どうしてこんなことになったんだろう、と。何度思ったことか。


「——でさ、あいつマジで写真送ってきてさあ——」

「あは、まじで。見せろよ」

「うわマジじゃん。つうかブスだなおい」

「ひっでえなおい、金は持ってんだからいいだろ?」


 品のない笑い声が、酷く耳障りだった。こいつらが楽しそうに笑っていても、一度だってこっちが楽しい気持ちになったことはない。そもそも、感性が違う。


「——おーい、とうやくーん。なーに暗い顔してんのぉ?」

「——ひっ⁉」


 突如乱暴に肩を組まれ、身体が竦む。肩口からこちらを覗き込む顔が一つ。ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべながら、すぐそこにあった。


「友達といっしょにいる時はさあ、楽しそうにするもんじゃねえの? 俺、そう教えてやったよなぁ? 忘れちゃった? 俺たち、友達じゃんねえ?」

「いっ、いいえ……大丈夫です。忘れたり……してません……」

「あっそ…………じゃあ、笑えよ」


 いつものことだ。こんな無茶ぶりにも慣れた。恐怖も嫌悪もしまいこみ、心が軋む悲鳴を聞こえないフリして、引きつる表情筋を無理に動かし、精一杯に口角を吊り上げた。


「…………あっは」


 どんな顔になっているのか、自分ではわからない。せめて笑顔らしきものになっててくださいと、必死に祈る。

 果たして、その笑顔を見た目の前の相手は、にっこりと笑みを浮かべて。

 パァン、と。思いっきり頬を殴られた。

 痣が残らないように加減された一発に、それでも身体が吹っ飛ぶ。止めようもなく後ろ向きに倒れ込んで、無様に地面の上を転がった。


「ぶっさ。キモ」


 嘲笑するような言葉と共に、頬に吐き捨てられた唾液の感触。遅れて、品のない笑い声が一斉に湧き上がる。

 いつものことだ。もう慣れた。そうやって自分に言い聞かせて。冬也は今日も、自分の心から目を背ける。


 友達がいなかった。一人が不安だった。


『冬也くん、だっけ? ひとり? ご飯いっしょしようぜー』


 だから『彼』に声をかけて貰えた時、嬉しかった。その上級生が、ピアスだったり金髪だったり、何かと冬也の苦手なタイプの容姿だったことには、目を瞑った。


『おれ今月金無くってさー、悪いんだけど、昼飯奢ってくんねえ?』


 友達同士は助け合うものだと、自分に言い聞かせた。


『こいつら、俺の友達。冬也くんと仲良くしたいってさ。ついでに、こいつらの飯代もよろしく』


 自分なんかが仲間に入れてもらえるなら、当然の対価だと思った。思うことにした。


『俺さあ、先輩に金借りちゃって。先輩マジで怖くってさ、返せなかったらマジ殺されるんだわ。冬也くんち金持ちじゃん。助けると思ってさ、ちょっと金貸してくんねえ?』


 友達が困っているなら、放っておくのはダメだと。そう、信じていた。


『俺今度の彼女けっこうマジだからさ。いろいろ金いるんだわ。だからまた金貸してよ。冬也くん?』


 ………………………………流石に、おかしいと思った。


『は? ああ、嫌なんだ。あっそ…………おい、○○たち連れてこい』


 そこから先は、よく覚えていない。強引に『彼』のアパートに連れ込まれて、そこにはたくさんの『彼』の仲間たちがいて——ずっと、死にそうなほど痛かった。

 顔とか腕とか、外から見えるところには決して傷が残らないように工夫して、効率的に人を痛めつける技。そんなものがあるんだということを、その時はじめて、冬也は知った。


『警察に垂れ込んでもいいけどさ……俺ら未成年だから。捕まったりしないらしいよ? それよりも、そんときおまえの家族がどうなるか——わかってるよな?』


 『彼』は先輩から言われたことを信じていた。「未成年のうちは何をやっても少年法で無罪。だから何をやっても大丈夫」。冬也がネットで調べても、そう明記されてはいなかった。けれど、もしかしたらそんなこともあるのかもしれないと、思ってしまった。

 なにより、家族まで酷い目にあうかと思うと、誰かに助けを求める気も起きなかった。

 それから、ずるずると関係は続いた。冬也は『彼』らの言いなりに、金を貢ぐだけの『友達』になった。

 昼食の時間。冬也が両親の財布から盗んだ金で学食を食べる『彼ら』に交じり、冬也も同じものを食べる。五五〇円の焼き豚定食。人気のメニューだが、美味しいと感じたことは一度もなかった。

