終わり〜天中殺の刻

 長野県某山、その中腹部にて。

 数名の力自慢によって担ぎ上げられながら、棺はゆっくりゆっくり移動させられていく。

 そしてその音頭を取っているのは、勿論大長老であった。

「ふむ。」

「……大長老、いかがいたしましたか。」

「いや、少し、進行が遅れていると思うてな。薬剤師に対して使者を送り、アイビーにも監視隊を送ったは良いが、余り芳しい成果を挙げられてはおらぬ。後者に関しては、到着時既に、宮畑優が消えていたようであるし。」

「気掛かりですか。」

「そうだ。何かしらの入れ知恵を受けた宮畑優がここに現れる。それ程厄介なことは無い。あれ程徹底的に心を折ったのだから、すぐに行動することは無いと思うが……。」

 杖を突きながら彼は、一息つく。

「老体には響くだろう。」

「呵呵、貴君の様な若人に心配される程、儂は衰えておらんわ。」

「ジェラルド殿、発言には気を付けてください。」

「雇い主たる大長老は兎も角として、長老である貴様が、我に釘を刺すか。」

「……。」

「やめんか。その様な雑音は、作戦の遂行を鈍らせる。」

「そうか。ならば我は、哨戒に戻る。」

「そうしてくれ。」

 さっと山道から飛び降り、隊列の後方へ向かうジェラルド。

 その背中を眺める長身痩躯の長老は、忌々しげな表情を浮かべていた。

「大長老。」

「なんだ。」

「我ら長老に対するジェラルドの態度には、疑問が浮かぶぞ。何故あの様な狼藉を許す。」

「それが、あの男だからだ。儂が口を挟んだところで、奴の考えは曲がらん。」

「だからと言って!」

「気を沈めるが良い。貴君は偉大なる長老だ。それを忘れるで無いぞ。」

「……御意。」

 誰一人として口を開くことの無い静寂が、辺りを支配する。

 聞こえるのは、足を前へ前へ踏み出す音だけ。

 大長老の前には、森が。後ろには、あの女を封じた棺桶が。

 そして、百鬼たちの隊列が続く。

 統括され、完全に支配された、長老会の兵士たち。

 彼の中に、微かな優越感が生まれている。

「……呵呵。」

 そう、あと少しで作戦が成功するのだと。感じていたまさにその時だった。

「ぐぅっ!」

「がああああっ!」

「な、何があった!」

 爆発音と悲鳴が。足元の崩壊と共に、彼らを襲ったのである。

「地滑りか⁉︎土砂崩れか!……いや。」

 大長老は、必死に眼球無き眼孔を巡らせ、周囲を確認する。

 そして、見つけた。

「おのれぇ、宮畑!」

 僕と、眼が合う。

「優ぅぅぅううう!」

「ひっ。」

 大地を揺らすような唸り声。

 僕の手元から投げ捨てられた一つの霊薬は、炸裂音と共に、百鬼たちの立つ土台を破壊した。

 だが、これだけでは足りない。

 僕は、百鬼たちの手を離れ、斜面を滑り落ちる棺に近づかねばならないのだ。

「棺を!棺を回収せよ!」

 流れ降る土砂と共に、大長老は叫ぶ。

 同時に、数十名の百鬼が、姿を現した。これが、『統括権』の力だろう。

「な、なんとでもなれー!」

 僕は、彼女から渡された霊薬を飲み干す。

 そして、彼らに負けじと斜面へ飛び込んだ。

「よし!」

 棺桶が滑ってくるであろう場所で僕が待ち伏せていたのもあるが。僕は、なりふり構わず走り抜け、そして大質量のそれを手にする。

 しかし、勢いが止まることはない。

「うわあああああ!」

「何をやっている!」

 聞き覚えのある男の声。筋骨隆々とした赤肌の百鬼が、迫る。

 ふと前を見れば、その先にあるものは大木、そして河原だった。

「ぶつかるー!」

「離せ人間!棺桶をこちらに渡すのだ!」

「嫌だ!渡さない!」

「何を馬鹿なことを!」

 数秒も、この状態は保たない。

 先ほど飲んだ霊薬。硬化の霊薬。僕は一定時間だけ、表皮が鎧のようになっている。

 でも、それだけじゃあ棺をどうこうできるわけじゃなかった。

「!」

 メリメリ、という嫌な音が木から響き、そして、僕は勢いのまま空中に投げ出される。

「うあっ。」

 そのまま、地面に叩きつけられ、大きな衝撃を僕は感じた。

 いくら身体が固くなったとはいえさ。これ、骨か何か逝ってるんじゃ無いかなぁ。

 でも、そんなことは考えてられない。

 僕は混乱をきたしたまま周囲を見まわし。

「空様っ!」

 川の中に投げ出された棺桶を見つけた。

 走れ、走れ。そして、身を委ねよう。

 一本。まず僕は、白濁色の霊薬を飲み干す。

「あぁ!あそこだ!何かを企んでいるぞ、絶対に近付けさせるな!」

「皆の衆も出撃せよ!宮畑優を取り押さえるのだ!」

 四方八方から、山の中から、河原の辺りから、声が響いた。

 いや、そんなことはさせない。

 僕は、強烈な酸を出現させる霊薬を、後方に投げつける。

「ぐぎゃあああああ!」

「あ、ぐぅ……。」

 どうなっているかなんて、確認してられない。

 あと、数メートル。

 二本目、僕は青紫色の液体を飲み干す。

 そして、何だか、周囲の意識に溶け込むような。不思議な感覚が、僕を襲い始めた。

 霊薬の効能だろう。

 棺を掴め。

 僕は、思い切り手を伸ばし。

「待て。」

 あと、数センチというところで、黒鎧の男に、腕を掴まれた。

「……ジェラ、ルドさん。」

「雨が降ってきたな。この様な山奥に、一人で来たのか。それも、その様な物騒なものを多数携えて。貴様の爆薬で、百鬼の半数が地中に埋まった。先ほどの酸で、数名が溶解した。今も、他の百鬼が貴様に近づいてきている。」

