三日目〜急
三日目、開始。
僕は三度、空様に連れられてアイビーを訪れる。
開口一番、彼女には僕の持つ魔除けについての状態が問われたが、今までと違って、変化は全く無かった。
運よく、何者かに襲われ無かったということだろう。
それに大長老といったおっかない存在が、突然訪問してくることも無かったしね。
まぁそして軽いミーティングの後。ウラヌスさんに見送られつつ、これまた三度目の空様トレインに搭乗。今日の探索の舞台、つまり、長野県Cポイントの清流沿いへと僕たちは到着していた。
「ちべたっ!」
「春先の川の水ですから……恐らく、雪解け水でしょう。当然、冷たいものになります。」
「飲みたいけどこれは飲めない……。」
どこかで読んだ。飲んじゃダメって。
もしそうと知らなければ僕は掬って飲んでいただろう。だって、こんな澄んでいて綺麗なんだよ?
「お腹も余り強く有りませんからね、優さんは。」
「ヨーグルト食べるだけでキュルキュル鳴り始めますからねぇ僕は!」
お腹の調子を整える為に乳酸菌を摂取するのだ。
乳酸菌を摂取することで、致命的な腹痛に見舞われてたら世話無い。
「ま、我慢します。」
「懸命ですね……。」
私も好んで飲むことはありません、と言いつつ彼女はその場から歩き出す。
今更の話にはなるが、彼女は高身長かつ大股なので、ついていくのが意外と大変である。
小走りとまでは行かないにしても、まぁまぁ早歩き程度で無いと後を追えない。
彼女曰く、これでも速度を落としている方、らしいが。
時速七〇〇キロメートルで走れる百鬼を物差しに考えるべきでは無いということか。
「うーん、やっぱりしらみつぶしになる訳ですけど、薬剤師が言っていた通りで中流域には全然ありませんね。」
「一応確認の為にこの辺りをスタートとしましたがまぁ、予想通りではあります。ここから源泉付近まで歩くにしてもまだ十分時間はありますし、ゆっくり行きましょう。」
「はい!疲れの取れた身体を存分に発揮させていただきます。」
昨日は結局、空様頼りになってしまったし、今日くらいは自分で見つけたいものだ。
「これはこれは。頼りになりそうです。」
彼女もにっこり笑顔である。
「……ただ。」
「ただ?」
「何も話さずに歩いているのもどうかと思いませんか?」
「まぁ、この先長いですからね。少しくらいは話していても良いとは思いますが。」
「いつもの提案をしたいです。」
そう、いつものだ。こういう時に僕が求める、いつもの。
「私の自分語りですか?」
「そうです。タイムリミットも近付いて来たわけですし、何か教えて欲しいです。まだ空様って謎が多いんですよ?」
「自覚しております。あえて、そうしていますから。」
「ですよねぇ。」
彼女は隠したがりなのだ。
「ただ、そうですね……確かに、あなた様と共に在れる時間も残り少ない。となれば、少しは踏み込んだことを開示しても良い……?」
「わくわく。」
「ではこうしましょう。」
「はい?」
「私が、初めて百鬼を食べた時の話は?」
「えっ。」
良いんですか、そんなことを聞いても、と言いかけたところで、僕はハッとする。
それを自ら話してくれようとしているところに、こんな冷や水かける行為、してはいけないだろう。
だって聞きたいか聞きたくないかで言えば、聞きたいもん。
それに、根本的な疑問がここで生じる。
「生まれた時からずっと百鬼を食べてきたわけじゃ無いんですか?」
「そうではありませんよ。私が描いてきた軌跡のある一点。そこから私は、百鬼を主食に生活するようになったのです。」
「何と。」
僕の想像は間違っていたらしい。俄然、気になってきた。
「ふふ。では、良い反応をいただきましたので、その話で行きましょう。少々残酷な物語になりますよ。」
「それは、そうですよね。だって、どうやっても空様が百鬼を食べる流れにはなるわけで……。」
「それに、私が百鬼を食べようと思うきっかけになったエピソードまで付いて来ます。」
「へ、ヘヴィ。」
ロックどころじゃない。メタルだ。
「さて、どこから話したものでしょうか。」
「で、できるだけ最初の方からで……。」
「ふむ、そうですね……当時、私はある廃墟を根城として、細々と生活していました。食べ物も、友人も、娯楽も、何も無い環境です。」
「百鬼を食べる前は何を?」
「強いて言えば人間の食物ですが、これらは百鬼にとって何の栄養にもなりません。ただ、食べたという記憶と感覚が得られるだけ。その為、実際のところは断食状態だったと言えるでしょう。」
「ひぃ。」
空様は、人間を食べたことが無いと以前言っていた。
それなら、つまり、初めて百鬼を食べるまでずっと栄養摂取をせずに生きていたようなものなのか。
百鬼の根底には捕食して強くなること、があるのに、それを放棄して生活していた……なんて、彼女は既に、異端に位置する存在だったらしい。
「とはいえ、何も為さずぼんやりと時が過ぎていくのを感じる日々は、中々感慨深いもの。現在と比べたとて、そう悪いものでは無かったように思えます。ただ、そんな私を一変させたのは、ある日、突如として漂ってきた謎の霧でした。」
「霧……ってそれ、昨日説明して貰ったあの?」
自然発生のものと、意図的に引き起こされたものの二種類があるとかいう。
「仰る通りです。もしそれが自然に発生したものであれば、被害者を一定時間私が保護することで、何事も無く事態を収拾することが出来たでしょう。しかし、現実は違いました。私が出会ったのは、百鬼によって引き起こされた、極めて大規模なものだったのです。」
「広範囲で、人間が百鬼を視認してしまい、また百鬼に襲われる、ってことですよね……?」
「そうなりますね。この状況を何と呼ぶか、あなた様でも想像が付くのでは?」
「……百鬼夜行。」
「大正解です。私が初めて百鬼を喰らったのは、百鬼夜行の最中でした。」
百鬼夜行。百鬼がその存在意義を満たす為、人間を見境無く喰らい尽くす悪夢のような行事だ。僕の価値観で言えば、そんなものが起こり得ること自体間違っているように思えてならない。
それに、そうか。空様が吹っ切れた、吹っ切れてしまったのは、百鬼夜行のせいだったのか……。
「話を進めますよ?」
「はい。」
「その時の私は、まだ若く、勢いも、自信も大いにありました。」
「……。」
勢いはともかく、自信は今でも大いにありますよね、と言いかけて。
僕は彼女の生暖かい視線に気が付いた。
本能が、言っている。ここは何も口にせず、ただそうですね、と受け入れておけ、と。
「よって、この力を振るえば、人間を百鬼の魔の手から守れるはずだと思い上がっていたのです。自分で言うことでは無い、と承知した上で言わせていただきますと、私は信じ難いレベルの大馬鹿者です。」
「……でした、では無く、です?」
「戒めのようなものですよ。今は違う、だなんて誰が言い切れるのか。」
「それは。」
そんなことない。と、僕は思うけど。その出来事は彼女にそう思わせてしまう程のものだったに違いない。
「私は、手当たり次第に人間を集めて廃墟に誘導し、立て籠もることで守り切ろうとしました。」
「廃墟って大きい建物だったんですか?」
「そうですね……現代の建物基準で言えば、大きい方に当たるでしょう。大体、山間部のペンションを思い浮かべていただければ。」
「例示がニッチ!」
だけど、何と無く想像は付いた。
つまり、大体十人程度が無理なく寝泊まりできる、そんな感じね。
「その日はかなり調子も良く、寄って来る百鬼は順調に撃退出来ていました。文字通り、動けなくなった百鬼たちが、廃墟の周囲で山を形成していたのです。」
「今の空様を考えると不思議な光景……。」
「そうです。それが、この話の肝心に当たる部分になります。」
そうだよね。だって今は、空様が百鬼を食べてしまうから、戦場に一切残骸が残らないんだもん。
「うーん、嫌な予感。」
「……やがて、廃墟の周辺部にまで及んでいた霧は段々と晴れて行きました。私が手を差し伸べることの出来なかった人間たちは、百鬼によって喰らい尽くされてしまったでしょう。後々様子を伺った際、村の状況は極めて悲惨なものでした。」
「気になるけど聞きたくない。」
「余り気分の良いものではないので、詳細はご想像にお任せします。一言ヒントを差し上げるとすれば、地獄の想像図を描いた絵巻、でしょう。」
「あー。」
つまり、人間の臓物だの死体だのが散らかってるってこと?
夜眠れなくなりそう。それが現実に起こったと考えると尚更。
「ただ、問題はこちらの、廃墟に匿った人間たちです。結果的に言うと、彼、彼女らもまた、半分程度死んでしまいました。」
「……何かあったって、ことですよね。」
「そうですね。私は、百鬼を殴り、蹴り、握り、踏んだだけ。そうすれば確かに、それらは動けなくなるでしょう。でも、それらは果たして死んでいるのでしょうか?廃墟の周囲には依然、百鬼が山を成したままです。」
「百鬼は、外傷をただ受けるだけでは死なないんですよね?」
「私は何十回、何百回、人間をこういった被害から守ろうと尽力して来ました。そしてその度に、私の理想を阻んできたのは百鬼の死にづらさです。此度もまたそうでした。」
「……。」
言うまでもなく、それらはある程度の時を経て再び動き出すだろう。
そして、眼の前にある餌を。
「百鬼の再生力は、それぞれ大きく違います。早い個体もあれば、遅い個体もあり。ただ、完璧な状態にならなくても、百鬼にとって人間の捕食は容易いことです。つまり、私がそれらを放置して戦い続けるということは、そのような行いを見逃してしてしまうも同義でした。一方、霧の中からは外傷の無い、より驚異的な百鬼が押し寄せて来ている。二つに一つ、二者択一を常に迫られる状況です。恐らく百鬼たちもまた、私が同時対応出来ないと理解した上で動いていたのでしょう。」
「百鬼にも知能はありますもんね……。」
「普段なら、人間と同程度の思考力もありますよ。ただあなた様を眼の前にすると理性を飛ばしてしまいますから、信じ難いことでしょうが。……さて、そして、私は霧が晴れたことを確認してから、急いで人間たちの元へ戻りました。このままでは危険だ、しかしいつもより迅速に対応出来たから今度こそ、と思いつつ。」
嫌だ。僕は、努力している人がバカを見るのは嫌いなのだ。
でも、彼女は話を止めようとしない。
「結局まぁ、私が視認出来た景色はそんな幸せなものではありません。霧が晴れた時点で既に、老若男女問わず多くの人が再び襲われていました。」
「霧は晴れたのに?」
「霧に囲われた人間は霧が晴れてからも、一定時間幽世に引き摺り込まれたままになります。百鬼が敢えて霧の晴れた場所にやってくることは殆ど無くても、眼の前にそのような人間が居るのであれば気にせず襲いかかるでしょう。」
そう、そうだ。僕は的外れな質問をしたな、と感じる。そうでもないとアイビーに、霧に見舞われた人が来たりするものか。霧を纏ったまま来るわけでもあるまいし。
「私は苦悩しながら、残った人間をより上手に守る方法を考えました。」
「空様が頑張って人間を守ろうとした現実が、それですか。」
「はい。そのように悩んだのは、何もその時が初めてではありません。何十回、何百回と繰り返す中で何度も考え、その度に分からない、と放棄していたのです。ただ、今回は違いました。」
彼女は不意に脚を止めてしゃがみ込み、水面を覗く。
表情が水面に映り込んだ。
「ふと、思いついたのです。百鬼が再生するのなら、そしてそれを食い止める手段が無いのなら、そもそもこの場から無くして仕舞えば良い。では、どうすれば良いのか。……奴らがやっていることを、奴らにやってやれば良い。私は試しに、今にも動き出しそうな百鬼の頭を捩じ切って、咀嚼してみました。」
「……美味しかったん、ですか?」
「あの時口にした百鬼以上に美味なものを、私は知りません。」
「……。」
川の流れに歪まされた彼女の顔は依然、ぴくりとも動かない。
だが、僕はその内に確かな狂いを見ていた。
初めて空様に出会ったあの夜、確か百鬼を喰らうことに対する彼女の言葉を聞いて、狂っていると言ったはず。
こうして彼女と関係を深めた今でも、その考えは変わらない。空様は狂っていた。
「ふふ、すみません。思わず立ち止まってしまいました。歩きましょう。」
「……はい。」
「続きです。それからは、その場から百鬼の残骸が細胞の一片たりとも残らなくなるまで、食事を続けました。もしかしたら、空腹もスパイスになっていたのかもしれませんね。想像していた以上に楽な作業で、拍子抜けでした。外傷を加え、抵抗力を奪い、喰らいつく。まるで、人間を食べる百鬼のようだ、と我ながら思ったものです。」
「そんな自分には何も感じなかったんですか?」
「人間を食べるのが百鬼で、百鬼に食べられるのが人間なのなら、百鬼を食べる私とは何なのか。そんなところでしょう。」
「自分を百鬼と言い切れないんですか?」
「さて。百鬼を食べる百鬼、だなんて言われ方をしている今、そのように迷うこと自体間違っているようにも思えますね。」
「そうですか……。」
この話が何年前の話で、空様が何を思って僕に話そうとしてくれたのかは分からないけど。
まぁ、強烈な話ではあった。絶対に忘れられないだろう。
「こんなところですね。娯楽とするには聞くに耐えない話だったかと。」
「人間も百鬼も沢山死んでしまう話ですからね……。」
「しかし、私を知りたいと思うのなら、聞いておいて損の無いものでしょう。」
「仰る通りで。」
うーん。別に、この話を聞いたことで何かしら空様の印象が変わるわけでは無いけれど、彼女の孕んでいる狂気に対する印象は変わったかもしれない。
最初から百鬼を食べる存在として生まれたわけじゃなかったのも驚きだけど、何より、百鬼を食べるようになった理由が確実に百鬼を葬り去る為だったなんて。
美味しいと感じているからまだ救いはあるけれど、そうでもなければこれは食事でも何でもなく、ただの処理だ。
……とはいえ、初めて口にした百鬼以上に美味しいものを知らない、と口にした時の彼女からは身の毛もよだつ程の恐怖を感じたが。
「もし、これで踏み止まっておこうと思えるのなら、そうするべきだと思いますよ。」
「何がですか?」
「私のことを知ろうとする行いです。ここまで自らのことを開示したことが無いので、加減が分からないのですが、あなた様が理解したところで、気持ちの良いものでは無いように愚考致します。」
「それはそうですけど……。」
やっぱり、こういう人が助けてくれたんだ、ってのはしっかり記憶しておきたいというか。
ここは曲げられないのだ。
確かに、彼女の語ることって大体難解であるか、重いか、に偏ってる。
だからまぁ、軽い気持ちで受け止められるようなものでは全く無い。
「ふふ。そこで、『けれど』と言える優さんは立派ですね。」
「まぁ、最初にあなたのことを教えてって言ったのは僕の方ですから。今更やめようとするくらいなら、突き抜けたいな、とも。」
「そのように感じるあなた様を否定することだけは、しないでおきますね。」
彼女はそして、少し歩くペースを速めた。
……酷くない?
元のペースでもついていくの大変なんですよ。
「そ、空様⁉︎速く無いですか?」
「私のことを知りたいのであれば、私本来のペースも知っておくべきでしょう。」
ニンマリ。
彼女は口角を上げる。
空様はこういう時しか表情崩さない。逆に言うと、こういう時が、彼女の素なのかも。
とすると、空様は中々に良い性格をしている、ということになるのだが。
「く……。」
僕は決意する。何分彼女は僕を苛めようとするか分からないけど、頑張ってついていくのだ、と。
「や、やてって、やりますよ!」
「噛んでますよ?」
「……。」
「ふふ。」
やってやれないかもしれません。
ひぃひぃと悲鳴を上げながら、僕は山道を駆け上がった。
*
アイビー、その厨房にて。
エプロンを着たまま、男は憂鬱そうに俯いていた。
目の前には、見るからに美味しそうな搾りたてのジュース。色を鑑みるに、柑橘系だろうか。
ただ、異様なものが同時に、並べてある。
「期限は、今日。使命は……あ……。」
口に出すのも躊躇われるのか、彼は声も出せず、パクパクと。まるで餌を求める鯉のように、開閉を繰り返した。
そして再び、机に腰掛け、瞼を落とす。
――私にとって最も絶望的な未来は、あなた様に裏切られ、優さんを失う、この二つが同時に起こるものです。
ふと、昨日最も信頼する人物に投げかけられた言葉を思い出した。
そう、そうだ。自らが信頼を寄せているからには、その信頼をこれ以上裏切るわけにはいかない。
何を理由として行動するにしても、絶対にそんなことをしてはダメだ。
許されないとか、許される、とかそういう次元の話じゃなく。この一線を越えたら、彼はまるで人間であるかのように振る舞う自分に耐えられなくなるだろう。
だって、誰かを犠牲にして、安定した生活を継続させる、だなんてさ。人間を喰らって存在意義を満たす百鬼とどこが違うというんだ?