 教室の鞄の中に置いてきた、母の弁当を思い出す。毎朝早起きして作ってくれるのに、もうずいぶん食べてない。お腹がいっぱいで、いつも帰りに公園や川に捨ててしまうから。

 それが、いつも申し訳なくてたまらなかった。


『——もぐもぐ、この弁当は実に美味いな! 親御さんにお礼を言っておいてくれ!』


(なんで、あいつの顔思い出してんだろ、おれ……)


『彼』と仲間たちに囲まれながら歩き続け、不意に、先頭を歩く『彼』が足を止めた。


「あったあった、これだよ、例のやつ」


 そこは、小規模なシューズ・ショップだった。ハイブランドを扱う、所謂「お高い」店。『彼』が指差しているのは、その店頭にディスプレイされた某有名ブランドの最新モデル。


「一目惚れっつうの? 初めて見た時から、もうこいつしかないって思っちゃってさ」


 値札を見れば、予想通り桁外れの値段が書かれていた。学生どころか、社会人でも人によっては一生手が出ないような、正真正銘の超高級品。


「……ねえ、冬也君?」


 身体が震えた。何を言われるのか、分かってしまったから。それでも、どうか今回ばかりは外れてくれと、心の中で必死に祈って、


「俺、あさって誕生日じゃん? 誕プレでさ、これちょうだいよ? 友達としてさ」


 しかし、無情にもその祈りは裏切られた。

 口の中はもうカラカラだった。それでもなけなしの気力で舌を動かす。


「ごめん、なさい……無理です…………」

「…………はあ? 無理? なにそれ、冬也君の友情ってその程度だったわけ?」

「ちがっ⁉ だって、こんな金額、払えるわけ……」

「ああそう。さすがの冬也君でも無理かあ、じゃあしょうがないなあ……おいおまえら、連れてこい」

「あいよ」

「ひっ⁉ いやだ、ごめん、いやだ、ごめんなさい、ごめん、ごめんなさ——」


 強引に襟首を掴まれ、路地裏に引っ張り込まれる。そのまま乱暴に壁に叩きつけられて、恐る恐る目を開けたら、『彼』の顔がすぐ目の前にあった。


「金がないんだった、もうしょうがねえよなあ?」

「……え?」

「しょうがねえことだ。他に手がねえからしょうがない。だからおまえ——アレ盗んでこい」

「…………………は?」


 一瞬、冬也は何を言われたのかわからなかった。けど次の瞬間、顔から血の気が引いた。


「そっ、むりだよ! それはっ、さすがにヤバいっって——グゥ⁉」

「おまえ俺の言うことに文句つけんの、なあ?」


 胸倉を思いっきり掴み上げられ、息が詰まる。酸欠で視界が明滅し、口の端から泡が零れて、いよいよ失神しようとしたその瞬間、ようやくわずかに『彼』の手の力が緩んだ。


「げほっ、げほっ、ぜー、ぜー。ぜひゅっ——ぐ、うぅ⁉」


 もう一度、今度は明確に首を絞められる。


「おまえの返事は二つだけ。金出してアレ買うか、盗んでくるか。どっちかだ。今決めろ」

「——げほっ、ごぇ……そんっ、なの、どっちもむ——ぐぇあっ⁉」

「ほーら、さーん、にーい、いーち……はいすとーっぷ。ははっ、気絶しそうだった? 顔真っ赤じゃん面白。金魚の物まねで一発芸できんじゃん。持ちネタに使えよ」


 何度も何度も、緩めては絞められ緩めては絞められ。最後には、力任せに地面に放り投げられた。


「つーかさ、今さら何悩んでんの? 盗みなんてさ、今まで何度もやってんじゃん? なあ、冬也君。今まで何万親の財布から盗んだんでちゅかー? ひどい子でちゅねー。親の顔が見てみたいでちゅねー?」


 どっと、取り巻きたちの笑いが巻き起こる。地べたに這いつくばった冬也を見下ろして、『彼』は嗤っていた。


「親から盗むのは良いけど、他人様から盗むのは嫌なんでちゅか? 根性曲がってまちゅねえ、とんでもないガキでちゅ——てかまじで。親の金盗むとかやばくね? 俺でもそんなことしねーわ」


