第17話 魔女たちの夜明け

 新書の匂いがした。買ってきたばかりの、ページを捲った時にふと漂う匂いだ。それは手元からではなく、至る所から花粉のように放たれており、私のことを陽光と同じくらい柔らかく包み込んでくれる。身体を苛んでいた激痛は、夢のように消えていた。

 何度も来たわけじゃなかったけど、ここがどこなのか、目を開ける前からわかっていた。

 十字路だった。壁の役割を担うのは書棚。上下左右前後、どこまでも渺茫に広がっており、その終わりを視認することは出来ない。そこいら中では、人魂のような青い炎が【魔術書】を跋渉している。

 大図書館だ。地球という惑星の精神世界。全ての【魔術書】が保管されている非物質の空間。

「……あれ、なんで私、大図書館に来れて……?」

 困惑しながら周りを見ていると、ふと後ろから、大好きな人の気配を感じた。振り向くと、青い炎を湛えた人魂がふよふよ浮いていた。他の人魂のように【魔術書】を閲読しているわけでもない。まるで、私を待っているかのように、ただそこで静かに浮いていた。

「トリシエラ……なの?」

 他の人魂と見てくれは何の違いも無いのに、胸の真ん中でトリシエラなんだと悟った。

 音も立てず、トリシエラはすいすいと進み始めた。私も後ろから付いていく。

 あたりに満ちているのは、本がぺらぺらと捲られる音。人魂の炎がぱちぱちと優しく弾ける音に、心が落ち着いた。ここは、春のように温かい場所だった。

 しばらく進むと、矩形状の入り口が見えてきた。奥には廊下が続いており、言わずもがな、天井や壁、床はすべて書棚で構成されている。天井に仕舞われた【魔術書】は重力に従うことなく、ヤドカリのようにきっちりとその身を棚に収めている。

 書棚に囲まれ、薄暗いせいだろう……初めて大図書館に訪れたその帰り、トリシエラと一緒に歩いた森の中を思い出した。

 私たちが辿り着いたのは、正六角柱の部屋だった。穏やかに滞留する薄暗さの中で、人魂の青い光が、水底に差し込む陽光のようにあたりを優しく照らしている。まるで、深海にいるかのような不思議な浮遊感と高揚感で肺が満たされた。この場所の書棚に収まった【魔術書】が放つ、ただならぬ圧迫感が、水圧のように私の全身を圧している。

 トリシエラが本棚から、一冊の【魔術書】を取り出した。どこに持って行くのかと思ったら、部屋の中心に浮いていた正方形の本棚の上に置いた。トリシエラが置いた【魔術書】の隣には、一本の羽ペンが転がっている。

 私はなんとなく、これが何の【魔術書】なのかわかった。

夜夜の天際ファーゼストナイト】の【下巻】だ。柔らかくてひんやりと冷たそうな、鮮やかな黒色をした装丁は、いつも黒衣箒ローブルームに投影している『夜空』と同じ色をしている。何より、トリシエラが持っている【魔術書】は【夜夜の天際ファーゼストナイト】だけなので、これはその【下巻】で間違いないだろう。

 ぱらぱらとページが勝手に捲られて、一番最後のページが開かれる。そこに書かれた二人分の名前の中に、トリシエラという名前を見つけた。

 私もその中に名前を連ねようと、転がっていた羽ペンを右手で持った。

「その人は、あなたがそれを使うことを望んでいませんでした」

 わざわざ振り向かなくても、そこに誰がいるのかなんて明白だった。大図書館にはいるのは、司書さんだけなんだから。

「あなたたちの【魔術書】――【夜夜の天際ファーゼストナイト】の【下巻】を借りる条件は、敗北して死ぬ寸前になっても、なお誰かのために自分を犠牲にして戦うことでした。そしてその条件に照応するように、【下巻】もまた荊棘のような魔術ないようです。だから共同所有者トリシエラ・ノーチラスは、あなたが【下巻】を使うことを望んでいませんでした」

