博士ミラウ・フランとトリペッラの子供たち

鹿島さくら

博士ミラウ・フランとトリペッラの街の子供たち

「博士、いきなりで申し訳ないんだけど、あなたに窃盗団の確保を頼みたいんだ」

 年下の上司にそう言われて博士ミラウ・フランはハア、と気の抜けた返事をした。立ち尽くしポカンとする博士とは対照的に、年若い上司は革張りのソファにゆったりと腰掛けて爽やかな笑みを浮かべている。その横に控えた女秘書は口を真一文字に引き結んでいるが、不機嫌なのではなくただ単に無口なだけだ。

 ソファの青年はミラウ・フランの曖昧な反応に小首をかしげて問う。

「そもそも、博士は窃盗団については知ってる?」

「今朝からこのトリペッラの街を騒がせている盗人のことなら」

「で、どこまで把握してる?」

 ハキハキとした青年の声に、博士は猫背を更に丸くして答えた。

「夜中に各店舗に音もなく侵入されたとか。店の金庫を奪われたという話も聞きますが」

 そこまで言って博士が首をひると、青年は黙って続きを促した。

「被害があった店舗がパブなどがある歓楽街から離れていたとはいえ、翌朝になるまで誰も窃盗団に気が付かなかったのを考えれば、窃盗団内に異能者がいる可能性が高いとボクは考えています」

 ミラウ・フランがよどみなく答えると、青年はさすが博士!と声を弾ませた。実際、この男は博士号持ちであった。

「俺たちもそんな風に考えてたんだよ!」

 瞳をキラキラと輝かせた笑顔は、このトリペッラ自警団の長というにはあまりに少年じみている。否、実際24歳と若いのだが。

 博士はメガネのずれを直しながら顔をそらす。そこでようやく、青年の傍で口をつぐんでいた秘書が博士にしゃべりかけた。

「ドク、今回の窃盗団に子供が関わっている可能性がある、という点についてはご存じですか?」

 子供。その言葉で遥か昔に成人した男は顔を上げてどういうことだい、と眉をしかめた。

「盗まれた金額の大きさから宝石店や仕立て屋の金庫の紛失の方が大きく取り上げられていますが、それ以外にも本屋から子供向けの絵本や文字の練習帳、菓子店からジェリービーンズやチョコレート、ビスケットなどがひと掴みずつ、それから靴屋や服屋から小さいサイズのものが」

「つまり、窃盗団メンバーが子持ちである、あるいはメンバーに子供がいると?」

 そうです、と断言されると博士は再び目をそらし、もじゃもじゃの頭を掻きまわして言った。

「だとしてもボクなんかが指名される理由が分かりません。窃盗団の相手の捕り物なんてボクよりふさわしい人がいるでしょう」

 何せ、この枯れ木のような男では武装しているだろう窃盗団を相手するにはあまりに頼りない。自覚があるので博士は裾にシミの付いた白衣を揺らしながらだからダメですよ、と重ねて言う。

 けれどトリペッラ自警団の長は首を横に振る。そして妙に確信めいた口ぶりで。

「多分、博士になら窃盗団も大人しく捕まってくれると思うよ」

「どういうことです」

 博士が首をひねると、青年は彼をまっすぐに見つめて言った。

「昨日の夕方にね、窃盗被害にあった仕立て屋の店主が知らない子供たちに声をかけられたんだそうだ」

 “ミラウ・フランという人を知っていますか? この街にいますか? どんな人ですか?”

「……とね」

 博士ミラウ・フランは丸い眼鏡の奥の目をこれ以上ないほどに丸くして、左手で強く白衣を握り締めた。

 仕立て屋店主曰く、その見知らぬ子供らの一団は皆みすぼらしい恰好をしていて、中には3歳ほどの歳の子もいたという。そんな少年少女が、自警団の内部で働き表にあまり出てこない博士ミラウ・フランを知ってるとはよほどの事情があると思われる。

「ドクの縁者か、我々のようにあなたに世話になったか、これからなりたいか……」

 秘書の言葉に異能研究者は目をそらした。 

 店主は子供らを自警団本部まで連れて行こうとしたが、彼らはそれを断ってあっさり引き下がった。なんとなく彼らが気がかりだった店主は店じまいをしてから念のため自警団に連絡をしたのだという。

「この子供らの一団が、昨晩の窃盗団と全くの無関係とは思えないんだ」

 立ち尽くし身を固くする博士に、トリペッラ自警団の長は低く落ち着いた声で語り掛け、しかし次には子供っぽい顔で笑って「お願い」とウィンクする。博士ミラウ・フランは10歳年下の青年のこの顔に弱かった。喉からグ、とこらえるような音をさせる。

「それに、万が一荒事になっても博士には双子ちゃんがいるだろう?」

 かれこれ10年来の付き合いの青年が博士の足元を指さすと、途端に、応えるように黒い影が二つせり上がった。二つの影は黒衣を纏った人間の姿になり、博士の両隣に立った。

 ひとつは男。背が高く、がっしりとした体つきの年若い男。

 ひとつは女。背は低く、メリハリのある体つきの年若い女。

 博士ミラウ・フランの陰に住まう者たち、ミラウ・フランの双子である。

「母さんの望みなら窃盗団の捕縛でも国軍の相手でも。俺とユディに任せてくれ」

 男の方が低い声で言って博士の肩を抱くと、女の方が白衣の腕を抱きしめてはしゃいだ声を上げる。

「そうよ、私とアルベにどーんと任せて! ママはそこに立ってるだけでいいんだから!」

「だって我ら影の者、母たるミラウ・フラン博士の剣であり盾だもの」

 陰に住まうこの二人はミラウ・フランの手持ちの戦力であり部下であり護衛であり、ついでに言うならこの36歳独身男性ミラウ・フランをとして慕っていた。しかし当の本人は、自身の両隣からがっちりと引っ付いてくる2人に視線をやってため息をついた。

「あのねキミたち、いつも言っているでしょう。ボクはキミらのお母さんじゃないし、ボクみたいなろくでもない大人を親扱いするのはやめなさい」

 そう言うと、途端に影に潜んでいた者たちは一斉に反論する。ママはママだもん、母さんは俺たちを大事にしてくれるから、あのとき博士は私たちを守ってくれたから、だから俺たちの母さんだよ。

 いつものやかましいやりとりをやさしく見守りながら、トリペッラの街の自警団長は言う。

「博士、もしも本当に窃盗団の中に子供がいるのなら彼らを保護する必要があるだろう。自らの抱える異能を持て余しているのだとしたらなおのことだ」

 その横に立った秘書も頷いて、目の前のミラウ・フランに優しい声で語る。

「ドク、それこそがあの塔を壊して逃げ出した私たちの役割だと思いませんか?」

 あの塔。

 その言葉に博士ミラウ・フランはうつむきながら己の左手をぎゅっと握り締める。あの牢獄同然の異能研究塔で起きた反乱を、10年経った今でも彼は鮮明に思い出せる。

 まだ少年少女だった目の前の若者たちが起こした反乱。異能を駆使し、警備兵や防衛システムを突破し、爆発する建物の中を駆け抜け逃げ出したのだ。当時そこで拷問じみた異能研究や実験を行っていた研究員の多くが塔の崩壊に巻き込まれて死んでいった。

