空が黒に染まる日は

@rindou_

始まり〜ヴァルプルギス・ナハト

 唐突な告白だが。

 僕は所謂『視える』、否『視えてしまう』タイプの人間だ。

 例えばあなたは、滝壺の奥底であんぐりと口を開けたまま鎮座する大蛙を視たことがあるだろうか。

 或いは例えば、中古品を取り扱う店の片隅で膝を抱えながら人々を睥睨し続ける顔の溶けた老婆を視たことがあるだろうか。

 大半のあなたは、ノーと答えるだろう。

 当然のことだ、もしそのような現象がありふれているのなら、僕が他人との間に壁を感じてしまう理由の説明がつかない。

 それに。

「はぁっ、はぁっ、んっあぁっ、はっ」

 こうして、誰にも助けを求められずただ一人『奴ら』から逃げ惑わなくてはならない理由の説明もつかないのだから。

「あぁっ、もうっ、なんなんだよぉっ!」

 周囲から注がれる好奇の目線を振り払いつつ、僕は必死に両足を転がす。

 背筋から頸にかけて走る、冷たい感触。

 それは、僕を追ってきている存在が間違いなく幽世の存在であることを示していた。

 故に視認することなど、僕以外の人間には叶わないのだ……もし追っ手の存在を認識できないのなら、発狂手前の様相で走る僕の姿はさぞかし滑稽で、奇妙であったろう。

「ひっ」

 よせば良いのに、敵との距離を押し測るべく僕は後ろを振り向いた。

 そして、否が応にも、『それ』の姿を僕の眼が過たず捉える。

 今回、『それ』は髪の長い女性の姿を取っていた。裸、と表現するのは些かオーバーかもしれないが、それに近いほど露出度の高い格好――恐らくは布一枚を巻いただけ――という外見はある意味化け物らしい。

 だがそれ以上に、彼女の眼球と耳を劈くような叫声。これらが、僕の恐怖心を奥底から巧みに煽る。

 数分前『それ』に出会うまでには確かに存在していた、通常人間に備わる程度の思考力や冷静さ、といったものはとうに失われた。代わりに、クエスチョンマークが僕の脳全体を覆い尽くす……つまりは、なぜ僕がこんな目に遭わなければならないのか、と。

「いやだっ、いやっっ、し、しにっ」

 不運というべきか、努力不足というべきか。

 ただでさえ平均以下な僕の体力は、とうに底を付いていた。

 形だけでも走っているように見えるよう腕と脚はバタバタと動かしているがその実、もう速度が出ていない。これなら早歩きの方がマシであろうというもの。横目で僕を確認しつつキビキビと追い越していく、スーツ姿の男の背中。何か可哀想なものを見るような目つきで僕を凝視しながら、これまた自転車で追い越していく中年の女性。元気そうに走り去る小学生の集団。今、そうやって動き回れるだけの体力を持つ全ての存在が恨めしい。

「たくないっ!」

 死にたくない、死にたくない。

 一つのワードが疑問符の上に降り立ちそして、あっという間にか細い思考をジャックする。今、僕はどんな顔をしているのだろう。

 こうやって人知れずよく分からないものに追い回されて、誰にも助けて貰えないまま衰弱しようとしている僕は――

「ひゃっ」

「……。」

 どかり。

 僕は何か、大きなものに正面からぶつかるような衝撃を感じ、そのまま後ろに倒れる。

 電信柱だろうか。はたまた、道端のポスト?

 なんにせよ、疲労困憊の中、倒れ込んでしまった。立ち上がる気力すら湧かない。

 代わりに僕の思考は、眼に精力を集めて、前に何があったのか視認しようと躍起になっていた。

「失礼致しました。お怪我は?」

 真っ先に僕が視認したのは、視界を覆うように広がっている漆黒のトレンチコート、スーツともタキシードとも形容し難い様相の燕尾服、ネクタイ、革手袋。

そして、大切に手入れしているのであろう、ピカピカに磨かれた焦茶色の革靴。

まるでその姿は、これから貴族たちのパーティに向かう高官のようだった。まさか、この現代日本にそのような格好で出歩く人間が存在するとは。変人……と形容するべきなのだろう。

 ともかく、その人は、まごまごしたまま震えている僕を見かねたのか、表情ひとつ変えずに片膝をついた。

「大丈夫ですか?頭は打っていないように見受けられましたが。何分、勢い良く尻餅をつかれましたからね……差し支えなければこの手をお取り下さい。私が立ち上がる手助けを致しましょう。」

 その長身に見合った大きな手が、丁寧な所作で差し出される。

 整った顔立ちを見るに、声は低めだが女性であるようだ。

「あ、ありがとう、ございま……はっ!?」

 そして僕はふと、今どんな状況であったのかを思い出して、勢い良く後ろを振り向いた。

 が、しかし……。

「何も居られないようですが、何か?」

 あの気味の悪い女は、既に影も形もなかった。

「あ、あぁ……。」

 安心感のあまり、僕はその場にへたり込む。

「かなり必死なご様子でしたね。何かに追われていたのですか?」

「かみの、ながい、おんなのひとにぃ……。」

 そうそれは、自分以外の人間は視認できない狂気の産物。

 僕がこうやって口に出したところで誰も助け出すことはできない。得られるのは、『辛いことを共有した』という一時の落ち着きのみである。

「……ふむ、成る程。失礼ながら、少しお時間をいただけませんか?」

「えっ、それは」

「お話を聞きたいだけです。手荒なことは致しません、お時間が無いようでしたら、それで大丈夫ですよ。」

「……。」

 僕はここで、断った場合自分はこれからどうするのかを想像した。

 時刻は二十時を過ぎたくらい。

 陽はとうに落ち、もうやることと言えば、一人寂しく、人っ気の感じられない自宅へと戻るだけである。

その途中でまた、同じような化け物に見つかり、追われ、体力尽き果てたところを狙われたとしたら?

