一日目〜序
夢。
そうその経験は、救いを求める余り僕が見た夢なのだ、という心配。
朝目覚めて真っ先に僕を包み込み、指一本動かすことが出来ないほどに蹂躙し尽くしたのは、そういった悪感情だった。
瞼を開き。瞳を開き。瞳孔を開く。
ふるふると黒眼を震わせながら、僕は天井と床との間に浮遊する。
「……。」
動けない、否、動きたくない、という感情は余りに強いものだ。
しかも、今日の朝はそれが一段と強力で、抗うには僕の精神力がずっと不足している。
コロン。
やっとの思いで微かに動かした右掌から、長細い何かが床へと落ちた。
そして、それが何なのかを、数分の塾考の後思い出す。
「夢じゃ、無かったんだ。」
そうそれは、彼女の、空様の小指。元々はそこら辺のスーパーで売っているソーセージより少し大きいくらいのサイズだったものが、いつの間にやら片手で握り込める程度に縮んでいたらしい。
というか、萎んでる?
「百鬼って、なんなんだろう。」
僕を襲うだけのよく分からない何か、としか今まで認識してなかったのに。一晩で、様々な情報を詰め込まれてしまった。
取り敢えず、そこまで短絡的な存在ではないということが分かったけど……僕を、この悪夢から救い出すなんて、うまくいくのだろうか。
十年も付き合ってるとなんだか、そういった辛い経験が起こり得ない世界、というのが寧ろ、現実でないように思える。
「それは、百鬼自身でも説明できないものですよ、優さん。人間自身、人間とはどういうものなのか、端的に説明できないのと同じです。」
「!?」
いた、目の前に。現実を超越してる不思議存在。
「少し、早い到着だったでしょうか。ともあれお迎えにあがりました。朝食は未だ済ませていないようですね?」
魔除け、落としてますよ、と空様は僕の掌に小指を戻しつつ、近くの椅子に座り込んだ。
どうやら家の中だからと丁寧に、革靴を脱いで裸足になっているらしい。
「ちょっと、気持ちが上がらなくて、布団の中に篭ってたんです。そしたら、こんな時間に。」
時計の短針は九と十の間辺りを指していた。
「いえ、お気になさらず。寧ろ、遅くなってしまったわけでないことに安心しているところですから。優さんは朝が苦手なんですね。」
「今日は特に。……昨日の出来事が夢だったら嫌だなぁ、と考えていたらどんどん深みにハマってしまって。」
「そうですか。ならばこうして当事者が現れたことでその不安も解消されましたね?」
彼女の長い黒髪が、サーキュレーターに当てられて柔らかに靡く。
組まれた脚も長くて、綺麗で、なんというか元気も湧いて出てきた。
「よーし、起きて頑張るぞ!」
そう、こういう時は大声出して、上半身を起こすのが一番だ。
「ふふ、では、私はまた少し出掛けてきますので。何分後に、お迎えに上がりましょう?」
「嫌な汗かいて、全身ベタベタだからシャワー浴びたいし……一時間後くらい……?」
「了解致しました。パトロールがてら、百鬼を少し……してきます。」
「い、行ってらっしゃい……。」
濁した言い方だが、絶対捕食しに行くつもりである。
なんというか、僕が標的になっているわけでないことは本当に幸運だ……。
彼女のような存在に襲われたらもう、逃げることすら諦めてしまいそうだもの。
「……朝ご飯、食べよ。」
活力。栄養。大事。
僕はゆっくりと、残りの下半身に鞭打ちつつ、ベッドから脱出する。
昨日は疲れからかすぐに眠れたはずなのだが……どうにも疲れが取れているとは思えない。
今日は少し、大変な一日になりそうだ。
*
朝食、風呂、諸々の準備、と一通り済ませてから空様と合流して数分。
昨日と変わらない場所に、アイビーはあった。
話によると、アイビーは現実と幽世の狭間に存在するらしいので、もしかしたら外装が可変だったりするのではないかと勝手に妄想していたが、そんなことなかったらしい。
「よぉ!……って、昨日以上にげっそりしてないか?宮畑ちゃん。」
そして扉の向こうから、楽しげに顔を出す気のいいおじさん。
手には焼きたてらしいタルトが抱えられている。
「……そうでしょうか。確かに、疲れが取れてない自覚はありますけど。」
「そりゃあ良くねぇ。何と言っても今日は、健康な時に会っても眩暈がしてくるようなクソ女に会いに行くんだからなぁ。体調悪い状態じゃ気絶しかねない。」
「く、クソ女?」
「……ウラヌスさん、口が悪いですよ。」
「すまん、すまん。でもなぁ、やっぱあいつのことは気に入らねぇよ、俺ぁ。昨日出会ったばかりの宮畑ちゃんの方がずっと好感度高いぜ。」
「ふふ、まぁ、その意見に関しては同意します。が、致し方ありません。」
空様が、困った風に笑っている。
何だか、レアな感じだ。まぁレアと言っても僕はまだまだ空様のことをよく知らないんだけど。
「っと、立話始めちまって悪いな。ささ、中に入ってくれ。」
「お邪魔します。」
「おう!いらっしゃい!」
そして中に入るなり、僕の鼻腔を襲ったのは甘く、香ばしい菓子の香りだった。
先程のタルトも一つの要因だろうが、それだけじゃない。
「これは、何をやっているんですか?」
「あぁ、これな。まぁ俺ぁ説明下手だから、空様から一緒に聞いてくれ。勿論、お前さんの分もあるぞ。あの女の為だけに仕事するのはまっぴらごめんだからな。あくまでアイツの分はついでさ。」
「やった。」
ちなみに、僕が好きな焼き菓子ナンバーワンはどら焼きです。
そこ、洋菓子じゃないんかい、って言わない。あんこ美味しいでしょ?
「……これ、いただいても良いですか?」
振り返ると、空様が平皿一杯に敷き詰められたティラミスを見つめていた。
「当然。ティラミスは空様の好物だろ?」
「仰る通りです。ありがたくいただきます。」
「ハハ、もしかしたら足りねぇって文句言われるんじゃと心配だったんだが、これで安心だな!今日も喰われずに済む!」
「……。」
今日の宮畑ポインツ。
昨夜の空様といい、百鬼のジョークはブラック寄り。
「ふふ、ウラヌスさんは私を弄るのがお上手ですね。」
返答までブラックとか、連携プレーが余りにパーフェクトである。
「さて、脱線はこの辺りにして、宮畑さんはお好きな席に座って良いですよ。私はその向かいに座らせていただきます。」
「分かりました。」
一瞬周囲を見回した後、僕はショートケーキの乗った小皿を手にしつつ近くの椅子に腰掛ける。
無論、量に関しては自重して一ピースだけだが。
「では、ここで今日の予定に関して軽く説明しておきますね。」
「分かりました。」
頷きつつ、フォークでケーキを一口。
「……。」
一流パティシエ顔負けの美味しさだった。
「ウラヌスさん……ダウナー気味な宮畑さんを甘味で癒すとはやりますね……。」
彼女なりに気遣ってくれていたのか、はたまた空様の力で僕を笑顔にできなかったことが悔しいのか、ぐぬぬ、という声が聞こえてきそうなくらい唸っている空様。
ティラミスの方は、というと既に半分無くなっている。
早すぎ。
「まず、これから、クソ女こと、『薬剤師』に会いに行きます。」
「薬剤師……って文字通り、お薬を処方してくれる人のことですよね。」
「その通りです。まぁ、その人はお薬の処方以外にも武器を始めとした所謂、裏方の取引全般を請け負っているので、薬剤師という名前は肩書きに過ぎないのですが。」
「成る程……。」
何というか、簡略化された説明だけで、ヤバい人臭がプンプンする。
「ともあれ、あえて薬剤師と名乗っているだけある腕前の持ち主ですよ。人柄が決して褒められたものでない一方、仕事には忠実ですから。」
「あれですね。厄介なタイプの仕事人って感じ。」
「恐らく、宮畑さんが想像する通りの百鬼だと思います。」
「でも、その薬剤師は、百鬼なんですよね?僕に会って理性を飛ばす心配は無いんですか?」
「分かりません。ダメな場合は出直しましょう。あなた様が手伝うと言った以上、できるだけ同席して欲しいですが、どうにもならないこともあるので。」
どうやら、薬剤師の暴走で僕の命が失われるという可能性は考慮していないらしい。
恐らく、空様が護るから無問題、ということなのだろう。
「ただ、十中八九、彼女は理性を保っていると思いますよ。根拠の無い予測ではありますが、彼女はそれだけの百鬼です。」
「空様の言う凡百の百鬼には程遠い存在、と?」
「そうですね。彼女が仮に百鬼の平均値であるならば、既に人間はこの世界に存在しないでしょう。」
空様にここまで言わせる程の人物なのか……。
「それで、これらの菓子群はその薬剤師に会うために必要なものなのです。」
「このお菓子が?」
確かに、滅茶苦茶美味しいから差し入れには丁度良いのかもしれないけど。
「彼女はこれを、『お通し』と呼んでいます。」
「何だか、居酒屋みたいですね。」
「彼女も私に負けず劣らずうわばみですから。意識はしているでしょう。」
「これが無いと、会えないんですか?」
