君がないていたから

市村町

君がないていたから

 学校なんて滅べばいい。

 平日の朝はそんなことを考えながら登校するのがほぼ日課となって一年近く経ったけど未だに学校が更地になる様子は一切ない。

 雨の日も風の日も暑い日も寒い日も毎日毎日…家から二時間近くかけて学校に歩いて通わなければならないというのは俺に対する何かの罰なのだろうか?

 この日課のせいで日に日に自分の性格が卑屈になってきていると思うのはおそらく気のせいでは……ないだろう。

 そんな自虐に耽ってみては馬鹿らしくなるを何度か繰り返しながら歩いていると背後からバスが追い抜いて十数メートル程進んだところで停車した。

 バスの後部に搭載された電光掲示板に表示されているのは『海南高校前』という文字。

「……最悪の月曜日だ」

 思わぬ不意打ちについ心の声が漏れてしまった。

 バスから紺色のブレザー、海南学園の制服を着た生徒達がぞろぞろと出てきて校門をくぐっていく。

 海南高校。地元では一番の進学校で部活動においても力を入れており野球、サッカー、バスケ……多くの部活動が優秀な成績を残しているいわゆるエリート校だ。さらには俺の家からバスで二十分という素晴らしい立地条件も兼ね備えている。

 そして俺の第一志望の学校だった。

 残念ながら海南高校の合格ラインには一歩届かず受験には失敗した。と言っても受験があったのは一年前のことだし、当時の心の傷も時間をかけて癒えてきたと思ったのだがこうして直接海南高校とその生徒達を目の当たりにするとやはり心にくる物がある。

 内心では薄々こうなることを予見していたこともあってなるべくこの辺りには近づかないようにしようとしていたんだが……

 そんなことをぼんやりと考えているとバスの中から明らかに海南高校ではない女子生徒が降りてきた。

 上下黒色のの学生服に黒色のパンプス。日頃よく見かけるその制服は俺が通う昼明学園のものだ。肩にかからない程の長さに切り揃えられた黒髪も相待って海南の女子生徒と比べると少しだけ古っぽいというか前時代的な印象を受ける。そして—

「おはようございます、草野くん!」

 俺の方を向いて笑顔で声をかけてきた。

「……」

 俺はシカトを決め込んで彼女のそばを通り過ぎていく。

「あれ?おはようございます!草野くん!」

「……」

「おはようございますっ‼︎草野くんっ‼︎」

「うるせえ!聞こえてるから声を落とせって!」

 早朝に似つかわしくない喧騒に何事かと学生達の視線が集まってきたので、後ろからやかましくついてくる女子生徒に声を抑えるように嗜める。

「なんだやっぱり聞こえてたんですね、おはようございます草野くん!」

「あぁ……おはよう、晶」

 また大声を出されては敵わないので仕方なく挨拶を返すことにした。

 彼女の名前は稲垣晶。今年俺の通う昼明高校に入学してきた一年生で俺と同じ中学出身。俺が中学生の時所属していたサッカー部のマネージャーをやっていたこともあってその時から親交がある。

「いやぁ、朝早くこんな所で出会うなんて奇遇ですね。まさに早起きは三文の徳と行った所でしょうか。ふふっ」

「奇遇って、お前それはボケで言ってんの?」

「はて?私あまりお笑いは詳しくないですけど何か面白いことを言いました?」

 晶はキョトンとした顔で俺の方を見つめる。

「はて?じゃねえよ。俺は今日、わざわざ普段の登校ルートとは違う道を選んだんだ。なのに待ってましたと言わんばかりに俺がここを通ったタイミングでバスからお前が出てきたんだぞ?こんな偶然あるわけねえだろ」

「もー、だからこそ偶然と言えるんですよ。草野くんがたまたま普段とは違う道を通って学校に行ってるのに私がその事に気づけるわけないじゃないですか。偶然ですよ、偶然偶然」

「そうか、なら毎日登校する時間を変えても今日と同じようにお前とはち合わせるのも偶然ってことか?」

「はい、偶然です!偶然なのでよく分からないですけど登校時間を変えてもあまり意味はないと思いますよ」

 こいつには俺に対してストーキングの気がある。

 まあ、前から分かりきってはいたのだがまさか登校ルートを変えても無駄に終わるとは……

「あ、信号がもうすぐ赤になっちゃいます!急ぎましょう!」

 晶は点滅する信号を見ると俺の手を引いて駆け出していった。

 これからおよそ一時間四十分、晶の会話に付き合わなければならないと思うと気が滅入る。

 あぁ……学校滅びねえかなぁ。

 

 

 晶と登校してから一時間半程経っただろうか。最初の方は晶の会話にも付き合っていたが三十分も経たないうちに脳が彼女の言葉をシャットアウトし俺はただ来た言葉に相槌を返すだけの人形と成り果て、頭の中でベルトコンベアのように流れてくる学校を次々と破壊していた。

「草野くん!おーい、草野くん!」

「うるせえな、聞こえてるから声落とせって」

 ちょうど三千校目の破壊に取り掛かっていた時、どうやら俺が相槌人形と化していたことに気づいた晶が俺の肩を掴んでブンブンと揺さぶってくる。

「で?何の話だっけ?」

「ほら!やっぱり聞いてなかったじゃないですか!」

「悪かったって。聞いてやるから話してみろよ」

「むぅ、なんか感じ悪ぅ…まぁ良いですよ。先週聞いた話なんですけどね、昼明高校の七不思議って知ってます?」

「は?七不思議?」

「その様子だとやっぱり知らないみたいですね?なんだか最近七不思議にまつわる噂が広まっているみたいなんですよ、いわゆるトイレの花子さんとか深夜に動く二宮金次郎みたいな」

「おいおい、もうとっくの昔に平成は終わってんだぞ?そもそも二宮金次郎なんて内の学校には無えよ」

「え、そうなんですか?」

「昼明の武道館って他の校舎と比べても作りが新しいだろう?どっかの社長がウチの柔道部のOBらしくてな。数年前まであの場所には金次郎像はあったみたいだけどその人の寄付金で武道館が建てられることになったから撤去されたんだってさ」

「あぁ、立ち退きを迫るだなんて二宮くんには気の毒なことをしてしまいましたね」

 晶は大袈裟に悲しむふりをすると袖を頬に当てて流れていない涙を拭った。

「もう時代じゃないんだろうよ、二宮金次郎を崇める思想も学校のオカルト話も。つーか何で急に七不思議なんて噂が広まってんだ?」

「うーんと、それがですねぇ。どうやら実際に七不思議に遭遇した生徒がいるっていう話みたいなんですよ」

「へっ、出た出た。こんなありもしないオカルト話やろうと思えばいくらでも尾ひれがつけ放題じゃねえか。どうせどっかのヒマな生徒が面白がって遭遇したとか嘯いたのがオチでしたってところだろうな」

「えー、そういうものなのですかね?」

「そういうもんだよ、現にうちの学校にない二宮金次郎の噂が上がってる時点で破綻してるだろうが。まあ、一年生は入学してまだ比較的日が浅いからな。お前みたいにうちの二宮金次郎事情をまだ知らない奴らの間で少しだけ盛り上がったらまたすぐ下火になるさ」

「そうですか……初めて噂を聞いた時もしかしたら草野くんが興味を持ちそうな話題かなと思ったんですけどね」

「お前には俺のことがどう見えてんだ?これまでの付き合いで俺がそっちの類に興味を持つそぶりなんか一度も見せたことないだろうが」

「でも……全く信じていないというわけでもないんじゃないですか?」

 そう尋ねながらこちらを見てきた時、一瞬だけ晶の様子は普段とは違っていた。その目はまるで俺の何かを探るような……少しだけ俺にそんな印象を与えた。

「……質問を質問で返すなよ。何が言いたいのかよく分からない」

「あははっ、言われてみれば確かにそうですね……っと、こうして話し込んでいる内にもう学校に到着しましたよ」

 晶にそう言われて歩いている方向に目を向けると俺達の通う昼明高校が見えてきており、周辺には昼明の学生服を着ている生徒の数もちらほらと増えてきた。

 俺は学生服のポケットからスマホを取り出して電源を入れると画面には八時を少し過ぎた時刻が表示されている。

「あーマジで疲れた。まだ一つも授業を受けてない月曜の朝からこの疲労感ってありえねえよ、もう帰りてえ」

「ふふっ、そうなるとまた二時間歩くことになるんですけどね」 

「そんなこと言われなくても分かってるからわざわざ口に出すなよ。余計に気が滅入ってくる」

「そんなに歩くのが嫌なら電車を利用すれば良いじゃないですか。うちの中学出身の人達は皆利用してますし歩いて学校に行ってるのなんて私達くらいですよ?」

「親が交通費を出してくれねえんだよ。小遣いから捻出してたらすぐに破産だ」

「それならバスなんてどうです?確か電車の定期代よりかはいくらか割安だった気がしますけど」

「何でか知らねえけどあのバス学校から一番近くにある停車場が結構離れた所にあって特にうちの学生からはすげえ不評なんだよ。もちろんその中には俺も含まれてる」

 一度だけ利用したことがあるのだが目的の停車場に着く前にわざわざ一度学校の前を通り過ぎた後、五分以上かけてそこから離れるということを知ってからは二度と利用しないと決めた。