「邪魔しないでください。」

「一つ聞きたいのだ。」

「はい。」

「貴様は、何を望んでいる。」

「空様との対話です。」

「……。」

 兜の隙間から覗く眼に光が灯る。

 彼は、何を思っているのだろうか。

「ジェラルド。犠牲は多かったが、よく捕まえた。」

「大長老。」

 ゆっくり。彼は、木々の隙間から現れた。

「貴様は、元より長老会では無い。」

「そうだが。」

「ならば、判決官たちも見逃すだろう。この人間を、斬るのだ。」

「!」

 僕は、老人の方へ顔を向ける。

 この百鬼は、誓いを破ろうとしているのだ。

「ほう。そうして罪に問われるのは、我だ。もし判決官が例外とは見做さないと結論付けた場合、我が封印措置を受けるであろう。それが分かっているのか。」

「だが、そうすることで百鬼夜行は守られる。分の良い賭けだろう。」

「処分すると言うのであれば、貴様がすれば良い。」

「そうすれば、誰が長老会を導く。貴君がやるのか?空の後塵を廃した傭兵が。一度、貴君は組織の長たる座を手放したであろう。儂でなければ、長老会は導けぬ。」

「……。」

 そして、彼は剣を抜いた。

「ジェラルドさん!」

「宮畑優。先程の言葉を撤回する気は無いな?」

「あなたが、行動しろって言ったから!」

「そうだ。その通りだ。」

「僕は、やるべきことを貫徹したいです!」

「言わずとも分かる。」

「くっ……。」

 剛直、冷徹。彼の剣は、僕の方へ向けられている。

 僕が何を言っても、その切先の向きが変わることなど無い。

 そうか、これが傭兵なのか。対価さえ支払えば、どのような仕事でも。

「大長老。」

「なんだ。早く、その剣を振るうが良い。」

「やめ――」

「さらばだ。」

 刃は弧を描き。僕の鼻先を掠め。

「!」

 彼の。大長老の、脇腹へとめり込んだ。

「ぐ、ぐぉぉおおお!」

「ふんっ!」

 そしてそのまま、杖ごと大長老は両断される。

「傭兵が、裏切るの、かぁ!」

 ごとり、地面に倒れ込む老王。その視線は、僕ではなく、ジェラルドの方へ向けられている。

「寝言は、寝ている間に言うものだ。我が、貴様から一銭でも受け取ったか?黒き炎の君からは、既に多くの対価を得たがな。」

「……。」

 大長老は悟る。そうか、あの時、ジェラルドが報酬の決議を後回しにしたのは。

 仮に裏切る場合、傭兵としてのプライドを汚すことが無いようにするためだったのだ、と。

「貴様のやりたいことは、大体その薬箱で理解した。さぁ、棺にその身を預けろ、宮畑優。」

「……は、はい!」

「ジェ、ラルッドォ……!」

「脇役はどこへでも行くが良い。我も続こう。」

 彼は、大長老の蠢く半身を、河原の向こうへ投げ捨てる。

 そして、その姿を収めながら、僕は意識を棺の中へ潜らせた。

 目覚めるとそこは、真っ暗な闇の中に、小さな湖がある、そんな空間だった。

 闇の方に眼を向ければ数メートル先の床すら見えない。なのに、湖は奥底から照らされていて、何故か輝いている。

 そんな、不思議な場所。

 その中心に、彼女は居た。

「空様!」

「フフ、はい。もしかしたら来てしまうかも、と思っていましたが。」

「そんな、何も話さずにことを進めてしまうなんて、ダメですよ!」

「……。」

 彼女の様子は変わらない。その眼は、光すら逃さぬような暗闇を湛えている。

「全て、聞きました。」

「……全て。」

「空様が、僕のことを好きだったこと。」

「成る程、それと、何を?」

 こうなったら、全部ぶち撒けてやろうといった雰囲気である。

「空様が、ぼ、僕を。食べたいと思っていた、こと。」

「はい。」

「空様が元は、人間、だったこと。」

「はい。」

「そして、空様の名前が本当はその、空……。」

「覚悟も無く声に出す必要はありませんよ。」

「……すみません。そう、それと、僕のことをここ数日のみならず、十年間守り続けていてくれたこと。」

「……。」

 そう、そんな空様を僕は許せない。感謝されて然るべきことをやっておきながら、感謝されるべきで無いとでも言いたげな様子で彼女は佇んでいるのだ。

「空様は、それらを言わず、こんな場所に閉じ込められることを選びました。そんなの、ダメです!」

「ダメなの、はあなた様の方ですよ。」

「え?」

 気づけば彼女は、僕の眼の前に立っていた。

「仮に、私があなた様を襲えば。あなた様は、逃れられない。」

「そう、ですね。」

「全ての内情を明かされた捕食者が、それでも我慢し続けると、あなた様はお思いなのですか?」

「……。」

 彼女の手が、僕の顎へ伸びる。

「私が、このような選択を取った理由。説明されているか、されていないか。誰が言ったのかは分かりませんが。わざわざ口に出さずとも分かるでしょう。今、私の体内で煮えたぎっている感情を、あなた様はどのように処理なさるおつもりですか?」

「……煮えたぎっている、感情。」

「あなた様は、私の想定以上に残酷なお方ですね。私がこうして身を引いたのに、それでも現れようとするとは。」

 そんなに、私の胃の中に収まりたかったのですか?

 彼女の吐息が、耳元にかかる。

 何か、やばい予感。いや、でもだ。何も言わずに去ったら、こんなことするよ僕は。

「確かに私は、薬剤師とウラヌスさんを頼れ、と言いました。それに、ジェラルドさんにも幾つか頼み事を。」

「何を対価に?」

「私の血を少々。彼は、吸血を行う百鬼なのです。」

「そうなんですね……。」

 どことなく紳士的なのは、吸血鬼のイメージに合っているが。圧が若干強いところも。

「ともあれ、そのアドバイスがこのような方向へ向かわせてしまうとは。」

「いや、違います。」

「違う、とは?」

「これは、誰かにやれと言われてやっているわけじゃありません。やりたくて、やってるんです。確かにジェラルドさんに発破はかけられましたけど。それでも、最終的に決めたのは僕でした。」

「……。」

「こんな、消えてしまおうと言うのなら、せめて全て話して欲しかった。僕も、空様のことを信頼しているし、尊敬しています。そんな僕を置いていくなんて、空様こそ残酷な人です!百鬼じゃありません、人です!」