「まだ、迷っているようだな。」
「……お前、は。」
突然彼の前に、黒い鎧を身に付けた大男が現れる。
その雰囲気はまるで鉄のよう。剛直という言葉を、体現したかのような存在だった。
名を。
「ジェラルド……?何故ここに。」
「大長老に、雇われたのだ。我は、これより、長老会の犬として、行動を始める。」
「なっ。」
ジェラルド。それは、幽世でも非常に有名な剣士であり、傭兵だ。
百鬼でありながら、百鬼に対する知識に乏しいウラヌスでも、その名前と姿くらいは知っている……それくらいの男である。
「……百鬼一の傭兵ジェラルドは、仕事を選ばないのか?」
「内容で選ぶ、選ばないなど、傭兵には過ぎた行為だ。我らは、提示された仕事が報酬に見合えば、これを受理する。見合わなければ、これを拒否する。その指標に、中身は一才影響を与えない。」
「……。」
それよりも、という風にジェラルドはウラヌスに近づく。
その黒いグローブに覆われた手が、霊薬の方へと伸ばされた。
「これを、既に貴様が使ったか使っていないのか、それを確認するべくわざわざ出向いて来たのだ。想像通り、使うどころか、蓋を開けてすらいなかったな。」
「……当たり前だ。最も信頼する友人と、最も新しい友人をこれ以上裏切れるわけ、無いだろ。」
「一度も二度も同じだ、と言うつもりは無い。だが、そうでなければ、貴様の命が危険に晒されるのだぞ。こちらには一台しか、『棺』の用意が無い。貴様か、黒き炎の君か、中に入るのは二者択一だ。」
「そんなもので、空様を排除して何になるってんだ!」
彼は膨れ上がった感情に任せて、近くのグラスを投げ捨てようと勢いよく振り上げる。
だが、そのまま彼の手から放られることは無かった。
ウラヌスは、何事も無かったかのように、グラスをシンクに戻す。
「何だ、投げ捨てないのか。」
「……あれは昨日、俺が買ったものさ。ウチに空様用の食器はあるけど、宮畑ちゃん用の食器はねぇ。不公平だと思ってよ……昨日こそお披露目出来なかったが、今日、お披露目しようと思ってたんだ。」
「ほう、情が理由か。もしそれを投げ割っていたならば、職人としてのプライドも無い、情弱な奴と斬り捨てていたかもしれん。だが、そうはしなかった。少なくとも、貴様は料理をする百鬼、という意味で、三流で無いと認めるに値するな。」
「そうかよ。それなら、俺にこうして押し付けてきた役目も、免除して貰いたいものだなぁ……。」
頭を抱え込んだまま、彼は座り込む。
絞り出すような、万感の思いの詰まった懇願。しかし、それが男の考えに影響を与えることは無かった。
「全てを、代償無しに、叶えようというのは、不躾な行いだ。夢には、リスクが伴う。貴様は、自らの夢を叶えるために、一つでもリスクを負ったか。」
「……。」
彼は、自らがこの店を持てた理由を思い出した。
「無論、過去どうだったかなどは、どうでも良いことだ。少なくとも、分の良い選択肢を取って来たようには見えるが。」
「ハハ、お前が有名人とはいえ、初対面だぜ?そう言うなよ。」
「初対面だからこそ、分かることもある。……そして今は、貴様がリスクを負うのか、負わないのか、決定付ける時だ。」
「そのリスクってのはよ……俺が、空様に報復を受ける可能性だろ?」
「それだけか?よく考えろ。」
「何言ってんだよ、もう一方は、俺が長老会を裏切る可能性じゃねぇか。」
「それにもまた、メリットとデメリットが伴うであろう。」
「……俺に裏切らせたいのか?」
彼は訝しむように眼を細める。
「……そう、か、そのように貴様が受け取るのであれば、それでも、良い。」
「お前、長老会の味方なんじゃ無いのかよ。」
「無論だ。仮に貴様がその霊薬を放棄した場合、迎えに上がることとなるだろう。」
「あぁ、そう。助けてはくれねぇってか。」
「傭兵に裏切りを求めるな。我とて盲目なわけではない、行動しない範囲でなら、自らが正しいと思うことを口走る、それだけの話だ。」
「……。」
何も口にすることが出来ない。鋼鉄の男は、手に持ち、灯りにかざしていた霊薬をゆっくり机の上に置いた。
そして。
「お、お前っ、何を!」
栓を開けたのだ。
「霊薬が何故同じ瓶に入ってるのか、貴様は知っているか?」
「そ、そりゃあ、霊薬は保存が効かないから、こうして密封しなきゃならないんだろ!?それが分かってんなら何故。」
「ならば、良し。その霊薬は、貴様が使おうと、使わまいと、あと半日もすれば失効するだろう。我もまた、それに合わせて半日後、この店へ再び来よう。それまでに、我が大長老より作戦成功の報を受けているのなら、貴様は永劫の安泰が長老会より約束される。そうで無いのなら、貴様の破滅が待っているだけだ。」
「そういう、ことかよ……。」
「どちらの選択を取るにしても、貴様は最後まで選びあぐねるだろう、そう判断した。なれば、期限を設ける他に無い。」
鎧が軋み、板のぶつかり合う音が響く。彼は既に、この厨房から出て行こうとしていた。
待て。
そう、声をかけたい。
でも出来ない。何故なら、そうしたところでかける言葉が無いからだ。
ウラヌスは後ろ姿を、足音を、見送るしかない。
静寂は直ぐに再来した。
彼は、煙を立たせ始めた霊薬を前に、困惑する他無い。
失効まであと半日。
今まで通りなら、空様と宮畑が、あと六時間程度で帰って来るだろう。
「それまでに決めろってか……。」
俺は生きたい。でも、仲間は裏切れない。
彼の中で二つの欲求がくるくると回り続ける。それは、ウロボロスのように終わりの無いもののように、ウラヌスは感じていた。
*
「ありましたぁ!」
大きな僕の声が、清流沿いに響き渡る。
手には水仙。美しい純白の花弁は摘み取られて間も無い今、美しく照り映えていた。
まだ陽も高い、そんな頃合いのことである。
いつもより割と早めな発見だった。
「ふふ。今日は、先を越されてしまいましたね。」
遅れて、空様。
こりゃあ結構頑張ったんじゃ無いですかね。
何度も何度も息を切らしながら走って。……時々、笑顔の彼女に先回りされて。
楽しく探索を行なっていた僕は、やっと自分で見つけられのである。
「良かったぁ、最後の最後で先に……。」
「気にしていたんですか?」
「当然です!やっぱり、手伝う気持ちで同行を進言したのに、結局役に立たなかったなんて悲しいので。」
「同行者がいる、というだけで心労もかなり減るものなんですが……。」
まぁ、それでも、というやつだ。
そういう気持ちでやった方がやりがいもあるし。
「水仙……花言葉は、自己愛、神秘。時々思いますけど、花言葉を考えた人って、結構性格悪いですよね。」
良い意味しか無い花もそりゃ勿論あるけど、酷いものは本当に酷いよね。僕が知っている中だと、マリーゴールドとか、クロユリとか。
「様々な場所に伝わる伝承や、その花の性質といったものを中心に定められているらしいですが。そうですね、そのような意見が出るのも当然かと思います。しかし、花言葉というものは、幽世において大きな意味を持つのですよ?」
「あ、そう!それのことです!」
「……それ、ですか?」
思い出した。昨日、金盞花の余りにあれな意味を見て、花言葉は霊薬の材料にする上で重要なんですか、って聞こうと思ってたんだった。
「花言葉って霊薬を作る上でやっぱり大事なんです?」
「あぁ。成る程、そのことについてですか。はい、大きく関わってきます。時間もありますし、少し散策しながら説明しましょうか。」
「はーい!」
よし、今回はゆっくり歩いてくれている。
「例えば、分かり易いもので言うと、媚薬が挙げられるでしょう。」
「びっ、びび!?」
そうかぁ、確かにそういうももあるよね。薬だもの。
「百鬼に睡眠欲はありませんが、制欲はありますから、そういうものです。弱いものから強いものまで、意外と流通していますよ。」
「恐るべし、百鬼の社会。」
とはいえ、人間の社会でも、強精剤とか普通に売ってるか。何だったらチョコレートって昔は媚薬だったんだっけ。
案外同じようなものかもしれない。
「媚薬を作るに当たって、レシピは幾つかあるのですが、メジャーなものですと大きく分けて五つ。イベリス、エキザカム、オジギソウ、カトレア、クルクマ、です。」
「オジギソウは知ってる……けどあと聞いたことあるのはカトレアくらい……?ちょっと調べてみます。」
「はい、どうぞ。」
よくパッと材料の名前が出てくるな、と思いつつ、僕はスマホ……は電波が届かないので、カタログを開く。
果たして、それは最後の方にあった。
「媚薬……の、あ、これか。イベリスの花言葉は、心を惹きつける、甘い誘惑。エキザカムの花言葉は、愛の囁き、あなたを愛します。オジギソウの花言葉は、感受性、敏感。カトレアは魔力、魅惑的で……。」
「クルクマ、はあなたの姿に酔いしれる、乙女の香り、ですよ。」
「これは……。」
中々どうして、確かに分かり易い。
ストレートに媚薬になりそうなものばかりが並んでいる。特に、オジギソウ。
お前そんな花言葉だったのか……。
「もし、この五つの花言葉が並べられていて、何の薬の材料か、と聞かれれば直感的に媚薬だと理解できそうな気がするでしょう。」
「そうですね……少なくとも愛、特に性愛に関わるものだろう、という見当は付きそうです。」
「あなた様は以前、私が言霊について少し触れたのを覚えておいでですか?」
「それは、当然。」
本名に纏わる話で空様が言ってたやつだ。
誰もが言ってはいけない、という風に扱っているせいで僕も触れてこなかったけど。
「ふふ。ならば、話も早いですね。つまり、幽世では名前を始めとして、言葉の持つ意味が現世より強く、如実に現れる。これは私の名前だけでなく、花言葉にも言えることです。花の持つ効力や成分以上に、幽世ではその意味が重視されます。」
「だから、僕が作ろうとしている絶縁の霊薬は、ちょっと不穏な意味のものばかりが集まっているんですね……。」
「蓮は確か、離れゆく愛、や神聖、清らかな心。金盞花は、離別に関わる意味多数。絶縁の霊薬を構成する花々には、大抵神秘的な意味か、離れることに関係する意味が含まれていますね。まさしく神秘的な力を絶つ、そんな薬ということです。」
「幽世の常識って現世とはまた違って面白いですよね……。」
「その為、時折根幹の倫理観の違いが露呈してしまいますが。」
「それは確かに。」
百鬼夜行とかね。あんなものが当然のように行われる価値観って、理解できる気がしない。
「ふぅ。空先生、ありがとうございました。」
「ふふ、いえいえ。忘れずに覚えて帰ってくださいね。」
「はい!」
教えて貰ったことは忘れない。その為に復習する。大変なことだけど、大事なことだね。
実際出来ているかは聞かないでください。
「では、もうそろそろ帰りましょうか。」
「そうですね。」
陽が大きく傾いてきたわけでは無いけど、やることがあるわけでもなし、ここはさっさと撤退するのが吉である。
結局外は危ないところなわけだからね。
「じゃああなた様は睡眠薬を――」
そう、言いながら、ポーチから瓶を取り出そうというところで。
空様は突然、視線を山の麓の方へ向けた。
「……。」
一段と強く、風が吹く。それは髪の毛を根本から持ってかれそうなくらいだ。
でも今はそんなこと気にしてられない、空様の様子が明らかにおかしい。
「どうしたんですか?」
「……。」
「空、様?」
「まさか……今から?ここで?」
明らかに、驚きを隠せていない様子だった。
彼女がこのような反応を見せることなど滅多に無い。仮に見せたとしても、すぐに立ち直るのが常だ。
でも何だか、そういうわけでも無いようである。
「宮畑さんには、見えませんよね。」
「何がですか……?」
「霧、です。」
「え、は、は⁉︎」
さっきあんな話を聞いた上で霧、だなんて言われると、最悪なことしか思い浮かばないんですが。
「冗談ですよね?いつもの、ブラックな。」
「いえ、違います。今はまだ微かなものですが、これは明確な百鬼夜行の予兆です。」
「ここでやろうということですか⁉︎」
「そうなります。標的は、麓の小さな街でしょう。時代が変わっても、小さなものであれば、容易く百鬼夜行は街そのものを飲み込みますから。」
「そ、そんなの。これって。」
「はい。私たちがここにいるのを理解した上での行動でしょう。昨日の騒動から分かっていたことではありますが、長老会は絶縁の霊薬の材料の産地を狙って動いていますから。」
「……。」
つまりこれは、彼らなりのメッセージなのかもしれない。
止めに来い、さもなくば、と。
「一つ、聞いても良いですか?」
「はい。」
「霧の広がり具合を見て、あとどれくらいで百鬼夜行が始まる、とか予測出来ますか?」
「ふむ……。」
空様はその広い視野を活かして麓を一望し、そして経験との間でデータを擦り合わせる。
どうやら、ある程度なら可能なようだ。
「現在時刻は?」
「十七時を過ぎたくらいです。」
「となると、これから一気に暗くなっていく時間帯ですね。」
「そう、なると思います。」
「目算、約一時間。日の入りに合わせて準備を行なっているように感じます。」
「……一時、間。」
なら、仕方が無いか。
僕は、少しだけ覚悟を決めていた。
「空様。」
「どうしましたか。」
「止めたい、ですよね。百鬼夜行。」
「……。」
「いつもの速さじゃ、僕をアイビーに送ってまた戻る、なんて難しいはずです。空様ならもっと早く動けるかもだけど、僕が耐えられるか分からないし。だから、止めようと思うのなら、今から僕を連れて行動するしか無い、ですよ。」
さっき、そういう話を聞いたばかりだ。何十回、何百回、と百鬼夜行の中人間を守る為に尽力していたんだって。
今の彼女がそうなのかは分からないけど、少なくとも百鬼夜行に対して何も思わないのであれば、このような反応は見せないはずである。
「私が告げるべくも無いと思いますが。これは確実に罠です。私はあなた様を最優先に行動しますが、あなた様は少なからず被害を受けるでしょう。もしくは、何かしらの取引を持ちかけて来るやも。それでも良いのですか?」
「大丈夫です。」
「最悪の場合、死ぬかもしれないのですよ?」
「問題だらけ、ですけど。脚、震えてますけど。恩返しです。今まで、僕の為に動いて貰ったから。今回は、空様のやりたいことを、手伝う番、です。」
「……そうですか。」
彼女は、麓を見渡すその眼を静かに閉じる。
空様も何か、考えているのだろう。もしかしたら、僕を無理矢理送り返そう、だなんて。
「信じてください。」
「……。」
「空様は最強!ですけど、僕が居たらもっと強くなれますよ!」
「……ふぅ。」
果たして、空様が取った行動は、僕の頭を撫でることだった。
「ん、そ、空様ぁ?」
「すみません。ただ、嫌な予感がするのです。長老会は、極めて厄介な組織です。私が力を振るうだけでは、どうにもならない可能性が高い。その場合、あなた様は一人になってもしゃんと立っていられますか?」
「そんなこと聞かないでくださいよ、縁起でも無い……。」
「こういう時に、聞かずには居られない性分なのです。約束できますか?」
「……それは。」
「どうですか?」
空様の大きな、真っ黒の瞳が目前に迫る。これが、圧というものか。
ただ、頷きでもしないと、彼女は安心できない。そういった雰囲気だった。
「分かり、ました。」
「良いでしょう。」
「その代わり、こちらからも一つ質問させてください。」
「何ですか?」
これは、今まで気になっていたけど、言葉にはしてこなかったことである。
「空様って、僕を百鬼に喰わせないことで、より楽に食事を楽しみたい、というのが協力の理由でしたよね?」
「仰る通りです。」
「本当の理由を、隠していませんか?」
「……成る程。隠し通せているとは微塵も思っていませんでしたが、ここで尋ねられるとは。」
「やっぱり。」
おかしいとずっと思っていたのだ。そんな適当な理由で、僕へここまで介入してくれるはずが無いもの。
「しかし、今すぐにはお答えできません。」
「何でぇ!」
「問題が生じるからです。特に、今のような状況では。」
「問題……?」
彼女は一度、深く息を吸い、そして吐く。
「今日、アイビーに辿り着いた後にお話ししましょう。」
「うぅん。」
空様が、言わないと言ったことをその場で話してくれたことなど一度も無い。
ずるいなぁ、と思いつつ。まぁ、仕方が無かった。結局僕って、彼女に頼ってる側だし。
「では……止めに行きますよ。」
「今すぐにですか⁉︎」
「善は急げ、です。」
「……そ、そりゃそうですよね。」
僕は一瞬、戸惑いながら深呼吸をする。
そう、そうだ。何をするにしても、余裕を持って。
僕なら大丈夫。僕と、空様なら、大丈夫。
急造コンビだけど、並大抵のコンビにゃ負けない自信があるから。
「良いですか。」
「はい!」
「では、私の腕の上にお座りください。バランスはこちらで調整しますから。……舌は、噛まないように。」
僕を抱えたまま、彼女は心無しか強めに足を踏み込む。
轟音。土埃。
いつもよりそれらは分かり易く、僕へ降りかかった。
でもそんなものは気にしてられない、それ以前の巨大な脅威が、既に目の前で聳え立っていたのだ。
ザザザッと踵でスピードを調整したり、時折ジャンプしたり、とスキーのように斜面を滑り降りて行く。
「優さん!あれが見えますか!」
「あっ、あれ、ですか⁉︎」
街全体を霧が覆っていく様子を、空様は指差した。
その様子は一見、美しくもあるが、惨劇の前兆としては余りに穏やか過ぎると言えよう。
見惚れていれば、犠牲になるのも当然の話だ。
それが、何となく、僕は気に食わない。
「覚えておいてください、あの薄紫色の靄が、私たちの呼称する霧です。」
「想像以上に……何の変哲もないものなんですね!」
強いて指摘するなら、地上付近で不自然に滞留していることか。
ただ、正直そんなものは偶然で済ませる程度の要素である。
仮に百鬼のことを知っていたとしても、気づけるかどうか。
「あれが、人間を恐怖に陥れる元凶なのです。完全に街を覆い尽くした段階で準備は整い、大長老の合図でもって、百鬼夜行は始まります。一度幕を開ければ、山のように死体が積み上がることになるでしょう。」
「人間は百鬼に対する抵抗手段を持たないんですもんね……。」
「現世に存在するものでは、百鬼を殺すことはできませんからね。それを可能にするには、何かしら特殊で、概念的なものが無いといけません。」
「……つまり、空様の捕食は単なる『捕食』では無く、概念的な後押しのある特殊なもの、ということですか?」
「そういうことです。まぁ、消化してしまえば大抵どうにでもなるとは思いますけれど。」
「……。」
空様の謎がまた一つ、増えたような。
「ふっ。」
「わわっ。」
一際目立つ大ジャンプ。
踏み台となった大岩は無論、砕け散る。それに、着地場所となった池の水は、まるで大質量が投げ込まれたかのように宙へと投げ出された。
僕は浮遊する水滴に囲まれながら、再び風を受ける。
「ふふ、こんなに動くのなら、靴を脱いでおくべきでした。」
「裸足の方が、動き易いんでしたっけ?」
「それにこんな無軌道な動きをしていれば、靴が壊れてしまいます。お気に入りだったのですが、致し方ありませんね。一息つけそうな場所でどうにかします。」
「僕なんかが裸足で居たら、枝が刺さって血だらけですよ……。」
本当、小学生の時の組体操とか地獄だった。何が悲しくて、現代人の柔らかくて敏感な足裏を晒して灼熱の校庭を駆け抜けなきゃいかんのだ。
痛くてヒリヒリして、その上洗うのも面倒、と三拍子揃っていたように思う。
ちなみに今の小学生は、組体操とかやらなくて良いらしい。本当に、良かったね。
こんな思いはするべきじゃ無いと思うよ、うん。
「もうそろそろ、麓付近に到着します。この辺りには丁度平地があるはずなので、その場所で体勢を立て直し、長老会の本拠地を探すことにしましょう。」
「本当、速いですね……。」
「私が、私のやり易い速度で移動したらこうなりますよ。」
「いつもはゆっくり動いでくれて、ありがとうございます。」
「いえいえ。……あぁ、それと。」
彼女は、今思い出したかのように、付け加える。
「私たちの動きが長老会にバレている理由の考察を、少しだけ。」
「はい。」
「私たちの目的と、日程をバラしたのは恐らくウラヌスさんです。」
「え、えぇ!?」
「それと、道中の動きを概ね予測し、報告を行なっているのは薬剤師です。」
「う、嘘ですよね!?」
いや、嘘だと言って欲しい。そんな、周りが敵だらけじゃないか。
それにウラヌスさんがそんな裏切りを……でも、少し動きの怪しい日はあったか……?