「えぇ、そうなんですか?じゃあ残ってるのは自転車くらいしか……いえ、何でもないです」

 途中で晶は俺のタブーに触れてしまったことに気づき最後まで言うのをやめた。

「良かったな、もし最後まで言ってたらお前ヤバかったぞ」

 晶に釘を刺していると遠くの方から黒尽くめの集団が走りながら近づいてきた。徐々に見えてきたその集団は全員が丸坊主に髪型が統一されており、彼らの着ている土で汚れた黒いジャージの胸には「昼明蹴球部」と文字がプリントされている。

 集団が通り過ぎていくのを眺めているとその最後尾にいた男が走るのを止めてこちらに近づいてきた。そいつは他の坊主達より頭一つ抜けて身長が高く、顎には髭が蓄えられていて少しだけ坊主具合が甘めにされている。

「おっす、お二人さん。登校デートとは朝から見せつけてくれるな」

「んな訳ねえだろう。偶々会ったんだよ、偶々」 

「えっと……あ、星くん!星くんじゃないですか!お久しぶりです!」

 目の前にいる坊主頭は星洋平という俺の友人でクラスメイトである。

 俺達と同じ中学出身で当時は俺と一緒にサッカー部に所属していたのと晶もマネージャーをやっていたのもあって洋平とは二人ともその頃からの付き合いだ。

「それにしても星くん、しばらく見ない間に見た目が随分と変わりましたね。話しかけられるまで全然気がつきませんでしたよ」

 晶は現在の洋平の見た目に結構驚いたようでジロジロと観察しながら呟くように言った。

「おいおい、それって中学時代の俺の印象が髪型しかないってことか?久しぶりに会ったってのにそれは悲しいぜ」

「あっ、すいません!決してそういうわけじゃなくてですね……」

「晶が驚くのも無理ねえよ。中学の時チビ小僧だった奴が今はおっさんハゲになってんだから」

「ハゲって言うな!禿げてねえし!部活の決まりなんだから仕方ねえだろう」

「サッカー部なのに坊主にしなきゃいけないって……珍しいですね」

「大して強くもないのにな」

「うるせえよ!」

 晶の言う通り何故か昼明のサッカー部は頭を丸めなければならないという伝統が現在まで残っていて、かといってうちが強豪校かといえば強さはそこそこといったところである。

 俺も入学前はサッカー部に入ろうか少しだけ迷ったが坊主にしなければならないと知ってからすぐに諦めた。

「つーかこんなところで駄弁っていて大丈夫か?皆に置いてかれてんぞ」

「大丈夫大丈夫、今は一年の外周を後ろから見張ってるだけだから少しサボっても怒鳴られねえしすぐに追いつくから。何ならピカも一緒に走ってくか?」

「走るわけねえだろ。バカ言ってねえで早く後輩のケツ叩いてこい」

「はいはい、じゃあまた後でな。晶も今度ピカと一緒に飯でも食おうぜ」

「はい!楽しみにしています!」

 会話を終えると洋平は先に行った一年生集団を追いかけて走っていった。その後ろ姿はみるみるうちに小さくなり、やがて黒い集団の一部となって見えなくなっていった。

 そこまで見守っていると晶が何か言いたげな様子でこちらを見ている。

「何だよ?」

「いえ、星くんからピカって呼ばれてるんだなあって思って」

「あぁ…高校に入ってから俺が面白がってアイツのことをハゲハゲってからかってたら多分仕返しのつもりでそう呼んでくるようになった」

「へぇ、草野光だからピカってことですか?」

「まあな、それとお前は絶対このあだ名で呼ぶなよ」

「えー、アニメのキャラクターみたいで可愛いのに」

 晶は少し不満そうに口を尖らせながら文句を言った。

「聞こえねえな、じゃあ俺先行くから」

「え、ちょっと待ってくださいよ!」 

 歩くスピードを早めた俺のあとを晶は小走りで追い駆けてくる。

「朝の話し相手は充分付き合っただろう?学校の中まで一緒にいて他の奴らにあらぬ噂を立てられたら溜まったもんじゃない」

「どうしてそんなつれないことを言うんですか!勘違いしたい人にはさせたままでもいいじゃないですか!」

「良くない。もし先に行きたいのならどうぞ、行っていいぞ」

 俺はそう言って立ち止まるとシッシッと手を払う身振りをして晶に先に行くように促す。

「あーもうっ、分かりましたよ!今日のところはこのくらいにしといてあげます。この借りはは明日の朝返してもらいますからね!」

「変なもん俺に推しつけんな。雑魚キャラみたいになってんぞ?」

 晶の文句を適当に受け流しつつスマホで新着メッセージやまとめサイトに上がっている記事をチェックして晶が先に行くのを待っている。うわっ、薬物所持で十六歳逮捕ってこれうちの近所じゃねえか……おっかねー。

 晶はどうやら諦めたのか半ば切れ気味にズカズカと俺の前を通り過ぎていく。

 十メートル程先まで進んだ所で晶は足を止めてくるりと身を反転させてこちらを向くとすぅっと息を吸って

「じゃあねっ!ピカくん!」

「あっ、テメェ!」

 不快な捨て台詞を残して学校へと走り去っていった。

 全く…不愉快なことってのはどうしてこんなにも連続で起きるもんかね?

 俺はスマホを学生服のポケットにしまうと今日この先心の平穏が乱されないことを祈りながら俺は校門を潜って校舎へと向かうのだった。 

 

 

「おっ、来たな救世主!」

 教室に入って自分の席に着くや否や俺の前の席に座っている男が待ってましたと言わんばかりに体を捻ってこちらを向いてきた。

「宿題なら見せんぞ」

「まだ言ってねえのに!いや、そうなんだけど」

「これまで何回お前を助けてやったと思ってんだ?」

「そんな冷たいことを言うなよぉ……部活やらバイトで全然時間が取れないから仕方ないだろう?」

 俺に向かって両手を合わせて拝んでいるのは笠原智樹。言うまでもないが俺のクラスメートだ。

 少し長く伸びた金色の髪は美容室のヘアカタログで良く見るモデルのようにきちんとセットされていて顔立ちも彼らに劣らないくらい整っている。世間で言うところの爽やか系イケメンといったところだろうか。

