「もぐもぐ、いや実に、がつがつ、美味いな。もぐもぐ、君にこの弁当を持たせてくれた方は、んぐむぐ、料理がお上手だ。このちくわとチーズのおかずなんて見た目から食欲を掻き立てる。栄養バランスも考えられている、息子への愛情を感じざるを得ないね。もぐもぐ、この卵焼きなど、んぐ、実に絶品だ。どことなく彼女の卵焼きと似ている」

「……その彼女はどうしたんだよ。中学生に飯タカんなくても、料理得意なんだったら、そいつに作ってもらえばいいだろ?」

「ああ。今朝振られてしまってな。もぐもぐ。彼女が夜勤明けでイライラしているのに、僕が働かずゴロゴロしているのが気に食わなかったらしい。むぐむぐ、難儀なことだ」

「あたりまえだろ⁉ てかおまえニートかよクソだなおい⁉」

「今はホームレスだ。事態はより深刻と言える。目下今夜の寝床に困っている。もぐもぐ」

「よくそんなザマでそんな偉そうにしてられるなおまえ⁉」


 膝の上に置いた弁当箱から上品な所作で食事を口に運び続ける葛谷だったが、ついに最後に残った卵焼きを口にする。


「んぐむぐ……ふう、ご馳走様。ありがとう少年、大変美味だった。作成者の方にも、お礼を伝えておいてくれたまえ」

「……別にわざわざそんなこ——」

「——ところで少年、君に訊きたいことがあるのだが?」

「まず人のセリフ最後まで聞けよ! なんだよ今度は⁉」

「どうして、こんなに美味しいお弁当を捨てようとしていたのかな?」


 それは至極当然な疑問。無駄に整った顔に腹が立つほど華やかな笑みを浮かべ、葛谷は少年へ問いかける。一方で疑問を向けられた少年は、ぎこちなく目を逸らした。


「……別に。あんたには関係ないだろ。そんなこと」

「関係はないが興味はある。疑問を抱えたままだと落ち着かない性分でね……それに、君にとっても話したほうが有益なのではないかな?」 

「はあ? 何を根拠にそんな適当なこと——」

「家族とうまくいっていないんだろう? もしくは、言い出せない秘密でもあるか」


 目を見開く少年。その反応に、我が意を得たりと葛谷は笑みを深くする。


「君のような成長期の少年が、昼食として与えられたであろう弁当を放棄する。その時点で不審だ。お腹が空いてたまらないだろうにね……さらに、僕のような見知らぬ男からその弁当を要求され、逃げるどころか素直に従う態度。僕の論理的な説得が功を奏したにしても、不用心だ。昨今の中高生は、執拗な危機回避教育を施されていると思っていたがね」

(こいつ、自分が不審者だって自覚あったのか)

「通常時では考えられない逸脱行為。原因はまあ大半が過剰なストレスだ。抑圧に対する反発こそが、規範から目を背かせる。もっと言うなら、コミュニティから断絶した人間のほうが、社会規範の心理的影響が弱い傾向にある。このお弁当、お母さんに作ってもらったんだろう? さっき自分でそう言っていたからね。お弁当ってのは実に手間がかかるもので、毎朝これを用意するなんてさぞ大変だろう。主婦の皆さまの苦労が偲ばれるが……それをわざわざ人目を忍んで、つまりは申し訳ないと思いながらも捨てざるをえない。これで家族との間に何らの確執も秘密もないなんて、そんなことはあり得ない。以上から考えるに、君は何かしらの強いストレスを抱え、かつそれは家族に起因あるいは関係する問題であり、しかも相談できる相手がいない。そうだな?」

「…………」

「それでも君は僕とのコミュニケーションに応じた。それは、君が無意識に他者との交流を欲していたからだ。それも、普段属するコミュニティとは遠い位置にいる『他人』との。何故かといえば、それは単純。君のストレスの原因が、君に近しいコミュニティに起因するものだから。だからこそ、君は無意識に『赤の他人』である僕との交流を経て、ストレスの軽減を図り——」

「——もういいよ」


 ペラペラと喋り続けた葛谷だったが、少年の低い制止の声を受けて口を噤んだ。そのまま何も言わず、真面目な顔で少年の言葉を待ち続ける。

 思いがけなく真剣な視線に居心地が悪そうだった少年は、諦めたように語り始めた。


「……本当に、大した理由じゃねえよ。ただ、昼飯は友達といっしょに学食で食うから、弁当まで食えないだけだ」

「ふむ? 不可解だな。お弁当があるのに、わざわざ学食で別に昼食を注文すると? 実は君はこのお弁当が好きではなく、親御さんにそれを言い出せない、とかかな?」


 少年は、黙って首を横に振る。


「いや、母さんの弁当は美味いよ。でも……なんつうか、ほら。この歳になって母ちゃんの弁当ってのもさ、なんかダセえじゃん」


 意図的に葛谷と目を合わせないように、視線を落としたまま、少年は自嘲するように薄く笑いながら続ける。


「周りがみんな学食なのに、ひとりだけ弁当ってのも居心地悪いしさ……母さんには、悪いと思うんだけど……まあなんつうか、そんな感じ。ほら、これで満足かよ? つっても、こんな話しても分かっちゃもらえないかもしれないけどな」