 トリシエラの心情を教えてくれた司書さんに、私は穏やかな声音でいたずらっぽく言う。

「知ってました、ずっと」

 常に無感情な司書さんが、微かにだが驚いている雰囲気が伝わってきた。【下巻】に書かれたトリシエラの名前に優しく触れながら、私は深海で呼吸するようにしずかに囁く。

「だって、トリシエラが【下巻】を使えるのに、その条件を知らないはずないじゃないですか」

【下巻】は、世界に影響を及ぼすほどの魔術を秘めている。『閾夜きょくや』、『夜潮汐やちょうせき』、『敷夜淨ふやじょう』――今も世界中に残っている、トリシエラの魔術の影響。

 怪我を負って弾劾戦線リアフロントを辞める前のトリシエラは、先導者だったのだ。弾劾戦線リアフロントで一番偉い魔女だったトリシエラが【下巻】を使えないはずがないんだから、私に【下巻】を使わせなくないんだってことは、早いうちに気が付いた。

 ――それでも、私は【下巻】が欲しかった。だって私が強くなれば、もっとたくさんの人を救えるようになるじゃないか。花庭園ガーデンに傷つけられる被験花ひけんかを一日でも早く助けられる。被験花ひけんかでなくとも、悪意に曝され虐げられる弱者を守れる。傲慢かもしれない。でもそんな可能性が、ほんの一抹でも【下巻】にはあるはずだと、私は心から信じていたのだ。

「それでも、そのひどく峻厳な荊棘の道を、あなたは征くのですか?」

「うん、征くよ。だって―――」

 立ち戻る往くのではなく、進み続ける征くのだと私は言った。命を費やし切るその瞬間まで、この生きる道を引き返すことはないだろうから。

 そして、私がトリシエラから貰った冠号なまえと一緒に、「だって」の続きを言葉にする。

「―――だって、そのために私は〈小夜サヨの魔女〉になったんだから」

 トリシエラが付けてくれた大切な名前を、私は羽ペンを滑らせて、一文字ずつ丁寧に書いた。トリシエラと書かれた名前の隣に、寄り添わせるようにして。

 長い間花庭園ガーデンに居たせいで自分の名前すら忘れた私に、トリシエラがくれた「サヨ」という名前が私は好きだ。朝日が昇るみたいに深海から浮上した潜水艦の名字が私は好きだ。優しく空を蔽う夜空みたいな【夜夜の天際ファーゼストナイト】が私は好きだ。

 だから【下巻】だって、きっと好きになれる。

 名前を書き終わると同時に、【下巻】の内容が頭の中に清流のように流れ込んでくる。滔々と、だけど緩やかに、まるで小説を読んでいるみたいに丁寧に、私の脳裏に焼き付いた。

 私はトリシエラに向き直る。炎の色も、炎の揺れ方も、挙動も、依然として変わっていない。だけど心なしか、寂しそうに感じているように見えた。

「ごめんね、トリシエラ。わたし征くね」

「…………」

 トリシエラの意識の断片は、私の言葉を聞くと、俯くように炎を揺らした。

「司書さん、お願いします」

「ええ。分かりました」

 虚空から現れた羽箒が、司書さんの手の平に収まった。前に別れた時よりも柔和な笑みは、まるで私を祝福してくれているような穏やかな微笑だった。

「もう会うことはないでしょう。さようなら、サヨ・ノーチラス」

 羽箒が軽やかに振られた。

 どこからともなく純白の羽が舞い上がって、私の視界を優しく覆い隠した。



 光線が空中の一点で、放射状に引き裂かれて私の後ろに消えていった。瀕死の私が何をしたのか理解できず、ハナニラは訝しむように目を細めて、ふわりと埃のように舞った『夜空』の切れ端を見つける。

「なに、今のは……?」

「――――展開式アンフォルディング

 死に体の私から発せられた膨大な魔力の奔流に、ハナニラは絶句した。滾々と横溢する魔力は空気を押しのけ、そうして発生した風に煽られたハナニラは、顔の前に手を遣った。

「あんた、まさか……ッ!?」

「――――聿修魔術書篇ウィッチクラフト・インデックス

 その言葉を唱えた瞬間、大気から溢れ出した濃密な『夜空』が私を覆い隠した。

 目を、開ける。

 星々が瞬く、天球のような空間に私は浮かんでいる。温かくも寒くもない。だけど、なにかに包まれているような安心感が指先まで満たしてくれる。

 ここは全天―――私は今、夜の真ん中で呼吸していた。

 天球状の『夜空』に、青白い彗星のような何かが飛んできた。それを見た瞬間、全身の隅々まで満たしていた安心感が発火して、急速に燃え上がり、凍てつくような刺痛を感じた。

