二日目〜破
「まーた眠そうな顔してるなぁ、宮畑ちゃん。大丈夫?」
「大丈夫、です……。」
「そう言う人は大抵大丈夫じゃねぇって俺ぁ知ってるんだわ。なぁ空様?」
「ふふ、ウラヌスさんは面白い冗談を言いますね?」
「あれ?これ俺死ぬ?」
アイビーにて。出発まで少し休もうとぐでぐでしつつ、僕は見慣れた二人のやり取りを眺める。
朝、まるで当然のように僕の家に入り込んでベッドに座っていた空様は、やはりいつも通りの調子であった。彼女は、僕が非道な勧誘を受けたなど、つゆも知らないのだろう。
頭の中を、彼女の顔と未来の自分がぐるぐる掻き乱してきて、全く酷い気分だ。
ウラヌスさんの懸念通り、全然眠れなかったし。
「それにしても、確かに、優さんの表情は余り良いものではありませんね。今日向かう場所は元より百鬼の多い場所ですし。追い払うのに時間がかかって、目当ての金盞花を見つけられない、ということになると面倒な為、早めの出発を目指していましたが、急かさない方が寧ろ効率良さそうです。」
「そうしていただけるとありがたいです……。」
何せここには護ってくれる存在がいるから。家に一人でいるよりはずっと、気が休まるというものだ。
「しかし、何もせずにいるのは勿体無いようにも思えますね。」
「何かやることがあるのなら、留守番は任せて貰っても良いぜ?」
「いえ、建物外に用があるわけではありません。この時間を使って、優さんに少し面白い話ができれば良いな、と思いまして。」
「何か聞くくらいの余裕はありますよ!」
面白いことなら大歓迎である。気も紛れそうだし。
「うおっ、突然元気になるじゃねぇかお前。」
「面白い話と聞いたので。」
「ふふ、そのように嬉しがっていただけると話しがいがありますね。……ウラヌスさん、申し訳ありませんが、飲み物の注文をしても良いですか?」
「はいよ。待ってましたってもんさ。」
「ホットコーヒーをお願いします。」
「りょーかい、そういや今朝飲んでなかったしな。……宮畑ちゃんはどうする?」
「おすすめは何か?」
「今日は、良いオレンジが入ってるぜ……。」
「じゃあオレンジジュースで。」
「あいよ!」
もう、本当に、この仕事が大好きなんだろうな。僕は、スキップアンド鼻歌まじりで厨房に向かうウラヌスさんを見送りながら思わず笑顔を浮かべる。
あんな楽しそうに仕事する人見たことないもん。
「では、今の内に話し始めてしまいましょうか。」
「お願いします!憂鬱な気分を吹き飛ばすくらい。」
「ふふ。では、ある百鬼の昔話を。」
「昔話?」
「はい。もしくは、伝説、神話、予言、そういったものでしょうか。」
「僕、そういう話だーいすき。」
ギリシャ神話とか、騎士たちの伝説とか、マヤやらエジプトやらの予言とか。
そういうものって誰でもワクワクしながら眺めてるものだよね。ね?
「ある、小さな百鬼が、今日も人間を捕食していました。」
「うっ。」
まぁそうだよね、百鬼のお話だもん、人間なんてそういう扱いだよね。
「すると、突然、空からこんな声がしてきたのです。『お前たちはそうやって、餌を喰い散らすだけ喰い散らしておきながら、感謝の念も自責の念も抱いていないように視える。お前たちは、一体何を理由に餌を貪るのか。』」
「人間に優しい……。」
まぁ、その人間のことは一貫して餌呼ばわりなんだけど。
「聞かれたからには、答えないわけにもいきません。その百鬼は、誇らしげに、『強くなるためだ』と答えました。」
「そういえば空様も、百鬼は食べて強くなることが存在意義って言ってましたね。」
「百鬼とは、そういうものですから。私とて例外ではありませんし、この登場人物もまたそうだったのでしょう。……話を戻します。すると、その答えを聞き取った誰かは、こう返しました。『では、何故強くなろうと思うのか?』」
まぁ、当然百鬼でない存在はそう感じるよなぁと思いつつ、僕はコップの水を飲み干す。
何というか、探せば人間の昔話にもこういう感じの問答がありそうだ。
「もしかすると、そんなことは一度も考えたことなかったのかもしれません。小さな百鬼は、顎に手を当ててうんうんと唸りますが、満足のいく回答は思い浮かびませんでした。そしてそんな彼を見て、姿無き声は、激怒します。『理由のない目的の為に、他者を犠牲にしても良いのか。』」
「……。」
僕は、その言葉を聞いて、ふと、自分が他者を犠牲にする意味について考えた。
それは、頭がおかしくなりそうになるくらい、重い問いかけである。
だって、空様の言葉を額面通り受け取るなら、人間が『生きたい』と思うのと同じような感情な訳だろう、百鬼の『強くなりたい』は。
じゃあ、人間って、何故生きたいと思うんだ。何故、生きる為に様々な行動を起こす?
「しかし、その問いに対する答えは、百鬼にとって明確でした。『当然だ。』」
「当然?」
「はい、小さな百鬼はそのように答えたと言い伝えられています。」
「当然……。」
「どうやら、存在の根幹へ根差した目的に、明確な理由はないけれど、それを理由として行動するのは当然のことだ、ということなようですよ。……ただ、姿無き声はこの答えを許容しようとはしませんでした。『ならば、お前たちが、その手に持つ餌と同じように踏み台となるのであっても、当然と考えるのだな?』」
もしかすると、『小さな百鬼』が体現しているのは、自然界における絶対的な食物連鎖、弱肉強食といったものなのかもしれない。
それ程までに、彼の意見は何というか……本能的だ。鋭利なナイフのような正論とすら言えるかもしれない。
「そして、小さな百鬼は語気を強めた姿無き声に対抗せんと、声を張り上げます。『もし、そのようなことが起こり得るならば、許容する。俺の代わりに、そいつが強くなるだけなのだから。』その後、言葉が返ってくることはありませんでした。」
「小さい百鬼とは言いますけれど……何というか、大きい、ようにも感じますね。」
「ここまでのストーリーを聞くと、そう感じるかもしれません。私も、初めて聞いた時は意思の強い百鬼だ、と感じたものです。しかし、姿無き声の干渉は、これで終わりませんでした。」
「……まさか。」
聞きたいことは聞き終えて。答えを得たというならば。
「小さな百鬼が問答を行なって数日後のこと。その日は、人間の言う『百鬼夜行』、つまり、百鬼たちが一堂に介して行列を為し、襲撃を受けた地域の人間を喰い散らかしながらお酒と踊りで騒ぎ尽くす、そういう日でした。」
「……百鬼夜行がそんな想像を絶する地獄だったとは思いもしなかった……。」
「百鬼が人間を驚かして拍手喝采、なんてあり得るわけ無いでしょう?」
「それもそうですね……。」
そうだ。百鬼とは人間を喰らうものだ。ファンシーな百鬼夜行なんて。
「そして百鬼夜行の音頭を取るのは、俗に『大長老』と呼ばれる、百鬼たちの頭領なのですが……何と、その小さな百鬼は、該当回の『大長老』だったのです。彼は、百鬼夜行が始まると、『当然』のように餌へ襲い掛かりました。」
「……。」
「でも、彼は既に忘れていました。先日の問答を。突如として現れた光に負けじと眼を開けた彼は、その中に人型を見たのです。そして、それはこのように言いました。『お前の言葉を現実のものとした。これよりお前たちは、より強い存在の目的の為、踏み台になって貰うぞ。』その日、百鬼夜行による人間の犠牲者は最小限に抑えられた、と言われています。」
「因果、応報……?」
そう断言して良いのか、少し疑問が残る。
「終わりです。」
「終わり!?」
「はい。しっかり、食べ物には感謝しましょうね、というありがちな教訓を孕んだ昔話です。」
「そ、そうなんですか……いやでも昔話なんてそんなものですよね……。」
浦島太郎とか鶴になって飛び去って終わりだし。
その後どうなったの⁉︎なんて語り手に聞いたって何も手に入らないのだ。
「あらら、終わっちまってたか。」
「ウラヌスさん。」
「ま、初めだけ盗み聞きしてたけどよ。俺もその話は知ってるから見当はついた。気になるのはあれだよな、その『小さな百鬼』が最期に何を思ったのか。」
彼は慣れた手つきでオレンジジュースとコーヒーを机に並べつつ、複雑そうな表情を浮かべる。
「これは個人的な意見だが、悪いことをしたので、そいつらは全滅しました、終わり!じゃちょっと暴力的すぎると思うんだよなぁ。悪いことしからには全滅しちまうのに文句は言わないにしても、感情の描写くらいは欲しいもんだ。この話の作者には五〇点の評定を捧げたいね。」
「昔ながらのお話に随分好き放題言いますね。」
「だからこそ、だよ。だろ?空様。空様がこの話をチョイスしたのは、何かしらの意味があるはずだ。何せ、進んで口を開くのを好まない空様が、自ら提案したんだからな。」
「ふふ。流石はウラヌスさん。私のことをよく分かっていらっしゃいます。」
コーヒーをすいっと口に含みつつ、彼女は楽しそうに口角を上げる。
「しかし、この話は本当に、気分で口にしたに過ぎません。そもそも、百鬼の捕食なんて私以上に優さんの方が詳しいですからね。どういう反応をするのか気になるとは思いましたが、特にクリティカルな答えはございませんよ。」
「なんだ、つまり俺の深読みってことか?」
知った顔してかっこいいこと言った俺、恥ずかし過ぎるだろ、と顔を両手で覆うウラヌスさん。
うーん……何というか、彼女の言うことをどこまで信じるべきかは難しいところだけど……今の言い分は果たして本当なのだろうか。
百鬼を喰らう百鬼。空様。
何というか、物語内の『姿無き声』と同じく、ある意味百鬼を踏み台にして生きる側の存在である彼女は、『姿無き声』の言い分にシンパシーを感じているのだろうか?
