒れ狂った。
限りなく百パーセントに近い確率で、あと数年で死亡するというのだから!
しかし、異世界にて活躍するチャンスを得たこともあって、家族のことくらいは目に入るようになった。
円佳は、料理自慢である。しかし、陽菜は、病気のせいで飲食を禁止されたままで、点滴で命を繋ぐしかなくなった。
円佳は、彼女の料理の大ファンとしての一人娘のことを、既に失ったのだ。
そして、これから先も失うばかりだろうに、仕事も辞めて、毎日多くの時間を娘の病室で過ごすようになってしまった。
彼女は、陽菜に取り憑いた病魔に、巻き添えにされた犠牲者なのだ……
「あ……お母さんは、写真を撮りたいの? なら、撮ろうよ。このパンフレットみたいにあざといのは嫌だけど、今ここで撮るならいいよ」
陽菜は、笑みを浮かべて、母の提案に歩み寄った。しかし、円佳の表情は晴れない。
陽菜の体の奥底から、ふいにマグマのように、負の感情が突き上げた。
「ねえ、重病人丸出しの姿のわたしじゃだめってこと? お母さん、ちょっと特別なこととか言ったけど、十三才のわたしが病気と闘ってるのは、ちっとも特別なことなんかじゃないって思ってるの?」
陽菜は、棒切れのように痩せた腕を胸に当てた。パジャマの上からでも肋骨に触れた。
陽菜の心臓は、雑音ばかり立てて、自分のことを苦しめる。けれど、異世界へ転移してハルナとなる刹那、まるでスターを迎えるステージの音楽のように、その鼓動は心地良く高鳴るのだ——
女は、棍棒で仔羊を殴った。
仔羊は哀れっぽく鳴いたが、小屋の中で鎖でがんじがらめにされていては、逃げることも歯向かうこともできない。
仔羊は、角だけではなく牙を生やしていた。そして、ほの黒い
実は、魔物なのである。
三度目の打撃で、仔羊は光を吐いた。
女が嬉々として這いつくばって拾い上げたそれは、アメジスト……そっくりの結晶だった。
魔物を殺せば宝石が採れることがある。そればかりか、死なない程度に痛めつけることで、一匹の魔物に繰り返し宝石を吐き出させることだって可能なのだ。
アメジストもどきを手にしてほくそ笑んだ女は、夫に名を呼ばれて、小屋を出た。
あれは、一ヶ月ばかり前のことだった。女が夫と切り盛りする牧場で、一匹の羊が牧羊犬に噛みつくという珍事が発生した。
咄嗟に夫婦そろって牧羊犬に加勢したところ、羊の体は砂のように崩れ去り、後には紫に輝く宝石だけが残った。
その羊は、いつの間にやら魔物化していたのだ。
牧場で飼われる家畜の魔物化は、稀に起こる現象である。
例えば、家畜に魔物の血が混じっており、突然先祖返りすることがあるのだ。
たった一匹の家畜の魔物化でも、放置すれば、まるで病が伝染するように、次々と他の家畜に波及する。近隣の他の牧場にまで、魔物化の被害が飛び火することまであるのだ。
ゆえに、家畜の魔物化に気づいた牧場主は、速やかにお上に届け出なければならないという法が存在する。
しかし、アメジストの輝きに夫婦の目が眩んだ。闇市場で高値で買い取ってくれる宝石商も見つかった。
あからさまに魔物化した羊だけをこっそりと始末したり、あるいは鎖に繋いだりして、羊の頭数が目減りすれば買い足せば良い。そのほうが、法なぞ守って普通に牧場を営むよりも、よっぽど裕福に暮らしてゆける……
そんな自信に満ちた女は、牧場の脇に立つ小屋から、夫に呼ばれて外に出た。するとその眼前には、アメジストとはまた違った輝きが、ずらりと整列していたではないか!
「我らは、教皇聖下にお仕えする神聖騎士団である。この牧場には魔物が匿われている疑いがあるゆえ、これより然るべく対処する」
ずらりと並んで輝いていたのは、神聖騎士団の鎧兜や、槍のクリスタル製の穂先だった。
「こ、こ、この小屋には、なんにもいないんだから!」
女の反応は、非常にわかりやすかった。
教皇と女帝は同一人物である。牧場主夫妻は、地元の領主の目さえ誤魔化せばよいと高を括っていたが、いきなりもっとずっと上にばれてしまったのだ。
「あんたが、賭け事に大金を注ぎ込んだりするから!」
女は、夫をなじった。実のところ、夫のギャンブルよりも、妻が役者に貢ぎすぎたせいで露見したのだが、彼女はそれに気づいてはいなかった。
その頃、戦巫女は、牧場の上空を飛んでいた。
蝶を思わせる白金の翅は輝かしいが、表情は険しく曇っていた。
牧場では百頭を超える羊が飼育されていたが、魔物ならではのほの黒い靄に目敏いハルナが見たところ、過半数が既に魔物化していた。
魔物は粛清するしかない。ハルナが操る神聖魔法であれば、魔物以外を巻き添えにする心配はないのだ。
「聖なる光芒!」
無垢な家畜も入り混じる中、ハルナは、魔物の一匹一匹に対して宣告しては、神聖魔法の光線によって、その体が砂のごとく消え去るのを見届けた。陽菜が遠からず経験するであろう死というものを、ハルナの若葉色の瞳を通して、しっかりと見届けずにはいられなかった。
もしもハルナの手に余るなら、あるいは彼女の心が折れたら、神聖騎士団も殺処分に加勢してくれることになっている。
しかし、この土地の砂漠化を防ぐためには、戦巫女が一人で粛清を成し遂げるべきなのである。
一度に一ヶ所で大量の魔物を殺すと、土地の砂漠化を招くおそれがある。交通の要衝であれ、豊かな穀倉地帯であれ、あるいは牧場であっても、人間の都合とは無関係に砂漠化は起こりうるし、砂漠を元に戻すには百年以上の年月を要するという。
しかし、もっぱら神聖魔法のみを用いて粛清を完遂すれば、砂漠化は予防できるのだ。
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