 僕が彼女を愛しているかは、正直分からない。だって僕視点じゃ出会って数日だし、関係性があまりに複雑すぎるもの。

 でも、いや、だからこそ、彼女と今すぐにお別れ、ということは受け入れ難い。

「ふふ、そうですか。」

「はい。」

「……あー……。」

「!」

 血飛沫が、僕の頬を赤く染める。

 何が起こっているのか、僕には分からなかった。

 いや、この経験は一度ある。彼女が、指を切り落とした時だ。

 ……でも、今回は。何かが違う。

「ぼ、僕の……。」

「ん……んぐ。ふ、成る程。こういう、味だったのですね。」

 彼女は、僕の肩肉を噛みちぎっていた。

「い、いだいいっ。」

「おかしなことを仰いますね?こうなることを覚悟してここへ来たのでは無かったのですか?」

「ぐ。うぅ……。」

 僕は蹲り、肩を抑える。

 不思議と痛みは薄かったが、何か風穴が空いたような感覚があって、気持ち悪い。

「私が今、すぐあなた様の頭を頬張らなかったのは、あなた様に最後のチャンスを与えたかったからです。」

「ちゃ、チャンス……。」

「今すぐに、私の意識から出ていってください。事情をあなた様は理解しているのでしょう?ならば、あなた様は、私と共にあるべきで無いことも理解しているはず。長老会は、あなた様が彼らに近づこうとしない限り、手を出さないでしょう。静かに、百鬼と縁の無い幸せな生活を送って欲しいのです。」

 鮮血を拭き取りながら、彼女はそう言って笑った。

「い、いやっ。」

「……。」

「違い、ます!」

 遅いくる吐き気。重圧。ここは空様の中なのだから、当然かもしれない。排他的な圧に晒されながら、口を開くしかないのだ。

「何がですか?」

「何度も言ってるじゃないですか!僕は、空様が仮に僕を食べようとしているとしても、こんな結末になるのだけは嫌なんです!」

「近い内に、私はあなた様を喰らってしまう。それでもですか。」

「そうです!十年僕を守り続けたあなたに食べられるならもう、それでも良いです!でも、数百年、百鬼夜行を止めるために戦った、そして、その後も人間の為に戦ったあなたが、こんな終わりを迎えるなんて!」

「もう、その頃の私はいません、けれどね。」

「その頃の私はいない……?」

 僕は、首を傾げる。

 気が付くと、僕と空様の足元は、沼のようにぬかるんでいた。

 だんだん、身体が沈んでいく。

「こっ、これは?」

「私が抑え付けていた欲望の数々です。今にもあなた様を飲み込もうとしています。」

「……それで、さっきの言葉の意味は。」

「私は確かに、百鬼夜行が一時的に凍結されるまで、英雄と呼ばれるに値する活躍をしたのかもしれません。そのお陰で、人間の発展や進化が純粋な暴力によって阻害されることは無くなりました。ここ数十年のあなた様方の活躍には、眼を見張るものがあります。」

「……。」

「しかし、この空白の中で、私は変わってしまいました。百鬼を殺すために、百鬼のいる戦場へ向かう。百鬼を喰らう為に、進んで面倒ごとへ首を突っ込む。最終的に、自分を見失った私の姿は、まさしく黒へと変わったのです。」

「黒。」

「その中で、私は行き着く場所を見つけました。それが、あなた様です。」

 九十年もの空白。ウラヌスさんとの時間。その先には、僕が居た。

「私は、終わりを見失っていました。何分、私を終わらせられる百鬼がこの世界に居なかった上、終わる理由も見つからなかったので。でも、あなた様を一目見た時。思ってしまったのです。あなた様を食べたい、と。それは、私が何よりも嫌った人間を食い漁るだけの凡百の百鬼どもと同じ思考でした。」

「百鬼の捕食欲。」

「ふふ、しかし、百鬼を取り込んだ程度で考え方が変わる程私もヤワではありません。元より狂っていたのでしょう。共食いの素養があった、ということです。」

 血を垂らしながら言われると、説得力があるな。

「ただ、この事実は悪い事ばかりじゃありませんでした。つまり私は、消えるべき存在だということが確定したのです。ならば、そうしよう。来るべき時に、消える。そしてそれまでは、あなた様を守ろう、私が食べたくても食べられない存在を、他人に取られてなるものか、と。」

「ハハ。空様は、独占欲も凄まじかったんですね。」

「そうですね。あなた様の足元に蠢くぬかるみで、飲み込んでしまいたいと思う程に。」

「……それで、今日、その時が来たと。」

「はい。大長老たちの計画、それは元よりなんと無く把握していました。ならば、それに合わせてあなた様を救うと同時に、消えたい、と。そして思い描いていた通りです。彼らは、私を封印するに足る材料を持ち出すと同時に、あなた様の平穏を約束してくれた。……のに。」

「僕が来てしまった。」

「そうですね。こうして、会話しているだけでも結構大変なんです。早く、この場所から立ち去ってください。」

「……。」

 彼女の立ち振る舞いを見ている限り、言っていることは本当だ。今にも飛びかかって、僕を喰い散らしたい。でも、それは許されないのだ、と。

「だけど、です。」

「……。」

「僕は、譲りません。あなたが堕落した英雄であろうと、なんだろうと、こんなことは許せません。現世に帰りましょう。空様が目覚める選択を取れば、全てが解決します。」

「全てが?何も解決しません、振り出しに戻るだけですよ。いえ、私が更なる堕落の一途を辿る以上、マイナスとも言える。あなた様はまず、生きて家には帰れない。」

「話が平行線ですね。」

「結局のところ、私も、あなた様も、譲らないでしょう。」

「それなら――」

 僕は、ぬかるみを振り払いながら駆け出す。

「空様ーっ!」

「?」

 そしてそのまま、抱き着いた。

「……。」

「ふふ、空様って、こんなに固いんですね。」

「どんな身体をしているかは、あなた様もご存知でしょう。」

 ざぱん、と波を立たせながら、彼女は上がっていく。

 力強く踏み込まれた足跡だけが、水底に残った。

「もう、このままどうしようも無いなら、僕はここに残り続けます。」

「……。」

「仮にあなたに食べられるとしても、もう良いです。一度あなたと離れた時は、絶望すら覚えました。その反動かもしれません。こうやって顔を合わせたら、もう、この手を離したくなくなってしまいました。」

「自暴自棄ですか?」

「そうかもしれません。でも、それは空様もですよね。堕落する自分を見ていて、自棄に走った。なら、僕も同じことをします。どうせ、あなたがいなかったら十年前に失われている命です。こうやってあなたに捧げても、同じこと。」