 異能研究者ミラウ・フランの力を籠めすぎた白い拳に、影の者たちがそっと触れた。

「子供が困ってるなら大人が助ける。俺たちはあのとき母さんに助けてもらったからな、今度は俺とユディが困っている子供を助ける番だ」

「大丈夫よママ、私たちがついてるわ」

 ミラウ・フランはくちびるを噛み締め、双子の手をそっと剥がして顔を上げた。博士ミラウ・フランは青年たちに向き直って言った。

「了解しました。このミラウ・フラン、本日より窃盗団の確保の任務にあたります」

 この異能研究者は、10年来の付き合いで仕事仲間である目の前の若者たちに弱い。そしてそれ以上に、己を母と慕う影の双子に弱かった。 

「ありがとう、よろしく頼むよ」

「ドク、捜査資料はこちらになります」

 秘書から資料を受け取ったミラウ・フランが部屋を出て行こうとすると、あの研究塔からの付き合いの青年が呼び止めた。

「博士、いつも俺たちのわがままに付き合ってくれてありがとう」

 ほころぶように笑う青年の隣で、秘書も静かに口角を上げている。窓から降り注ぐ昼の光が眩しく、異能研究者ミラウ・フランは顔を伏せて言った。

「いえ、それがボクの役目ですから」


***


「悪いねアルベ、暇だろう?」

 ミラウ・フランが声をかけると、すぐ傍の影からそんなことはない、と返事があった。低く落ち着いた声が夜の静寂によく馴染む。

「母さんを傍で守るのは大事な役目だ。俺はユディのように斥候は得意でないしな」

 月に照らされた建物の群れが石畳に影を落としていた。ミラウ・フランから少し離れたところの影がぬっと人の形でせり上がってきょろきょろとあたりを見回し、しかしすぐに彼の傍に戻ってきて、変わらずやさしく向けられるまなざし。

 異能研究者はそれから目をそらしてすまんな、と呟いた。

「遠くに連れて行ってやれんで」

 打ち沈んだ声だった。

「あの時、もっと早くお前たちを見つけられればこんな風に影に隠れず日の下で生活できてたのに」

 言いながら、月光から逃げるように細長い背を丸めて大きな手で眉間を抑える。眼鏡がずれてカチャ、と静かな音がする。

 いくばくかの沈黙の後。

「……気にしていない」 

 返事は静かに、決然とした響きだった。

「俺もユディも気にしていない。あの研究塔で俺たちを見つけてくれたのが、母さん、あんたで良かったと思っている」

 ミラウ・フランはしばし黙り込んでから、小さく首を横に振って呟いた。

「ボクなんかを親扱いするのはやめなさいよ」

 乾いた笑いを伴った物言いに反論しようとしたアルベだったが、パッと顔を上げてあたりを警戒する。

「ユディが何か見つけたらしい。母さん、あんたは俺のそばから絶対離れないでくれ」

 アルベが言い終わるか否かというその時、ミラウ・フランの目はそれを捉えた。

 こちらに向かって駆けてくる少年と少女。年の頃は12歳か13歳か、ナイフを手にして背後や横からの攻撃をかわし、時に応戦しながら向かってきている。攻撃を仕掛けているのは影に住まう双子の片割れ、ユディである。

「気を付けろサーラ! こいつ、オレたちと同じ異能者だ。多分影を操れる!」

「待ってお兄ちゃん、向こうに誰かいる!」

 手を引かれて走っていた少女……サーラが一瞬足を止める。その隙を見逃さず、少女の足元の影が伸びて彼女の影を絡めとった。少女が影の中にこけるや否や、兄は素早く身をひるがえして影に立つユディに突進する。

「サーラを離せ!」

 怒声と共に、突き出された少年の細い右腕が変化する。鋭い爪と長い毛を備えたそれは……獣の腕。

「ぐ……ッ、ビーストグラップ!」

 少年が顔をしかめて腕を硬直させたのも一瞬のこと。腕を巨大化させてすぐに目の前に立つ敵対者の頭を掴もうとするが、爪は虚空を裂く。

「いない?」

「お兄ちゃん、下がって!」

 妹の声に、兄は足に力を込めてその場から飛びのく。けれどそこに生まれた間合いを素早く詰めて殺到するのは黒い剣。異能者ユディが質量のある影で作った剣を構えて少年に振りかぶる。目を見開いた兄は本能のように妹に駆け寄って抱きしめる。

「サーラの事は俺が守るから!」

「お兄ちゃんッ!」

 次の瞬間。サーラが懐から取り出したナイフを兄の鎖骨付近に突き刺したのと、ユディの握る黒い剣の柄が少年の頭をしたたかに打ちつけたのは同時だった。

「サーラ、何、を」

 言葉の全てを言いきらないうちに少年の小さな身体が意識を失って倒れこむ。

 真っ先に動いたのはミラウ・フランだった。驚愕の表情をあらわにしたのも一瞬で、すぐさま少年に駆け寄って抱き起す。ナイフが急所から外れているのを確認すると、刺さった刃物は抜かずに最低限の止血をしながら少女に声をかけた。

「サーラちゃん、ボクがミラウ・フランです。ボクを探していたんじゃないですか?」

「そうね」

 返事は冷笑すら混ざっていた。けれどこの場で最年長の男はひるまず、むしろいっそう熱っぽい声で語り掛ける。

「どういう事情か分かりませんが、この少年は明らかに無理な異能の使い方をしていた。腕を変化させるときに痛みをこらえていたように見える。……いや、異能以前の問題です。キミたち、今何かものすごく困っているんじゃないですか? お兄さんを刺すなんてよほどの事情があるはずだ。何があったのかボクに教えてください」

 少女が顔をしかめた。そうすると幼い顔立ちに似合わない、やたらと大人びた表情になる。

「どうしてそんなこと」

 戸惑いすらにじんだ声。

 己を見る少女の瞳から目をそらさず、異能研究者は言った。

「子供を守って助けるのが大人の義務で、ボクがキミたちより大人だからです」

 瞬間、サーラはこらえるように眉間にしわを刻んで手を強く握りしめた。そして絞り出したような声で言った。

「……困ってなんかないわよ」

「言いたくないなら言わなくても良いです。でも、ボクらならキミたちの保護もできますし、異能の使い方も教えられます」

 ミラウ・フランの言葉に、影の双子がそうだよと声をそろえた。

「君のお兄ちゃん、このまま無茶な異能の使い方をしたらいずれ異能そのものになってしまうよ」

「私たちみたいにね」

 アルベとユディの言葉に、異能研究者は視線をそらしてから震える声で「お願いですから」と呟いた。涙のにじんだ響きだった。

「……大人が泣かないでよ」

 少女は静かに言い放ち、ポケットから封筒を取り出した。表にはぎこちなさの残る文字で「リュカへ」と宛名書きがされている。

「これ、お兄ちゃんが起きたら渡してください。……リュカをよろしくお願いします」

 そう言うと、サーラは頭を下げて傍にあった商店のガラスに触れる。ショーウィンドーが靄のようなものに変化したかと思うと、彼女はその中に勢いよく飛び込んだ。ユディとアルベがそれを追いかけようと手を伸ばすが、靄は既にガラスに戻っており、あとにはただ夜の静寂だけがあった。