「仰る通りです。薬剤師に会うためには、まずそれに見合うだけの物品を捧げなければなりません。その上で、取引を持ちかけるのです。私たちの場合は、『絶縁の霊薬』を作成して欲しいという依頼ですね。」
「そして、その材料を集めに行く、と。」
肯定の代わりに、にこっと笑って見せる空様。
魅力的な笑顔である。少し怖いけど。
「必要になるものは鬼灯、蓮の花、金盞花、水仙の四つです。器になる鬼灯は既にあるので、これから集めるのは合計三つになるでしょう。」
「どれも聞いたことある名前ですね……。」
特に蓮とか、水仙とか。植物園に咲いている定番である。
「はい。ただ、こういったものの決まりとして、産地というものがあります。つまり、咲いている場所が大事なんですね。だから、このお店の裏庭に咲いている蓮を使っても霊薬は作れません。できるのはただ苦いだけの液体です。」
「遠いんですか?」
「ある程度は。ただ、産地に行くところまではそこまで苦じゃありません。そこからの捜索の方が大変なので、こちらを宮畑さんに手伝っていただきます。」
行くこと自体は難しくない……ということは、何かしら乗り物を使うのだろうか。
「分かりました。張り切って頑張らせていただきます!」
「ふふ、頼もしいですね。ただ、そういった場所には百鬼も多く蔓延っているもの。重々、お気を付けください。魔除けは持っていますね?」
「はい。」
僕は徐に、ポケットから彼女の小指を取り出す。
「一回り小さくなっている、ということは仕事をした証拠ですね。昨日の内に渡しておいて正解でした。」
「え。」
そういうことだったのか。
「はい。効力も永遠ではありませんから、力を使えば使うほど、萎びていきます。とはいえ、今日のところはそのままで問題ないでしょう。場合によっては私が直接お護りします。」
「いや、あの、今まで寝てる間に襲われることは一度も無かったので……。」
百鬼という存在について少しずつ分かっていく程、疑問だった点ではあるのだが。
「それは、余りに不自然な話ですね。百鬼は昼夜問わず活動します。加えて、効率的な捕食の為に寝込みを襲うことが多いのですが。」
「うーん……?」
「もしかすると、何かしら宮畑さんの知り得ないものが働いていたのかもしれませんね。」
空様も、流石に分からないといった様子だ。
当然である、だって、昨日出会ったばかりなのだから、こうしてある程度話せるようになったとはいえ、未だ互いに理解できてないことが多過ぎる。
「まぁ、また今度考えることにします。どちらにせよ、僕が薬を飲んだ場合は、知る必要のないことですし。」
「その通り、ですね。」
彼女も少し気になるのか、どこか歯切れの悪い返事。
僕より百鬼に関して造詣の深い空様であるならば、答えを導けるかもしれないし告白してよかったことなのかも。
「さて、こんなところですか。」
そして空様は、吹っ切れたかのように立ち上がる。
言うまでもなく、数キログラムあっただろうティラミスは綺麗に無くなっていた。
「ウラヌスさん!箱詰めをお願いします!」
「今やってるよ!あと少しで終わるからもう少し談笑しててくれい!」
「あ、僕、お手伝いします!」
「おっ、なんだい、気が利くねぇお前さん。経験あるのかい?」
お菓子の箱詰め……経験は無い。無い、が、一般人たる僕からすると、ちょっとやってみたいと思ってしまう作業である。
「ま、どっちでも良いさ、じゃあこの机のケーキをこの箱に詰めておいてくれ!サンプルはこれな。」
「うわぁ……。」
なんて人だ。
料理どころか、こういった装飾までパーフェクトである、このおじさん。
「……私だけ見ているのも居心地が悪いので……。」
そして、参戦する空様。
まぁ三人でやった方が早く終わるからね。
「よーし、やるぞぉ!」
ちょっと元気出てきたな、と思いつつ僕は腕まくりをする。
僕はこれまでずっと、百鬼から逃げることだけを考え、生活してきた。
バイトとか、学校とか、最低限のことはやってきたけど、人としてそれ以上の経験に踏み込んだことは一度として無い。
そういう意味で、空様やウラヌスさんが用意してくれたこの環境は、ずっと居心地が良かった。
もしかすると、襲われないのならば、僕は人間の世界より寧ろ、百鬼の世界の方が合っているのかもしれない。
まぁその最低条件が、絶対クリアできないんだけどね。
*
アイビーの裏庭。
蓮が生えているという触れ込みであったその場所は、一見美しい、手入れのなされた庭園であった。
そして、その中心には奇妙な穴がある。
「この穴を、降りて行けば良いんですか?」
「そうそう。一番奥には、路に入れる扉がある。俺にしか開けない、特殊な扉さ。クソ女に作って貰ったんだ。」
「薬剤師が、土木工事を……?」
「彼女は、何でも屋ですからね。」
想像以上に、薬剤師さんはなんでも仕事を請け負っているらしい。
見境がないとも言うか。
しかも、しれっと知らない単語が出てきた。
「……路ってなんですか?まさか、一般道のことじゃないですよね?」
「あぁ、全く違う。そうだな、人間の言う霊道ってやつに似てるかな。」
「霊道?」
「簡単に言えば、俺たちの通り道だ。それも、一瞬でワープできる。だから、百鬼は神出鬼没だし、百鬼夜行のように、突然大群で現れるなんて芸当ができるし、遠い場所にもショートカットでアクセスできるんだ。便利だろ?」
「その便利な代物の周辺に雑草を沢山生やして最近まで埋もれさせていたのは誰でしたか?」
「うっ。」
凄い。先程私に向けてくれた笑顔とはうって変わった、威圧感の塊みたいな微笑だ。
昨日私を引き止めた時の空様に少し似ているかも。
やばい、脚がちょっと震えてきた。
「か、感謝してるぜ?こうして綺麗な裏庭を維持してくれてるんだからよ、空様は。」
「できればウラヌスさん自らやって欲しいところなんですがね……。」
「仕方ねぇ。俺ぁ整理整頓ってやつが苦手なんだ。」
「キッチンと店内は常に清潔でしょう?」
「清潔な場所じゃないと飯食いたくねぇだろ。」
「それは、そうなんですが。」
その意識を裏庭に向けられないものですかねぇ、と溜息を一つ。
どうやら、空様とウラヌスさんは互いに迷惑をかけ合っている仲らしい。
「さて、さぁさぁ、降りていってくれ。」
「……降りるって言っても……。」
どうやって?
「宮畑さんは人間ですから、私と触れ合っていないと、そもそも路に弾かれてしまいます。なので、私はあなた様を抱えていきますよ。」
「えっ、でも。」
綱も階段も無いけれど。
「では、お通しの方はウラヌスさんお願いしますね。」
「おう。箱詰めした分はしっかり持っていく。」
「も、もしかして飛び降りるんですか⁉︎」
「大丈夫です、痛くありませんよ。失礼します。」
「ひゃっ。」
するっと、空様の頼もしい腕が軽やかに膝の裏と頸の辺りに通る。
気づいた時には頭を彼女の左手に抱えられ、視界は上を向いていた。
「思ったより軽いんですね、宮畑さん。」
「それは……何よりです……。」
空様、あなたその抱き抱え方なんて言うかご存知ですか?
お姫様抱っこって言うんですよ。
「おいおい、空様、人様の体重に言及するなんてノンデリカシーな奴がやることだぜ?」
「おっと、そうでしたね。申し訳ありません。」
「だ、大丈夫ですぅ!」
凛々しいお顔が近くてそれどころじゃありませんて。
空様を嫌いな人でも、こんなことやられたら心の中ぐちゃぐちゃになりますよ。
「では、行きますよ。」
「はっはい!」
ふわり。
彼女の黒髪と、漆黒のトレンチコートが視界をジャックする。
そして、一瞬浮き上がる感覚に襲われたかと思うと、すぐに重力任せの落下に意識が切り替わった。
「きゃあああああああ!」
思わず悲鳴を上げる。
なんだか、酷く乗り心地の良いジェットコースターみたいだ。
「可愛らしい叫声ですね。あなた様を襲おうとしてしまう百鬼の気持ちが良く分かります。」
「怖いいいいいいいい!」
無論、二重の意味で。
「さぁ、路に入りますよ。恐らく百鬼でない宮畑さんは意識を失ってしまうでしょうが、問題ありません。身を私に委ねていてください。」
「うわあああああああ――」
ぶつり、とテレビの電源が落ちるように、眼の前が真っ暗になった。
身体からすっと何かが抜けていく感触。自分が超高速で移動している感触。
『抵抗が無い』という違和感に襲われながら、僕の身体は勢いのままに押し流されて行く。
やがて、か細い自意識は眠るようにほどけて、溶解した。
*
「ふぅん?可愛らしい人間様を連れてきたものだねぇ、空。」
「!?」
「おっ、眼を覚ましたようだよ?声をかけてやらないのかい?」
「……おはようございます、宮畑さん。よく、眠れましたか?」
「うぅ……。」
眼を覚ますと僕は、ふっかふかのソファにゆったりと寝かされていた。
木造の天井、暖かみのある照明。どこだろう、凄く、落ち着く場所だ。
そして起き上がると眼の前には、見知らぬ女性が座っている。
質素な浴衣を着ているようだが……?
