意の中の蛙、空の青さも知らず

高黄森哉

井戸の中に


「俺たちが落ちちまったのは、運だ」


 ヒキガエルは言った。私はその話を何回聞いたか分からない。落下したのは彼が井戸の場所を間違えて記憶していたせいだから運でもなんでもないはずなのだが。私は思い出したように、ゲコっと鳴いた。


「どうしてこんな場所に居るんだろう。昔は、もっと未来があったはずなのに。いつかここから出てやる」


 私は苔でぬるぬる滑る垂直の崖をいつもと同じように登り始めた。登り始めてしばらくすると横穴がある。そこでいったん休憩することにした。ナメクジが這っているので、ぺろりとする。


「井戸からでようだと。旦那、無駄なあがきだ、止めな」


 痩せガエルが、穴の奥から、私に語り掛けた。


「なんども試した。なんども。だけど、どうしようもなかった。思うに、遺伝子的に難しいのだと思うよ。おいらの親父はのろまでね。車にはねられて死んだ。所詮、蛙の子は蛙なのだ。君もそうだ」

「そんなの分からないじゃないか」


 私は反論する。遺伝子工学を大学で勉強した人間ならともかく、蛙の分際に遺伝子のなにが判るというのだ。


「人間、遺伝と環境だということは、双子の実験で証明されているだろう」

「されど、我らは蛙なのですな。まあ、旦那が行くというなら止めません。どうせ、いつも通り降って来て、あばらを折ったりして寝込むんでしょう」


 彼は痩せたあばらをくねらせながら窪みへ身をはめる。彼の皮膚の色は、完全に壁と一致しており、そうなるともう、どこにいるのか不明瞭だ。私だけの洞穴に、アズマの奴みたいになるんでない、と警告が響いて来た。


「まあ、そうかっかすんなよ。ここも悪くねえ」


 下からヒキガエルが言った。


「悪いだろう。こんな湿っぽい所にずっと居たら水黴病になっていずれ死んでしまう」


 枯れ井戸の底は泥が溜まっていた。また、地下水が滲んで、窪んだ部分は小さな水場になっている。


「でも流行り病にかからねえ。外界との接触がねえからな。蛙ツボカビ病にかからずに済んだじゃねえか」


 円柱の壁には、所々シダが生えている。


「蛙ツボカビに罹らない代わりにこんな場所にいたわけじゃない。それこそ、運が良かっただけだ」

「しかし、事実だ」

「こんな場所で死ぬくらいならいっそ蛙ツボカビで死んだ方がましだ」


 私は彼にかまわず、井戸の側面を登る。沿っている場所は迂回したり、外れそうな苔を避けたりしながら、井戸を昇る。


「なにがそんなに不安っていうんだ」

「こんな場所で腐ることだ」

「俺達は俗世から隔離された代わりに、空の青さを知ったじゃねえか。見ろ、あのいつも青い青空を。俺達が地上にいたとき、あんな風に深い青を見たか」


 井戸のお終いに、真っ青な青が丸く貼り付けられていた。蛙は月見、花見ではなく、空見をする。空をどう見るかが、私達の学問でもあるのだ。


「知るか」

「俗世で奔放に生きるより、ここで質素に生きる方が、俺達は物事の本質を知ることが出来る。俗世での雲見占いなど馬鹿みたいだ。そもそも我々にはその雲が現れないではないか」


 うるさいと叫ぶ。しかし彼は唾を飛ばし続けた。


「外の欲にまみれた奴らよりも、より空の青さを知っているのだ。それはきっと、恋焦がれているからだ。憧れているからだ。彼らは当たり前だと思っているから、その青さを知らないのだ」

「嘘だ。そんなことがあるわけがない。外に居る奴らは、道を踏み外す馬鹿な奴らよりももっと空の青さを知っている。彼らが、我々の見る青さを貴ばないのは、これが偽物の青さだからだ。井戸の天井という切り取られた空でしか通用しない奇形の美学だからだ。空がいくら青かろうが、我々が汚くては美も蛙ツボカビもない」


 私は遂に井戸の縁に手を掛けた。


「おーい! トノサマガエルの野郎に俺達の救出を要請してくれー!」

「わかった。必ず戻ってくる」


 井戸には一枚のブルーシートがかぶせられていて、私は一枚のベールをどかさなければならなかった。なるほど、あの異常な空の青さは、この布のせいか。あの空は本当に偽物だったわけだ。ここで一度、近くの木から井戸を観察してみる。

 シートの上には五つ、雨に湿気、古くなったボロボロの小説が、重しとして乗せられていた。

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意の中の蛙、空の青さも知らず 高黄森哉 @kamikawa2001

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