第2話 2日目~ 残留、そして・・・

 2日目

 

 午前0時

 目覚ましで起きて、放送室へ行った。鳥居領事は交信中だった。交信が終わって

「大使館の機能は、プサンの領事館に移りました。大使もそこに入りました」

という報告をしてくれた。どうやら、ソウルからプサンへの道は確保されているようだ。会田は、気がかりだったことが、ひとつ光明が見えた感じがした。


 午前3時

 会田は、TVやPCを見ながら、無線の入電を待った。そろそろバスがプサンに着いてもいい時間なのだが、じっと待っているのは辛かった。3時間待ったが、夜中なので、特に入電はなかった。鳥居領事と代わると彼は早速外務省に連絡を入れていた。現在の状況を確認する交信だった。どうやら、A国が反撃を開始するらしい。

 外の戦闘の音は聞こえなくなっていた。


 午前6時

 また交代の時間だ。鳥居領事から「バス5台が到着した」と報告を受けた。会田は満面の笑みを浮かべた。鳥居を抱きしめたいぐらいだった。気になっていたことが、ひとつ進展したのだ。250人は余裕で救難船に乗ることができる。後は、後発の2台だけだが、時間の問題だけと思われた。携帯電話は通じないので、2台が今どうなっているかは分からない。無事であることだけを願った。


 午前7時

 朝食は、非常食のカップラーメンだ。朝ラーは、会田がよくやる習慣だった。早寝早起きが体にしみついているし、学校に一番先に来なければならないので、家族と一緒に朝食をとることは難しかった。その代わり午後7時には退勤し、夕食は家族と共にとるようにしていた。


 午前8時

 会田が放送室にいる際に、入電があった。救難船は、港を離れるということだった。2台のバスは1時間待ってもつかないということで、あきらめたということだ。いつまでも港にいては、敵の目標になりかねない。会田は自分の家族を含め、100人の避難民が気になったが、いた仕方ない判断だとあきらめた。そこに、早めに目を覚ました鳥居領事がやってきた。そこで、外務省と連絡を取り合っていた。

「今日一日、救難機は福岡空港で待機しているそうです。バスと連絡がついたら、どこかの空港に向かうそうです」

会田は、これが最後の頼みの綱と思った。何とか無事でいてほしい。家族の顔が浮かんでは消え、消えては浮かびを繰り返していた。


 午前9時

 プサン領事館から朗報が入った。バス2台がプサン日本人学校に着いたとのこと。そこで、鳥居はバス2台の100名にプサン国際空港に向かうように伝えた。領事館のスタッフにも同乗を頼んだ。プサン国際空港はA国の管理下にある。鳥居は発着枠を12時に取り付けた。頼もしき仲間である。


 午前10時

 PCで日本のニュースを見ていると、一番救難機が福岡空港へ着いたことを伝えていた。政府の素早い対応をコメンテーターが誉め称えている。乗り込むまでのドラマは知らないようだ。


 午前11時

 韓国のTVは、戦闘の様子を伝えている。A国軍や韓国軍が必死に防戦をしているということを報道している。大統領府は、まだ占領されていないようだ。だが、大統領は避難したようだと報道している。いつの時代も政権トップは逃げだす。唯一、逃げなかった李氏朝鮮の仁祖は、南漢山城に立てこもったが、清軍に攻められ、持ちこたえることができず、清国の属国となってしまった。高句麗時代には勝利したことはあるが、勝利とは縁遠い国なのである。その点、今回の戦闘はあきらめることなく、健闘していると言えるかもしれないと会田は思っていた。


 午後0時

 100名の避難民は、無事救難機に乗り込むことができた。

「会田さん、やりましたよ。避難民500人。韓国脱出です」

「鳥居さん、ありがとうございました」

「なーに、それが私の仕事です。さて、我々はこれからどうしますかね?」

「私の仕事は、この学校を守ることです。どうなるかわかりませんが、最後まで仕事を全うします」

「さすが会田さんだ。どこか私に似ているところがありますね。そういえば、会田さんは学校で剣道を教えていらっしゃいますよね」

「はい、土曜日に10人ぐらいでやっています。一応5段です」

「私も一度稽古に行きたいと思っていました。元々警察官なので・・私は4段です」

「あなたの若さで4段ならすごいですね。私はあなたの年頃では3段でした。その頃ベルギーに赴任していて、ベルギー人と稽古していました。彼らは、力が強くて面を打たれると足の裏まで電気が走るような衝撃を受けた覚えがあります」

「韓国人もですよ。やたらと速くて力が強いんですよ」

と、剣道談義に話が弾んでいると、ガチャーンというガラスの割れた音がした。西側の公園側だ。前にも酔っ払いが石やビンを投げ入れてガラスを割ったことがある。しかし、今は戦時下だ。それも昼間では酔っ払いとは思えない。侵入者か?北の国か?