「ほほう、眼を覚ますと一段と可愛らしさが増すねぇ。君、良い餌を見つけたじゃないか。」
「……次に宮畑さんを餌と呼んだ場合、次の瞬間あなた様の首は私の胃に収まっていることでしょう。」
「おっと、弄りすぎたね。君が怒ったら、この薬剤師でさえ抑え込むのは不可能だもの。気を鎮め給えよ。」
ぼやけた頭で僕は、二人の会話を聞き取る。
成る程ここは薬剤師のお店なのか。どちらかというと、ホテルのスイートルームみたいな明るさである。
しかも、なんだろう、ウラヌスさんが薬剤師をクソ女呼ばわりした理由が少し分かった気がした。言葉の節々からのらりくらりとした面倒臭さがひしひしと感じられる。
とはいえ、黙ったままでいるのも良く無いので。
なんとか会話に参加しよう、と僕は頭を回し、口を開いた。
「す、すみません、お待たせ致しました。」
「問題無いさ、薬剤師は寛容なんだ。然るべきお通しを持って現れた客にはそれ相応の対応を取る。」
「良い意味でも、悪い意味でも、が抜けていますよ。」
「フフ、まぁ、そうだね。でも今回の君らは、その『悪い』に当てはまらない側さ。あれ程美味な洋菓子をたらふく持ち込んで来てくれたからねぇ。次会った時、またウラヌスに聞いてみないとな。この薬剤師の店で菓子を売る気は無いか、って。」
「聞くまでもなく、彼はいいえと答えるでしょう。」
「悲しいねぇ、嫌われたものだよ。」
わざとらしく、オーバーにジェスチャーを取って見せる薬剤師。
なんだろう、空様とはまた違うタイプの強さを持つ百鬼だ……僕を目の前にしても狂わないだろうと彼女が根拠も無しに判断する理由がよく分かる。
「宮畑さんも目覚めたことですし、雑談も終わりでよろしいですね?」
「フ、まぁ、本題は聞いておかないとね。」
「よろしく、お願いします。」
「宮畑さんは人間でありながら、百鬼を視認できる能力を持っています。」
「そうだねぇ、香るから分かる。」
あ、やっぱり特有の香りはするんだ。
「しかし、宮畑さんは百鬼に対抗する術を持ちません。このままでは、遅かれ早かれ百鬼に捕食されてしまいます。」
「ふぅん?」
「よって、その能力を手放すことを一つの選択肢に入れてあげたいのです。」
「つまり、絶縁の霊薬を作れ、と?」
「仰る通りです。それ相応のものを持参したつもりでありますが。」
「もし、足りないと言ったら?」
ニヤニヤ、と。薬剤師はこれ以上なく意地の悪い笑みを浮かべる。
絵に描いたような悪人顔だ。いや、商売という理性的な行動自体、百鬼の間で行うにはこれくらいの狡猾さが必要なのか?
「その場合は、あなた様が宮畑さんを餌呼ばわりするのと同様の報復が待っていることでしょう。」
そして、僕の味方側もまた、中々に悪辣だった。
「おいおい、それは脅迫ってもんじゃないか?商売に駆け引きはあれど、暴力による脅しは介在しないもんだぞ?」
「薬剤師がどれ程の数、暴力で他者から事業を奪い取ったのか、一番よく知っているのはご自身では?」
「知らないねぇ?」
まぁ、死にたくは無いけどね、と薬剤師は声を漏らす。
「冗談だけどさ。」
「面白くない冗談を吐く、も胃に収める条件に追加しましょうか?」
「ハハ、怖い怖い。そんなのだから、君もこの薬剤師と同じように、忌避される側の存在になるんだぞ?」
「自覚しております。」
「それは何より。」
すっと薬剤師は立ち上がり、後ろに立ち並ぶカタログへ手を伸ばす。
いや、カタログというか、写真集?
「調合は請け負った。薬剤師という名を冠するだけの仕事を約束しよう。ただ、その素材は鬼灯以外、ここに無い。集めるのは君たち自身だ。それで良いね?」
「問題ありません。」
「君もやるのかい?」
彼女の目線がふと僕の方に向けられる。
答えは勿論、決まっていた。
「やります。」
「ほほう、今まで百鬼に命を狙われ続け、怯えていた割には威勢が良い。適応能力が高いのかな、興味深い。」
「余り、邪な眼で見定めようとしないように。」
「はいよ。……君の保護者は過保護だねぇ。」
眉を分かりやすく垂らしてやれやれ、と溜息。
いやもうほんと、二人きりには絶対なりたくない。
「ま、じゃあ、このページをよく見てくれ。」
「これは……材料表?」
「よく分かったね、宮畑とやら。後で飴を一つやろう。」
「……相変わらず、見つけにくい場所にあるんですね。」
「そういったものの方が、他の存在の手が入っていない、純粋な素材になるんでねぇ。調合の成功確率を上げたいのなら、従いな。」
「ええ、私は門外漢ですからそうさせていただきます。」
「ふっ、門外漢……ね。まぁいい。」
……意味深な言い方が気になるけど、ここは飲み込もう。
「まず、一つ目の材料。蓮の花だ。これを、徳島県のAポイントから取ってきて貰いたい。」
「渓谷、ですか。そのような場所に蓮の花が?」
「徳島県は蓮が多く栽培されている場所でもあるのだよ。とはいえ、今回取って来て貰うものは自生している蓮であるから、無関係な話ではあるがねぇ。」
「もしかしたらここら辺に沼か池があるのかもしれませんね……。」
僕は手渡された地図と蓮の自生地を比較しながら、首を捻る。
自らそう言ったものの、パッとは見つからない、が。
「そして二つ目の材料、それがこの金盞花だ。これはまた別の鳥取県、Fポイントに存在する花畑に自生している。」
「この辺りは……。」
「あぁ、百鬼が多い。日本の中でも上位に入る密度を誇っている。人間にとっては、非常に危険な場所だろう。」
「……。」
つまり、僕が喰われる可能性も高まっている、ということだ。
「最後に三つ目、水仙だ。これは、長野県、Cポイントの清流、そのほとりにある。特に上流域は荒らされることなく残っている水仙が多いだろう。」
「地図はいただけますか?」
「この本のコピーを貸し出そう。……宮畑くん、君の後ろにある本棚から、ナンバー八と記された本を取っておいてくれ。」
そんなものが、と思いながら振り向くと、そこにはずらりと本が敷き詰められた本棚が鎮座していた。
「ふわぁ……。」
しかも、どうやら薬剤師はかなりマメな百鬼であるらしい。
番号付きの本は全てその番号順に揃えられ、またそれ以外の本も五十音順になるよう整えられている。
八の番号が記された本も、例外ではない。
「お気遣い、痛み入ります。」
「仕事だからねぇ、見合うパフォーマンスを見せないと首が飛びかねないだろ、物理的に。」
薬剤師はそう言って、ぐいっと首を捻るジェスチャーをしてみせた。
なんというか、首の飛ばし方がバイオレンス過ぎる。
「いえ、今回そのようなことをするつもりはないので、大丈夫ですよ。」
「本当かなぁ?君との取引は、この薬剤師でさえ常に命の危険を感じながら行なっているのだがねぇ。」
「……そんなに、空様は怖い百鬼なんですか?」
「当然さ、君も知っているだろう?同族を喰らう同族を見て、不快感を抱かない生命がどこにいる。」
……仰る通り、と言って良いのだろうか。
「驚きました。薬剤師さんにご尤もなことを言われるのは何年振りでしょう。」
そして、反応に困っている僕を助け出すように、わざとおどけて見せたのは空様ご本人であった。
「フ。まぁ、そう怒らないでくれよ。今回も、良い取引にしようじゃないか。」
彼女の手が、僕と空様の方に伸びる。
成る程百鬼の間でも、協力し合う時のルーティンというものは変わらないらしい。
「……。」
握手が、交わされる。
「うん、商談成立、だねぇ。」
「はい。短い間になりますが、またよろしくお願いします。」
「よろしく、お願いします。」
「あぁ。この薬剤師が驚愕するくらい、質の良い素材を持って来てくれることを期待しているよ?」
「……さて、宮畑さん、行きましょう。」
手を離すと徐に、空様は立ち上がった。
商談以外じゃお前に用はない、とでも良いたげである。
「待ちなよ、この薬剤師には、宮畑くんに飴を分け与えるという約束があるのだが?」
「幽世の食べ物を現世の人間が食べて、何か良いことがあるとでも?」
あぁ、そうだ。
黄泉竈食ひ。どこまでが本当で、どこまでが伝説なのかは曖昧だが、少なくともプラスに働くようなことは起こり得ないだろう。
「……おっと、忘れていたよ。薬剤師としたことが、恥ずかしい限りだ。」
白々しい。余りに、白々しい。
容疑を否認して無罪を求める死刑囚もびっくりだ。
「ふぅ……油断も隙もない人ですね、あなた様は。加えて、血も涙も無い。」
「血も涙も無いのはお互い様だろう?宮畑くんのその様子じゃ、理性の枷を外した君の姿はまだ見せていないらしい。」
とんでもない爆弾を残したもんだねぇ。
やれやれ、と言わんばかりに彼女は肩を竦める。
そういえばウラヌスさんも、空様は常に理性的でいるわけじゃない、って言ってたっけ。
「見ずにことが済むなら、これ以上無いでしょう?」
「それはそうだね?ただ、そううまくいくか、と問われたら、君はイエスと答えるのかい?」
「ノーと答えるでしょう。」
「うん、耄碌しているわけでは無いらしい。それなら、この薬剤師から言うことは何もないよ。ほら、飴さんはお預けだ。さっさと探しにいくと良い。」
「はい、それでは。」
くい、と空様は頭を下げる。
そして。
「あ、帰りもそれですか?」
「そうです。もう一度、路を通ります。」
数十分前の思い出が蘇る。
正直良い気持ちはしない。しない、が。
これ以上、薬剤師と同じ部屋にいる方が怖い。
僕は、背に腹はかえられぬ、と再び空様の腕に身を預けた。
*
本日二度目の気絶。
気絶ってそんな簡単になっちゃいけないくらい、身体にとって危ないものなはずなんだけど、この移動方法はいかがなものか。
楽な代わりに、僕自身が削れていく音がするよ。
「ハハ、お疲れ。ココア淹れておいたぞ。」
「ありがとうございます……。」
「空様、すぐ出発するんだろ?」
「そうですね。ただ、路を通るとこの通り、宮畑さんに大きな負担がかかるので。路の使用は薬剤師の店を訪問するときだけに留めておこうと思います。」
ありがたい話だ……が、しかし。
「それ以外に移動方法があるんですか?」
「まぁ、無いわけでは無いですね。少々力任せな方法になりますが。」
「……あぁ、あれか……。」
どうやら、ウラヌスさんは思い当たったご様子。
ただ、その表情を見るに。
「でもなぁ、あの方法もあの方法で、身体には負担かかると思うぞ?」
「しかし、どちらの方が宮畑さんに合っているかは本人が体験して比べてみないと分からないですから。」
「まぁそれもそうか。……宮畑ちゃん、ファイト!」
何故か、知らない間に僕が頑張ることになっている。
「ど、どういう方法なんです?」
「私が、あなた様を抱えて走ります。」
「……。」
「……。」
「……。」
私が?あなたを?抱えて?走る?