「ど、どれくらいかかりますか?」

「そうですね、あなた様にしていただく話の長さにもよりますが、今日中にはお返しできるでしょう。」

「分かりました――」

 僕が落ち着くまで誰かが、一緒にいてくれるというだけで有り難かった。

「ご一緒します、させてください。」

「ええ、悪いようには致しませんよ。」

 危機管理能力がなってない、とか。

 知らない人の甘い提案にホイホイついていくなんて危ない、とか。

 そう言う人もいるだろう。

 でも分かって欲しい。今、僕の心身両方にとって最も危ないのは、一人でいることなんだ。

 友達も、終電までに会える家族も、ましてや気心知れた大人なんて存在しないんだから、僕にそれを解消する術はない。

 彼女の持ちかけた話は、そんな現状を数時間だけでも打開できる千載一遇のチャンスだったのだ。

 そうして僕が連れてこられたのは、先程必死に走っていた道から十分程度歩いたところにある、都市部のレストランだった。外の看板には煌びやかなネオンで『アイビー』と象られている。

恐らくはこのお店の名前が、『アイビー』ということなのだろう。

「おっ、暫くぶりだねぇ空様。……ってなんだ、今日は連れも一緒か?」

「そら、さま?」

 僕は思わず、聞きなれない単語に反応してしまう。

「あぁ、それは私のことです。『空』は名前の一部なのですが、皆してフルネームではなく、そのように呼んでいるのです。」

「だって、アンタの本名は言霊が強過ぎるからな。そう易々と呼べる代物じゃあないよ。」

 こうやって周囲を気にせず知り合いと会話できている辺り、彼はこのレストランの中でもある程度の地位を持っている人間なのだろうか。

 無精髭を生やし、サングラスをかけている……と表現するとどこか強面の中年男性らしさが出てくるが、その実エプロンをかけており、寧ろ愛嬌のある男性である。

 声もどちらかと言えば高めで、ノリの良さそうな人だ。

「そう茶化さないでください。私がここに来た以上、分かっているでしょう?」

「フフ、相変わらずつれない人だな、空様は。まぁ分かった、見ての通り今日はいつにも増してガラガラでな、そうなるんじゃないかとも思ってたんだ。準備はもう既にしてあるよ。」

「いつもすみませんね。」

「分かっているだろう、と威圧したかと思えばそうやって感謝は欠かさないんだからなぁ。どちらかだけなら好むなり憎むなりし易いのに。」

「単一的な感情は毒ですよ?」

「へいへい。」

 うーん、なんというか気心知れた相手同士の会話といったご様子。

 それに、これからどうするのかも全く分からない。

「んじゃあ、先に始めててくれ。俺ぁ外の看板の電気切ってくる。それに、場合によってはクソ女のところにも行くんだろう?」

「……まぁ、そうですね。」

「なら、『お通し』も用意しておかなくちゃあな。」

「お願いしても良いですか?」

「言われずとも。」

「ありがとうございます。」

 ふらふら、と手を振りながら扉を開けて外へ行く無精髭の男性。

 成る程どうやら、もうお店は閉めて彼女の、空様の、貸切にしてしまうようだ。

 僕のせいだと考えると、少し申し訳ない気持ちになってくる。

「ふぅ。さて、少し奥の方の机を使いましょうか、入り口付近は寒いですからね。」

「失礼します……。」

「そう畏まらずとも大丈夫ですよ。私は上着を脱いでから座りますので、先におかけになってお待ちください。」

「はい。」

 木目の映えた、少し高級そうな椅子に浅く腰掛けつつ、僕は彼女を観察する。

 ここにくるまでの道程でもある程度彼女の姿を視てはいたが……やはり、電気に照らされての姿となると印象も大きく違う。

 特に、彼女の身体の大きさには目を見張るものがあった。

 今までは暗い中でよく見えなかったり、外套を羽織っていて輪郭がぼんやりしていたり、と気付かなかったが、こんなに身長が高いなんて。

 そりゃあ、一六〇あるかないかくらいの僕がぶつかったくらいじゃびくともしないし、寧ろ僕の方が吹っ飛んでしまうというものだ。

「私が気になりますか?」

 トレンチコートをハンガーにかけ終わった彼女は、中に着ていた燕尾服の裾とネクタイを整えつつ、そう問いかけた。

 僕の視線があからさま過ぎたのだろうか。

「い、いえ、すみません。」

「こちらこそ、不躾な質問を。いえ、私のことが気になるのは問題ありません。初対面な上、あなた方の常識で考えれば、女性がこのような図体でいることは、疑問でしかないでしょう。」

「何か、理由があるんですか?」

「すぐにお答えすることはできません。が、すぐにその理由を察することはできると思いますよ。」

「?」

「さて……と、お待たせ致しました。まず、今日は私の為に時間を割いていただいたことに感謝致します。」

「いえいえ、そんな……。」

 まだ目的も分かってないし。

「ふむ、では本題に入る前に自己紹介を。私の名前は空――」

「……どうしたんですか?」

 名前の途中で言い淀む彼女を前に、思わず僕は疑問を呈する。

 そう言えばさっき、言霊が強過ぎるとかどうとか言ってたっけ……?

「いえ、そうですね、では私のことは『空』とでも呼んでくだされば。」

「それは、さっき話してたことが理由ですか?」

「はい。自らは本名を明かさず、しかし相手には名前を聞く、という蛮行をお許しください。それ程までに、軽々しく口にしてはいけないものなのです。言葉には、特に名前には、強い思念が宿るものですから。」