でも空様は百鬼だから、別に上位者ってわけでもないし……うーん。
「ふふ、そのように思案しても無い答えは出ませんよ?」
彼女は、柔和な笑顔で僕の心を蕩かす。
いやぁ……まぁ今考えるべきはそのことじゃないか。
「さ、優さんも元気が出たようですし、良い具合なのでは無いですか?」
「……そうですね。頭も回ってきましたし。これなら空様トレインにも耐えられそう。」
「空様トレイン?」
こくり、と彼女の頭が横に傾く。
無表情かつ瞳孔をパックリ開いたままそうされると非常に怖い。
「勝手に命名した、空様に抱えられたまま移動する方法の名称です……恥ずかしいから説明させないでください……。」
「ふふ、申し訳ありません、そういうことでしたか。」
次に向かうは鳥取。割と徳島に負けず劣らずな遠さを誇る、暖かな地域である。
僕の鳥取への知識なんて砂丘くらいのものだけど、金盞花が取れるのは確かFポイント。広大な平原地帯だったような。
……すぐに見つかると良いんだけれど、百鬼が沢山いるそうだし。
ええい、気をしっかり持て宮畑優。
今日はここからが本番なのだから。
*
霊薬の材料探し、二日目――
僕は、悲鳴を上げることなく。この広大なエリアからケシ粒ほどの大きさのものを探し当てなくてはならない。
しかも、今回に限っては、恐ろしいことに、池や沼といったランドマークが目印にならないのだ。よって、昨日にも増して、立ち上がっては屈み込んで、ということを繰り返し、目当ての花を見逃さないよう気をつける必要がある。
もうそろ、腰や膝の軟骨がすり減り始めてしまうのではないだろうか。
僕は極めて元気そうに金盞花を探して回る彼女を横目に、ひぃひぃ声を出す。
いや、あの人は既に七〇〇キロメートル以上爆走してるはずなのに、おかしいって。
「ふふ、可愛らしくお顔が歪んでいらっしゃいますよ?大丈夫ですか、優さん。」
「可愛らしく顔が歪んでる、って矛盾してませんか?」
「していないと感じる感性の持ち主も、この世界には存在するんですよ。」
いやはや。
全く恐ろしい話である。
空様はちょくちょく、百鬼と人間の価値観の違いというか、人間へのナチュラルな上から目線みたいなものを出してくるので、油断ならない。
調子こいてると、いつか彼女のペースか胃の中に吸い込まれそうだもの。
「じゃあ、そんな感性の持ち主のことを聞かせてください。」
「私のことを、ですか。」
「はい。昨日も言いましたけど、空様のことはまだまだ知らないことばかりです。強い、強い、と言われていますけど、間近で戦っているところ見たことないですし、それ以外のことでもいっぱい。」
「ふむ。」
彼女が一旦立ち止まって、思案しているように眼を閉じる。
「私としては、自らのことを語るのを余り好みません。」
「ウラヌスさんもそう言ってましたね……。」
「彼は昔、好奇心で私の身辺調査している時期があったんです。最終的には、臭いものには蓋、と記録を封印していましたが。」
「えっ。」
「それだけのことなのです、私を深く知るということは。だから、進んで自らのことを開示しようとは思わないのです。」
「……。」
何か、思い出したかのように彼女は声を低くした。僕が軽々しく何か言ってはいけなさそうな雰囲気である。
「しかし、あなた様は、私のことを知らないまま薬を飲むのは嫌と仰っていました。」
「その通りです。」
それだけは何としても避けたい。恩人がどういった人物なのか知らないまま、なんてモヤモヤして耐えられないから。
「このまま私が自身のことを隠し続けて、あなた様の選択肢を狭める、これは余りよろしくありません。なので、少しばかりあなた様の要望を受け入れることにします。」
「つまり……?」
「ほんの少し、ではありますが、質問を受け付けようかな、と。」
「成る程。」
おかしい。結構軽々しい気持ちで聞かせてください、といったはずなのに、重苦しいことになってしまった。
いやでもこれは、僕が考え無しだっただけだろう。
「そうですね……質問、質問……。」
そして、いざという時にパッと疑問が思い浮かばない。
人間の脳みそとは本当に困ったもの――いや。
あった。
「すぐには思い浮かびそうにありませんか?」
「……あります。」
「それは?」
「百鬼を食べる時、空様はどういう感情なんですか?」
「……。」
ピクリ、と。彼女の耳が反応した気がした。
黒く燻んだ水晶を角柱状にカットした美しいピアスが、揺れたのだ。
それは陽光を照り返して。或いは吸収して、彼女の感情を代弁しているかのように、動いている。
「ふぅ。ありがとうございます。それは、確かに気になるところでしょう。何せ、百鬼を喰らう百鬼という存在は、人間は愚か凡百の百鬼にとってでさえも、不可解な存在ですから。」
「そう、ですね。」
「しかし、私は先日、喰らった百鬼の生み出した殺戮や悲劇、終焉といったものを味わうのが幸福と申し上げたように記憶しております。それについては、覚えていらっしゃいますか?」
「はい。」
何というか、まぁ、衝撃的な発言ではあったから。
「つまり、それを踏まえた上でよりはっきりとした私の心情を知りたいということですね?」
「そう、なります。」
「……ふぅ。」
心なしか、彼女は悲しげに口を開く。
「全部は、お話できません。それでもよろしいですか?」
「十分です。」
もう、その雰囲気だけで色んなことが感じられるというか。
「告白しますね。私は、百鬼というものに何の感情を抱いていません。」
「えっ。」
自分も百鬼なのに?
「理解しています、百鬼とはいえ、ウラヌスさんのように生きる存在もいる。そういった存在は、非常に生き生きとしていて、私の眼には美しく映ります。しかし、この価値観だけはどれほどの歳月を生きても、変わりませんでした。百鬼が生きようが、死のうが。私が喰おうが、見逃そうが。もしかするとただ、食糧としか見ていないのかもしれません。」
「無情、無感動、無感情……。」
「ふふ。的確な言葉を三つも存じていらっしゃるとは。現代の人間の語彙には、眼を見張るものがありますね。」
「ウラヌスさんは空様の眼に美しく映るのに、それでも無感動なんですか?」
「……。」
肯定なんてしたくないだろう。
そんなはずはない、彼は美しい生き方をしている、と彼女自身は深く、恐らくは誰よりも理解している。
でも。その本心では。
「ふふ。」
「今って、笑って良いところなんですか?」
「笑うしかない、という言葉もあります。」
「それは。」
そうなのだが。
「よって、百鬼を食べるという行為自体にも、何の感情を持ってはいません。空という名の百鬼にとって、それは当然のことですから。」
「……昔話に登場した『小さな百鬼』、のように?」
「仰る通り、なのかもしれません。確かに、私は特に明確な理由も無く、ただ生存の為に百鬼を喰らっていますから。仮に突如として姿無き声が現れ、私に問答を仕掛けたとすれば、私は満足いく答えを導き出すことなどできないでしょう。」
「……。」
「最後に、分かり易くまとめさせていただきます。私は、百鬼を喰らう時、いかなる感情をも抱いておりません。しかし、その百鬼が喉元を通り過ぎる瞬間、私の脳裏に浮かぶ様々な情景。これには、様々な感情を抱いている、そういうことですね。」
「うむむ。」
百鬼を食べることと、百鬼を味わうこと。その違い、ということだろうか。
最初は狂った人だ、と思ったものだが、ここ二日で少しずつ空様のことを理解していく内に、同じ言葉でもまた違った印象を、僕は抱いている。
百鬼が彼女の喉元を通り過ぎる瞬間、浮かび上がってくるのは本当に幸福だけなのだろうか?
「いかが致しましたか?」
「……一つだけ。」
「はい。」
「空様の脳裏に浮かぶ情景に対して抱く思いは、幸福だけですか?」
「成る程、それは気になるのも道理ですね。しかし、今その質問にお答えすることはできません。」
「そうですか……。」
「ただし。」
「ただし……?」
「明後日までにはお答え致しますよ。」
「明後日ってつまり。」
霊薬に必要な素材を全て集め終わり、尚且つその調合が終了する日、ってことだ。
「今ここで、全てを伝えることはできませんから。ご了承ください。」
「はぁい。」
「ふふ、聞き分けの良い人間は長生きするものですからね。」
その言葉、慈愛の籠もった笑顔で言うべき内容じゃないですよ。
僕は、彼女のずれた感性に疑問符を浮かべつつ、修正を行う。
まぁそういうところ含めて空様なんだろうけど……百鬼が何故百鬼を食べるのか、という謎については何か大きなものが眠っていそうである。
「ささ、私が話していると、優さんの手が止まってしまうようですし。」
「あっ。」
「今日の本題はそちらですからね。私の自分語りで気分転換になったのであれば何よりですが、優先事項を大事にしていきましょう?」
「すみません。」
怒られてしまった。
「うーん……。」
「どうしましたか?」
「何でしょう、あの、こうやって手を動かしても、役立ってる気がしなくて。」
「そうですか?そのように隈なく探しているだけで、私の見落としをカバーできるわけですから、十分に仕事をこなしているとは思いますが。」
「でも、僕は空様よりずっと視力悪いし、視界も狭いし……。」
人間としてはごく普通程度なはずだけど。こればかりはね。
「そうですか。貢献できている、という感覚のない仕事をずっと続けていただくのも酷ですし……少し不安ですが、二手に分かれますか?」
「……そうですね……。」
その方が、効率も上がるだろう。
ここは百鬼が多いそうだけど、今のところは見当たらないし、魔除けもある。
とはいえ。気掛かりなのは昨夜の声の主だ。彼は、魔除けによる反発を乗り越え、悠々と僕に話しかけるばかりか、大いに感情を揺さぶっていった。
今朝体調が悪かった理由も、行きに少し悪夢を見て、魘されたのも、全てそれのせいだ。
僕には、表面だけ偽って、強がることだけだった。そして、次回も同じように対応できるとは限らない。
……でも、それを彼女に相談できるだろうか。
彼女を犠牲に、僕がより良い結果を手にするという提案を切り離して話すことなどできないだろう。空様は頭が切れる、彼女の言葉を前に、僕は抵抗なんてできっこない。
「……。」
「いかがいたしましたか?」
「いえ、なんでもありません。今のところは事前情報ほど百鬼が多いわけでもなく、強化された魔除けもある、そうですよね。」
「だからこそ、提案しているわけですが……不安も大きいでしょう?難しいと少しでも思うのなら、無理を為される必要は全くありません。」
「大丈夫です。明るい内にしかできないことは、今の内にやってしまいましょう、空様。」
「……。」
彼女は、訝しげに僕を見つめる。
……寧ろ、怪しかっただろうか。少し、焦りのような感情が芽生えてくる。
何か悪いことをしたわけじゃないのに。
「分かりました。しかし、少しでも引っ掛かることがあれば、合図を。何分、視力と耳は良いので、あなた様が悲鳴なり大声なり上げていただければ、すぐに参上致します。」
「了解!」
すっっっごく頼もしい。
この人ならやってくれるだろうという雰囲気を常に纏っているのも、彼女の強さというか、なんというか。
あの声の主が再び僕を誘惑しにきたらどうしよう、と実際心配になるわけだけど、彼女なら追い払ってくれるだろうという気持ちに、少しずつ塗り変わっていく。
あと、大声出すって内側から元気を引き出せる感じがあるよね。
「じゃあ、取り敢えず一時間後に、この切り株周辺で集合にしましょう。」
何の木だったのかは分からないが、恐らく日当たりの為伐採されたのだろう大きな幹の跡を、僕は指差した。
「そうですね。この辺りは少し盛り上がった地形になっているので、多少迷っても目印にし易いでしょう。……では、私は左の方へ。」
「僕は右ですね、任せてください!」
多分、彼女が精査できる範囲の半分すら調べられないだろうけど、これで少しでも効率が上がるのなら、喜ばしいことだ。
僕は、彼女の背中を見送りつつ、一回伸びをする。
うん。やる気出てきたかもしれない。
「一時間はこのやる気を保たせよう……。」
いざ、一段下の平原へ。
ざざっと斜面を滑り落ちつつ、僕は周囲を確認した。
異常無し。
「金盞花かぁ。」
ふと、僕は手元のカタログへと眼を落とす。
あの薬剤師は胡散臭いし、話し方も正直いけすかない感じだったけど、こういう整理に関しては極めて有能なのだ。
見易いったらありゃしない。索引で調べればすぐに薬品のページが出てくるし、元になる花の説明もパッと分かるようになっている。
「色的に、緑一面の草原でなら見つけ易いと思うけど……。」
ともあれ、歩かねば始まらない。
鳥取は昨日、雨が降っていたのだという。だからだろう、地面が少しぬかるんでいるのが、歩きにくさを助長して、大変だった。
「でも、あれだなぁ。金盞花……花言葉がちょっと嫌な感じ。」
一昨日、空様は言霊に言及していたことをふと思い出す。人間が作る薬草図鑑に、いちいち花言葉を乗っけるなんて考えられない話だが、百鬼にとってはもしかするとかなり重要な項目なのかもしれない。
寧ろ、その花言葉こそ、効力そのものに当たる、とか?
僕たちが作ろうとしている霊薬の名前って絶縁の霊薬、だし。
全体的に、離れ離れになることを指し示すようなこの花を使うからこそ、絶縁なのだろうか?
「うーむ、いや、そんなこと考えてる場合じゃないな……。」
今は頭より寧ろ、脚と眼を動かすべき時間なのだ。
花言葉については後で空様に聞いてみよう。
「……僕って、霊薬を飲むべきなのかな。」
絶縁の霊薬について考える内に、ふと僕は根本的な問いを思い出す。
僕は、この答えを出さないまま、空様に協力して貰っているのだ。ならば、相応の態度でもって示さなくてはならないのではないか、そう思う。
でも……何というか。この眼を易々と捨てるべきではない、そうとも感じるのだ。
何故だろう。
「別に高尚な理由なんて無いだろうけど……。」
当然の話だが、僕は殺されたくなんてない。だから、百鬼に襲われるままで居たいとは全く思わない。
だったら、さっさと飲む決断を下せば良いという話である。
なのに、何かが引っ掛かるのだ。そしてそのしこりは、空様と近くに居れば居るほど強くなる。恋だの、友情だの、そういったありがちなものでは無いだろう。
どちらかというと、何というか、この眼のお陰で何か、命を拾われてきたような……。
「分からーん!」
僕は、空様に反応されないであろう程度の声で、気持ちを吐き出す。
もう、ここ数日ずっともやもやして気持ちが悪いのだ。
何故その理由に僕は気づけない。
まるでその部分だけ記憶が消去されてしまっているかのようだ。
「……。」
まぁ、そんなこと言ったって材料がなければ飲む飲まないの選択すらできないのだが。
「ふふ……。」
見つからない。
もうね、一切見つかる気配がしないんです。
昨日で分かっていたことだけど――
「!?」
ぱきり。
どこかで、音がする。
いや、僕は枝なんて踏み割ってないぞ?
