「おまえさ、いつもあんなことしてんの?」


 その後。葛谷といっしょにレンタル楽器店へ楽器を返却に行き、例の公園で彼が弁当を食い終わるのを待ち、日がすっかり沈んだ頃。少年は暗くなりかけの道を葛谷と並んで歩いていた。子どもを一人で帰すわけにはいかない、と。そこだけ謎の倫理感を発揮した葛谷は、嫌がる少年に無理矢理くっついてきたのだ。


「あんなこと、とは?」

「だからさ……嘘ついて同情集めて金を騙しとるみたいな、汚いことだよ」

「おいおい人聞きの悪いことを言わないでくれ。これは正当な対価だ。僕は彼らに音楽というサービスを提供し、報酬として金銭を得た。ごく一般的な取引だ。実際、手前味噌ではあるが、金を払う価値のある演奏だったと思うが?」

「そっちじゃなくて、目が見えないとか嘘吐いてただろ⁉」

「あれは、よりいい気持ちになってもらうためのリップサービスだよ。人は誰しも『善いこと』をしたいという思いがある。例えば、『恵まれない弱者に施しを与える行為』、とかね。お捻りに自己満足という付加価値がついたぶんお得とも言える。金を投げた瞬間、観衆たちはさぞ気分がよかったことだろう。自分は『善いこと』をしたという実感があるからだ」

「でも、それが偽物だったら意味がない……」

「本当にそうかな? 結果として得られる満足感は、本物だろうと偽物だろうと変わらない。人生とは自己満足の積み重ねだ。善行の相手が誰であろうと、何を想おうと、得られるものは変わらない。風俗店で成人女性にJKコスプレを要求するおっさんも、恵まれない子どもたちへの街頭募金に一〇〇円硬貨を渡す通行人も、本質的には同じだ」


 少年は思わず頭を抱えた。

 理論武装。昨日もそうだったがこのクソ野郎は、自分の行動すべてに独自の理屈をつけて正当化してくる。


「……それにね、少年。あの時、みんな笑っていただろう?」


 唐突に、葛谷は僅かに弾んだ声でそう言った。


「…………」


 少年の脳裏に蘇るのは熱狂。あの場のみんなが感動に震え、笑っていた。たとえ汚く打算に塗れた嘘の上に成り立つ時間であっても、それは確かな事実なのだ。それでも、と首を横に振る。


「それは……でも、やっぱり違うだろ。第一あれ、下手したら詐欺だろ?」

「下手をしなくとも間違いなく詐欺だな。立件立証できるかはともかく、現行法では民法上も刑法上も詐欺の構成要件に欠けるところはない」

「だっ、だったら尚更だろ⁉ 犯罪じゃん!」

「それでも、誰かが笑ってくれたのなら、僕はそれを嬉しく思うよ」


 絶句する。

 自分の行為を犯罪だと自覚しながら、この男は悪びれる気配もない。むしろ満足気に笑ってすらいる。自分の行動に、心の底から一片たりとも良心の呵責が存在しないのだ。

 丁度そこにあった自販機の前で、葛谷が足を止めた。『嘘』で稼いだ金を自販機に突っ込み、ボタンを押す。


「意思によって己を規律し、心のままに行動する。それこそが人という在り方だ。正しさなんて、この世のどこを探してもありはしない。もしもそんなものが存在するとしたら、それは——ここにある」


 葛谷の指が、自分の額を——その奥の「脳」を指す。


「思索を繰り返し確立した『僕』という人格。僕の自由意思。僕が、僕の意思によって『正しいと信じること』。それだけが、他の誰にも動かすことのできない、僕だけの真実だ」


 自販機から缶コーヒーとミルクティーを取り出し、掲げてみせる。


「常識とは偏見だよ。そして偏見とは、判断無き意見だ。そんなものに僕は価値を感じない。他の誰がなんと言おうと、たとえ国家がそれを犯罪と決めつけようと、他でもない僕があれを『よし』とした。それが全てだよ」