 おまけに所属しているバスケ部ではエースを務めており聞くところによると一年の頃からレギュラーで活躍しているらしい……

「知ったことか。土日の二日間もあって時間がなかったなんて言い訳は俺にも岩沢先生にも通用しないぞ」

 俺は笠原のお願いを断りながら一限目の数学の授業の準備を進めた。

「正論なら後で聞くからさ。赤鬼にまた目つけられたらヤバいんだって!五分だけでいいから見せてくれよ!」

「諦めて愛のムチを受け入れるんだな」

「えぇ…マジかよ。あ、じゃあ代わりにこれやるから!」

 そういって笠原は学生鞄の中から大きめのコンビニ袋を取り出してさらにその袋の中に入っていたおにぎりと惣菜パンをそれぞれ三つずつ俺の机の上に置いてきた。

「あいにく朝食は済ませてある」

「昼飯にとっとけばいいだろう。これで手を打ってくれよ」

「当然弁当も用意してあるしこれじゃおかずにもならんしな」

「あー、じゃあこいつもつけるから!」 

 笠原はそういうと今度はコンビニ袋からフライドチキンと牛乳を取り出して俺の机にドンと置く。

「お前こんなので米が食えるタイプなのか?」

「だぁー!いちいち文句つけんな!これでも食ってろ!」

「ぶぼっ⁉︎」

 タイムリミットが近づいてきたせいか痺れを切らした笠原はそう叫ぶと袋から何かを取り出して俺の顔面に押し付けてきた。

「バビビババブッ!(何しやがる!)」

「もうそれ食っちまったんだから契約成立なっ!それじゃちょっと借りるぜ」

 そう言って笠原は俺が机の上に準備していた宿題のプリントをひったくると自分の机に向かって書き写し始めた。

 全く……朝から騒々しい奴だな。

 口が謎の食べ物で塞がれているため心の中でそう呟きながら押し込まれた物体を食べ進めていくと口の中に少し暖かくて甘いものが入ってきた。

 食べ物を手に持って確認すると白くて大きな饅頭のような見た目をしていて断面からは黒いペースト状のものが見えていた。

 これは……あんまんか。

 口に突っ込まれた物の正体がまともな食い物だと分かって少しホッとした。

 しかし笠原が少々動き回ったいたせいかこいつの付けている柑橘系の制汗剤の匂いが鼻について見事にあん饅の味を損なわせてしまっている。

「あんまんって……なんでこんなもん学校に持ってきてんだよ?」

「あー、近所のコンビニで飯買ってたらレジ横に置いてあるのを見つけてさ。今の時期珍しいから買ってみた」

 笠原は宿題を移すことに必死になっておりこちを一瞥することなく生返事を返してきた。

「確かにレジ横に肉まんとかあんまんが置かれるのってもう少し後になってからだよな。つーかひょっとしてその袋の中身全部食べ物なのか?どんだけ食うつもりだよ」

 俺はもらったあんまんを食べながら笠原に質問した。

 笠原の席にあるレジ袋はパンパンに中身が詰まっていて、袋の口からはさっき俺がもらったおにぎりの他に菓子パンやサラダチキンなんかが見え隠れしている。

「朝飯だけじゃなくて今日一日分の飯を買い込んであるんだよ。ここんところ親が仕事で帰ってくるのが遅いから家に帰っても飯は何もないし俺も部活とバイトの後で何か作る気にもなんねえしさ。朝飯のついでに家族の夕飯分も買ったって訳。っていうかもういいだろう?忙しいから邪魔すんなって」

 そう言うと笠原はコンビニ袋を隠すように学生鞄の中にしまって宿題の模写を再開した。

「はいはい、精々頑張れよ」

 写すだけなのに頑張るも何もないよな、と心の中で思いつつ自分の机に視線を落とす。

 さて、これらをどうしたものか。

 俺の机に置かれているのはおにぎりと惣菜パンが三つずつとフライドチキンに牛乳。そして右手には食いかけのあんまんが一つ。

 食い切れねぇぞこんな量……

 とりあえず手に持った食いかけのあん饅をもう一口齧りつつ牛乳パックの飲み口を開けて流し込む。

 教室に設置されている壁掛け時計を確認すると時刻は八時二十五分を少し過ぎた辺りを示している。教室には既にクラスメートのほぼ全員が揃っており授業の準備している奴や雑談している奴など様々だ。

 朝のホームルームの開始時刻は八時三十分。のんびり食事をするわけにもいかないので口を大きく開けてあん饅を頬張ろうとした時、

「どぅりぃゃああ!間に合った‼︎」

 洋平が教室にダッシュで駆け込んできた。

「せっかく早くに学校に来てるのに朝練で遅刻ギリギリって本末転倒じゃないか?」

「まあそう言うなって、こうして間に合ってるわけなんだし。っていうか何だそれ?朝食抜いてきたのか?」

 洋平は俺の机に置かれた大量の食事を不思議そうに見ながら俺の右隣の席に着く。

「いや、思わぬ臨時収入だ。もらってくれると非常に助かる」

「マジで?それじゃあ遠慮なく」

 そう言って洋平は俺の机の食べ物を全部持っていくと

「あ、これ中に梅入ってんじゃん。いらね」

 梅の具が入ったおにぎりをこちらに戻してきた。

「好き嫌いしてると禿げるぞ」

「だから禿げてねえし!ったく……」

 俺の冗談に洋平は声を荒げると手元にある食べ物の中から焼きそばパンを取り出して頬張り始めた。

「おい、もうすぐ授業始まんぞ」

「これくらいなんてことねえよ、焼きそばパンなんて飲み物だ飲み物」

 洋平はさらに焼きそばパンを一口頬張ると、もう彼の手には何も残っていなかった。

「……どんな胃袋してんだよ」

 目の前の光景からこいつが高校に入ってから一気に背が伸びた理由が理解できた気がした。

 負けじと俺もあんまんに食らいついていると先程まで俺の宿題をせっせと写していた笠原がこちらに振り返って

「よっしゃ、コピー完了!これ返すな」

 俺の宿題のプリントを渡してきた。

「バア、ボバッバグァ(あぁ、終わったか)」

「は?何言ってるかわかんねえよ。ま、ありがとな草野。またよろしく!」

「ビバ、ブィババァバンボべブンべバェオ!(いや、次からはちゃんんと自分でやれよ!)」

「ハハハッ!了解でーす」

 絶対に了解していないことだけはこちらに伝わってくるいい加減な返事をして笠原は自分の机に向き直り、ちょうどそのタイミングでホームルーム開始を告げるチャイムが鳴り始めた。

 やべっ‼︎

 俺は慌てて残ったあんまんを全て口に押し込み牛乳を一気飲みしてそれらを無理矢理胃の中に流し込む。

「ぶはっ、死ぬかと思った」

 あんまんと牛乳が大きな塊となってゆっくりと胃に落ちる不快感に耐えているとチャイムが鳴り止んでそれと同時に教室にきっちりと真っ赤なスーツを着込んだ女性がヒールの音を響かせて入ってきた。

「いつまでくっちゃべってるんだ。もうホームルームは始まってるぞ、席につけ」

 女性は教壇に立つと黒板を数回ノックしながらよく通る声で俺達を注意し、瞬く間に教室内は静まり返る。

 長い髪はキャビンアテンダントのように綺麗に後ろで纏められ、赤色のフレームの眼鏡に口紅、スーツなどとにかく身につけるものが赤色に統一されている目の前の女性は岩沢舞、通称赤鬼とも呼ばれる俺達二年三組の担任であり、授業では数学を受け持っている。