周囲に空様はいないし……まさか。
「昨夜ぶりだのう、宮畑優。」
瞬間、背筋に寒気を感じる。百鬼特有の感触だ。
そして、耳に入るのは聞き覚えのある声。
「……。」
「呵呵、何ともまぁ、まるで敵を視るかのような眼をしているではないか。」
「あなたは……。」
シワだらけで、後頭部に大きなコブのある小柄な老人。
見覚えはない。見覚えはない、が。
雰囲気で彼がどのような百鬼であるかを理解する……間違いなく、薬剤師や空様といった一般的にろくでなし扱いされる側の存在だ。
「何の、用ですか。」
引き込まれないように。僕は注意深く相手の目的を引き出そうとする。
「言わねば分からぬか?いや、貴君には分かるはずであろう。」
「未だに僕を引き込もうと思っているのなら、無駄ですよ。」
空様には、窮地に陥る、もしくはその可能性がある場合、声を上げるなり、大きな音を出すなりしろと言われた。
しかし。僕は周囲を震える膝を抑えながら見回す。
「しかも、こんなに百鬼を引き連れて。どうやって僕を襲わないようにしてるのか知りませんけど。」
「いや、貴君に言われて気がついたのだ。確かに、行動でもって示さねば貴君に理解を得ることはできないであろう、とな。」
「この、脅しにも見える行動が、その理解を得る為の……?」
「これが脅しに見えるのかね?それは、余りに表面的な見方というものだ。貴君は今、どのように襲わせないようにしているのか、と言っていたであろう。答えは既に得ているはずだ……つまり、儂らの持つ統率権でもって、思考や欲望の中枢に強制力を働かせているのだよ。」
「そ、そんなこと……。」
非人道的だ、と言いかけて僕は口を押さえる。
その考え方は、『人道』の言葉が指し示す通り、人間の価値観によって編み上げられたものだ。しかし、今、目の前で行われている非道は、百鬼が、百鬼に対して行なっているだけ。
これは許されることなのだろうか?
「百鬼は……特に、中でも有力なものたちは、それに見合った力を得るもの。儂らの場合、それが凡百の百鬼どもの支配だった、それだけの話よ。」
「……。」
「見よ。理性を失って然るべき状況でありながら、完全なコントロールにより忠実な僕として動かすことが可能になった百鬼たちを。それらは、貴君の返答の如何により、無敵の盾となって貴君を護るであろう。素晴らしいとは思わぬか。」
「……そうして、百鬼たちは幸せなんですか……?」
「んん?何を言っておる?」
「いや、単純に気になっただけです。」
百鬼たちの価値観において、それは正しいことなのかどうか。弱肉強食の道理が色濃く浸透している幽世の生命にとっては、寧ろ望ましいあり方なのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
「……呵、呵呵!」
しかし、帰ってきた言葉は、笑い声のみであった。
「何を言い出すかと思えば、人間が百鬼の感情を理解しようと?そのようなこと、してはならぬ。しては、ならぬのだ。」
「な、何故ですか!?」
「それは勿論、儂を始めとした百鬼と、貴君を始めとした人間が、別の種族だからだとも。別の世界、別の価値観、別の道、別の倫理。儂らと貴君らは根本的に分かり合えぬ。どれ程貴君が親身に擦り寄り、もしくはどれ程百鬼が貴君に対して好意を示そうと、いつかは全てが泡沫に帰す。そのように、できておるのだ。」
「そんなことやってみなくちゃ」
「幾度となく殺されかけ、その度に逃げ惑ってきたのはどこの誰だ?忘れたとは言わせぬ。貴君が今抱いている美しき親愛は、ここ数日で生まれただけの脆弱なものであると知れ。異種族による干渉は、百鬼を取り返しの付かない滅亡へと追い込むのだ!」
どうやら、この老人には何かしら、確固たる信念があるらしい。その言葉は、僕を勧誘しようとしていた時に見せていた余裕のある姿からは想像出来ない程情熱的だった。
ただ、疑問が残る。
「……それなら、百鬼が人間を理解しようとすることは許されるのですか?」
「許されるとも。人間が百鬼を滅ぼそうとすることはあっても、百鬼が人間を滅ぼそうとすることは無いのだからな。」
「は……?」
「……大長老。」
「あぁ、分かっておる。余りに許し難い行為を目の前にして、気を昂らせてしもうたな。貴君も許してくれ、その行動を非難こそすれ、貴君そのものを否定する気は無いのだ。」
「……。」
何と回答すれば良いのか。
ただ、僕にできることは彼らが今すぐにでも去ってくれることを願いつつ、不興を買って殺されてしまうことが無いよう、立ち回ることだけだった。
それに、今、大長老と言っていたような?
「あなた、大長老と言うんですか?」
「……未だ告げておらんかったか。いかにも。儂こそ、長老会最高指導者、大長老である。」
「確か大長老って……。」
百鬼夜行の音頭をとる役割だった、ような。
「ふむ、知っておったか。例の伝説でも聞いたのか?」
「例の?」
「『小さな百鬼』が愚かにも死に行く伝説だ。」
「……。」
パッと誰もが思い浮かぶくらい、有名な話なのか。
「どうやら図星のようだの。しかし、その話は今から数千と昔の話よ。なれば、社会構造、肩書きの意味も大きく書き変わるもの。今、大長老の持つ役割は何も百鬼夜行の幹事だけに留まらぬ。今となっては、百鬼全体をある程度組織的に統括する組織の頂点と言えるものだ。」
「そう、なんだ……。」
つまり、今僕は百鬼たちのトップとも言えるレベルの人に、誘われてるってこと?
より混乱してきた。何でこんなことに。
「さぁ。貴君、儂の肩書きについてなどこの際どうでも良い。それより、二度目の交渉と行こう。儂らには、時間が無いのだ。余裕も、段々と失われつつある。貴君の協力が、儂らの目的を達成するのに不可欠なのだ。」
「その目的というのは、空様の排除、ですよね?」
「そうだ。儂らの悲願だ。」
「極端な話……僕になんて構わず、やって仕舞えば良いだけのことじゃ無いんですか?」
「それで解決するのなら、既に奴はこの世に存在せぬよ。」
「そうだとしてもなんで……。」
僕、なんだ。僕は、宮畑優は、偶々彼女に救われただけの一般人だぞ。
摩訶不思議な能力……は百鬼を視る眼くらいのものだし、かといって身体能力や頭脳に優れるわけでもない。
寧ろ、運動は苦手なくらいだ。なのに、何故僕が。
「貴君は理解できぬだろう。しかし、貴君は空にとって、黒き炎の君にとって、かけがえの無いものなのだ。人の思いを踏み躙る行為だとは言ってくれるな、そうでもしないと、奴は対処できん。」
「そんな馬鹿な。」
昨日、この老人が自分で言った通りだ。
僕と彼女の関係性は一朝一夕で出来上がったものに過ぎない。なのに、そんな僕が、彼女にとってかけがえの無いものだって?
確かに空様は、一日以上続いた関係自体少なくて、僕には多少の思い入れがあると言っていた。それに、僕だって彼女のことは少なからず、大切に扱うべき恩人と思っている。
ただ、その発言がイコール、かけがえの無い存在、とはならないだろう。
「それが事実なのだ。」
「何故?」
「言えぬ。言えば、奴の真実に触れることになる。それは禁忌だ。絶対に、何があろうと、口にできないことなのだ。」
「それは、あなたの言う、黒き炎の君という呼び名にも関係が?」
「……そうだ。だが、それ以上は踏み出そうとするでない。貴君をも巻き込んで、百鬼が燃え尽きる結果を迎えるぞ?」
「そっ、そんな。」
もう、どこからどこまで信じるべきかが全く分からない。
彼の言うことは荒唐無稽な作り話なのか?それとも、彼のような存在が恐るほど、空様はとんでもない百鬼なのか?
いや、空様が普通の百鬼に比べ一線を画する存在であることは、僕だって何度も思い知らされたわけだけど……そんな、百鬼を食べるという要素だけでなく、こんな風にまるで、滅びの神様であるかのように言われるなんて。
その上僕が、重要なピースになる?
「さぁ、手を取ると一言言うだけで、貴君の褒賞は約束される。儂とて理解しているとも、太刀打ち出来ぬ捕食者に常日頃から狙われ続ける、仮にそうでなくても、そのような存在を意識し続けなければならない生活というのは辛いものだ。」
「百鬼自体、人間を襲わないようには出来ないんですか?」
「百鬼全体が人間を襲わぬようにすることは、存在意義の喪失を招く。これは人間全体から『生存』という意義を取り払うのと同義だ。そのようなことは、出来かねる。口にするだけでも、怒りを買うような行為と知れ。」
「……すみません。」
確かに、それは僕が協力する対価に滅びろと言っているのと同じか。
百鬼は、捕食により強くなることを存在の根幹に置く生命なのだから。
「それに、貴君は、その眼を失いたく無いのだろう?」
「……。」
「当然だ。人間に限らず、生命というものは、他者には無いものを手にしているという事実だけで存在意義を手にできると相場が決まっておる。ある意味、儂を始めとした一部の百鬼が、貴君を見て狂わないのはそれによるものが大きい。人間を食して強くなること以外に役割を、するべきことを、手にしているのだ。故に、魅力を感じこそすれ、理性を飛ばすことがない。我々は、生命とは、生まれてより死ぬまで『意義』を問い続ける存在なのだ。そしてそれを、貴君は無意識の内に、不名誉な眼へ託している。」
「意義……。」
「辛かろう。自らのアイデンティティを失うのは。そうして社会全体に埋没することこそ、一度山頂の景色を見た生命にとって最も恐ろしいこと。貴君は今、命が危険に晒されているのではない。生命の危機を代わりとして得たはずの、存在意義を失おうとしているのだ。もし、貴君が儂に協力すれば、生存を一先ず担保しつつ、何よりも大事なその眼を、持ち続けられる。空との再会は叶わないが、行きつけの店に住まう百鬼を始めとした者どもとの交流は、続けられるのだ。」
「それは。」
魅力的に、見える。
何か大事なものを失ってしまっているようにも感じるけど、確かに、僕がこの眼に固執していたのは、そういった理由の為だったのかもしれない。
これだけ僕を危険に陥れてきたこの眼が、何で簡単に捨てられないのか。ずっと疑問だった。僕は、この眼に、自分の意味を見出して――
「あぁ、あれは!」
僕の心が、何かどろどろとしたものに覆われかける中。突然、大長老が声を張り上げる。
その視線……眼球の存在しない、眼孔が向けられている先には。
「え……。」
「失礼致します、大長老様。『地盤沈下』の、お届け物です。」
頭上遥か、数十メートルというところに、影が見える。
「皆の衆!衝撃に耐えるのだっ!」
再び響くしわがれた老人の声を受け、僕はハッと我に返った。
あれよあれよ、という間に彼女は地面へと落ちてくる。空中で身体を捻り、何かを叩きつけようとしている姿を見れば、誰でも空様のやろうとしていることが何なのか気が付くだろう。なんて、力づくな範囲攻撃だ。
加えて、僕もまたその射程内にある。加減はしてくれるかもしれないが、僕だって最大の努力を見せなければ万が一のことが起こるだろう……。
「ふっ!」
一気に息を吐き出す音が聞こえた。そしてまず、着弾前に、木々を薙ぎ倒すレベルのソニックブームが轟音と共に辺りを席巻する。
「ぬぅあああッ!」
老人の叫ぶ声が波と混じる。
彼女の攻撃は、彼の頭目掛けて行われていたのだ。
「大長老ッ!」
側近であろう。彼の横で補佐を行っていた痩躯の男が、負けじと間に割って入ろうと踠く。
しかし最後は無情にも、彼女の、空様の大きな拳が、無数の回転によって生まれたエネルギーと共に地面へ叩き込まれた。
大長老と側近諸共、地中へ捻じ込むように。
確認するまでも無く、大穴の向こうで二人は今、『混じり合って』いることだろう。
ただ、周囲で僕と百鬼たちがその姿を静観できるわけもなく。第二の衝撃波が、理解より先に、より強い形で襲い掛かった。
「う、うわああああ!」
吹き飛ばされる僕。あぁ、何だ。これが、先程、存在意義がどうなどと迷っていた人間の姿なのか。
何て無様で滑稽。
その叫声を聞けば、彼女はこう言うだろう……
「思わず興奮してしまうような叫び声を、ありがとうございます。」
と。
「!?」
僕は、想像していたものと寸分違わぬ声が耳に入って、驚きのまま眼を開いた。
「ふふ、何分金盞花探しに没頭しておりまして、あなた様と大長老の話し声に途中まで気が付きませんでした。救出に遅れが伴ったこと、申し訳ございません。」
暖かな手が、暖かな声と共に、僕の身体へ回される。