「……ふう。」

 それじゃ、私の行いの意味がなくなってしまうじゃ無いですか。そう言いたげな溜息。

 でも、そして開かれた眼には慈愛が浮かんでいた。

「どうしてでしょうね。」

「何がですか。」

「私の眼には、あなた様が何者よりも愛おしく思えるのです。私がここまで堕落したのは、あなた様のせいなのですよ?愛というものは無論、既に理解しているものでした。でも、あなた様に抱いている感情は、そのような言葉で言い表すことも烏滸がましい、負の感情です。」

 彼女の周囲を、黒い炎が取り巻く。

「あなた様を食べたいと思ったことも。あなた様を愛したいと思ったことも。あなた様を抱きたいと思ったことも。全て、私を堕落させるには十分なものでした。これ以上の欲望を、私は味わったことなどありません。」

「すみま、せん。」

「謝る必要は全くありません。仮に謝るというのなら、その名前を告げただろう薬剤師に。」

「……?」

「もし。」

「はい。」

「ある二つのお願いを聞いていただけるのなら、私は再び現世に舞い戻ると致しましょう。」

「ほ、本当ですか!何でもやります!」

 咄嗟に何でも、なんて僕は口走る。彼女は、ご機嫌だった。

「まず一つ目。私の食欲を抑える方法についてです。」

「……はい。」

「これは出来るだけ、選びたくない方法でした。あなた様を傷つけるくらいなら、私が消えるべきだと思っていましたから。」

「他に方法があるんですか?」

「仰る通りです。しかし、その為には、あなた様の眼球が必要になります。」

「あぁ……。」

 僕を食べようとする欲望を抑え込むんだもんね。そういうものも必要になる場合があるわけか。

「提供してくださいますか?」

「勿論です!」

「……そうですか。てっきり、断られるものとばかり。」

 彼女は、心底驚いたような表情を浮かべる。

 まぁ、普通は断るよ。でも、今は普通じゃないから。

「そして、もう一つ。……私の耳元で。私の真の名を囁いてください。そして、すぐにこの場から避難してください。何が起こるのかは、眼を覚ました時に分かります。」

「この場から避難……。」

「絶対にそうしてください。」

「信じて、良いんですか?」

 もし、これで彼女が戻らなければ。彼女を取り戻す手段は無くなるに等しい。

 それだけが気がかりだ。

「大丈夫ですよ。全て、どうにかなります。あなた様がそうやって、心の底から私に命を捧げる覚悟なら、私もまたあなた様の為に命を賭けましょう。」

「……。」

 信じるべきか。僕は迷う。

 ただ、そうだ。ここで信ぜずして、何を信じるんだ?

「はい!」

「……では。」

 彼女はゆっくりしゃがみ込む。

「お願いします。」

 大きな空様の耳。そこには、美しいピアスがぶら下がっている。

 燻んだ水晶、それは何を意味しているのか。

「空■――」

 あの言葉を。脳内に描き出し。出力する。

「空亡様。」

「――」

 彼女は、眼を閉じたまま動かない。

「……ありがとうございました。」

 味わい尽くしてやっと、空亡の口が開いた。

「いえ。」

「そしてこれからも、よろしくお願いします。」

 身体が焼かれるように熱い。

 その中最後に僕が片眼で視認したのは、頼り甲斐のある彼女の後ろ姿だった。

「ゆ、許さんぞ、ジェラルドぉ!」

「……ふんっ!」

 彼の剣が、幾千、幾万、と振るわれる。

 その対象はまさに、目の前の人間を襲わんと来る、長老たちに向けてだ。

「許さない、だと?」

 また一人、彼の剣によって切り捨てられた。

 しかし、恐怖を感じないのだろうか。向かえば斬られる、というのに。

「この場で最も罪深いのは貴様ではないか。」

「何ぃ?」

 大長老は、上半身と下半身をくねらせ、這いずり回りながら声を漏らす。

「とぼけるのか。」

「何もとぼけては、ぐぅ。……おらぬよ。」

 鈍い音が響き、彼の身体は立ち上がった。

 うねうねとした肉塊が、大長老の身体を裏返し、そして、再び溶接する。

 その光景は、並みの百鬼でさえ吐き気を催す程のものだ。

「ほう。」

大長老の身体は何処かおかしい。医療に精通しているわけでもないジェラルドでさえ、それは容易に想像出来た。

「部下どもを化け物に……変えて。」

 再三飛び掛かってくる百鬼に彼は一太刀を浴びせる。

「何を楽しんでいるのかと、思えば。」

 長老たちが蠢き、そして『集まり』、彼を包み込む。

「貴様自身もまた、化生であったか。」

 瞬きの内に、包囲する肉塊は引き裂かれた。それらの中には、青色の何かが混じっている。

「……。」

 彼は、近くの破片の中からそれを、取り出した。

「大長老。これは、何だ。」

「呵呵、呵。」

「何がおかしい。」

「答える義務が、儂にあるのか?傭兵であった時の貴様に対してならばいざ知らず。今や貴様は、単なる裏切り者よ。」

「……ならば良し。これ以上の会話は必要無いな。」

「呵呵!」

 頭に響くような笑い声が響き渡った。

 相手は、大長老だ。長老たちの猛攻を全く寄せ付けないジェラルドでさえ、気を抜くことは出来ない。

「……。」

 彼は、剣を構える……まさに、その時だった。

「!?」

「何ぃ!」

 背後から、火柱が上がったのである。

 勢いそのままに、再び集まりつつあった百鬼の遺骸たちが空中へ放り投げられる。

 だが、異常なのはその威力だけで無く。色だった。

「黒き、炎……。」

「まさか。まさかまさかまさか!?あの人間は、空を甦らせるだけで無く!真の封印まで解いてしまったというのか!何故だ!」

「う、うぅ。」

 そして、宮畑優が目覚める。

「宮畑優!貴様ぁ……。」

「邪魔だ、そこを退け。」

「ぐむぅ……。」

 彼の蹴りを受けて、大長老は呻き声をあげる。その隙を見て、ジェラルドは優を抱えたまま河原の外へと避難した。

 みるみる内に、炎は広がっていく。

 これが、あの女の目覚めか。何とも騒がしい。彼の兜の裏側からは、そんな様子が伺えた。

「じぇ、じぇらるど……。」

「目が覚めたな。ならば自分で立て。」

「え、あっ、うわぁ!」

 山道に投げ出される僕。擦りむいた……痛いです。なんて、言ってる暇じゃない。

 掠れた視界を取り戻していくと、やはり一番に飛び込んで来たのは、漆黒の火柱だ。

「これは……。」

「貴様の目覚めさせたものだ。長老会を焼き尽くすには、この方法しか無い、そういうことだろう。」

「長老会を焼き尽くす……。」

 そんなつもりでは、無かった――いや。

 僕は、薬剤師と、彼女の耳元で名前を囁くことで、覚醒させるという約束をしていたはずだ。

 危うく忘れるところだったけど。こうなることを彼女は予期していたのだろうか。冷静に考えて、そんな行動を対価として認めるはずない。仮にその結果が、ライバルの消滅だとしても。

