翌日。いつもの下校時間になっても、冬也は駅に現われなかった。公園のベンチで一人、文庫本を読み進めながら、葛谷は頭の半分で彼のことについて考えていた。


(冬也が何かしらの問題を抱えていることはわかっていた。しかしそれがなんなのか本人が打ち開けないことには、決定的な対抗策は打てない。そもそも全て考えすぎという可能性もあるが……昨日の今日でそれは楽観視が過ぎるか)


 そもそも、葛谷と冬也は他人であり、仮に冬也が何かしらの問題を抱えていても、助ける義務はない。


(自由にして平穏な心、僕のただ一つの願望……そのためには、トラブルは避けるのが肝心。まして他人の諍いに首を突っ込むなど、愚かの極みだ)


 世の中、大抵のトラブルは人間関係から生じる。いつだって、悪を生むのも、悪を成すのも人間なのだ。だからこそ、葛谷は人との関係を切り捨てた。

 今回もそうすればいい。ただあの少年のことを忘れ、思索の海に脳と心を溶かせば、それでいつも通り。変わらず葛谷文哉は『幸福』でいられる。


 そして、葛谷文哉には。そういう類のヒトデナシだと、自覚している。


「愛も、絆も、感情も。切り捨てるのは簡単だ」


 元より、自分の心にそんなものは存在しない。すべてはフィクション。人間関係という名の利害関係を虚飾するために生み出された、後付けのウソだ。

 だから、見捨てるのは容易い。現に何度となくそうしてきた——たった一度を除いては。


「——でもだからこそ、それをやるわけにはいかないんだ」


 脳裏をよぎる、苦々しくも愛おしい記憶。自由を切望する葛谷が、ただ一人、心に立ち入ることを許してしまった、最大の敵。


「そういう約束だもんな……そうだろ、?」


 

 そいつは、ひと際馬鹿な女だった。


「クズタニフミヤ、『天と地の間にはお前の哲学では思いも寄らない出来事がまだまだあるぞ』」


 散々あちこち引きずり回されてボロボロになった世界一の劇作家のセリフを、ドヤ顔で引用する女がいた。


「……『この地上のありとあらゆるものはやがて融け去り、あの実体のない仮面劇がはかなく消えていったように、あとには一筋の雲も残らない』」

「え⁉ えっと、あの、それはなんの引用で……?」

「『我々は夢と同じ糸で織り上げられている。ささやかな一生を締めくくるのは眠りなのだ』……君の言いたいことはわかっている。すべてを分かった気になるのは早すぎる、だろう? いつも君が言っていることだ」

「……うん。フミくんは頭が良いよ。でも頭が良すぎて、いっつもつまらなそうだから。たまにはゴーリセーとか抜きしてさ、楽しいことしようよ。頭空っぽのおバカになっちゃお!」

「もうしわけないが、その申し出に対する答えは決まっている。NOだ。たとえこの世に僕の予想できない事柄があったとして、それが僕の心を満たすことはありえない……終幕を待つだけの寸劇に熱中できるほど、僕は情熱的にはなれない。ならばせめて観劇の一時が穏やかであってほしいと望むことくらい、許されてもいいはずだろう?」


 何度もそうやって突き放した。僕の心に入ってくるなと。

 けれど、その底抜けに愚かな女は。

 自分を賢いと勘違いしたこの世で一番愚かな男に、何度でも愛を囁いた。


「フミくんさ、私が今なにを考えているか、わかる?」

「は?」


 真正面から、真っ直ぐに、息がかかるような距離で。そう宣う女の心を、「わかる」というのは簡単で。

 けれど心のどこかで、それは違うのだと言う声がした。


「ふーん、わかんないんだぁ」


 こちらを弄ぶかのように、女はニヤニヤと悦に浸っていた。


「……なにが言いたいんだ、おまえは」

「フミくんはさ、いろんなことを知ってるけど、大事なことを知らないんだよ。それがね、もったいないなって思うの」


 そっと手を重ねる女は、何かに祈るように目を伏せた。


「だからね、これは宿題。私からフミくんへの」


 葛谷文哉は無神論者だ。それは神の存在を疑うからではなく、まして不在を信じるからでもなく。

 神に縋らなくては生きていけない人の生を、この上なく愚劣であると断じるからだ。

 けれど、決して祈りは否定しない。

 祈りとは、神の為にあるのではなく。あくまで人が捧げるものだからだ。


「誰かの、そして誰よりも自分の心について、ちゃんと勉強すること。あと、女心も忘れずにねっ」


 願いとも違う。かくあれかしという望み——希望。

 ささやかな未来を想う心を、祈りと呼ぶのだから。



 あの時出された宿題は、今も終わっていない。


「『to be , or not to be ?』」


 その自問にNOと答えることを、きっとあの女は許さないだろう。

 本を閉じる。脳のスペック全てを総動員して、葛谷は思考を開始した。

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