ただ、こう明言されるとショックである。
「本当です。ただ、私に何かあった場合は、彼と彼女を頼ってください。」
「どういうことですか!」
「二人はろくでなしです。しかし、私の友人でもあります。あなた様が頼るとなれば、最終的にあなた様の味方となるでしょう。」
「そんなのって……。」
情報量が多過ぎるし、急過ぎる。
二人は裏切り者です、でも信じて良いですよ、なんて。
どういうこと?
「さぁ、最後に跳びますよ。」
「え、いや、ちょっとぁ、うわあああああああっ!」
あはは。もう滅茶苦茶だ。感情も、思考も、空様も、ジェットコースターみたい。
僕は周囲を顧みず叫ぶ。
そしてそのまま、空様と共に霧の中へと突っ込んでいった。
*
「ひ、酷い目にあった……。」
「ふふ、耳に心地良い悲鳴でしたよ。」
「そういう所はまさしく百鬼、ですよね……空様は。」
「はい。正真正銘の百鬼ですから。」
彼女はいつに無くニコニコとしている。
もしかすると、僕の叫び声は本当に癒し効果があるのかもしれない。空様に対してだけ。
「さて、まずは靴を脱いで……。」
足のサイズ的に、すぽっ、よりかはずぽっ、の方が似合ってそうな光景。ただの革靴なんだけどね。
見るからに人間用じゃない。まさしく人外らしい。
「では行きましょう。」
「あれ、靴はどうしたんですか?」
「ここに。」
すいっと空様は腰のポーチを強調する。
凄い。そんな所に入るものなのか。もしかすると薬剤師製のポーチだから特別性能が良いのかもしれない。あの人は、人格はともかく仕事は出来る人なのだ。
「霧が濃いと、転び易いですし。離れ離れになるといけませんから。万が一の為に、手を繋ぎましょう。」
「はい……。」
彼女に差し伸べられた大きくて厚みのある手を、僕は掴む。
こうして貰えるだけで寂しさが幾分薄れ、やる気も出てくるのである。
「もう、数メートル先は全く見えませんね……空様は良く足元に気を使わず歩けますね?」
「私は慣れきっていますから。百鬼夜行自体、もう見慣れた光景です。それを許容するかどうかは、また別の話ですが。」
「そうでしたね……。」
確かに三桁レベルの回数経験していれば、感覚だけでどうにかなるものか。
僕にとっては、というか大半の現代人にとっては、珍しいものだけど。
「……周囲の百鬼の気配がみるみる内に膨れがっています。」
「全然、分からないですけど……そうなんですね。」
「はい。再度の確認になりますが、やはりこの霧は百鬼によるものと見て間違いありませんね。」
「違ったら違ったらで、良かった、で終わるところなのに……。」
「仕方ありません。出来るだけ早く、これを喰い止めましょう。本来多くの時間をかけて準備を行うはずの百鬼夜行を、殆ど感知させずに執り行うことは不可能です。にも関わらず、今回の百鬼夜行は前兆が微かにしか存在しなかった。つまり、突貫工事のものであることは火を見るより明らかなのです。」
「隙があるはず、と。」
「もしくは百鬼夜行の他に、目的があるか。いずれにせよ、喰い止める方法は必ずあると考えられます。」
「……。」
そうであってくれ、と僕も願う。百鬼に詳しい彼女がそう言うからには、何かしら明確におかしいところがあるんだろうけど。
昔話や映画に出てくるような優しい百鬼夜行しか知らない僕にゃ、判断が付かない。
「気晴らしに少し、明るい話をしましょうか。」
「待ってました!」
「短いものになりますけれど、陰鬱とした雰囲気に圧倒されるくらいならそちらの方がずっと良いですからね。優さん、ほんの少しお耳を拝借。」
「はい。」
僕は無防備にも、耳を差し出した。
「……優さん、筋肉好きですよね?」
「へ?」
突然尋ねられる、僕の趣味嗜好。思わず変な声が出る。
「何となく予想はついていたのですが、昨日のお風呂で確信致しました。」
「そ、そんな変でしたか……?」
「いえ、変ではありませんでしたよ。ただ、優さんの反応が分かり易い。それだけです。」
「ゔゔ。」
はい!はい、この人ニヤニヤしてます。絶対楽しんでます。
「まっ、まぁ、かっこいいなぁ、なんて?思い、ますよねぇ?」
「声が裏返っていますが。」
「わざわざ指摘しないでください。」
「ふふ。いえ、それなら、優さんにはこれからちょっとサービスな時間が始まるかもしれませんね。」
「え、それは――」
瞬間。僕と繋いでいる手とは逆の、左腕が視界をジャックする。
そして、銀色の閃光が迸った。
「私がある程度、しっかり戦うことに、なるわけですから。」
「……ぬぅっ!」
く、黒い、鎧の男が。突然、視界の向こうから飛んで来た。
それも、長い剣を抜いた状態で。ただその一撃は僕へ届かず、彼女の腕に受け止められる。
彼は押し切れないと判断したか、空様の力を逃しつつ間合いを取って着地した。
濃い霧の中、男のシルエットはギリギリ見えるか、見えないか、くらいだ。
「悲しいですね。とうとう、お気に入りの背広に傷が付いてしまいました。」
地面を見れば、確かに布切れが無惨にも散らばっている。
ただ、彼女自身は怪我を負わなかったらしい。血のようなものは見当たらなかった。
「ハハ、流石は黒き炎の君。我の剣では、傷つけること叶わぬか。」
「その声、その姿、その剣筋。ジェラルドさんですね。」
「……ジェラルド……?」
初めて耳にする名前だ。
「かつて存在した傭兵隊の長を務めていた人です。頑強さと剛直さでその名が通っていた人で、今も彼の名前は大役を任せるべき傭兵の例として度々挙げられています。今もフリーランスで活動していると聞き及んではいましたが。まさか、このような所で。」
「貴様と会うのは、何年振り、いや、何十年振りか。」
「少なくともこのような場で明確に敵対するのは、初めてのことですね。」
つまり、彼は百鬼であるらしい。
「僕を見ても大丈夫、なんですか……?」
「我が、か。ハ、ハハ。凡百の、理性か細き百鬼であればそうなるだろうな。しかし、我が、他者による影響で捻じ曲がることはない。常に見定めるは、己の鍛錬により、高みへと昇ること。よって、貴様を食糧として見ることはあっても、その為に狂うことはないのだ。」
「彼もまた、薬剤師や大長老といった百鬼でも上澄に当たるタイプのひとですから。現世を彷徨い、あなた様を追いかけ回す様な百鬼とは違いますよ。」
「そうですか……。」
ちょっと安心、だけど。逆に言えば、それだけの力を持つ百鬼がまだ敵に……。
「それで。あなた様がこうして姿を現したのは、私と一戦交える為ですか?念の為応戦させていただきましたが。」
「いや、そうではない。我は貴様が鈍っていないか、そして自らがどれくらい成長したのか、この一撃で試しただけだ。もし貴様が昔のまま、もしくはそれ以上であるならば、易々と我の剣を受け止めるだろう。逆に我が貴様を上回っているのならば、この作戦自体不必要なものとなる。貴様は悠々と弾き返してみせたが……やはり、記憶通りの剛腕だな。」
「ふふ、ジェラルドさんが武人気質であることにも、変わりはないようで。」
「何度も言わせるな。我は変わらぬ。」
……なんか、旧友同士、という感じの会話。ともあれ、空様がある程度敬意を表している時点で、彼がただ悪辣な百鬼というわけではないと分かった。
「本題だ。我は、貴君らを、長老会の本部へ護送する。」
「それは、幽世の?」
「いや、百鬼夜行の為、臨時で設けられた現世の本部だ。」
「ふむ。……分かりました。行きましょう、優さん。」
「はい。」
「随分と素直だな?」
「百鬼夜行は力勝負でどうにかなるものではありませんから。」
「貴様であれば、全てを破壊することすら可能だろう?」
「必要以上の暴力は、守りたかったものすら破壊してしまいます。」
彼女は不意に、僕の手を握る力を少し強めた。
僕もその守りたいものの一つ、ということなのかもしれない。嬉しいこと、だが。
「そうか。いや、良い。やはり貴様は、我が認めるに値する戦士だ。」
「……。」
彼は徐に歩き出す。背中だけで、着いて来いと言っている様だった。
「ジェラルドさん。」
「何だ。」
「あなた様は、大長老に雇われたのですか?」
「俺の持っている、巻貝は知っているな?」
「あぁ、成る程。それを使って、やり取りを行ったのですね。」
「……巻貝?」
何だ、それは。
「簡単に言うと、幽世における携帯電話です。巻貝の先から他の巻貝へと音を繋ぐことができます。」
「まんま携帯だ!」
百鬼にもそういう技術、あるんだね……。
「あなた様が仕事を内容で選ばない、という事実は存じ上げておりましたが。まさか、長老会からの申請に快諾したのですか?」
「その通りだ。我は、仕事を内容で選ばない。仕事の内容と、報酬が釣り合っているかいないか、それだけが我の判断に影響を与える。」
「つまり、私と真正面から戦う可能性を孕んだ任務と釣り合う報酬が、この世に存在したのですね。」
空様の声がスッと冷たくなる。脊髄が凍りつくようだ。側で聞いている僕でさえ、その様子に震えを覚える。
「勿論、そんなものは無い。よって、奴らには値段の書き記されていない小切手を用意させることにした。」
「よく、長老会もそれであなた様に仕事を持ちかけましたね。」
「此度は、奴らにとって一世一代の大戦なのだろう。長老会は実にくだらぬ組織だが、そのような場へ赴こうとする百鬼を、我が嘲笑うことは無い。契約が続く限り、その顛末をこの眼で見届けよう。貴様がその時、存在を保っているかどうか、見ものだ。」
「……。」
「あと少しで、到着する。何があっても良いよう、準備は済ませたな?」
「勿論です。……優さんは?」
「大丈夫です。心の準備も、うん。」
「行きましょう。」
僕たちは、深い、深い霧の中を行く。
歩けども歩けども、視界に入ってくる景色はずっと同じで、終わりなき旅の様にさえ感じられた。
でも、永遠なんてものは無い。特に、これはただの錯覚だ。
ジェラルドの言葉通り、やがて視界に淡い光が飛び込んできた。
「これは……?」
「優さん、飲み込まれないように。」
太鼓の音。百鬼たちの掛け声。
様々な横笛の奏でるメロディー。
段々と情報が鼓膜を通って流れ込んでくる。
まさしくそれは、誰もが思い浮かべる祭りのものだった。ざわざわ、という感情の入り混じった声は、屋台前の喧騒を彷彿とさせる。
そして。
「わぁ……。」
霧を抜け、僕は全てを眼にした。
真っ赤な垂れ幕と紺の装飾に彩られたやぐら、見上げんばかりの大きさの百鬼によって担がれる幾つもの神輿、それらを無数の蝋燭が幻想的に彩どっている。
これが魑魅魍魎の跋扈する、百鬼夜行。
「こっちに来い。安心しろ、奴らがお前を襲うことは無いからな。」
「それは――」
大長老の言っていた、統括権というやつか。百鬼を完全にコントロールして、僕を目の前にしても理性が飛ばないようにしてある、とか何とか。
「……。」
とはいえ、チラリチラリと襲われないながらも、視線は感じてしまう。
気にはなるんだなぁ僕のこと。
「……できるだけ、私のそばに。彼らのコントロールの信頼性は不明です。」
「はい。」
「……着いたぞ。」
そこに置いてあったのは、巨大な長机だった。
僕と空様が立っているのは、その右端。そして、対岸には、彼が立っている。
「呵呵、やっと到着したのう。日没までもう三十分と無いではないか。」
「丁度そのくらいになるよう仕掛けたのはあなた様の方でしょう?」
「そうさな、そのような見方もある。とはいえ。突如として現れ、言葉も交わさず、老人の身体を擦り潰すような女から非難を受け取るだけの度量を、儂は残念ながら持ち合わせておらんのだ。」
ぐにゃっと大長老の眼球無き眼孔が、不敵に歪められた。何とも意地の悪い。
「ジェラルド。」
「何だ。」
「これ以後は長老会が請け負う。貴君は下がって良い。」
「分かった。今すぐにでも、立ち去ろう。」
「呵、何とも実直な男よな。」
そして、ジェラルドは僕と空様の方に身体を向ける。
「では、貴様らの行く末を楽しみにしているぞ。」
「……。」
何も。掛けるべき言葉が見つからない。その背中を見送るしか僕にはできなかった。
「うむ、彼奴もまた、興味深い男であるな。あのような男は、他に例を見ない。」
「……そんなことを、話し合う為にここへきた訳ではありません。」
「ほほう。」
「百鬼夜行の打ち止めを要求します。」
空様の発した言葉は、一切のオブラートが存在しない、ストレートなものだった。
「呵呵。何を言うかと思えば、百鬼夜行の打ち止め、と。既にここまで準備を行い、傘下のものどもにやる気を振り撒いたところなのだぞ?求めるにしても、時期というものがあるであろう。」
「何を言うか、はこちらの台詞です。長老会はわざわざジェラルドという一級の傭兵を使役し、私たちをここまで連れて来させたのですよ?あなた様方が、私たちと何かしらの交渉をしようとしていたことなど明白です。それを、そのような浅い言葉の数々で、誤魔化せるとでも?交渉で優位に立とうと考えているのならば、せめてもう少し上手な方法を選んでいただきたいものですが。」
「どうしたのかね、言葉がいつもより強いでは無いか。」
「だから、何だというのですか?」
「そのように前のめりでいられると、取引に入りづらいと言っておるのだ。……いやはやしかし、そのように言われると、しらを切っている己が馬鹿らしくなってくる。なればこの会議。より踏み込んだものとすべく、長老会の決定権保持者たちを呼び寄せるとしよう。」
老人は机を軽く指で鳴らす。
突然何かが動いてくる……そのような前兆は全く無かった。もしそうであれば、僕はともかく彼女が気がついていたはず。
ならばそれは、テレポートか。
「……。」
瞬きも許されない内に、総勢八名もの百鬼が、ノイズを伴い机を囲うようにして現れる。
「ほほう、此奴が。」
「確かに味わい深い香りの漂う人間だ。」
「ハハハ!より腹が空いてきたというもの!」
「……大長老殿、準備に忙しい我らを呼び寄せるということは、そういうことですね?」
「呵呵、騒がしき我が同胞よ、先ずは席につきたまえ。」
「空様……この百鬼は……?」
彼女は、その瞳を真っ直ぐ大長老に向けたまま、ゆっくり口を開いた。
「大長老の元に集う、八名の長老たちです。大長老を合わせて九名のメンバーにより、長老会は構成されていますから。」
「……。」
つまり、この場に有力な百鬼が大集合している、ということだ。
「まず、皆の衆は、黒き炎の君の話を聞くが良い。そうすれば、この状況が理解出来よう。……さぁ、話すのだ。その、大胆な要求を。」
「一字一句そのまま言わせていただきますね。百鬼夜行の打ち止めを要求します。」
「……。」
「……。」
静寂が漂う。まさに、長老たちは信じられない、といった様子で。
最初に口を開いたのは、赤肌でお腹の出た、恰幅の良い百鬼であった。
「なら、この俺の空きっ腹はどう、満たせってんだ?」
「私と同じように、百鬼を食べてみればどうですか?案外味は悪くありませんよ。」
「馬鹿なこと言ってんじゃねぇ、喰えたもんじゃねぇだろうが!」
「食べたことがおありで?」
「……まぁな。」
信じられん、という目線で赤肌の百鬼を見つめる、他の長老たち。
どうやら、そこまで結束が強い訳では無いらしい。
「食欲で、この問題は語れんよ、貴君。その腹は自らの御殿に用意された美食で満たせば良かろう。ただ、これは交渉だ。長老の皆、この要求をどう考える?」
「論外だ。」
「受け入れるべきでない。」
「馬鹿馬鹿しい。」
「奴らは所詮餌に過ぎん。」
「長老会の決定は絶対です。」
「妄言も大概にしていただきたいものですな。」
「我らが受理しても、我らの下で従事している者共が拒否するだろう。」
「……ふむ。」
拒絶の嵐。予想していたことではあったが、完全にアウェイと言える状況だ。
交渉材料が用意出来れば話が違ったかもしれないけど、余りに突然過ぎる予兆は、想像以上に事態を難解なものにしていた。
「とのことだが、空、そして宮畑優。彼、彼女らの考えを、覆すだけのものはあるのかね?」
「まず、あなた様方が強行すれば、私は人間を守ろうと全力で抵抗することになります。その場合、末端の皆様は勿論のこと、長老の皆様の命は保証できません。」
「貴君を敵に回すことになるが、それでも良いのか、ということかのう。どうかね?黒き炎の君を相手に、百鬼夜行を執り行うことは可能かね?」
「多くの場面で、問題は生じるでしょう。彼女は、多くの戦乱で前線に立ち、無数の百鬼を腹に収めてきた怪物です。ただ、それはこちらも同じ。我々もまた、彼女に襲われると分かった上で、何度も戦を経験してきました。百鬼夜行を完遂すること自体は可能と思われます。」
百鬼が、百鬼に怪物と呼ばれる。僕にとっては少し、不思議な気持ちだ。
「想定犠牲者の割合は?」
「彼女の執念にもよりますが、半数の犠牲を覚悟すべきかと。」
「呵呵、恐ろしい話よな。しかし、一度撤退すれば、無辺の幽世において、空が儂らを追うことは叶わぬ。一度強行して様子を見る手もあるだろう。加えて。」
大長老が、空様を見つめた。
「ここまでの戦力差、人数差となると、貴君も無事では済むまい。」
「長老八名、大長老一名、傭兵少なくとも一名以上、それに百鬼が多数。……確かに、私もまたある程度の消耗を強制されるかもしれません。」
「なれば、貴君の抵抗は、百鬼夜行の中止に足るだけのものかね?百鬼を倒すことなど一瞬で出来るであろう、貴君であればな。しかし、殺すとなるとどうしても、時間が掛かる。喰らわねばならぬからだ。果たして、貴君は長老会の軍勢と拮抗できるのかね?」
「他に、案を用意しろということですね。」
「用意したとて、我らは受け入れないでしょうが。」
細身の百鬼が、溜息を吐きつつそう呟く。
その手には時計が握られていた。時間が無いぞ、というアピールか。
「しかしそれは、私が人間を守る為に抵抗を行った場合の想定なのでは?」
「ふむ?」
「私が、長老と大長老のみを狙って。それも、私怨に身を任せたようなやり方で、抵抗を行えば。百鬼夜行は完遂できても、長老会そのものが消滅するでしょう。」
「……。」
ざわざわ、と長老たちが思い思いに言葉を口にする。
この女は本気で長老会を潰す気かもしれない。
いや、そんなことをすれば一部の百鬼に混乱が生じる。
百鬼夜行に恨みがあるのなら、長老会そのものへ恨みがあってもおかしくはない、などなど。
「貴君自身がどうなろうと?」
「はい。」
「呵呵、それはそれは。長老たちも、困ってしまうであろうな。」
「他人事ですね?」
「そんなことは無い。儂も、恐怖を前にうち震えることとなるであろう。」
「……。」
そんなことは無い、だなんて、絶対に嘘だ。何かこの老人は隠している。
「もう良いでしょう。」
「何かね?」
「このような会議は茶番、そうですね?」
「呵呵、何を言うかと思えば。」
「受け入れる気の無い要求の為に、あなた様はこれだけの長老を集めるのですか?」
「ふむ?」
「あなた様は、元より百鬼夜行を取り辞める準備がある。そして、それを受け入れるだけの理由も。ただ、それを、あなた様から言うのではなく、私の方から言わせようとしている。全ては、私の提案であり、そこに長老会の意思は無かった、とする為に。」
「それに、何の意味がある。」
ふぅ。空様はゆっくり深呼吸をしながら、僕の手を離した。
「空様……?」
「優さん。あなた様なら大丈夫です。もう、手を繋いでいなくても。」
「空様、それは。」
「大長老。そして、長老会の目的。それは、没落した長老会を再び、百鬼を統べる大組織へ返り咲かせること、そうですね?」
「……。」
そ、そういうことなの!?僕は頭の中で混乱する。
空様は長老界の内情に詳しくない、とか言ってたけど……それは嘘だったのか。
いや、冷静に考えれば、百鬼夜行を喰い止めようと過去に活動していた百鬼が、その元締めである長老会について詳しく無いなんてことあり得ないだろう。
僕が浅はかだった。
「呵呵、良く。良く、調べておるな。その通りだとも、儂らの目的は、再び長老会を看板通りの強権を持つ組織に返り咲かせることだ。そして、その為には不可欠な実績がある。」
「私の封印、ですね。」
「封印⁉︎」
それって、文字通りの意味、だよね?