「さぁ、出てくるぞ。」

「……。」

 そして、それは一瞬の出来事だった。

 火柱が、一本の線となって、中心に収束したのである。そして、その跡地には、何も無かった。

 あるべき棺が無い。だが、そこには、一柱の神が立っている。

 今までの、空様とは違った。血色の悪い肌色は、より深刻化して、全身が灰色に寄っている。また、炎のような黒色の紋様が首以下に刻まれており、その姿は正に異形。

 纏っていたはずの白装束が燃え尽きている事実は言わずもがな、全身の筋肉は微かに膨張し、その雄大さをより顕著なものとしていた。

 周囲を舞う火の子……これが、滅びの色なのか。

「空、様……いや、空亡様……。」

「そうか。それが、あの女の真の名か。何て。」

 忌々しい。彼の口から、根底に存在する畏怖が如き言葉が飛び出す。

 だが僕は、嬉しさのあまりその場を駆け出していた。

「空亡様ー!」

 土を巻き上げながら、河原を走る。誰も、それを阻む者はいない。

 いない、と思っていたら。

「そこで止まってください。」

 彼女の制止を受けた。

「ど、どうしたんですか!」

「彼を見てください。」

 僕は彼女の指差す先に眼を向ける。

「大長老……。」

「許さん、許さんぞ、黒き炎の子……いや、空亡……。一度解き放たれた言霊はもう、止まることを知らぬ……ならば、儂らも抵抗するまでよ……。」

「儂ら?もう、あなた様に味方する生命体が見当たりませんが。」

「そうだ……今、貴君が儂の仲間の遺体を全て焼き尽くした。彼らは有望な人材だった。」

「嘘だ!」

 僕は思わず口を挟む。

「大長老!あなたは部下の百鬼たちに機械を埋め込んで、操作していた!」

 薬剤師の家の窓から見た景色を思い出す。何が有望だ。全て、長老会の為に仕組んでいたというのに。

「ほう、つまり、これがその機械とやらか。」

 いつの間にやら後ろに立っているジェラルド。その手には、見覚えのある柱形の物体が。

「そう、それです。」

「成る程、だから捕食した時に気持ちの悪い感触がしたのですね。しっかり焼いておいて正解でした。」

 空亡様から久々のジョークを聞く僕。うん、これこれ。この何とも言えない感じ。

「だからどうしたと言うのだ。彼らは、長老会の前進の為に長老会の傘下へ収まったのだ。その命を長老会の為に使って何が悪い。」

「それを、この部下たちは承認したのですか?長老たちにまで仕組んでおいて、あなた様はそのようなことを仰るのですか。」

「殺した張本人が、偉そうなことを。」

「このような状況に陥った責任を私に追及するおつもりですか?もう少し上手くことを運んでいただければ、私も、あなた様も、ウィンウィンで終われたのに。」

「空亡様……。」

「優さんが私を説得する暇など、与えるから悪いのです。」

「呵呵!ならば、言葉を交わす必要も無い!」

 彼の姿形がみるみる内に変化する。

 岩のように。壁のように。山のように。

 いや、その姿は星のようだ。肉塊は肥大化し、全てを飲み込む大質量となる。

「周囲を巻き込み!全てを終わらせてくれよう!長老会と空亡、そして愚かな餌どもの歴史はここで終わるのだ!」

「成る程これは、一筋縄でいかなさそうですね。」

「空亡。」

「あなた様にその名前で呼ばれるとは、新鮮なものです。」

「ハ。デカブツが、より大きなデカブツに立ち向かう様を、我は見ているぞ。」

「私に任せる、と。」

「貴様の炎に我とこの人間が巻き込まれても、貴様が気にしないと言うのなら、そうでない選択肢を選べ。」

「ふむ……。」

 様子が少し変わっても、彼女は空様、空亡だ。

 どことなく意地悪で、優しいことに違いない。

「では、あなたに優さんを預けます。」

「あぁ。……行くぞ、宮畑優。」

「空亡様、大丈夫なんですか?」

「大丈夫です。遠くから勇姿を見守っていてください。」

「呵呵、呵呵!何処にも逃さぬ!」

 球状の肉塊から、無数の触手が伸びる。

 危ない。僕は、眼を閉じたが……。

「……。」

 彼女の腕が、振るわれた。そして、信じられないことが起きる。

 その勢いは、風を切り裂き、空を引き裂き、そのまま刃となって触手を切断するばかりか、大長老に大きな切り傷を負わせたのだ。

 僕は眼を疑う。そんなことが起こり得るのか。

「ぐぬぅ……あ、あづ、いぃ!」

 そして、それだけでは終わらない。彼の傷から突然、発火する。追い討ちの極みとも言える所業、一瞬にして彼女が与えたダメージは絶大だった。

「これで、ご安心いただけますか?」

「……はい!」

 笑顔の彼女に笑顔で返す僕。ジェラルドの腕に掴まったまま、空中へ脱出した。

 触手がここまで届くことは決して無い。

「……行きましたね。」

「許さん……許さん……!」

「ふふ、何度同じことを口にするおつもりですか?それに、私はあなた様について三つ、文句を言いたいことがあるのです。」

「文句だと!」

 そして、空亡は一歩を踏み出した。

 今、このような状態となった彼女の重みは計り知れない。地を破り、石を砕き、その足元からは、小さな火柱が立っている。

 踏み締めるだけ。五本の指で大地を掴むだけ。それなのに、大きな衝撃波が周囲を襲う。

「ぐ、がぬぅ!」

 痛みに耐えられないのか、大長老の苦悶が樹々を揺らし。

「一つ目。」

「がああああああ!」

 穴の空いた身体をくねらせ、空亡の上に彼は覆い被さる。

 あまりの質量から河川は砕かれ、水飛沫が空を覆うが。

「ウラヌスさんを始めとした弱者を利用し、百鬼夜行を復活させようとしたこと。これは大きな罪です。」

 彼女の拳が天へと突き出されると同時に、彼は上空へ打ち上げられた。

「罪などと、貴君の決めることではぁ、無い!」