***


 数時間後、トリペッラの街の街はまだ深い夜のとばりに包まれているにもかかわらず、自警団本部の医務室はいやにやかましかった。

「どこだここ! お前ら、サーラをどこにやった!」

 ガタンガタンとけたたましい音を立てる医務室の扉を開けたミラウ・フランの額に、スコーン!と小気味良い音で銀色のトレイがぶつかった。瘦身矮躯の男はその衝撃に尻餅をつき、赤くなった額をさすりながら部屋の中に視線をやった。

「出たなモジャモジャメガネ、サーラはどこだ。言え!」

 ベッドの上で、白いシーツにくるまった小柄なリュカ少年が伸びすぎた赤い髪を振り乱して周囲の医療担当者を威嚇している。頭や手といわず、全身に手当てを施され、さながら手負いの獣である。異能研究者はズレたメガネをかけ直し、モジャモジャの髪を搔いて小さな獣に言った。

「君の妹ちゃんは君を刺したあとにすぐどこかへ行ってしまったよ。……あれは空間移動の異能だね」

 ガラスを靄のようなものに変えてその中に入っていったあの背中を思い出し、異能研究者は顔を伏せる。しかしそれも一瞬のことで、その場に座り込んだまますぐに少年の目を見つめて落ち着いた声で言った。

「君のベッドの枕元に妹ちゃんからの手紙を置いたんだけど、読んだかい?」

 手紙。その言葉で兄の険しい表情は鳴りを潜めて、声もとたんに弾みだす。

「サーラがおれに手紙を?」

「君に渡してくれって言われてね。起きたらすぐ読めるように枕元に置いておいたんだけど」

「枕元? ええっと……」

 先ほどまでの警戒はどこへやら、リュカ少年はシーツの海に潜って白い封筒を探し始める。そこでようやく異能研究者は立ち上がってベッドに近づくと、室内にいた医療スタッフにこの場を任せるように告げる。彼らは少年の手にある小さな火傷痕や各所にある縛られたような痕や青あざを指摘して病室を出て行く。

 ベッドの上で少年が勢い良く身を起こした。

「……あった! サーラのやつ字が上手くなったなぁ、夜更かしして頑張ってたもんなぁ」

 リュカへ、と書かれた表面を指先で撫でるその顔は愛情深い兄のそれで、大人は眉間にしわを刻んで黙って顔を伏せる。

 不器用に封筒を開ける音がして、しばらくの静寂の後に……。

「は、」

 疑問と戸惑いの混ざった音がこぼれた。

 リュカの目は何度も何度も文字列を往復し、そのたびに色白の頬がさらに血色を失っていく。異能研究者はそれを黙って見守っている。

 しばらく黙り込んでいた少年はぎゅっと手紙を握り締めて、絞り出したような声で言った。

「……お前が書いたんだろ」

 顔を上げキッと傍にいる男を睨みつける。そこはかとなく子供らしさが残っているのに、シャープな頬と鋭い目つきが妙に大人びた印象を与えているどこかアンバランスな顔立ち。その顔にまっすぐに睨みつけられて、大人の男は痛みをこらえるような顔でゆっくりと首を横に振った。

「嘘だッ!」

 少年は飛び跳ねるようにして項垂れた大人の胸ぐらをつかむ。無意識なのか腕は赤い毛の生えた獣のようなそれに変わっていて、勢いがつきすぎたか力が強すぎたか、博士の長身矮躯が椅子ごと傾く。

「嘘じゃない!」

「その字はサーラちゃんの字なんでしょ!」

 声がしたかと思うと、その博士の影がパッと二つせり上がって人の形を成すと同時に母親の身体を受け止める。異能研究者の影に住まうユディとアルベの言葉に、リュカはくちびるを強く噛み締めた。

「サーラがおれと縁を切るなんて言うはずない」

 床に落ちた手紙にはどこかぎこちない字で、もう二度と会わないし家族とも思っていないから自分のことは忘れろと書いてある。

「俺がチビたちの傍にいてやらねぇといけないのに、サーラのことも」

 そう呟いたリュカは包帯だらけの足で窓から飛び出そうとする。影の双子はとっさに影に潜ると次の瞬間には窓辺の暗がりに立ち現れ、小柄な影を掴んで引き止める。バランスを崩した子供の身体は尻餅をついて床に座り込んだ。暗がりで震える獣の手は人のそれに戻ると、強く握られすぎて血の気が失せていた。

「……離せよ、サーラやチビどもをあんなクソ野郎のところに置いとけねぇ」

 少年のものとは思えないような低く掠れた声が零れ落ちる。

 けれどこの場で一番の年長者は決然とした声で言った。

「ダメです」

「じゃあどうしろってんだよ!」

「キミひとりを行かせるわけにはいかないです。このトリペッラ自警団のメンバーとして、一人の異能研究者として、キミの家族を保護することには賛成だけど、キミだって保護されるべき立場だ」

 真っ直ぐに自身を見つめる大人を睨みつけてリュカは吐き捨てるように言った。

「あんたのその恰好、10年前に崩壊した異能研究塔の研究員ミラウ・フランだろ。あのクソ野郎の元同僚なんて信用できねぇ」

 異能研究塔。その忌々しい響きに異能研究者ミラウ・フランは肩を緊張させ、戸惑いを滲ませながら口を開く。

「……キミがさっきから言ってるクソ野郎って誰のことだい? あの研究塔は10年前に被験体だった子供たちの反乱で崩壊して、その時の騒ぎで研究者も被検体だった子供たちも多くが死んだんだ。ボクはもちろん、この自警団の現リーダーやそこのユディやアルベたちはその生き残りです」 

 問わず語りのようなミラウ・フランの言葉にリュカはハ、と嘲笑めいたため息をついて言い放った。

「崩壊した研究塔とやらがロクでもないのはあのクソ野郎を見てりゃ分かる。ほんとに居心地のいい保護施設なら無力なガキどもが反乱なんて起こすかってんだ。……そのロクでもねぇ研究塔に勤めてたのなら、ミラウ・フラン、あんたも信用ならねぇよ」

 聡い少年の言葉に異能研究者ミラウ・フランは黙り込む。とたんに、少年の傍にいた影の双子が目を吊り上げて反論する。

「ママは私たちを助けたのよ、あの研究塔で異能が暴走して実体を失い異能そのものになってしまった私たちを助けてくれたんだよ!」

「母さんは俺たちの命の恩人だ。異能の開発実験に失敗して、影のないところでは生きていけず、実験室で死を待つだけだった俺たちを救ってくれた。勝手を言うな!」

 つられるように、少年も語気を荒げた。

「異能が暴走して死にかけるような、そんな無茶な実験をやったのがミラウ・フランやあのクソ野郎たち研究者連中だろうが!」

 唸るように言ったリュカは己の両手をぎゅっと握り締めて獣のそれへと変化させるのと同時に、弾丸のように勢いよく飛び跳ねる。その鋭い爪が異能研究者の喉元を狙い定める。

「殺してやる、ミラウ・フランッ! お前らもなんで加害者と一緒につるんでやがる! ……くそ、研究塔の奴らなんてみんな死んじまえば良いんだ!」

 叫びは、泣いているようにも聞こえた。

 標的に肉薄した獣の爪は、しかし寸前で動きを止めた。せり上がった黒い影が少年の身体を羽交い絞めにしている。ユディとアルベがとっさに影を操ったのだ。リュカは悔しさとも怒りともつかない顔で、一歩も動かずただ凪いだ瞳をした異能研究者を睨みつける。