 笑い声が心に響いて。少しずつ、ひび割れていく。


「どんなガキだよって話じゃん? ほんと、おまえみたいな子ども持った親は大変だろうな。俺だったら絶対ヤだわ。こんなクズ」


 ぽたっ、と。涙がこぼれた。泣きたくなんかないのに、どうしようもなかった。


「つか俺も暇じゃねんだわ。さっさと盗んでこいよ——なあっ! ええっ⁉ おいっ⁉」


 何度も、何度も。腹に蹴りがめり込む。

 もう無理だった。結局、意地なんて張ってみても、現実はどうしようもない。心なんて、暴力の前ではあまりに脆い。 

 浴びるような暴力に、冬也はゆっくりと、その心を手放して——


「——そこまでだ、少年。やめたまえ」


 凛とした声が路地裏に響いた。蹴りがピタリと止まり、その場の全員が一点を凝視した。路地裏の入り口に仁王立ちした、一人の男。


「……だれ、あんた?」 

「だれ、か……ふむ。その問いに本名で答えるのは簡単だが、きっとそれは君にとって望む答えではないだろう。この場では、こう答えるのが適切かな」


 苛立たしげな『彼』の問いに、男はキザッたらしく応じる。

 冬也はその声に聞き覚えがあった。嫌というほど。でも、だからこそ信じられなかった。何も知らないはずのアイツがここにいることも。こんなタイミングでやってきたことも。

 だって、これじゃあまるで——


「——僕は、そこの冬也の友達だよ」


 葛谷あいつが、冬也を助けに来たみたいじゃないか。


「…………へえ、そう。そりゃ奇遇。俺もこいつの友達なんだわ」


 イライラを隠そうともしない『彼』が、葛谷に向かっていく。


「友達とは、実益を伴わない人間関係をいうんだ。有り体にいえば、いっしょにいるだけで楽しい気持ちになる関係だ。暴力による服従関係を、友達とはいわない」

「あっそ。じゃあ友達じゃなくていいや。それよりあんたさ——なにかっこつけてんだよ?」


 ばき、と。鈍い音が路地裏に響く。『彼』が葛谷の頬を殴ったのだ。それも、痕を残さないようになんて加減してない、本気の一発。

 頬を赤く晴らし、口の端から血を流しながら、葛谷は冷たい目で『彼』を見つめていた。


「……刑法204条傷害罪は、人の生理機能を侵害する行為を処罰するものだ。このような有形力によって外傷を与える行為は、傷害の典型的な例で——」

「だからさ——さっきからいちいちウザえだよっ!」


 葛谷の髪を乱暴に掴んで、壁に叩きつける。ギリギリで葛谷の腕が頭部と壁の間に差し込まれたが、もろに入った場合、下手をすれば死んでいたような一撃だった。

 代わりに、また鈍い音が響く。葛谷の腕が、不自然な方向に曲がっている。折れていた。

 それでも、悲鳴の一つも上げることなく、葛谷はまっすぐに『彼』を見つめていた。


「……強盗。殺人未遂、か…………その行動が、当人の自由意思に基づく限り、それが犯罪行為であっても、僕は必ず尊重する。けれど、君の行為は明らかにリスクとリターンが釣り合っていない。合理的な意思決定とは……ぐっ……言え、ないな」

「さっき、から、なに、言ってんだ、おまえ、ああっ⁉ おいっ⁉」


 葛谷が喋る間も『彼』の暴力は止まらない。顔に胴に、拳や蹴りが次々と撃ちこまれる。


「……自らの自由意思によって行動し、その責を負う者こそが人だ。本来、そこに他者が干渉するべきじゃない。だが……ごぼっ……例外は、ある」


 それでも。どれほどの暴力に晒されようと、葛谷は語りかけるのをやめない。

 言葉。対話。それこそが、暴力を克服した人類による、最良の紛争解決手段だと信じているから。対話を放棄することは理性の敗北と同義。そんなものは断じて認められない。


「ごちゃごちゃごちゃごちゃ——意味わかんねえこと言ってんじゃねえよっ⁉」

「ぐっ……まだ確たる自由意思を形成するに至っていない子どもは、得てしてその場の衝動によって、著しく非合理な選択をすることがある。——だからこそ、子どもが道を誤ろうとするならそれを正すのが、大人の責務だ」