「そうなん、ですね。」

 民俗学で研究されていそうな話だ。

「じゃあ僕も空様って呼ぶことにします。」

「分かりました。空様呼びの知人がこれで増えましたね。……では、貴方様の方のお名前をお聞きしてもよろしいですか?」

「僕は宮畑優と言います。宮殿の宮に、畑、で『みやはた』、それに優しいと書いて『ゆう』、です。」

「ふふ、名前通りの優しく丁寧な自己紹介、ありがとうございます。宮畑さん、とお呼びしても?」

「は、はい。」

「では、そのように。」

 ギィ、と彼女の座る椅子が悲鳴をあげる。

 少し、背もたれに寄りかかったのだろう。

「ふむ……。」

「何か?」

「いえ、名前の漢字から少し推察を行なっていただけです。これから話す本題に関して、大きく影響することですから。」

「あの、その本題ってなんなんですか?確か僕はまだ、話を聞く、としか聞いていないのですが。」

「ええまぁ、今日やることは本当に、話を聞くだけなんです。」

「それだけなのにそんな物々しい雰囲気を……?」

「……。物々しかったですか?」

 空様は、ふと、意外そうに表情を崩す。

 この感じが通常営業、ということなのかもしれない。必要以上に丁寧な物腰や言動は、僕の感性からすると少し大袈裟に見えるのだが……。

「まぁ空様はいつでも物々しいからなぁ!」

 そんな僕たちの会話が面白かったのか、笑いながら茶々を加えるスタッフの男性。

 というか、いつの間に帰ってきていたんだ。

「……後で彼にはペナルティですね。」

「……。」

 一瞬、彼女の眼光が見たことないくらい鋭くなった気がした。気のせいと思いたい。

「ちなみに彼の名は、ウラヌス。お好きなように呼んであげてください。」

「う、ウラヌス?」

「あぁ、かのウラヌス神とは無関係ですよ。先程名前は重要と申し上げましたが……まぁ、私程扱いに困るものはそうありません。」

「そこまでのものなんですね、空様のは。」

「はい。……まぁ、脇道に逸れるのはこの辺りにしておきましょう。本題です。」

 少し綻んでいた彼女の顔が元の、真顔に戻る。

 なぜ彼女の顔はこんなにも凛々しく整っているのに、必要以上の重みを感じてしまうのだろう――

「宮畑さん、あなた様は我々が視えていますね?」

「は?」

 などと。

 無関係なことを考えていた脳に、巨大な衝撃が走る。

 そんな、たった一言で他者の核にこれほどまでのダメージを与えることができるなんて。

 我々が、視えている、だと?

「そ、そんな、まるで普通は視えないみたいな言い方」

「視えません。だから、あなた様をここに呼び寄せたのです。」

「……う、嘘だ、そんなことあり得ない、こんなふうに会話できているのに。」

「会話の可能、不可能は幽世の生命を見分けるのに効果的ではありませんよ。仮に、宮畑さんが今まで出会った化け物の全てが、このように会話することのできないものだったのだとしても。」

「そんな……。」

 僕の頭の中はすぅっと真っ白になった。

 寂しさを紛らせる為の同行、精神を落ち着かせる為の時間だったはずなのに。

「か、帰ります!」

 ガタリ。

 大きな音を立てながら椅子が後ろに倒れる。

 これは紛れもない現実逃避だ。こうして会話している相手がまさか、そういう存在だった、なんて全く信じたくないのだ。

 奴らはこの十年程度の間、ひっきりなしに僕を襲い、殺そうとしてきた。こうなった以上僕にはもう、目の前の彼女が人喰いの怪物にしか視えない。

「……。」

 そんな僕を前に黙りこくる空様。

 その沈黙すら、心の底から恐ろしい。

「ふふ。」

 そして次の瞬間、口を開いた彼女から漏れ出したのは氷河の奥底より響き渡ったかのような冷笑だった。思わず背筋が凍り、指先が震える。

「凡百の同胞たちのように、私があなた様のような人間を喰らうことはありません。これは、宮畑さんが信じようと、信じなかろうと、揺るがぬ事実です。しかし……」

「ひっ。」

 彼女がぬっと僕の方へ顔を寄せる。

 二メートルを優に越える空さんにとって、机越しに僕の肩へ手を乗せることなど容易いことなのだろう。

「先程の『彼女』のように……いえ、更に言えば今まで宮畑さんを追い回してきた同胞たちのように標的を逃すことも、絶対にない。それが、私です。お分かりいただけますか?」

「あ、あ。」

 腑から声が漏れる。

 恐怖、畏怖、そういったものが絡み合った、叫びにもならない悲鳴が。

 僕の肩を掴む彼女の手はその実、傷つけないように、という優しさの感じられるものであった……が、それ以上に、奴らと同類の生命がこうして目の前にいること。この事実が僕にはどうしても耐えられないものだったのだ。

「さぁ、お座りください。」

「は、はひ……。」

「……しかし、そのように混乱させてしまった以上、すぐにお話を伺うわけにもいきませんね。少し私は席を外しましょう。」

 あのように威圧し、最早脚が言うことを聞かない程の状態にしておきながら、一転してこちらを気遣うような行動を取る空さん。

 それなら最初から優しく接してくれれば良いのに。眼の端から恐怖のあまり、一筋涙が溢れる。

「ウラヌスさん、少しお願いできますか?」

「あーん?」

「宮畑さん。」

「っ!」

「そう、怖がらないでください。ホットココアはお嫌いですか?」

「……。」

 ホットココア。深呼吸して心を落ち着かせるには、もってこいだろう。

 でも、こんな場所で戴いて良いものか――

「黄泉竈食ひが心配ですか?もしそうであるならば、我々が本来住まう幽世のことを良くご存知なんですね。」

 よもつへぐひ。化け物たちの住まう幽世の食べ物を一度食べたら、もう幽世から現世に戻ることはできなくなる、というひとつの決まりだ。

 日本を始めとして多くの地域に伝承として残る、あの世とこの世の関係性に纏わる有名なエピソードであるが、どうやら本当のことだったらしい。

「しかしご安心ください。ここは現世、人の理が支配的な人の世界です。故に、我々のような存在が作ったものであろうと、あなた様が口にしたところで幽世に引き摺り込まれることはありません。」

「で、でも。」

「はい。それでも、と言うのでしたら、無理強いは致しません。私が目的とするところは、精神を落ち着かせたあなた様と対話を行うことですので。それが叶えば、家まで護衛の上でお送り致します。」

「……。」

「それでは。……ウラヌスさん、ホットココアを彼女に。私は軽く湯浴みをして参ります。」

「はいよ!十分程度か?」

「まぁそのくらいですかね。お風呂、借りますよ。」

 椅子を軋ませながら彼女はゆったりと立ち上がる。

 普段ならば、所作の丁寧な燕尾服の女性、ともなれば憧れの一つや二つ抱いたことだろうが、今はそんな場合じゃない。

 逃げられない、逃がして貰えない、ということを一瞬の眼力で、言葉で、分からされてしまった。

 ならばもう、観念して人ならざる彼女の目的に付き合うしかない。

 そして、それを迅速に終えるには、ある程度の思考力を取り戻さなくてはならないだろう。

 どうしよう。ホットココアを、飲むべきなのだろうか。それが僕の想像する通りのものであるならば、精神を落ち着かせるのに一役買ってくれるだろうが……。

「ほい、お待たせ。当店自慢のホットココアだよ。」

「あ、ありがとう、ございます……。」

「ふぅむ……お前さん、宮畑っていうんだよな。隣、良いかい?」

「!?」

 答えるより先に、彼が、ウラヌスさんが僕の隣の空き椅子に腰を下ろす。

 ……こうして近くで見ても、人間と全く違いが分からない。

 もしかして、今まで街中ですれ違ってきた中には、ウラヌスさんや空さんのような人間態の化け物が存在していたのだろうか?

