第18話 エピローグ

 ごとんごとん、と列車に揺られていた。背中に伝わる小さな振動も、窓から車内に入り込む温かい風も、全てが私の意識を柔らかく包み込んでくれていた。木々がさらさらと風に揺蕩う音は、昔から大好きな音だ。

 マフラーに口元を埋めて眠っていた私は、膝をちょんちょんとつつかれて、目を開ける。

 向かいの席に座っているネリネが、困ったように微笑っていた。

「サヨ、次みたいですよ」

「ふぁれ、わたし寝ちゃってた……?」

「それはもう、ぐっすりと」

 身体をぐーっと伸ばした私は息を吐き、外の景色を眺めた。

 なだらかな草原が続く窓の外の景色は〈原初の魔女〉が侵攻した際に生まれたものではなく、ずっと昔からこの土地にあるものだ。古びた列車がのんびりと走るのも、わびさびがあって、乗るのも見ているのも楽しい。

 駅を降りた私たちは、家に向かう。私の家――トリシエラのいるログハウスへと。

 ウィーンでの戦いから、数日が経った。

 あの後――私が弾劾戦線リアフロントからの通信で事を報告すると、すぐに異端審問官インクイジターがウィーンに駆けつけてきた。〈泥濘の魔女〉の遺体は回収され、私が無力化した花師ガーデナーとハナニラは、しっかりと生きたまま捕縛された。そして、花庭園ガーデンに囚われていた被験花ひけんかたちもみな無事に救出された。

 ウィーンの花庭園ガーデンは、これで完全になくなったというわけだ。

 警察署長も新しい人が就任したそうで、過去に行方不明になった子どもと、花庭園ガーデンにあった被験花ひけんかのリストの照らし合わせが行われた結果、既に半数以上の身元が判明したという。花庭園ガーデンがなくなったことで市場での誘拐も無くなるし、ようやくウィーンには平和が訪れるだろう。

 助け出されたアネモネも、今は花栽培ガーデニングで傷ついた身体を治療するために入院している。世界中を飛び回る異端審問官インクイジターという仕事柄、そうしょっちゅうお見舞いには行けないけど……でもいつか、アネモネのところにちゃんと行くつもりだ。その時は一緒に街に出掛けて、これまでアネモネが触れてこれなかったものを、たくさん紹介してあげたいと思ってる。

 最寄り駅に到着した私たちは、街を抜け、小高い丘を越えて森の中に入る。舗装なんてされていない獣道だけど、服が枝に引っ掛からないように、トリシエラが少しだけ整備していた。木々の隙間を縫うように微風が注ぎ込まれ、夏の匂いが鼻腔をくすぐった。夏が溶け出したような匂いで、本当に帰って来たんだと思った。

「そういえば、ハナニラとはどうなったの?」

「……たぶん、仲直りは出来たと思います」

 捕縛されたハナニラは、知っていた他の花庭園のことなどを、大人しく話したそうだ。自分が花庭園の外で生きれなかっただけで、花庭園こと自体はやっぱり嫌いなんだろう。

 剪定者だったハナニラは、しっかりと裁かれることになってしまう。

「でも、償いはまだ出来ていません。ハナニラが全部終わって、また会えたら……その時は、ハナニラがしたいことを、全部叶えてあげたいです」

 ハナニラの願いを一つずつ叶えていく――それがネリネにとっての償いなんだろう。

 可愛い服を着て、学校に行き――ネリネと一緒に、普通の女の子として一日を過ごすのだ。

 しばらく歩いて行くと、二階建てのログハウスが見えてきた。森が切り開かれた所に立っており、きらきらと光る陽光を一身に浴びている様相は、まるで切り株のようにも見えた。

「あれが私の家だよ」

 ウィーンで起こった一件の事後処理もあり、私とネリネは休暇を利用して帰って来た。

 トリシエラには何も言ってないから、友達を連れてきたと知ったら、きっと驚くだろう。

 家に近づくと、窓の傍で昼寝をしていた飼い猫のザウエルが起きて伸びをした。窓ガラスのせいで聞こえないけど、口が開いているから「ただいま」と鳴いているんだろう。可愛い。

 ドアを開けて、私たちは家の中に入る。

 真夜中のような嫋やかな黒髪の女性が、キッチンで料理をしていた。包丁で切る野菜の音と鍋が沸騰する音がする。料理しているこの後姿が、私は好きだった。

「トリシエラ。ただいま」

「…………サヨ」

 トリシエラは火を止めることも忘れて、私に駆け寄ってきた。

 それでぎゅうと、強く抱きしめてくれた。

「……おかえり。ほんとう、よく帰って来たね」

 死んだ人の再会したように、トリシエラは切実に囁いた。トリシエラの冷たい指先が、私の髪の毛をくしゃりと撫でた。

 言われたわけじゃないけど――たぶんトリシエラは、私が【下巻】を使ったことを知っているんだと思った。

「…………うん。ただいま」

 それが分かった私は、もう一度その温かい言葉を囁いた。

 私から身体を離したトリシエラは、後ろで待っていたネリネに優しく尋ねる。

「君は、サヨの友達かな?」

「あ、はいっ! ネリネ・ステンノートっていいます」

「……そう。いらっしゃい、ネリネ。ゆっくりしていくといい」

 他の人の家に訪れたことがないのか、ネリネはこそばゆそうに笑った。

 その後、私たちはトリシエラが作ってくれた昼ご飯を食べながら談笑した。ここに来るまでの長い時間、列車に揺られ続けて疲れていたのか、ネリネはザウエルを撫でているうちに寝てしまった。

