3
ゆっくりと息を吸い込めば、口の中いっぱいに紫煙が広まり、心地の良い酩酊感が脳に染み渡っていく。さながら熱砂の中心で喉が渇きを訴えるように、ニコチン不足に悲鳴を上げていた脳が満たされ、潤っていく感覚。
人のいない寂れた公園のベンチでタバコをふかしながら、葛谷は思う。
(……嫌煙家とかいうレイシスト共この世からいなくならないかなぁ)
そして、同時にもう一つ思う。
「……飯、どうするかな……」
『e●ho』一箱五〇〇円。ミネラルウォーターすら買えなくなった男は、鳥や虫のフンが付着した小汚いベンチに踏ん反り返りながら、切なく腹の虫を鳴らしていた。
(……こうなってはしかたがない。適当に軽犯罪でも犯して留置所へ入ろう。その場で異常者の演技をすることで、精神病院への措置入院を狙う。そうすれば完璧だ。待っているのは税金でベッドと食事が提供される生活。前科がついてしまうが、差し引きでプラスといえるだろう。さて、となれば適当なコンビニで一暴れでも…………ん?)
倫理観の欠片もない計画を実行に移さんとしていた葛谷だったが、そこであるモノが目に留まった。
公園の隅に置かれたゴミ箱の前で、学ラン姿の少年が鞄から何かを取り出す。心なしか、その表情は暗い。加えて周囲の目を確認するようなそぶり。明らかに不審な様子だった。
(単にゴミを捨てるだけ、ではないな。いったいなにを……——ッ‼⁉)
少年が鞄から取り出したブツを見た瞬間、葛谷は驚愕に目を見開いた。
少年の手に握られているのは、弁当箱。蓋を開ければ、中身は口をつけた様子もなく、朝に親から渡されたであろう時と同じ状態でそこにあった。弁当箱を片手で持った少年は、ゴミ箱の上で弁当箱をゆっくりと傾け、中身をゴミ箱の中へと——
「——ちょおっッと待ったあぁ‼」
「——うおぉ⁉」
唐突な絶叫。飛び上がる少年。少年が怯んだ一瞬の隙をついて、葛谷は彼の手にある弁当箱へ飛びついた。
「……君、いま、この弁当を捨てようとしていたのか?」
「えっ、は? なに急に。誰っすか、あんた?」
「質問しているのは僕だ。先にそちらが答えたまえ。君はこの弁当を捨てようとしていた。そうなんだな?」
目を血走らせながら、万力のような握力で弁当箱を引っ掴む男。端的にいって「ヤバい奴」すぎる男に絡まれた少年は、恐怖を感じながらも、首を縦に振った。
「ふっ、そうか。それならばいい。僕は葛谷文哉。見ての通り、怪しいものではな
い」
(いや、怪しいどころかヤベェよ。誰だよ? なんで俺こんなのに絡まれてんの?)
わけがわからなすぎて軽く涙目になっている少年。一方、少年のことなど全く眼中にない様子の葛谷(←こんなの)は、少年の答えに満足そうな笑みを浮かべていた。
「君の質問には答えた。ところで少年、知っているだろうか。民法には無主物取得についての規定が置かれていてな。法律上、「所有者のない動産は、所有の意思をもって占有することによって、その所有権を取得する」ということになっている」
「え? なに言ってんの、あんた?」
「君にもわかるよう平易な言い方をするなら、「ごみは拾った人のものにしていい」ってことだ。そして肝心なのはここからだ。今、君はこの弁当を捨てたわけだ。さっき君は自分でそう言ったからな。そして、僕はこの弁当が欲しいと思っている。つまり、法律上この弁当はすでに僕のものというわけだ。さっさと手を放したまえ」
「はっ? いやちょっと待てよ、おかしいだろそんなの……」
「文句があるならば僕ではなく裁判所に言うといい。それでは失礼——」
「おれ、『弁当の中身』は捨てようとしたけど、『弁当箱』は捨ててないんで。持ってかれると困るんすけど」
今にも少年の弁当を強奪しようとしていた葛谷が、ぴたりと動きを止める。なるほど、少年が捨てたのは『弁当の中身』だけ。『弁当箱』は依然少年のものである以
上、葛谷が『弁当箱』ごと持っていく行為を正当化する根拠はなかった。
「…………ふむ。なるほど」
その事実に思い至った瞬間、葛谷は納得したように頷いて、
「……すいません。食べ終わるまで、待ってて貰えませんか?」
一回り以上年下と思われる少年に、恥ずかしげもなく土下座を敢行した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます