翌日。改札に定期券をかざし、少年は見慣れた駅のホームから出た。夕方の帰宅ラッシュの時間。構内は人で溢れかえり、その流れに身を任せ、雑踏の中を歩いていく。

 雑音をイヤホンで遮り、視線は前を歩くサラリーマンの背中に固定。余計な情報が入ってきても疲れるだけだ。見慣れた帰宅風景に、今さら興味を引くものなどあるはずもなく、ここから自宅までの十数分間、少年はただ足を交互に動かすだけの機械になる。

 それが、いつもの日常だったはずなのに。今日の少年の内心は、少し違っていた。


(……なんだったんだろうな、昨日のアイツ)


 いろんな意味で鮮烈だった、暫定:不審者との遭遇。


『そろそろ家に帰るといい。家族との団欒は、もっとも根源的な愛の形だ。大切にするといい……僕もそろそろ、別の用事を済ませないといけない頃だからね』

(余計なお世話だっての……結局、なんも実のある話しなかったし。悩み聞くって、まじで聞くだけかよクソ野郎)


 まあ期待してたわけでもなかったけど、と。それはそれとして腹が立つのは、あの無駄に偉そうな態度が原因だろう。クソニートのくせに。

 自分勝手。自分本位。協調性皆無の社会不適合者。そりゃニートにもなるってものだ。

 でも、なぜだろう。アイツの言葉が、頭の中をぐるぐる回って離れない。


「——…………っ………ぁ——………」


 駅から出て、すぐのことだった。

 道端になぜかすごい人だかりができている。数十人はいるだろう。この辺はいつもミュージシャンたちが路上ライブをやっている場所で、数人がそれぞれ気になったミュージシャンの前で足を止めて歌を聴いていることはある。でも、こんなに大勢が集まっているのは初めてだった。

 ふと、嫌な予感がした。理由はわからない。ただどうしようもない胸騒ぎがして、この場を早く立ち去りたいという衝動がこみ上げる。

 しかし、どうにも気になる。あれだけの人が集まる演奏。どんなものかと興味もあった。

 人込みの隙間から目を凝らして、その中心にいる人物を確かめて——目を疑った。

 演奏者は一人の男だった。着古したボロボロのコートを羽織り、帽子を目深にかぶった小汚いホームレス風の男。それだけなら、むしろ目を逸らしたくなるような人物。

 けれど、彼の演奏は尋常ではなかった。両手で操るのはアコーディオン。口元にはハーモニカ。そして、足元にはキーボードが置かれていた。三つの楽器全てを、男は同時に演奏している。


(……なんだあのびっくり大道芸人。ヴィジュアルの圧がヤベェ)


 イヤホンを取る。途端に耳に飛び込んでくるのは、濃厚なジャズ・ミュージック。アコーディオンが主旋律を担い、キーボードとハーモニカが華を添える。一人三役の三重奏。

 尋常じゃないくらいに上手い。いつも大衆向けのポップスくらいしか聞かない少年でも、その演奏がかなりの技量によって成り立っていると理解できる。というか、足の指でキーボードを弾いてるのがシンプルに変態だ。

 惹きこまれるような演奏。相反する、異様な様相。しかしそれ以上に、少年にはどうしても気になることがあった。帽子に隠れた演奏者の顔。目元が見えなくても、その口元には覚えがある。


(アイツ……なにやってんだ)


 間違いなく、昨日の不審者クソニートだった。まさか音楽に精通しているとは思わなかったが、こうして目の当たりにすると感心するしかない。が。それでも演奏してるのが「あんな奴」だとわかってしまうと、途端に心が冷静になる。そうすると、気になるあれこれが見えてくる。

 即席の演奏会場と化したブルーシートの上に置かれたものは三つ。暫定:不審者が腰かけるパイプ椅子。おひねりを入れる用の古ぼけたバケツ。そして——「I am blind(わたしは目が見えません)」と書かれた立て看板。その意図を察した瞬間、少年の頬が引きつった。


「なんて……なんて感動的な演奏なんだ!」


 超絶技巧によって紡がれる感傷的でノスタルジックな音楽に、心を打たれた聴衆が、感動のあまり滝のような涙を流している。


(上手いのは上手い……でもこいつただのクズなんです)

「盲目というハンデがありながらこれほどの演奏……いったいどれほどの研鑽を重ねたのか……すばらしい努力だ!」

(違いますこいつ見えてます思いっきり嘘ついてるんです)

「あんなにボロボロの恰好でっ……さぞ苦労されたのでしょうね…………!」

(あいつブランドの財布持ってます同情引くためのファッションですアレ)


 いつの間にか、周囲は感動の渦に呑みこまれていた。「目も見えず家もなく、それでも貧しさに負けることなく音楽に打ち込み続けた青年」による魂の演奏。そういったストーリーが、その場に集まった全ての人の心の中に出来上がっていた。まあ、全部嘘っぱちなのだが。