「誰もお前さんには説明してくれなかっただろうから、少し俺たち幽世の生命について話しても良いか?理解が深まれば恐怖心も多少薄まると思うし、奴の、空様の話にも答えやすくなると思うんだ。」

「……。」

「無口な子だなぁ。別に、取って食ったりはしないぜ?これでも、血生臭くない生き方、要はこの『アイビー』で料理を振る舞って人様を楽しませる生き方ってのに俺ぁ誇り持ってんだ。今更捨てようなんてこれっぽっちも思わねぇよ。」

「……教えて、ください。」

 空さんはどこか重たく、とっつきにくい雰囲気だが、ウラヌスさんは打って変わって話し易いオーラが強く漂っている。

 今こうして心を閉ざしがちな僕でも、この人となら、と感じてしまった。

「フッ、あいよ。まず俺たちの総称だが、俺たちは自分のことを『百鬼』と呼んでる。百鬼夜行って言葉があるだろ?あれと同じさ、無数の、夥しい数の、悪鬼羅刹、その集まりってことだな。」

「百鬼……。」

「そう、百鬼。まぁ俺たちの悪辣さ、といってもそれは人間の価値観に合わせて俺たちを見た場合の評価なんだが、説明する必要はないだろう。こればっかりは襲う側より襲われる側の方がずっと理解できていることだ。」

「そう、ですね。」

 蘇る悪夢の数々。

 老婆、大蛙、髪の長い女、一つ目の大樹、八本脚の駿馬、不定形の黒い靄。

 奴らは、百鬼は、様々な形をとって僕に襲いかかった。

「んで、だ。百鬼の中でも逸れ物、悪く言えば腫れ物扱いなのがあいつ、空様だ。」

「あの人が……?」

「あの人が、だ。まぁ雰囲気からして何かしら凄い女感があるだろ?黒いトレンチコート、黒いベストに白のシャツ、紺のネクタイ、黒のスーツパンツ。百鬼が普通身に纏うような服装じゃあない。お前からしたらぼんやりと『かっこいい人』くらいのイメージだったかもしれないが、あんなにきっちり着込んでるのは相当の物好きである証左さ。」

「確かに?」

 そういった服を着た化け物は見たことないかも。

 だからこそ、彼女を人間と信じて、人間と少しでも一緒にいられると思って、ここまでついてきてしまったのだが。

「そういう格好してる百鬼が理性の欠けた叫び声を上げながらお前を追いかける、なんてまぁ想定することすら難しい状況だ。まずあり得ない。それに、さっきお前さんを追いかけてたとかいう、髪の長い女?あいつは空様が追い払ったんだぜ?」

「えっ、そうなんですか。」

「まぁ気が付かないよな。奴は人に恩を売るのが嫌いなんだ、だからこうやって助け出したんだとしてもまず口に出さない。でもまさか、お前さんを追いかけてた百鬼がいなくなったのが、『偶然』だったなんて思わないだろ?」

「……。」

 あの時はあまりに必死で、なぜ消えたのか、よりも消えたという純然たる事実に舞い上がってしまっていたが。そう言われると確かに、あのタイミングでいなくなったのが偶然には思えない。

 しかしどうやって……?

「簡単なことだ。あいつは百鬼でありながら、百鬼を喰うんだよ。」

「とっ共喰い!?」

「恐ろしいだろ?お前さんらの価値観で言えば、あの人は人間でありながら人間を喰う、狂人さ。カニバリズム、って言うんだったかな、どこかの本だか映画だかで見たが。」

「映画見るんですか?」

「映画館にも行くぞ?まぁ人間が視認できない関係上席が取れないんで、シアター内の階段に座るか、空き席に座るかするしか無いんだけどな。いつか、ポップコーンを食いながら人間に混じって映画を見てみたいもんだ。」

「凄く人間みたいな欲求を百鬼も持ってるんですね……。」

「うまいもんをうまいと感じる。面白いもんを面白いと感じる。人間の世界で生きていれば当然、それらしい価値観を獲得するさ。逆も然り、だがな。俺はある意味、運が良かった。だからこそ、お前とこうやって理性的に会話できている。」

「それは、空さんも?」

「いやぁ……どうだろうな、空様は育ちがどう、環境がどう、とかいう要素以前に、先天的なイレギュラーが多過ぎる。ああやって丁寧な所作でいるのは、余りにも強靭な理性を持っているというだけなのかもしれない。それに、空様は常に理性の塊みたいな振る舞いでいるわけではないんだぜ?」

「想像すらしたくないです……先程凄まれてから、ずっと脚が言うことを聞かなくて。」

「ハハハ、あれは側から見てるだけの俺でも少しチビったからなぁ。泣き出さなかっただけ偉いぜ、本当。俺だったら泣き喚いてるな!」

「……。」

 涙は流したが。まぁ、指摘する必要もない……かな。

「ってな感じかな。まぁ、そんな込み入ったことを話すつもりじゃなかったし。俺や空様がお前を喰おうとする大半の百鬼たちと同じではないことを少し分かって貰えれば十分だ。」

「少しだけ、安心しました。」

「そうか。……じゃあまぁ、どうにか落ち着いて、空様の質問にも答えてやってくれ。重苦しい人ではあるが、その実お前さんに対しての行動は善意に溢れているはずだ。」

「ありがとうございます。頑張ってみます。」

「おう。」

 ウラヌスさんはそう言いつつ無精髭を撫でると、ゆっくり椅子から立ち上がった。

「空様が風呂に入ってから大体十分。まぁ、もうそろそろ帰ってくる頃合いだろう。」

「お風呂にしては早いんですね。」

「人間とはまた違うからな。そういうものなんだ。……ホットココアはまぁ、無理せず、飲みたいと思った時に飲んでくれ。一応冷めてから飲んでも美味しいように淹れてある。あと、そこの本棚には今話題の新書も入ってる。気になったものがあれば、手に取ってくれていいぞ。」

「気遣わせてしまって。すみません。」

「こちらこそ、半ば騙すような形でここに連れてくることになった非礼は詫びなきゃな。空様も後々頭下げるだろうが、そうなるまでの鬱憤はこの店の待遇で晴らしておいてくれ。」