何を言っているんですか?
「おーい、宮畑ちゃーん。……だめだ、情報が飲み込めなくて口ぽかーんしちゃってるよ。」
「そうですね……至極当然の反応です。人間の世界じゃ有り得ない状況ですから。」
「いや、百鬼でも有り得ないから。空様のフィジカルが屈強過ぎるだけだから。」
「く……走るという単語が何かしらの隠語なのではないかと期待したんですが……そういうわけではないみたいですね……。」
「はい。全て、現世で一般的に使用されている意味の通りです。私があなた様を抱えて走ります。」
「二度も言わなくて良いですよ!……本当にそれで早く着くんですか?」
フィクション味が濃厚過ぎる。
「それがな、早いんだなぁ。最初はどうかと思ったけど、まぁこの際経験してみるといい!そうそうお眼にかかれるもんじゃないぜ、測定不能なレベルの速さで爆走する女ってのはよぉ。」
「ソニックブームとか起きないんですか⁉︎」
「起こそうと思えば起こせますが、そのレベルで走る意味はありませんね。遠いと言っても、徳島県はここからせいぜい七〇〇キロメートル程度ですから。」
「……んんんんん?」
「意味分からねぇだろ?でもな、お前さんが頼ろうとしてる空様って、そういう百鬼なんだよ。」
困り眉になりながら、ここぞとばかりにぼやくウラヌスさん。
「一時間での到着を目指しましょう。」
「それでも時速七〇〇キロメートル……いや、やめよう、頭で考えたらおかしくなりそう。」
「そう、それが良い。特に百鬼は、そういうものなんだ、と受け入れなきゃやってらんねぇ存在ってのがあるからな。」
「黙って言わせておけば私が化け物のような……。」
「それは自他共に認めるところだろ?」
「ふふ、仰る通りです。」
……なんとなく、空様が可哀想になってきた。
そう、そうだ。僕はこれから空という名のモーターカーのお世話になるんだから、ちゃんと受け入れないと。
ウラヌスさんの言う通り、この移動方法が路よりマシなのかは果たして体験してみないと分からないが。
「ふむ。では、非血休憩出来たところですし、もうそろそろ出発しましょう。」
「は、はいぃ。」
「速度はかなり出ますが、あなた様は動くことなく、眠るように眼を瞑っていてください。できる限り快適な旅を保証します。」
「分かりました……。」
時刻、一一時五〇分。フライト開始。
僕は、最後に少し残ったホットココアを飲み干してから、睡眠導入剤を貰いつつ、席に着いた。
空様の腕の中は、なんというか、絶対に落ちないだろうという安心感がある。根拠のない感情だが、それだけ僕の身体にちょうど良い力み具合で抱えてくれて、心地良いのだ。
しかし今回は速度が速度。抱え方一つでどうにもならないように見える、新境地。
無限の情報の中に溶け込むような、路の不快感は無かろうが――
「では、ウラヌスさん。行ってきます。」
「おう。無理せずにな、空様。それと、宮畑ちゃん。」
「……っ。」
「うわぁっ!」
ぐいっと。彼女は右足を踏み込む。
そして気付いた時には既に、最高速へ到達していた。
あり得ない加速力。あり得ない速度。全てがイレギュラーで、脳が混乱する。
「ひゃあ。」
特に意味のない、叫び声が一つ。
しかし、その音もまた、少しずつか細くなっていった。
睡眠導入剤のお陰だろう。新幹線の中で眠るが如き振動と足音に包まれて、意識は段々遠のいていく。
ただその中で、僕は一つの確信を手にしていた……この快適さは、薬によるものだけではない。つまり、空様の腕の中で得られる温もりというのはまるで、母に抱えられた赤子のように気持ち良いものであるということを。
びゅうびゅうと吹き荒ぶ風以上に、それらに纏わる快楽、いや安心感が勝るのは何故だろう?
だが、その答えを見つけるより前に、僕の思考はとうとう眠りについてしまった。
*
「うーん、茂みに自生してるわけでもなければ、沼も無い……池も無い……。」
衝撃の一時間を終え、蓮の探査を始めてより十数分が経った。
頼りになるのは右手にある借り物の本。それと、左手に握りしめた空様の小指。
話によると、この辺りはそこまで量がいない代わりに、面倒な百鬼が生息しているらしい。
それも、この魔除けだけでどうにでもなるらしいが、やはり僕だけではどうしようもない……だから、万が一を想像すると怖い。
とはいえ。今心配するべきは、既に刈り尽くされて蓮が存在しない、という可能性の方だろう。
未だ少しの時間しか経っていないとはいえ、こういう広い場所で手がかりほぼゼロから探し物をするのはメンタルに来る。
「ふふ、こういう作業は根を上げた方の負けなんですよ。力づくではどうにもならない地道な作業です。」
一方、空様の方は、というと膂力だけでなく視力まで異次元なようで、二メートルを優に越す巨体でありながら一度も屈み込むことなく、地面を探査できていた。
いや、おかしいでしょ。それよりずっと小さい僕は、膝が痛くなるくらい立って座って立って座ってを繰り返してるのにさ。
「空様は、今までにもこういう素材集めってやったことあるんですか?」
想像以上に慣れきった雰囲気を出している彼女に耐えかねて、僕は話題を振る。
というか僕は、空様の庇護下に置かれているというのに、彼女自身のことを殆ど知らないとはいかがな物なのだろうか。
「そうですね、無いと言えば嘘になります。そこまで直近の話ではありませんが。」
「どんな霊薬を?」
「ふむ。」
ぴたり、と空様が立ち止まる。
「どうかしましたか?」
「いえ、宮畑さんは、あなた様の選択の如何によって、百鬼と無縁ないち人間に戻る可能性が高い存在です。ならば、余り幽世の知識を与えるのは如何なものか、と思いまして。」
「あぁ、成る程。」
しかし、そんなことを気にする必要はないのだ。だって――
「僕は、空様に護って貰ってるわけですよね?」
「仰る通りです。」
「なら、僕が百鬼を視る眼を放棄した時、護ってくれた人のことを殆ど知らないままになる、というのは酷い結末だと思います。」
「……。」
なんというか、空様は分かりやすく驚いているのであろう様子で表情を強張らせた。
「それは何故ですか?」
「僕の信条です。僕が嬉しいと感じる行動をしてくれた人を、ただ『良い人だった』で忘れ去るなんて、耐えられない。」
「耐えられない……。」
「しかも、空様は、僕の命の恩人ですよ?既に昨夜僕を危機から救ってくれたじゃないですか。命を拾い上げてくれた人、なんて絶対一般化したくない。」
「出会ってまだ半日程度ですよ?」
「それでももう、空様は特別な存在と言える程度にまで来ていると思います。」
自分でもびっくりするレベルで、今の空様に対する僕の感情は好意的なのだ。
なんというか、論理的に説明しようとすると言葉に窮するくらい。
「……そうですか、ということは私の心配は杞憂だったというわけですね。」
「そうです、そうです。できれば、ウラヌスさんくらい色々教えて欲しいです。」
「ウラヌスさんは自らのことに開けっ広げ過ぎるんですよ……。」
それは確かに、そうかもしれないが。
口が軽いのかもしれない。
「それに、私はまだ、昨夜の百鬼を追い払ったのが私などと、言っていないはずです。ウラヌスさんから聞いたんですね?」
「……はい。」
「はぁ……ペナルティ、一つ加算ですね。」
……僕も案外、口が軽いのかもしれない。
「というかその、ペナルティってなんなんですか?」
「これは、全部で百溜まった場合、その日の夜に私が彼を喰らう、という約束に基づいたものです。」
「えぇ……。」
冗談かと思っていたら、想像以上に恐ろしいカウンターだった。
「ちなみに今は?」
「十二です。」
「全然大丈夫じゃないですか!」
心配して少し損した気分。
「当然でしょう、私が本気で彼を喰らおうとするわけがありません。お互いに、冗談で喰う喰われる、と言い合うことはありますが。」
「あぁ……。」
ブラックジョークだ、と思っていたけど、二人の関係性を考えたら思っていた以上にブラックさが濃いかもしれない。
「と、それはそれとして、前回私が作った霊薬について、でしたね?」
「あぁそう、そうです。」
僕にあなたのことを教えてください。
「睡眠薬です。」
「す、すいみ?」
「そう。睡眠薬。」
「百鬼は睡眠欲が存在しないと聞いたような……。」
「仰る通りです。しかし、眠ることができないわけではありません。様々な理由によって、必要となれば百鬼も睡眠を摂ります。」
「例えば?」
「重大な怪我、長期間の休養、取引の結果、単なる興味……私の場合は、薬剤師と商談を行った結果のことでした。」
「……?」
睡眠が取引材料になるって?