あぁこのまま、背中を強く地面に打って気絶してしまうのだろうと思っていた僕に待っていたのは、あんなに恥ずかしい恥ずかしいと思っていた彼女の腕だったのだ。
膝を突いて着地する彼女の姿は当に救世主である。
「う、うぅ……。」
無数の百鬼に囲まれて、自分以上に頭の切れる老人と問答させられて。
無理が祟ったのか、空様に助け出された僕の顔は、自然と涙に濡れていた。
仕方がないことだ、と慰めてくれ。情けない姿だ、と笑ってくれ。
「あぁ、いけません。優さん、このような場所でそのような姿を晒してはなりませんよ。あなた様には。」
空様がふと、前方、砂埃で覆われた先程の平地……今はもう、直径十数メートルの穴になったが……を見つめた。
「もう少し、頑張っていただかないと。」
「ぐ、ぬぅ。」
大長老の声。まさか、こんな攻撃をモロに受けてまだ……。
「百鬼は基本的に、死なないのです。だから、彼も、意識を保っていることでしょう。故に、あなた様にはこれを持って走っていっていただかなくてはなりません。」
「そっ、それは!」
五輪の金盞花。
いつの間にこんなに……いや、空様だもの。
僕が離れれば寧ろ、効率的に動けるのかもしれない。悔しい話だ。
「私がそれを持ったまま縦横無尽に動いては、いつか潰してしまいます。そうしては、何もかも振り出しなので。分かれる前に、集合場所としようと話していた場所を覚えていますか?」
「はい。」
丘の頂上にある、切り株のことだ。
「そこまで走ってください、全力で。私はここで、早めのディナーを楽しませていただきますから。」
「僕が離れないと……。」
そうだよね、全力で動けないよね。
彼女のことを知る、という観点で言えば、彼女の捕食シーンは見てみたいけれど、この場でこれ以上足を引っ張るわけにもいかない。
ここは素直に。
「分かりました。」
「聞き分けの良い子は、私の好みですよ。……では、行ってください。」
「はい!」
僕は、痛む脚を心の中で鼓舞しながら、一歩を踏み出す。
その時、背後からは無数の足音が聞こえていたが……今は気にするべきじゃない。
それらが全て、僕を餌と再認識した百鬼どものものだなんて理解したら、脚がすくんじゃうから。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ!」
僕は、低木の茂みを掻い潜り、出来るだけ最短のルートになるよう調整しながら走り続ける。
このままの勢いで行けば、大抵の百鬼が追いつく間もなく。また、空様による捕食から逃れることもできず、追っ手はいなくなるだろう、が。
「よくも、大長老を!」
そう上手くはいかない。その声は、先程大長老に声掛けを行っていた側近のものだった。
チラリと後ろを見ると、身体がしっかりと再生しきっていないのか、至る所が気味の悪い角度になっていたり、欠損していたり、という状況になっている。
万全の彼であれば勝負にもならなかっただろう。
「来るなああああああっ!」
怖い。怖い。でも、力を振り絞らなくては。
捕食の恐怖を振り切らんと、邁進する選択肢しか僕にはないのだ。
「いっ!?」
何かナイフのようなものが脇腹を掠め、痛みが一瞬、僕の思考をジャックする。
もう一度確認の為に振り返れば、男の腕に、何か棘のようなものが生えつつあった。
再生しながら、身体の一部を武器にするなんて。何でもありなのか、百鬼は。
「くぅっ、ふっ、ふっ、はぁっ。」
お腹が段々温まってきた。見てはいないけど、肌着には血が滲んでいるだろう。
しかし、後、坂を登るだけで僕は丘に辿り着ける。
距離にして実に二〇メートル程度。それも頑張れずして、何が生命だ。
後ろの側近から、棘が飛ぶ。
腕に刺さる。
気にしてはられない。多分、大変なことに後々なる。でも、死ななければ易い。
何かに刺されたり、突っ込まれたり、なんて数日前まで日常茶飯事だったんだから。
そう、こうしてひたすら一歩一歩を確実に踏み出して。
さすれば、結果が付いてくる。十年間、逃げに徹してきた僕が、唯一会得した技能だった。
*
二メートル。いや、三メートル。
見上げんばかりの巨影が、また一つ、百鬼の首を無造作に掴んだ。
そして、軽々と引き千切り、脊髄なのか、何なのかよく分からない長いものを引き摺り出す。
彼女はそれを、ご馳走であるかのように、飲み込んだ。
「ごくん。」
喉元の突起が、咀嚼に合わせて動く。
その動き、その音、その様子。全てが、百鬼にとっては恐怖であり。
「じゃららあああああ!」
しかし、百鬼に、立ち止まるという思考回路は存在しなかった。
それらは通常、生存の為に生を受けるのではない。
喰らって強くなるために生を受けるのだ。
だから、眼の前に圧倒的な強者がいるのであれば、寧ろ好機とそれらは捉える。
「そいつを喰えば、もっと強くなれるじゃないか。」
無数に存在する百鬼に問えば、その殆どが、そう答えるだろう。
よって。
「ふ、ふふ、ふふふ。」
彼女の目の前から、食糧が消え去ることはない。
次に彼女は、慣れた様子で足を振り上げ、迫り来る百鬼数名を諸共踏み潰した。
身長相応、もしくは身長以上の大きさを誇るそれは、矮小な百鬼どもの身体を覆い尽くして余りある。
地面が彼女の足を型取り、その間に百鬼が挟まれ圧壊しても、やはり死にはしない。
だから、彼女は喰らう。
擦り潰されたそれらを無理くり掻き上げ、掬い、胃の中へと流し込むのだ。
彼女の捕食。それは、恐らく人の眼にはこれ以上ない邪悪に映るだろう。
しかしそれが、百鬼の眼に邪悪と映るとは限らない。
もし彼女が百鬼にとって悪であるならば。
「ぐじゃあああああ!」
「きぃえええぇぇい!」
百鬼たちが、彼女のような強さに憧れることなどないに違いない。
三度、何かが潰れる音がした。
今回はどうやったのだろう?
握り潰したのか、殴り潰したのか、蹴り潰したのか。
些細な差だ、どのように行ったとしても、行き着く先は、底の無い穴の中である。
そして。
全ての行為が終わった後には。
「……ふぅ。」
何も残らない。
大長老は既に、この場を離れていた。
一番に喰らってやろうと彼女は大穴に近付いたが、既にその姿は無かったのだ。
よって、最初から彼女にとって此度の食事は、文字通りの消化試合だったのだろう。
「ごちそうさまでした。」
百鬼に対して何とも思っていない彼女が。手を合わせ、まるで人のような言葉を口にする。
それは形式的なものであろうが、もしかすると、かの伝説の教訓を、彼女は活かしているのかもしれない。
ともあれ、そのようにして。彼女は、宮畑優の危機を、救ったのだった。
ぬっと、彼女の視線は、丘の上へと向けられる。
周囲から百鬼の気配が無くなったことを確認し、彼女は――
*
砂埃。
僕が、最後のスパートをかけるべく強く足を踏み出した瞬間、大きな音が周囲の再び席巻した。
もしかすると、これは土壇場で能力を覚醒させた僕が無意識の内に発動させたのかもしれない!なんて。想像するわけだが。
現実、そういうわけじゃない。
人類百鬼、全て平等、その波を受けた僕は、前傾姿勢のまま、前に倒れた。
「いでっ。」
勢いのままに、顎を擦りむく。
しかし、後ろを確認しないわけにも行かず、恐る恐ると振り向くと、そこには彼女が、空様が立っていた。
そして、僕へ棘を突き立てていた大長老の側近はどこへ行ったのかというと……。
「そちらから来たというのならばッ!好機!」
彼女に掴まれたまま、まるでその現状が望ましいものであるかのように、笑みを浮かべていた。
「あっ、危ない!」
僕は、無意識の内に声を出す。
彼の生やした棘が、彼女に向かって今にも発射されようとしていたのだ。
ぐじゅぐじゅと不定形の腕を動かし、まるでスライムのように形を変えながら、流動的にそれは蠢き続ける。
……でも、それは杞憂だった。
「ばくん。」
棘諸共、彼女は彼を喰らったのである。
見慣れた、大きな一口が、側近を襲っていた。
「わぁお。」
もう、感嘆するしか無い光景。恐怖とか、そんなこと言ってる場合では無かった。
それはまさしく、ただの食事だったのである。
「……ふぅ。これで、この辺りはあらかた片付きましたね。まさか、ここ一帯の百鬼を大長老が纏め上げ、このようにけしかけているとは思いもしませんでした。だから殆ど見なかったのでしょう。宮畑さん……はお怪我が多そうですね……。」
「そうですね……。」
表情は変わらないが、どこが悔しげな声音で彼女は溜息を吐く。
「申し訳ありません。私としたことが、楽観視していたようです。」
「だ、大丈夫です。何より。」
僕を救う為に、空中から颯爽と来てくれた時。本当、かっこよかったし。
「ただ、腕が結構まずそうです……。」
そう言って僕は、棘が刺さったままの右腕を差し出した。
うぅ。何とか乗り越えて、安心してきたからか、どんどん痛みが増してきている。
「はい。今すぐにこれらをお飲みください。」
「これは?」
彼女の腰にかけられた小さなケース。何の為のものかと思っていたけど、薬箱だったのか。
「痛み止めと、再生促進薬です。この二つをお飲みになっていただければ、アイビーに到着する前にある程度傷が塞がりますし、化膿も防げます。包帯などはウラヌスさんに提供していただきましょう。何より、貫通していなかったことが救いですね……そうなれば少し大変でした。」
「……想像付きますけど、具体的には?」
「薬剤師のもとを訪れて、新たに薬を処方して貰う必要がありました。」
「想像以上のことだった……。」
そうか、薬剤師だもの、怪我人には相応の薬を提供してくれるものだよね。
……あの人の前で弱った姿を晒したいかはまぁ、別の話だけど。
「兎も角、飲みます。」
ごくごく、と。うん、味は悪く無い感じ。
少し酸っぱいけど甘いが勝ってる。
「ふぅ……さて、少し大変な作業になってしまいましたね。」
「そうですね……僕も、ちょっと。」
大長老の口車に乗せられて、闇に引き摺り込まれるところだった。
正直、彼の提示した褒賞を、魅力的だと思う自分が確かに存在する。
でも、それを受け入れてしまうかはまた別の話なのだ。
何より、あの話の行き着く未来には。
「……私を見つめて、如何致しましたか?」
空様がいない。こうして、誰よりも僕を護ってくれている空様が。
大長老が僕に齎したものは結局、この腕と脇腹の傷と、迷いだけだった。
「ふふ、何でもありません。」
「そうですか。」
「……帰りは、空様トレインですよね?」
「はい、空様トレインでひとっ飛びですよ。」
今日の空様ポインツ。案外ノリが良い。
「僕の準備はもう、良いですよ。少しずつ楽しくなってきました。ウラヌスさんも言ってましたけど、七〇〇キロメートルで爆走する百鬼なんて空様くらいです。」
「お気に召していただけたのなら何よりですね。正直これは、ただの力任せなので、ウラヌスさんのように苦言を呈する方もいるとは理解していましたから。」
困ったものですね、といったように彼女は笑う。
それは何に困っているのか、自分のスペックの高さにか、と僕は思いつつ、やはり笑うしかなかった。
まぁ、今は、疲れたな、ということしか考えられない。
いっぱい考えたし、いっぱい走ったし。メンタルへのダメージが大きくて、昨日より疲れたような気もする。
とりあえず今は、危機を乗り越えたわけだし、アイビーで夕ご飯何を頼むかだけ、想像していよう。
細かい話はまぁ、その時に。
「優さん。」
「はい?」
「大長老は非常に口が上手い百鬼で、かつその為に様々な情報をどれこれ構わず話すような男です。恐らく、私やウラヌスさんに聞いてみたい、というものがいくつかあるでしょう。」
「……。」
まぁ、腰を据えて話して欲しいから今しようとは思わないけど、ある。
黒き炎の君とか、長老会とか、あと、それと……。
何故僕が、空様にとってかけがえのない存在なのか、とか。
「今の場合、沈黙は肯定と受け取りますね。……その中には、答えられないものが含まれているように、私は推測しています。しかし、出来る限りはお答え致しますので、後々、遠慮なく問いかけるようにお願いします。」
「分かりました。」
「……とはいえ、安心致しました。」
「それはどうして?」
「もし、彼の言葉を通じて、あなた様が大きく変わってしまっていたら、と想像すると、少し不安だったのです。しかし現実は違いました。あなた様は、何も変わっていなかった。少なくとも私にとって、それは喜ばしいことです。」
ふと、彼女のピアスの色がより黒く燻んだような。気のせいか?