「そうですか。しかし、私はそう決めたのです。」

「馬鹿なことを……。」

「二つ目。」

 大長老の身体の中心。そこから、閃光が迸る。

 エネルギーの粒子が束となって、一つの光線を作り上げているのだろう。放射を許せば、山々に大きな損害が行くことは間違い無い。

 ただ、それでも。

「百鬼夜行を毛嫌いするジェラルドさんを起用したこと。いくら優秀な傭兵とはいえ、何かしら理由をこじつけて裏切られるとは思わなかったのですか?」

 彼女が許すわけが無かった。振り上げられた踵が、勢いそのまま、いやそれ以上の衝撃を伴って、降ろされる。

 大長老の中で集積しつつあったエネルギーが暴発するのも、当然のことだ。針を刺された風船のように、彼は勢い良くしぼみながら、床へと叩きつけられた。

 空を見上げれば、彼女の踵落としによって真っ二つに分けられた雲が、月光を誘引している。

「……ふぅ。愚痴を言うと、スッキリしてきますね。」

「ぐ、ぐぅ……。」

 万策尽きる。打ち上げられ、叩きつけられただけなのに、彼の老体は、完全に悲鳴をあげていた。

 周囲には蠢いて集まる気配の無い肉が散らばっている。

 数十秒前までの巨大な姿は見る影も無い。

「さて、最後。三つ目です。」

「ふぅ……ふぅ……いっ⁉︎」

 ゆっくりと、彼の頭に足が乗せられる。

 少しずつ少しずつ力を入れているのか、大長老の顔にはただ一つ、苦しみの色のみが浮かんでいた。

「あなた様は。優さんに手を出さないと契約しておきながら、守らなかった。死に値します。」

「死に、値するぅ……?」

 その言葉が、どうにも腑に落ちないらしい。老人は、笑い声を上げながら問いただす。

「ならばその人間を喰おうとした貴君は何なのだ。死に値しないと言うのか?」

「いえ、私も同じく、消えて無くなるべきと存じます。しかし……。」

 足指の間から、大長老は彼女の顔を見る。月に照らされた黒き太陽の顔は。笑顔で一杯だった。

「どうにも、私はその末路を辿らせて貰えなさそうなので。先に、終着点で待っていていただければ。」

「ふざけた話だ!」

 ふざけた話。それは、そうだろう。だって、空亡と大長老、何故前者が許されて後者が許されないのか。それを説明できるのは、宮畑優だけなのだから。

「さようなら、大長老。こうして踏み潰した後は、全て捕食しておきますね。」

「ぐぅ……貴君は!」

「はい。」

「貴君は、何者なのだ!」

「さて。何者でしょう。」

 それは、心の底からの叫びだった。

 空亡。黒き太陽。彼女が何の為に生まれ、何の為に生きているのか、誰にも理解できない。

「誤魔化すでない!貴様の、存在意義を!答えろ!」

「私の、ですか。」

「……。」

「そんなくだらないもの、ありませんよ。」

「あり得ない――」

 それが。大長老が口にした、最後の言葉だった。

 彼女の足は既に、地面とピッタリくっついている。

 プレス機のように押し付けられたそれは、もう人の形を成していない。

 視界は炎に包まれる……空亡の待ちに待った、捕食時間であった。

 そしてその姿を、僕と、ジェラルドが見ているのだ。

「成る程、凄まじい女だ。」

「……。」

「声も出ないのか?」

「いえ、何だか……。」

 いつもの空様とあまり変わらないなぁ、という言葉は飲み込んで。

 僕は、山を降りようと峠を見渡す。

 取り敢えず、全ての厄介ごとは終わった。

 そう考えると、中々あっけない幕引きであった。

「ほら、待たせたねぇ。二人とも。」

「ありがとうございます。」

 僕は、薬剤師から一つの薬を受け取る。

 長老会とのいざこざに区切りがついて、三日が経った。

 つまりそれは、霊薬の材料を手渡し、作って貰うのに十分な時間が経過したということである。

 黄金の薬。

 僕の眼から力を奪い取る薬だ。

 これから、僕は本当に飲むのかどうか、決めなくてはならない。

「はぁ……。」

「気が重いですか?」

「……どうしようかなってずっと迷ってたんです。今も、まぁそうですけど。ただ、何となく。飲むべきなんじゃ無いかって思いが沸々と湧いてきているんです。」

 僕は、薬剤師の店のソファに座り込み、ため息を吐く。

 こればかりは、どうしようも無かった。

「ふふ。そうですか。いえ、すぐに決める必要は無いんですよ。」

「そう、何ですが。」

 そしてその隣に彼女が、空様が座った。いつもの燕尾服を着た、空亡じゃない、空様である。

「何だ、すぐに飲まないのか。」

「薬剤師。」

「なら、早く店の中から出ていってくれ。こちらは次の商いが待ってるんだ。」

「随分と、今日は急かすのですね。」

「当然だろう?ここ数日商売できなかったからねぇ、今日は気合いを入れてやらなきゃならないんだ。」

「ふふ。そうですね、私の名前を不用心にも口にしたのですから当然です。」

「そのお陰で君はここに居るんだから、感謝して貰いたいものだね。」

「改めて、御礼申し上げます。」

「そう、それで良い。」

 薬剤師の右手には、お茶が持たれている。

 今淹れてきたのだろう。湯気が立っていた。

「では、怒られない内にお暇しましょうか。」

「そうですね……。」

 僕だって感謝はしているが。やっぱり薬剤師は怖い。いつ騙されるか分かったものじゃないから。

「ほらほら、行った。」

「はい、はい。」

「どこか景色の良い場所でも探して、ゆっくり考えると良い。」

「景色の良い場所ですか……。」

「それか、思い出の場所でも良いだろう。」

「思い出の場所なら、すぐに思い当たりますね。」

 言うまでも無い。アイビーだ。

 あの場所でご飯を食べた数日間がもう、遠い昔に思える。