 かつて異能研究塔で拷問じみた人体実験を行っていた研究者は、分厚い眼鏡越しに異能者の少年を見つめて静かな声で言った。

「全てが終わったらボクを殺しても構いません。ただその前に、キミとキミの大事な人たちを助けさせてください」

 おねがいします、と長身矮躯が深く頭を下げた。

 少年は奥歯を強く噛み締め、絞り出すような声で言った。

「どうやって信じろって言うんだよ。ミラウ・フラン、あんたもあのクソ野郎のバラゴスと同類なんだろ」

「ごめんよ、ボクはただ信じてくれとしか言えません。その代わりボクの命はキミが望むならいつでも差し出します」

「そんなフワフワした言葉でチビども任せられるか。兄貴としておれがあいつらを助ける。チビども守れなくて何が年上だ、何が兄貴だ! 自分より小さい奴らを守れないんじゃ先に生まれてきた意味がないだろ!」

 獣の腕が拘束を逃れて異能研究者の胸ぐらをつかんで揺さぶる。けれど、顔を上げたミラウ・フランはひるまず、またたき一つせず言った。

「だから守らせてほしいんです。年上のボクたちに、年下のキミのことを」

 そのあまりに揺るぎのない眼光に小さな異能者はグ、と黙り込み眉をひそめる。くちびるを噛み、わずかに肩を震わせ、舌打ちし、視線を落として微塵も動かなかった博士の革靴をじっと見つめてから言った。

「……あんたを信じる。その代わり全部終わったらあんたを生かすも殺すもおれ次第だ」

 静かな声だった。

 獣の手が少年のそれに戻るとミラウ・フランはありがとう、と微笑んだ。その傍で、異能者の双子は互いの顔を見て決意したようにうなずく。どのような決断でも自分たちが慕う相手が決めたことで、それを尊重してやりたいという気持ちと同時に彼らには彼らなりの望みや気持ちというものがある。だがひとまずそれをこの場であらわにすることはなく、ユディとアルベは警戒を解いてリュカ少年を改めてベッドに寝かせる。

「それで、さっき言ってたバラゴスっていうのがキミたちを困らせてるんだね?」

 異能研究者の言葉に、リュカは首を縦に振る。

「異能のせいで親に捨てられたおれやサーラを拾ったのがバラゴスだ。ま、親代わりってとこだな。あんたのことはバラゴスから聞いた。ひょろひょろで眼鏡をかけて癖毛で背の高い男で、異能研究塔での後輩だったって」

 間違いないよ、と返事するミラウ・フランの隣で、異能そのものになってしまった双子が顔をしかめた。

「知ってるわ、そのバラゴスって奴。私たちの担当研究者だった」

 ユディが言うと、アルベは彼女の肩を抱いて静かに言った。

「影そのものになってしまった俺たちは兵器利用するには使い勝手が悪いと言って、実験室に俺たちを置き去りにした」

「忘れもしないわ。影の中でないと生きられない私たちを、煌々と明るい四角い箱に置き去りにした」

 ユディとアルベは10年経った今でもその時のことを思い出せる。だだっ広い実験室の出入口は閉ざされて、高いところにある観察用の窓を呆然と眺めた。身を隠せる影などひとつもなく、彼らは自分たちの形が失われて意識が希薄になる中で互いに寄り添っていた。

 ミラウ・フランは彼らの頭を撫でながら、リュカ少年に問う。

「それで……何だってキミたちはここに来たんだい? ボクが目的?」

「そうだよ。ミラウ・フランを連れてくるようにバラゴスから頼まれててな」

 すかさず影の双子が全身を緊張させたが、それに構わずリュカは喋る。

「バラゴスはずっとあんたを探してた。復讐すると言ってな。あんたのせいであの塔が壊れて大けがを負って職を失ったし戦争も終わって異能研究をしていた機関もことごとく閉鎖になって出世街道も閉ざされたって、だいぶ恨んでたぞ。それで、この間ついにあんたがこのトリペッラの街で生きてるって情報を得た」

 言われてバラゴスの後輩は、あの人出世欲強かったから、と頭を掻く。実際、その出世欲に見合うだけの実力があり、研究領域も異能の出力向上という花形部門に所属していた。

「あの頃はこの国も戦争をしていた。異能者が戦力になるだろうと思って研究塔は躍起になっていたし、国も秘密裏に予算を投入していたから……」

 そうして功を焦ったように異能者の戦線投入を見据えた無茶な実験ばかり行われていて、そのために集められた異能者は保護を名目に誘拐したようなものだった。そしてそれなりの数の異能者が集まった。それほどまでに、異能者への偏見は強かったのだ。

 元研究員の説明を、そのあたりはどうでもいいとリュカは切り捨てて言う。

「とにかく、この国じゃ変わらず異能者は肩身が狭い。俺たちは異能を理由に親に捨てられたところをバラゴスに拾われて、あいつには逆らえなかった。あいつが命令するなら何でもやったよ」

 盗み、殺人、スリ、運び屋。後ろ暗い単語をいくつか挙げてため息をつく横顔に子供らしい快活さはない。

「だからおれたちはバラゴスの命令でミラウ・フランを探しに来た。チビどもをダシにするのは気が引けたが、小さい子供連れは警戒されにくいしあんたがここにいるって噂の裏付けもできるだろうと思ってな」

 そこまで黙って話を聞いていたユディとアルベはちょっと待って、と声を上げる。

「異能があればもっと早くバラゴスから逃げられたんじゃないの?」

 兄弟分の長兄は舌打ちして忌々しげに言った。

「一番小さい子供らを人質に取られてるんだよ。実際、まだ歩くのもおぼつかないチビどもはバラゴスの頼んだ仕事には連れて行けねぇ。どうしたってあいつの手元に置いて行かなきゃいけねぇんだ。それに、おれたちは普段異能を封じる道具を身に着けてる」

 異能研究者はすみません、と頭を下げた。かつて研究塔で作っていた道具をバラゴスが引っ張り出してきたのだろうと説明すると、少年は黙り込んで顔を伏せた。膝の上で両の手が組まれて祈るようなかたちになる。

「そんなバラゴスから頼まれた仕事を完遂せず、しかもリュカをここに残してサーラちゃんはどこかに行った」

 ユディはそう言ってシーツの上に放置された便箋に目をやる。サーラのいびつな字で、バラゴスの手元に残した弟や妹たちを見捨ててでも自由になる、と書いてある。裏返しても光に透かしてもサーラからの隠されたメッセージはない。ただ冷徹に別れだけを告げる文字列を見つめたリュカは、消え入りそうな声で言った。

「もしもサーラが本気でこう書いてバラゴスの元から逃げたならそれでいい。ただ、あいつのところに残ってるチビどもは助け出さなきゃいけねぇ」

 組まれた手は力が入りすぎて、触れ合う皮膚が血色を失って白くなる。

「俺はあいつらの兄貴で、あいつらのことは俺が守るって誓ったんだ。殺しも盗みもしたこんな俺のことをチビどもは家族だって、兄貴だって言って頼ってくれるんだ。それに、バラゴスはクソ野郎だが俺たちを拾って育てた親だからな。あいつがいなけりゃ俺たちはみんな死んでた」