「百鬼における処刑法の一つです。封印用の棺に百鬼を収め、専用の札を作成し、貼り付ける。このままでは外界からの干渉で開封が可能なので、地中深くに埋める。極めて回りくどい方法ですが、札には細かな誓いを書き込むことで罪人の要望を叶えられますし、何より殺す必要が無いので、私のような存在を排除するには手っ取り早いのです。」
「で、でもそんなことしたら……。」
「はい。私は百鬼夜行を阻害し続けたという罪が許される日まで、地上に出ること自体許されません。」
「受け入れるというのか?」
「……。」
「だ、ダメですよ!」
「優さん。何故ですか?」
僕の口から咄嗟に、静止の言葉が飛び出す。
なんで、なんて説明出来ない。でも、ここで止めなくちゃ、絶対後悔する。
彼女には尽くして貰ったけど、僕は何もしてあげられてない。
「そんなことするくらいなら僕が――」
封印されますよ。なんてことを言いかけて。僕は彼女に口を塞がれた。
「優さん。勢いで出た言葉だとしても、そのようなことは考え無しに口にしてはいけません。それに、そのようなことをしても、彼らにとっての問題は解消されないのです。」
「問題……?」
「はい。彼らにとって、最も邪魔な存在なのは私なのです。何故なら……。」
「長老会没落の要因。それこそ、その黒き炎の君だからだ。」
……どうやったらそうなるんだ?僕は、理解の為に思考を回す。
「百鬼夜行は、ここ百年実行に移すどころか、議題に上がることすら無かった。悲しいことに、参加を表明する百鬼がここ数百年の間に激減し、費用がメリットに見合わなくなってしまったのだ。大抵の参加拒否の理由がこうだ……最早百鬼夜行は、楽しく人間を捕食出来る宴で無くなってしまった、と。」
「私が、至る所で百鬼夜行を阻害していたから、ですね。」
「その通り。百鬼は確かに、生存に重きを置かず、捕食による強化にこそ、重きを置く。だから、百鬼夜行の安全性などどうでも良い。しかし、捕食を基礎とするからこそ、これを阻害するような存在には強い悪感情を抱くのだ。人間もそうであろう。食事を邪魔されれば、仮に食事が一番に来るような生命で無かろうと、怒りや憎しみを覚える。」
「……。」
僕も確かに、食事をしつこく邪魔されるのは嫌だ。
それに、長老会が没落するロジックにも頷ける。
彼女の努力は、確かに百鬼夜行の撲滅に繋がっていたのか。それは喜ばしいこと、だけど。
「奴ら凡百の百鬼はそれを理由に、百鬼夜行を見放した。当然、百鬼夜行を基軸として権力を握っていた我らも、見放されることとなった。儂がこの座に就いたのは、そんな折のことでのう。儂に課された最優先事項とは、この女を排除し、宴を再び快楽に溢れるものとすることだったのだ。」
「……。」
「呵呵。覚悟は、出来ておるということだな。」
「そ、空様!そんなこと受け入れたら。」
仮に今回の百鬼夜行を食い止めたとしても、それ以降何度だって引き起こされる悲劇は食い止められないじゃないか。
でも、何だろう、彼女の顔は、それだけが理由じゃない、と語っているようだった。
「しかし、その場合。もう二つ要望があります。」
「何だね?言ってみるが良い。」
「まずはジェラルドさんと話をする時間をください。」
「ほう、奴と?」
「はい。」
「ジェラルドを永劫に雇い、百鬼夜行を阻害させても意味は無いぞ?奴ならば儂らだけで対処可能だ。このような事態に陥ったのは全て、貴君が黒き炎の君であったからに他ならぬ。それは、理解しておるな。」
分かっています、とばかりに空様は深く頷いた。
そして、彼女の優しい手が僕の頭の上にふわりと乗せられる。
「次に、この人間に。宮畑優に、未来永劫手を出さない、と。少なくとも、長老会及び百鬼夜行は被害を及ぼさない。そういった誓いを、私の封印文に加えてください。」
「!」
もしかして、それが?
「呵呵、仲間想いよの。」
「それで、十分です。」
「空様!」
「では、交渉成立だ。」
「はい。」
「空様!」
僕が出来るだけ声を張り上げて、彼女の身体を揺らしても。
空様は全くびくともしない。服が少しズレる程度で、その体幹には全く太刀打ち出来ない。
最早、こちらを見ることすら、してくれなかった。
なんで、こんなこと、余りに急過ぎる。僕の中では、何も整理がついていない。
「さて、長老の皆。ネタバラシの時間だ。もう、反抗するような演技はしなくて良い。」
「ふふ、大長老、お見事です。」
「流石の作戦、話術だったよなぁ!」
「俺の腹も、満たされちまうくらいだったぜ。」
「……。」
わっと、彼らは歓喜に包まれている。
彼女もまた、どこか悲しげながら、表情を変えていなくて。
外見も中身もぐちゃぐちゃなのは僕だけだ。
「空様ぁ……。」
最後に。
もう一度だけ、静かに、押し付けるように、無力感が伝わるように、彼女の名前を呼ぶ。
答えは無い。
ひたすらに、虚無だけが支配していた。
待ち望んだ、やめる、の言葉。
彼女はその場を立ち去り、ジェラルドの待機しているやぐらへと向かおうという時、一瞬僕が後をついて来ないかと振り返っていたらしい。
でももう、僕には立ち上がる余力すら残っていなかった。
素材集めで疲れ果てた身体を何とか支えていたはずの集中力、それが、完全に失われてしまったのだ。
宮畑優は今、煌々と光る無数の蝋燭と、騒ぎ立て続ける百鬼と、掻き鳴らし続ける楽器の音の真ん中で、取り残されている。
百鬼夜行は、かくして中止となることが決定した。
*
ぼんやりとした視界のまま、僕は彼女が棺の中へ踏み入るのを見守っている。
いつの間にか、スーツ姿から白装束に着替えていたようで、まさにこれから刑罰に処される罪人といった雰囲気を空様は纏っていた。
「あぁ……。」
もう、彼女はこちらに一瞥もくれない。
何故突然そう振る舞い始めたのかは、今のポンコツじゃ分からなかった。
「ふむ。存外、洋風ではなく、和風な服装も似合っているではないか。」
「私があのような格好を好み始めたのはここ数十年のことですから。白装束を着こなすことくらいはどうということもありません。」
「呵呵、そうかそうか。残念ながら、儂はここ最近の貴君のことしか深くは知らないものでな。まぁ、それは良い。」
大長老は、喜びを隠せぬ様子のまま、懐より封印に用いる札を取り出した。
「貴君の為に今、職人が書き記した札がこれよ。貴君の要求が一字一句記されておるかどうか、確認するのだ。」
「分かりました。」
僕の場所から、その内容を確認することは叶わない。しかし、少なくとも、彼女が大長老に要求した二つの事柄、それは記されているようだ。
彼女は黙読の後、何も言わずにそれを老人の方へ差し出す。
「問題ありません。要求通りです。」
「うむ。では、ここに血判を。」
「はい。」
指を噛み、血を滲ませ、判を押す。別物への入れ替えを防ぐ措置なのだろう。
「これで、封印前の諸準備は終了した。貴君にやり残したことは?」
「ありません。」
「ほう。そこに居る連れに言葉をかける必要も無いのかね?」
「……。」
寧ろ、もうかけないで欲しいかもしれない。多分僕は、一度掴んだ彼女の服の裾を、手放せないだろう。
「……はい、ありません。」
「そうか。ならば、この棺に入って貰おうではないか。」
「今すぐにでも。」
「空様……。」
無意識の内に、僕は彼女の名前を呼んでいた。
幻想的な雰囲気と、美しき花々に包まれた棺は、空様の最期を彩ろうとしている。
見ていられない。
「呵呵、想定以上にスムーズな進行に、儂も驚くばかりだ。貴君が協力的であれば、これ程までに物事は上手くいくものなのだな。」
「そうですね。私も、驚くばかりです。」
「ふむ。まぁ、良い。入ったな?」
「はい。ふふ、居心地の良い棺ですね。昼寝にはちょうど良さそうです。」
「呵呵、昼寝、とな。ではその、貴君の言う昼寝を、存分に楽しむが良い。……蓋を!」
儀式は、厳かな雰囲気の中、粛々と進行している。
蓋を閉じる、という大役は、それに見合う地位の持ち主、つまり長老の内選ばれた四名が担当していた。
「宮畑優。」
「……。」
「よく見ておけ、あれが貴様を守り抜こうとした女の区切りだ。」
「ジェラルド……。」
様々な言葉の記された木板が、空気の抜ける音と共に下ろされる。
僕の口を挟む間も無く。そして、僕にそんな理由も無く。
あっさりと彼女は棺の中に収まってしまった。
封印。
最後に、札が隙間を無駄なく覆う。
「呵呵!素晴らしい!儂らの悲願が達成されたのだ!これで、百鬼夜行は再び百鬼たちの宴に戻るであろう!化け物に百鬼が支配される暗黒時代は終わりを告げるのだ!」
「万歳!万歳!」
そうだろう。そうだろうさ。
百鬼にとっては、嬉しいことだろう。
天敵のような存在を、こうして排除できたのだから。
そして僕は、彼女のお陰で生き永らえる……それこそ、この眼を失うことなく。
当初のことを考えればハッピーエンド。そのはずだ。
「……うぅ……。」
「泣いているのか?」
「くぅ……うっ……。」
「だが、涙は何も生まん。それこそ、時間を浪費するだけだ。」
「うぅ……ずずっ。」
「聞こえていないのか?宮畑優、返事をしろ。」
僕はゆっくりその声の主の方へ顔を向ける。
頭のてっぺんからつま先まですっぽりと包み込んでいる黒鉄の鎧。
でもそんな姿も、涙でぐにゃりと歪んでいる。
「まるでこれから死ぬといった顔をしているな。」
「……そう、ですね、そんな気分です。無力感に、苛まれて……。」
「ふむ。まぁ良い、立て。」
「何でですか?」
「仕事だ。これからお前を、アイビーに送り届ける。」
「今すぐに?」
「今、すぐにだ。」
「……。」
今はここに座っていたいんだ、とばかりに僕は彼から目線を離す。
だが、ジェラルドは風評通り極めてまっすぐで、固い男だ。
こちらの心情なんてものは、仕事の邪魔であるらしい。
「自ら立ち上がることをしないならば、その脚は必要無いな?宝の持ち腐れだ、いずれにせよ我が運ばねばならぬとあれば、即刻切り落とす。」
「暴論だ!」
「ではその脚を使え。仮に我の考えが誤っているとしても、貴様にはそれを正すだけの力も、精神も無い。人間であれば、百鬼に力で敵う道理は無いが、せめてその精神だけでも、百鬼の上を行くという覚悟を持て。そうで無いなら、我がここで貴様を殺そうと、殺さまいと、近い内に同じ結果を辿ることとなるだろう。」
「そんなもの……。」
英雄とか、主人公とか。そういう、特別な人に当て嵌めるべきものでしょう。
僕は、少し不思議な眼を持つだけの一般人なんだ。
そんな、覚悟なんてもの。無いよ。
いや、あったけど、そんなものは容易く打ち砕かれてしまった。
「さぁ、どうする。わざわざ剣を使わずとも、貴様をどうにかすることくらい容易いことだ。黒き炎の君が命を賭して護ったものを無駄にするのか?」
「……。」
「痴れ者め。それでも、脚を動かす素振りすら見せ無いのか。ならば最早、用はない。即刻この場で――」
「いや、待ってください……。」
「何だ。」
「空様が、こんな簡単に、封印を受け入れたのは何故ですか?」
「ほう?」
「百鬼夜行を止める為に百鬼を食べるようになったくらい人間を守ることを一つの指針にしていた空様が、抵抗も無しに全てを投げ出すなんて。おかしい、ずっとおかしいと思ってたんです。納得出来ない。」
「……。ならば、確かめれば良かっただろう。」
「そんな気力、起きませんでした。頭の中では何故、という言葉ばかり巡り巡って。」
「今はもう遅いと?」
「とうぜ、わわっ⁉︎」
僕が話している途中だというのに。
彼は僕の首根っこを持ち上げて、無理矢理立ち上がらせる。溢れていた雫も、余りのことに止まってしまった。
「これ以上、貴様の愚痴など聞きたくはない。我の仕事は、貴様をアイビーまで護衛することだ。」
「……でも、アイビーには。」
裏切りった可能性が高い、ウラヌスさんが居る。空様は薬剤師と一緒に、信じろと言っていたけど。
そんなこと、信じて良いのか分からないよ。
「黒き炎の君から最後に請け負った仕事だ。これは、完遂させなければならない。」
「放置してくれても良いんですよ。」
「我は傭兵だ。受け取った分の仕事は確実に遂行する。そして奴からは既に、報酬を受け取った。ならば、それに見合うだけの成果を示さねばならないだろう。それを積み重ねてこその傭兵なのだ。貴様、黒き炎の君に出し損だと、夢の中で思わせる気なのか?」
「……。」
空様を引き合いに出されると。せめて無駄にはしたくない、という気持ちになってくる。
だけど何だか……いや、違う。ここは素直になるべきだ。
それに、空様と交わした言葉を思い出せ、僕。
言わされたにしても、僕は一人になってもしっかり立っている、と約束したじゃないか。
「分かりました……。行きます。」
「そう言えば良い。……貴様は路が苦手だそうだな。」
「はい。」
一度自分の全てが分解されて、無限の海を漂うようなあの感触。
吐き気を催す程では無いけど、苦手だ。
「しかし我に、あの女程出鱈目な身体能力があるわけではない。よって、今日だけは路を使うことになるぞ。」
「……はい。」
電車とかバスとか使って帰るだけのお金も今は無いし。
「うむ。では、これより、宮畑優の護送を開始する。目的地はアイビーだ。」
「道中、色々質問するかもしれません。」
「……仕事の範疇に収まるものであれば、答えよう。」
僕は重い足取りで、百鬼たちの宴から脱出する。
霧はまだ晴れる気配が無いようで、一歩踏み出せばそこは、視界の悪い灰色の世界だった。
「ジェラルド……さん。」
「どちらでも良い。」
「さん付けの方がしっくりくるのでそっちにします。」
「……。」
「空様は、ジェラルドさんにどんな依頼をしたのですか?」
深呼吸をしながら。僕は、出来るだけ話を引き出そうと、彼の近くを歩く。
見知らぬ百鬼と共に在る恐怖は、既に薄れていた。
「言うまでも無い。貴様の護衛だ。」
「それだけ?」
「そうだ。貴様を長野の山麓に放置して、一人眠りにつくなど、愚か者の行為だからな。百鬼に殺されずとも、人間ならば衰弱死しかねない。」
「それは、そうですね。」
仮に僕だったら、夜辺り脚を滑らせて転落死していてもおかしく無いだろう。
もしくは、野獣に襲われる、とか。いずれにせよ、生き残れそうに無い。
「……ただ、何か。」
「何か、だと?」
「僕に、当たりが強いなぁ、なんて。」
「……。」
元々言葉の強い人ではあったけど。空様に対する雰囲気と僕に対する雰囲気が違う、気がする。
「その理由を、口にする必要があるか?」
「いや、言いたく無いならそれでも……。」
「そのような意味では無い。わざわざ口にしなければ、分からぬのか、と言っているのだ。」
「わざわざ、って。」
僕はそんな、武人肌の人が考えることなんて分からないよ。知り合って日が浅いどころの騒ぎじゃないし。
一時間か二時間経ったかどうかくらいだよ?