 私は【玄関】で伸びて三つ編みにしていた髪の毛を、トリシエラに切ってもらった。その時に、今回のウィーンで起こった戦いのことも話した。

 私がアネモネを助け出せたことを、トリシエラは心の底から喜んでくれた。きっと、自分が零れ落ちしてしまったものが、私に掬ってもらえたことが嬉しかったんだろう。



 休暇が終わるのまで三日間は、私はネリネと一緒に泊まって過ごすことにした。

 そしてある日の夜、私たちは真夜中に、トリシエラに湖畔に連れ出された。

 夏の暑さで星空が溶け落ちたのか、湖畔に湛えられた水は綺麗な星空を映し出していた。顔を上げると、壮麗で儚そうな天の川がしらしらと南から北へ亙っているのが見えた。桔梗いろのつめたそうな天を背景にしており、今にも滲んで飽和してしまいそうだった。

「きれい……!」

 感動を咀嚼しているネリネの腕の中で、ザウエルが短く鳴いた。ザウエルは家猫だけど、外に出ることが好きなのだ。だからよく、トリシエラに抱っこして連れ出したりしてもらっている。今回その役割を担ったのはネリネだった。少し離れた方をザウエルはじーっと見ている。大方、虫でも見つけたのだろう。ザウエルに催促されたネリネが、「そっちが気になるの?」と言ってそっちの方へ歩いて行った。

 トリシエラと二人きりになった。

 互いに視線を星空に固定しながら、トリシエラが口を開く。

「サヨが魔女になると決めた日を、思い出すね」

「…………うん」

 トリシエラとは何度も一緒に天の川を見に来ているはずなのに、今日に限っては、私が魔女になった夜を―――戦争が終わる日が昇るまで、戦い続けると誓った夜を思い出す。

 魔女になって初めて戦ったからじゃない。

 きっと、トリシエラとの「自分を大切にする」という約束を破ってしまったからだろう。

「本当にどんなつらいことでも、それが正しいみちを進む中での出来事なら、みんなほんとうの幸福に近づく一足ですから」

 慰めるような口調でトリシエラが言った。

 ……ああ、これは『銀河鉄道の夜』の燈台守の言葉だ。

 氷山にぶつかった船が沈んだ話を聞いたジョバンニが、極寒の北の海で働いている人たちのことを思い出す。そして、その人たちに申し訳なくなって俯いた時に、燈台守から言われた言葉が、今トリシエラが言ったそれだ。

 どうして、トリシエラがそんなことを言ったのか分からなかった。

 だってこの言葉では、私が命を懸けて他人のために戦うことを肯定するようなものだ。

 自分の命を大切にするという約束とは、背反してしまう。

「小さいころ……ずっと、昔の話だ」

 ぽつぽつと、雨が降り出すようにトリシエラが言葉を紡ぎ出した。

「私は……私たちは、山奥の館に住んでいた。山間部で拾われた捨て子たちが、そこに集められ育てられていたんだ。私もその中の一人だった」

 ……トリシエラが、親に捨てられた?

 そんなことは初耳だった。

 でも思えば、トリシエラが子どもの時の思い出話は聞いた事がない。

 ―――ああ、そっか。

 私にとってのトリシエラは「理想の存在」だから、それ以外のトリシエラを知りたくなかったのだ。だから私は、これまで一度も昔のトリシエラを聞かなかったんだろう。

「その館ではね、数人しか大人がいなかったけど、みな一様に同じことを言っていた。

 ―――他人のために命を捨てられる人間になりなさい。

 子どもの頃の私には理解できなかったし、それこそ死んでも嫌だと思っていたよ。だって、誰かが死ぬよりも、自分が死ぬ方が嫌に決まっているじゃないか」

 今のトリシエラとは、えらく対蹠的な幼少時代のようだ。話を聞きたくないのに、聞きたいと思ってしまう。自分の中で擁立されたトリシエラを守りたくて、でも知りたくて、複雑に思考と感情が絡んだせいで何も言葉を発せず、私は黙って聞いている。

「そんなある日だった。異端審問官インクイジターが館にやって来たんだ。その館にいた大人たちを――花師ガーデナーたちを倒しに来たんだ。激しい戦いの末、私以外の子どもは戦いに巻き込まれて死んだ。最後に残ったのは、三人だけ。剪定者プルーナー異端審問官インクイジターと、私」