 重い溜息をこぼすその横顔に、ミラウ・フランは呟いた。

「……キミは強いですね」

 労わるような言葉からリュカは逃げず、黙っている。組まれた少年の手に影の双子はそっと触れる。

「私たちもリュカたちと一緒だよ。ううん、うちの自警団のリーダーやその秘書さんたちもみんなおんなじ。異能を持って生まれて親に忌み嫌われて捨てられて、連れてこられた場所は酷い場所で、死を覚悟して、その最後の最後に差し出された希望に縋った」

 ユディがそう言って、少年の背をさする。アルベは小さな頭を撫でて言った。

「辛かったな。子供を殴ったり何かを盾に服従を求めるような者を親と呼んではいけないとお前たちに言うのは簡単だが、唯一自分たちを助けうる者に命綱を握られている状況ではそいつに縋る以外選択肢もない」

 その言葉でリュカは目頭が熱くなるのを感じて顔を伏せたままにする。頭を振ってアルベの手をどかすがそれ以上に抵抗することはなく、涙をこらえておずおずと呟いた。

「あんたたち、ほんとにミラウ・フランを親だと思ってんのか」

 それは問いかけというよりも確認に近かったが、返事は間髪入れず、もちろん!と両隣からあった。

「最初は縋ってただけだけど、今は違うのよ」

「俺たちは俺たちの意思で博士を親に選んだんだ」

 その言葉に、母と呼ばれている独身成人男性はわずかに目をそらして静かな声で子供たちをたしなめた。

「いつも言ってるけど、ボクなんかを親と呼ぶのはやめなさい。異能者に対してどんな実験をしているのか知っていて、それでも就職口欲しさに研究塔に就職したろくでもない人間なんだから」

 それより、と声を張ったミラウ・フランはパンと手を打ち合わせて話題を切り替える。

「まず、うちのリーダーにこれまでのことを報告してキミの兄妹の受け入れ態勢をつくる。それからリュカくんの兄弟たちを迎えに行くよ」

 言うが早いが、最年長の男はすっくと立ちあがって少年に視線をやった。

「バラゴナの居場所は分かっているんだろう?」

 リュカは力強くうなづいた。

 窓の外は今だ暗く、日が昇るまでにはまだ時間がかかりそうだった。


 そのころ、トリペッラの街の郊外にある小さな家で、三つ編みの少女がケタケタと声を上げて笑っていた。

「当たり前じゃないの、パパ! 私がパパを裏切ることがあると思う?」

 少女がひょいと壮年の男の膝に乗ってニコリと笑うと、男は彼女の頭を撫でてそうだなと破顔する。

「サーラは優しい子だものな、パパのお願いをいつでも聞いてくれる。しかし、さすがサーラだ。まさかリュカをミラウ・フランの懐にもぐりこませるとは」

 男は言いながら、サーラの首にチョーカーを飾る。異能の使用を制限する特殊な装置である。少女はされるがままになりながら、己の首元で蠢く両の手に飾られた銀の環を見つめる。派手過ぎてしっくりこないデザインだと毎度のごとく思ったが、少女はそんなことはおくびも出さずに言う。

「敵を騙すにはまず味方から。リュカには悪いけど、あそこで怪我をすればミラウ・フランの同情が得られるし、リュカの話を聞いたあの人たちは私たちを保護しようとして必ず手紙に書いておいた合流場所に来るはずよ」

 バラゴナパパは自分の手でミラウ・フランを殺したいんでしょう?

 ニィっと笑ったサーラの言葉に、異能研究者は首を縦に振った。

「あいつのせいでオレたちは全てを失った。その落とし前を付けさせたい」

 バラゴナは研究員時代の後輩を思い出し、拳を握る。手首の銀の環が揺れて光る。

 10年前のあの日、被験体の子供たちの脱走の報と警報が鳴り響く中、とつぜん館内の全ての電気が落ちた。当然、中央管制室でコントロールしている警備用ロボットも動きを止め、異能者の子供たちはあっという間に徒党を組んだ。電気が落ちる直前、中央管制室にいたバラゴナは見たのだ。館内モニターに映った後輩ミラウ・フランが、研究塔中央部のブレーカーを落としている姿を。

 電気が復旧した時には時すでに遅く、子供たちは崩壊する塔から逃げ出した。その一団の中にひょろひょろの枯れ木のような白衣姿の背中を見たのだ。

 はらわたが煮えくり返るような感覚を噛み締めながら、バラゴナは努めて優しい声で己をパパと慕う少女に語り掛けた。

「なぁサーラ、何度も言っているが、研究塔というと聞こえが悪いかもしれないがあそこは親に捨てられ社会にも見捨てられた異能者たちを保護する施設だったんだ。あの塔が今も残っていれば、お前たちをこんなに風に放浪させずに済んだかもしれないのに」

 本当にすまない、と深く頭を下げるバラゴナにサーラは愛らしい笑みをつくり、優しい声で言う。

「その話は何度も聞いたわよ。とにかく、リュカとの約束の時間まで私休んでるわね!」

 するりと膝から降りると、サーラは振り返らずに部屋を出て子供用にあてがわれた寝室に戻る。木製の扉を開けると4人の子供たちがワッと彼女に駆け寄った。

「おねぇちゃん、リュカおにいちゃんは?」

「兄ちゃん、怪我したのか?」

「パパは何て?」

「おねーちゃん、だっこー」

 サーラはその場に屈むと弟妹を抱きしめて、誰にも聞こえぬ声で呟いた。

「今までリュカがしてくれてたみたいに、今度は私がこの子たちのこと守るからね」

 

***


 もうあと1時間ほどで日も上ろうかという頃、トリペッラの街郊外のだだっ広い原っぱにサーラとバラゴナはいた。ちょうど彼らが現在生活拠点にしている家からほど近いところである。原っぱの中央には白い石が円環に並んでいて一応太古の遺跡としてこの街の観光スポットと言われてはいるが、別段流行ってもいないのでせいぜいこうして目印や待ち合わせ場所として扱われるのが関の山であった。少し離れたところには4人の子供たちが身を固くしながら寄り添って、血のつながらない父と姉を黙って見守っている。

「リュカのやつ、遅れているのか?」

 バラゴナは手首の腕時計に目をやる。10年前の塔の崩壊に巻き込まれても壊れなかったそれは、いまも寸分の狂いなく時を刻んでいる。

「サーラ、ほんとうにこの場所で合っているんだろうな」

 既に約束の時間を5分過ぎていた。バラゴナという支配者に嫌々でも従う以外道のない少年が、それを破るとも考えにくかった。

 手を後ろ手に組んでいたサーラは鋭い視線を受けて、にこりともせず妙に低い声で言った。

「ええ、合ってるわ」

 言うが早いか、少女は隠し持っていたナイフを構えてバラゴナに斬りかかる。その瞬間、素早く振り向いた大人は銃を構えて引き金を引いた。ガウン、と音がするのと同時に異能者の顔が引きつる。けれど思考停止は一瞬で、目前に迫る弾丸を目標に自身の異能を発動する。靄のようなものに包まれた弾丸はその位置を変えてバラゴナの側頭部をめがけて突っ走る。

 しかし。

「甘いな、サーラ」

 バラゴナは素早く左手首の腕時計をいじる。バラゴナを狙ったはずの弾丸は、あっけなく地面に転がった。

「くそッ」

 チョーカーでの異能の抑制を無視しての能力の行使に、サーラは肩で息をしながらそれでもなお握ったナイフはバラゴナののど元を狙う。けれどそれよりも早く引き金が引かれてガウンガウンと続けざまに銃声が鳴り響く。一発は狙いを外し、もう一発は……。