「ふん、ようやく静まったか。それでは出席を取る。相生」

「は、はい」

 どこでもやっているような出席確認をしているだけのはずなのに教室内の空気は一気に張り詰め生徒一人一人の緊張した様子がこちらにも伝わってくる。

 これこそが岩沢先生が影で赤鬼と呼ばれる所以である。彼女が教壇に立つだけでただの平凡なクラスがたちまち一糸乱れぬ規律の取れた軍隊に変貌してしまうのだ。

 岩沢先生は次々と生徒の名前を呼び、一切間を置くことなく生徒達がそれに応えるという確認作業がしばらく続いた。

「よろしい、きちんと全員揃っているな。今日は特に連絡事項はない。一限目の開始直後にこの前出した課題を回収するから準備をしておけ。以上でホームルームを終了する」

 全員の出席確認が終わると岩沢先生は教室から出ていった。

「ぶはっ‼︎これでようやく一息つけるぜ……なあ、やっぱり赤鬼がいると空気薄くなってる気がするのって俺だけじゃないよな?」

 岩沢先生が教室の扉を閉めた瞬間、笠原はまるで今まで水中に潜っていたかのように大袈裟に呼吸を整えながら聞いてきた。

「知るか。罪悪感で胸が締め付けられてるからそう思うだけなんじゃないか?」

「おいおい、宿題のことなら十分にお返ししただろ?あんだけ食いもんもらっといてまだ皮肉を言うなんて器が小さすぎるって」

 こうも開き直るのが早いとは……かえって笠原の肝の太さに感心してしまう。案外こういう所が一年生の時からバスケ部のエースであるところに繋がっていたりするんだろうか。

「なんだよ?急に黙ったりなんかして」

「いや、なんだかお前の凄さを垣間見た気がしてな」

「は?」

「なんでもねえよ、いいからもう前向いてろ」

 俺はそう言うとスマホを取り出しながらシッシッと手を払う身振りをして笠原を追い払う。 なんかさっきもこんな光景があった気がするな。

「ちぇ、冷たい野郎だなぁ」

 俺が相手をしないという態度はどうやら笠原にも伝わったようで笠原は仕方なさそうに前を向くと自分のスマホをいじり始めた。

 よし、これでうるさい奴はいなくなった。

 なんとなく横にいる洋平の方に視線を向けるといつの間にか椅子に体重を預けながら上を向いて爆睡していた。

 どうやら早朝からの部活の練習で疲労が溜まっていたのに加えて先程俺がやった食べ物によって食欲が満たされたことがトドメとなって眠気のピークがやってきたらしい。

 洋平が眠ってしまった要因が少なからず俺にもあるような気がして起こすことになんだか引け目を感じてしまう。

 ……ギリギリまで寝かせてやるか。

 柄にもなくそんなことを思いながら全く頭の中に入ってこないスマホ画面の情報をただ眺めて時間が過ぎるのを待つのだった。



 それから三時間ほど時間が経ち午前中最後の授業終了を告げるチャイムの音が鳴った。

「…では授業はここまで。今日やったところは大事だから各自しっかりと復習をするように」

 教壇に立つ細身で年季の入ったスーツを身に纏った男性、俺たちの英語の授業を担当している秋葉先生はそう言うと教材をまとめて教室から出ていった。

 昼休みになり教室では生徒達がいくつかのグループに分かれて昼食の準備を始めていて賑やかになっている。

 隣の席を見ると洋平が机に突っ伏して完全に眠っていた。

「いつまで寝てんだ」

 俺が机の足を軽く蹴ると洋平は目を覚ましたらしくのっそりと体を起こした。

「ふぁーあ、あれ、もう授業が終わったのか?正直まだ寝足りないんだが」

「何寝ぼけたこと言ってんだ。ったく、毎回起こしてやっても授業始まる度に眠りやがって」

 俺がブツブツ文句を言いながら学生鞄から持参した弁当箱を取り出して蓋を開けようとした時

「あ、ストップ」

 突然洋平が手を出して止めてきた。

「なんだよ?」

「昼飯だけどさ、せっかくだし晶誘って三人で飯食わねえか?」

「えぇ……」

「そんなやなそうな顔すんなって。今朝久しぶりに晶に会ったのにそんなに話せなかっただろ?なんなら俺のこと一瞬忘れてたみたいだし……」

 見た目に似合わず洋平は晶に気づかれなかったことを気にしているみたいだった。

「昔の面影がこんだけなくなれば誰もお前だって気づけねえよ」

「そういうもんか?でもずりぃよ、俺たち中学の時からの付き合いなのに俺だけ省いてお前ら仲良くしててさ。なあいいだろう?一緒に飯食う約束だってしたんだしやるなら早いに越したことねえじゃん」

 洋平は懲りずに晶と一緒に昼食を取ることを提案してくる。

 こうなった時の洋平は面倒だ。一度願い事を口にすると中々引っ込めるようなタイプではないし俺もこいつには色々と世話になっているので正直言えば断りづらい。

「はあ……分かったよ。じゃあ今から聞いてみるからちょっと待ってろ」

「おぉ!マジで?さすが心の友よ‼︎」

 洋平の演技がかった喜びを無視してスマホを取り出すと洋平は俺の弁当箱から手を離した。

 俺はスマホの通話アプリから半ば強引に登録させられた晶の連絡先を探して電話をかけると

 二回目の呼び出しコールが鳴り終わる直前、晶は電話に出た。

「はい!稲垣です!」

 スマホから耳が痛くなるくらい大きな声が流れてくる。

「あぁ、俺だ。今電話しても大丈夫か?」

「全然問題ないです!それにしても草野くんから電話をかけてくれるなんて初めてじゃないですか?嬉しさのあまり舞い踊りたいくらいですよ!」

「踊らんでいい。今日の昼なんだけどよかったら一緒に飯食わないか?」

「ヒョウッ⁉︎い、今なんと言いました?」

「は?…だから一緒に昼飯を食わねえかって。今朝洋平と会っただろ?あいつが久しぶりにこのメンツで飯食いたいって言っててさ」

「……」

 晶からの返事がない。そんでもって心なしか電話の向こうの空気が重くなった気がする。

「もしかしてもう先客が入ってたか?だとしたら気にしないでくれ。こっちが急に連絡したわけだしまた今度予定を空けてくれれば良いから。それじゃ」

「え、ちょっとちょっとちょっと待ってください!」

 通話を切ろうとすると電話の向こうから晶が慌てて静止してくる声が聞こえる。

「何一人で勝手に話を進めてそのまま走り抜けちゃってるんですか⁉︎私まだ何も言ってないじゃないですか!」

「そうかだったか?こっちとしては先輩の誘いを断りづらい後輩を気遣ったつもりなんだが」

「草野くんに私の気持ちを押し測る才能なんてないんだから余計な気を回さないでください!」

 なぜか晶は相当気が立っているらしい。それにしたって言い過ぎだと思う。

「悪かったよ、なら昼は一緒に飯を食えるってことでいいのか?」

「ええと、はい。それは大丈夫なんですけど……差し支えなければ一人私の友達を連れてきても大丈夫ですかね?元々その子と一緒に食べる約束をしてたんですけどついでにご相談したいこともありまして……」

「相談?まあ急に誘ったのはこっちの方だし別に構わねえよ。じゃあ場所は……校庭の中庭でいいか、もし先に着いたら席を取っといてくれ」

「中庭ですね?はい、分かりました!それでは失礼します!」

 そう言うと晶との通話が切れた。

「晶飯来れるってさ」

「マジで⁉︎よっしゃ!」

「ただ先に約束してた友達も連れてきたいって言っててさ、勝手にオッケー出したけど……別に良いよな?」

「大丈夫大丈夫。場所は中庭だろ?さっさと行こうぜ」

 洋平はそう言うと早速椅子から立ち上がった。

「はいよ」

 俺も弁当と今朝笠原から受け取ったおにぎりを持って洋平の後を追った。

 

 

「あちゃー、やっぱ少し出遅れたみたいだな」

 俺達が校舎を出て中庭に着くと中庭は既に結構な数の生徒達で賑わっており見渡す限りベンチやテーブル席はほとんど埋まっていた。

「まあ暇な生徒達が昼休みを過ごす憩いの場としてはここじゃ定番だしな。空いてる場所を探すか晶達が場所を取ってくれていればいいんだが……」

「おーい!草野くーん!星くーん!」

 呼ばれた方を見ると先にテーブル席に座っていた晶がこちらに向かって手を振っていてその隣には見慣れない女子生徒が座っている。

「よお晶!先に席取っといてくれたのか、ありがとうな」

 洋平はそう言いながら晶達のいる場所に駆け寄ると席に着いた。

「いえいえ、中庭には一年生の教室の方が近いですから。こちらこそ食事に誘っていただいてありがとうございます!」

「今朝久しぶりに会えたっていうのに全然話せなかっただろ?また顔を忘れられる前に親睦を深めようと思ってな」

「え⁉︎だから今朝は星くんのことを忘れてたわけではなくてですね……」

「おいハゲ、いつまで根に持ってんだ。どこからどう見たって昔の顔と一致しないんだから晶に非はねえよ」

「だからハゲじゃねえ‼︎」

「そんな怒鳴るなって。ほら、お前のこと見てビビってるじゃねえか」

 俺が首を振って洋平に視線を促すと晶の隣にいる女子生徒は洋平の見た目や怒声に対してすっかり怯えている様子だった。

「あ、悪りぃな全然気が利かなくてさ。今のは俺たちの普段のノリみたいなモンだから気にしないでくれ」

 洋平も彼女の態度を察してか申し訳なさそうに頭を下げた。

「い、いえ。全然そんなこと……」

 一見すると無理矢理制服を着たおっさんにしか見えない洋平に謝られたからなのか彼女はより一層萎縮した様子で狼狽している。

「そういえば紹介がまだでしたね、彼女は私のクラスメイトで友達の浜崎夢子ちゃんです。今日はお昼を一緒に食べる約束をしていたので連れてきちゃいました」

「は、浜崎です。よろしくお願いします……」

 かなり緊張しているのか浜崎の声は少し上ずっていておまけに後半になるに従って小さくなって聞き取りづらい。顔もさっきまで泣いたのかと思うくらいに紅潮していて瞳も潤みがかっていためなんだかこちらが悪いことをしてしまった気分になってくる。

「えっと一応事前に軽く説明したんだけど、こちらの背の高い方が星洋平くんでちっちゃい方が草野光くん。二人は私の中学の頃からの知り合いなの」

 続けて晶が浜崎に俺たちのことを紹介してくれた。

「俺がでっかい方の星洋平だ。よろしくな、浜崎。先輩後輩とか気にせず俺のことは好きに呼んでくれて構わないぜ」

 彼女の緊張した様子を察したからなのか場を和まそうと晶のノリに乗っかって洋平は明るく挨拶を交わした。

「その紹介の仕方はどうなんだ?」

 ちっちゃい方認定された俺は抗議の意思を込めた視線を晶に送る。

「ふふっ、昔は逆だったんですけどね」

 軽くあしらわれてしまった。晶以外の二人も各々の自己紹介が終わったところで持参した弁当を食べる用意を始めていたので俺はこれ以上追求しても空回りに終わるであろうことを悟った。