会田は、自分の机の後ろに置いてある木刀を持ち、鳥居には催涙ガス銃を渡した。銃の使い方は、鳥居の方が慣れている。

 1階に降りると、事務室にだれかいる。なにかごそごそしている。どうやら金庫を開けようとしているようだ。事務室隣の幼稚部のガラス戸が開けられている。そこを割って侵入したようだ。金庫の場所を知っているのは、学校の様子を知っている人間か? 侵入者がだれで、どんな武器を持っているか分からないので、事務室から外に出す作戦をとった。

 鳥居は、会田に目配せをし、近くにあるバケツを転がすようにさせた。会田は、バケツをとって自分たちと反対の方に投げつけた。ガチャガチャーンと、激しい音がして転がっていった。事務室にいる賊は飛び出してきた。マスクはしているが、会田はだれかすぐに分かった。昨日、校門前で騒いでいた施設設備会社の社長だ。手には刃渡り10cmほどのナイフを持っている。一人だけだし、相手は素人。鳥居は催涙ガス銃をためらいなく撃った。社長は目が見えなくなり、なりふり構わずナイフを振り回している。会田は落ち着いて相手の動きを見て、少し疲れたところで、右手首を木刀で叩き、ナイフを叩き落とした。そのナイフを足で蹴飛ばして、後は警察官出身の鳥居に任せた。鳥居は、腕を逆手に取り、社長をたたき伏せた。近くにあるロープで体をしばり、トイレの個室に閉じ込めた。警備室から工具をもってきて、外から錠をかけ、ソウル市警察に連絡しようとしたが、停電で電話は通じなかった。通じたとしても、戦時下では無理な話である。


 午後1時

 昼食は、携帯用おにぎりだ。アルファ米でできたもので、お湯をさすとおにぎりになるものだ。たまに食べると結構おいしい。トイレに閉じ込めた社長にも2個差し入れた。


 午後2時 

 避難民が福岡に着いたという連絡が入った。指定のホテルに入ったとのこと。一泊して、その後は外務省と相談して決めるということであった。会田と鳥居はがっちりと握手をして、喜びを分かち合った。


 午後3時

 PCで日本のニュースを見ていたら、避難民のインタビューが放送されていた。インタビューされたのは、安全委員会メンバーの堀越だ。避難の状況を聞かれて、

「避難所に集まり、私が所属していた日本人会の安全委員会が作った避難マニュアルにのっとって、スムーズに避難できました。私は最後尾のバスに乗ったのですが、交通渋滞で船には間に合わず、プサン空港で救難機を待ちました。バスに15時間以上乗ったのは辛かったですが、日本人会の仲間を救うためにがんばりました」

と話していた。

 まるで、自分が中心で避難活動をしたような言いぐさだった。会田と鳥居はあきれた顔をして、お互いの顔を見合った。安全委員会の会合では、前向きな発言は一切なく、ケチばかりつける人だったからだ。それに、最後尾のバスに乗ったのは堀越の意志ではなく、単なるくじ引きの結果だったのだ。

 世の中にはこういうお調子者がいるということだ。と、あらためて会田は感じた。いずれ日本人会の安全委員会が再開されても堀越は出席しないだろうと思った。

 樹里もインタビューを受けていた。

「皆さんのおかげで、避難できました。でも、まだソウルに残っている日本人がたくさんいます。ソウルに残っている皆さん、もし、このニュースを見ることができたら諦めずに耐えてください。きっと助かりますから」