「ああ。まるで理解できないな」

「即答かよっ⁉ ……あんたほんとに、気遣いとかできねえのな」


 呆れたように溜息を吐く少年を横目に、葛谷はおもむろに腰を上げる。


「申し訳ないが、僕には君の感傷が理解できない。母の弁当を食べることの気恥ずかしさも、一人だけ別に昼食を取る気後れも、僕には無縁の感情だ。君の話を聞いての率直な感想は『なぜそんな些細なことを思い悩む必要があるのか』という疑問だけだ」

「……わかってるよ。くだらねえ悩みだって。でも……俺は…………」

「——だが、だからこそ興味深い」

「……は?」


 予想もしなかった返答に、呆けたように顔を上げる少年。その目の前に、ずいっと葛谷の顔が迫る。

 少年の目を覗きこむ、二つの目があった。ガラス玉のように無機質な瞳には、キラキラと輝く「好奇心」と、どろりと濁った泥水のような「執着」が混じりあい、溶けあう。

 悍ましいほどの狂熱に浮かされた瞳で、葛谷は少年を『観て』いた。


「『我々は他の人達と同じになろうとして、自分自身の四分の三を喪失してしまう』か。ああなるほど、自分自身を裏切ってでも孤独を避けんとする人が、確かにいるのだろう。僕には到底理解できずとも、確かにそれに理を見出し、利を得る人がいるのだろう。気にすることはないよ、少年。君がそうであったとして、それは何も間違っていない。否、間違っていることなんて、本来この世のどこにもないのだから」


 恐ろしいほどに甘く、聞き心地の良い声だった。

 語りかける言葉のすべてが欺瞞に満ち、それでいて母の胎にいるような、確かな安心感と愛情が身体の髄まで染み込んでいくような。

 葛谷文哉はプロのヒモである。そしてヒモとして最も重要な才能は「お喋りが上手いこと」だ。

 ただ話しているだけで人の心を掴み、そこにいるだけで自分にとって十分に得になる、と寄生先に思わせる力。

 天性の美貌。生来の美声。圧倒的な自己肯定感から来る自信に満ちた明瞭な語り口。豊富な知識量に裏打ちされた、斬新かつ理論化された極論。人の心に入り込み、魅了することだけに特化した、ある種のカリスマ性。

 その全てが、彼に、人類最高峰のヒモの才能を与えていた。

 まさにキング・オブ・ヒモ。ちなみに他の適正職業は詐欺師である。


「人はみな、己の自由意思に立脚し、自らの行動を決定している。そこには本質的に善も悪もなく、優も劣もない。ただ『違う』だけだ。そう、君は僕とは『違う』。君の意思決定には、僕には無いプロセスが存在する——僕は、それが何なのか知りたい」


 理解できないこと。それは、即ち進化の余地だ。未知を発見し、探求し、解明し、利用する。それこそが人の進化の道程であるならば、『未知を知る』ことこそが、人格の発展の第一歩。そして今、葛谷文哉は『未知』を見つけた。


「いま、君は、なにを、どのように思考している? ? 教えてくれ。君が何を想い、何に悩んでいるのか。君の悲しみ、君の喜び————君の心は、何色なんだい?」 


 鼻先が触れ合うほどの距離で、愛を囁くように、熱に浮かされた声で。葛谷の手が、少年の胸に触れる。それはまるで、その胸の奥にある『ナニカ』を求めるかのように。


「……わ、かんねえよ…………なに……言ってんだよ、あんた………っ?」


 なんだコイツは、と思った。少年は心の底から葛谷が理解できなかった。

 最初は不審者だと思った。中学生に土下座で飯をたかり、それを恥ずかしいとも思わないクズだと思った。だからこそ、こんな「どうでもいいヤツ」にだったら、自分の「どうでもいい悩みを吐き出した」って構わないと思った。

 息がしたかったのだ。このどうしようもない息苦しさから逃げるために、自分よりも明確に劣った人間に、この悩みをぶつけたかった。

 でも、こいつはなんだ? 恥知らずなクズのままの声で、全てを見透かす賢者のように語りかけてくる。相反する二つの像が、たった一つの形を結んだかのような、歪にして調和された人格。 

 心が拒絶に騒めく。同時に、その声を聴いていると、不思議と心が落ち着くのを感じた。

 葛谷は笑っていた。その笑みは、子の成長を願う父のようであり、手前勝手な探求にすべてを捧げる科学者のようでもあった。


「今はわからないならそれでいい。悩めよ少年。その苦悩が、君を大人にしてくれる」


 整った美貌。甘い声。優しい言葉。非の打ちどころがない聖者のようですらあるのに、その言葉が妙に歪で、継ぎ接ぎのような印象を受けるのは、やはり、


「そしていつか——君の心を、僕に教えておくれ?」


 少年を『観る』葛谷の目が、狂おしいほどの「好奇」の光に濡れていたからなのだろう。

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