「……まぁ、良い。確かに、我は貴様に辛く当たっている。」
「僕の腑抜け具合が、気に食わなかったとか……?」
「当然だ。だが、それだけでは無い。それ以上に、貴様の様な人間の為に、黒き炎の君程の気高き百鬼がその存在を賭して取引を行ったことに、我は怒っているのだ。」
「そ、そんな。空様がああなったのが僕のせいみたいな。」
「違うのか?気付いているはずだ。先刻、貴様はあの女が抵抗も無しに全てを投げ出すのはおかしい、その理由は何だ、などと嘆いていたが、貴様の存在以外に当てはまるものがあるとでも?」
「……。」
何も言い返すことが出来ない。大長老も、空様にとって僕はかけがえの無い存在だと言っていた。空様の、僕に対する行動を思い出してみても、確かにそう感じられる。
でも何故?出会ってばかりの僕にどうしてここまで?助けて貰った僕の方ならばいざ知らず、どうして彼女はここまで僕に肩入れする?
「仮に、だ。貴様が、我を唸らせる程の人間であれば、異種族ながら天晴れ、その守られた命を大事に使うが良い、と飲み込めていただろう。しかし、貴様は我の眼前で涙を溢してみせただけで無く、こうして黒き炎の君の真意を飲み込めず迷ってすらいる。我には、理解出来ない。百鬼夜行という蛮族の行事を止めるべく奮闘したあの女は確かに、勇敢だった。」
「……百鬼のあなたが、そこまで。」
「百鬼の中でもある程度道理を理解出来る方だからこそ、だ。我は、百鬼夜行を忌み嫌っている。例え人間相手であろうと、捕食は互いの高め合いがあって後に行われるべきだ。あのような、弱者を手当たり次第に喰い散らすなど、知能が無くても出来る蛮行に過ぎん。最も、我が百鬼夜行を嫌う理由と、奴が百鬼夜行を止める理由は違うものであろうが……尊敬し、目標とするに値する女ではあった。」
「尊敬、目標……。」
想像以上に、ジェラルドさんは、空様に大きな感情を抱いていたらしい。
「それに対して貴様はどうだ?そんな女を引き換えにしなければならない程、価値ある人間なのか?我にそうは思え無い。我の眼が狂っているのか、はたまた奴の眼を、貴様が狂わせたのか。それは、分からぬがな。」
「……。」
「……いや、少し話し過ぎたな。鬱憤が、漏れ出てしまった。」
「いえ、大丈夫です。何か、嬉しいなって思ったので。」
「他者に罵倒されて嬉しい、だと?不思議な感性を持つ人間だ。」
「いやそういうことじゃなくて……。」
今まで相対して来た百鬼って、怖がってたり敵対視してたり、という感じで。彼女が純粋に褒められている姿を見たことが無かったから。
ウラヌスさんも、どちらかと言えば仲が深まり過ぎて、褒めるなんて恥ずかしい、みたいな域に到達していたし。
「ジェラルドさん。」
「……。」
「もし、こうなると分かっていれば、仕事は受けませんでしたか?」
「いや、受けていただろう。」
「即答、ですか。」
「傭兵というのは須く、ろくでなしだ。我も例外では無い。このように文句を垂れているが、場合によっては百鬼夜行の再興に手を貸すし、あの女の排除にも手を貸そう。無論、それに足るだけの報酬が必要になるが。」
「値段の記されていない小切手、でしたっけ。」
「そうだ。実際、そのようなものを手渡されたわけではないが。つまり、今回大長老から持ちかけられた任務は、報酬が青天井なのだ。よって、いかなる内容であっても、我は頷いていただろう。」
「確かにろくでなし、ですね。」
「だから、このように、一つの任務中にそれと反する別の任務をこなす、ということもできるのだがな。」
「……別の任務?」
瞬間。彼の腰に携えた鞘から剣が抜かれ、僕の鼻先に突きつけられる。
「!?」
「安心しろ、本気では無い。ただ、こういう意味だ、と言いたいだけだ。」
「……。」
つまり、僕を殺せ、という任務を受けていながら、今は僕を護送する、という任務をこなしているんだ、と言いたいらしい。
傭兵の恐ろしさを思い知った気がする。
「さぁ、あと少しで路の入り口に辿り着く。今のうちに、胃の中身は空にしておけ。」
「大丈夫です。もう消化し切って何も残って無いですから。」
疲れたし、お腹減ったし、メンタルブレイク寸前だし。
もう、僕は滅茶苦茶です。そんな状態なら、路による弊害くらい屁でも無い……はず。
「忘れ物は?」
「強いて言うなら、空様、ですか。」
「巫山戯たことを。だが、その様な余裕が生まれたのなら、あの女も喜ぶだろう。」
「……。」
「入るぞ。」
「はい。」
僕は、ジェラルドさんの手を握って、虹色に光る穴へと飛び込む。
あぁ、あぁ。そう、この感覚です。
僕は、みるみる内に砕かれて――
*
眼を覚ませば、そこはアイビー近隣のベンチの上であった。
どうやら近隣の路の出口から、ジェラルドさんはここまで運んでくれていたらしい。
慌てて周囲を見回すと、傍で彼が待機しているのが、眼に入る。
「随分と遅かったな。路が苦手、というのはこういうことか。」
「僕が寝ている間に、何かありましたか?」
「いや、何も無い。ただ無為に時間が過ぎていただけだ。」
「時間は……二二時、か。」
寝転がったまま、僕は天頂に輝く月を見つめる。
今日は、満月だ。
「ここからアイビーまでの道は分かるな?」
「はい。すぐそこですから。」
「そうだ。……最後に、奴からはこれを渡す様言われている。」
「これは……。」
彼女の、薬指だ。前の小指は右手のものだったけど、今回は左手……?
「極めて強力な魔除けだ。我でも多少の影響を受ける程、強い力を持っている。恐らく、長老会から貴様へ手出しできなくした上でこれを持たせれば、百鬼に襲われて人生を終えることはまず無い、という目算なのだろう。中々、用意周到で過保護なものだ。」
「空様……。」
形見、ということか?
「では、我の仕事はこれで終了した。一時はどうなることかと思ったが、貴様もある程度気を取り直したようだな。だが。」
「だが?」
「我は貴様を、奴の犠牲に釣り合う人間だとは断じて認めない。」
「厳しいお言葉……。」
決して僕は、ジェラルドさんに認められる為に生きてるわけでは無いけれど。そう言われると、やっぱり心に来る。
「行動しろ。」
「え?」
「行動しろと言ったのだ。我が認めるくらいの人間になれとは言わん、だが、我が小言を挟みたくなる程度の人間にはなれ。そうで無いと、我の気が収まらん。」
「僕は……。」
「我を喜ばせる為の人間では無い、その通りだ。だが、もう一度貴様に暴論と糾弾される程度の言葉を投げかけよう。そうしなければ、いつか我が直々に貴様を喰らう。残念ながら、この仕事が終われば我は長老会の範囲には含まれない。いつでも、我は、個人的な感情で貴様を殺せるのだ。」
「……。」
「生きたければ、行動しろ。分かったな。……では、我は元の持ち場へ戻る。ここで、別れだ。二度目が無いよう祈っている。」
大きな背中、靡くマント。
漆黒の傭兵は、やり切れない様子のままこの場を立ち去ろうとする。
僕はそんな男に、言葉を投げかけざるを得なかった。
「ジェラルドさん!」
「何だ。今すぐにでも殺せと言うのならば、そうしよう。」
「行動しろっていうのは!空様を助け出す方法がまだあるということですか!」
「……。」
彼が振り返ることは無い。ただ、必要なものは確かに残していた。
「他者の言葉を過信するな。己で見定めろ。」
「……。はい!」
僕は、彼が角を曲がって見え無くなるまで、手を振り続ける。
何だか厳しい人だったけど、不器用ながら僕の背中を押そうとしてくれていたのではないか、そういう気がしてならなかったのだ。
*
からんころん。
これで何度目か、僕はアイビーの扉を開き、中へと入っていく。
静かだ。いつものように良い香りがするわけでも、無い。
ただ、変わらずその百鬼はエプロンを着けて、僕たちの帰りを待っていた。
「……宮畑ちゃん。」
「ウラヌスさん。只今、帰りました。」
何を言えば良いのか。そんな雰囲気が辺りに立ち込め、喉が詰まる。
「あ、あぁ。お帰り。今日は遅かったな、疲れてるだろ。」
「空様は、寄り道してから帰るそうです。」
「寄り、道。……分かった、じゃあ、先にお前さんの夕飯と、それと、飲み物!用意しなくちゃな。」
「お願いします。」
僕はカウンター近くの席に座り、そして彼の方を眺める。
「今日はな、サプライズがあるんだ。」
「サプライズ?」
「そう。じゃじゃーん!」
「これは……?」
彼が手に持っているのは、見覚えの無いコップを始めとした食器の数々。
少なくともお店用では無さそうだけど……。
「ズバリ、宮畑ちゃん専用の食器!」
「えぇ!?順当に工程が進んだら、僕は明後日以降ここに来れないのに、ですか!?」
「あぁ。それでも、良い思い出、作って行って欲しいと思ってさ。二日間だけしか使えなくても、これを使ってお前さんに料理を出した。そして、それを美味しいと言って貰えた。そんな思い出は、二日間どころか、数十年、数百年、と残るんだぜ?」
「それは確かに……。」
彼の言葉に、嘘は感じられない。
まさに、心の底から飛び出た言葉のようだった。
だから。
「ありがとうございます。嬉しいです。」
僕は素直に、そう口にしようと思ったのだ。僕も正直、心の底から嬉しかったから。
「ハ、ハハッ。本当、俺もよ。店やってて良かった、って思えるぜ。」
「今日は早速、それで料理を作ってくれるんですか?」
「勿論よ!それに、まずは飲み物だよな。水筒持ちの空様と離れちまったわけだし、喉、乾いてるだろ?」
「そうですね……もうカラカラです。」
推定六時間程度は何も飲んでいないから。
「良し!じゃあ今すぐ持って来るぜ。」
「お願いします。」
「何が良い?」
「おすすめは何ですか?」
「あー、そうだなぁ……。」
彼は一瞬、チラリと厨房の方を覗き込む。
「今日も良いオレンジ入ってるし、オレンジジュースかな!さっぱり、でも酸っぱくなくて、甘いんだぜ。」
「じゅるり。」
いや、普通に美味しそう。
「じゃあ、それで。」
「オーケイ!すぐ作る!」
ウラヌスさんの表情は、決して明るいものとは言えない。ただ、振る舞いは、いつもより明るくて、大振りだ。
あの時。少し、動きが怪しかった時とそっくりで。
「……本でも、読んでいよう。」
何というか、裏を少し知っていると、安心してしまうような光景だった。
僕は、バッグから霊薬のカタログを取り出し、眺める。
薬剤師さんのまとめが上手いのもあるけど、何よりいちいち書いてある講評が毒舌で面白いのだ。
阿呆に渡しても宝の持ち腐れ、とか。自慰中毒者には効果覿面、とか。
過労死よりかはマシ、とかね。のらりくらりとしてる様子しか記憶には無いけど、心の中じゃこんな感じなんだろうか。
……より、頼りたく無いな、と言う気持ちになってくる。そもそも二人きりになりたく無いタイプの百鬼なのに。
「……それ、何読んでるんだ?」
気付けば、目の前にはウラヌスさんが居た。
「薬剤師から借りている霊薬の資料集です。結構、面白いんですよ。」
「へ、へぇ。何だ、意外とそういう方面に興味あるのか?」
「いや、そういう訳じゃ無いんですけど。」
「そうなのか?もし気になるなら、空様が一時期沢山買い込んでた資料貸してやろうかと思ったんだが。」
「そんなものが。」
空様、霊薬の勉強してたんだ……。
だから、媚薬の材料とか、霊薬を作るの必要な素材の量とか知ってたのかもしれない。
そういえば薬剤師も、空様が霊薬については専門外と言った時、意味深に笑ってたような?不思議な話である。
「まぁ、興味無いならそれで良いんだ。忘れてくれ。」
「はい。」
「……。さ、オレンジジュースだぜ。」
「ありがとうございます。」
僕は、さっき彼が紹介してくれた、白くて可愛らしいグラスを見つめる。
果肉の混じった、百パーセント絞りたてジュース……不味い訳がありません。
きらきらと、照明に照らされて微かに黄金色に輝いている様子は、素晴らしいと形容する他無い。
それは、飲まねば失礼に当たる、と感じる程だ。
「いただきまー」
僕は。グラスを手に持って、くいっと傾け
「待て。」
た所で、ウラヌスさんの手が、それを阻害した。
「?」
「……すまない。ただ、それは。」
彼の真剣そうな。そして、汗だらけの表情が、僕を貫く。
「飲まない方が、良い。」
「……。」
「お願いだ。もし、口に含んでいるなら、吐き出してくれ。」
「……大丈夫です、唇にも付いて無いですから。」
「……ふぅ。分かった。これは、今すぐに捨ててくる。」
ウラヌスさんは急いで、そのグラスを落とさぬよう大事に抱えながら、厨房の中へと走っていった。
さらば、黄金色のオレンジジュース。機会があれば、また会おう。
「そう、かぁ。」
そして、一つ、僕の中で分かったことがあった。
彼は、もしかすると本当に、裏切ったのかもしれない。真偽は分からないけど、ウラヌスさんは僕たちの行動予定をリークできる立場にいる。
でもそれは、確実に。進んで行ったものでは無かった。
もし進んでやったことならこんなに、僕に毒を盛ってどうにかするだけの行為を、怖がる必要無いもの。
その上、彼は最終的に毒を盛ること自体、放棄した。
――他者の言葉を過信するな。己で見定めろ。
分かりました。そして、確かめた上で、僕は、ウラヌスさんを信じることにします。
「……只今。」
「もう、大丈夫そうですか?」
「あぁ。すまねぇ。水で良いか?」
「はい、十分です。」
ごくごく。うん、美味しい。身体中に染み渡る。
「……なぁ、宮畑ちゃん。」
「どうしたんですか?」
「少し、話してぇことがあるんだ。良いか?」
「……。」
いつになく、彼は真剣だ。断る理由など何処にも無い。
「はい。ただ、その前に少しこちらから一つ良いですか?」
そして、僕が行った裏切りも、ここで精算しよう。
「勿論。一方的に、ってのはおかしい話だからな。」
「さっき、嘘を吐きました。」
「……嘘、か。」
「空様は、寄り道して帰って来るんじゃありません。もう、帰って来ないんです。」
「……それは、俺のせいか?」
「仮に、ウラヌスさんが今脳内に浮かべていることをやってしまったとして。空様がこうなったのは、ウラヌスさんのせいでは無いと思います。全ては、巨大な陰謀のせいです。」
「く、う……。」
「……。」
ウラヌスさんは、突如として眉間を押さえ、そして涙を流し始める。
小さな声で彼は、すまねぇ、すまねぇ、と詫び続けた。
「俺が不甲斐無い、ばかりに。俺ぁ、最大の親友と、最新の親友を、裏切っちまった。」
「どんなことをしたのか、は分からないので、何も言えません。それに、僕も空様の足を引っ張っていました……。」
「足、を?」
「空様は、僕を守るために、封印されるという選択肢を選んでしまったんです。僕が居なければ、こんなことには……。」
「……ずずっ。」
彼は、鼻を啜りながら、首を横に振る。
……何が違うのだろうか。
「いんや、お前さんは、一切悪く、ねぇ。寧ろ、それに関して、は。空様自身の問題だ。」
「空様自身、の……?」
「あぁ。……俺ぁ、お前さんに今、空様が居なくなっちまった今。話すべきことがあると思ってる。空様がお前さんを守ることに固執する理由だ。」
「……!それは!」
ずっと、知りたかったことだ。
「ただ、その為にまず、俺がこの店開けてる理由について話さなくちゃなんねぇ。」
「ウラヌスさんが……?」
「そうだ。この店はな、最初、ただの廃屋だった。当然だ、そうでも無いと誰かの店乗っ取ったことになっちまうからな。」
「廃屋。」
「そしてそこで、俺は怯えながら数十年暮らしてた。俺ぁ、人間を喰おうと思っても、喰えない環境だったんだ。何故ならそこに、空様が、居たからだ。」
「空様が……。」
「あの人は、百鬼夜行を撲滅せんと行動し、そして百鬼夜行を実際に無くしてみせた。まぁ、人間にとっちゃあ英雄中の英雄よ。野良の百鬼が人間を喰らおうとすることはあっても、集団で街を襲って全部ぶっ壊しちまう、みたいなことは起きなくなったんだからな。」
「確かにそうですよね。僕も、百鬼一体相手なら逃げ切れたし……。」
「と、思うだろ?」
「?」
ウラヌスさんは、より難しそうな表情を浮かべる。
「空様は、百鬼を食べる。だけどそれは、あくまで百鬼を確実に処分する為の手段だった。だった、んだよ。なのに、数百年という長い間そうして来たせいで、いつの間にか空様は、百鬼を食べる為に、百鬼夜行の中へ飛び込むようになっていた。」
「手段と目的が、逆転してる?」
「そうさ。酷い話だろ。人間にとっての英雄は戦いの中で、百鬼にとっての死神に変貌してたんだ。人間を喰う為に襲う百鬼と、百鬼を喰う為に襲う百鬼、ここに何の違いがあると思う?」
「……無い、と断言して良いのかは分かりません。」
「ま、そうだな。難しい話題ではある。でも、少なくとも、空様は同じ物だと認識してた。だからあの人は、長老会が百鬼夜行の永久凍結を発表した後、生まれたばかりの俺が住む、この廃墟にふらりとやって来て、こう言ったんだ。『私は、あなた様が人間を食べない限り、百鬼を食べることはありません。そして、このような関係が続く限り、私はあなた様の夢を叶える武器になります。』とんだとばっちりだよなぁ、要はすぐ近くにいた弱っちい手頃な百鬼を利用して、我慢大会おっ始めたんだぜ?まぁ、そのお陰で今があるって考えると、感謝してるけどな。」
「ふ、ふふ。」
何だか。空様らしい横暴さだ。同時に、それ以上の恩恵を齎すと約束する辺りも。
「んで、人間喰ったら最初に標的になるのが俺なのは眼に見えてる。でも、何も喰わないままで居られるのは、空様くらいのランクがあるつえぇ百鬼だけだ。俺は耐えらんねぇ。だから、自分で喰いもん作れるようになろう、と思ったのさ。」
「それで、料理人に。」
「おうよ。空様は、お前さんと同じような眼を持つ人間を見つけては、『〇〇を買って持って来てくれたら、その眼を無効化してあげる』とかそういう取引を持ちかけて、俺の為に食料とか、料理本とか、持って来てくれたんだ。中には、眼を奪われることを拒否する奴もいて、今でも俺の店に品出ししてくれてんのは、そういう奴ら。大体遠方に居るんで、当分会えてねぇけどな。」
「お金は渡してるんですか?」
「渡さなかったらやばいだろ。」
「元手はどこに……?」
「ま、色々やってな。」
「えぇ……?」
怖いんですけど。まぁ、今追求すべきところでは無いか。
「話を戻すぜ。で、そういう風にしていく内に、俺と空様の関係は出来上がっていった。最初の数年は俺も空様に襲われかけてな、割とギクシャクしてたんだが、日数を重ねれば重ねる程空様の理性の強靭さを思い知ることになったし、印象も良くなっていったよ。今なら胸を張って親友と呼べるね。……まぁ、裏切っちまったんだが。」
「……。」
「ただよ。ここからが本題だ。十年前のある日のことさ。」
「十年前、って。」
「あの人が、百鬼を胃の中に入れて、帰って来たんだ。」
「!」
我慢出来なくなった……?いや、まさか。
「もう、分かるだろ。我慢出来なくなったわけじゃあねぇ。あの人はそんなヤワな百鬼じゃねぇからな。寧ろ、その逆だ。必要に迫られた。当時の空様にとって、百鬼の捕食はただ欲望を満たす為だけの行為だったが、その日以降、また元に戻ったんだ。百鬼を確実に処分する理由が、見つかったんだよ。それが、お前さんだった。」
「そんなことが……。つまり僕がここまで生き残って来れたのは?」
「あの人が、今日に至るまでのおよそ十年、常に守り続けてたんだ。土台、人間より圧倒的な力を持つ百鬼から、何の手助けも無しにここまで生き永らえるなんておかしな話だろ?」
「で、でも。何で僕を。仮にそうだとしても、他に同じ眼を持つ人が居たはず。おかしくありませんか?僕は、眼を無効にする対価だって実質求められていないようなものだし。」
「あれ?まだ気づいてないのか?だとすると、お前さんは相当な女泣かせだぜ。」
「……。」
そうなのか?もしかして、そういうことなのか?