 樹里の後方に、会田の家族がおり、会田は少し涙を浮かべていた。


 午後4時

 韓国のTVに大統領が出演した。どこにいるかは明らかにされなかったが、国民に

「落ち着いて行動してください。むやみに移動すると混乱するので、近くの避難所に隠れてください」

と訴えていた。今さら、そんなことを言っても遅いと会田は思った。戦闘から30時間以上経過しているのだ。それに、後で分かったことだが、この時大統領はプサン近郊のA国軍基地にいたということだ。戦闘終結後、大統領弾劾の声が上がったのは言うまでもない。


 午後5時

 もうじき戦闘が始まって、2回目の夜がくる。会田は校舎内巡視をして、トイレに閉じ込めた社長に乾パンとペットボトルの水を差し入れた。すっかりおとなしくしていた。ふだんは、気の良いオヤジみたいな人なのだ。


 午後6時

 無線機に小関校長が出た。福岡空港から羽田空港へ行き、外務省に報告に来たということであった。そこで、二人がまだ学校に残っていることを伝えたら、任務解除をするように指示されたとのこと。

「会田教頭先生、任務ご苦労さま。学校保全の任務を解きます。日本に戻ってきてください」

 その命を受け、会田はやっと帰国することを考えた。しかし、どうやって帰る?

鳥居領事の車はあるが、自家用車で外に出るのはリスクが大きい。ここにいた方が安全なのだ。すると、外務省の上司が鳥居領事に命をくだした。

「A国と協議の結果、ソウル日本人学校はA国の管理下に入ることになった。漢江南側に野戦病院を作るということで、日本人学校がその候補地となった。明日、ヘリコプターで医師や看護師、資材が届けられる。その中には日本人も数人いる。そのメンバーに二人の任務を移行することとする。無線機と学校の鍵は、その日本人に引き渡してほしい。二人は、そのヘリコプターでプサン空港まで運ばれる。その後は、プサン領事館で待機してほしい」


 午後7時

 会田と鳥居は最後の晩餐と称して、避難物資の中で一番うまいと思われるハンバーグを食した。真空パックに入っているハンバーグはおいしいとは言えないが、結構それなりの味を感じることができた。アルコールで乾杯したいところだが、さすがに避難物資にアルコール類はない。会田のアパートまで行けばあるが、たとえ往復10分の距離でも、学校から抜けるわけにはいかなかった。

「会田さんは、どうして教員になったんですか?」

鳥居は会田に興味を感じていた。

「うーん、剣道をやっていたからですかね。それに高校時代は、結構やんちゃで担任や部活の顧問にずいぶん迷惑をかけました」

「えー、そんな風には見えないですけどね。まじめ一方かと思っていました」

「やんちゃと言っても大したことないですよ。単車を転がして、警察に捕まった程度です」

「ゾクだったんですか?」

鳥居は、目をまん丸にして会田に聞いた。

「ゾクに入っていたわけじゃないですよ。ほとんど単独です。ゾクと張り合ったことはありますが・・・」

「へぇー、意外だな。それで教員の道ですか?」

「成績も悪くて、地元の大学に入れず、東京の夜学に入りました。そこは珍しく小学校の教員免許がとれるところだったんです」

「たしかに夜学で小学校の教員免許がとれるのは珍しいですね」

「それで、昼間に大学の図書館で働き、夜に授業を受けました。朝9時から夜9時まで大学にいました。それを4年間続け、教員免許を取りました。地元に戻って、小学校の教員になったら、部活の顧問だった先生が町の教育長になっていて、(小学校に剣道教室を作るからおまえやれ)と言われ、子どもたちに剣道を教えました。その時3段を取りました。3年目に町内の剣道大会で子どもたちを優勝させて、教育長先生に(よくやった。これで罪滅ぼしだな)と言われました」

「剣道が導いてくれたということですね」

「そうかもしれませんね。その後、海外日本人学校への赴任を希望して、30才でベルギーに行きました。そこで、デカルメ氏に会いました。当時、4段でベルギー代表チームの大将でした。最初の稽古の最初の技が、突きでした。強烈でしたね。デカルメ氏が休みの時は、3段の私が上位だったので、ベルギー人に私が指導したこともあります。初歩的な日本語は通じたので、何とかなりました。貴重な体験でしたね」

