10

 結果から言えば、冬也も葛谷も入院することになった。冬也は打撲が十二カ所に、喉部の検査で三日間。葛谷に至っては、全身打撲と骨折数個所に内出血に裂傷多数etc……と。文句なしの重傷で全治三か月だ。

 病院に運び込まれてすぐに、冬也の両親が駆けつけた。警察から大まかな事情は聴いたらしく、「気付いてあげられなくてごめん」と、しきりに謝っていた。それがまた居心地悪くて、必要なものの買い出しに両親が出かけた後も、冬也はしばらくそわそわしていた。


「どうした、少年。どうにも具合が悪そうだが。どこか痛むのかな?」

「……その様のあんたの横では、中々自分から痛いって言い難いけどな」


 隣のベッドのミイラ男を横目に、冬也は溜息を吐いた。なにせ全身ボロボロだ。包帯を巻かれていない場所のほうが少なく、事情聴取中の警官も惨状にドン引きしていた。


「はははっ! それはいらない感傷というものだ。第一、異常があるなら申告したほうが病院側も正確に症状を把握できて助かるだろう。なにを憚ることもなく報告するといい!」


 訂正。たぶん、この状態でも衰えを知らない口の回転にビビっただけかもしれない。


「別に、身体はどこも悪くねえよ。あんたに比べりゃかすり傷だ」

「そうか……ならば、問題があるのは心のほうかな?」

「……悪かったと、思ってる。あんたを、そんなふうにしちまって」

「言ったろう。これは僕が、僕の意思で選んだこと。その結果だ。胸を張って受け入れるさ。それが責任というものだ」


 ミイラ男のような惨状になろうとも、その心は欠片と損なわれてはいないらしい。


「ははっ、やっぱすげえよ、あんた……そういえば、あの時どうして俺の居場所わかったんだ?」

「ああ、それは——」


 あまりにも都合がよすぎる登場に誤魔化されていたが、よく考えればこの男はどうやって冬也を見つけたのだろう。

 そんな当然といえば当然の疑問の答えは、扉を開けて病院に駆け込んできた。


「――冬也⁉ 大丈夫⁉」

「えっ⁉ 姉ちゃん?」


 仕事を途中で切り上げてきたのか、スーツ姿のまま現れた姉は、ベッドに横になった冬也を見るなり目に涙を浮かべて抱き着いてきた。


「ごめんね冬也。お姉ちゃん……何も気付いてあげられなくて。文哉に教えてもらうまで、私、なにも……っ!」

「いや別に姉ちゃんが気にすることじゃ……ん? 文哉?」


 姉の発言に引っ掛かりを覚えて、葛谷のほうを見る。


「先の質問に答えようか。何のことはない、君のご両親に連絡を取って君の携帯のGPSを調べてもらっただけだ。そしてご両親への連絡については……優香がやってくれたよ。どうやら僕が思っていた以上に、世間は狭いようだ——長谷川冬也くん?」