「……まあいいや。浜崎さん、でいいかな?ごめんな、先に約束してたのに俺達が割り込む形になっちゃって。電話での会話の流れ的に晶も君に確認はとってなかったみたいだし無理矢理連れてこられたりしたんじゃないか?」

「私そんなことしてないです!それにさっきから二人とも夢子ちゃんに謝ってばかりですよ、初対面なのにこれじゃあ夢子ちゃんも困っちゃいます!」

「わ、私は気にしていないので。それに先輩方にご相談したいこともあったので晶ちゃんに誘ってもらってむしろ感謝しているくらいですから……」

 相談?そういえばさっき晶が電話でそんなことを言っていた気がする。

「なんだ浜崎、何か悩んでることでもあるのか?勉強以外のことなら力になるぜ」

「え、ええと、ありがとうございます……実は猫の里親になってくれる人を探していまして」

「猫?」

 相談の内容が予想していたものとは違ったからなのか洋平は呆気にとられた顔をして聞き返した。

「はい……ちょうど一週間前、学校に行く途中でダンボールに入った子猫を見つけたんです。最初は見て見ぬふりをしようとも思ったんですけど猫ちゃんの体も小さかったしもし保健所に連れて行かれちゃったらとか考えたらどうしても放って置けなくて……引き取るつもりで家に連れて帰ったんです。でも……」

 そこまで言うと浜崎は言葉を詰まらせて目を伏せてしまった。

「夢子ちゃんの親御さんから飼うことを猛反対されちゃったんです」

 見ていられなかったのか晶が助け舟を出した。

「それはなんというか、残念だったな」

 洋平はなんともいえないといった顔をしながら同情の言葉をかける。

「そういう訳で代わりに引き取ってくれる人を探していましてちょうどいい機会だったのでお二人に相談させていただいたという次第なんです」

 晶は今回の浜崎の相談内容を簡潔に代弁した。

「私もできることなら力になってあげたかったのですが夢子ちゃんと同じように親に反対されまして……草野くん家はどうでしょう?」

「あいにく姉貴が猫アレルギーでな。子供の頃爺さん家に遊びに行った時に飼ってた猫に触って寝込んだことがある」

「そうでしたか、それだと里親になってもらうのは難しいですね」

「悪いな、洋平はどうだ?お前んちのマンションってペット禁止だったりするのか?」

「いや、それはちょっと分かんねえけど……さっきの話だとまだ小さい子猫なんだろ?俺一人暮らしだし面倒見切れる自信ねえよ」

「え?星くんって一人暮らしなんですか?」

 晶は驚いた様子で洋平に尋ねた。

「親に頼み込んで許してもらったんだ。まあ仮に面倒が見れたとしても親に生活費をもらって暮らしてる立場上、自立もしてない俺が猫を飼うってのは浜崎には申し訳ないが俺の中の道理に合わないかな」

 洋平は申し訳なさそうにするもののはっきりと里親になることはできないという意志を浜崎に伝えた。

「い、いえ、気にしないでください」

「まあ俺の方でも友達とか部活の奴等にも聞いてみるからさ、ピカも協力してくれるよな?」

「お前と比べたら俺の知り合いなんて数が知れてるが……善処する。浜崎さんに聞いときたいんだが引き取り相手を探すに当たってもう少し詳しい猫の情報を教えてもらえるか?」

「え、ええと、猫ちゃんの種類っていうのは申し訳ありませんが分からなくて……毛並みは黒くて瞳は黄色い女の子です。体はまだ小さいので多分生まれて間もないと思うんですけど大人しくて良い子なので比較的お世話しやすいんじゃないかと思います……」

「なるほどな。ついでにもう一つ、スマホでその黒猫の画像とか撮ってないか?もし画像を持ってるなら送ってもらえると里親探しが捗ると思うんだが」

「画像ですか?一応持ってはいるんですけど……そうですよね、ではお願いします……」

 浜崎はそう言うとおずおずと自分のスマホを取り出した。

「いい機会ですからこの四人でグループチャットを作りませんか?画像の受け渡しも一度で済みますし今後の情報交換もスムーズになると思うんですけど」

 俺達の会話に割り込んで晶が提案をしてきた。

「あ、俺もそれ賛成。ちょうど晶とも連絡先交換したかったし」

 それに続いて将兵も晶の提案に賛同する。

 そういうわけで四人でグループチャットを作成すると浜崎から猫の画像が送られてきた。

 さっき浜崎が言っていたように画像には小さい黒猫が映っており、段ボールの中に敷かれた大きめの猫型のクッションの上で眠っていた。

「ありがとうな、きっと役に立つと思う……ちなみにこの猫は今も段ボールで飼っているのか?」

「え、えっと、はい……すいません」

 俺の聞き方が不味かったのか浜崎は俺に対して謝ってきた。

「いや、何も責めてるわけじゃないんだ。少し気になっただけで……勘違いさせたのなら謝るよ」

「いえ、こちらの方こそ……すいません」

 駄目だ。お互い相性が悪すぎて謝罪のキャッチボールにしかならない。

「じゃあ子猫の件については一旦ここまでにしておきますか。皆真剣に話し込んじゃって全然お箸が進んでないですよ」

 見かねた晶が助け舟を出してきた。これには本当感謝しかない。

「そうだな、言われてみりゃ滅茶苦茶腹減ってきたわ」

 洋平はそう言うと自身の弁当箱からウインナーを一つ摘んで口に放り込むと俺達も気を取り直して各自用意した弁当を食べ始めた。

「二人とも高校生活はどうよ?二ヶ月も経ってるからそろそろ慣れた頃か?」

 全員がご飯を食べて口数が減ってきたのを察してか洋平が会話を投げかけた。こういう時洋平のコミュニケーション能力の高さは役に立つ。

「そうですね、おかげさまで楽しい高校生活を送らせてもらってますよ」

「……なぜこっちを見る」

「ふふっ、なんででしょう」

 晶はからかうように笑いながらこちらを見た。

「……私も晶ちゃんが友達になってくれたおかげで毎日楽しいです。部活の方は皆に追いつこうとするので大変ですけど」

「なんだ浜崎も部活やってるのか?」

「は、はい。……バスケ部に入ってます」

 浜崎の回答はこちらの予想とは大きく異なるものだった。洋平も同じように驚いたようで箸を運ぶ手がピタッと止まった。

「やっぱり意外ですよね、私みたいなのがバスケ部に入ってるなんて」

「あ、いやそんなことは……すまん。てっきり文化系かと思った」

「ふふっ、いいんです自覚はしてますから。実際に高校に入るまでは帰宅部でしたし」

 自虐を含んでいたが初めて浜崎が笑った顔を見せる。ようやく僅かにだが緊張がほぐれてきたのかもしれない。

「そうなのか、どうしてまたいきなりバスケを始めようと思ったんだ?」

「それは……自分を変えたいと思ったからかもしれません。既にお気づきかもしれませんが私ってすごく引っ込み思案で自分から前にでたり何かを決断した経験がほとんどなくて……高校生になったら思い切って新しい事を始めてみようと思ったんです。バスケを選んだのはその……」

 途中で浜崎の言葉が止まる。顔の赤みが僅かに増した気もするがどうやら言いたくないらしい。

「なるほどな、いやあ感心した!自分を変えようなんて思うのは簡単だが中々実行できるもんじゃないぜ。なあ、ピカもそう思うだろう?」

 何か心にくるものがあったのか洋平は浜崎の意志を尊敬すると同時に俺に同意を求めてきた。

「まあそうだな、全面的に俺も洋平に同意だ。今は楽しい事ばかり、とはいかないかもしれないが運動系の部員の繋がりというのは往々にして強かったりするしそういう居場所が一つあるだけでもやる価値は大いにあると思う」