 それが契機となり、朝日に空を譲るように天球状の『夜空』が千々になって、消える。

 露になった私の姿を見て、ハナニラは畏怖で視点を硬直させた。

 私は、『夜空』を纏っている。遍く星々を湛えた、深く澄み切った『夜空』だ。

 真夜中を梳いたような黒髪は急速に伸び、所々は白くまだら模様になっている。揺れる髪は身体に投影された『夜空』を背景として、痛々しく壮麗なヨダカを幻視させるだろう。腰から伸びる夜空色の帯は、それこそ両翼を羽ばたかせるように力強く揺曳していた。

 物語を朗読するように、私は穏やかな心持ちで【下巻】の名を囁いた。

「――――【夜々を亙り征く夜鷹ファーゼスト・ナイトホーク】」

 ゆっくりと、眠りから目を覚ましたように私は立ち上がった。それを目の当たりにしたハナニラは、驚愕の表情はそのままに数歩下がった。

「あんたなんで……傷が全部、治ってんのよ……っ!?」

 私の命を削り取り、死に引きずり寄せていた出血や骨折という外傷は、全て治っていた。

 魔力は、人間活動によって増幅する。身体を動かしたり、何かを食べたり、誰かと話したり、感情を動かしたり……そうして生きていることによって、魔力は勝手に溜まっていく。

 生きること――つまり、細胞分裂によって。

夜々を亙り征く夜鷹ファーゼスト・ナイトホーク】は、細胞分裂を超高速で引き起こすというものだ。それによって身体の負傷は全て治り、そうした細胞分裂によって――人間活動によって、魔力も凄まじい速度で回復していく。魔力がカラになっても、おそらく十数秒で最大まで満たされるだろう。

 ……でも司書さんが言っていた通り、これには大きな代償がある。

 ヘイフリック限界――細胞が細胞分裂できる回数は、大体決まっている。分裂を繰り返した細胞のテロメアは短くなっていき、ついには細胞分裂を辞める――つまり、死ぬのだ。

 だからこれは、あくまで、未来で肉体が手にするはずだった魔力を前借りしてるに過ぎない。

 例えるなら、砂時計の真ん中の括れを一時的に真っ直ぐにしている状態だ。本来、一定量が落ち続けていた命の砂は、目まぐるしい速度で下層に引きずり込まれる。

 そして、下に落ちた砂が上に戻り往くことは、決してない。

「…………はあ……」

 特に意味なく冬場に息を吐くように、私は大きく呼吸した。

 ばくばくと心臓が早く打ってるのに、うるさくない。風邪をひいたみたいに身体はすごい熱を放っているのに、全然怠くない。空だって飛べそうなくらい軽い。頭の真ん中が澄んでいる。

 ああ、きっと例えるなら、砂時計というよりも薪の方が適当かもしれない。

 自分の身体を薪のように燃やして、温かい炎になる。最後にはただの燃えカスしか残らないけど、そこにあった熱量は、確かに誰かの命を繋ぐ橋渡しになる。

 ……それでいい。ううん、私はそれがいい。私はみんなのために薪になりたい。自分の命を燃やして青白い星になった夜鷹のように、私はなりたい。

「…………ごめんね」

 一つだけ、私はトリシエラとの約束を破った。

 ―――誰かの痛みを自分のものとして感じ続けることも。

 ―――道徳心を麻痺させないことも。

 その二つはちゃんと守ったけど、トリシエラがその二つよりも先に――一番最初に私に誓わせたことを、私は守らなかった。

 ―――自分を大切にする、という約束を。

 ふと、一昨日見た夢を思い出した。大図書館に訪れた帰り。真っ暗な森の中を、トリシエラと一緒に歩いていた時のことを。

『……サヨ。私はね、カムパネルラになりたかったんだよ』

『かむぱねるら?』

『そう。相手が誰であろうとも、自分の命を投げ出して助ける――相手の幸福のために、自分の命を費やすような……そんな魔女になりたかったんだよ、私は。どんなに自分が傷ついてもいいから、誰かに幸せになってほしかった。誰にも、泣いてほしくなかったんだ。……サヨ。間違っても君は、カムパネルラになっちゃいけないよ。サヨが傷ついたら、私は悲しい』