「僕だって我はありますからね!……空様が助けてくれなかったら、危なかったですけど。」
「そうなると、何とか間に合ったような形だったようで。重ねて、申し訳ありません。」
「良いんです良いんです!」
珍しく彼女が、丁寧に頭を下げる。
そんなことされたら僕が萎縮しちゃうって。
「まぁ、明日、もありますし。空様、またよろしくお願いします。」
「はい、こちらこそ。明日で、大変な作業もお終いですからね。」
二人でくすり、と笑い合う。
うむ。この調子なら明後日までやっていけそうだ。
僕はふと空を見上げて、茜色に染まった地平線を一瞥。そして、表情を綻ばせた。
*
静寂に包まれた淡い照明の元、老人が眼を瞑っている。
眉間には皺が寄っており、機嫌が悪いのは明白であったが、どうにか冷静さは保っているようだった。
「大長老。」
暗闇の内に潜む影が一つ蠢き、口を開く。
「あなたの提示したプランは失敗したようだ。」
「貴君にそう断言されてしまうのであれば、認めざるを得んのう。口惜しいものよな。」
呵呵、と彼は残念そうに笑った。どこか元気の無いその声には、自嘲と自責が混じり合っているのかもしれない。
「そのように余裕綽々と構えるのはあなたの長所であると同時に、短所だ。今この時は、そうしている場合では無い。」
「確かに、儂にも反省すべき点が多くある。しかし、こうして儂がせかせかと働いておる中、その椅子に座り込んで美食を楽しんでいたのは誰かのう?」
「……。」
大長老を批判せんとヤジを飛ばしていた数名の長老たちが口を噤む。
百鬼を統括する組織の一つにしては、余りに粗末な状況であった。
「呵呵、とはいえ、このように貴君らを責め立てるのは、儂にとって本意では無いのだ。故に、次の作戦では貴君らにも、前線へ赴いて貰うことになるであろう。」
「召集がかかれば、勿論我らは向かうことになるでしょう。」
「当然の話よの。来て貰わねば、次なる手が成立せぬ。」
「はて、具体的にその次なる手とは?」
腰の低そうな男と、高慢そうな男が、同時に身を乗り出した。
「こちらから出向いても、あの人間を引き込むことなど出来なかったであろう。なれば、次はあちらから儂らの元へ出向いて貰う他あるまい。」
「つまり……。」
気が昂っているのだろうか。幾つかの影が、もう耐えられぬとばかりに激しく揺らめく。
「奴らが止めねばならぬと思うことをすれば良いのだ!」
「我ら長老会の面目躍如となる日が来たのだ!」
「百年越しの宴が始まるのだ!」
そう、彼らにとって宴と称せるものはおおよそただ一つ。
「貴君らは、察しが良くて儂も助かっておる。即座に、準備へ取り掛かるのだ。貴君らそれぞれの配下にも伝達しておくが良い。」
百鬼夜行である。
「久々に、人間の踊り食いを楽しむことができるのか!」
「霧を!霧を用意せねば!」
「……。」
大長老は、まるでもう勝ちが決まったかのように騒ぎ立てる長老たちを前にして、顔を顰める。
そのように、眼の前の利益ばかり追い求めて、先にあるものを見ようとしないから、この長老会という組織は衰退の一途を辿っているのだと。
この組織には賢者と言える存在が属していないのだろう。
「事態は一刻を争う。すぐにでも、持ち場へ戻るのだ、皆の衆。」
ざざっ。周囲に、一瞬ノイズが走る。
大長老がふと眼を開ければ、そこに既に蠢く影は一つも残っていなかった。
「ふむ……。」
溜息が、蝋燭の炎を揺らめかせる。
「黒き炎の君を排除するには、あの人間を利用する他無い。しかし問題は。」
ぎぎぃと椅子が悲鳴を上げた。
「あの女は現状でも、儂と長老ども、そしてその配下たち全員をまとめ上げたとて突破しかねないことだ。そうなれば、儂らに勝ち目は全く無い。限りなくその可能性をゼロに抑えねばならぬ。……奴に頼るか。」
彼は徐に、着用している袴の中から巻貝のようなものを取り出す。
耳に当てると聞こえてくるのは、また別の場所に居るのであろう百鬼の声であった。
「何か、用か。」
「うむ。貴君の手を煩わせねばならぬ事態がやって来たのだ。」
「それは。」
いや、それ以上は言うまい、と声は口を噤む。
どうやら巻貝の先にいる何者かも、事情を把握しているようだ。
「貴君が居れば、大抵のことが片付くだろう。」
「……我が剣術では。黒き炎の君を咎めることは、叶うまい。」
「だから、大抵と言ったのだ。何も貴君に全てを委ねようとは思っておらぬ。不確定要素の排除、それが貴君の仕事よ。」
「ならば良し。命令を、下せ。」
「報酬の次第について話し合わなくても良いのか?」
「全てが終わった後でも、十分だろう。」
「……成る程、活躍の具合で報酬を支払え、と言いたいのか。それも良かろう、もし長老会に勝利が齎されれば貴君が満足する程度の報酬が約束されよう。」
「さぁ。我が時を、無駄にするな。」
「分かった。今すぐに具体的な命令を下す。これから貴君には――」
大長老の口から、方策が男に伝えられる。対して返事を行う彼の様子は正に実直で、どこまでも真っ直ぐであった。
その声は、冷徹で、鋼のようで、聞けば誰もがこう感じるという。
剛直な男、とは彼を指し示す言葉だ、と。
*
アイビーに到着すると、真っ先に漂ってくるのは、地中海の雰囲気纏いしシーフードの香りだった。
凄い。一瞬、パエリアでも作るのかと思ったくらいだ。
「お帰りぃ、お二人さん。今は夕食の準備中だ、席に座るなり、風呂に入るなりして時間を潰しててくんな。」
「ウラヌスさん、いつもありがとうございます。」
「いやいや、お世話になってんのは俺の方でもあるんでなぁ、空様。こういう時くらいは恩返しだぜ。」
厨房から聞こえてくる声は何とも元気そう。具体的に何を作っているのかは、お楽しみにしておこうかな。
「空様、今日はどこに座りますか?」
「私が決めて良いのですか?」
「いつも僕の好きな本棚際にしてますから、気分転換にでもと思って。」
「そうですか。それでは……。」
彼女は一瞬、辺りを見回す。
そして一考の後に指差したのは、窓際の二席だった。
「少しひんやりとした窓際の雰囲気が、好きなんです。」
「なるほどぉ……。」
分からなくもないかもしれない。
僕も、一般的なレストランでは何となく窓際に座ってしまうもの。
「あなた様も、今日は一段と疲れたでしょう。」
「も、ということは空様も?」
「ふふ、幾分かは普段より疲労の大きい一日でしたね。身体よりは寧ろ、精神的な方ですが。あなた様に何かあると、私も傷ついてしまうので。」
「そこまでですか……?」
確かに僕も、空様に何かあったら心配だけど。それは僕が空様に護られている身だから、というのが大きい。
僕は護る側になったことが無いから分からないけど、案外護る相手に対して感情移入しちゃうものなんだろうか?しかも、異種族の。
「そこまでですよ。……ふぅ、この場は本当に落ち着きますね。」
「同感です……アイビーは癒しの場です……。」
「おうおう、随分と褒めてくれるじゃあねぇか!」
「ウラヌスさん。」
その両手には、水の入ったコップが掴まれている。
「ま、それなら思う存分ゆっくりして行ってくれや。俺も、誰もいないよりかは誰かいた方が楽しいし、嬉しい。今日も結局昼は一人しか客が入らなかった!」
「一人は入ったんですね……。」
「おう。」
「視えるタイプの?」
「いや、霧に巻かれて迷い込んだタイプの客だ。」
「ふむ、そちらでしたか。」
「……霧?」
初耳ワードである。僕はコップに口を付けつつ聞き返した。
「あぁ、宮畑ちゃんは知らねぇよな。……神隠しって知ってるか?」
「有名な単語ですよね!」
某大ヒット映画の題名にも使われてるし。
「まぁ要はその類のものだ。全く百鬼に関わりのない人間がある日突然、不思議な霧に囲まれて、百鬼たちが視えるようになっちまう。霧が晴れりゃ元に戻るんだが、どれくらいで晴れるかは個人差あって、何かと面倒なんだよなぁ。」
「怖いですね……。」
「それを宮畑ちゃんが言うのかぁ?お前さんなんて、生まれてこの方常に霧が纏わり付いているようなもんだぜ?」
「だからこそ、じゃないですか。」
怖いものは怖い。当然の話である。
「……それもそうだな。ともかく、今日はそういうタイプだったってことさ。」
「その霧は自然現象なんですか?」
「んー……いやぁ、どうだろう。空様はどう思う?」
「大半が自然現象ですよ。ただ、本当に時折、百鬼の意思で引き起こされる大規模な霧も存在します。そちらに関しては、兆候があるので分かり易いですが。」
「そうなんだ……。」
「へぇ。俺も学ばして貰っちまったなぁ。」
百鬼が意図的に発生させられる、となると少し嫌な現象である。
それって、要は狙われたら食べられちゃうってことだもの。
「んじゃあ、お二人はごゆっくり。俺は飯作りに戻るぜ。」
「ゆっくり急がずで大丈夫ですよ。」
「あぁ、無理なんてしてねぇさ。」
エプロン姿のおっさんは颯爽と去って行く。
いやぁ、顔立ちはダンディなんだけど、中身が可愛いんだよね、あの人。
「さて、では私は夕食の前に身体を清潔にして来ましょうかね。」
「お風呂ですか?」
「はい。当分湯船に浸かっていなかったのですが、今日は大変でしたし、明日も中々難儀なことになりそうなので、しっかり浸かっておこうかと。」
「浸かった方が汚れも取れますしね。」
「仰る通りで。では、行って参ります。」
「はー……」
い、と言い終わる前に、僕の脳内にふと一つの考えが思い浮かぶ。
僕と空様の関係は、明日で大体終わりになるだろう。明後日は、霊薬を飲むか飲まないかの決断を下すくらいで、一緒にどこかへ長時間行ったりすることは無いし。
仮に僕が飲まない選択をしたとすれば、何かしらの交流は続くかもしれないけど、今の僕にとって、飲まないという決断を下すのは正直難しいことだ。
と、すると。彼女と裸の付き合いができる程度の余裕があるのは、今日くらいのものなのではないか。
「如何致しましたか?」
「いや、えーっと……。」
しかし、その行為は軽く提案することなどできないものだった。
次第に顔が赤らんでくる。
恥ずかしいのなら提案しなければいい、などと言ってくれるな。これは、恥ずかしい恥ずかしくないだけの問題では無いのだ。
「……ふふ、成る程。」
「うわ。」
基本的に表情を歪めない彼女が、絵に描いたようなニヤリ顔を浮かべる。
いやもう、これは『ニンマリ』と形容すべきだろう。口の両サイドがぐりんと上向いて、半円を形成していた。
空様ってこんな顔もするんですね……。
「もし、そう為されたいのでしたら、わざわざ口に出す必要はありません。私の後にただついて来ていただければ良いですよ。」
「そっ、そうですか……。」
助けられてしまいました。
僕、反省。
「ウラヌスさん、私と優さんはお風呂に行って参ります!」
「おう!……二人で⁉︎」
当然の反応である。
「俺の店の浴槽はそんなに広くねぇぞ!」
違う、そこじゃない。
「大丈夫ですよ。私が脚を伸ばさないようにすれば良いだけですから。」
「そうか。それで良いなら行って来い!」
百鬼の価値観ってこういうものなの……?