 まぁ、今朝もご馳走して貰ったばかりなんだけど。

「優さん、ではそこへ戻りましょう。」

「はい。」

「扉はしっかり閉めていくんだよ。」

「私が閉めますから、お気になさらず。」

「フ。そうかい。」

 僕と空様は、薬箱を片手に薬剤師の店を去る。

 そして、思い出の場所、思い出の店に向かった。

 入り口の鈴が鳴る。

 もう、ここ数日何度聞いたか分からない音だ。

「いらっしゃい。薬は、貰ってきたのか?」

「はい、この通りしっかりと。」

「ハハ!それでもし奴が作ってなかったりしたら笑い飛ばしてやったんだけどなぁ!流石に仕事には真面目だな。」

「この後に及んでそのような蛮行に及んだ場合は、私が直々に制裁を加えますから、いずれにせよ問題はありませんよ。」

「つまり眼の前で無理やり作らせるってことか……。」

「当然のことでしょう?」

「それもそうだな。ま、座れよ。飲み物持って来てやるからさ。」

「よろしくお願いします。」

 ウラヌスさんに誘われるまま、僕は近くの椅子に腰を下ろす。

 空様もまた、薬剤師の店で取った行動と同じように、僕の隣へ座った。

「優さん。」

「はい。」

「今すぐにその霊薬を飲む必要はありませんよ?」

「そうですね……その通りです。ただ、一つ今までずっと考えて来たことがあって。」

「飲むか飲まないか、では無いことを、ですか。」

「そうです。大長老に言われて、気がついたことが一つありました。」

「……。」

「僕は、僕自身に誇れることが一つも無かったんです。」

「そのようなことはありませんよ?少なくとも、私はあなた様を魅力的だと思います。」

「それは、食べてしまいたい程に?」

 彼女は僕の質問に、笑顔で返す。

 うん。こういう時のスマイルは、言うまでも無いですよね、というアピールだ。

「ただ、それは、僕自身が知覚できてないと意味無いんです。そして、僕が理解している、自身のアピールポイントというものはまさにこの眼だけでした。」

「あなた様の?」

「はい。他人が持っていないものを持っている、その点において僕は無意識のうちに優越感を感じていたんだと思います。」

「成る程……それはあり得ることかもしれませんね。私も、私自身の力は忌むべきものと認識していますが、一方で誇るべきものとも考えていますから。」

「そうなんです。意外と人間、単一的な感情だけでは居られないものなんですね。こんなもの見えなければ良いのに、と何度思ったかは分かりませんけど、一方でそう思っている自分に快感を覚えていた……少し、怖い話です。」

 だって、もしこの眼を嫌うだけなら、今すぐにでも手放せるはずだもの。確かに、もうウラヌスさんや空様と会えないっていう要素もあるが。

 それ以上に、今まで積み上げて来た怨嗟の声は大きなものであるはず。

「でも、今は、こう思っています。この眼を、自らもアイデンティティにするべきじゃ無い。より生産的な、誇るべきものを自慢に思える人間に、僕はなりたい。」

「……。」

「そう、考えた時に。この眼は、邪魔になるんです。」

「それは何故ですか?」

「空様のことを深く知って、ウラヌスさんのことを良く理解して、僕はやっとここまで辿り着きました。このお店は、今まで帰る場所を作れずにいた僕にとって、都合が良すぎるんです。このまま空様に甘えていたら、いつまで経っても僕は先に進めない。百鬼に寿命はありません。それは、元人間であろうと空様にも言えることですよね。」

「そうですね。」

「でも、僕には寿命があります。出来ることに限りがあるんです。それなら、立ち止まっていないでいち早く動き出さないと。」

 僕なんて、生きられてせいぜい八〇年。

 そのうち実に四分の一が既に過ぎ去っている。

 その時間が無為だったとは思わない、多分こうやって歩き出すのに必要な時間だったんだと思う。

「しかし、その為にあなた様の眼を捨てる必要はあるんですか?」

「ふふ。空様、もう僕のことを止めに来てませんか?」

「はい。ここまでバレたからには仕方ありませんし、我慢する気力も無くなってしまいました。私は、私を視てくれるあなた様を手放したく無い。そう思っています。」

「空様、独占力強いですもんね。」

「仰る通りです。仮にあなた様が他者のものになるのなら、私は誰であろうと殺しにいくかもしれません。」

「わわっ、怖い。」

「我慢するのをやめましたからね。最後くらい、言いたいことを言わせていただきます。」

 そう、だよな。

 彼女は、十年もの間、僕への愛と捕食欲を抑え付け、来るべき時に全てうまく収まるよう、努力して来たのだ。

 それを更地に返したのは言うまでも無い、僕である。なら、もう取り繕う気など失せるだろう。

 今更当初の約束、霊薬を飲んでどうこう、なんて彼女の望むところじゃ無いに決まってる。

「僕は――」

 でも。

 想いを言葉に出す度、僕の考えは段々と強固なものになっていった。

「空様に救われた命を、甘え続ける為に消費したくはありません。」

「甘え。」

「はい。だって、空様のことが僕も。」

「……。」

「大好きだから。」

「……。」

「やっと、分かったんです。空様に感じていた頼もしさ、懐かしさ、好ましさ。その全ては、ここ十年、ずっと空様の気配を感じ続けていたからなんだって。そして、それにかまけて、あなたの力に背中を預け続けてきた。本当は僕も分かっていました。こんな、毎度毎度都合よく逃げ切れるわけが無い、誰かが助けてくれているんだって。その答えが出た時、困惑の一方で、僕の気分は晴れやかでした。」

「ふふ。そう、ですか。」

「すみません、突然恥ずかしいことを。」

 段々顔が赤くなってくる僕。

 もしかして今、とっても大胆なことを言ったのでは無いか?