「あの人、お前さんに恋してるぜ。」
「……!」
「まぁ空様は俺なんかじゃ相手にならねぇくらい長生きだからよぉ、どうやらそっち方面の経験は豊富みたいなんだが……なんだろうなぁ、お前さんに対する感情には並一通りでないものを感じたぜ。」
「……だから、こんなに、僕のことを。」
それこそ、存在全てを賭けてしまうくらい。
「でも、良いんでしょうか。空様は、元々百鬼夜行の撲滅の為に頑張ってたんですよね?」
「あぁ、そうだ。」
「なのに空様は、封印されることを選んだ。そうすれば、これから幾度と無く計画されるであろう百鬼夜行を止めることはできない……。」
「ん?なんだ、そういう選択を取った彼女が理解できないってことか?」
「……まぁ、そうです、ね……。」
仮に、彼女が僕を愛しているというのが本当だとしても。その為に、存在意義でもあったライフワークを投げ捨てるようなことするだろうか?
「ハハ、そうか、そうなのか。空様も、本気で隠し通そうとするわけだぜ。」
「?」
「お前さん、他人の好意の大きさに疑いを持っちまうタイプだろ?僕が好きだからって、そんなことするはずが無い、とか考えてるんじゃねぇか?」
「それは……。」
見透かされていた。
「甘い、甘いよ、宮畑ちゃん。空様は、長い年月を生きている怪物だ。基本的に、どんなものに対しても特別な感情は抱かない。どうせ、自分より早くに消えて無くなる物だからな。」
「僕もそうですよね?」
「そうだ。なのに、そんなお前さんに彼女は思いを寄せた。つまり、そういう言葉で説明できるようなものを超越してしまった、ってことさ。空様は今まで百鬼夜行を止める為に、命を賭してきた。しかし、お前さんに出会って、空様は変わった。空様が命を賭す対象は、お前さんになった。」
「そんな。」
僕なんかの為に、と言えば怒られるだろう。しかし、思わずにはいられない。
百鬼夜行の阻止は、人類全体の命に関わる大事業だ。僕が例えどれだけ大切だとしても、人類の命に釣り合っているはずが無いだろう。
「ま、何でお前さんにここまでご執心だったのかは俺の知るところじゃねぇけどな。少なくとも、俺は教えて貰えなかった。」
「……。」
それは。
いや、僕は、このままで居るべきじゃ無い。
空様に僕は守って貰った。これだけは、根拠ある確かな事実だ。
ならば、恩返しをしなくては。そして、ウラヌスさんに、では無く、本人に聞いて、確かめよう。
彼女は隠し事を好むが、一度バレれば観念して話してくれるタイプだから。
「……ウラヌスさん。」
「どうした?俺が話したかったこれくらいだ。……すまねぇな、どうしても、話しておくべきだと思ってよ。お前さんは、俺が更なる外道に堕ちる寸前で、止めてくれたわけだし。」
「それはもう、気にしていないから、大丈夫です。」
本当は、まだ少し気にしているけど。
「それより、もしウラヌスさんが後ろめたさを感じているのなら、僕に協力してくれませんか?」
「協力?俺にできることは多くないぜ?」
「大丈夫です。……今までの事例に、封印を外部の力で解いてしまった、というものはありますか?」
今、僕はどんな顔をしているのだろう。
ウラヌスさんは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔を浮かべる。
「……本気か?」
「はい。」
「真っ直ぐだなぁ、お前さんは。」
「悪いことでは、無いですよね?」
「いいや、悪いことさ。棺の封印を解くなんてことは、本来やっちゃなんねぇ。」
「……。」
「ただ、まぁ、百鬼ってのは悪いことが大好きだ。乗ろう。でも、俺ぁここを動けねぇ。こんなことしたからには、大長老や長老会が黙ってないからな。お前さんまでも、巻き込むことになっちまう。それに、成功させたいと思うなら、俺以上に知識があって、行動力があって、悪辣になれる奴が味方に必要だ。」
「ウラヌスさん以上に賢くて、動けて、悪辣……。」
僕が思い浮かぶレパートリーは少ない。
ただ、恐らく百鬼全体を探しても、彼女以上の最適解は存在しないのでは無いか。そんな人物が、脳裏に過ぎる。
「多分、俺が思い浮かべている女と、お前さんが思い浮かべてる女は同一人物だな。」
「……怖い、ですね。」
「あぁ。あいつは、クソ女だ。仕事と同等の対価と言いながら、仕事の数倍程度の対価をむしり取ろうとする、それも、手玉に取り易い弱者から。お前さんは間違い無く、奴にとって弱者側に属する存在だろう、俺含めてな。」
覚悟を決めなくてはならないかもしれない……。
「唯一対抗する術は、あいつが満足する程度の利益をちらつかせること。……お前さんに、それが用意できるか?」
「……そもそも、薬剤師が満足できるものが全く分かりません。僕は一度会っただけだし……幽世の材料を使った食べ物を口に入れられかけたし……。」
「ま、そうだろうな。……なら、俺が用意しよう。」
「どうやって?」
「死ぬ程受け入れたく無かったあいつの提案を飲む、それで十分だ。」
「それはまさか……。」
ふと、思い出す、空様と薬剤師の会話。
ウラヌスさんの作るお菓子を薬剤師の店に並べるとかなんとか……?
「俺ぁ、誰かの下について仕事するなんて性に合わねぇと思ってたのさ。でも、こうなったからには腹括ろう。俺も、罪を清算しなくちゃ、空様に合わせる顔がねぇ。」
「……。」
ただ、問題は、彼女もまたウラヌスさんと同じ、裏切りを行った側の百鬼である可能性が高いことだ。
彼女は僕の数百倍は賢い。僕を受け入れる芝居をして、一気に叩き落とすことくらい平気でやってみせるだろう。
空様は頼れ、と言っていたが。
「薬剤師にこう言ってくれ。明日をもってアイビーは薬剤師の営む店の傘下となり、定期的に作成した料理を搬入する。商品の拡充にも、全面的に協力する指針だ、と。」
「そ、そんなこと言って良いんですか⁉︎」
いくら罪の清算とはいえ、こんなの破滅一直線ではないか。
「そんくらい言わねぇと、あいつは満足しねぇって。ただ、全部一気に言うんじゃねぇぞ。あいつは、最初に提示したものより少し上質なものを求めてくる節がある。だから、最初に、料理の搬入及び商品拡充の協力について提案するんだ。その後、とどめとして、奴の傘下となることに同意する旨を伝えれば良い。ここ十数年、あいつは俺の料理を手元に置こうと狙い続けていた。首を縦に振らないわけがないだろう。」
「……分かりました。」
ウラヌスさんが心の底から心配になる内容だけど、これが彼なりの協力ということなのだろう。
その覚悟を、一時的な個人的感情で退けるわけにはいかない。
「さて。じゃあ、行きな。」
「……今すぐに?」
「あぁ。俺ぁ、封印が解かれてしまった事例は知っていても、その手口までは知らん。でも、あの女は知っているだろ。『薬剤師は、全能では無い。しかし、全知ではある。』奴の、定型句さ。何とも驕り高ぶった言葉だがよ、これは真実だぜ。あいつが知らないと言って質問を退けたところなんて見たこと無いからな。それに。」
「それに?」
「やる気になったら即行動、さ。」
「……。」
まぁ、確かにその通りである。
「ウラヌスさんは一緒に行ってくれないんですか?」
「あぁ。俺ぁ、長老会に狙われてる身だ。下手に動いたら、宮畑ちゃんに迷惑かけちまうだろ。」
「成る程。」
お互い気を遣うことになるのは良くないか。
「でも、路って百鬼に触れていないと通れないんじゃ。」
「うん?お前さん、持ってるだろ。百鬼の肉片。」
「肉片、って……あぁ!」
そうか。空様の薬指もとい、魔除け。
あれを握りながら通れば良いのか。
「クソ女は強敵だぜ。気張れよ?」
「はい!」
うん。こりゃ頑張る他ない。
僕は一度笑顔で彼にサインを送ってから、席を立つ。
あぁ、そうだ。
「ウラヌスさん!」
「あーい?」
「少し、保管庫からお菓子を貰って行っても良いですか?」
「おうおう、好きなだけ持ってけ!」
「ありがとうございます!」
そして、路の入り口がある場所。即ち、アイビーの裏庭へ僕は向かった。
*
「お 、き うそ お たらど い?」
――。
「おー 。」
――。――。
「おーい!」
「はっ!」
「……やっと起きたねぇ。」
ぺちぺち。
薬剤師が、僕の顔を右手の甲で優しく叩く。
もう片方の手には、マドレーヌ?
「う、うーん……。」
「フ、眠そうだね。」
「いや……ってあれ、『お通し』は⁉︎」
「もう、いただいたよ。」
「え……。」
「これ、この焼き菓子。びっくりしたねぇ、ワクワクしながら君の持っていた紙箱四つを開けたんだ。そしたら、中身は全てこれだった。何か、この薬剤師の胃は在庫処理場かい?」
「しまった……。」
そうか。僕は、近くの棚から持てるだけ持ってきたから、こんなことになってしまったんだ。
あの棚は、マドレーヌの保管場所だったんだろう。
「ま、良いさ。味は良いからね。それ以上に驚きだったのは、君が、百鬼も連れずにやってきたことだ。からくりを教えてくれたまえよ。」
「えーっと……。」
あれ、だよな。
薬剤師が本当に、頼れる人物なのか見極めてからじゃないと、一瞬で術中にハマってしまう……でも、僕の話術で彼女の質問を交わせるとは思えない。
あえて、ここは。
「これです。」
「ほう。それは?」
正直に行こう。
「魔除け、なんですが。」
「そうだろうねぇ、この薬剤師でさえ、身体の動きが鈍くなりかねないレベルの重圧を感じる。並大抵の百鬼じゃ、持ち主に触れることすらままならないだろうねぇ。」
「空様の指で作られたものなんです。」
「成る程、だからそれを握っていれば、百鬼の身体に触れている状態を作れる、だから路も通れる、そういうことか。流石に、盲点だったねぇ。面白いことを考えるものだ。」
「……。」
パクリパクリ、と薬剤師はマドレーヌを食べ続けている。
凄まじい食欲だ。百鬼だから当然なのかもしれないけど。
「まぁ、ただ、危ないところだったねぇ。」
「危ないところ?」
「君、薬剤師の店に行くということだけ考えて、路に身を投げたね?」
「……はい。」
「そのせいで、最終的に身体を構築し直すプロセスが中途半端になっていたよ。本来百鬼なら路を通ることで意識を失うなんてことあり得ないから、プロセスが曖昧になることも無いんだけどねぇ。この薬剤師が君の気配に気が付かなければ、君は永遠に路を彷徨う亡霊になっていただろう。この貸しは、実に、大きい。」
「……ありがとう、ございます。」
もう、嫌だ。この人と居ると飲み込まれそう。
「……まぁ、いいさ。お通しもしっかり貰ったことだし。この焼き菓子は、全て倉庫に納めさせて貰うよ。」
「はい。」
「それで?わざわざ危険を冒してこの店に来たんだ、薬剤師に依頼したいことがあるんだろう?」
「……そうですね。」
彼女は、興味深げに手に顎を乗せる。
口角はこれ以上無いくらい吊り上がっていた。
「空様が、長老会によって封印されてしまいました。」
「実に、悲しいことだ。」
「僕は、もう一度空様に会いたい。会って、話がしたいんです。だから、この封印を、解きたいと考えています。」
「許されないことだね?」
「それは分かっています、ウラヌスさんにもそう言われました。……それでも、です。だから、それが可能なだけの力を、貸してください。」
「ふむ。」
薬剤師の表情は崩れない。悩んでいるかのような声を漏らすが、答えは決まっているようだった。
「宮畑くん。」
「はい。」
「君は、この薬剤師と出会って、何日経った?」
「三日です。」
「なのに、ここまで薬剤師を信じているのかい?」
「それしか、方法が無いんです。……ウラヌスさんに、薬剤師は全能では無いけど、全知ではあると聞きました。それなら、やり方を理解しているだろう、と。」
「……成る程。」
ふと、徐に彼女は右手を挙げた。
「ならば、君。右を見たまえよ。」
「右――」
一瞬のことだ。僕に絡みつくように、太い、蔦のようなものが溢れ出てくる。
津波のように部屋中を席巻したそれは、紙が舞う中全てを巻き込んで、僕を拘束した。
腕や脚はおろか、頭の角度さえ、変えることが叶わない。
「ぐっ、こ、これは……⁉︎」
「現実の恐ろしさとやらを、理解させてやろうと思ってねぇ。まぁ、この植物はこの薬剤師の身体の一部だと思ってくれれば良い。実に、ひ弱なものだろう?」
どれだけ足掻いてもびくともしないようなこの植物のどこがひ弱だ。
僕は抗議を視線で示す。
「フ、まぁ、そこで眼が恐怖一色に染まるようじゃあ面白く無い。恐ろしいのはここからさ。」
「何を……。」
「まず、君たちの動向を長老会に流していたのは、この薬剤師だ。」
「……。」
「それに、君たちの仲間の一人である、ウラヌスに、毒薬を渡したのも、この薬剤師だ。」
「ウラヌスさん……。」
「それでも、この薬剤師に頼ろうというのかい?」
「……。」
空様の予想は、当たっていた。やっぱり、薬剤師は裏切っていたのだ。
でも、それは、ウラヌスさんも同じこと……。
「返答は無し、かい。それなら、もう少し情報を与えよう。これを見たまえ。」
「それは、霊薬?」
「美しい、黄金色をしているとは思わないかい?薬剤師は、この色の為に、生きているようなものだ。銭を増やし、銭を貯める。」
「薬剤師なのに?」
「薬剤師、という言葉はただの名前に過ぎない。それに、薬剤師が黄金をかき集めることの何がおかしいと言うのか。」
「……。」
「ま、中には世の為人の為、無償の献身を至上の喜びとする狂人も、居るのだが。それこそ、君の大好きな空がそういうタイプだったろう。」
「知っているんですね。」
「君の言った通りだ。薬剤師は、全能ではない。しかし、全知ではあるのだよ。」
そして彼女は、霊薬の瓶を灯りから離し。蓋を開けた。
「この霊薬の効能はただ一つ。君も知っていると思うよ。」
「……僕が知っている?」
「あぁ。思い出してみると良い。薬剤師はわざわざ、コピーまでも用意して、君にカタログを貸し与えたのだ。」
「まさか、絶縁の霊薬……?」
「良く思い当たったねぇ。その通りだ。この霊薬は、君の眼から、力を奪う効能を持つ。良く言えば、君を幽世から切り離す希望。悪く言えば、君がこれ以上幽世に干渉出来なくするには極めて簡便な手段。もし、今君に飲ませたら、どうなると思う?」
「いや、それは。」
まずい。つまりもう、空様に会えないということだ。封印どうこう以前に、僕は、彼女の記憶を抱いたまま、元の生活に戻ることになる。
その時、宮畑優は今まで通りの宮畑優で居られるのだろうか?
