それからというもの。葛谷は毎日のように冬也の下校時間に合わせて現れては、決まって弁当をたかった。処理に困っていた冬也にとっても(業腹ながら)渡りに船だったこともあり、二人はここ一週間、ほぼ毎日、公園のベンチに座って弁当を食し、一時の語らいに興じていた。


「あんたさ、むかし音楽やってたりしたの? やたら上手いけど」

「嗜む程度にはね。音楽は良いぞ。何といっても女にモテる!」

「いきなりそれかよ……」

「まあ真面目な話、音楽というのは最古の娯楽であり、人類の文化とは切っても切り離せないものだ。教養という意味でも、心を豊かにする意味でも、一度は触れておいたほうがいいのは間違いない」

「ふーん……でも、なに聴けばいいんだろ?」

「なんでもいいさ。流行りのjpopでも、手垢のついた古典音楽でも。触りだけでも音を聞いて、そこから興味のあるジャンルについて深堀りしていけばいい。そうすればいずれ、音楽性なんて言葉の意味するところもわかってくるさ。結構面白いものだよ? 音楽というものは、言葉と同じくらい雄弁に、描き手の人生を物語るんだ。そこに君も共感できる何かが見つかれば……きっと君は、女の子に音楽の話をできるようになる」


 やたら雑学豊富な葛谷の話は、馬鹿馬鹿しいものもあれば役に立つものもある。喋りが上手いこともあって、会話は素直に面白かった。

 放課後から、家に帰るまでの短い時間。それは冬也にとって楽しいひと時だったのだ。


「というわけで、確かにモーツァルトが描いた曲にはウンコの曲があるが、だからといって直ちに彼が常軌を逸したスカトロ趣味だったと決めつけるのは些か早計で——ん?」

「あっ、わりぃ。俺の携帯だわ」


 電話の着信だった。冬也の携帯がけたたましく鳴り、あわてて開く。


「まあどうせ母さんだろ。最近帰りが遅いって心配して—————っ」


 携帯の画面に表示された名前を見た瞬間、冬也の表情が固まった。

 つい先ほどまでうんちくを披露していた葛谷も、即座に異変に気付き、目付きを変える。


「どうかしたのかな? なにか、良くないことでも……」

「……わりぃ、ちょっと出てくるわ」


 微かに震える声でそう呟き、冬也はベンチから離れた物陰に消えていく。

 葛谷は、追おうとはしなかった。流石にプライベートに踏み込むのは、どれほど親しい間柄でも望ましくない。

 ただし、「偶然にも通話が聞こえてしまう」ぶんには、不可抗力というものだろう。

 手元の新書に目を落とすフリをして、聞き耳を立てる。


「……ごめん………ちが……すいません…………わかってます……はい、大丈夫です……」


 大事な会話内容は聞こえない。一部の感情が高ぶったときのフレーズだけが、ギリギリ聞き取れる。それでも、電話の内容が愉快なものでないことは明らかだった。

 やがて通話を終えて戻ってきた冬也の顔には、暗い影が落ちていた。


「……わるい。俺、きょう帰るわ」

「ああ、わかった。今日も楽しい時間だったよ。また明日も会えることを願っている」

「ああ…………じゃあな」


 力なく肩を下げたまま、鞄を掴んで立ち去っていく冬也。


「————少年!」


 その小さくなっていく背中へ向けて、葛谷は声を張り上げた。


「葛谷文哉のお悩み相談は今も受付中だ。報酬は弁当一食分、時間無制限。どうか忘れないでくれたまえ」

「…………おう。ありがとな」


 冗談めかした呼びかけに対する反応にも、力はなかった。

 やがて背中も完全に視界から消え、冬也を見送った葛谷は、天を仰いで溜息を吐いた。


「どうにも……厄介なことになりそうだな」

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