「はい。」

 僕はそして、目の前に置かれた、湯気たつホットココアに手を伸ばした。

 香り高く、甘い匂いが僕の鼻を席巻する。

 そして、一口。

「……美味しい。」

「そうか。それは良かった。その言葉は、料理人として一番求めてる言葉だぜ。幸せを、お裾分けして貰っちゃったなぁ?」

 ハハハ、と僕とウラヌスさんは笑い合う。

 とろけるような甘味と共に、僕のがんじがらめになった警戒心もとろかされてしまった、そんなひと時であった。

「お待たせ致しました。……先ほどよりずっと、表情が柔らかいですね?」

 そう言う空さんは、先ほどの厚着とはうって変わった薄着。

 下にスーツパンツを履いていることに関しては変わりないが、数枚着込んでいた上半身はずっとスッキリして、シャツとネクタイだけになっていた。分かり易い形で彼女の恵体が顕になっている。

「百鬼は……空さんのように身体の大きい人が多いんですか?」

「ふぅ……その名称を知っているということは、ウラヌスさんが一役買って出てくれたようで。先ほどのペナルティはチャラということに致しましょう。いえ、そういうわけではありません、私は、私だから、このような身体付きなのです。お陰で、服を作るのには多少苦労します。」

「自作なんですか?」

「いえ、素材となるものは自ら調達しましたが、加工は懇意にしている職人に。……とまぁ、私の服装の話については後回しに致しましょう。ただ、雑談をするだけの余裕があなた様に生まれたことは、喜ばしいことです。……ウラヌスさん!」

「あーい?」

「私にホットコーヒーをお願いします。」

「あいよ!」

 どうやら空さんはココアよりコーヒーをお好みらしい。

 なんというか、雰囲気や性格に合った趣味嗜好だな、と感じる。

「さて、では、中途で途切れてしまった本題についてです。」

「……はい。」

「あなた様は私を始めとした化け物たち、百鬼を視認することができる。そうですね?」

「その、通りです。」

 こめかみを汗が伝う。

 先程ココアを飲んだばかりにも関わらず乾き切った喉には、唾がじわりと広がっていった。

「ふふ。」

 彼女はホットコーヒーを受け取り、一口啜ってから、一転して柔和な笑顔を浮かべる。

「その一言を絞り出すこと自体、宮畑さんにとっては難しかったことでしょう。無理強いして申し訳ありません。」

「いえ、今は大丈夫です。僕が百鬼を怖がっていた理由はひとえに――」

 それは僕を喰おうとする存在。そういった固定観念が根深く存在していたからだ。

「つまり、私は人を食べないということを既に知っていると?」

「はい。」

「……なるほど。余り口外したくない事実なのですが、彼が漏らしてしまったようですね。もしくは、宮畑さんには言うべきだと彼が判断したのか。ともあれ、それならば話が早いというもの。」

「それはどういう意味で……?」

「私は、百鬼でありながら百鬼を喰らう。はい、それは宮畑さんの知っている通りです。」

 ふと、彼女の瞳の奥に昏い影が揺らめく。

 なんだろう。恐ろしくはあるが、どちらかというと『畏れ』に近い感情が沸々と湧いてくる。捕食者の瞳、もしくは支配者の瞳、というか。

「しかし、凡百の百鬼たちは、人間を捕食します。これは何故かというと、この星に存在する生命の中で最も栄養価の高い存在だからです。」

「ぼ、僕たちが!?」

「そうです。あなた方も、生きていく上で摂取する栄養を気にするでしょう?我々百鬼も同じです。あなた方が動物や植物を口にするように、百鬼もまた生きる為に必要な栄養分を人間の捕食を通じて摂取する。更に言えば、より強大な百鬼になる為に、人間を喰らっているわけですね。」

「で、でも。今日僕が襲われた時は、周りに沢山人間がいました。今までもそうです、何度もそういうシチュエーションに遭遇してます。なのに何故僕なんですか?他の人を襲えとまでは言いませんが……僕だけが真っ先に標的になり、こうして追われるのは不自然だと思います。」

 なんだったら、人間だらけの観光地で百鬼に出くわしたこともある。

 それなのにいつも、僕だけが狙われるのだ。奴らは毎度、他の人に見向きもしない。

「はい、それについても理由があります。マタタビというものはご存知ですか?」

「知ってますけど……それと僕に何の関係が?」

 猫じゃあるまいし。

「あなた様は、百鬼にとってのマタタビなのです。」

「へ?」

 ……猫じゃ、あるまいし。

「いえ、少し言い方が悪かったかもしれません。百鬼を視認できる能力。それを持つ人間は特に、栄養価が高く、かつ吸収効率が良いのです。恐らく、元より百鬼に通じる何かを持っているからなのでしょう。よって、百鬼たちにとってあなた様は何よりのご馳走なのです。言うなれば、あなた方にとってのプロテインのようなものでしょうね。それも、とびきり味の良い。」

 余り人間の食べ物には詳しくありませんので、例示が分かりにくいかもしれません、とはにかむ空さん。

 いや、いやいや。そんなこと気にしてる場合じゃない。

「そんな……僕が、百鬼の大好物だったなんて。」

「しかも、我々百鬼は、三大欲求の内食欲が特に強いのです。喰らって、より強くなる、それが幽世の生命のアイデンティティ。そういった存在にとって、あなた様のような存在は、人間の想像をはるかに凌駕する程魅力的に映るのでしょう。」

「映るのでしょう、って随分他人事な言い方なんですね……ウラヌスさんもさっき、育ちが普通の百鬼とは違ったから人間を食べようなんて思わないって言ってましたけど、空さんもそういう感じなんですか?」

「いえ、私は既に強大なので。これ以上強くなる為、泣き叫びながら生きたいと願うあなた様のような存在を害そうとは思わないだけです。」

「……。」

 傲慢オブ傲慢な回答。こんなに遜った態度を取る空さんからは想像もつかない言葉である。

 いや、ウラヌスさんに空様と呼ばせている事実や、外見から想像した彼女の内面にはビタッとハマるのだが。

「それに、人間にも存在するでしょう?異端児、もしくは狂人と呼ばれるタイプの、通常とはまた違った価値観を持つ存在が。私はある意味、百鬼のカテゴリにおいて、そちら側の生命です。」

「カニバリズム……。」

「食人嗜好、でしたか?はい、百鬼の眼に映る私とは、そのような存在です。百鬼を喰らうことの何が楽しいのか、と問われればその百鬼が生み出した殺戮、悲劇、終焉を味わうことが無上の幸福なのだ、と私は答えます。」