二人で入るってこと自体、結構驚くことだと思うんだけど。
「では、行きましょう。」
「は、はひぃ。」
自ら提案したにも関わらず、既にボロボロな僕。
さて、どうしようか。切り抜ける術を考えなくては。
*
アイビーのお風呂場。
想像していたものは安価なホテルにありがちな真っ白で、まさしく『取ってつけた』感じのものだったのだが、それは存外しっかりとした作りのものだった。
しっかり脱衣所があるし、そもそも広い。
これでそんなに広くないとは一体どういう了見なのだろうか。もしくは、空様の身体が大きいせいで、これだけの面積、体積があっても足りないと彼は感じているのか。
ともかく僕はできるだけ彼女の邪魔にならないよう隅っこで服を脱ぎ、それから入浴場で空様を待つことにした。
私より多く服を着ている分数十秒遅れて、彼女が入ってくる。
「ふふ、普段、このように着込んでいるものですから、洗濯と入浴は欠かせないのです。代謝もそこそこ良い方ですので。」
「そうですよね……あれだけ動けて代謝が悪いなんて意味不明です。」
汗をかいているところは見たことないけど。まぁ、七〇〇キロメートルも爆走すればどこかしら蒸れるのなんて当然の話である。
「とはいえ。」
見れば見る程何というか、現実離れした身体付きだなぁ、と僕は歩み寄ってくる彼女に見惚れた。
「基本的に露出が少ない分、驚きが大きいですか?」
不意に立ち止まり、彼女は優しく笑いかける。
「はい。まぁ、スーツやトレンチコートの上でも雄大な身体をお持ちなのは分かっていましたけど。」
傷一つ無い。だけど、身体全体には美しいカットが出ていた。
特に腕、脚、お腹周りと首から背中にかけて。
何もボディビルダーっぽいわけではない。何というか、魅せるだけに留まらない機能美が同居しているのを僕はひしひしと感じる。
俗な言い方をすれば、ゴリマッチョと細マッチョを足して二で割らない、とか?
いやもう、これは文章に起こそうとすれば何かしらの要素が欠落してしまう程のものなのだ。彼女の肢体は最早至高の域に達しているようにさえ思える。
「ある程度、鍛えようと思って鍛えている部分もありますから。」
「百鬼って鍛えればその域に到達できるものなんです……?」
「いえ、どうでしょう。生まれつき身体が大きかったのも理由の一つでしょう。」
「うーん?」
疑問に思う、所の騒ぎではない。
鍛えれば、地盤沈下を軽々引き起こす程度の膂力が手に入るだろうか?
答えは基本、否である。ウラヌスさんだってその話を聞けば苦笑いするに違いない。
「ちょっと、触っても良いですか?」
「どうぞ。」
「失礼します……。」
これで何度目だという話だが、彼女の身長はおおよそ人のものではない。
だから、僕が真っ直ぐ手を伸ばした位置には大体空様のお腹が来る。
というわけで、迷わずその八つに分かれた腹筋に僕は触れた。
「……んん?」
レンガかな?
「そこまで不思議に感じることですか?」
「いや……でも、普通見たり触ったりできないものなので、びっくりしちゃうというか。」
「こんなものが無くても、優さんを持ち上げるくらいはできますよ?」
「わわっ!」
すいっと彼女は、僕の両脇に手を入れて持ち上げる。
腕の筋肉がほぼ隆起しなかったのを見るに、どうやら僕は彼女の中で重いものに該当しないらしい。
おかしいなぁ、これでも五〇キログラムくらいはあるはずなんだけどなぁ。
「ふふ、この空間だとあなた様は逃げられませんね。」
「泣きますよ。」
「冗談です。」
「怖いんですってば!」
力じゃ敵わない相手にそういうこと言われるって想像以上にびくってなるんですよ、ご存知でしたか空様?
……理解した上で言っているんだろうなぁ、本当に百鬼はブラックジョーク好きである。
「下ろしますよ。」
「はいぃ……。」
しかも、彼女に持ち上げられると急に目線が三メートルとかそのレベルになる。
高所恐怖症だったらそれだけで割とアウトなのだ。
「あなた様は、弄りがいがありますので。」
「前にも言われました……。」
「申し訳ありません。明日の私に期待していただければ、と。」
「今日の空様には期待しちゃダメなんですか⁉︎」
ふふふ。意味深な笑い声。
ほんと、いつか本当に僕は泣くことになりそうです。助けてお母さん。
「しかし、そうですね。疑問という点では、あなた様に関しても存在するんですよ?」
「疑問ですか?」
何か隠し事でもしてたっけ。
「あなた様の性別です。」
「……。」
あぁ、そうか。そうだよね、僕はその話を一度もしたことが無いはずだ。
「あなた様は、どちらかだと断定されるのを無意識下で避けるようなことを多く行っていました。ですので、このようにお風呂に同伴すること……つまり、性別の話題にどうあっても行き着く行為には触れて来ないとつい先程までは思っていたのです。しかし、そうではなかった。あなた様はただ、触れようと思っていなかっただけなのですね。」
「そうですね……全然意識していませんでした。」
「尋ねても大丈夫な話題でしたか?」
「特に、隠しているわけでも無いので。聞かれたからには話します。身体を洗いながらでも、どうですか?」
「その方が良いと仰られるのであれば、是非に。ただ傷口は労わりつつ洗ってあげてくださいね。」
「あっ、確かにそうですよね。霊薬のお陰で痛みが引いているとはいえ、結構な怪我だった訳だし。」
ふぅ。危ない危ない、いきなり石鹸を傷口に塗り込んで悲鳴を上げてしまうところだった。
「そーっと、そーっと……いっ!」
「……無理に洗う必要は無いんですよ?」
「はい……。」
いや、待て。そんなことばかり気にしてる場合じゃない。こんな状況になってまで自分の性別をぼやかしているようじゃ、確かに色々不自然だろう。
僕は彼女に勧められてぎこちないながらもバスチェアに腰を下ろし、話し始めた。
「単刀直入に言うと、僕はどっちでもありません。」
「成る程、そういうことでしたか。」
「思っていたより簡単に受け入れてくださるんですね。」
「そう考えれば、辻褄が合いますからね。」
それもそうか。僕が服を脱いだ瞬間から、彼女の中でその可能性が浮かび上がっていたのだろう。
「数年前のことです。僕は、どちらか片方の性別として生きることに違和感を覚え、手術を受けました。その時から、いやその前から、僕は無性別です。」
「故に、男性器も女性器も無い、と。」
「はい。大学生となった今でも、そうして正解だったと思っています。」
「ふふ、それは。私もすっきり致しました。やはり、どちらかに偏った呼び方、扱いをしなくて正解だったようですね。」
「気遣ってくれてたんですか……。」
「そうですね。こういう時以外で突然性別を尋ねるのは不自然だと思いましたし、それなら、と。」
「ありがとうございます。」
こういう所って他人の良心に委ねられるところあるから、難しい話題である。
僕も、結局こうなってからは温泉とかプールとか行ったことないもの。
公衆トイレだって、多目的のものしか使ったことない。
「そうすると、尚のこと私の入浴に同伴しようと思ったあなた様の心情が分からないですね。」
「普段は自分の性別なんて意識して無かったので。こうすればより仲が深まるだろう、ということしか考えてませんでした。提案しかけた所で、恥ずかしさが襲いかかってきたんですけど。」
「ふむ。大事なことは知れたので、ここは良しとすることに致しましょう。」
レバーが落とされ、ざーっとシャワーが急激に流れ下る。
凄いね。水も滴る良い女とはこのことだ。僕は、身体をタオルで擦りつつ彼女の顔を見つめる。
オブシディアンの様に煌めく彼女の黒髪は、水滴を帯びてより輝さを増していた。
美しい、というよりはかっこいい、が強いかも知れない。
力強さの中に、芯のある精神を持つ彼女にはもってこいな褒め言葉だ。
「さて、湯船に私は浸かりますが。」
「あっ、すぐに洗い流します!」
ばばばっと僕は泡を洗い流す。
ウラヌスさんは洗剤の選択のセンスまで良いらしい。磨いた後の身体は見るからにピカピカだった。
そして、そんな僕を。
「どうぞ。」
彼女は、待っている。
「どうぞって言われても。」
思い切り、彼女は浴槽内で脚を伸ばしているのだが。
もう、水面下はどこもかしこも肌色である。
「ほら、ここが空いているでしょう?」
「膝の上に座れ、と⁉︎」
「嫌であれば、断っていただいても。」
「いや……」
では無いので、失礼します。
「うーん……。」
思った通り彼女の太ももの上は、硬かった。
居心地が悪いわけでは無いけどね、全く。
「こう触れ合うと、確かにあなた様の言う通り、仲が深まっていく気が致します。」
「裸の付き合いって言いますからね、人間の世界じゃ。親密になるには正しいスキンシップの方法なのかも?」
「そうなのかもしれません。こうすると、あなた様の小ささを間近に感じられます。」
「それは僕を抱いて走っている時点で嫌というほど感じられるのでは……?」
「走っている間はあなた様への負担をいかに減らすかへ意識を集中させているので。そうでもないと、あなた様の旅路は悲惨なものになってしまいます。」
確かに。ソニックブームに近い衝撃波を受けたりなんてした日には、僕の身体は瞬く間に崩壊してしまうだろう。
そうなってないのは一重に、彼女の努力の賜物だ。
「少し寄りかかっても良いですか……?」
「私に対してであればいくらでも。」
「では……。」
ゆっくりと僕は、後ろの百鬼に対して、体重をかけていく。
そしてかけきった頃には、全身に安心感が満ち満ちていた。
「あったかいですね。」
「私の体温は高い方ですから。」
「そういうことかぁ。」
全身を、彼女の体温が駆け巡る。
ただお風呂に入るだけでは全く味わえない感覚だ。
「眠ってしまわない様にだけ、ご注意を。」
「そ、そうですね……。」
「……眠そうですが。」
「うぅ。」
当然、バレますよね。だって今日はちゃんと眠れてないんだもん、仕方がないだろう。
「ではここで、少し眠気覚ましになる話を。」
「何ですか?」
「恐らく、あなた様が一番に見据えるべき敵についての話です。」
「……。」
突然の真面目情報。
「長老会のこと、ですか?」
「仰る通りです。その様に私に寄りかかりながらでも良いので、頭の片隅にでも置いておける程度に聞いていただければ。」
「分かりました。」
「長老会は元々、大長老という最高指導者を中心として数名の有力者を束ね、百鬼夜行を円滑に行うべく生まれた重要機関です。長老会が生まれる以前の百鬼夜行は、統率の一切が存在しない、ただ暴虐の嵐が吹くのみの行事……いや、行事と呼ぶにも差し支えある程のものだったと言われています。」
「だから、昔のお話で出てくる大長老は百鬼夜行の音頭を取る役割を持っていたんですね。」
「そういうことです。『小さな百鬼』も、また歴代大長老の一人でした。」
現在大長老に就いている百鬼が文字通りの老獪であることから、ある程度歳をとっていないと就任できないのか、なんててっきり思ってたけども。『小さな百鬼』のような若そう?な百鬼でも案外なれるものなんだなぁ。
もしくは、別に関係無いのかもしれない。
「ただ、それは元来、の話です。今は違います。そもそも百鬼夜行は、百鬼にとって最も巨大な行事の一つですから、その采配を一手に担うという時点で、その組織の力は強大なものでした。よって、彼らが支配領域の延長を願えば、容易いことだったのです。」
「いつからか、長老会の支配力は百鬼夜行関係に留まらなくなっていった……。」
「そうなりますね。そして今や、長老会は百鬼を纏め上げようと動く組織の中でも五本指に入る程度の強大さを誇る様になっています。」
「成る程……。」
とりあえず、長老会は想像通り強大な組織であるようだ。
しかし、ここで疑問が浮上する。
大長老は、空様を排除したいと言っていたが……。
「では、何故そんな長老会が僕たちを?」
「可能性は大きく二つ。まずあなた様が理由の場合ですね。」
「僕の可能性もあるんですか……?」
「無いわけではありません。彼らは、百鬼による百鬼の統治を目指しています。その中で、百鬼と交流できる別種族が現れては目障りでしょう。彼らにとって人間とは抵抗力の無い餌に過ぎません。交流可能な存在では無いのです。」
「……。」
確かに、大長老の言っていたことが全て僕の心を揺さぶる為の方便だったのならその可能性も浮上する。
彼が百鬼を喰らう空様を恐れている、というのは本当のように聞こえたけど、最も効率の良い嘘には一部真実が含まれているものだし。
「ただ、その可能性は薄いですね。極めて珍しいとはいえ、あなた様と同じような眼を持つ人間は他に存在しています。よって、あなた様をそのような理由で消すならば、同様の対処を何度も行わねば道理が通りません。しかし彼らが、細々と薄い可能性の排除の為動くとも考えにくい……となればこちら、理由が私の場合が本命になるでしょう。」
「そう、ですよね。」
少なくとも、僕を食べずにいるだけの理性を持った百鬼で、空様を恐れていない百鬼は一人としていなかった。
薬剤師も。大長老も。ウラヌスさんも。
誰もが口々に、空様のことを恐ろしいと表現する。
「しかし、私の場合、理由はより複雑なものとなります。何かしらに断定することはできません。」
「……?」
複雑?ひとえに彼女が恐ろしいから、では無いのだろうか。
「今、私のことを恐ろしいと思いませんでしたか?」
「ぎくり。」
エスパーかな?