「そう思うなら草野くんもサッカーを続ければ良かったのに」

 晶は少しこちらを責めるような態度で文句を言ってきた。

「こちとら丸坊主は死んでもごめんなんでな」

「うわぁ、冷めてますねぇ」

 まるで独り言のようにこちらに聞こえるかどうかという声量で晶は皮肉をかましてきた。

「そういえば、男子バスケに笠原智樹ってのがいると思うんだが知ってるか?」

 俺も晶の皮肉は聞こえないフリをして話題をもとに戻そうと浜崎に質問を投げかけた。

「え⁉︎か、笠原先輩ですか?知ってますけどど、どうして?」

 これまでで一番浜崎は動揺しており顔もより一層紅潮している。

「いや、あいつとは同じクラスだから普段部活ではどんな感じなのか気になっただけだけど」

「そ、そうですか……笠原先輩はすごい人です。誰よりも早く体育館に来て誰よりも遅くまで残って練習していますし、一番バスケが上手なのにそれを笠に着るような素振りも見せない人なんです。それに私みたいな後輩の面倒もよく見てくれて……」

 浜崎の笠原に対する評価は相当高いらしくあいつの長所を次々と上げていく。彼女の笠原に抱いている感情はどうやらそれだけではないことはなんとなく察したが初対面でいきなりそこについて切り出すのも野暮だろうと思い口には出さないことにした。

「そうか、あいつがバスケが上手いっていうのはなんとなく知ってはいたんだがそこまで面倒見が良い奴なのは正直意外だった」

「確かにクラスではどっちかっていうといい加減な部分が目立つもんな……いやでもあいつって結構女子からモテてるみたいだし俺達が気づかなかっただけで案外そういう一面は普段から見せてたのかも」

 普段はそんなことないのに今日に限って察しの悪い洋平が余計な一言を放つ。ハゲ野郎と心の中で叫びながら浜崎の方を見ると意外とショックを受けた様子はなかった。

「男女問わず笠原さんは慕われていると思いますよ。他の部員も残って練習しようとしてたら無理に自分の練習に付き合わせるのは悪いからって追い出して後片付けも一人で引き受けてますし」

 続々と聞かされる笠原の男前エピソードに思わずこちらもなんだかときめきそうになってくる。果たして浜崎の言っている笠原とは今朝俺に無理矢理あんまんをぶち込んできたアイツと同じ人物なのだろうか。

「あっ!」

 突然晶が何かを思い付いたかのように大きな声を上げた。

「なんだよいきなり。用事でも思い出したか?」

「違いますよ!ほら草野くんには今朝話したじゃないですか、学校の七不思議の話」

「七不思議?ああ、そんな話もしたっけか。それがどうしたよ?」

「おいおいなんだよ七不思議って⁉︎」

 洋平が興味深そうに身を乗り出す。

「説明しようにもそのまんまの意味だよ。なんか一年生の間で学校の七不思議の噂が広まってるんだってさ」

「それってトイレの花子さんとかそういうやつか⁉︎確かに入学してからそんな話は聞いたことなかったが」

「私はこの話を以前夢子ちゃんから聞いてたんですけどその時話してた『誰もいない体育館でボールの跳ねる音がする』の正体ってもしかして……」

「遅くまで残って練習してる笠原だってか?馬鹿馬鹿しいけどそうなんじゃねえの?どっちでもいいよ」

「えぇー‼︎草野くんはなんでそんな興味ないんですか⁉︎せっかく名推理を披露したのに冷たい!冷たいです!」

「そうだぞピカ!晶のは全然推理にはなってないからもしかしたら本当に実在するかもしれないじゃないか!」

「星くんもひどいです!ひどい!」

「つーかなんでお前までワクワクしてんだハゲ」

「ハゲじゃない!」

 泣き崩れそうな晶と興奮して我を忘れかけている洋平によって場の雰囲気が荒れ始める。それにしても洋平がこの手の話が好きだったとは……それなりに長い付き合いになるが初めて知ったぞ。

「はあ……晶はこう言ってるが浜崎さんは実際のところどう思う?」

「えぇと、実は私も晶ちゃんの言う通りバスケ部の男の子達が笠原先輩のことをからかって流した噂なんじゃないかなって思ってました」

「へえ、それは浜崎さんが噂話をバスケ部の男子から聞いたってことか?」

「はい、ええと先週の水曜日だったと思います、あの日部活が終わってバスケ部の男女グループで帰っている時にちょうど七不思議の話になって……確か男の子の方から体育館の噂話が出てたと思います」

「ほらここに証人がいましたよ!説立証です‼︎」

「だからお前の考えは否定してねえよ、どうでもいいってだけで」

「いや、浜崎の証言だけでそう決めつけるのは早計じゃないか?」

「お前は少し黙ってろ」

「いいや黙るわけにはいかない。さあ浜崎思う存分聞かせてくれその『昼明高校恐怖の七不思議』という奴を!」

「ひゃっ⁉︎」

 自制の効かなくなった洋平は興奮気味に浜崎の両肩を掴むと揺さぶりながら噂話を催促した。

「落ち着けバカ!ただでさえ疑われやすい見た目してんのに言い訳できない状況を自ら作り出してんじゃねえよ!あと変なタイトル付けんな」

 俺は慌てて洋平の頭をぶん殴った後力づくで浜崎から洋平を引き剥がしてなんとか落ち着かせる。

「……すまなかった浜崎。大好きなオカルト話を前にしてつい我を忘れてしまった」

 今となっちゃ俺は怪談話よりお前の方がこえーよ

「い、いえ、気にしないでください。あくまで噂話なので星先輩のご期待に沿えるかは分かりませんが」

 浜崎はそう言うと一旦間を置いて荒くなった息を整えてから再び話し始めた。

「えぇと、私があの時聞いたのは一つ目が深夜に校舎を徘徊する人体模型。二つ目がこれも深夜に動き回る二宮金次郎像。三つ目が桜の木の下に死体が埋まっている。四つ目がさっき晶ちゃんが言っていた誰もいない体育館でボールの跳ねる音がする。五つ目が体育館で亡くなった女子生徒の鳴き声が聞こえる。六つ目が最後の噂話の一つを知ると不幸になる……はぁっ、以上です」

 浜崎は一息で話し続けて疲れたのか深呼吸をしてペットボトルのお茶を飲み干した。

「なんというか……滅茶苦茶じゃね?」

「七不思議なのに六個しかありませんね」

「前半はどこにでもあるオーソドックスなもので固めてきたなと思ったが後半になるに連れてネタ切れになった感じが否めないな。体育館ネタが被っているのは当然マイナス評価だが『最後の噂話の一つを知ると不幸になる』が六つ目に来てしまっているのは致命的に詰めが甘すぎる」

 黙って七不思議、もとい六不思議を聞いていた三人が各々の所見を述べる。一人オカルトマエストロが混ざってはいるが感想としてはおおよそ似たようなものだろう。

「すいません、やはりご期待に沿えるものではなかったですよね……私も友達づてに聞いたに過ぎないのでもしかしたら本当はもう一個あるのかもしれないです」

 落胆した洋平の様子を見て浜崎は申し訳なさそうにしている。

「浜崎さんが謝る必要はないだろう。さっきこいつらも言っていたが色々内容の詰めが甘かったり笠原が元ネタの可能性があることを考慮すると大方バスケ部の連中が暇つぶしに適当にでっち上げたって線が濃厚だな。晶には今朝も言ったがどうせ長くは続かない」

 俺はそう言いながらスマホの時計を確認する。そろそろ昼休みも終わりに近づいており気付けば中庭にいた生徒の数も少なくなっている。

「そろそろいい時間だな。俺達四限目は体育だから準備をしないといけないし今日はこの辺りでお開きにしよう」

「あぁそうだな、二人とも今日は飯に付き合ってくれてありがとな。里親の件できる限り手伝うから安心してくれ」

 洋平はそう言って弁当箱を片付け始めた。

「こちらこそ誘っていただいてありがとうございます。久しぶりに星くんと話せて楽しかったです。また機会があれば誘ってください!」

「わ、私も突然お邪魔する形になってしまったのにおまけに相談にも乗っていただいて助かりました」

 浜崎はそう言って深々と頭を下げた。

 やはり彼女には気を使わせてしまったのかなと思いつつ弁当箱を片付けていると今朝笠原からもらったおにぎりが目に入る。つい食べるのを忘れてしまっていた。

「あー、浜崎さん。よかったらこれ食べるか?」

 お近づきの印にというわけではなかったが笠原からもらったものだということもあって譲ることにした。

「……すいません私梅干しが苦手で」

 そうですか、そりゃ残念。

 かといって俺もこの後運動が控えているためこれ以上胃に負担をかけたくないところではある。

「じゃあ、晶。お前にやるよ」

「私も梅干し嫌いなので結構です!」

 見事玉砕。朝から三人に振られ続ける梅干しを見てなんだか可愛そうになってきた。

「……俺はお前のことそこまで嫌いじゃないぜ」

 周りの奴らには聞こえないくらいの声で俺は呟きながら俺はおにぎりをポケットにしまい中庭を後にした。

 