 ……成る程これは、他の百鬼たちに忌み嫌われるわけだ。

 百鬼に襲われ続ける側だった僕でさえ、その言葉には戦慄を禁じ得ない。

「……少し酷いことを言ってもいいですか?」

「はい。」

「狂って、いますね。」

「よく言われます。まぁ、そういうわけで。私は百鬼としてどこかおかしいわけです。だから、仲間に乏しい。明確に友人と言える存在は五本指にも満たないでしょう。あそこでお皿を拭いている彼は、数少ないその内の一人です。」

「おっと突然友人呼ばわりされちゃあ俺も照れるぜ?」

 泡だらけの手で後頭部をカリカリするウラヌスさん。

 静かな狂人である空さんとは、正反対の愛嬌あるおじさんである。

「そしてそうなると、あなた様のような人間を全員、百鬼からお守りすることは不可能に近いわけです。我々が視える人間は一世代に一人いるか、いないか、くらいの割合ですし、その上で、あなた様のような年齢にまで成長できる者はより限られますから。」

「成長したかどうかも襲われ易さに関係するんですか?」

「思い返してみてください。初めてあなた様が百鬼に襲われたのは、いつくらいのことでしたか?」

「……。」

 夥しい回数襲われてきたからパッと思い返すのは難しいが……大体小学校高学年くらいから……?

「当てて見せましょうか?」

「……良いですよ。」

「恐らくは、十歳の誕生日を迎えてより数ヶ月経ったくらいでしょう?」

 大体、当たりである。

「人間も、家畜は赤子からある程度育てた状態で出荷しますよね?それと同じです。人間にも食べ頃というものが存在しており、特に、あなた様のような能力を持つ人間に対しては、百鬼たちの間で暗黙の了解が共有されています。曰く、元服を迎える直前から子供を儲けるまでの間に捕食するのだ、と。」

「僕は食べ頃真っ盛りなんですね。」

「その言葉遣いが正しいのかは不明ですが、仰る通りです。今は最も狙われ易い時期に当たるでしょう。」

「じゃあ……。」

 段々と、空さんの目的が見えてきた。

「僕をここに呼んだのは、正にそういった珍しいタイプの人間を眼にしたから?」

「概ねその通り。私は百鬼を捕食します。食事とは円滑かつ簡潔に済ませるもの故に、百鬼に強くあられると少々面倒なのです。」

 つまり、僕を野放しにしておくと、遅かれ早かれ何かしらの百鬼に喰われかねない。

 そして、僕のような人間を食べた百鬼は、大幅に強大化してしまうから、いざ空さんが捕食するとなった時にそういった百鬼は邪魔になる、と?

「その話が本当だとして。」

「はい。」

「僕をどうするつもりなんですか?」

「では、簡潔に。その能力を捨てる気はありませんか?」

「え。」

 それは、どういう…。

「困惑されるのも当然です。しかし、今までの長い前置きはこの提案を深く理解して貰う為のもの。」

「そんなことができるんですか?」

「はい。今すぐに、とはいきませんが、あなた様が承諾し次第すぐ行動に移せば、数日の内にことが済むでしょう。私にとっては餌の強大化を防げるというメリットが、あなた様にとってはこれ以上百鬼を見ることも、襲われることも殆ど無くなるというメリットがあるわけですね。」

「殆ど?」

「はい。優先的に狙われなくなる、というだけで、人間誰しも百鬼に捕食される可能性を孕んでいますから。しかし、少なくともそれらから逃げ回る生活からは脱却できるでしょう。」

「そんなことが、できるなんて。」

 簡単には信じられなかった。だって、これは十年近く付き合い続けた『疾患』だったから。

「しかし、そうですね。そのような芸当が可能である根拠を提示することはできません。あなた様の眼と百鬼を断ち切る方法に関してのメカニズムはいくらでも説明できますが、結局のところあなた様に私の言葉の真偽を見分けることはできないでしょう?」

「そう、ですね。」

「最後に判断を下す権利を持っているのは、あなた様。私はこのように提案を行ったまでです。いかが致しますか?」

「えっ、と……。」

 僕は、既に冷め切ったココアのカップに指をかけつつ、俯く。

 正直今まで僕を苦しめてきたものからやっと逃れられるという歓喜以前に、濃い霧のような困惑が視界を覆っていた。

 なんというか、自分の身体の一部を切り離す感覚というか。腕一本を、何かしらの利益の為に切り落とす、そんな気分である。

 何故こんな気持ちになるんだろう。

 それに。

「まさか、そんな方法で僕を救おうとしてくれるだなんて。僕はてっきり」

「あなた様を殺害することでも解決できる、と?」

「……。」

「仰る通りです。あなた様の息の根を止めて、気は進みませんが私が捕食する、もしくは地面の奥深くに埋めて仕舞うというものは、最も手っ取り早い方法でしょう。」

「そう、ですよね。」

「しかし、この方法を取ったところであなた様の得る利益はありますか?」

「え。」

「無論、私に殺されることこそ至上の喜びなどと仰るのであれば、そのように致しますよ。」

「いやいやいや!それはない、ないです!」

 急いで訂正を行う僕。いや、それでも、僕に利益があるか、と言われるとは。

 本当にそんなことを気にしているのだろうか。しかし、なんというか悪意は感じられない、そんな気がする。

「ふふ、安心致しました。」

 安心してから飲むコーヒーは一段と美味しいですね、とおどけて見せる空様。

 いや、そんな冗談を言っている場合ではない。

「ちなみに。」

「どうしましたか?」

「その方法はここで教えて貰えますか?」

「勿論です。鬼灯を器に淹れた霊薬を用います。もし、あなた様にこの提案を飲んでいただけるのなら、すぐにでも霊薬の材料を集める作業に入ることになるでしょう。」

「その過程に僕の手伝いが必要となる可能性は?」

「ありません、が、何故そのようなことを?」

「できれば、僕も手伝いたいんです。」

「……不思議なことを仰いますね。」

 心底不思議がっているように空さんは眼を丸くする。

 吸い込まれそうな程黒い瞳が少し恐ろしいが、その様子はまるで一人の人間のようだ。

「やっぱり、見知らぬ人がどんな過程で作ったのかも分からない薬を飲むって怖いじゃないですか。」

「成る程、そういう意味でしたか。」

「それに、互いに利益があると空さんは言いましたよね。それなのに、空さんにだけ働いて貰うってのはちょっと、気が進みません。」

「……どうやら、宮畑さんは私が想像していた以上に善良な心を持ったお方のようです。」

「いえ、ただの自己満足ですから。……それと。」

「はい。」

「今すぐに、ここで判断しなくてはダメですか?」

 僕は本来、スパッと物事を決めるのが苦手な人間だ。優柔不断というかなんというか。

 要は、誕生日プレゼントを選ぶ際、一時間、二時間、と親を待たせてしまうタイプの子供なのである。最近はそういった重大な選択を行う場面には遭遇せず、鳴りを顰めていたが……この判断は僕の今後を大きく左右するものになるだろう。