「睡眠を摂るということはつまり、一定時間動けなくなるということですから。」
「えーっと……要は空様に動いて欲しくない案件があったから、それを争うことなく手にする為に、ってことですか?」
「そういうことです。」
「うわぁ。」
一定時間薬剤師の行動に眼を瞑る、という意図が暗に隠されてたわけか。
恐ろしい話である。
「私は約束通り、彼女の製作した睡眠薬を飲んで、およそ八時間の間眠りました。存外、悪いものではありませんでしたね。ただ、その間に彼女がどのような悪行に及んだかは、存じ上げません。私の推測が正しければ、何かしら重要な案件を力で奪い取ったのでしょう。」
「さっきそんな感じのこと言ってましたね。」
「はい。なのであれは、薬剤師に対する先の取引の当て擦りです。」
「……ちなみに、ですけど。」
「どうしましたか?あぁこの蓮は目当てのものとはまた違う種ですね……。」
僕は、やっとの思いで見つけた沼を見渡しつつ、そっと尋ねる。
「その時、空様は何を得たんですか?」
「……。」
「む、無理はしなくて良いです……。」
「いえ、そこまで分かり易く震える必要はありませんよ。私が得たものも、ちょっとした薬です。」
「ちょっとした?」
「はい。食欲の抑制剤ですね。」
「食欲の……?今も飲んでるんですか?」
「飲んでいますよ。飲まないと、食べ物を眼にした時、自制が効かないので。」
怖過ぎる。本当に、彼女の食欲の向く先が百鬼で良かった。
「百鬼は、人間にとって害ある存在でしょう。しかし、百鬼も百鬼で、各々のか細い自意識を大事に、今を生きている生命でもあります。これを無闇矢鱈と喰い散らすのは、許される行いではない。そういうことです。」
「そう言われると確かに。」
正直、僕は何度も襲われた身だから、百鬼を客観視してどう、とか論じることはほぼできない。
襲わないでくれ、僕は生きたいんだ、としか言えない。
でも、百鬼もまた生命なのだから、人間と同じく喰い荒らされるべきでないのだろう。
「なんというか、空様が百鬼に恐れられる背景がより分かった気がします。」
「私としては、あなた様に知られたくないところなのですが。」
宮畑さんがそのような信条でいる以上、仕方ありませんね、と彼女は静かに微笑む。
うーん、こうして見ている分には優しげで頼りがいのある女性、といった感じなのだが。
「……見つかりませんね。」
「見つかりませんね。」
「全部で何個花が必要なんですか?」
「大体二つか三つ程度でしょう。大きさにもよりますが、大抵この位で一瓶分の調合が行えます。」
「……よーし!ファイト僕たち!」
「ふふ、そうです、こういう時は気力で立ち向かいましょう。」
空様による後押しを受けながら、僕は地図を片手に渓谷の際、山道を行く。
足も疲れてきたけど、そんな弱音は吐いてられない。
僕が、僕自身の為にここへやってきた以上、率先して頑張らなくてはならないのだ。
……でも。でも、一つだけ要望を行うならば。
神様でもなんでも良いから、早く見つけさせて下さい!
*
空と宮畑の去った後、薬剤師の店にて。
やれやれ、困った奴らだ、と溜息を吐きながらカタログを棚へ戻した彼女は、何かを待っているかのように、もう一方の扉を見つめる。
それは、二人が使わなかった方の扉。
普段は彼女のみが開けることを許された、倉庫へ続く、秘密の通路である。
しかし、今日は違った。
「……行ったかの。」
「あぁ、行ったよ。」
「呵呵、恐ろしい女だ。」
「君が言えたことじゃないだろう。」
私の店を勝手に抗争の為に利用しやがって。
毒づく低い声とは裏腹に、彼女の表情はいつもの薬剤師らしく、笑みを浮かべたままである。
「奴のような一匹狼、出自も嗜好も異端児な存在が、百鬼どもの頂点に立っていてはいかんのだよ。それは、貴君も同意であると思っておったが。」
「フ。ま、そうだねぇ。この薬剤師も、空についてはこれ以上なく手を焼いているよ。」
「ならば、この建物の利用は勝手な行いかね?それとも、同意の上での利用かね?」
「はいはい。同意の上でありますよ、大長老閣下。」
「……閣下とまでは呼ばなくて良い。」
杖を突いた中背の老人が、ゆっくりと窓脇の椅子に座った。
「最近知ったんだ。大長老サマ、と単に呼ぶより、閣下を付けた方が現代風でスタイリッシュだろ?」
「現代風を大長老に求めようとするでない。儂らは時代に逆行することを定められた百鬼よ。」
「開き直った愚か者どもの輪には、勝手に加えないで欲しいな。」
「呵呵、減らず口を叩くものよ。」
閉じられた眼を彼は開く。
果たしてそこに、眼球は存在しなかった。当に異形。
「先刻、長老どもとの会議を終えてきたところだ。」
「ふぅん?それで?結果は?」
「すぐにでも、行動に移す。奴が明確な弱点を抱えている今は、千載一遇のチャンスだ。仮に逃せば、向こう数千年、現体制を覆す糸口を失うことになるだろう。」
「百鬼随一の実力者が、向こう数千年、空を打ち倒せないなんてこと有り得るのかい?」
「賢者は、自らの為し得るところを知るものだ。」
「無駄に諦めの良い百鬼を賢者と呼びたくは無いな。」
「では君は、君の言う賢者なのかね?」
「……。」
すとん。ソファのクッションから空気の抜ける音が響く。
「いや。この薬剤師は、愚か者さ。目の前の利益しか見えないような、愚者のテンプレだ。」
「よろしい。この薬を、貴君に与える。」
「ふぅん?」
「薬剤師であれば、説明するまでも無かろう?儂より、貴君の方がずっと噛み砕いた説明を行えるであろう。」
彼女は手にした黄金色の薬品を灯りに当て、何度か傾ける。
「これでどうしろと?」
「儂らはこれから、全力で奴とあの人間を、切り離しにかかる。話によれば明日、鳥取の方へ向かうらしい。」
「金盞花か。」
「そうだ。金盞花……花言葉は、別れの悲しみ、悲嘆、寂寥。皮肉なものよの。」
「二人の結末、或いは空の処遇を指し示しているとでも言うのかい?」
「成功すれば、の話だがの。」
失敗したらどうするのだ、などと、薬剤師が野暮なことを聞くことはない。
その場合、悲嘆するのが空とあの宮畑とかいう人間でなくなるだけの話だ。
「あの人間が、貴君を頼りに来た時。それが、その薬の使い時だ。」
「仮に宮畑くんがこの薬剤師の元に来たとして、そう上手く飲ませられるかねぇ?」
「ウラヌスとやらが、共に来るであろう?」
「そうだろうねぇ、宮畑くんだけでは路を通ってここまで来ることができないから。」
「奴を使え。」
「ウラヌスを?」
「貴君の話術であれば、容易いことであろう。或いは、力づくでも良い。」
「何を言っているんだい、薬剤師はか弱いレディだぞ?力で解決なんて、とてもとても。」
彼女はわざとらしく肩を竦める。
その姿を見て老人は、存在しない眼を瞼で覆い、眉を顰めた。
「そのような物言いをする百鬼で、真にか弱い存在など、見たことが無いのう。」
「ではこの薬剤師が、その第一号というわけだねぇ。」
「むう。」
空気がひりつく。のらりくらりとした薬剤師の物言いは、大いに大長老の神経を逆撫でしていた。
「まぁ良い。ならば、飲ませ方に関しては貴君に任せよう。儂から言うべきことは他に無い。」
「そう。なら、この薬は大事に保管しておくさ。」
「うむ。失くさぬよう。」
「勿論だとも、大長老閣下。」
「貴君は、胡散臭いのだ。故に儂とて、必要以上に念押ししてしまう。もし儂を始めとした長老会が鬱陶しいならば、まずその雰囲気を取り払うことだ。」
「おっと、ご尤もな意見。」
「……では、儂は持ち場に戻る。」
杖が床を一度打つ。
その音は、トンネルに石を投げ込んだかの如く辺りに反響し、そして消え入った。
薬剤師は、その音に耳を済ました後、既に失われた老人の影を見る。
「……うぅん、面倒なことになったねぇ。ま、空が上手く立ち回ってくれればこの薬剤師の出る幕もないんだが……。」
その声音には、彼女としては珍しく、心底つまらなさそうな響きを湛えている。
しかし、彼女の心は、あるものに対する期待を同時に抱えていた。
「フ。面白いことになったねぇ。」
矛盾。聞けば、意味が分からない彼女の語群。
それなのに、薬剤師の中でそれは相反することなく両立しているように見える。
かちり。彼女の合図に合わせて、部屋の電気が落ちた。
*
助けて下さい。
見つかりません。
神様でもなんでも良いとは言ったものの、譲り合わなくて良いんですよ、助けの手たち。
「陽も傾いてきたぁ……。」
僕は、数時間前とは裏腹に、弱音を吐く。
いや仕方ないですよこれは。
「ふふ、しかし、Aポイントで探しきれていない場所は既に絞れてきました。近い内に見つかると思いますよ。」
「凄いですね、空様は。精神力まであるなんて。」
「こういうことは慣れていますから。それに、もし私に精神力があるならば、百鬼を食べ尽くさないよう抑える薬なんて必要ありませんよ。」
だからね。合間合間に挟む台詞がブラックなのよ。
「百鬼が余り居ないことだけが救いです……。」
「現世まで上がってくる百鬼は、特定の場所に溜まっていることが多いですからね。ここはそういった溜まり場では無いのでしょう。」
「それならより安心。」
暗くなると、襲われた時に気付けない、とかあるから怖いんです。
昨夜のだって、街灯と寒気のお陰で気付けたようなものだ。
「この下とか……見ましたっけ?」
「いえ、まだですね。降りる前に崖上の場所を確認しておくべきかと思いまして。」
「それは確かに。……行ってみますか?」
「良いでしょう。」
「ただ……。」
僕は、恐る恐る崖際から下を見つめる。
渓谷である為山肌が急である以前に、深過ぎるのだ。
「ご想像の通りです。私があなた様を抱えて、飛び降りることになります。」
「ですよね……胃がひっくり返る……。」
実のところ僕はジェットコースターが苦手なのである。
「大丈夫ですよ。命だけは助けます。」
「命以外も拾い上げて欲しいです!」
「ふふ。なんというか、極限状態に陥った宮畑さんはより可愛らしいですね。」
そこ褒めるところ違うと思います、空様。
というか、空様の感性に照らし合わせると、僕が酷い目に遭う程彼女を喜ばせることになってそうで余りに恐ろしい。
「うぅ……いや、結局のところ受け入れますけど……。」
「陽が沈んでいく中離れ離れになると再開すること自体困難になります。日中はともかく、今二手に分かれるのは愚策でしょう。」
「仰る通りです……。」
「じゃあ、行きますよ。善は急げです。」
ひょいっと、彼女は僕を抱え上げる。
「まっ、心の準備があああああああ!」
いつかショック死しそう。
「よいしょ。」
地面に穴が空いたんじゃないか、と想像してしまう程の音が響く。
不思議と僕まで衝撃が来ないのは、彼女が腕でクッションのように力を逃がしてくれているからなのだろうか。
高低差数十メートル……僕だったら即死だが、空様にとっては容易ってこと?