答えは、ノー。
「フ、そんなにもがいても、仕方が無いさ。この蔦から逃れることは出来ない。」
「そんな……。」
「口を噤んだとしても、飲ませる手段は豊富にある。例えば、注射で君を眠らせれば、いとも簡単に服用させられるだろうね。」
「くっ。」
彼女はゆっくり、僕の頭へと近づいて来る。
本気で飲ませる気だろうか。分からない、彼女という百鬼が分からない。
「……ふむ。ほら、口を開けると良い。」
こつん、と彼女は瓶の注ぎ口を僕の唇に当てる。
今にも、液体が僕に触れそうだ。
「んー!」
「叫んでも、助けは来ないさ。寂しい話だ。……ほら。」
「うぶっ」
無理矢理過ぎる。
薬剤師は勢い任せに、僕の口内へ瓶を突っ込んだ。
「危ない危ない。そのまま、飲ませてしまうところだった。」
「……。」
「さ、傾けるよ。」
「……。」
「飲み込まないよう注意することだね。」
僕の頭部周りの蔦が少し緩み、後ろへ傾いていく。
あと何度?分からない、でも、このまま傾いていけば、瓶の中から直接、僕の胃へ液体が流し込まれてしまう。
どうにか抵抗しよう。僕は首周りに力を入れ――
「っと、ストップ。」
「?」
「フフ、ほら、瓶を放すんだ。」
「!?」
「そんなに可愛く眼をキョロキョロするものじゃ無いよ。特に、性格の悪い百鬼の前ではね。簡単に手籠にされてしまう。」
もう、何がなんだか。数十秒前までの薬剤師とは思えない言葉の応酬に、僕の脳味噌はオーバーヒートを起こしていた。
何があったんだ?
「ふむ、瓶を放したね。それなら、こんな物騒なものは捨て去ってしまおう。」
大きな音を立てて、ガラスが割れる。中身も当然、床にばら撒かれた。
「何をやってるんですか⁉︎」
「何を、と来たか。そうだねぇ、強いて言うなら、裏切り、かねぇ。」
「裏切り……。」
「ま、薬剤師は様々な勢力と協力し、或いは騙し合い、成長してきたからねぇ。今更の話だ。そも、この薬剤師に信頼を置くという行為自体、間違っている。……さぁ。もう一度、席に座ると良い。話の続きと行こう。」
「あっ。」
蔦が一瞬で引いていく。
残ったのは、強く締め付けられて出来た痣と、散らばった紙の資料だけ。
……考えるだけ無駄なのだろう。
「お邪魔します……。」
「まぁ、邪魔したのは薬剤師の方だがね。」
もう、本当に。この百鬼はなんなのだ。
「さて。君は、空を封印している棺を破壊し、彼女を蘇らせたいんだね?」
「そ、そうです。」
「そして、この薬剤師からそれを可能とする力を得よう、と。」
「はい。」
「難しい話だねぇ。確かに私は全知だが、全能では無い。そうなると、出来ることと出来ないことが生まれて来る。今回君が求めているものは、簡単なことじゃないよ。」
「……出来ない訳では、無い、んですね?」
「そうだねぇ。不可能では無い。」
信じて良い、のだろうか。もし彼女が僕を処理しようと思っているのなら、今さっき、薬を飲ませることをやめたりなんてしないはず。
僕がいくら抵抗しようと、彼女はすぐに実行できたはずだ。
「……方法は?」
「先に言っておくとね。棺は破壊出来ないよ。そんなヤワなもので空を囲むわけ無いだろ?あれは特別な霊木を一本切り出して作られた特製品なんだ。」
「そう、ですよね、それならジェラルドさんにも出来ちゃいそうだし……。」
「ほう、あの男も今回の件、一枚噛んでるのか。長老会も獅子身中の虫を抱えたもんだ。」
「獅子身中の……?」
「あの男は、空と幾度と無く戦場で背中を合わせたことがあるのさ。そんなもの、公的文書に残ってるわけ無いけどねぇ。これだから、お役所の堅物は。」
「……。」
何だろう、薬剤師は長老会への当たりが強い気がする。
「まぁそれは良い。問題は、どうやって奴を外へ引き摺り出すか、だね。これは一般的な場合の話だが、一旦閉じられた棺桶は指定のルートを通って、全国各地に存在する『環状列石』の元へ運ばれる。」
「環状列石?」
「教科書なんかで見たことないかい?現世でも、過去の遺物として紹介されていたと記憶しているが。まぁ、簡単に説明すると、ある巨大なモニュメントを中心として、石が規則的に並べられている場所のことさ。一種の祭祀場だねぇ。」
「あぁ……。」
新石器時代辺りの話?かな?
「何となく分かればそれで良い。無理に理解する必要は無いからねぇ。ま、それで、だ。君達の居た場所から最も近い環状列石は、同じく長野県の山奥にある。彼らとしてはいち早く埋めてしまいたいことだろうし、現在進行形で運んでいるだろうねぇ。」
「一度運ばれ切ったら、大変じゃないですか!」
「そうだねぇ、埋められて仕舞えばそう簡単に手は出せない。祭祀場ともなれば、伴っている力はとてつもないからねぇ。まぁただ、今はまだ棺桶は外に出たままだろう。棺桶は大きいし、丁寧に扱わねばならないから、運ぶのに時間がかかる。君が彼女をどうこうしようと思うのなら、今狙うしか無い。」
「でも、棺桶は破壊出来無いんですよね?」
「その通り。外からは、ね。」
薬剤師が口角を釣り上げる。成る程何か悪いことを考えているようだ。
「霊木はねぇ。外界からの衝撃に極めて強い。だけど、内部から与えられる衝撃には滅法弱いんだ。さて、ここで君に問題。」
「はい。」
「現状、棺を中からこじ開けられる存在は誰だと思う?」
「それは……。」
一人しか思いつかない、が。それで良いのか?僕は恐る恐る、彼女の名前を口にした。
「空様?」
「フ、正解さ。一人突っ走って君を置いてけぼりにした失態は、彼女自身の手で帳消しにして貰うこととしよう。」
「でも、どうやって。」
「普通なら、不可能だねぇ。彼女の意識に働きかけて、言葉を交わすのは、いくらかやりようもある。彼女はジェラルドに負けず劣らずの頑固者だけどねぇ。でも。フ、薬剤師が思うに、彼女の考えをある程度自在に操れる存在がここに居る様な気がするよ。」
「……あの、それは。」
僕のことですか、と言おうと思って、言葉を飲み込んだ。
そんな恥ずかしいこと言えるか!
「あれ、てっきり君自身理解しているものと思っていたのだが、違うのかな。」
「え、えーっとぉ……。」
「ほう?」
薬剤師の顔に笑みが浮かぶ。嫌だ、怖いよあなた。
「その先の言葉を是非聞かせて貰いたいものだねぇ。」
「……空様は。その、僕のぉことが、す、好き」
「そういうことははっきり話すものさ。」
「空様は僕のことが好きだったとは聞いています!」
「よろしい、ウラヌスが話したのかな?本人が自ら言うとは思えない。」
「……。」
「だが、その話には続きが、いや、隠された真実がある。空は、ただ、君を十年近く見守っていた訳では無い。何故彼女が君に並々ならぬ感情を抱いているのか、それに関してウラヌスは説明出来たかな。」
「いえ。」
「ふむ、なら、ここで暴露してしまおう。」
実に楽しそうな薬剤師。一方僕は、心臓をバクバクとさせている。あの話だけでも、僕には刺激が強過ぎた。
まさか、あの人が、僕をずっと守ってくれていただけでなく、僕に思いを寄せてくれていたなんて。
まぁ応えたいと思う反面、気が引けている自分もいる。だって、あんな上位存在みたいな人の寵愛を受けるなんて、緊張するじゃないか。
「彼女はね。」
「はい。」
「君を、食べたいと思っていたんだよ。」
「……はい?」
食べ、たい?
「あ、あの。」
「何か?」
「それは、冗談ですか?」
「いや、もう、冗談パートはお終いだ。さっきの行動は、君の思考をリセットするのと、君という存在を知るためのものだったのさ。何せ、空程の女を狂わせた人間だからね。」
「……。僕が、彼女のどんなツボにハマったのかは分かりましたか?」
「簡単なことだろう。」
「?」
「君は何かしら大きなことを決心し、立ち向かうのに、いつも。いつもいつも、それを叶えるだけの力が足りない。これだけの愛嬌がありながら、誰も力を貸そうとしないし、君は借りようとしない。そんな姿をずっと見ていれば、手助けしたくなるのが理解ある隣人というものでは無いのかな?空はまぁ、その庇護欲が食欲に直結してしまったわけだが。」
「……はぁ。」
いやもう、何にも頭に入ってこないよ。
「フ、なんて顔をするんだ。そんなに驚きだったのかい?」
「いや、えっと……。」
「もう一度言おうか?」
「遠慮します……僕は、人間ですよ?百鬼じゃないんですよ?」
「そう、そこが問題なのさ。空は、人間に対して食欲を抱くことなど無い存在だ。奴は百鬼を胃に収める。なのに、だ。空は、悠久の時を生きる中で唯一、食べたいと思う、思ってしまう人間を発見した。」
「それが僕……?」
「その通り。何故だろうね?」
「……。」
何故。それは今、僕が最も口に出したい言葉だ。
ここ三日間、何度も思った。何故、僕が。
今日ここに、それが極まったように感じる。
「恐らく、君は何かしらロジックが無いと、不満に感じるんだろう?だが、百鬼、人間に関わらず、感情の根本的なところには、理屈など無意味なものだよ。例えば……。」
彼女は徐に立ち上がり、カーテンを開ける。
その向こうには。
「ひっ。」
「そう、声を上げないで欲しいねぇ。」
百鬼の死体の山が出来上がっていた。
しかも何か、首の断面から柱状のものが飛び出している。青色で、半透明で、まるでカットされた宝石のよう、だが。
「君も、長老会の襲撃を受けたんじゃ無いかい。」
「……はい。」
「どうやら、奴らには、この薬剤師でさえ、君に協力するようなお人好しに見えたらしい。数時間前から次から次へと襲撃者を送って来ていてね、この有様さ。」
「あなたが、やったんですか?」
「フ。薬剤師は、か弱き乙女ということで名が通っているのさ。聞かぬが花というものだよ。」
「……。」
「ま、それは良い。奴らは、大きな失敗を犯したのさ。」
「失敗?」
「そう、失敗。奴らがこの薬剤師に刺客を送り込まなければ、知ることの出来なかった事実があるのさ。周到さが裏目に出たねぇ。あの青い、宝石のようなものが見えるかい?」
「それは、勿論。」
断面から突き出しているので、正直直視したく無いのだが。百鬼は外傷じゃ死なないので、生々しく蠢いているのも何だか、気持ちが悪い。
「あれこそ、長老会、特に大長老の標榜する、『統括権』とやらだ。」
「えっ、あんなものが?」
「君もそう思うだろう?当然だ。何かしらマインドコントロールに近しい技術と思っていたのに、こんな馬鹿らしいものを埋め込んで洗脳するだなんて、反吐が出る。それをまさか、権利などと呼んでいるのも、許し難い。長老会では百鬼を統率出来ない、と言っているものようなものじゃないか?」
「……それは、そうかもしれませんが。」
あなたが言うと、あの。そんなこと言える程出来た百鬼ではないだろう、という思いに駆られる。
まぁ黙っておこう。
「そう、その思いは黙っておくと良い。」
「……。」
見透かさないで。
「あの、一つだけ良いですか?」
「良いとも。」
「マインドコントロールと、ああいった物を使った洗脳って何が違うんですか?」
「純度が違うだろ。」
「じゅ、純度?」
「もし、言葉や振る舞い、立場といったものを用いて相手を操作するのであれば、他者がこの間に介入するのは極めて難しい。何かしら特定の事柄を解決すれば済む、という話では無くなるからねぇ。でも、ああいう物を使った洗脳の場合、器具を破壊してしまえばそれで全てパーになる。大事な時に故障したら、或いは他者によって破壊されたら、取り返しがつかないじゃないか。それならまだ、愛やら情やら、説明の付かないもので阻止される方が諦めが付く。」
「そうなんですか?」
「そういうものさ。何を隠そう、謀略家がそう言っているんだからね。薬剤師が思うに、後者は逃げだ。百鬼を統率するなら、それなりのカリスマ性、力、運といったものが必要になる。それらの獲得を、長老会は放棄したのだ。これこそ、薬剤師が彼らを見切った理由、君を試した上で君の持ち掛ける取引に耳を傾ける理由、そして。」
「そして?」
「理屈が無意味と感じる理由さ。」
……どの辺りが、何だろうか。
「分からないかい?それとも、君には、薬剤師の持つ考えが理解出来たと。」
「……いえ、正直なところ、そうなんだ、くらいの気持ちで。」
「そうだろう。私が、そう思うという事実に、理屈など無い。真実、そう思っているというだけのことだ。これは、空に対して言えることでもある。理屈や理由など無く、ただ君と出会った時、彼女は君を食べたいと感じた。そしてそれは、彼女にとって何よりも特別だった。君は、百鬼では無く、人間だったから。」
「……。」
上手く口車に乗せられているだけな気もするけれど、どうやら。そうだったのだ、と受け入れるしか無いらしい。
僕は深く息を吸い込んで、それから吐き出す。
「フ、良いルーティンだね。薬剤師も見習おうか。」
「じゃあ、何故ですか。何故、彼女は僕を食べなかったんですか。」
「決まってるだろう。大事に思う人物を失うのは辛いからだ。空がある日、薬剤師へ放った言葉をそっくりそのまま、口にしてやろうか?」
「お願いします。」
「『私は、あの人を愛しているのでしょう。今すぐにでも、食べてしまいたいと心の底から思う程に。しかし、他者があの人に傷を負わせるのも、私があの人に傷を負わせるのも、許せません。だから、あの人を可能な限り、守ることにしました。』」
「――。」
絶句する。本当かは、本人に聞いてみないと分からないことだ。
彼女が盛っている可能性も十分にあるだろう。……でも。でも、だ。
「それなら、分からないことが増えました。」
「それは?」
「彼女は、封印される道を選びました。つまりそれって、僕を守ることも放棄しているということですよね?どう、その発言から現状に繋がるんですか?」
「簡単なことだ。彼女も限界だったのだよ。」
「限界……。」
「すっと手を伸ばせば味わえる御馳走が目の前にあるのに、これを数十年数百年と守り続けられるだけの人間が、百鬼が、歴史上に何人居ると言うんだ?彼女は十年、君に対する欲望を抑え込み続けていた、それだけで十分だろう。薬剤師は、そう思うねぇ。」
「つまり、今にも僕を食べてしまいそうだったから、自分をこの世から抹消し、かつ僕を生かし続ける為に、封印と誓いの関係性を利用した、と。」
「そういうことだねぇ。結局、彼女にとっては長老会の壮大な計画とやらも、君を守るための道具に過ぎなかったわけだ。現状は、彼女の望む状況なんだろうね。君が望むかはまた別の話だけどねぇ。」
「……全然、気付かなかった……。」
しかし今思えば、彼女は確かに、僕に対して食べるぞジョークを飛ばしたり、必要以上に入れ込んだり、としていた。
あれって全部、実は愛情を示す行動であると同時に、冗談に昇華することで自分を誤魔化す行動でもあったのかもしれない。
「ま、奴は面倒なことに、自分の感情を隠すのが上手いからね。彼女が、薬を常飲していたのは知っているかい?」
「……常飲?」
薬剤師との取引で睡眠薬を飲んだって話は聞いたけど。
「その感じだと知らないね?奴には、未だ発見されていない霊薬が必要だった。人間を食べないよう、食欲を抑制する霊薬だ。」
「確かに百鬼じゃあり得ない、ですよね。」
「そう、その通り。こんなものは、百鬼の存在意義に反する。飲めばたちまち、たち消えてしまう程の劇薬さ。でも、彼女にとっては必要だったし、飲んでもアイデンティティを保てるだけの理由があった。だから、空は薬について片端から勉強し、情報を集め、新たな霊薬を完成させたのさ。」
「……だから何かと霊薬に詳しかったんですね。それに、薬剤師が空様の門外漢発言を鼻で笑っていたのも。」
「良く覚えているねぇ。あの時は、一部の範囲なら薬剤師と同等の知識があるだろうと言ってやりたかったものさ。」
「でも、薬は完成したんですよね。何で今更こんな自殺紛いのことを。」
「……宮畑君。」
「はい。」
「ダムを、想像してくれ。」
「……はい。」
「もし、容積以上の水が貯まったら、どうなる。」
「溢れます。」
「霊薬は、そのダムの壁を、上空へと伸ばす物だと思ってくれ。そして、溜め込んだ欲は永遠に堆積していく。」
つまり、いつかは絶対に溢れ出してしまう、ということだ。
彼女がどう足掻いても、僕が喰われてしまう未来は、確定していた。
「でも、そんな、こんなことって。」
「君を守る為に戦い続けた百鬼が、君を守る為に命を投げ出すのは、嫌だと。」
「そこまでは言いませんけど。腑に落ちません。僕だって、彼女に意見する権利くらいあります。……受け入れられるかは兎も角として。今はまず、彼女と話がしたい。そんな気持ちでいっぱいです。」
「ふぅん?」
そして、薬剤師はゆっくり前屈みになって、僕の顔を覗き込んだ。
彼女の翡翠の瞳が、ギラリと光って僕を貫く。
「な、何ですか……。」
「そう。その言葉が聞きたかったのさ、宮畑くん。今の話、どこから派生したか覚えているかな?」
「……えーっと、空様を助け出すには棺桶を破壊する必要があって。でも、棺桶は外界からの衝撃に強いから内部より衝撃を与える必要があって。それが可能なのは、空様だけ。でも、空様は半ば進んで今の状況を作り上げているから、何かしらの方法で目覚めさせても、動いてくれるわけが無い。よって、彼女を説得出来る存在が必要になる……ですよね。」