「ぎあぁっぁ」

 少女の身体が大きく後退し、その肩から血が噴き出た。

「さっき、何を、したの」

 痛みをこらえながらの問いに、異能研究者は悠々と答える。

「あの研究塔の崩壊跡に残っていた重力発生装置を小型にして腕時計に組み込んだんだよ。近いものにしか効果がないし、使い切りだけどな」

 さて、と言ってバラゴナはサーラの傍に屈みこんだ。血が流れた地面が赤黒くなり始めている。

「お前は本当に賢い子だね、サーラ。リュカもそうだ。オレの言葉を何一つ信頼していなかった。研究塔は保護施設だなんて言っても信じていなかっただろう?」

 だからね、と研究塔の元研究員が冷え切った声で言った。

「オレはサーラ、お前の話なんて最初から一つも信頼していなかったよ。リュカを逃がすためにオレに逆らうのも分かっていた」

 ゆったりとした声で言いながら銃を少し向こうにいる子供たちに向ける。

「しかし……オレに逆らったらどうなるか、サーラ、お前は一番よく分かっているはずなのに」

 あおむけに倒れた少女の顔が青くなり、瞳が滲む。脳裏に、弟妹の失敗の責任を取って育て親に殴られているリュカの笑顔が蘇る。殴られて、掌に煙草を押し付けられて、蹴られて、縛られて、痛いはずなのに血と傷にまみれた顔でリュカはいつも笑っていたのだ。そうしてくちびけ動かして、ドアの影からそれを見守る年下たちに言ったものだ。

 だいじょーぶ、おにいちゃんだから!

「だいじょう、ぶ、なわけないでしょッ!」

 リュカの妹は痛む肩に活を入れるように声を上げ、すぐ傍に屈みこむバラゴナの首を絞めようとする。しかしそれよりも早く銃口は照準を変えて少女の腹に向けられる。チョーカーに飾られた細い首がヒュっと音を立てたが、次の瞬間に彼女はカッと潤んだ目を見開いた。

 涙は一粒たりとも零れなかった。

 次の瞬間、銃声が響いたのと、どこからかすっ飛んできた赤い獣にぶつかってバラゴナが体制を崩したのは同時だった。

「あぐッ、うぅ……」

 弾丸は狙いを逸れて少女の腹をかすり、そこから少し離れたところで赤い獣の腕と脚の少年がバラゴナにのしかかっている。全速力で走って来たからか、全身を大きく上下させながら息をするその姿にサーラは怒鳴った。

「リュカ、何で来たのよ!」

「当たり前だろ、こんな無茶させられるか。死ぬところだったんだぞ!」

 目を見開いていた少女はしばし黙っていたが、大きな瞳からついに涙をこぼして泣き叫んだ。

「あんたが私たちのために傷ついてるの見て、それで私たちが喜ぶと思ってるの?! 私だってあの子たちのお姉ちゃんなのよ!」

「でもサーラはおれの妹だろ」

「……じゃあ誰があんたのこと守るのよ」

 茫々たる草地に気丈な少女の泣き声が響く。離れたところにいた子供たちも彼らに駆け寄って、にいちゃんリュカにいちゃん、と甘ったれた声を上げる。けれどその兄妹の感動の再会を許すほどバラゴナは甘くない。すかさず銃を構えなおすが、とっさにリュカも臨戦態勢を取る。けれど獣の四肢を維持するには体力を要するのか、彼の身体はふらつ今にも倒れそうになる。兄弟たちはひっしにそれを支えて縋るようにして口々に言う。

「リュカにいちゃんもうだめだよ」

「肩から血が出てるのに、死んじゃうよ……」

 サーラに刺された傷も開いている。けれど6人兄弟の長兄は肩で息をして、身を低くして言った。強く地面を踏んだ後ろ足は飛び出すための準備だ。

「おれなんかのことを兄貴って言ってくれるお前らのためなら、おれは人のかたちを失っても良い」

 獣になってもいいんだ。

 妙に涼やかな声で言った。

 返事は。

「駄目!」

 若い男女の声と共に、飛び込んでくる黒衣を纏った二つの人影。ユディとアルベである。リュカを庇うように並び立ち、キッとバラゴナを睨みつける。ついでに向こうからボババババ……という気の抜けるようなバイクの走行音も聞こえてくる。

 全員が何事かと目をぱちくりさせ、声のしたほうに視線をやる。

 夜明けまであと一歩の青い草地の上を走るのは一台のバイク。大型バイクではなく、丸っこくて愛らしいかたちのスクーターである。そこに乗っているのはモジャモジャ髪に分厚い眼鏡、薄汚れた白衣の男、ミラウ・フランだった。

「ダメですリュカくん、それ以上は!」 

 バイクから降りたミラウ・フランはよたよたと彼の傍に駆け寄ってその小さな兄の背を撫でた。

「ここから先はボクたちがやります。言ったでしょう、キミを守らせてほしいって」

 夜明け前の暗がりにユディとアルベが躍り出る。ユディの身体は軽々と跳ね上がり、振り上げた足がバラゴナの脳天に落ちる。大きく揺らめいた隙を逃さず、アルベが巨体から素早く殴打を繰り出す。荒事の心得があるのか、異能研究者は顔面を庇うような態勢を取っている。しかしこのまま猛攻を続ければ制圧できる。

 双子がその顔に確信をみなぎらせたその瞬間であった。

 東の地平から鋭く差し込む黄金の光。

 その場の誰もが強く目をつぶった。……バラゴナ以外。

 ガウンガウンと銃声が続けざまに響いたかと思うと、影の双子はその場に倒れ伏した。

「ぐぅ……ッあ、あぁぁっぁぁッ……」

 草の上にうずくまったユディは夜闇よりなお黒い髪を振り乱し、獣のような声で悶える。その隣でアルベも凛々しい眉間に深く皺を刻んで唸っている。銃弾がめり込んだふたりの身体は、朝日に照らされて少しずつ輪郭が滲んでいた。光を遮るものが少ないこのだだっ広い草原で、影でしか生きることができない彼らは身動きできず死に瀕している。

「ユディ、アルベ、すぐそっちに行く!」

 真っ先に駆け寄ったのはミラウ・フランだった。上背だけはある身体で彼らの傍に影を作ってやる。しかしそのために背を向けた因縁の相手を逃さず、バラゴナは銃を構えて発砲する。

 地平を黄金色の照らす光の中、飛び込んでくる弾丸。しかしそれを、後方から飛び出した赤い獣の腕がつかみ取った。

「リュカくん!」

「任せろって言って、そのザマかよ」

 ハ、とわざとらしく笑った少年は掴んだ弾丸を放り投げ、バラゴナが銃弾を再装填するよりも早く彼に肉薄してその顔面に鋭い爪を振りかざす。

 しかし。

「異能研究者をなめるなよ!」

 バラゴナの手首を飾る銀の環が光り、その腕がリュカと同じ形に変化した。リュカはぎょっとしてわずかに体の動きが止まり、その隙をついてバラゴナは眼前に迫った獣の手を絡めとってそのまま身体ごと地面にたたきつけた。