「ふぅ……革靴を履いていると踏ん張りが効かないので少し困ります。」
彼女は、失敗した、とでも言いたげに纏わりついた砂埃を払いつつ、僕を穴の向こう側へと下ろした。
想像以上に、しっかり凹みができていたことには眼を瞑ろう。
「じゃあ、なんで革靴とか、スーツパンツとか、トレンチコートはともかくネクタイとか、着けてるんですか?」
「単なる趣味嗜好です。こういったかっちりした服の方が性に合うので。」
「な、成る程ぉ……。」
スーツ集めが趣味の人とか、いるとは聞いたことあるけど、彼女もそのタイプなのだろうか……。
ゆっくり歩き始めつつ、僕は想像を巡らせる。
「いざとなったら、靴は脱ぎますよ。裸足の方がずっとグリップが効くので。」
「それは多分空様だけだと思います……。」
普通靴の方が踏ん張り効くはずなんだよね。だって裸足じゃ痛いもん。
僕だったら血まみれです。
「……あの、宮畑さん。」
「はい?」
「地図をお借りしても?」
「良いですよ。」
もうこの暗さだと僕の視力じゃ見えないし。
「ふぅむ……うん、当たりみたいですね。」
「おっ!」
「この地図は高低差に対する記述が皆無なので非常に分かりにくいですが、今我々はこの辺りにいると思います。」
彼女はその長い指で、地図のある一点を指す。
渓谷で言うと、大体中腹あたりだろうか。
「そして、自生できるような池、沼はもう、残りはこの辺にしかありません。」
「この先、ですか。」
「そうです。木々や岩に隠れて上から全く見えなかったところですね。」
「やったー!」
おぉ、神よ、取らぬ狸の皮算用とは言わないでおくれ。
もう僕の思考は長時間の捜索で麻痺しているのだ。手がかり、もしくは可能性が掴めただけであたかも見つかったかのように舞い上がってしまう。
周囲の草木も、風に煽られて、僕に賛同するように揺れ動いていた。
「えーっと、ほら、あそこに沼が。」
「……見えません、けど。早く行きましょう!」
「はい。」
もうなりふり構わず僕は走る。
彼女は、というと僕に合わせてくれているので、無問題だ。優しいね。
……そして。
「こ、これが……。」
「蓮ですね……それも、先程のものとは違う種類のもの。写真通りの花を咲かせています。」
「良かった……大変だった……。」
総じておよそ、五時間。
僕と空様は、やり切った。
感想を一言で表すなら、辛かった……それに尽きる。
「霊薬の材料探しって本当大変なんですね。」
「そうですね。材料が二桁になってくる霊薬ですと、尚のこと。」
「想像もしたくない……。」
今回はたった三つだけ。あと二つ……と考えると気が滅入るが、それより上があることを鑑みるとまだマシに思える。
「三輪で十分でしょう。摘み取っておきます。」
パチリパチリ。伐採用の鋏でがくより上を摘み取る。
百鬼や人間と同じく、これも生命だと考えると、感謝しないとね。
「入れる袋は、これでしたっけ。」
ウラヌス自家製、皮袋。
水を入れて走っても全く漏れないという触れ込みである。
なんというか、ウラヌスさんって万能だなぁ……。
「はい。その中であれば、私も気にせず走れますから。」
「頑丈なんですね……。」
「今時、現代の物品でもその位ならば容易なことでしょう。」
「時速七〇〇キロメートルに耐えられる袋とは如何に……?」
いやでも、トン級の圧力に耐えられる筆箱とかあるんだっけ。
そう考えると、探せばありそうか。
「さて、これで目的は達成されました。今から帰れば、夕飯の時間に間に合いますね。」
「ここが徳島県って考えると狂いそう。」
「狂わないでください、現実ですよ。」
「というか、道中僕ってどういう風に周りから見えてるんですか?」
空様は人に視えないけど、僕はそうもいかないのだ。
それこそ、寝そべった人間が爆速で移動しているように見えるのでは。
「大丈夫です。見えていませんよ。」
「それは何故……?」
「私の力です。」
「えぇ⁉︎」
「嘘です。見えていますが、人の眼が少ない場所を選んで走っていますから、余りお気になさらず。」
「気にするよぉ!」
監視カメラに映った僕をスローモーションで見てみろ!滑稽過ぎるだろ!
「しかし、路は嫌なのでしょう?」
「むぅ……。」
正直、彼女に抱き抱えられての移動は、そこまで苦じゃなかった。
きつかったのは最初にかかるGくらいのものだ。一度最高速に乗ったら、睡眠導入剤や眠気のお陰もあって寧ろ快適まであったし。
「観念して、睡眠導入剤を飲んでおいてください。私は少し準備運動をしています。」
「はい……。」
そもそも速度以前に七〇〇キロメートル走り切るスタミナがおかしいんだけどまぁ。
もう指摘する意味も無いだろう。
僕は、次々と浮かんでくる疑問を、そういう生き物なんだ空様は、と言い聞かせながら睡眠導入剤と共に飲み込む。
「準備はできましたか?」
「空様はもう良いんですか?」
「はい。身体は伸ばし切ったので。この通り。」
「えっ、凄過ぎる。」
彼女の長〜い右脚がするすると持ち上がって、美しいIの字を形成する。
脚を補助するまでもない、とでも言う風に両手はだらんと垂らしたままだし。
しかもスーツを着ながらそれって……服の方の伸縮性も半端ないぞ。
流石はオーダーメイドだ。
「ということで。抱え上げますよ?」
「はい……。」
さぁ、衝撃に備えろ。
彼女ができる限り逃がしてくれるとはいえ、襲い来るGの大きさは半端無いものになる。
「出発します。一時間後に、また会いましょう。」
「うぅ、ゔっ」
……。
やっぱさ、生身でやって良いことじゃ無いって、これ。
*
アイビー、それは癒しのレストラン。
予想通り大変な一日になった僕を、身体の芯から修復してくれる、そんな場所だ。
僕の好きな料理、僕の好きな本、僕の好きな雰囲気。その全てがここにある。
運ばれてきた料理を前に、僕は目を輝かせた。
ちなみに頼んだものは、カルボナーラです。
「美味しそう……。」
「だろ?夕飯はここで喰うと思ってな、張り切って仕込んでおいたんだぜ。」
「本当、ウラヌスさんってプロ顔負けの腕前ですよね……。」
「ハハッ、そこはプロ顔負けじゃなくて、プロそのものって言ってくんな!」
客はいねぇけどな!と呵々大笑するウラヌスさん。
いやそれ、僕が笑って良いところなのか分からな過ぎます。
「ささ、まぁ食べてくれや。チーズ好きなんだろ?」
「その通りです……。」
表ではこう冷静ぶってるが、心の中ではお祭り騒ぎなくらい、チーズ好きなのが僕である。
ブルーチーズとか、癖あるけど美味しいでしょ?