「くそっ、なんだこいつ……おいおまえら、こいつぶっ殺すぞ!」


 傍観していた仲間たちが一斉に葛谷に群がり、地面に引きずり倒す。そして、倒れ込んだ身体に降り注ぐのは、無数の蹴り。何度も何度も、全員で一人を徹底的に痛めつける。

 骨が折れる音がした。血が飛び散った。苦悶の叫びが上がる。それでも、


「……君たちも…同じだよ。まだ幼い……少年たち。こんなことを続けていれば……君たちはいずれ必ず…社会から排斥される。未来の選択肢は狭まり……行きつく先は……後悔と孤独。そうなる前に…もう一度………自分を見つめ直すことだ」


 目も当てられないほどボロボロでも、葛谷の目には、依然変わらぬ「意思」の光が輝いていた。物を知らない、分別を弁えぬ幼子に知恵を授け、啓蒙を促すために。叶うなら、いつか目の前の少年たちが、本能と暴力を克服し、知恵と理性の下で「自由」に生きられるように。それが、葛谷文哉の「信条」なのだから。


「——はっ。おい、おっさん。馬鹿かよあんた、知らねえのか。俺たちにはな、少年法があるんだよ。なにをやったって、あんたをぶっ殺したって、俺たちは捕まったりしない!」


 しかし、そんな葛谷の献身を嘲笑うように、『彼』は得意気に語ってみせる。先輩から伝え聞いた噂の真贋を確かめることなく、都合が良いように解釈し、それが「正しい」と信じきってしまった、『彼』だけの「真実」を。これがある限り、『彼』は何も怖くない。だからこそ、


「俺たちはな——『自由』なんだよ!」


 何の迷いもなく。確信と共に、『彼』は宣言した。

 その言葉に、地面に這いつくばったまま、葛谷は目を見開く。

 同調して叫ぶ仲間たち。その雄たけびが、ますます『彼』を勇気づけ、増長させ——間違った方向へ誘導していく。

 集合意識。それは、無自覚に人の意思を歪める悪魔だ。人が社会の中で生きる限り、その心は常に見えない圧力を受け続け、時に取り返しがつかないほどにその形まで歪めてしまう。まして、未だ意思も人格も未熟な子どもだったら、尚更。

 あらゆる人の心を歪め暴走させる無形の力。集合意識。それに対抗できる者がいるとするならば、それは——本当にあらゆる他者から隔絶された、逸脱者を置いて他にない。

 葛谷が、拳を握りしめた。


「それは……違うな…………」


 ボロボロの身体に鞭打って、必死に身体を起こす。

 葛谷は、基本的に他人の言葉を否定しない。自分の心が自由であるのと同じように、他者の心も自由であるべきという考えが根本にあるからだ。それでも、葛谷が他者を否定する場合があるとすれば、その理由は二つ。


「君の言葉には、二つの間違いがある。第一に、少年法があろうと、司法上の制裁は存在する。少年院、なんて言葉くらい聞いたことあるだろう。誰から聞いたか知らないが、君の認識は勘違いだ。家に帰ったら確認することを……勧める…………」


 その言葉が、論理的に矛盾したり、元となる情報が誤っている場合。そして、


「第二に——そんなものは『自由』でもなんでもない」


 その他者による言葉が——葛谷自身の信条と、決定的に相容れないものだった場合だ。


「————あア⁉」


 青筋を浮き立て、『彼』が葛谷を睨む。本気の殺意すら籠ったそれを真っ向から受け止め、それでも葛谷の気勢は、欠片も衰えることがない。


「『無責任』と『自由』は別物だ。自分に甘いだけの理屈と人の尊厳を同列に語るな。それは、かつて『自由』を勝ち取るために戦った多くの人々に対する侮辱だ。取り消したまえ」

「……意味わかんねえ。なに言ってんだ、おまえ……ああ、いいよもうわかった……つまりおまえは——殺されたいってことなんだよなア⁉」


 何一つとして、その意思が通じ合うことはなく。ただ敵意と殺意がぶつかり合う。

 激昂した『彼』は、懐から折りたたみ式のナイフを取り出した。


「おっ、おい。それは流石にヤベえんじゃ……」

「黙ってろ‼」


 流石にやりすぎだと止めようとした取り巻きたちを怒鳴りつけて、『彼』はナイフの切っ先を葛谷に突きつける。

 ほんの目と鼻の先に迫るナイフ。あと二歩も『彼』が踏み込めば、その刃は葛谷の命を奪うだろう。それでも、目前に迫る死を前に、葛谷は揺るぎなく『彼』を見つめていた。

 そうとも。葛谷は初めからナイフなど見ていない。葛谷が対峙していたのは、前時代的な薄汚い暴力ではなく、ただ目の前にいる『彼』という人格であり、そしてもう一つ——


「——いつの時代も、誰もが同じように、『自由』のために戦った。どれほど敵が強大でも、たとえその結果自分の命が失われようとも、それがこの世で最も貴いものだと信じていたからだ。時代が変わり、価値観が変わろうと、人の心は変わらない。よく聞け少年——」