 人格破綻者の理屈だ。この社会に生きる圧倒的大多数が、到底受け入れることのない極論。自分本位の極致。そんなものを、心の底から信じ、実践しているのだ。この男は。


「……じゃあさ、自分を好いてくれる観客たちを騙しても、おまえは何も感じないのか?」

「観客は一時の夢を見られて幸せ。僕はお金がもらえて助かる。win―winというやつだ。何を憚る必要が?」

「……あっそ。じゃあ、やっぱおまえはクズだ」

「ああ……それは、その通りだ」


 あっさりと認めて、葛谷は変わらずへらへらと笑っていた。

 その笑顔が、無性に腹立たしい。どうして、こんなクズがこんなに幸せそうに笑っているんだ。ルールを守って、縛られて、日々を賢明に生きてる人が、馬鹿みたいじゃないか。


「……なあ。なんであんた、ニートなんてやってるんだ?」

「なんでもなにも、就労意欲がないからだが? ついでに言うと協調性が無さすぎて三日でクビになる自信がある」


 自販機脇のベンチに腰掛けて缶コーヒーを啜る葛谷は、平静を崩さない。そんな様

子がまた癪に触って、思わず語気が荒くなってしまう。


「だからっ! 普通に働いて、普通にルール守って、普通に生活する。みんながちゃんとやってることを、なんであんたは平気で破ってるんだよ! おかしいだろっ⁉」


 すっ、と。葛谷の目が細くなる。


「それは……と、なにか関係があるのかな?」

「————っ⁉」


 心の底まで見透かすような視線が突き刺さり、動揺する。わかるはずがないのに、「何でも知っている」ような気がする葛谷の視線が恐ろしくて、身体が竦みそうになる。


「……そうだな。『なぜ』と問うこと自体順序が違う、という答えが正解だが……それでもあえて君の疑問に答えるならば、『そうする理由がないから』というのが近いかな」


 葛谷が飲み終わった缶コーヒーをゴミ箱に放り投げ、カランと空虚な音が辺りに谺する。 続いてポケットから煙草を取り出すと、慣れた手つきで火をつける。


「動くなよ。そこなら風上だ。副流煙も怖いだろう?」

「……別にいいよ、そのくらい」

「そうか。それはありがたい」


 ふぅっと紫煙を吐き出して、葛谷はベンチに深く腰掛ける。


「僕は無欲な人間だからね。欲しいものもそう多くない。必要最低限の衣食住、それさえ満たせるなら、ひとまずいい。あとは煙草と、書籍。音楽など文化芸術に触れる機会があれば、もう言うことはない。あとは全て、有って困ることはなくとも、必要はない程度のものだ」


 憲法上の文言を借りるなら、「健康で文化的な最低限度の生活」。それだけが、葛谷文哉にとって必要なもの。極論だが、それさえ維持できるなら、他の全ては「余分なもの」だ。


「そういうわけで、僕が欲しいものを手に入れるのに、それほど金はいらないんだ。わざわざ労働という手段を取らなくとも、その程度稼ぐのは簡単だ——こんなふうにね?」


 そう言って、葛谷はパンパンになった財布を見せる。

 確かに、葛谷の言うことは理解できなくもない。だが、少年は納得いかない。


「そんなの何が楽しいんだよ? 何もねえじゃん、あんたの人生」


 傍から見れば、目の前のこいつには何もない。恋人はいない。友達もいない。金が無い時に助けてくれる相手もいない。大切なものもない。夢もない。家もない。職もない。

 十代の――まだ将来の可能性を漠然と信じていられる年齢の少年には、目の前の男がいったい何が楽しくて生きているのか、まるでわからなかった。


「——ああ。それは簡単だよ」


 だというのに、当の本人は愉快そうに笑っている。タバコを携帯灰皿で揉み消し、おもむろに立ち上がる。


「確かに僕は独りだ。無職で、金はなく、恋人にも振られた。信じられる友もなく、家族にはとうに愛想を尽かされた。財産など何も無い。未来に夢を見ることも、もうないだろう。正真正銘、社会の底辺。クズだ——ああ、けれどね……」


 夜道を踊るようにステップを踏みながら、葛谷は歩いていく。まるでそこだけがミュージカルの舞台にでもなったような、奇妙な光景。雲間から月光が落ち、ちょうど葛谷を照らす。スポットライトのように。