「デカルメという名前は、世界剣道大会で聞いたことがあります」

「今は6段で、ヨーロッパ剣道連盟の会長です」

「あのひげ面の大きい目をした人ですよね」

という鳥居の発言に、会田は笑って

「そうですよ。当時の日本人の子どもたちはデカルメ氏のことをデカイメと言っていました。そう言っても返事をしてくれるので、日本人だけが笑っていました。ところで、鳥居さんは、どうして警察官なのに領事をやっているのですか?」

今度は会田が鳥居の身の上話を求めた。

「私ですか。会田さんほどドラマチックじゃないですよ」

「そんなこと無いでしょ。外国に来るというのはふつうじゃないですよ」

「まぁ、そうですけどね。私は筑波大学で剣道をやっていました。高校の教員になるつもりでした。ですが、大学3年の教育実習で挫折しました。自分の教えることがうまく通じないんです」

「生徒にもいろいろいますからね。優等生だった学生の中には、教育実習で挫折する人も結構います。鳥居さんだけじゃないですよ」

「それで、国家公務員試験を受けました」

「それって、上級ですよね。すると鳥居さんはキャリアですか?」

「世間ではそう言いますね。それで警察庁に入りました。研修で交番勤務もしましたが、実際は国家公務員ですから、警視庁の警官ではありません。3年ほどやりましたが、内部はややこしくて、その時募集があった外務省出向へ希望を出しました。そうしたらソウル派遣だったのです。こっちの方がやり甲斐があるしおもしろいですね」

「すごい人だったんですね」

会田は、畏敬の念を持って鳥居の顔をまじまじと見た。大使館では下っ端の方で、雑用係みたいなことばかりしていたからだ。

「まるで過去の人みたいに言わないでくださいよ」

という言葉に二人は笑い合った。

 その夜、学校の北側、漢江方面で多くの爆発音が聞こえた。北の国とA国が漢江をはさんで戦っているのは明白だった。会田は、漢江の北側に住んでいる多くの日本人のことを思っていた。戦乱に巻き込まれているのではないか? どこかに避難して困っているのではないか? 自分が助かっていいのかと考えているうちに寝入ってしまった。


 3日目

 

 午前6時

 朝とともに3機のヘリコプターがやってきた。兵士もいれば医師や看護師もいる。体育館には多くの簡易ベッドが設置された。すると日本人らしい医師が会田と鳥居に近づいてきた。

「医師長のケン・キムラです。防衛隊では1尉でした。今はA国陸軍に出向中です。お二人の任務お疲れさまでした。学校の鍵と無線機を受け取るように聞いておりますが、そちらの無線機を使うことはありませんので、鍵をかけておいてください」

そこで、放送室に鍵をかけ、学校の鍵一束をキムラに渡した。戦争が終われば、学校は日本人会に戻されるということだったが、どういう状態になって戻ってくるかは未知数だった。そして会田と鳥居は、プサンに戻るヘリコプターに乗り込んだ。キムラは最敬礼で二人を見送っていた。

 プサンへ向かう途中、高速道路はいまだにすごい渋滞だった。車を捨てて歩いている人たちもいる。ところどころ、煙が上がっているところがあった。近距離ミサイルで狙われたところらしかった。


 昼過ぎには、プサンの領事館に到着した。翌日に港から高速船で博多に行くということであった。プサンでは爆発音もなく、二人は久しぶりのベッドで熟睡した。ただ寝る前にトイレの個室に閉じ込めておいた社長の存在を思い出した。無線で問い合わせてもらったところ、変な男がトイレにいたが変質者ということで解放したということだった。社長もA国の軍隊がいるところにはもう忍びこまないだろう。もっとも事務室の金庫には帳簿が入っているだけで、現金や通帳は事務の中山が持ち出していた。校長室の金庫には学籍関係の書類があるだけで、金目のものは校内にほとんどなかった。PCでさえ、日本人向きのものだから韓国人には価値がない。


 4日目


 翌日、高速船で博多に着くと、会田の家族が待っていた。何も言わずに4人で抱き合った。4人で、ゆっくりしたいところだったが、ニュースでは戦乱は収まり、北の国は戻っていったことを報道していた。明日には、ソウルへ戻ることになると会田は告げられた。会田は一夜だけ家族と水いらずの時を過ごした。会田は福岡にある天ぷらチェーンの揚げたてが好きだった。安くて上手いというのが評判だったし、付け合わせのイカの塩辛が絶品だった。店に行くと必ずお土産で買い求めていた。