「そう。それで、もう、嫌と言うほど分かったと思うけど。それが出来るのは君だけ、ということさ。彼女と対話するところまでは、この薬剤師であろうと、ジェラルドであろうと、ある程度の力量があればサポート出来る。でも、説得するとなると、不可能に近い。薬剤師が先程、非常に難しいと言った理由は、この点に尽きるねぇ。君は今、対話を望むと言った。ならば存分に対話してくると良い。」
「今、棺桶の彼女は意識があるんですか?」
「表層には無い。だから、潜り込まなくちゃいけないねぇ。それに関しては、この薬剤師が溜め込んでいる霊薬を幾つか使えば可能だ。」
「……。」
そう、か。じゃあ、最終的には僕にかかっているんだ。
「フ。では、考え中の所もう一つ、彼女の異常性を際立たせる事実を教えよう。これを聞いてから、作戦遂行について考えれば良い。」
「……まだあるんですか。」
「あるとも。」
もう、これ以上に驚いてしまう情報なんて無いだろう。
僕は、訝しげに眉を顰める。
でも、彼女の切った札は、想像以上のとっておきだった。
「彼女、元は人間だよ。」
「へ。」
「抜けた声だねぇ、でもそれを待っていたんだ。彼女はね。人間だ。百鬼と、ある概念を体内に取り込み過ぎて、もう身体の半分以上の組成は百鬼に寄っているけどね。」
「もしかして、人間を食べようと思わない理由って。」
「そう、元来同族だからだ。そして、そうなると。より、君に対する感情のおかしさに気付くんじゃ無いかい?人間は、どれ程他者を愛しても、それがどうしようも無い捕食欲に繋がることなど普通は無いだろう?」
「そうですね……。」
カニバリズムだ何だのと、彼女の食事について形容していたが。
まさか、まさしくその通りだったなんて。
「これが、空の実態だ。彼女は確かに、十年近く、君を百鬼の魔の手から守り通した。だが、それは危険な捕食欲から来る行動であり、君は、彼女と共に居ることで生存が約束されるように見えて、そうでは無かった。」
「そして、百鬼を長年捕食していく過程で今や百鬼に近い存在と化しているが、元は人間である……。」
「そういうことだね。彼女から初めて、様々な事情を聞かされた時は、この薬剤師でさえ言葉を失ったものだよ。受け入れる努力が出来ているだけ、君は偉い方だねぇ。」
「でも、でもです!」
「何が、かな?」
「空様は、百鬼を捕食し始める前から、百鬼夜行の阻止の為活動していたと聞いています。人間であるにも関わらず、それだけの強さがあった、ということ何ですか?」
彼女の強さは出鱈目な百鬼だからこそ、成り立っていると思っていた。
人間に、あのような芸当が出来るだろうか?身長や体重の時点で、彼女は大きく人間の限界を凌駕しているというのに。
「そうだねぇ、その理由はもう一つ、彼女が内に宿しているものを説明しないといけないねぇ。そして、今回君がそれでも彼女を助け出すというのなら、これを利用することにもなる。」
「隠し事だらけですね、空様は……。」
「しかし最後の隠し事は、君でも知っているものだよ。」
「僕でも?」
「その空、という名前は何を由来とする物なのかな?」
「!」
そうか。彼女の真の名前、それを僕は知らない。
空様は、名前に宿った力が強過ぎる、と言って僕に教えてくれなかったのだ。口に出すのも憚られる、とか。
「彼女の名前は、百鬼の間じゃ常識だ。しかし、誰も口に出す事は無い。それを君は、知らないだろうねぇ。」
「はい。」
「教えよう。耳をこちらに寄せるんだ。」
「……分かりました。」
「フ、素直な子だねぇ。空の本当の名前は――」
空■だよ。
ザザッと脳内にノイズが走る。何かに、思考がハッキングされたかのようだ。
薬剤師の声を、しっかり聞き取ることが出来ない。しかし、何故か、彼女の発した一つの単語だけは、僕の頭にしっかり焼き付いていた。
空■、空■。そうか、空様の名前とはそのような。
「君が空を説得し、覚醒させた後にやらなければならないことはただ一つ。彼女の耳元で、その名前を囁くことさ。そうでないと、彼女と長老会との繋がりを断つことにはなら無い。これ以上の謀略に巻き込まれたく無いなら、後処理も完璧に行うべきさ。」
「……後処理、って。」
つまり、長老会を全滅ないしは半壊させて、これ以上あれこれさせ無いようにするってことだろう。
「それだけ、凄い物何ですか。」
「あぁ。具体的にどういう物なのか、は自分の眼で確かめると良い。それか、本人に、ね。ただ一つヒントを出すとすれば、君はそして、黒き炎の君と彼女が呼ばれる由縁を知ることになるだろう。」
「……。」
「成る程、あなたには黒い炎こそが相応しい、ともね。彼女の真の姿を目撃した数少ない生き残りの証言さ、貴重だよ?」
「視たことがあるんですか。」
「戦場で一度ね。ま、語るべくもないエピソードさ。」
彼女は一瞬、遠い眼で窓の外を見やる。
その先にあるものは言わずもがな、蠢く百鬼たちの山なのだが、その光景に戦場の惨状を重ねているのだろうか。
「さて。じゃあ、ここから交渉を始めよう。君には、十分な判断材料を与えたと思う。」
「……交渉。」
「そうさ。まず、彼女の餌食となる可能性を考慮して尚、空の封印を解くというのならば、薬剤師が厠に行っている間もずっと、そこに座っていると良い。もしくは、それならば、と思うのなら、その間に席を離れ、どこへでも行くと良い。」
「いえ、そうする必要はありません。」
「ほう。」
「僕は、彼女の復活を望みます。」
「ふぅん、この薬剤師としては、厠に行く時間も欲しかったのだがねぇ。まぁ、良いさ。それなら話が早い、次のステップへ行こう。」
「はい。」
「君は、この薬剤師に対して何が出来る。彼女を救うというのならば、この薬剤師も前線へ行かざるを得ない。そうするだけの対価を、君は支払えるのかねぇ。」
「支払えます。」
「それは?」
……ウラヌスさんの、言われた通りに。
「ウラヌスさんの作る料理を薬剤師のお店の品物として並べることの出来る権限、そして商品の拡充への全面的な協力。これでいかがですか。」
「ふむ。」
彼女は、腕を組みながら押し黙る。
想定では、ここからそれ以上のものを求められるはず、だけど。
「いや、いい。」
「え。」
「要らない、と言っているんだ、宮畑くん。」
「欲しかったんじゃ無いんですか⁉︎」
「勿論、欲しいさ。彼の腕前は一流だ、彼が作る料理をうちの商品として売り出せるなら、これ以上無い。多くの利益が得られるだろう。」
「それなら。」
「でも、今受け入れるべきものじゃあ無い、そう薬剤師は思うねぇ。」
「……。」
そんな。ここまで来て、支払えるものが無い、なんて洒落にならない。
「アイビーが薬剤師のお店の傘下に入るんですよ!」
「あぁ、そうだろうねぇ。そこまでこの薬剤師に尽くして貰えるなら、自然とそういった形態を取ることになるだろう。」
「自然と。」
「それは、旨味になり得ない。ということさ。フ、想像以上に、君は交渉が下手だねぇ。そのような体たらくじゃ、いつか飲み込まれてしまうよ。」
「僕はまだ学生なんです!」
「初々しくて実に良いことだねぇ。でも、それを抜いても、圧倒的に。圧倒的に、今君の言っていることに足りないものがある。」
「足りないもの。薬剤師を魅了させられるだけの対価……?」
「いやいや、全然違う。もっとよく考えてみると良い、君の頭でね。」
「僕の頭で……。」
彼女は、実に楽しげだ。
何が、何が足りていない。
僕は、ウラヌスさんの言う通りに提示して――いや。
それが、駄目だったのか?
彼女は、僕の頭で考えて、と言った。それはつまり。
「……。」
僕は一度、深呼吸を行う。
「気付いたかい?」
「これらのことが、ウラヌスさんの入れ知恵だと、見抜いていたんですね。」
「自慢じゃ無いが、彼からは何度も対価を必要以上にいただいている。あの男が何を考えてどう行動するかを予測するなど、造作も無いことだねぇ。」
「つまり、僕の言葉で、僕から捧げられるものを表現しろ、と。」
「そうだねぇ。薬剤師は、どこぞの傭兵のように、見合う対価さえあれば何でもするわけじゃあ無いんだ。仕事と対価の内容くらい、選ばせてもらうとも。」
「そう、ですか。」
これは参った。どう言うべきか。僕は、それ程多くのものを持ち合わせているわけじゃあ無い。
ウラヌスさんのような技術も、空様のような力も、僕には。
僕の持つ特殊なものなんて、この眼くらいしか。
「……この眼、か。」
「思い付くものが?」
「僕の眼、に価値はありますか。」
「勿論。未だ、そういった眼が何故生まれるのか、百鬼を寄せ付けるのか、解明されていない。サンプルはすぐ喰われてしまうし、研究などもっての外だからだ。そも、百鬼がその理由を知る必要など無いからねぇ。ただ、依然として素晴らしい栄養素であってくれればそれで良い。」
「それなら、片眼を差し上げます。」
「……フ、面白いじゃあないか。」
「両眼の方が良いですか?」
「いや、片眼で十分だとも。ただ、フ。もう一踏ん張り、出来無いものかねぇ。」
「……。」
ウラヌスさんの言った通りだ。彼女は、提示された内容より少し大きな利益を求める。
でも、そのもう一踏ん張りって、既に提示されているんじゃ無いか?
「薬剤師が僕に協力する理由って、長老会のやり方が気に入ら無いから、ですよね。」
「ふむ。その通りだねぇ。」
「空様に真の名を囁いて、覚醒させる。これは、僕が空様を救う上で、余り必要で無いプロセスに感じます。」
「しかし、そうして彼らに打撃を与えなければ、君はこれからも狙われ続けるのだよ?」
「結局、こんな状況に陥ったのは空様が自殺紛いの行動を取ったからです。その様なことをしなければ、長老会がここまで伸長することは無かったと思います。」
「……つまり、その一工程は、この薬剤師の為にある工程だろう、と君は言いたいのかねぇ。」
「はい。」
彼女は一瞬、押し黙る。お願いだ、オーケーと言ってくれ。
僕が静かに願う中、再び見えた薬剤師の顔は何というか。ニヤけていた。
「前言撤回。君、意外と細かい所に気付くのが上手だねぇ?」
「……。」
褒められているのか。重箱の隅を突くのがうまいと皮肉られているのか。
「ま、良いだろう。この薬剤師も、裏切ったと見られれば面倒だからねぇ。奴らに打撃を与えてくれる分には、こちらの処理も楽になる。君にとっても、薬剤師にとっても、ウィンウィンというわけだねぇ。」
「そう、ですね。」
ただ、彼女の真の姿、というのは目にしておくべきだと僕は思う。
ここまで、彼女のことを知ろうと努力して来たわけだし。今夜、それが一つの山場を迎えようとしているのだ。
「粘って良かったと思える回答が貰えてこの薬剤師も気分が良い。時折こういった答えを聞けるから、交渉はやめられないねぇ。」
「そんなに嬉しいものなんです?」
「いや、君の眼に機嫌を良くしているわけでは無い。空を救う為、ここまで必死になる人間がいることに、この薬剤師は昂りを抑えられないのだ。」
「……。」
何というか、彼女にはまた空様と違う方向の変態性がある気がした。
「交渉成立としよう。君の口から、君の言葉で、これ程の対価を提示されたのだ、受け入れる他あるまい。それに、これ以上のものを求めようとすれば、後で空に殺されてしまう。薬剤師程の百鬼でさえ、あの女は恐ろしいのだよ。」
「うーん……。」
空様に限って言えば、僕とこのような交渉を行なっている時点で怒りそうな気もするけど。
まぁ、良いか。
「この手を握って貰えるかな?」
彼女から右手が差し出される。
「はい。」
僕は迷わず、その手を握った。
「では、薬剤師は君の手助けとなる霊薬をいくつか持ってくる。それまで待っているんだ。」
「……。」
彼女はゆらりと立ち上がり、そして倉庫の扉を開ける。
一方僕はというと、疲労の隠せない表情を浮かべたまま、ぼーっとしていることしか出来ない。
様々な情報が脳内でリフレインしているのだ。
彼女は、僕を食べたいと思っていた。
彼女は元々、人間だった。
彼女の真の名は、空■だ。
ただ、それでも。空様は僕を最後まで、守り抜こうとした。
だけど、さ。僕にもそれを言って欲しかった、空様。僕もあなたに言いたいことがある。
ありがとう。
その一言すら受け取らず、浮世を離れて良い存在じゃない。
人間でありながら百鬼に立ち向かい、多くの武功を挙げた。僕が、空様という無名の英雄を讃えるために、もう一度その眼を覚ましに向かうのだ。
「さ、これらの霊薬を見たまえ。」
「……早いですね。」
「実は、君がこうして依頼しに来るのでは無いかと予測していたのだ。だから、準備は殆ど整っている。」
それってつまり、最終的には受け入れるつもりだったってこと?
それくらい彼女は長老会を嫌っているのか、僕に入れ込んでいるのか、空様を気に入っているのか、はたまた全部なのか。
「とはいえ、綺麗ですね。」
「だろう?取り敢えずにはなるが、君に起こりうる様々な状況を想定して、十本ばかりの霊薬を用意した。うち、この二本は。」
ごとり。協調するように、白濁色の霊薬と青紫色の霊薬が前に出される。
「印も付けておいたけどねぇ。この白色の薬が、まず他者の意識に干渉する効力を持っている。精神治療で度々用いられる薬さ。」
「百鬼にも精神治療とかあるんですね……。」
「君は百鬼を何だと思っているんだ。」
「うーん……。」
十年間、精神がどうとか言わなさそうな百鬼しか見てこなかったせいで。
「ただ、この白色の薬だけでは、言葉を交わせ無い。それを可能とするには、この青紫色の薬を飲んで、テレパシーを一定時間飛ばせるようにならなくてはならない。」
「つまりテレパシーを飛ばせる様になる薬と、意識に干渉できる薬を併用することで、深層に眠っている空様の意識と対話しよう、と。」
「そうなるねぇ。ただ、負荷が大きい。二本同時に飲めば君は間違いなく昏倒する。しかも、これらの効力は、肉体同士が限りなく近い場所になくてはならない。君は棺桶に体重を預ける形で飲まなくてはいけないねぇ。」
「……結構な難易度ですね。」
「そうさ。百鬼たちに邪魔されては、どうしようも無い。よって、これら八本の霊薬を、用いる。臨機応変に、必要に応じて使うんだ。効力は、ラベルに記載されている。」
「えーっと。」
周囲に炎を伴う爆風。……魔法じゃん。
着弾位置を中心として散弾。……爆誕じゃん。
飲んだら一定時間傷が再生し続ける。……リジェネじゃん。
レパートリーが凄い。
「君は、魔除けを持っているんだろう。」
「はい、先ほど見せた通りで。」
「だからまぁ、そこら辺の雑兵であれば気にする必要など無い。もし、長老級の厄介な百鬼が近づいて来た時、それを使うんだ。」
「……でも、長老会は僕に危害を加えられないのでは?」
「ハハ、とんでもない。契約は、意外と破られるものだよ。仮に違えれば、待っているのは彼ら自身の封印。よって、破らないことが定石ではあるがねぇ。やぶれかぶれになれば、躊躇無く破りに来るだろう。」
「そうなんですか……。」
「そう気を落とさないことだ。常識で考えれば、破られないはずだからねぇ。……持ち運び用の箱は、ここに置いておくよ。」
大きな木箱が机の下より持ち出される。
これ、棺と同じ素材では?
「霊薬を守る為に、特注で作ったものさ。失くさないでくれたまえよ?」
「はい。」
「この薬剤師に、現地で拾わせるなどという失態は犯してくれるな。しっかり、この場へ返しに来るんだねぇ。」
「……そうですね、絶対に。」
彼女なりの生きて帰ってこいという激励をいただいてしまった。
まぁ、僕たちの同行を流してたの、この人なんだけどね。これだけの献身でトントンとしよう。
「じゃ、さっさと行くと良い。サクッと愛人を救うんだ。彼女のどす黒いオーラは見ていて辟易するけど、いなくなったらそれはそれで寂しいからねぇ。」
「愛人じゃありません!」
「そう。ま、そういう選択肢もあるだろうねぇ。」
「それに、薬剤師は来ないんですか?」
「二人のランデブーを邪魔するわけには行かないだろう。」
「くぅ……。」
僕は、彼女の生暖かい視線を受けつつ、椅子から立ち上がる。何だろう、やっぱり最後の最後まで弄られ続けたような。
まぁ、交渉の結果とはいえ協力してくれたから良しとしよう。
薬箱の持ち手を強く掴む。ドアノブを捻る。
「路への入り口は廊下を右に行った先さ。」
「分かりました。」
僕は、深く息を吸った後、力強く一歩目を踏み出した。
*
行ったか。
薬剤師は宮畑優が扉を閉めたのを確認し、そして。
「……おっと。」
近くの椅子へ覆い被さるように、倒れ込んだ。
「ふぅ……何とも、大役だったねぇ。」
ジリジリ。彼女は、自らの肌が焼けているのを感じている。
さて、どうなっているものやら、とばかりに衣装を捲り上げた。
「ハ。これはまた、酷いものだ。」
黒焦げになった、脇腹。彼女はいつもの調子で笑って見せるが、その痛みは尋常では無い。
「黒き炎の君……本当に、恐ろしい存在だ。このように名を呼ぶだけで、百鬼はその身を焼かれてしまう。この薬剤師で無ければ、とうに灰と化していただろう。」
その真意は、献身か。興味か。悪辣か。
爛れる表皮に手元の霊薬をかけながら、体勢を直す。
「ま、これで面白いものが見れるのだから、安い代償さ。あの人間ならば、上手くやるだろう。」
溜息。流石に、この痛みは応えたか。
「空。君の抱える炎を、今一度見せてくれ。この薬剤師はその眼でもって、見守っている。」
そして、彼女は意識を手放した。
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