 蝶々がはばたくような、本当に小さな微笑を私は浮かべた。

 ごめんね、トリシエラ。

 私はね、トリシエラみたいになりたかったんだよ。

 あの日、私を助けてくれた時のあなたは、すごくかっこよかった。

 自分が傷ついてもなお、被験花ひけんかを救おうとするあなたに憧れた。ボロボロになって、血を吐きながら――それでも自分を顧みることのないあなたは、かっこよくて、とても美しかった。花にも星にも、空にも勝るくらい綺麗だった。生まれ変わっても忘れないって言えるくらい、色褪せず鮮明なままなんだ。

 だから私も、あなたみたいになりたいって……そう思ったんだよ、トリシエラ。

「――――夜よ、綻べ」

 ずっと腰の後ろで結ばさっていた二本の帯が、しゅるりと解けた。その腰帯にも『夜空』が投影され、左右三対になった夜空色の腰帯が、両翼のようにばさりと広がった。

 力強く地面を蹴立てて、低空飛行でハナニラに切迫する。彼女がいる壇上までの長距離を、夜行列車のような速度で詰めていく。

「――――瞬けッ!」

 理性で動揺を沈めたハナニラが叫んだ。『五芒星』が増殖し、膨大な数の光線が飛来する。

「――――三叉夜トリナイト!」

 左右三対、計六本の夜空色の腰帯がハナニラの方に向かって伸びた。腰帯に直撃した光線は、その身を幾条にも裂かれ花火のように散っていく。千々になった細い光線が地面や柱を削り、自分の存在証明をそこいら中に焼き付ける。

 防戦一方だった私が回生した様を目の当たりにし、ハナニラが強く歯を噛んだ。

「【下巻】が使えるようになったからって、いい気になるなッ!」

『五芒星』に湛えられていた光が灼炎の如く赫燿し、十字状の光条を伸ばした。

「――――膾星シェリングリードッ!」

 眼球を焼くような閃光が凝縮されて、砲弾として撃ち出された。猛然と突き進むそれを受ければ最後、烈しい爆炎に包み込まれることだろう。

 髪をみつあみにするように、私は三つの腰帯を一つに纏め上げた。

「――――一夜ブレイドナイトッ!」

【下巻】の影響で向上した動体視力が、飛来する光の砲弾をしっかりと視認した。

 私は腰帯を一本の剣のように振るい、真正面から飛んで来た砲弾を受け止めた。砲弾は溶断される鋼鉄みたいに燦然と火花を散らす。腰帯に当てられた砲弾は、私の後方に受け流され、柱にぶつかって弾けた。その身に凝集させていた熱量を一気に解放し、くうを灰燼に帰そうと爆炎がさかえる。

 一発目の反省か、二発目の軌道は飛来途中で急激に逸れた。受け流すことに失敗したことで、砲弾は私の目睫で起爆。解放された熱エネルギーが嵐のように轟々と吹き荒れ、顔面の皮膚と眼球が蒸発する。

 意識が飛びそうになるほどの激痛で呻くも一瞬、負傷は即座に治癒。雷雲のような灼けた煙から抜け出た時には、爛れた皮膚は滑らかな白皙に戻り、視界は鮮明に精彩を映し出す。

 重い攻撃が無意味に終わり、ハナニラは今度は手数で圧そうと大量の光線を私に放つ。でも即座に腰帯を六本に解いて、私はその全てを防ぎ切る。

 光線による遠距離攻撃が主体であるハナニラは、私との距離が縮まるに連れて、焦りからか魔術の精度が荒くなり始めた。

 光線が千々になる様を見せつけられ、ハナニラは口元を震わせながら感情を露にする。

「嫌いだった……っ! あたしはずっと、あんたとアネモネが大っ嫌いだった! お互いに裏切られるなんて微塵も思わずに、バカみたいに信頼し合ってて目障りだった! いつかどっちかが裏切って、あたしみたいに一人ぼっちになるんだってそう思ってたのに……っ! なんで、ずっと信じ合っていられるのよっ!!」