「ふふ、いえ事実ですので責めは致しません。」
「認めるんですね……。」
「はい。しかし、彼、彼女ら百鬼は、ただ恐ろしいというだけで何かを排除するに至ることは殆どあり得ないでしょう。それを建前に使うことはあっても、それが本音に当たることはそう無いのです。」
「何故そのように言えるんですか?」
これは少しエゴに寄った意見になるが、自分の生存を脅かすと明確に分かる存在がいるなら、排除に動こうと考えるのが生命なのではないか。
「……私が、百鬼を喰らう様は見ていましたか?」
「えーっと……。」
土埃にかき消されてほぼほぼ見えなかったけどまぁ、凄い音が響き渡っていたし、一応側近が喰われる様はこの眼で見た。
今思い出すと、中々エグい光景を眼にしたように感じる。その時は生き残れた嬉しさと切り抜けられた喜びで、感覚が麻痺していたけど。
「彼、彼女らは皆、一様に私を恐れています。本能もしくは知識で、私が百鬼を捕食すると知っているのです。それにも関わらず、皆私に飛びかかろうとする。ある者は単独で、ある者たちは共同して。何故なら、百鬼の根底にあるものは生存でないからです。」
「人間は生存の為に行動するけど、百鬼は捕食し強くなる為に行動する。それが違いを生むということですか。じゃあ。」
大長老が彼女を恐れていると言っていたのは、僕の同情を誘う為の嘘だったのか。
いや、違うのだろう。確かに恐れている。だが、同時に他の感情を抱いており、実際はこちらが本命なのかもしれない。
「よって、考えられることはただ一つ。私を利用して、得られるものが大長老或いは長老会にあるということです。そして、その建前に、私が百鬼を喰らうという事実を用いている、と。ただ、私をどうにかすることで、彼らは何を得られるのか、ここが分かりませんね。私は長老会の内情に詳しいわけでもありませんし。」
「ううむ……。」
何だか、政争じみた話になって来たぞ。
僕は特段頭が良い訳では無いから、何ともアドバイスし難い。
大長老も、それに関することは話していなかった気がするし。彼が口にしていたことは一貫して、空様は恐ろしいから排除するのだ、というものだけだった。
仮に、大長老の言葉通り長老会が空様を狙っているのだとすれば、僕は彼の建前部分しか眼にしていないということになるのだろう。
もう何か、一瞬彼の言葉に魅了されかけていた僕が馬鹿みたいだ。まんまと彼の口車に乗せられてしまって、空様を差し出しかけていた、なんて。
ただ、どこまでが建前だったのかも分からないし……もう!
「空様。」
と、頑張ってこうして知恵を絞っていますが。
「何ですか?」
「ポカポカとして眠くなっている中頭を巡らせたせいで、眠気覚ましどころか、より眠くなって来ちゃいました。」
「おっと、それはそれは。」
とうとう、限界に達し始めて口に出してしまう僕。
許して神様。彼女のせいじゃ無いんだ、一重に今日僕が眠れなかったせいで。
「では、責任を持って私が眠気覚ましを。」
「……?」
空様の眠気覚ましチャレンジ、二回目。果たして成功なるか。
次は何の話だろう、と僕が眼を瞑りつつワクワクしていると、不意に、耳元で呼吸音を感じた。
「ちょ、そ、空さ――」
「そのまま眠ったら、私があなた様を食べてしまいますよ。」
「……。」
……。迫真の、ウィスパーボイスである。
「うっ、うぅっ、う……。」
「ゆ、優さん……?」
「うぅっ、た、たべないで……。」
はい。トラウマを刺激され過ぎて、宮畑優は泣いてしまいました。
ぼろぼろと僕の頬を涙を下っていく。
流石にこの反応には空様もやってしまった、と感じたようで、
「……申し訳ありません。優さんの反応を楽しみ過ぎてしまいました……。」
と真っ直ぐな謝罪を表明。
真面目なムードから一転、風呂場はブルーなサブマリン色に染まってしまったのであった。
うん。僕はね、結構涙脆いし、怖がりなんだ。
そんなことを空様にやられちゃ泣いちゃうよ。
ついさっきいつか泣かされそうって思ったけども。こんなすぐに泣かされるとは、思いもしませんでした。
*
「今日は私が奢ります。お好きなものをどうぞ。」
僕が泣き止み、二人でいそいそと湯船より脱出する中、不意に空様が口にしたのはそんな言葉だった。
どうやら本気で僕を心配してくれているようである。
大丈夫だよ、と言いたいところだが、僕をここまで眼に見えて気遣ってくれる空様も珍しいので、傷心のままであると装うと思う僕。
……ただ。
「わっ、美味しそう!」
そんな化粧は、チーズドリアを前に一瞬で吹き飛ぶのでした。
ま、美味しい料理を前に暗い面持ちでいるのは、作ってくれたウラヌスさんにも、料理自体にも、失礼だからね。
これで良いのだ。
「ふふ、それは良かったですね。一時はどうなることか、と。」
「空様の悪ぃ癖だよなぁ!気に入った奴ぁとことん弄っちまう。俺も何度食べますよジョークを受けたか分かんねぇ。」
「あなた様に関しては、いつか本当に喰らう日が来そうですので。」
にこにこ。
「おー、こわ。その笑顔だけで寿命が一千年は縮まるね。」
「となると、命日は今日ですか?」
「やめてくれ!まだやり残したことが沢山あるんだ!例えば今日の空様の夕飯とかなぁ!」
「それは何より。」
「ほんともう、どれが本音でどれが冗談か分かりゃしねぇんだから……。」
「そうですね……私の悪い癖です……。」
まぁ、僕もその餌食になった訳だからね。
とはいえ、発端は少しアレだったけど、誰かの眼の前で涙を流して慰めて貰うってのは結構メンタルケアに有効な方法だったらしい。
今僕は、とてもスッキリした気持ちでこのドリアと向かい合うことが出来ています……いざ。
「あーん。」
「おっ、おい、宮畑ちゃん、そんな一気に行ったら」
「はふっ、は、はふいっ!」
「ほうら言わんこっちゃ無い。」
……悲しい話だ。
宮畑優は冷静かつ晴々とした気持ちで出陣し、無事、討死を果たしたのである。
猫舌なのにこんな真似をする僕は、大馬鹿者です。
あっつあつに熱せられたホワイトソースのお陰で、僕の口内はでろんでろんだ。
「水でも飲んでおきな……。」
「はい……。」
ウラヌスさんからコップを受け取りつつ、僕は一気にぐいっと冷たい水を流し込む。
火傷に染みて痛いけどまぁ、これは名誉の負傷と言えよう。
「じゃ、俺は空様の追加分作ってくるから。」
「ありがとうございます。」
「おう、今はその机に置いてある分を楽しんでいてくんな。」
「はい。当面はこれで大丈夫です。急がず、で問題ありませんよ。」
「……。」
僕は、頼りになるおじさんの背中を見送りつつ、そのまま空様の座る机へと視線を向けた。
当面、って。それでも大皿に乗ったパスタ、クッションと見間違えかねない大きさのハンバーグが三つ、大食い用みたいな大きさのオムライス、平皿にこれでもかと盛られたサラダ、ボトルのワインが数本、とその他諸々。もう全て読み上げるのなんて不可能な数の料理が今でさえ立ち並んでいる。
これで見るのは三回目になるけど、未だに信じられない量だ。
いつものバケツに敷き詰められたティラミスもしっかり配備されてるし。
「あのぉ、空様?」
「如何なされましたか?」
「一応、午後の戦いで百鬼を捕食したんですよね?」
「仰る通りです。あの場であなた様を囲んでいた数十或いは数百程度の百鬼は、あの場で全て処理致しました。」
「それでもこんな食べるんです……?」
「前にも申し上げた通りです。ウラヌスさんの料理は一流ですので、沢山食べてしまうのですよ。」
「う、うーん?」
百鬼を事前に胃へ入れていても、入れていなくても、結局夕食の量は同じって。彼女の胃は本当にブラックホールなのではないか。
「それと、今日はある程度身体を動かしましたから、その分エネルギーも消費しているのです。私は非常に、燃費が悪いので。沢山食べておかないと、いざという時に求められるだけのパフォーマンスを発揮できません。」
「成る程、それは確かに。」
空様がそう言うなら、その通りなのだろう、恐らく。
「願わくば、あなた様の隣で食事をしたいものですが。これ程の量となると、貴方様の邪魔になってしまいますし、仕方ありません。」
「んん?それなら、僕が隣に行きますよ。」
「良いのですか?」
「全然。不快に思うどころか、寧ろ空様の食べ方は上品なので、ずっと見てられるくらいです。」
そーっと、お皿の熱いところでは無く、木製のプレートを持って移動し、僕は彼女の隣の椅子へ座り込む。
まぁ確かに、いつものトレンチコート姿だったらガサガサと布が当たって大変だったかもしれないけど。今の彼女はシャツにネクタイとかなりコンパクトな姿だから、全く心配は要らない。
「空様、食べ物も多ければ、食器も大きいんですね……。」
今まで全然気にしてなかったけど、こうして隣り合わせで見ることで初めて気が付いた。
彼女の使っている皿はおろか、持っているフォーク、スプーン、ナイフといった道具まで、僕の使っているものより一回り二回りと大きい。
手や口の大きさに合わせて、ということなのだろうか。
「これらは、ウラヌスさんが私の為に揃えてくれたものです。その為、私以外の客に対して用いられることはありません。私にとって一般的な食器は小さいですし、逆もまた然りな訳ですね。」
「……一回、僕のスプーンでスープを掬ってみてください。」
「あなた様のスプーンで?……こうですか?」
「おぉ……。」
なんというか、大人が子供用スプーンで食べ物を持ち上げてる、みたいな。
そんな趣のある光景だ。明らかに使いにくそうである。
「使ったことが無いわけではありません。最初はあなた様が手に持っていらっしゃるものと同じサイズを用いて食事を摂っていましたし。ただ、何分、色々と手間取りまして。」
「合わない大きさの道具って格段に取り回しが悪くなりますもんね。」
僕は子供の頃よく、背伸びして大人用の歯ブラシを使っていたのだが。まぁ、全然しっかりと磨けない。結局、大体は母親に言われて、磨き直しを命じられていた。
大は小を兼ねるとか言うけども、場合によりけりなのだ。
「とはいえ、こういったものを食べる際には、小さい方が楽に扱えそうですね。」
彼女は角皿の四隅で取り残されたパイ生地に眼を向けながら、そうぼやく。
「まぁそれは、僕でもうまく取れないようなものですし……。」
「そういうものですか。」
「そういうものです。諦めた方が良いかもですね。」
「おう、おう。いつの間にか席を動いて、楽しそうに談笑してるじゃあねぇか。俺も混ぜてくれよ。」
「あっ、ウラヌスさん。」
それと、ワゴン。
「まぁ、机にゃ一気に乗らないんでね。取り敢えずここに置いておこうと思ってな。……それで?何の話よ?」
ぐいぐい。ぐいぐい。ウラヌスさんが会話に混ざろうと、僕の肩を押してくる。
「さて、何でしょうか。」
そんな中、降臨するのは意地悪なタイプの空様であった。
続いて後生だ混ぜてくれよぉ、という彼の悲鳴が響き、そして笑い声が溢れる。
楽しいひとときだ。
中々、人間同士でもこんなものは味わえない。
僕は、少しずつ冷め始めて食べ易くなったドリアを口に放り込みながら、そんなことを思った。
素材探しは明日で最後。それだけじゃなく、長老会による介入も、待っているだろう。
ここが踏ん張りどころである。だから、こうして楽しむことで、英気を養うのだ。
*
そして、空様と出会ってから三回目の夜が来た。
僕は、お風呂と夕ご飯の余韻に浸りながらこうしてベッドに横たわっている。
こうして電気を消し、微かに膨らんだお腹を摩れば、段々と睡魔が僕を襲った。
寝不足、疲労、満腹。三拍子揃った今の僕なら、無理もない話だ。
「んーっ!ドリア美味しかったな。」
ぐいっと腕を伸ばし、全身をリラックスさせてから一言。
いや、やっぱりウラヌスさんの料理の腕前は一流だ。確かに、ウラヌスさん以上に美味しく料理を作れる人は他にも沢山いるだろう。しかし、ウラヌスさんの料理には何というか、ただ美味しいだけじゃない何かがあると思う。
例えるなら、母親の作るお味噌汁、父親の作る焼きおにぎり、みたいな?