「はむっ」
くるくる、とパスタをフォークで巻いて、僕は自分の口に放り込む。
「なんだ、いつも空様の食べっぷりを見てるとよぉ、普通の人間ってやつの食べ具合が可愛く見えてくるな……。」
当然である。
量と所作が真反対で、頭がバグりそうになるあの光景は、人間じゃない百鬼だからこそ成り立つ光景なのだ。
「美味しいです。今日もありがとうございます。……それはそれとして、空様がこの場にいなくて良かったですね。」
彼女は現在、入浴中だ。
いたら確実に、笑顔で皮肉を言われていたことだろう。
「大丈夫さ!仮に居たら言い終わる前に俺が胃に収まってるだけだからなぁ!」
「……。」
二度目ですが、その冗談は僕が笑って良いのか分かりません。
「ま、ああ見えて空様は寛容さ。どこぞの寛容を自称するクソ女とはレベルが違う、大器の持ち主だ。俺があの人に従ってる……というか、一方的に敬ってるのは、それが理由でもある。」
「ペナルティとかは関係無く……?」
「あぁ、そのシステム聞いたのか。ま、無関係だな。あれは空様が名目上俺を縛りつける為のものに過ぎない。要は、俺が人を喰わねぇようにするもんだ。仮にそのシステムが俺の現状を表すものならば、寧ろ俺が抱く感情は恨みつらみになるだろう?」
「それはそうですね。」
ここ二日間、今まで出会ったことのない理性的な百鬼にばかり会ってきたから、反動で少しだけ感覚が麻痺していたけど、本来百鬼って人を喰らうものなのだ。
だから、そういう力で押さえつけるような真似をすると、かえって怒りを買ってしまう。
「ま、俺がこうして店を持ててるのは、空様のお陰でもある。そういう意味でも、あの人は恩人さ。」
「無愛想に振る舞ってますけど、その実良い人……いや、良い百鬼、ですもんね。」
「人間の価値観に照らし合わせるのなら、な。」
「……。」
「人間、というか固定的な観念を持つ生命の悪い癖さ。他者、つまり全く違う世界観を持つ存在に対して、自らの観念を当て嵌めようとする。俺ぁ人間側の価値観を持つ百鬼だし、空様もどちらかといえばそっち側。だから、宮畑ちゃんのそういう行いに不快感を抱くことはねぇ。でも、まぁ、嫌がる奴もいるだろう。少しだけ、気をつけておくと良い。」
「そうですね……。」
「百鬼の根底にあるのは強さへの渇望だ。よって、邪魔なら排除すれば良いってやつがわんさかいる。空様みてぇに異端やってられるのは、それだけの力があるからだ。例えば俺みたいな存在がスカした真似したら、一瞬よ。」
「ウラヌスさんはあれなんですか?……えーっと……」
「弱い方なのか、ってことだろ?そうさ。百鬼は特に栄養価の高い、人を喰って強くなるんだから、喰ったことのない俺は下の下の下だ。下下下だな。」
「ごほっごほっ」
気を遣わせてしまったな……と思いつつ、表現の仕方が引っ掛かって僕は少しむせる。
下下下て。
「おっ、おい、ナッツか何かが詰まったか?」
「い、いえ、なんでも……。」
「そうか、砕き足らなかったかと心配したんだが、それは良かった。」
どうやら豊かなナッツ類の香りは、その実ウラヌスさんの努力から来ているらしい。
すり鉢でも使うのかな。
「……ふぅ……。」
「ハハ、いや、俺もちょっと説教じみたこと話ちまったな。」
「いや、もう全然。そういう話も聞いていた方が安全に生きていけますし。何より、今まで恐怖の対象でしかなかった百鬼の世界を知れるのは楽しいですから。」
「おぉ、そうか。それなら俺も話しがいがあるんだが。」
「……。」
「……お前さんと空様の素材収集は、大変な旅になるだろうな。」
「?」
うって変わって、息苦しそうなウラヌスさんの顔。
突然過ぎて僕は少し、困惑する。
「何かあったんですか?」
「いや、予感がな。余り、良い気分がしねぇ。もっと言うと、このまま順当に上手くいくかが心配なんだよなぁ。」
「それは……。」
確かに、そうなのかもしれない。
「なぁ。」
「はい?」
「俺から百鬼について話すのはこのくれぇにしてよ。」
「はい。」
「お前さんのことを、俺に教えてくれよ。今まで、どんな風に生活してたのか、とか。」
「良いですけど……。」
そんなに面白い話ではない。だって、ごく普通な弱虫のお話にしかならないから。
「何が良いんですか?」
「うわぁっ!」
「ひゃっ!」
「?」
そしていつの間にか、空様出現。お風呂上がりだからだろう、昨日と同じように上半身はシャツとネクタイだけになっており、心なしか湯気も上がっている。
そうだ、あんなに運動神経が良いのだから、代謝も半端無いのだろう。
「い、いや……。」
「ウラヌスさんが、僕のことを教えて欲しい、と。なので、これから話すところです。」
「成る程……。ならば私もご一緒しても?もしかすると、これからあなた様の迎える重大な決断に対する助言ができるかもしれません。」
「それは、嬉しいかもです……。」
実はまだ、僕は絶縁の霊薬を飲むかどうか、決めかねているのだ。
いや、正直飲みたい。飲んで、百鬼に追われる恐怖から抜け出したい、と強く思う。
……でも、なんというか、ちょっとした引っ掛かりが無くならないのだ。
それが何なのか僕は理解して、その上で飲みたい。
「いや、待て。」
「ウラヌスさん、どうしたんですか?」
「空様も帰ってきたことだし、俺ぁ空様の注文通り食いもん作りに行かなきゃなんねぇ。残念だが、そういう話をするなら二人でやっててくんな。」
「ふむ?」
空様が片眉を上げる。
当然、そういう反応にもなるだろう。ちょっと、挙動不審だ。
「まぁ、良いでしょう、確かに私は今腹ペコです。至急何かを胃に入れなければ、勢いでウラヌスさんを食べてしまうかも。」
ただ、彼女は、いつもの冗談を交えつつ受け入れるだけだった。
じゃあ僕も聞かないでおこうかな……。
「ハハ、恐ろしいねぇ。まぁ、待っててくれ。十分もあれば全部用意できるさ。」
「よろしくお願いします。」
「おう。」
「……。」
すたすた、と行ってしまった。
エプロンは付けたままだったしすぐ調理に入れるように準備していたのは事実だろうが、どうしたんだろう?
「宮畑さん。」
「はい?」
「余り、詮索しないであげてください。」
笑顔の釘刺し。受け入れるしかあるめぇ。
「ふむ。それにしても。」
「どうしたんですか?」
「一口の大きさが可愛らしいですね。」
「なっ。」
ウラヌスさんと同じことを言われた。
「き、昨日も同じ感じだったじゃ無いですか!」
「昨日も同じことを思っていましたよ?しかし、何分、出会ったばかりでしたからね。口に出すのは控えるべきだろうと思っていました。」
「うぅ……。」
口の近くにまで寄せていたフォークを皿まで戻し、俯く。
なんだろう、嫌な感じはしないんだけどこうして指摘されると、小っ恥ずかしい。
「お気になさらず。食べて大丈夫ですよ?」
「なんだか、食べにくくて。」
「そうですか?しかし、明日は早いですから。活力をつけておいた方が良いですよ?」
そういうことじゃ無いのだ。
「はぁ……まぁ、そうですよね、悪気なんてあるわけ。」
ぱくり。うん、少し冷めてきたけどやっぱり美味しい。
「いえ、悪気はあります。宮畑さんは弄りたくなる可愛さがありますからね。」
「酷い!」
「ふふふ。」
さらっと酷いことを言うのだからこの人は恐ろしい。これが、あの薬剤師と対等に渡り合う人の姿である。
「まぁ、なんでしょう、私の素性をある程度明かした上で、まだ怖がらない存在って意外と少ないんですよ。」
「そうなんですか?」
彼女の瞳に、寂寥の色が映る。いや、彼女の瞳は光を吸収して離さないブラックホールのようだから、感情なんてほぼほぼ読み取れないんだけど、何故か今はどこか寂しげだ。
「百鬼からは無条件で恐れられますしね。人間であろうと、大体この外見や共食いの情報だけで私を恐れ、嫌ってしまいます。まぁ、当然のことですが。」
「それは確かに……?」
共食い、並一通りでない膂力、頭脳、雄大な身体、常に崩れない口調、雰囲気、所作、と彼女に関して情報を並べ立てて出来上がるものは、ただの怪物だもの。
「だから少し、宮畑さんには思い入れがあるんですよ。人間の付き合いの常識で言えば、一日半なんて木っ端に過ぎないでしょうが、私が今まで出会ってきた付き合いで言うと、一日半の友好関係はかなり長い方に当たりますから。」
「……。」
これも、先程ウラヌスさんの言ってた、人間の常識で百鬼を見るのは余り良いことじゃない、ってことなのだろうか。
確かに、僕も、命の恩人である空様にはかなり深い思い入れがあるけれど、彼女もまた、別の方向性で僕へ思い入れがあるらしい。
それは、喜ばしいことだ。
「お互い様ですね!」
「?」
僕は端的に思ったことを述べる。
「僕は、空様に命を救われ、そして今人生そのものまで救われようとしています。だから、前にも言いましたけど、空様は間違いなく僕にとって特別な人になるし、なりました。それで、空様も僕に対して多少の思い入れがある。つまり、お互い様です。」
「……成る程、そういうロジックですか。確かに仰られる通りです。」
彼女の口角が少し上がる。
どうやら今は嬉しいらしい。
「なら、残りの数日を大事にしなくてはなりませんね。あなた様を死なせることは絶対に致しません。確実に守り抜きます。魔除けの方にも、後でもう少し力を込めておきましょう。」
「よろしくお願いします、空様。」
うん、何だか和やかな雰囲気。空様は確かに怖い人だけど、柔和な側面もあるのだ。
「……と、魔除けで思い出したんですけど。」
「はい。」
「今、小指は大丈夫なんですか?」
「もう生えましたよ。」
彼女はそう言って、革手袋を外し、見せつける。
そこには、傷ひとつない、頑丈そうな指が五本――
「???」
「不可解ですか?しかし、そういうものなのです。」
うーん……。
「ハハッ、どうやら怪物染みた空様の再生能力に混乱しているところ申し訳ねぇ!料理が届いたぜ!」
ガラガラとワゴンと共に帰ってきてウラヌスさんも、これには困り顔。
なんというか、昨日の夜時の雰囲気と変わらないなと思いつつ、僕は放置されまになっていたフォークを口に運ぶ。
大量の酒。大量の料理。おまけに、大量の調味料。
うーん、何度見ても壮観だ。
彼女の身体は確かに大きい。だから、彼女の胃もまた大きいのだろうが、これだけの量、空様のどこへと吸い込まれているのだろうか……分かり易くお腹が膨らむわけでもないので、余りに不思議過ぎる。
僕は、自らのお腹を手で摩りながら、最後の一巻きを妄想と共に咀嚼するのだった。
*
電気を落とし、僕はベッドの上に寝転がる。
今が何時かは……よく分からない。家に着くなり異常な倦怠感に襲われた僕は、意識を朦朧とさせながらやっとの思いで入浴を果たし、こうして上がってきたのだ。
肌からは微かに、湯船の温かみが未だ感じられる。悪い気分では無いが……。
「はぁ……。」
今日は、朝に感じていた通り、中々大変な一日だったなぁ、と心の内で静かにぼやく。
いや、まさか、ここまでとは思っていなかったけど。肉体的疲労よりかは寧ろ、精神的疲労の方が大きかったかな。
薬剤師といい、あてもない捜索といい、気を強く持っていないと狂ってしまいそうなことばかり。癒しは、アイビーで料理と共に待っているウラヌスさんくらいだ。
まぁ、今晩のウラヌスさんは、少しばかり挙動不審だったけど。
「すぐ眠れると良いな。」
ぎゅっ、と僕は、数十分前空様に力を充填されたばかりの魔除けを強く握りしめた。
僕自身は百鬼に対してなす術はないけど、こうして守ってくれるものはある。その事実を強く感じさせて貰えるだけで、僕の起伏が激しい感情は、穏やかな波のようになるのだ。
「……ほほう、奴の指か。魔除けとしては、呵呵。これ以上無いものよのう?」
「!?」
びくり、と身体を波打たせうつつ、僕は首が捩じ切れんばかりの勢いで周囲を見回す。
何も。無い?