 まるで――自分自身から話を聞いているみたいだった。

 その構図だって、私が花庭園ガーデンから助け出された時と全く同じだったから。

「その異端審問官インクイジターはね、私のことを守ってくれたんだ。見捨てていれば自分の命は助かったのに、それでも私の命を守ってくれた。戦って傷つく人を見て、こんなことを思うのはダメなことだけど……」

 ふと、星空からトリシエラへと視線を映した。

 そこには、私の見たことがないトリシエラの顔があった。恍惚としていて、穏やかで、大切な物を握りしめているかのような稚い顔。その時の自分の表情を見たことはないけど、きっと、いつも私がトリシエラを見つめている時も、こんな顔をしているに違いない。

「あの日の彼女は、本当にかっこよかったんだ。見ず知らずの私を必死に守って、後悔なんて一抹も抱かず死んでいった彼女が、焦がれるほど美しいと思った。私もこうなりたいと憧れた。そう思ったから、僕は異端審問官インクイジターになったんだよ」

 きっと、無意識だろう。

 遠い過去を思い出して語るトリシエラは、もう褪せてしまった一人称で話した。

 人が写真を見てその時の気持ちを思い出すように、思い出を見ている人はその時だけ子どもになるのかもしれない。なんだか、本当のトリシエラに触れたような感覚だった。

「その後、仲間の異端審問官インクイジターが応援に来て私を助けてくれた。……ふふっ、こうして見ると、やっぱりサヨと私は似た者同士だね」

 その表情は、嬉しさと悲しみが入り混じっていて、まるで似なくてもいい所まで似てしまったと言われているみたいだった。

 それから困ったように笑って、私の頭を優しく撫でた。

「……サヨ。私たちのような人間は、どれだけ愛されて、豪華なものに囲まれても、心の奥は満たされないんだ。きっと私に似てしまったサヨは、自分が犠牲カムパネルラにならないと、幸せにはなれないだろう。……自分の命を擲つことは、正しいことなのかもしれない。でもね―――」

 困ったように微笑うトリシエラの向こうで……もうじつに、金剛石や草の露やあらゆる立派さをあつめたような、きらびやかな銀河の川床の上を、鳥が一疋、鳴き続けながら星空を亙って行った。

 雄壮な両翼を広げ夜空を飛ぶその鳥は、きっとよだかに違いないと思った。

「その正しさが、全ての人を幸せにするとは限らないんだ。物語はあそこで終わってしまったけど、カムパネルラの母親はきっと悲しんだ。正しいことをして死んだカムパネルラを誇りに思いながら、でも遣る瀬無い気持ちで胸がいっぱいになったと思う。――だからサヨは、自分が死ぬことで悲しむ人がいることを、心に留めておいてほしい」

 カムパネルラはジョバンニに言った。

 ―――誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるしてくださると思う。

 さっきトリシエラが燈台守の言葉を借りたように、私はそのカムパネルラの言葉を借りようと思った。……でも、いまトリシエラの話を聞いて私が気づいた。

 私はずっとトリシエラカムパネルラになりたかった。

 相手が誰であろうと、自分の命を擲つことが出来る正しい人間になりたかった。カムパネルラを通して、自己犠牲の尊さを知ったのなら、自分もそうなりたいと思ったのなら―――。

「私はジョバンニだったんだね」

 驚いた様子のトリシエラから目を離して、私は頭上に拡がる天気輪の柱天の川へと向き直った。

 真っ直ぐにちゃんと見たわけじゃないけど、トリシエラはなんだか嬉しそうな表情をしている気がした。

「ん、まあそうなるかな」

 トリシエラもまた、頭上を見上げた。

「じゃあやっぱり、トリシエラはカムパネルラだ」

「ふふっ、そう言われると面映ゆいね」

「死んじゃわない?」

「死んじゃわない。まだ銀河鉄道の旅は終わっちゃいないからね」

「……ならよかった」

 私の頭から離れたトリシエラの手が、私の手の甲に当たった。

 連動するみたいに指が絡んで、手を繋いだ。

「ずっと一緒にいようねえ」

 私はジョバンニが最後に言った言葉を少し変えて、トリシエラに言った。

「ああ、きっといるよ」

 銀河鉄道の夜では、ここでカムパネルラがいなくなってしまうから返答は何もないけど――トリシエラはちゃんと言葉を返してくれる。

 手のひらから伝わる温度が、トリシエラがカムパネルラみたいに死んでないと確信を持たせてくれた。その温もりが私を安心させてくれる。

 これからもずっと、私は異端審問官インクイジターとして、異生命との戦争が終わる日が昇るその時まで戦い続ける。

 でも、自分がカムパネルラではなく、ジョバンニであることは胸に留めておこうと思った。

 天の川の銀河を亙っていた夜鷹が翼を羽ばたかせた。青白い夜空を背後に湛えたその夜鷹は、空の果てを目指すように、どこまでもどこまでも飛んで行った。

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シンスフォース・レイト・ナイト 冬槻 霞 @fuyukasumi

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