 それは――剪定者プルーナーではなく、ハナニラという一人の女の子の悲痛な叫びだった。

 ハナニラは、ずっと一人だったのだ。私とアネモネみたいに、お互いに支え合う誰かもいなくて、助けてくれるって信じた魔女には助けて貰えなかった。

 彼女はずっと一人で、そして誰からも助けて貰えなかった。

「信じてたのに、あたしは置いて行かれたっ!」

 それを聞いて、ふと思う。

 私が、アネモネを見送る側だったかもしれないと。

「五年もかけて、あたしは剪定者プルーナーになった!」

 異端審問官インクイジターになるのに、五年もかかった。

「もうあたしは誰にも傷つけられない! 誰にも裏切られない! 誰にも置いて行かれたりしないっ!」

 私が、そっち側だったかもしれない。トリシエラに助けられたのが私じゃなかったら……剪定者そこには私が立っていたかもしれないんだ。

 これまで抑圧してきた気持ちが噴き出して、ハナニラは声に涙を滲ませた。

「なのに、ずっと満たされないっ……!  剪定者プルーナーになってからずっと、何やったって満たされないっ! あの日、あたしが魔女に助けてもらえてた未来を想像するだけで惨めな気持ちになって、何をしたって虚しくなる……っ!」

 ハナニラの気持ちが限界を迎える。心のストッパーが壊れて弾けとび、涙を振り撒きながら心情を流露させる。ずっと、ずっと、我慢してきた感情を全部吐き出す。

「ミモザっ、あたしはあんたが羨ましいっ! 魔女に助けられたあんたが、アネモネとずっと信じ合ってるあんたが妬ましいっ! あたしが手に入らなかったものを、全部拾ってくあんたが死ぬほど羨ましいっ! あんたが羨ましくて堪らないのよ……ずっと虚しくてたまらないのよ、ミモザッ!」

 真冬の空気が肺に触れたように、ハナニラの叫びに心が劈かれる。

 もし、ハナニラが助けられていれば、彼女にはもっと幸せな未来があったかもしれない。

 まるで他人が享受するはずだった幸せを、強奪してしまったような気持ちになる。私に罵声を浴びせるのではなく、子どものように涙を滂沱させながら、羨望と嫉妬を吐露するハナニラにひどく同情した。申し訳なくなった。

 私が死ねば、きっとハナニラは満たされるのかもしれない。

 そうしてあげたいと、ハナニラをそこから離れさせてあげたいとは、思うけど。

 それ以上に、私はアネモネを死なせたくないんだ。

 だから……ごめん。

 目前まで接近した私を屹と睨みつけ、ハナニラはいくつかの光線はそのままに、『五芒星』を操作した。小魚が集まって大きな魚に擬態したスイミーのように、最終的に『五芒星の花々』は一つの大きな『五芒星』を形成した。

「――――空隙に咲く人と星。鳥を模して馳せ参じろ!」

 巨大な『五芒星』の中心に据えられた『赤い五芒星』に、煌々と輝く光が充填されていく。

「――――空のみならず、地のはてであれど星は瞬く!」

 望遠鏡で太陽を見たら、きっとこんな明るさになるのかもしれない。水晶体を蹂躙するような燦然とした輝光がどんどん増幅していく。さっきまでとは、比べ物にならない魔力量だった。放たれる前から、その魔術がハナニラにとって最大の、必殺の一撃であることを理解する。

 光線の弾道を遮るように、私は腰帯を伸ばしてハナニラへと道を作る。眩い閃光に炙られる中で、私は夜空色に染まった左手を鞘に見立てて、そこにホウキを収めた。

「――――日が昇るその刻まで、世界の片側を蓋い続けよう」

 左手の中で、淡い青色に色づいた『夜空』が滂沱した。そこで瞬く星々はまるで、深海から浮上してきた気泡のようにきらきらと、美しく輝いていた。

「――――誰も寂しく泣かないように」

 左手からホウキを引き抜くと、刀身は青白い『夜空』を纏っていた。その様はまるでヨダカが燃えているみたいで、引き抜いた拍子に半月状の軌跡が色鮮やかに描かれる。天の川を握っているかのようだった。

「――――誰も傷つけ合わないように」

 刀身の『青夜空』が堰を切ったように横溢する。放っておけば、いずれ世界中に広がってしまいそうな、深くて綺麗な、茫漠とした『夜空』だ。頭の芯が、胸の奥が……魂や心といったものが『夜空』になって零れ落ちていくような感覚がした。