 やがて演奏が終わる。残響が尾を引き、消え、一瞬の静寂。そして、割れんばかりの拍手が辺りに鳴り響いた。いつの間にか聴衆は百人を超え、道を埋め尽くしていた。


「素晴らしい演奏だった!」

「感動した!」

「これからも頑張ってください!」


 演奏を終えて立ち上がった男は、声援に手を振って答える。帽子のつば下から垣間見える目は、わざとらしく閉じられていた。

 次々におひねりが男の足元のバケツに放り込まれていく。硬貨だけでなく紙幣も。何なら一瞬万札まで見えた気がしたが、気のせいだと思いたい。深刻に。

 やがて男はおもむろに後片付けを始め、ショウの終わりを悟った聴衆も解散していく。

 観客の大半がいなくなった頃合いを見計らって、男——葛谷文哉が動いた。

まるで本物の盲人のように恐る恐る立ち上がると、手探りにおひねり用のバケツを探し始める。しかし目が見えないなかでの探し物は危なっかしく、そして実際、葛谷はバランスを崩して転倒した。


「おっ、おい、大丈夫か――って」


 さすがに助けに入ろうかとした少年だが、それよりも早く一人の女性が駆け寄っていた。


「あっ、あの! 大丈夫ですか?」

「……ああ、はい。心配しないでください。えっと……」


 きょろきょろと頭を振って、見えない誰かを探す葛谷(演技)。不安げに彷徨う手を、その女性は恐る恐る掴んだ。


「ああ、ありがとうございます。ごめんなさい、迷惑をおかけして」

「いいえ、そんな……あの、さっきのライブ、私すっごく感動しました!」


 その女性は、妙に目をキラキラさせていた。

 一瞬呆気にとられたような顔をした葛谷は、ふっと口元を緩めると、おもむろに帽子に手をやった。

 つぎはぎの帽子が外れ、艶やかな黒髪が零れ落ちる。濡れたような黒糸が線の細い輪郭をまばらに彩って……うっすらと目を開けた盲目のミュージシャンは、蕾が綻ぶように儚げに微笑んだ。


「ありがとう。その一言が、僕は……なによりも嬉しい」


 ずきゅううううん、と。少年の耳には、そんな幻聴が聞こえた。

 あまりにも、あざといほどに健気で美しい微笑だった。完全に硬直した女性は、顔を真っ赤に紅潮させ、ぷるぷると震えている。


「……私、アオイっていうんです。あなたのお名前は?」

「文哉。葛谷文哉です。アオイさん、素敵な名前だ。きっと名前の主も、とても美しい方なのでしょう」

「そんな……私なんて、別に」

「隠さないで。霞に閉ざされてしまった僕の眼でも、素敵な人のお顔くらいは見てみたい。だからどうか、動かないで」


 そう言って、葛谷はぐっと顔を近づけた。

 鼻が触れ合うような至近距離で、お互いの眼がはっきりと見える。白濁し焦点が合わない、盲人の目(カラコン)。それでもなけなしの視力を振り絞って、彼は目の前の女性を見ようとした(カラコン越し)。

 手を握り合ったまま、見つめ合う両者。なんか背景に薔薇が見えるような気がするが、たぶん気のせいだろう。そう思いたい。

 やがて、そっと葛谷は微笑んだ。


「ああ、思った通り。赤く萌える薔薇のような——美しい人だ」


 少年は、格ゲーの【KО】アナウンスを聞いた気がした。

 超絶技巧演奏→儚げ美青年微笑→「(目が見えない私の目にすら)あなたはとても美しい」の連続コンボを決められた女性は、いよいよ熱に浮かされたような顔で葛谷に魅入っていた。


「また……明日も聴きに来ていいですか?」

「もちろん。あなたが来てくださるなら、今度はもっと良い演奏ができるように、頑張りますね」


 名残惜しそうに手を放した女性は、せめて最後にと、後片付けの手伝いを申し出た。危ないから座っていてくださいと葛谷を座らせたまま、甲斐甲斐しく楽器をしまい、荷物を片付け……最後、おひねりを葛谷の財布(なんかすごい安っぽいやつに代わっていた)に移す際に、自分の財布から万札を数枚捻じ込んでいった。

 ちなみに、自分の万札が入った財布を葛谷に手渡すときの彼女の顔は、とても幸せそうに蕩けきっていた。少年はドン引きしていた。

 何度も何度も手を振りながら離れていく彼女が曲がり角の向こうに消えた後、葛谷は真っ先に、周囲にバレないように薄目で財布の中身を見聞すると、満足そうに頷く。なにやら達成感すら感じる、いっそ爽やかなまでの笑顔だった。


「おまえ……ほんとにカスだな」

「ん? その声……昨日の少年か? やあ、奇遇だね、こんなところで」

「いい加減目ぇ開けろよゴミクソ野郎」

「ははっ、何を言うんだ僕は生まれつき目が見えないんだよ君だって知ってるだろう君そういう冗談は傷つくんだやめたまえよはははははっ! あとイヤに辛辣じゃないかどうしたんだい?」

「自分の胸に聞いてみろっ!」 

「ふむ………………なにも思い当たらないな。それより良いところに来てくれた。実は僕はお腹が空いたんだが、今日もお弁当は余ってるかな?」

「ああっ⁉ まあ、あるけどさ……」


 少年の鞄の中には、今日も手付かずの弁当が残っている。バレないように捨てようとしていたが、厄介な奴に見つかった。

 にんまりと笑みを浮かべる葛谷は、当然のように手を差し出した。


「分けてくれたまえ」

「ふっざけ——」

「お代は払うよ」


 そう言って、葛谷は金でいっぱいの財布を掲げた。そして少年は、金の力に屈した。

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