試小説

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第1話

 両親が事故で亡くなって2か月が経った頃。鏡の中から自分の姿が消えてしまったことがあった。


 その頃の私はまだ10歳で、両親を亡くしたばかりの私は、母の弟、つまりは叔父に引き取られて生活していた。


 叔父の家は古い木造の2階建てで、私は2階の端っこにある部屋を与えられていた。あまり親戚とは仲の良くなかった私だが、叔父とはどこかギクシャクとしながらも表面上はうまくやっていたつもりだ。


 日曜日の朝のことだった。目が覚めて、私はいつものように顔を洗うため洗面所へと向かった。洗面台の前に立ち、顔を上げ、鏡の中を覗いた私はそのまま硬直する。目の前の鏡には、自分の姿が映っていなかったのである。

 鏡には私のいない洗面所の風景が映されているだけで、鏡に触れようが、顔を近づけてみようがそこに自分が映ることはなかった。まるで透明人間になったみたいだ。


 私は顔も洗わずに洗面所から立ち去った。目の前の現実から逃避し、早足に居間へと向かったのだ。


「玲奈。さっき電話があってさ。お前の友達の女の子、行方不明だってよ。さっき親御さんが電話でこっちに来てないかって言ってたけど、来てないだろ?」


 居間の扉を開けると、叔父が軽々しくそう言った。こたつでミカンの皮を剝きながらだった。

 友達の女の子が行方不明。そう聞いて私は一層青ざめる。人付き合いの悪い自分にとって、女友達と言えば一人しか思い当たらない。


「はい、来てません。教えてくださってありがとうございます」それだけ言って、私は慌てて2階の自室に戻る。部屋の鍵を閉め、ぐちゃぐちゃの自分の頭の中を整理した。


 鏡に映らなかった自分。

 行方不明の友達。


 先に処理すべき問題は友達の方だと考え、私は引き出しにしまってあった連絡網の用紙を取り出す。スマホで友人の家に電話をしてみた。


 「……ああ、玲奈ちゃん。いつも、うちの子と仲良くしてくれてありがとうね」


 スマホから覇気のない女性の声がする。あの子の母親だった。いつもは明るく優しい女性なのに、酷く憔悴しきっている様子だった。


 彼女から話を聞けば、事件はキャンプ地で起きたという。両親がバーベキューの準備をしている時、あの子は手持ち無沙汰な様子だったらしい。


 「ごめんね。その辺でちょっと遊んでてくれる?」


 母親がそう言うと、泳ぎが好きな彼女は飛び出すように川の方へ走っていったという。まずいかもしれない。母親の頭に一瞬だけよぎったが、今は手が離せない。川の流れはそこまで早くなかったため、大丈夫だろうと自分に言い聞かせたという。


 気づいた時には、娘の姿はもうなかった。流されたんだ。そう思った時にはもうすべてが遅かった。


「ごめんなさい。私のせいなの。私が目を離さなければ」


 友人の母親は懺悔するように何度もそうつぶやいた。


「誰も悪くないと思います。状況を教えていただいて助かります。ありがとうございました」


 私は感謝しながら電話を切る。

 自分の部屋に戻ってテレビをつければ、早速その事故が取り上げられていた。笑っているあどけない少女の写真がテレビに映っていた。

 それからしばらく、警察は彼女を見つけるために大規模な捜索を行ったが、数週間後にはそれも打ち切られてしまった。生きて帰ってくることは、まずないだろうと思えた。


 その事件の後、私は鏡を恐れるようになった。近づくことも、見ることも避けるようになる。

 鏡に自分が映らないことが何より怖かったし、それに行方不明の友人の顔が鏡に映りそうな気がしたからだ。


 鏡がある場所では常に顔を伏せた。水面も絶対に見なかった。鏡を見たら死ぬ。そう自分に言い聞かせ、絶対に鏡面だけは見ないようにしていた。


 とは言え、鏡なしの生活はなかなかに不便だった。毎朝、顔を洗うにも目の前に鏡があるものだから下を見なければいけないし、トイレの手洗いの時もうつむいてばかりだった。プールでは水面の反射を避けるため、常に上を見上げなければならない。そんな生活を1か月ほど送り、私はようやく決心する。いい加減に鏡を見よう。あれはきっと何かの見間違いだったのだ。そう自分に言い聞かせ、洗面台に向かった。


 私は洗面台の前に、顔を伏せた状態で立った。

 何とも言えない不安が胸を満たしていた。手が震え、心臓の鼓動が早くなる。

 恐る恐る、ゆっくりと顔を上げ、私は1か月ぶりに鏡を覗く。


 ————鏡の中、二つの瞳と目が合う。

 目が合って、私は「ヒッ」と小さく声を上げた。心臓がきゅっと締め付けられる。


 ————鏡の中、恐ろしいものを目にした。ひどく嫌なもの。だが目が離せない。

 顔を動かすことができず、ただその奇妙な光景を自らの網膜に焼き付けてしまう。


 二つの眼球。それが、鏡の中にぽつんと浮かんでいた。

 顔はない。ただ眼球だけが、洗面所の光景を背景に、宙に浮いている。


 思わず自分の口を手で覆った。すると、一緒に鏡の中でも手が動く。

 鏡の中の指。そして手の甲。しかし手首から下はなかった。

 指先には爪が生えておらず、爪が生えるべきその部分はピンク色のくぼみがあるだけだ。


 私は鏡から後ずさり、それから思い出したかのように悲鳴を上げた。夢中で階段を上がり自分の部屋に飛び込んだ。布団をかぶり、首を振って先ほどの光景を頭の中で否定する。


 ————そんなわけがない。鏡にそんなものが映るわけがない。自分は目玉と手の平だけの怪物ではないのだ。身体があって、ちゃんと顔のある人間だ。手で身体を触り、肉と骨の感触を感じて安堵した。それから私は、更に数年間もの間、鏡を見れなくなる。


 それから月日は流れ、話は中学生の頃にまで飛ぶ。


 中学2年の夏。うれしい出来事があった。生存が絶望的だと思われていた、あの行方不明の友人が発見されたのである。例のキャンプ地の近くでさまよっているところを発見されたらしい。事件のショックのせいなのか、友人は事件以前の記憶をほとんど失っていた。しかし、彼女は一つだけよく覚えていることがあると言う。


 「なんでかはわからないけど、玲奈。あなたのことだけは、よく覚えてるよ」


 久しぶりに会った友人は、私の顔を見ると笑顔でそう言った。うれしくて、言葉が出なくて、私はとにかく友人を強く抱きしめた。目から落ちる雫が、彼女の肩を濡らした。


 しばらくして、私はようやくまともに鏡が見れるようになった。


 久しぶりに見た鏡の中。そこには眼球と手の平だけの化け物など映っておらず、当たり前のように中学2年生の生意気そうな私が映し出されていた。


 やっぱり、あれは何かの見間違えだったのだろう。それからは問題なく鏡のある生活を送ることができている。今のところは。

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