 ハナニラの背後に佇む大きな『五芒星』。そこで増幅していた閃光がついに溢れ出した。それは圧縮されるように中心に凝集し、目を劈くような光を放つ。

「――――小星伯爵デカラビアッ!!」

 六つの光条が伸び、莫大な『光』が線となって轟音と共に放たれた。灼爍しゃくしゃくとした輝光を振り撒く暴力的な閃光は、大気の塵埃を焼き払うのは勿論のこと、ありとあらゆる物質をかそうと侵攻する。迫り来る灼光は、私にその熱を向けた。

 私も最後の一節を、祈るように唱える。

「――――これより、世界の片側を深夜が亙る」

 詠唱の終節を言い終わると、爆発するように刀身から『青夜空』が噴き上がった。飛行する私に置いて行かれた『夜空』は、軌跡となって尾を引いていく。まるで、夜空を引き連れて飛んでいるようだった。日が落ちたから、世界に夜空を敷いていくような――そんな気分だった。

 ホウキを、突き出す。

「――――明日夜ユニティーナイトッ!!」

 灼爍たる光線と爛然とした夜空。

 真っ白い『光芒』と、冷気を感じさせる『青夜空』が激しくせめぎ合って空間が激震する。まるで太陽が夜の訪れを妨げているかのようだった。光線はその身を千々に散らすことなく私を見定め、『夜空』はそれを覆い尽くそうと拡大する。

「「はッあああああああああああッッ!!」」

 私とハナニラの声が重なり合う。水瓶をひっくり返すみたいに、互いに持ちうる魔力を全て注ぎ込む。魔力が空になるまで。情動で増幅した分も乗せて。全霊を尽くして潰しにかかる。

 光線が一縷、明後日の方向に裂けた。その隙間に入り込むように『夜空』がその身を伸ばす。柔らかく、だけど苛烈に『夜空』が『侵食』していく。光線は、まだ夜を迎えたくないと駄々を捏ねるように『光』を強くして耐えようとする。だけど、私の命を薪にして延々と湧き出す『夜空』が、優しく包み込むように黒く光線を染め抜いていく。

 夜空の所々から決して陽の光が覗きはしないように――『夜空』が光線を一縷たりとも零さずに消滅させた。夜が空を蔽うように、『夜空』はそのままハナニラに向かって直進した。

 ハナニラの元まですすんだ『夜空』は、『五芒星の花々』だけを侵食した。『夜空』に触れられた『五芒星』は、その身を星が瞬く鮮やかな夜空色に染め上げると、花が枯れるように花弁の先から崩れていく。ちりちりと、まるで火の粉のように儚く散っていく……。

 敗北感に包まれ、枯れゆく『五芒星』を茫然と見ていたハナニラは、私に目前まで肉薄されようやく我に返った。

「――っ、ミモザ……ッ!」

「ハナニラっ!」

 引き絞った指揮棒ホウキをエストックのように構え、ハナニラは刺突を放つ。喉を刺し貫かんとして突き出された指揮棒の鋭利な先端を、私は首を曲げてギリギリで回避する。

 そして、跳ね上がるような軌道で下方からホウキを切り上げた。

 ビー玉のような鮮やかな血飛沫が数滴、空中に舞った。致命傷にはならないように浅くしか斬っていないが――魔力が尽きたハナニラは、それ以上立っていることが出来ないようだった。

 脱力したハナニラは天井を仰ぎ見ながら、後ろに倒れていく。……そのさなかで、ハナニラの瞳から涙が散ったように見えた。

 地面に仰臥したハナニラは、そのまま空中の一点を見つめながら、悔しそうな、今にも泣き出しそうな貌になった。しがみついていた何かが、決壊してしまったような喪失感――その身に抑留させていた物を全て失い、軽くなり過ぎた身体を、起こせなくなっているようだった。