 そう、安安とは決められなかった。

「強制は致しません。しかし、できるだけ早く行動を開始しなければ、それだけあなた様が襲われる回数も増えていきます。こうして出会った以上出来る限りお護りしますが、保証はしませんし、できません。」

「……分かりました。」

 何かしら、折衷案を。魅力的な提案をあちらからしてくれたからには、こちらからそれに見合ったものを提示したい。

「それなら、材料集めの作業は明日から行う。でも、私が結局飲むかどうかは霊薬ができるまで決めない。それでどうですか?勿論、飲む飲まないに関わらず、霊薬作りは手伝いますから。」

「ふむ。つまり、もしあなた様が飲まない選択を取った場合、余った霊薬は同じような能力を持ち、かつ能力を手放すことを願った他の人間に飲ませてあげれば良い、と。」

「そういう、ことです。」

 彼女はゆっくりとコーヒーカップをソーサーに戻し、少し目を瞑って思案する。

 何を考えているのだろう、僕ではその心中を察することなどできない。

 それに、この提案はウィンウィンなようでいて、かなり僕に有利なものだ。だって、僕が手伝うにしても多くの作業は彼女が担うことになるだろうし、何より彼女はいつ使えるか分からない霊薬を作らされる可能性を孕んだまま尽力させられる、ということになるのだから。

 断られても仕方がない。何より、僕は彼女に逆らうことができない……。

 忘れそうになるが、彼女は僕より強大な存在なのである。

「ダメですか……?」

「……いえ。」

「そっそれって。」

「今は、ある知り合いにあなた様の提案をどう説明したものか、と考えていたのです。良いでしょう、その提案、乗らせていただきます。」

「……。」

 空さん、なんて優しい笑顔なんだ。

 商談が成功したからかもしれないけど、手袋を嵌めつつゆったり立ち上がる彼女の姿には、先程以上の優雅さというか、艶やかさが感じられる。

 僕に霊薬を飲ませることが、そんなに大事だったのだろうか?僕にとっては自らの人生を左右するものだったけど、彼女の得られる利益なんて、食事が楽になる程度のことなはずだ。

 それとも、彼女が言っていた通り、僕では想像できないほど、百鬼の持つ食欲、或いは食に対する努力は最優先になるものなのか。

 僕にはまだまだ、百鬼のことが分からない。それも、彼女のような百鬼の異端児ともなれば尚の事。

「どうしますか、宮畑さん。お話ししたいことは終わりましたし、今すぐにでも家まで護送いたしますが。」

「おう!ヘヴィな話し合いだっただろうからな!少しくれぇここで休んでいっても良いぞ!」

「えーっと、それなら……。」

 もう帰ります、と言いかけたところで。

「ひゃっ。」

「……。」

「ハハッ!良い音だ!」

 僕のお腹が音を立てた。

 そういえばバイト帰りで、夜ご飯食べてないんだった。今までは緊張でガチガチだったから全然気にしてなかったけど……。

「ふふ、宮畑さん。顔が赤らんでいますよ。可愛らしいですね。」

 初めて見た、空さんのこんな顔。お手本のようなニヤケ具合である。

「き、緊張が解けて、お腹が……。」

「よっしゃ、じゃあ今日は店長たる俺の奢りで何か食べさせてやる!久しぶりに空様も食べていくか?」

「……では、お願いします。」

「お願いします……。」

 やがて、キッチンからコンロの音が鳴り響く。

 メニュー表を見ればハンバーグ、スパゲッティ、ピッツァ、その他諸々洋食がずらり。

 百鬼出身の人間専門シェフの腕前も気になるところ。

 僕は、お酒のメニュー表と睨めっこしている空様を横目に、脇の新書棚へと手を伸ばすのだった。

 こつんこつん、と靴の裏を鳴らしながら僕……と空さんはアパートの階段を上がっていく。

 アイビーより徒歩十分程度、僕の住居たる新しめのアパートとは、ここのことだ。

 全五階建て、エレベーター付き。僕が一人暮らしを始めるに当たって親が最大限配慮してくれた結果である。

 僕はこの眼のせいでついぞ友人というものと縁がなかったが、親に関しては僕をそういうものなんだろうと受け入れてくれている……本当にありがたい話だ。

 親まで僕を見放すようだったら、大学デビューを待たずして僕は死んでいただろう。要因は様々に想像できるが。

「ふふ、あなた様の住居が比較的新しめで安心致しました。何分私は、重いので。ものによっては踏みしめるだけで壊してしまいます。」

「身長もそうですけど、何よりたくさん食べてましたもんね……。」

 聞いて驚け、彼女が食した量はアイビーに設置してある長机おおよそ三脚分だ。

 しかもそれ程の量を、優雅にするすると胃に放り込んでしまう。口を大きく開けて、信じられない量を一気に含んでいるのに、何故か魅力的に視える。

 最早これは才能だろう。普通、大食いかつ早食い、となるとどうしても汚くなりがちだというのに。

「もし空さんの捕食対象が人間だったらここいら一帯は無人になってるかも……?」

 ぼんやりと、お腹いっぱいでふわふわとし始めた頭でえげつない妄想を膨らませる。

「しかし、ここいら一帯の百鬼は根絶やしになっていないでしょう?」

「確かに。」

「あれだけ食べてしまうのは、私が大喰らいであるのと同時に、彼の腕前が一級品だからですよ。それに、お酒の趣味も良い。久方振りの晩餐でしたが、ええ、人間の食事も悪くないと毎度思います。」

「なんか、褒められてる気分。」

「褒めていますよ。人間の叡智ですね、ああいった料理というものは。」

 料理と一緒にお酒もバカスカ飲んでいたので上機嫌なのか、気持ち彼女の足取りと口調は軽い。

 色白な肌など、外見は全く変化ないんだけど……不思議な話である。

「えーっと、五〇三、五〇三……っと、ここここ。この赤茶色の扉が僕の部屋ですよ。」

「……しかし、良いのですか?私のような外様に部屋の場所まで教えて。」

 少し心配そうな面持ちの空さん。

「これから一緒に作業するからには、と思ったんです。確かに、今まで僕は百鬼に襲われてきたので、同じ百鬼である空さんに急所を晒すのは抵抗あるんですけど……今まで出会ってきた化け物たちには無い、暖かみを感じたので。信じてみることにしました。」