 月下。黒い前髪の帳の奥で、葛谷は笑っていた。


「それでも——僕は、自由だ」


 心の底から幸せそうに。満足そうに。何も持たないクズ野郎は、満たされた表情で笑う。


「ただそれだけで、僕は僕自身が幸福であると確信している。ああ、そうとも。この僕が何より欲しいものは、この心が他の何にも侵されず平穏であること。それ一つだ」


 夜空に昇り始めた月を眩しそうに見上げた葛谷は、視線だけを少年へ向けて問う。


「どうかな、君も? 僕と同じ道を歩いてみるかい?」

「えっ?」

「君が何に悩んでいるかは知らない。けれど、全てを捨てて『自由』を選ぶなら、その悩みも無くなるだろう……それだけは、断言できるよ」


 そう言って、葛谷は誘うように手を差し出した。


「絆も、富も、夢も、何もかも捨てる代償に、君はすべての苦しみから解放される。どうかな? 選ぶのは……君だよ?」


 何かを望むからこそ、現実とのギャップに苦しむことになる。ならば、初めから何も望まず、余分な全てを切り捨てれば、苦しみもまた消えるのは必然。


「……俺は……——」


 それもまた、人生における選択肢であり、一つの道だ。葛谷文哉はそれを選んだ。

自らの自由意思に基づき、この道こそが自分にとって最大の幸福に繋がると確信し、かく在らんと望んで「こう」なった。


 そして今、同じ道を示された少年はといえば 


「——俺はやっぱ、そんなの……嫌だよ」


 まだ迷いの残る表情で、それでも確かに首を横に振って答えた。


「ほう? それはどうして?」

「だって……怖いよ、そんなの……俺はたぶん、耐えられない……」


 少年が、自分の腕へと視線を落とす。葛谷からは見えない死角。そこにあったのは、青黒くうっ血した、痣(・・・・・・・・ ・)だった。

 それを見ただけで、きゅっと胃が縮まるような思いがした。この苦悩から解放されるなら、すべてを捨てて逃げ出すのも悪くないような気がする。でも、


「家族からも離れて……独りになったら……どうしたらいいかわからない」


 少年は四人家族だった。父がいて、母がいて。年の離れた姉がいた。姉は家を出て独り暮らしを始めて久しいが、それでもよく連絡をしてくれる。

 時々煩わしくても、温かくて安心できる、少年の居場所。それを失うことを想像するだけで、不安で息が止まりそうだった。


「なら君はどうしたい? ……君の夢は、なんだい?」


 恐ろしいほどに優しい声が耳を打つ。クズのくせに、その声だけで安堵が胸を満たす。

 不安の霧を取り払い、改めて自分の心と向き合ってみれば、問いの答えは意外なほど簡単に見つかった。


「俺は——家族に心配かけたくない。安心させられるような人に、なりたいんだ」


 何の面白みもないつまらない夢だ、と。少年は自嘲する。けれど、他に思いつかない。普通に勉強を頑張って、普通に大学を出て、普通に就職して、普通に結婚して、家族と普通に幸せに暮らせたら。たぶんそれだけで、自分は満足してしまう。

 きっと、それが自分の幸せなんだと思う。


「ああ——それでいいんだよ」


 そして。そんな等身大の夢を、葛谷は笑って肯定する。


「誰かを想う、か。僕には無い気持ちだけど……とても素晴らしい夢じゃないか」


 およそこの男の口から出るとは思えない言葉に、少年は一瞬口を開けて呆けてしま

う。


「……意外だな。つまんね、とか。凡人らしく貧困な発想だな、とか。そんな感じのこと言うと思ったのに」

「君の中の僕のイメージはどうなっているのかな?」


 クズ一択だけど、と。喉まで出かかった言葉を呑みこむ。

 その間にも、葛谷は二本目の煙草に火をつけ、一服していた。


「……共通の価値感を基盤として人は社会を形成する。当然の結果として、異端はやがて排斥される。こればかりはどうしようもない。構造上避け得ざる瑕疵というやつだ」


 紫煙を吐き出す葛谷は、どこか違う景色を見るように、遠い目をしていた。


「『孤独は、優れた精神を有する者の運命である。』忘れるなよ、少年。自由には必ず責任が伴う(・・・・・・・・・・・)。自由のために己のエゴを貫くなら、行きつく先は孤独だけだ。僕は自らそれを選んだ。現状には満足してるし、後悔もないが——君が同じ道を選ぶ必要はない」


 くゆる煙の奥から、葛谷の視線がまっすぐに少年の視線とぶつかる。時折見せる「観察」するような視線とは違う。純粋に、大人が子どもを見守る時の、先行きを見守る目だった。


「思いやりを忘れるな。身の丈に合わない望みを抱くな。周囲の人の言葉に耳を傾けろ。そして初心を忘れるな。そうすれば……少年。君ならきっと、『幸せ』になれるよ。君の夢は、多くの人が貴いと思うそれだ」

「……じゃあ、なんであんな話したんだよ。試したのか?」

「君が選ぶかはともかく、選択肢を隠すのはフェアじゃない。そう思っただけだよ」

「……あっそ」


 妙なところで義理堅い。中学生のガキに突っかかられても、馬鹿正直に真向から応えようとするあたりなんて、特に。

 たぶん、こいつにはこいつなりのルールがあって、やたら構ってくるのにも本人なりの理由があるんだろうな、と。なんとなく想像がついてしまう。それがこいつに染まっているようで、なんだか腹立たしかった。


「……なまえ」

「ん?」

「俺の名前……冬也っていうんだ。いいかげん少年って呼ぶのやめろ」

「とうや、か。僕の名前と響きが同じだ。これは運命的な何かを感じざるを得ないっ!」

「気持ち悪いこといってんじゃねえよクソニートっ!」

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