「あたしとあんた……いったい、なにが違ったのよ……っ」

 ハナニラの視線は、依然、私ではなく虚空に固定されたままだった。それに気づき、すぐに私も視線を逸らした。そして、考えた。私とハナニラの相違点を。

 私とハナニラは、花庭園ガーデン内での待遇だって同じようなものだった。

 でも……一つだけ、違いがあるとするならば―――。

「……なにも、違わないよ。私とハナニラには、なんの違いもない。でも少しだけ……ほんの一回だけ、私の方が運が良かった。ただ、それだけなんだと思うよ」

 私には、トリシエラという生きる指標があった。目標に据えて、自分もそうなりたいと思い描けるだけの……私から憧憬を奪い続けてくれる、トリシエラがいてくれた。

 だけど、ハナニラにはいなかった。ハナニラが見てきた大人は、ずっと花師ガーデナーだけだったのだ。頭を撫ででくれて、笑顔を見せたら喜んでくれる人もいない。

 身近にいる大人が違った――これだけ聞けば大きな違いだけど、根本はもっと小さなものだ。

 あの日、トリシエラに出会えたか。

 たぶん、それだけなんだと思う。

 花庭園ガーデンから逃げ出そうと……ほんの一歩だけでも歩き出せていれば、ハナニラも一緒に助け出されていたかもしれない。アネモネと三人で、トリシエラの元で姉妹のように暮らしていたかもしれない。

「…………早く、行きなさいよ。アネモネは、その奥だから」

「……うん、ありがと」

「……っ!」

 私はハナニラに背を向け、扉を開けてアネモネの元へと走って行く。薄暗い通路も今は希望を助長するためだけのものに思えた。

「……なんで、お礼なんかするのよ……」

 そんな声が、後ろから聞こえた気がした。



 なにか、物音が聞こえた気がした。気のせいだと思ったらまた眠気が襲ってきた……だけど、身体を拘束していた鎖が外されて、不思議に思って目を開けた。

 抱き起こされ、視界に入ってきたのは、夜に浸して染めたような綺麗な黒髪だった。毛先から頭へ視線を辿らせていくと、涙を溜めた若竹色の澄んだ瞳が、こちらを見つめていた。

 ずっと前、どこかで見た顔だ……そう思ってから、はっとする。

「……ミモザ……?」

 名前を呼ばれたサヨは、目の端に涙を浮かべながらゆっくり頷いた。

「うん、そうだよ。今はね、サヨって名前なんだ。やっと会えた……アネモネ……っ」

 ぎゅうと、サヨに力いっぱい抱きしめられる。

 待っていた間に、ずっと心の奥底に降り積もっていた不安や期待が全部溶けて、涙になってサヨの服に零れ落ちた。アネモネもまた、サヨの身体に手を回して黒衣箒ローブルームを強く握った。

「……さよ……うん、そっちの名前がいい。ミモザより、そっちの方があなたっぽくて好き。……信じてた。いつか来てくれるって、ずっと信じてたよ、サヨっ……!」

「うんっ、ありがとう……私のことを、信じて待ち続けてくれて、ありがとう……っ!」

 再会の喜びで嬉し泣きしながら、二人は五年分の悲痛を力に変えて抱き合った。



 枕を使っているみたいに、頭が柔らかい何かに乗っていた。

 それはずっと前に、感じたことのある弾力だった。ずっと忘れていた感覚だった。

 森の中、開けた所で、一緒にいた友達のことを思い出す。

 目を開けると、桃色の髪をした少女がいた。彼女は膝を枕代わりにして、ハナニラの頭を乗せてくれていた。

「ネリネ……?」

 名前を呼ばれて、ネリネは頷いた。

「遅くなってごめんね、ハナニラ。ずっと、あなたに謝りたかったの。あの日、ハナニラのことを置いてって、ごめんね」

 声を潤ませたネリネの両頬を、朝露のように涙が伝った。

 それが一粒、ハナニラの頬に落ちた。

 その僅かな衝撃で、ハナニラの心の壁は瓦解して、溜め込んでいたものが溢れ出す。泣き顔を見られないように、ハナニラは腕で自分の顔を隠した。

「遅いのよ……っ! ほんと、昔から何やったって、あんたは遅いのよ……ばかぁ……っ!」

「うん、うんっ……ハナニラがつらいとき、傍にいられなくてごめんねっ……」

 二人の間に屹立していた壁は涙で溶かされ、心は柔らかく融和した。

 ハナニラが久しぶりに聞いたネリネの声は、記憶のものよりも大人びていた。

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