 

 昼休み後の午後の授業も滞りなく終わり放課後になると俺は部活に向かおうとする洋平に声をかけた。

「なあ洋平」

「なんだよ?」

「今日なんだけどお前の家に泊まってもいいか?」

「は?別にいいけどよ、月曜日に家に泊まりにくるなんて珍しいな」

「さっき知り合いから連絡が来てな、メンバーの集まりが悪くて来れる人を募集してんだ」

 今年になってから俺は洋平のツテで紹介してもらった社会人のフットサルの集まりに水曜日だけ参加するようになり参加後は洋平の家に泊めてもらうのが習慣となっていた。

「ほーん、了解。じゃあ俺部活行くから」

「助かる。頑張れよ」

 洋平は片手を上げると学生鞄を手に持ち部活の用意を詰め込んだバッグを肩にぶら下げて教室から出て行った。

 俺が通っているフットサル場は通学ルートとは逆方向の駅の方向にあり、歩いて向かうと四十分程かかる。

 参加メンバーの多くは仕事終わりの社会人やサークル活動をしている大学生で構成されており、俺のような高校生はほとんどいないので開始時間は午後六時と部活などと比べて遅めに設定されているためそれまで時間を結構持て余すことになる。

 ……とりあえず図書館で時間でも潰すか

 俺はロッカーに常備してあるスポーツウェアやフットサルシューズをまとめたスポーツバッグを取り出して図書館に向かった。

 

 

 結局図書館で特に何かするわけではなくダラダラと過ごしてからフットサルに参加し、終わって解散となる頃には午後九時を過ぎていた。

 解散間際になってふと昼食の時のことを思い出して猫の里親になってくれないかメンバーに尋ねてまわったが残念ながらいずれも望ましい解答は得られることはできなかった。

 気を取り直して今から帰るとだけ洋平に連絡をしてコートを後にする。

 もしこれから実家に帰ろうとすれば二時間どころではすまないことを考えるとあいつには頭が上がらない。

 お礼に何か差し入れでも買っていくか

 そう思って近くのコンビニへと足を運ぶと途中で見覚えのある人物と遭遇した。

 夜が深くなっているのに加えて私服姿だったため分かりづらかったが笠原がこちらに向かって歩いてきている。

「こんなところで会うなんて奇遇だな」

「は?……って草野か。びっくりした」

 暗くて気が付かなかったが笠原はイヤホンを付けていたようでそれを外すと立ち止まった。

「驚かせたみたいで悪かったな、暗くて気がつかなかった」

「別にいいけどよぉ、なんでこんなところにいんだ?確かお前の家ってかなり遠かったと思うけど」

「さっきまで近くでフットサルをやっててな。この後洋平の家に泊めてもらうことになっている。お前こそこんな時間まで何してんだ?」

「何って……部活終わって家に帰ったけど暇だったからコンビニで時間でも潰そうかなって」

「そうか、ちょうど俺もコンビニに寄る予定だったから一緒に行こうぜ」

「ええと……まあ、別にいいけど」

 そう言って俺達はコンビニに向かって再び歩き始めた。

「草野ってフットサルなんてやってたんだな、あんま運動好きなイメージとかなかったからちょっと以外だったかも」

「高校入ってからは帰宅部だったしフットサルを始めたのも今年からだからな。そう思うのも無理はない」

「じゃあ中学までは部活やってたりしたのか?」

「小学校の時からサッカー部だった」

「マジで⁉︎想像つかねーしウケるんだけど」

 なぜか俺の過去がツボにハマったらしく笠原はケラケラと笑った。

「俺がサッカーやってたのがそんなに面白いか」

「え?いやぁ悪りぃ悪りぃ。頭の中で丸坊主の草野想像しちゃってさ。つーかなんでサッカー辞めたわけ?フットサルやってるんだから嫌いな訳じゃないんだろ?」

「お前がさっき笑ってたのがそのまま答えだよ。丸坊主になるのが嫌だから辞めた。俺にとって運動は息抜き程度で十分だ」

「うわぁ冷めてんねー草野は。いくら大人ぶったって結局はまだ子供なんだからさ、好きなことくらい年相応に無邪気に打ち込んだ方がいいと俺は思うけどね」

「お前こそ……」

 チャラ男のくせに、と言いそうになったが今日の昼浜崎から聞いた笠原の話を思い出して踏みとどまる。そういえばこいつは見た目はチャラ男でもその中身は超熱血スポ根漫画の主人公だったんだ。

「ん?」

「なんでもない。お前は俺と違って相当バスケ頑張ってるみたいじゃないか。後輩達の面倒もよく見てて人気者だって知り合いが言ってたぞ」

「えーマジで?そんな噂になってんの?いやー困るんだよなー俺はただ真面目にバスケに取り組んでるだけなんだけどなー」

 笠原は白々しい態度で謙遜ぶる。どうやら自分の評判がいいという自覚はあるようでこちらとしては全くもって面白くない。

「そうだな、確かに噂になってる。知ってるか?お前オカルト話の元ネタにされてんぞ?」

「あー学校の七不思議みたいなやつ?」

「なんだ知ってたのか」

「なんか七不思議がちょっとブームになっててそれにかこつけて部活の一年が言いふらしてるみたいだな。俺としてはイジられる系で評判になるのはあまりいい気分じゃないけど」

「まあ裏を返せば冗談が言えるくらい後輩にとって親しみやすい存在なんじゃないか?」

「うーん、そういうもんかね?」

「そういうもんだろう。どうせ近いうちに皆飽きるだろうからそれまで我慢するんだな」

「へいへい。にしてもなんで今時七不思議なのかね?落武者なんて今時お化け屋敷で出てきてもちょっと嘘くさい感じがしねえ?」

「落武者?」

「あれ?聞いてないか?『夜の運動場に落武者の亡霊が現れる』ってやつ」

 喜べ洋平。七つ目の不思議を見つけたぞ。もうコンビニに立ち寄らずともちょうどいい土産が手に入ったんじゃなかろうか。

「俺も七つ全部を聞いたわけじゃなくてな、そいつは初耳だった」

「そっか、まあそこは俺もお前と同じだけど。あとは……なんだっけ?確か体育館でボールが跳ねるヤツとプールの中から子供の霊がひきづり込んでくるってのと……人体模型が夜学校をうろついてるってのも聞いた気がする」

 訂正。洋平よ、七不思議どころでは済まなかった。

 七不思議の話を聞いた時の喜びようだともしこのことを知ったらアイツはショックを受けるのだろうか?ならば黙っておいた方がアイツのためかもしれない。

「どうした草野、自分から話題をふってきたくせにもしかしてビビったのか?」

 俺の呆れた顔を見て違う意味で捉えたのか笠原が揶揄った様子で聞いてくる。

「いや、本当に噂話ってのは馬鹿馬鹿しいなって思っただけだ。それも部活の後輩から聞いたんだよな?」

「え?あぁ、確かそうだったと思う……あ、着いたな」

 笠原と雑談をしている内に目的のコンビニに到着した。そういえば笠原とこうして学校の外で話すのは初めてだったが会話が途絶えて気まずい空気が流れるみたいなこともなかった。

 案外気が合うのかもしれない。

「ちょっと腹痛いからトイレ行ってくる。草野もなんか買うもんあるみたいだけどそれ終わったら別に待たずに帰っていいから」

 笠原はそういうとコンビニのトイレに向かって歩き始めた。

「分かった。あ、そうだ笠原」

「何?」

「お前って猫好き?」

「嫌い。断然犬派」

 笠原は即答すると勢いよくトイレのドアを閉めた。

 

 

 コンビニで夜食になりそうなものを適当に見繕ってから洋平のマンションに着いたのが十時過ぎ。部屋の前でインターホンを鳴らすと鍵を開けて洋平が出迎えてくれた。

「おぉ遅かったな!早く入れよ」

「いつもすまんな、邪魔になる」

 俺は玄関で靴を脱ぐとそのままリビングへ向かう。洋平の家は学生の一人暮らしにしてはかなり広く玄関から伸びる廊下はいくつかの部屋に繋がっているが俺は何度もこの家に通っているので足取りが迷うことはない。