「姿無き怪物が、言の葉を紡ぐ。あり得ぬことではあるまいて。そも、貴君が百鬼を見えること自体、間違いなのだ。」
「だっ、誰!」
「名乗る程の者では無い。ただ、貴君との会話を楽しみに来た老いぼれに過ぎんよ。」
「そんなの――」
嘘に決まってる。
鍵の掛かっている家の中に入れていること自体おかしいし、人間であればこれ程巧妙に姿を隠すことなんてできない。
そして、この声の主が百鬼だと仮定すると、それは魔除けの障壁を乗り越えるだけの力を持つ百鬼だ、ということになる。
かなりまずい状況だ。
「いや、何、儂の配下を何人か、今晩貴君の周囲に放ったのだが。その尽くがいつの間にやら消息を絶ってしまってのう。ともすれば、儂自身でその原因を掴まねばなるまい。まさか、奴が儂らに対する方策を講じていたとは、思いもせなんだ。流石は黒き炎の君というもの。」
「儂の、配下……?儂らに対する方策……?あなた、何を言って。」
「理解しない方が良い。すれば、貴君に対しても、強行策を取らねばならなくなる。それは互いにとって不利益であろう。」
「……意味が分かりません!」
敵意があるのかないのか。僕をどうする気なのか、あるいは何もしない気なのか。
しわがれた声の為したいことがまるで見えてこない。
「呵呵、既に万策尽きた身で良く吠えるものだ。」
「……。」
「まぁ、良い。今し方言った通り、儂は今日、貴君と言葉を交わす為だけにここへ来たのだ。」
「そ、そんなわけ。」
「それが、あるのだよ。ここで貴君を喰い散らす、或いは貴君を誘拐する。そのような安全策で得られるものを優に越えるようなものが。」
その声は、人を嘲笑うかのように。僕をここで処理するのは安全だ、などと言って退ける。
ここまで馬鹿にされると、恐怖で声を上げるしか脳の無い僕も、段々むかついてきた。
「じゃあ、言ってみてください。」
「貴君、儂に協力しないか?」
「は?」
余りに唐突過ぎる勧誘。僕は言葉を理解するより先に、疑問符を吐き出した。
「そのように突き放した声を出すでない。獣のような生態をしている儂ら百鬼にも、考えというものがあるのだからな。」
「いや、でも。」
「まぁ、聞くが良い。儂らは貴君を保護し、また貴君に並一通りでない感情を寄せている黒き炎の君を処分したいのだ。」
「黒き炎の君……って空様のことですか?」
「呵呵、その通り。成る程、貴君は奴を空様と呼んでいるのか。では、それに倣い儂も今この時のみ空と呼ぶことにしよう。」
「それを、処分って……?」
「貴君は、貴君含めた人間を手当たり次第に喰い散らす上位者をどう思う?」
それは……百鬼のこと?百鬼を上位者と考えるべきなのかは、分からないけれど。
「正直、嫌いですね。そして怖い。今も、ふふ、声が震えてるでしょ?」
ウラヌスさんや空様が、特別僕に優しいだけであって、百鬼は基本的に人を喰らうものだし、見境なんてないのだ。
その大きな口は、慈愛の言葉を投げかけるためではなく、一重に他者を取り込むため存在している。
「儂らにとって、空とはそのような存在だ。」
「……。」
「奴は、百鬼を喰らう。そして、底知れぬ腹を持った大喰らいだ。奴がある程度理性を持った存在として生まれ落ちたから良いものの、奴がそれを放棄すれば儂らとてたまったものではない。端的に言えば、儂らは空を恐怖しているのだ。それも、ただの恐れではない。畏怖だ。儂らは、存在の根幹に食事が存在しているからのう。食事を介して儂らを震え上がらせる奴は文字通り、儂らにとっての上位者なのだ。」
「だから、何だと言うんですか。」
「貴君にも、その気持ちが分かるだろう?と儂は言っておるのだ。故に、協力して欲しい。それ相応の褒賞も、約束する。」
「……具体的には。」
「貴君の捕食を、禁止しよう。さすれば貴君は、その珍しい眼をみすみす失う必要もなく、また過去味わった恐怖に二度と直面することがない。代償に、空とは二度と顔を合わせられなくなるがね。」
「襲われないけど、百鬼は視える……ってことですか……?」
「そういうことだ。大半の百鬼は、貴君を視るだけで正気を失うだろう。しかし、儂らの持つ特権で以って百鬼を統率すれば、貴君を餌でないと認識させられるようになる。今、儂が貴君を前にして冷静さを保てているのが何よりの証拠だ。」
「そ、そんな……でも、僕をこれまで散々襲ってきた百鬼による提案を信じろと?」
「それは、貴君の周囲にいる百鬼と同じであろう。奴らと儂にどんな違いがある。」
ある、あるのだ。
最初、僕は空様のことなんて信じてなかった。百鬼と知った時には逃げ出そうとしたくらいだ……取り押さえられたけど。
しかし、空様は、僕を護ると同時に、薬の製作に協力するという行動で、彼女の言葉が真実であることを証明した。
加えてウラヌスさんも、僕と親身に接すると同時に、短時間とはいえ居場所を与えるという行動で、彼の思いが真実であることを証明した。
でも、声の主は、何を証明した。言葉巧みに用いて、僕の同情を引き出そうとしているだけではないのか。それに――
「僕に、何ができるって言うんですか。その、あなたの言う万策尽きた僕に。」
「呵呵、これは、少し煽りすぎたかのう。明確な敵意が、貴君の言葉の端々から感じられる。」
「当然じゃないですか。僕は、人間です。誰に対しても同じようになんて接せられません。二人には思い入れがあるんです。」
「一朝一夕で築かれただけの関係性であると言うのに?」
「だから、どうした、という話です。」
「ふぅむ。誤算、誤算。まさか、百鬼を心底恨んでいた人間が、これ程短時間で絆されてしまうとは。もう少し、貴君の恨みは強いものだと考えていたのだが。」
「当然、恨みはあります。でも。」
人間に良い悪いがあるのと同じように。僕を襲うことしかしなかった百鬼にも、もしかしたら良い悪いがあるのかもしれない、とここ二日間の経験で感じ始めているのだ。
この仮説が棄却されない限り、僕が無差別に百鬼を恨むことはもうない。
「……人間とは、皆そうなのか?」
「え……?」
突然男が吐き出す、ぼんやりとした疑問。
何が、そうなのかが、分からないけれど……。
「人間とは、皆、それ程までに柔軟なものなのか、と聞いておるのだ。」
「いや、どうでしょう?」
「まぁ、良い。……なれば仕方あるまいな。今日のところはお暇するとしよう。しかし。」
「まだ何か。」
「儂らが提示した褒賞の件、忘れるでないぞ。貴君のその態度。余りに、反抗的過ぎる。魅力的に感じているのだろう?眼を失うことなく、平和な生活を手にできるという未来を。」
「それは……。」
「もし、少しでも儂らを信じてみようという気があるのならば、いつでも申し出ると良い。これから幾度となく、貴君と出会うことになるだろう。貴君が空と共にある限り、儂らとの因縁は終わらないのだからな。」
「……。」
そして、声はすっと消えていった。
もう、不気味なしわがれ声は聞こえてこない。
ただでさえ疲れた、と思っていた一日の最後に、よくもまぁこんなイベントを持ってきてくれたものである。
しかも。
「褒賞、か。」
飲み込まれてしまいそうで、何とか突っ張ったが。
老人には見透かされていたらしい。輝かしく、『都合の良い』未来の自分が頭から離れない。
どうやら十年にも及ぶ恐怖は、僕がこのような逃避に魅力を感じてしまう程強烈なものだったようだ。
僕の為に動いてくれる人を犠牲にするなんて、ダメだ。絶対に。
僕は、邪念を振り払うように布団へ潜る。
小指を握り締めた右手は既に、緊張と震えで汗だくだった。この気持ち悪さは、朝起きてもずっと、続くことになるだろう。
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