 泣き崩れる姉の手を葛谷が握り。包帯ぐるぐるの葛谷を、何やら愛おしそうに見つめる姉。

 その瞬間、冬也の脳裏に、葛谷と初めて会った時の会話が蘇る。


『この卵焼きなど実に絶品だ。どことなく彼女の卵焼きに似ている』


 姉は料理が得意だった。そして、そんな姉に料理を教えたのは母だった。

 故に、二人が作る料理の味付けはほとんど同じ。そしてだからこそ、葛谷は自分と冬也の両親をつなぐたった一つの線に気付いた。

 それは、運命の悪戯呼ぶべきか。

 冬也の姉は——長谷川優香は、葛谷文哉の元カノだった。

 あまりのことに絶句する冬也だったが、不意に葛谷は申し訳なさそうに(といっても表情は包帯に隠れてほとんど見えないが)瞼を伏せる。


「すまなかったな、冬也。せっかく君が隠していたことを、君の両親にバラしてしまった」

「……いや。いいよそんなの。結果として俺が助かったんだし、むしろお礼を言うべきだ」

「だが、君の意思を踏み躙ったのは事実だ。謝罪させてくれ」

「いいってほんと。あんたがあそこで来てくれなきゃもっとひどいことになってたし……」


 あの時のことを思い出せば、今でも鮮明によみがえる。どうしようもない恐怖と、耐えがたいほどの自己嫌悪。


「たぶんあのままだったら、おれは……あいつらの言いなりに、盗みをやってた。そしたら心配かけるどころじゃすまないだろ」


 家族を心配させたくない。それが冬也の目標だったはずなのに。いざ暴力に晒されたら、容易く心が折れた。その結果がこれだ。姉に仕事を切り上げさせ、泣かせている。


「ほんと……情けないよな、おれ……」


 何よりも、その事実こそが冬也の心を苛んでいた。だが、冬也は忘れている。そういった『心』の問題において、無敵の理論武装を果たした男が隣にいることを。


「そんなことはない。君は強い子だ」


 淀みなく、迷いなく。断固としたその口調に、冬也も俯いていた顔を上げる。


「その後悔は向上心によるものだ。大抵の人は理想の自分とのギャップに耐え切れず、妥協という名の逃避を選択する。だが君は自分を諦めていない。その時点で、君は間違いなく強靭な精神力の持ち主だ」


 だが、と。


「上を向きすぎるのもよくない。ストレスが蓄積され、うつ等の原因にもなりやすい。ここは一つ、人生の先達としてアドバイスをしてやろう」


 ぺらぺらと、軽快に、楽しそうに。冗談でも語るように葛谷は続ける。


「落ち込んでしまった時にはな、下を見るんだ。そして考えるといい。下には下がいる」


 そして飛び出してきたのは、最低の一言だった。


「僕を見ろ。この年でニートの上に年下のガキにボコボコにされてこの様だ。しかも見舞いに誰も来てくれない人望の無さ。こんなにも愛情深い女性にすら愛想を尽かされた。まさに人間のクズだ」


 そういえば、縁者には連絡がいったはずなのに、葛谷の関係者が訪ねてくるどころか連絡すらなかった。本人は意外と気にしていたのかもしれない。


「僕に比べれば、君なんて全然マシだ」


 そんなボロカスのクズ野郎は、包帯でぐるぐる巻きにされてベッドに転がされながらも、隣のベッドの少年に向けて「人間のクズ」そのもののような考え方を教授する。

 すべては、迷える少年を、大人として導くために。


「——だから、胸を張って生きろ」


 身勝手で、最低。それでも、自分が正しいと信じることのためにすべてを捧げる。

 葛谷文哉は、そんな、最高に自分勝手な最低のクズ野郎だった。


「……ありがとな。葛谷さん」

「もう何度目かな、礼を言われるのは?」


 何度言っても足りないよ、と。口には出さない。言ったら調子に乗りそうだから。


「…………ほんと、そういうところ変わんないよね、文哉は」


 ん? と、妙に甘い雰囲気を醸し出し始めた姉に冬也は首を傾げる。


「自分勝手で意味不明で。やること為すこと無茶苦茶なのに、必ずそこには文哉なりの正しさがある。なのに人のことも否定しないで、『それもいいね』って笑ってくれる。傍にいてほしい時に傍にいて、褒めてほしいときに褒めてくれるの。絶対。あとね、文哉は自覚あるか知らないけど……文哉がそうやって本気で無茶するのって、いっつも自分以外の誰かのためなんだよ」

「誤解じゃないか? 僕ほど利己的な人間はいないよ。現に、君の気持ちだって何もわかっちゃいなかった」

「ううん、あのときは私も八つ当たりみたいになっちゃったし。ああ、もうほんと。そういうところなんだよ。私がほんとにしんどい時に優しくして……私ね、文哉のそういうところが、ずっと……」


 なんだろう。すごくこの空間にいたくない。

 目の前で繰り広げられる光景が、別の角度から精神を削っていく。

 当たり前だ。誰が姉の「女」の部分など見たいというんだ。

 しかも性質の悪いことに、葛谷も胡散臭スイッチが入っていて、無駄なイケメン力を発揮している。

 しかし、残酷にも冬也の目の前で事態は進行していく。

 優香の指が葛谷の掌をくすぐるように動き、二人がそろって楽し気に笑う。


「あのね。喧嘩しちゃった日の夜、仕事終わって家に帰ったとき……すごく寂しかったの。ああ、この家に帰ってきても、もう文哉がいないんだなって。もう私に優しくしてくれないんだって思うと、悲しくて。その日はずっと泣いてた」

「……うん、うん」

「それでね、次の日、ふと心配になったの。文哉、大丈夫かな。ちゃんとご飯食べてるかなって。私がいないで、文哉はどうやって生きていくんだろうって。お金もないのに、夜寝るところも食べるものもなかったら……死んじゃうんじゃないかって、怖かった」

「……ああ、そうだね。君のいない夜は……僕も寂しかった」

「それで思った通り、こんな風にボロボロになってるし。だから私、気付いちゃったんだ。——私やっぱり、文哉がいないとダメみたい」


 やめろやめろやめろっ!