「リュカにいちゃんの手?」

「あの腕輪が変化した?」

 地面に転がったリュカの腕は、力尽きたためか人間のかたちに戻っていていまはぐったりと倒れている。

 後ろの方で身を寄せ合う子供たちが不安そうな声を上げる。それを見て、ミラウ・フランは重くため息をついて立ち上がった。こうも遮蔽物が少なく光が差す場所では、ユディとアルベは彼の影から出て行くこともできない。

「バラゴナ先輩、その腕輪盗んだんですか。道具作り専門の部門が作ってたやつですよね、その異能を真似できる腕輪」

 非難めいた後輩の言葉に、研究塔の元研究員は気さくに笑って手を振った。

「よぉミラウ・フラン、元気そうだな。ちょっと話でもしようぜ。それで……腕輪のことか?」

 バラゴナは少し考える仕草をしてから首を横に振る。

「盗んじゃいねぇよ。部門は違えど俺たち研究員の成果だ」

「……あんたのそういう貪欲なところ嫌いじゃなかったですけどね、ちょっと強欲が過ぎるんじゃないですか。こんな子供たちさらって良いように支配して、あんたはまたあの研究塔の二の舞になりたいんですか!」

 ミラウ・フランが怒鳴った。彼を母と慕う影の双子は目を見開く。いつも穏やかでどこか寂しげで思いつめたような顔をしがちなミラウ・フランが怒鳴るなど、10年間の付き合いでこれが初めてだったのだ。

 けれどバラゴナは10年ぶりに会った後輩を鼻で笑いながら銃弾を装填する。

「二の舞ィ? 塔がぶっ壊れたのはそもそもお前がブレーカー落としたからだろうが。それともアレか、あの塔で被験体どもが反乱を起こしたことか? それならお前もオレと同罪だぜ」

 みっともねぇなぁ、ミラウ・フラン!

 怒号が響く。

「どんな研究でも給料が出るなら何でもいいって言ってた奴が、なんだ、今更悔いてそこの出来損ない共の保護者面か?」 

 その言葉に反論できず、研究塔の元研究員はくちびるを噛んで黙り込む。

 嘲笑を上げたバラゴナは獣の手でリュカを引きずり、後輩の前にしゃがみこんでその影にうずくまる者たちに声をかける。

「よぉ死にぞこないども。まさか生きてるとは思わなかったよな」

 ざらざらとした声に弾かれるようにして影がせり上がって殴りかかろうとする。バラゴナは獣の腕でそれをやすやすと受け止めてから、ゆっくりと視線をサーラたちに向けて気味悪い声で言った。黄金色の朝日を浴びたその姿はなにか、人でないもののようにも見える。

「おいおい。お前らのパパが殴られそうになってるのに助けてくれねぇのか。異能のせいで親にも世間にも見捨てられたお前らを助けたのは誰だと思ってんだ」

 サーラの応急手当をしていた子供たちがビクリと肩を震わせる。

 よどんだようなバラゴナの目が見開かれて、リュカを引きずっていた手に力がこもる。

「親子は助け合わなきゃなぁ」

 意識を失っていたリュカが掴まれた部分の痛みに呻き声を上げ、わずかに目を開ける。その瞳に映ったのは。

「……アンタがこの子たちの親だって?」

 バラゴナの獣の腕をつかんで怒気をはらんだ声を上げるミラウ・フランだった。細い不健康そうな腕で、それでもためらうことなく暴力の塊に立ち向かっている。

「子供に対して自分の盾になれと言うような奴が親だと? おこがましいッ!」

 けれどバラゴナはそれにひるむ様子もない。ニタニタ笑って後輩の顔を覗き込む。

「なんだミラウ・フラン、お前はちゃんとその死にぞこない共の親ができてるって?」

 しばし黙っていたミラウ・フランだったが、ハ、と短く声を上げて笑った。相手を心底軽蔑するときの笑みだった。

「ボクは自分をユディとアルベの親だなんて思ったことはありませんよ」

 気圧されてバラゴナがわずかに後ずさる。

「あの研究塔で、安定した給料やら出世のために子供を苦しめたボクらに人の親になる資格があるとでも思ってるんですか? 本当の親ならユディとアルベを戦わせたりはしないんです、それも自分の護衛にするなんて……」

 言い終わるや否や、護身用のナイフを取り出してバラゴナに刃を向ける。

 研究塔で起きたことは結局そこにいた研究員たちの責任で、それはつまりあの騒動で生き残ってしまったミラウ・フランの責任で、その責任の下にバラゴナのことは自分が始末をつけておきたかった。

 しかしそれは叶わなかった。

「駄目だ、母さんッ!」

「ダメよ、ママ!」

 声がしたかと思うと、彼の影がぐいっと二つせり上がり、その勢いのままにバラゴナを投げ飛ばした。投げ飛ばされた元研究員には構わず、アルベとユディはミラウ・フランに抱きついて口々にしゃべる。

「母さんは母さんなんだ、そんな悲しいこと言わないでくれ!」

「私たちは自分の意思でママを選んだのよ!」

 涙目になったユディが母親の脇腹あたりに自分の頭をぐりぐりと押し付け、アルベもぐずぐずと鼻を鳴らしながら母親の肩を抱きかかえている。打ち所が悪かったのか、バラゴナは向こうの方で気絶している。

 異能研究者は自分に懐く子供たちをそっと引きはがして静かに笑って言った。

「ボクは二人の親になれるほど立派な人間じゃないんですよ。分かっているだろ」

 それでも子供たちは聞かなかった。ぶんぶんと首を横に振って、涙交じりに言うのだ。

「分かんない、分かんないよ! だってママはあの研究塔にいたころ、夜中にこっそり小さい子供たちのいた部屋を回って子守歌を歌ってた!」

「うちの自警団のリーダーや幹部のみんなは知ってることだ。そうしてあの反乱の中、異能そのものになり自我を失いかけて、あの部屋で死を待つだけだった俺とユディを見つけてくれた」

「死に絶えそうになっていた私とアルベをその影の中にかくまってくれた」

「形を与え、もう一度命を吹き込んだ」

「名前を付けて、私たちを呼んでくれた」

「俺たちを生みなおした」

「だから、あなたは私たちの母なのよ」

 お願いよ、とうずくまった子供は肩を揺らして泣き始める。人であることをやめた二人とはいえ、銃弾による傷にも響いているのだろう。感情を制御できずにいる二人をミラウ・フランはそっと撫でてなお静かな声で拒否をする。

「ダメですよ、ボクのような人間に親と呼ばれるほどの価値はないんです。本当に、リュカくんの言った通りで」

 視線を向けられて、名を呼ばれた少年はゆっくりと身体を起こして顔をしかめる。

「あの塔の爆発でボクも死ぬべきだったんです。そうでもしなければ償いきれない」

 じゃあ、と静かな声でアルベとユディは言った。ゆっくりと顔を上げ、闇夜のように黒い瞳を涙で濡らしながら母と慕う男を見つめた。

 一切の迷いもなければ悲嘆もない、ただ相手を慕う感情だけがその瞳にある。

「……それなら、私たちの親であることを償いとしてよ」

「俺たちの親であるという、その己に不釣り合いな立場でありつづけることを、罰だと考えてくれ」

 ミラウ・フランはゆっくりと目を見開いて言葉を失う。二人が向ける真心を無視できるほどに彼らの付き合いは浅くなかったし、それを無視できるほどミラウ・フランは冷血になりきれなかった。