愛、と表現すると途端にむず痒く感じてくるけど、そういった類のものだろう。
「どうやって作ってるんだろう?」
僕も実は、時折自炊をやるタイプの人間でして。
よく動画サイトや某料理板で作りたいジャンルのメニューのレシピを探しては、試しに作ってみたりしているのだ。
ここだけの話。自炊中、百鬼に見つかって追いかけられて、料理を作っている自分がいつの間にか料理扱いされてる、なんて経験もあります。
おかしいね。そんなことそうそうないんだけどね。
まぁ、ともあれ。これ程までに味を気に入ってくると、あと数日で食べられなくなるのは極めて惜しい。
せめてレシピだけでも、なんてぼんやりと僕は思う。
「でも、再現して作ったとして、同じ味になるとは限らないしなぁ。」
あぁいう料理の上手い人って、数字じゃ表せない感覚も交えてやってるところあるからね。
僕は数字頼りに作って来たから、どうにもその辺りの勘が養われてない。
こう作れ、と言われたらそのまま作れるし、まぁ美味しいんだけど、ウラヌスさんの味をそのまま、というわけには行かないだろう。
悲しい現実。僕は料理系の大学に通ってるわけじゃなし。
遠方のいとこにそういう人はいるけどね。聞くところによると、寿司職人になりたいらしい。
ファイト、遠方のいとこ。そしていつか、僕に美味しいお寿司を食べさせてくれ。
「……ふぅ。」
なんて、一人で頭を回していたら。段々と視界の靄が増してきた。
今日入ったお風呂の時と、大体同じ感覚である。
眠い時に無理やりぐるぐる思考するなんて、土台無理な話なのだ。
「空様、かっこよかったなぁ。」
ぼーんやり。僕は、数時間前のことを思い出す。
性別の関係で、他人とお風呂に入るのなんて本当に久々だった。
彼女は百鬼だから、くらいの気持ちで誘った……もとい、誘いを受けたのだが、もし彼女が人間だったら僕は誘えてただろうか。
うーん。
「誘えて無いだろうなぁ。」
ここら辺は、誰かに伝えるのも難しい感覚だ。
人間じゃない、というだけで得られる安心感も確かに存在するということなのだろう。ここ数日で初めて知ったことだが。
ともあれ、こうして勇気を出したことで、得られたものは大きい。
やっぱり、実際にかっこいいものを見れるってテンション上がるよね。アニメとか、漫画とかに出てくる場合は、ただそのような感想を抱くだけだけど、現実なら、本人の話を、声を聞けるし、場合によっては触れ合える。
正直、腹筋触らして貰った時とか嬉しかったもん。
「僕は、あぁいうのとは程遠い身体だし……。」
強いて言うなら、百鬼から逃げ惑うに当たって身に付けた脚力!が自慢出来るかもしれない。
いや結局、腰抜かしたり膝笑わせたりして毛程も役に立たなかったんだけど。
怪我もしてるし。
「……。」
何だか悲しくなってきた。
眠ろうか。
「月が綺麗だなぁ。明日は満月かもしれない。」
刃のような、白銀の光。
それは部屋中を突き刺すように、鋭く差し込んでいる。
僕は、夜眠る前に月が見えるから、この窓際にベッドを置いたのだ。
冬寒いとか夏暑いとか関係無い。
こういう家具の配置において最も重要なのは、本人にとって気分が良いかどうかなんだからね。ね?
*
「ふぅ。」
「ハハ、お疲れさん。宮畑ちゃんは無事に帰れた?」
「はい、滞り無く。当人は、かなり眠そうでしたが。」
「そりゃあ、そうさ。宮畑ちゃんは大長老の口車に頑張って抵抗してたんだからねぇ。それに、聞いたよ。大立ち回りだったんだってぇ、空様。」
先程まで宮畑が座っていた席を占拠し、彼はちまちまとワインを口にしている。
肌が赤らんでいるわけでは無いが、軽く、酔いは回っているようだった。
「ふふ。それはもう。」
「おいおい、自画自賛かぁ?」
「私は元より、自己肯定感の高いタイプですので。今更のお話ですよ。」
「……そういえばそうだったな。」
お隣失礼します、と彼女は元いた椅子に座る。
目の前には、お気に入りのボトルが未開封の状態で置かれていた。
「ま、それは今日のご褒美ってヤツだ。」
「ウラヌスさんは、私に対してそのようなものを渡す立場でしたか?」
「おうおう、言ってくれるねぇ。まぁ、なんだ、最近空様も気ぃ張ってるだろうなぁと思ってよ。」
「……仰る通りです。」
彼女はもう一度、息を大きく吐く。
百鬼は、睡眠を取る必要が無い。しかし、今の彼女はどこか休みたげな様子だった。
「ここら一帯の百鬼をずっと狩り続けてんだろ?」
「……。」
「夜、宮畑ちゃんに何かあったら大変だもんなぁ。自分から魔除けを渡しているのに、そいつは信用してねぇと来た。」
「当然です。出来る限りは自らの手で護らなければ。それに、そうしておけば、優さんの持つ小指に異変が起きた場合、その原因を特定し易くなります。」
「ふむふむ、成る程な。今日と昨日の朝には、同じような異変があったんだっけ?」
「いずれの場合も、小指に備わっている魔力の消耗が。恐らく、あれが抑えられるボーダーを乗り越えて、優さんに接触した百鬼がいたのでしょう。優さんと言葉を交わしたかどうかは別として。」
「うーむ。」
そんなことをしそうな上級の百鬼など、思いつくのはただ一人だった。
大長老。
「彼らの最終目的が、未だ不明瞭なのが気がかりです。もし、優さんが私と接触している間に行動を起こそうとしているのであれば、明日は今日、昨日以上に難しい一日となるでしょう。」
「長老会かぁ。俺ぁ、百鬼のはぐれモンだし、全然分かんねぇや。」
「そう、でしょうね……。」
空は、重苦しい表情を崩さ無いまま、ボトルのコルクを捻る。
「相変わらず、オープナーは使わねぇのな。」
「鉄やアルミより頑丈なオープナーを自前で持っていますので。」
「それこそ己の肉体ってか。かっけぇなぁ、空様は。」
「本当にそう思ってますか?」
「おいおい、そう睨まないでくれ。俺ぁ、本当に尊敬してるんだから、空様のことはよ。」
「それは存じております。」
くいっとワインをあおりながら、彼女は清々しい笑顔で彼を見つめる。
その笑顔が怖いのだ、と誰もが言うだろう。無論、ウラヌスも、だ。
「……ま、明日が踏ん張りどころだって意見には俺も賛成だな。」
「そうですね。何事もなく、と希望的観測を口にしたいところですが、出来るだけ最も絶望的な可能性を考慮して、行動しなければ。」
「それなら、空様は延々と宮畑ちゃんの側に居てやらなきゃいけなくなるんじゃねぇか?」
「いえ、そうはなりません。その場合、優さんは私を嫌うでしょう。」
「それは何故?」
「拘束され続け、監視されるような生活を好む人間がこの世界に居ますか?私とあの方の関係性は、互いの薄い信頼の元に成り立っているのですから、それをみすみす破壊しに行くわけにはいきませんよ。」
「厚い、じゃなくて、薄い?」
「私から、はともかく、彼から、はそういうものでしょう?」
「どうだかねぇ。」
俺にはある程度厚いように見えるよ、と彼は呟いた。
それは希望的観測でしょう、と彼女は答える。
「……それともう一つ、面倒な可能性がございます。」
「んん?」
空は、ことりと飲み干したグラスを手放し。
「まっ、まさか、俺ぇ!?」
その目線を、ウラヌスに向けた。
「はい。私にとって最も絶望的な未来は、あなた様に裏切られ、優さんを失う、この二つが同時に起こるものです。」
「それは、何だ、災難な未来だな……。」
「仰る通りです。今まで何かと立ち直ってきた私ですが、こうなると流石にくるものがあるでしょう。」
「だから、今の内に、釘を刺しておくと。」
「そういうことです。有り得ない可能性では無い。そうですよね?」
「それは、俺が怪しいから?」
「いえ、違います。そういった、抵抗力の無い者を手玉に取り、抵抗力の有る者から力を奪い取る。それが、彼らのやり口だからですよ。そういう意味で、あなた様は優さんと同様、私に対する強力な武器になってしまう。」
「ハハッ、そりゃあ、大胆な告白だこと……。」
ウラヌスは、バツが悪そうに笑う。
「まぁ、心に留めておいていただければ結構です。万が一、という時、少しでも踏みとどまる理由の一つになれば、と。」
「……ま、ありがたく受け取っとくぜ。」
「ふふ。そういう分かり易い所も、私は好きですよ。」
「……。」
「あなた様の作る料理の、次くらいに。」
「料理人、冥利に尽きるってもんだな。」
彼女は満足した様子でボトルを掴みつつ、ゆっくり立ち上がる。
「おいおい、空様はワインをラッパ飲みか?絶好調じゃねぇか。」
「はい、今は少し気分が良いのです。こうして、少しガサツな振る舞いを思い出すのも。」
ごきゅっと喉が良い音を鳴らす。その様子は、普段のイメージと真逆なのに、板に付いていた。
「良いものか、と思いまして。」
「……。」
「それでは、ウラヌスさん。今日はありがとうございました。」
「あいよ。扉の鍵は、閉めていってくんな。」
「はい。」
アイビーの扉から彼女は外に出ていく。
ちらりと窓の外に目を向けると、空がボトルを咥えたまま歩いているのが垣間見えた。
中々、ワイルドな女である。
「ふぅ……いやぁ、死ぬかと思ったなぁ……。」
彼は、肩を落としつつ汗を拭った。
「そうだな。空様は最悪の場合を想定して今は動いてる。……多分、空様は自分が助からない可能性も……。」
そう言いかけて。首を大きく振る。
「ダメダメ。良し、変な想像してないで皿を片付けよう。」
明日のことより今日のこと。ウラヌスはグラスを片手に、その場から立ち上がった。
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