 冬也の必死の訴えも空しく、二人の距離はどんどん近付いていく。

 葛谷が動けないからと、優香が半身をベッドの上に乗せて。端から見れば優香が葛谷を押し倒している途中のような恰好で、二人は見つめ合う。


「……僕のほうこそ。この世界は、一人で生きていくには、些かばかり寂しすぎる」

「文哉……」

「もしも君が許してくれるなら——こんなどうしようもない僕を、もう一度、君の傍に置いてくれるかい?」

「文哉っ…………」


 ああああああああっ!

 声にならない悲鳴は、届くことはなく。

 近づいていく二人の距離。優香の指が葛谷の掌を、腕を、胸を、肩をなぞって。最後にそっと頬に触れる。

 二人の影が少しずつ重なっていく。葛谷は動けない。だから優香が少しずつ、その唇を落として言って――





「————フミヤさまーーーーーっ!」





 突如として病室に乱入してきた謎の女によって、優香が突き飛ばされた。

 ベッド脇に転がり落ちる優香に、女はこれっぽちも興味を向けることなく。号泣しながらベッドの上の葛谷に縋りついた。


「もうっ、フミヤ様の馬鹿! いきなり家からいなくなって心配したんですよ! 起きたら隣にいるはずのフミヤ様はいなくなってるし、しかも病院から連絡来て重症だとか言われて、アオイ心配で心臓止まりそうだったんですから~っ!」


 優香は絶句していた。冬也も固まっていた。物理的に動けない葛谷はわずかに露出した顔から滝のような汗を流しながら、震える声を絞り出した。


「やあ、アオイ。すまなかった心配かけて。だがほらこの通り、無事なわけだし。僕なんかのために泣いてくれるのはうれしいが、少し大げさじゃないだろうか?」

「なに言ってるんですか⁉ わたし、もうフミヤ様の音楽なしじゃ生きていけないの! フミヤ様なしじゃ、生きていたくない……こんな怪我して、私のためだけにずっと音楽を弾いてくれるって、約束してくれたじゃないですか。私は、この先もずう~~っと、フミヤ様のファン第一号なんですから——セ・キ・ニ・ン、とってくれなきゃ、ダメですよ?」


 その時、冬也の頭に再び電流が走る。

 音楽という要素、アオイという名前、そしてこの顔と声!

 間違いない、葛谷が路上ライブでひっかけた女性だった!


「えへっ、でもボロボロのフミヤ様も素敵。大丈夫だよ、私がちゃんとサポートするから。ご飯もお風呂も、夜寝るときも。ずっとそばでお世話してあげる。えへへ、楽しみだな~」


 疑問だった。家を追い出された葛谷が、どこで生活しているのか。路上ライブのおひねりだけで、何日という宿泊費を賄いきれるものだろうか。

 答えは簡単。この男は、プロのヒモである。

 己に与えられた能力をフルに発揮すれば、衣食住の確保など容易にできる。本人もそう言っていたではないか。

 そう、例えば——自分を慕うファンの子の家に転がり込むとか。




「——ふっ、ふふふっ……ふふふふふふふふふふふふふ——」




 優香から、不気味な笑い声が上がる。

 角度の問題で冬也からは何も見えないが、葛谷からは表情から何までばっちり見えているのだろう。

 きょとんとした顔のアオイを胸の上に乗せたまま、初めてみるような慌てふためいた表情で、必死に首を横に振っていた。


「違うっ! 違うんだ優香、この子はその……とにかくこれには事情があって、いわば緊急避難的な——」


 珍しいというか初めてなほどに、しどろもどろな有様で言い訳を並べ立てる葛谷だが、残念ながら相手が悪かった。

 ペンは剣よりも強し。言葉が暴力よりも力を持ったことは、近代以降における人類の進歩の一つといえよう。

 しかし——ああ、なんとも哀れなことに。

 怒りに狂う女の前に、男の口から出るあらゆる言葉は、悉くが無力なのだ。




「いっぺん死んでこいクソニートォ!」

「違うんだあああああああああっ⁉」

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高学歴系クソニートは家無し所持金542円でも絶対に働きたくない 瑞木千鶴 @mi_chizu

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