 その傍で、すべてが終わったらボクを殺してもいいと言われていたリュカが声を上げた。

「そもそも、そもそもだ。年下を助けるのが年上の役目なのはいいけど、じゃあ年上が困ってたら誰が助けるんだ」

 みんなで助けるんだよ。

 影に住まう双子は声をそろえて優しく言った。スッと立ち上がり、直射日光が当たるのも構わず枯れ木のような男に手を差し出す。異能研究者はその手を取って、ゆっくりと立ち上がった。

 視線の先、朝日の降り注ぐ日向で気絶していたはずのバラゴナが起き上がっている。もうずいぶん体力を消耗しているようだったが、それでも諦めず拳銃を構えてた。

 それを見つめながら、そもそもさぁとユディが明るい声を上げた。

「ママに守られてばっかりじゃ、私たち格好悪いよね」

「それもそうだ。だから母さん、一緒に戦おう。俺たちは影に住まう双子、あなたの影」

「あなたに寄り添い、あなたと共に果てる者たち」

「僕らはあなた、あなたは僕ら」

 歌うように言ったユディとアルベの姿が溶け合い、それはミラウ・フランの影と重なって、ひとつになる。

「影形一体!」

 三つの声が重なって、異能はミラウ・フランの身体に宿って顕現する。

 地面に落ちたユディの影が剣を握る。バラゴナを見据えて立つミラウ・フランの右手に白銀の輝きが現われる。

 影が駆け出し、それを追うようにミラウ・フランの脚も白衣を揺らして疾風のごとくに駆ける。

 目を丸くしたバラゴナが銃を構えてめちゃくちゃに発砲する。とっさに影はアルベのかたちに切り替わり、その屈強な腕が巨大な盾を構える。同時にミラウ・フランの手にも白銀の盾が握られる。鉄壁は銃撃を防ぐが、その重量に研究者の細腕が音を上げる。ガシャンと放り出すように盾を手放すが、そのまま再び影の脚が駆けるとそれに合わせてミラウ・フランの脚も動き、バラゴナを追い詰める。

「ママ、いくよッ」

 ユディの軽やかな声にミラウ・フランはうなづく。

 うわぁっと大声を上げて逃げ出そうとするバラゴナをめがけてユディのかたちになった影が跳ね上がる。わずかに遅れてミラウ・フランの身体も跳ねる。影をなぞるように彼の身体は高く跳躍し、一番高いところにたどり着いた時、影はその手に剣を握った。わずかに遅れてミラウ・フランも再び剣を握り、そのまま高みから落ちるのに任せた。その手に握った白銀の剣は流星のごとく駆け落ちて、血しぶきと共に絶叫が上がる。

「ぎゃぁぁっぁぁぁぁッ!」

 バラゴナの、苦痛の悶絶であった。

 ミラウ・フランの足元では絡み合った影がほどけて、3人はどっと息をつく。しかし休む間もなくサーラやリュカたちに全て終わったと告げて笑って見せる。子供たちがホッとしたのもつかの間、トリペッラの街のほうからバタバタと人が駆けてきていた。トリペッラ自警団の若き長をはじめとする幹部に医療スタッフたちだった。

「おーい、博士ー!」

「ドク、大丈夫ですかー?」

 その場に座り込むのと同時に、ミラウ・フランはその慣れ親しんだ声に笑顔を浮かべて返事した。

「ボクは平気です、それより彼らの保護を。バラゴナ先輩の拘束もおねがいします」

 肩で息をする頭脳労働者と、それに寄り添うユディとアルベに自警団の幹部たちは微笑み、それからてきぱきと部下たちに指示を出す。さっそく医療班に応急手当を施され、バラゴナが先に連行されたことで緊張が解けたのか、リュカの幼い妹弟たちは声を上げてワンワンと泣いていた。それにつられて双子たちも親と慕った男を抱きしめ、無事でよかったと絞り出すような声で言った。泣き出す前の響きだった。

「……博士、お疲れ様」

 自警団の若き長は爽やかに笑う。あの研究塔をぶち壊す大反乱を起こした時から変わらない、どこか人懐っこい笑みだ。秘書と共にミラウ・フランの隣に座り込んで実はさ、といたずらっ子の顔で言う。

「俺さ、あの時塔からの脱出の時、博士がユディとアルベを自分の影にかくまって連れてきてくれた時に、大人って意外と悪い奴ばっかりじゃないのかもなって思ったんだぜ」

「親にも生まれ故郷にも見捨てられてあの研究塔に連れてこられた私たちが大人不信にならずに済んだのはドクのおかげですよ。実際、あの反乱はあなたがあの塔のブレーカーを落としてくれたから成立した」

「毎晩こっそり廊下で子守歌も歌ってくれたしな」

「ええ。不思議と安心して眠れたものです」

 自警団リーダーとその秘書は幼馴染の顔で笑いあって、10年来の付き合いの男を見つめる。

「……だからさ、ほんとうにいつもありがとう」

 ミラウ・フランは苦笑して目を伏せる。

 研究塔に赴任して1年も経たない頃、たまたま居残り残業中だった彼は気分転換に普段は入らない研究塔の居住区画まで散歩に行ったのだ。そこで幼い子供たちの泣く声を聞いて、たまらず彼は子守歌を歌った。頼れる者のいない心細さはミラウ・フランもよく分かった。そうして、たった一つしか知らない子守歌を何度も歌ったものだ。

「どういたしまして」

 ミラウ・フランはほころぶように微笑した。

 事態の収束を確認してすっと立ち上がったユディとアルベは、彼に手を伸ばしてからかうように笑って言う。 

「ママ、身体は大丈夫?」

「大丈夫じゃあないですね。明日は筋肉痛確定です」

「立てるか?」

「デスクワーク中心の30代の身体をなめないでください、立てません。ついでに言うなら今になって緊張して腕が震えて使い物になりません」

「我らが自警団長、母さんは多分明日使い物にならないから休養扱いにしてくれ」

「ママ、頑張って立って! ゆっくりでいいから……」

 手を引っ張られ、のろのろと身体を起こすと、その場に残っていたスタッフも集まって博士、と手を引かれる。このスタッフたちもほとんどがあの研究塔から脱出した者たちだった。皆が顔を見合わせる。リュカたち6人兄妹もしっかりと手をつないでいた。

 家に帰ろうか。

 誰からともなくそう言って歩き出す。朝日に照らされたトリペッラの街に、家族の影が並んでいる。


***


 後日、リュカたちは怪我の療養が終わると6人揃ってミラウ・フランと共に窃盗に入った店のひとうひとつに謝罪に回った。店主たちは盗みはいけないと額面通りの説教を少ししたあとで、子供らに視線を合わせて言った。

「そりゃあ盗みなんてするほうが悪い。だけど、子供をそんな状況に追い込んだ大人にまず何よりも責任がある。異能持ちを差別するようなこの国の風潮を作っている私ら大人にも責任は大いにある」

 悪かったね、と心底から謝罪する大人たちに元窃盗団の子供らは驚きながら最後には泣いていた。

「この街は昔から異能者に守られてる街だから、あんたたちを嫌ったりする理由は無いよ。困ったことがあったらあたしら大人に何でも良いなよ。それで、出来ればこの街を気に入ってくれると嬉しいね」

 袋いっぱいのお菓子やカバンいっぱいの絵本を受け取りながら、子供たちは屈託のない笑みを浮かべた。

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博士ミラウ・フランとトリペッラの子供たち 鹿島さくら @kashi390

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