「——死ねよ」


 一歩、『彼』が踏み込んだ。

 迫り来る刃には目もくれず、葛谷が見ているのは、今まさに過ちを犯そうとしている『彼』であり、そして————葛谷の視線が、一瞬だけ、冬也を向いた。

 怯え、心が壊れそうになってしまった少年に、今再び道を示すために。自らの誇りを守るために。己の信じる『正しさ』を証明するために。葛谷が、叫ぶ。


「本当の『自由』とは——自分の心に、決して嘘をつかないことだ!」


 そして、凶刃が葛谷の胸を貫こうとして——


 けたたましいサイレンが、路地裏に鳴り響いた。


 ナイフが止まり、『彼』はバッと路地裏の入り口を振り向く。そして、その顔が驚愕に染まる。

 路地裏の入り口を塞ぐ、何台ものパトカー。お馴染みの白黒の車体からは警官が続々と降りてきており、今にもこの路地裏へと突入してくるだろう。


「なんで、こんなとこ……っ! おまえっ! おまえが何かしたのか⁉」 


 何かに感づいた様子の『彼』が血走った目で葛谷を睨む。

 見るも無残な姿になろうとも、決して膝を屈することのなかった葛谷という男は、その瞬間、いつも通りの不敵な笑みを浮かべていた。


「なに。『凶器を持った犯人が暴れて、けが人が一人出た』と前もって通報していただけだよ……ここに来た時点で、僕がこうなることは予想できたからね」

「———くっそがっ!」 


 吐き捨てる。状況は詰みに近い。このままでは現行犯で一網打尽だった。


「やべえサツだ⁉」

「おっ、俺は盗みなんてしたくなかったんだ!」

「ばか、早く逃げろ!」


 動揺は瞬く間に広がり、仲間たちは蜘蛛の子を散らすように、もう一方の出口へ向かって逃げていく。


「あっ、おい馬鹿逃げんな、おいっ⁉ くそっ‼」


 毒づく彼もまた——最後に一度だけ葛谷を睨んで——駆け出した。その逃げ道の途中にへたりこむ人影が一つ。冬也だった。


「おい、おまえ! さっさと逃げるぞ‼」


 貴重な財布だった。失うのは惜しい。それに、こいつを脅して罪を被せれば、ワンチャン自分も助かるかもしれない。そんな薄汚い打算を胸に、『彼』は力づくで冬也の手を取り、

連れて行こうとする。

 まだ恐怖に侵された冬也の身体は、そんな乱暴な扱いにも従ってしまいそうになる。けれど、今は不思議と、恐怖以外の感情が心のなかに渦巻いていた。

 冬也の視線が、葛谷のほうを向く。折れた腕、あちこち傷だらけで立っているのも辛いはずの葛谷は、壁に体重を預けながらも、冬也の視線をまっすぐ受け止め、笑ってみせた。


「言ったろう? 君は『自由』だ——やりたくないことは、やらなくていいんだ」


 その言葉が、冬也に最後の勇気をくれた。思いっきり力を込めて——冬也は、『彼』の手を振り払った。


「…………てめえ……っ」


 自分の手から離れていった。その事実に、『彼』の表情が怒りに染まる。

 かつての冬也なら、その恐怖だけで屈してしまっただろう。でも、今は違う。本当の勇気はなんのか——『自由』の気高さを、冬也はもう知っている。


「僕は……君といっしょにはいかない」

「——くそがっ!」


 確かな意思を込めた拒絶。

 捨て台詞を吐いて、今度こそ、『彼』は一人で逃げ出した。

 警察によって、重症の葛谷が保護される。間もなく救急隊が彼を運んでいくだろう。その前に、冬也はどうしても伝えたいことがあった。


「なあ、葛谷」

「うん。なんだい?」

「母さんの弁当、食べてくれて、ありがとな」

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