「でも、これ以上頼るわけにはいきません。巣立ちの時が来たんです。僕は、紛い物の誇りを捨てて、新たなものを手にする旅に出ます。」

「旅?」

「本当に、旅に出るわけじゃ無いですよ?でも、それくらいの気持ちで、これからに望もうと思います。優柔不断な僕でも、やってやりますよ。」

「つまり、私が何を言っても無駄なわけですね。」

「……。」

 彼女の顔はどこか寂しそうである。それこそ、彼女が棺桶に向かう直前のような。

「いや、それが。」

「?」

「空様に引き留められると、罪悪感で決意がブレブレになっちゃいます。だって、こんなの勝手極まりないじゃ無いですか。僕は本来、こんな偉そうなことを言える立場じゃ無いです。」

「ふふ、そこは胸を張って、ブレないと言って欲しかったところですが。」

「最後の最後まで誤魔化すなんて、嫌ですよ。」

「それもそうですね。私も同じ気持ちです。」

 ふぅ、と彼女は息を吐く。穏やかな表情だが、さて。

「おっと、話は固まったのか?俺ぁ寂しいが、宮畑ちゃんの意見を尊重するぜ。」

「ウラヌスさん……。」

「ま、説得するなら頑張ってこの頑固者を柔らかくしてやんな。ほら、ココアだ。」

「ありがとうございます。」

 見ると空様は既にホットコーヒーへ口を付けている。

 順当に行けば、そんな姿を見るのもこれで最後か。

 僕もまたそれに倣い、一口。

「美味しいです。」

「おう。辛気臭い雰囲気は苦手なんだ、飲む時は断りなく飲んでくんな。」

「……良いんですか。」

「ああ。もう十分俺は枕濡らしたんだ。」

「……。」

 可愛いおじさんである。

「私も、ウラヌスさんと同意見としておきます。そこまで仰るのであれば、止め立て致しません。大長老の言葉も、あなた様には意味あるものとして現れたのですね。」

「まぁ、そうですね。眼を存在意義にしているのだろうと指摘された時は、雷に打たれたような衝撃に襲われましたから。」

 それで、一時は彼らの方に流れかけた程だ。

「全てが終わる時、僕の手元に残るものが何も無い、なんてことにはしたく無い。だから、僕はこの眼から卒業します。」

「はい。……ですが。」

 そう、もう一つ僕は彼女と約束している。

 左眼を、彼女に。

「痛く、しないでくださいね。」

「……そう、乞うような瞳で私を視ないでください。勢いそのまま、あなた様を食べてしまいそうです。」

「眼が怖いです、空様。」

「はい、中まですっかり私は危険人物ですよ。」

「開き直ってますね!」

 ま、こんなものだろう。

 僕もお別れらしいお別れは苦手だ。

 きゅっと、霊薬の蓋を開ける。

「空様。」

「はい。」

「あのぉ……。」

「どうしたんですか?」

「最後にですねぇ。き、きき。」

 言うんだ、僕。僕は、男じゃない。だけど、今だけは、男になるんだ、宮畑優!

「……。」

「キス、をんむぅ!?」

 駄目でした。

 ドギマギした様子に耐えられなかったのか、彼女は勢い良く僕の唇を奪い、貪る。

「ん、んう!」

「……。」

「んー!」

 離して貰えたのは、僕が何度か彼女の背中をタップしたところだった。

「美味しかったですよ。」

「はぁ……はぁ……。」

「初めて食べた百鬼の数倍は、脳髄に響く味でした。」

「そ、それはっ。褒め言葉なんですか!」

「そうですよ。」

「ぐぅ。」

 宮畑優、撃沈。やはり僕は、空様にゃ敵わない。

 まぁ良いだろう。これも思い出として、しまっておく。

「でも、すみません。ありがとうございました。」

「いえいえ。私も、楽しませて貰いましたから。」

「……飲みます。」

「はい。」

「飲んでる間に、優しく片眼を持っていってください。」

「そうさせていただきます。」

「ウラヌスさんもありがとうございました!」

 厨房の奥から、啜り泣く声が聞こえてくる。

 どうやらわざわざ言わなくて良いと言ったのに!と叫んでいるようだ。

「では――んっ!」

 ごくり。僕は、黄金色の霊薬を飲み干す。

 そして、薄れ行く意識の中、彼女の舌が、眼孔の中を這いずり回る感触が全身を支配した。

 ねぇ、空様。

「ん……あ……。」

 僕はね。優しく、と言ったんだ。

「んぐっ。」

 こんな眼球の取り出し方、最後に大きな爪痕を残す気満々じゃ無いですか?

 さて、まぁこんなことがあって。

 僕は新たな一歩を踏み出すことにした。

 百鬼を視ることも、百鬼に追われることも無くなった僕は、こうしてカバンを背負い、大学の新学期、新たな授業に向かおうと足を進めている。

「おっ!」

「?」

「宮畑じゃん!最近休んでたけどどしたん。」

「あぁ、えっとね、風邪が酷くて。」

 ここ数日休んでいた理由としては、丸かろう。

 丸すぎて、疑われるかもしれない。

「んー?」

 疑われていた。

「本当に?」

「嘘。」

「おい!」

「ちょっと、旅行に行ってた。」

 こちらは、嘘では無い。

「成る程なぁ……どこ行ってたの。」

「長野とか鳥取とか……。」

「写真撮った?」

「撮ってない。」

「何で?」

「趣味じゃ無いからさ。」

「悲しい。」

 目の前のクラスメイトは、ベソをかいているマネをして見せる。

 何とも、人懐っこい。

「じゃあ。」

「うん?」

「楽しかった?」

「……。」

 僕は一瞬、答えに窮した。

 あの思い出は、一生忘れないだろう。

 今まで経験した地獄。味わった辛酸。それらと決別すると同時に、甘い思い、場所からも、隔離されることになった数日間。

 楽しい、と表現して良いものか。

 ただ、まぁ。

「うん、楽しかった。」

 つまらないものでは決して無かっただろう。

「そっか。それなら良かったね。」

 他愛も無い会話。

 だが、僕にとっては少し意味のある会話。

 いつか僕は、いや数日後にでも、数週間後にでも、数ヶ月後にでも、思い出すだろう。

 辛く、楽しかったこの十年間を。

 空様、ウラヌスさん、ジェラルドさん、薬剤師。

 百鬼という存在がどういったものなのか、幽世とは何なのか、そもそも空様、空亡とは何なのか。

 分からないこともまだあったが、それくらいがちょうど良い。全ての謎が解き明かされる日はない、それを僕は放棄した。

 全ては、これから僕が生きる意味を見つける為に。

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空が黒に染まる日は りんどう @rindou_

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