 その日の夜、

「あなた、無事で良かった」

妻の香代子は半分涙を浮かべて話し始めた。

「香代子こそ、子どもたちをよく守ってくれた。ありがとう」

「子どもたちは、立派だったわ。江里はバスの中でもみんなを励ましていたわ。南ソウル空港が攻撃されて使えなくなったと聞いた時も、みんなに希望を捨てちゃだめ! と一番先に言っていたのは江里だったのよ。運転手のイ氏も(そうだ。そうだ)と日本語で応えてくれていたわ。トイレ休憩をして、バスの人数確認をする時は、慎一が率先してやってくれたわ。ガードマンのアン氏も頼もしげに見てくれていたわ。さすが教頭先生のお子さんだと言っていたわ」

「オレと香代子の子どもだよ。オレだけの子じゃない」

 香代子は会田の2才年下だ。会田が2度目に赴任した学校で、養護教諭(保健室の先生)をしていた。1年間、同じ学校で勤務した後、香代子が転勤した時に、会田が交際を申し込んだのだ。交際1年後に結婚して、その後二人でベルギーに赴任した。海外赴任は配偶者同伴が原則だったからだ。

 子どもができるのは遅くて、ベルギーから帰国して4年後、会田が36才の時だった。ベルギーで子どもを作るのは難しいと思われた。言葉がフランス語だったし、出産して2日後には退院させられるとか、出産時に医学生が大挙して見学に来るということだった。蒙古斑が珍しいのだ。そんなかんなで、子作りするタイミングを外してしまい、遅く子どもを作ることになった。それでも、育休中に二人目を出産し、香代子はその後、退職を選択した。会田が管理職で海外赴任を希望していることを知っていたからだ。会田は、香代子に自分の子どもたちを日本人学校に入れたいと希望を伝えていた。日本人学校での緊張感のある学習環境は日本では望むべくものはなかったからだ。日本の地方の学校で上位レベルにいても、日本人学校では中の下レベルの学力なのだ。香代子も会田の考えは理解していた。実際、この2年半、二人の子どもたちは充実した学校生活を過ごしていた。全国から派遣されてきている教員は、ユニークで熱心な人たちだった。特に、北海道から派遣された教務主任の山川は数学とPCに精通しており、中1の数学の授業に慎一はとても興味をもっていた。ソウル日本人学校の通知表をデジタル化したのも山川の力だった。

 久しぶりに会田の腕枕で香代子は寝ることができた。会田は、家族の安心した顔を見て幸福感を味わっていた。

 戦闘は4日間で終わった。A国も北の国まで攻め入ることはしなかった。戦力的にも充分な準備ができていなかったということもあるが、ヨンサン区にあるA国軍基地が被害を被ったので、その影響が大きかった。それに、もうひとつの大国C国が調停に入って、またもや休戦状態になりそうな雰囲気であった。


 5日目


 小関校長と会田は、高速船でプサンに渡り、A国のヘリコプターでソウル日本人学校に戻った。そこに生き残った日本人が多くやってきた。日本人学校の教員やその家族も含まれていた。マンションの避難所や地下鉄の駅構内に隠れていたとのこと。ソウルの地下鉄は地下5階よりも深いところにあり、空襲に耐えられる構造になっていた。それでも、食糧や水の確保には苦労したようだ。教務主任の山川は、家族で自宅のマンションに戻り、停電の中、手回しのジェネレーターで発電をして、最低限の電力を確保したとのこと。マンションの近くでは戦闘の音が鳴り響き、寝付けなかったということだが、狭い避難所で寝場所を探したり、飲食物を手に入れる苦労を考えるとマンションの方が気楽だったということだ。

 日本人学校の体育館にはA国が残していってくれた簡易ベッドがあり、臨時の避難所となった。避難物資も1000人分残っており、何とか全員に行き渡った。そこに鳥居領事がやってきた。鳥居はプサンにとどまり、大使館員と共にソウルへ戻ってきたとのこと。

「会田さん、車を取りにきました。また来ますが、無線機をよろしく」

と最敬礼ならぬ剣道の素振りを手で示して去っていった。会田も小手撃ちの素振りをして返した。いつの日か、剣を交えることがあるだろう。


                               完

                         2023.4.14

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韓国脱出 飛鳥 竜二 @taryuji

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