 ウラヌスさんも空様の私への言動は善意に溢れている、と言っていたし……それに。

「僕を護ってくれる……んですよね、それまで。」

「……。」

「す、すみません、自分から飲まない選択肢を確保しておきながらこんなこと言うなんて。でも、怖いことには変わりなくて。」

「ふふ、はい、その辺りはご心配なく。もし、あなた様に家の場所を教えて貰えなかったとしても、場合によっては家の中まで参上して助け出す心算でいました。」

「場所が分からないはずなのに僕の部屋まで来る……?」

 それはそれで少し、怖いが。

「はい、ちょっとした裏技があるのですよ。あなた様は、猫にとってのマタタビのような存在と申し上げたでしょう?香りですぐに場所は把握できます。」

「か、香り?」

「はい。あなた様からは常に良い香りが漂っていますよ?実に、食欲の唆られる。」

 空様は不意に、舌舐めずりをしてみせる。

「あの、泣きそうです。」

「申し訳ありません。悪い冗談が過ぎましたね。」

「後一歩で関係解消でした。」

「そう言わないでください。あなた様から特有の香りが漂っているのは事実なので、それを頼りにいつだって助け出して差し上げますから。」

 彼女の言動にはなんというか、安心感がある。

 なので、そのように言われると自然に良かった、という気持ちが溢れ出てくるのだ。心の底からの安心には程遠いけれど、無いよりはずっと良い。

「では、お部屋の場所も確認しましたし、私はこの辺りで離れた方が良いですね。余り長く私と会話していると、誰かに見られた際宮畑さんが面倒でしょう。」

「確かに、空様のことを誰も視認できないんですもんね……。」

「悲しいことに。」

「……あれ、でも、ウラヌスさんは人間が視認できないのにどうやってレストランを経営してるんですか?」

「あのお店はそういうのが視える人間、もしくは一時的に幽世へ迷い込んでしまった人間向けのレストランなんですよ。だから、そもそも人が入ること自体稀です。」

「えぇ……。」

「我々はそもそも何かしらで稼ぎを得る必要はありませんから。あれは、彼の趣味のようなものです。とはいえ、ずーっと誰も入らないのは可哀想でしょう?だから時折私が訪問したり、こういう話し合いの場として借用したりしてる訳です。彼も彼で、話し相手を欲していますからね。」

 成る程、ウラヌスさんが僕に対してやけに親身だったのは、稀にしか存在しない視える側の人間だったからなのか。

空様がアイビーで食事を摂るのも久しぶりと言っていたし、尚更僕のような存在に会えたことが嬉しかったのだろう。僕も、ウラヌスさんと会話するの楽しかったし。

「まぁ、ウラヌスさんにはまた明日会えますから、詳しいことは彼に聞いてみてください。」

「そうします。」

「ふふ、聞き分けの良い方は話の飲み込みも良くて助かります。……では、これを。」

「!?」

 突然の血飛沫。だが、その出所は僕ではない。

 彼女の小指から、である。空様は、力づくで自らの左手の小指を引き千切ったのだ。

 余りに、余りに唐突な蛮行である。

「私の肉片は、そうあるだけで一種の魔除けのような効能を発揮します。敵対心を抱いた基準以下の百鬼ならば、反発力を発揮して排除してくれることでしょう。これから数日、付きっきりとまでは行きませんから、私の代わりとしてこちらの小指を常に隠し持っていてください。」

「そ、そういうことは千切る前に言って欲しいです……。」

 心臓止まるかと思ったし、なんなら痛みもなくお腹辺りを貫かれたんじゃないかと咄嗟に確認してしまった。

「……それもそうですね。失礼致しました。」

「それに、空様の手は大丈夫なんですか?」

「はい。すぐに生えてきますし、仮に生えてこなくても問題ありません。」

「……。」

 なんというか、外見は人間らしいけど、「あぁ人間じゃないんだな」ってのがよく理解できる説明である。

「さて、今のところ私からお伝えすべきことと渡すべきものは以上です。宮畑さんからは何かありますか?」

「そうですね……。」

 そうですね、も何も。今日出会ったばかりで、これから何をするかすら分かってない以上、こちらからお出しするものなんて一切存在しないのだが。

「僕のことは、苗字じゃなく、名前の方で呼んでくれると嬉しいです。」

「それは、何故ですか?」

「これから、僕の未来を大きく左右するような作業を始める訳じゃないですか。」

「仰る通りです。」

「それなら、少しでも距離感が近い存在でありたいな、と思って。」

 この案件は、人生のターニングポイントになるだろう。それならできるだけ、楽しく和気藹々とした記憶であればあるほど良い、僕はそう思う。

 そして、そんな僕の意見を聞いた彼女の浮かべる顔は、いつもより少し綻んだ笑顔だった。

「分かりました。では、これからは優さん、と。」

「うん。やっぱりその方が居心地良いです。苗字って他人行儀感ありますし。」

「否定は致しません。……それでは、また明日、お迎えにあがります。」

「良いんですか?」

「お部屋は教えていただきましたから、こちらから出向きますよ。」

 なんともはや、至れり尽くせりである。

 何故ここまで……。

「寧ろ、怪しいですか?」

「……そうですね、少し。」

「こちらからの誠意と受け取っていただければ幸いです。ことが済むまで護り抜く、という意思表示なのだと。」

「……。」

 頷くしか、無かった。正直今日のようなことがあった次の日に、一人で外を出歩くなんてしたくないし。彼女から貰った魔除けがあるにしろ、怖いものは怖い。

「それでは。」

 そして、僕の答えを肯定と受け取った彼女は、すぅっと消え入るように去っていった。

 後には、鳥たちの囀りと夜特有の寂寥感だけが残る。

「……。」

 沈黙。今までは高揚感と、非現実感で抑え込まれていた、ドロドロとしてまとわりつくような不安が流出した。

「入ろ。お風呂入んなきゃ。」

 時刻は〇時前、もうそろ子の刻が始まろうという頃。

 僕は、一転して暗い面持ちのまま、扉の鍵を開けた。

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