 リビングに着くとテーブルにコンビニで買った差し入れを置いて椅子に腰を下ろす。

「なんか飲むか?」

「いや、差し入れと俺の分の食べ物とかも買ってきたから大丈夫だ。ここに置いとくぞ」

「おぉ!サンキュー!」

 洋平はそういうと俺の向かいの椅子に座りコンビニ袋からポテトチップスとコーラを取り出して食べ始めた。

「なあ聞いてくれよピカ。ついに見つけたぞ!」

「あ?なんだよ気持ち悪いな」

「へへっ、そう言うなって。ほら昼休み浜崎の言ってたやつ」

「昼?あぁ、なんだもう見つけたのか。それで誰が引き取ってくれるって?」

「引き取る?何を?」

「何を?って……猫意外に何があるんだよ?」

「猫……あぁ違う違う、そっちはまだだ。俺が見つけたのは七不思議だよ七不思議」

「そっちかよ、どうでもいいって」

 それに生憎俺は既に笠原から足りない七不思議を教えてもらっている。多すぎて九不思議になってしまったけど。

「そんなツレないこと言うなよぉ。気になるだろぉ?ピカピカぁ」

「うるせえ、聞いてやるからそのキモい猫撫で声を出すな」

 思わずぶん殴りそうになったが家に泊めてもらっている恩を思い出して折れてやることにした。

「へへっ、俺が部活の後輩達に聞き込みをした結果だがな、『深夜の美術室でデッサン像が大笑いしている』『この学校のどこかにあかずの扉がある』この二つの噂を新たに入手したぞ!」

「八つになってんじゃねえか!なんで一つ目を知ったところで止めねえんだよ」

 しかも俺がさっき笠原から聞いたのとはどれも違う内容だった。

「八つで何が悪い!不思議なことがたくさんある分には別に構わんだろうが!」

「なんでキレてんだよ……昼休みの時あんだけ七不思議に拘ってただろ」

「確かに七不思議を謳っておいて六つしかなかったのは問題外だが別に俺は七という数字に固執している訳じゃない。仮に七不思議が既に揃っている状態だったとしてその後新しい不思議が出てきた時に収まりが悪いからといって受け付けない状態の方が俺にとっては損失であるといえる」

 どうやらこの手のジャンルにおいて洋平には何か哲学があるらしい。

「まあ…多い分には困らないっっていうのだけは分かった」

「理解してくれて何より。俺は明日からこれまでに集めた『七不思議エイト』の真相を解き明かそうと思う」

 洋平は昼休みの時に続いて勝手に七不思議にタイトルをつけた。そう言うのが好きなのか?

「そうか、頑張れよ」

 洋平の言葉を借りるなら俺は七不思議イレブンを知っているのだがそれをこいつに教えるとさらに付き合わされて面倒になりそうなので黙っておくことにした。まあこいつなら遅かれ早かれ残りの噂にも辿り着くだろう。

「なあシャワー借りてもいいか?汗流してないから気持ち悪い」

「ん、じゃあ俺もそろそろ寝るかな。なんか今日興奮しすぎて疲れたし」

 俺は会話を切り上げると着替えを持って風呂場へと向かった。



 俺はシャワーで汗を流してリビングに戻ると洋平の姿が見当たらずリビングに配置されているソファの上には折り畳まれたブランケットと枕が置かれていた。

 ありがたいことにどうやら洋平が俺の寝る用意をしてくれた後就寝のために自分の部屋に戻ったようだ。

 洋平に感謝しつつ俺はソファで眠りについた。

 翌朝スマホのアラームで目を覚ます。時計を確認すると七時三十分、普段通りであれば遅刻確定の時間だが幸い洋平の家から学校まで二十分もかからないため今から登校しても十分に間に合う。

 昨日あらかじめコンビニで買い込んでいた朝食を食べるためテーブルに向かうとメモ用紙と鍵が置かれていた。

 メモ用紙を手に取り内容を確認すると「朝練に行くから家出る時鍵閉めとけ」と記されていた。どうやら俺を起こさないようにして先に洋平は家を出ていたらしい。

 全く……つくづくアイツには頭が上がらない。紹介してくれた社会人フットサルは楽しくやらせてもらっているし、頼めば家に泊めてくれて登校するのも去年と比べれば随分と楽になった。

 洋平の面倒見の良さに感謝しながら朝食を済ませて学校に向かうため家を出ると数分もかからないうちに見知った顔が待ち伏せていた。

「おはようございます!草野くん!」

「……そんなことだろうと思ったよ」

 晶がさも待ち合わせの約束でもしてたかのように何食わぬ顔で笑顔を振り向いて話しかけてきた。

 もはやなんでここにいるのかは聞きはしない。たとえ登校する時間が変わろうと登校するルートを変えようとコイツは現れるのだ。そういうものだと割り切るしかない。

「さあ一緒に学校に行きましょう!ここからならそんなに時間がかからないとはいえのんびりしていると遅刻しちゃいますよ!」

「あいよ」

「もう!どうしてそんなツレないことを……ってありゃ?」

 晶はポカンとした様子でその場に留まっているのを俺は無視して歩き続ける

「どうした?ぼさっとしてると遅刻するんだろ?」

「そうですけど……って待ってくださいよ!」

 我に帰った晶は慌てて俺の跡を追う。

「全くもうっ、いつもと様子が違うので一瞬面喰らっちゃいましたがようやく私の魅力が伝わったんですね!」

「まだ寝ぼけてんのか?学校に着いたら顔洗ってこい」

「んがっ!やっぱりいつもの草野くんでした……なんでいつもみたいに追い返そうとしないんですか?」

「まあ昨日の昼のことも気になってたし偶には雑談に付き合ってやってもいいかなって。猫の里親探しは順調か?」

「んー残念ながらまだですねぇ。クラスの友達とか身近なところには当たってみたんですけど空振りでした。夢子ちゃんも普段親しくない人に積極的に話しかけたりしてるらしいですけど慣れないことで頑張っているせいか体調崩しちゃったみたいで今日は学校を休むって今朝連絡が来ました。草野くんの方はどうですか?」

「俺も似たようなもんだ。といっても俺はお前やピカ程人付き合いがいいわけじゃないからあまり期待はするなよ」

 フットサルの知り合いがダメだった以上俺の心当たりは全滅したと言ってもいい。俺の交友関係の狭さを改めて思い知らされるが別に悲しくはない。

「気落ちすることはないですよ!私も初めから草野くんは頭数には入れてなかったので」

「……そうか」

 晶の言っていることは間違っていないので別に悲しくはない……本当に強がりではない。

「あ、昼休みといえばですけど聞いてください草野くん、私ついに見つけました!」

 突然何かを思い出したのか晶は興奮した様子で俺に話しかけてくる。

 そういえば昨夜似たようなことを言っていやつがいたような気がするんだが。

「見つけたって何を?」

 この先何を言うか大方読めてはいるが念のため聞いてみる。

「七不思議ですよ!七不思議!」

「やっぱりお前もか」

「え?ひょっとしてもう草野くんもご存じでしたか?」

「昨日洋平ともう一人別の知り合いから聞いた。で?昨日お前はいくつ噂を見つけたんだ?」

「えー、新しく見つけた噂が一つだけじゃないってことまで知ってるなんて話しがいがないんですが……まあいいでしょう。私が昨日仕入れたのは『深夜誰もいないグラウンドで人体模型が徘徊している』『深夜音楽室からピアノの鳴く音が聞こえてくる』の二つですね」

 人体模型の方は昨日笠原から聞いていたがもう一つの方は初耳だ。

 また俺の中で新たに七不思議の噂が更新された。

「へえ、友達から聞いたのか?」

「はい、昨日は放課後図書委員の仕事があったのでその時同じく図書委員の同級生から聞きました。それでどうでした?私の集めた七不思議ナインは草野くんの集めた内容と一致していますか?」

 偶然にもこれもまた洋平と同じことを言っている。流行ってんのか?七不思議ナイン。

「お前の言葉を借りるならさっきまでは七不思議イレブンだったが今は七不思議トゥウェルブになったよ。っつーか七不思議トゥウェルブって言いづらいな。どうでもいいけど」

「そんなにも⁉︎草野くん全然噂話に興味ないって態度を取ってるくせにメチャクチャ情報集めてるじゃないですか!このオカルトムッツリ!」

「誰がオカルトムッツリだ!雑談してたら偶然入ってきただけだっての」

「ふーん、本当のところはどうなんですかねぇ。まあ今はそういうことにしておいてあげますよ。それよりも残りの噂を教えてください!」

「嫌だ」

「嫌だって……なんでそんなに意地悪するんですか!教えてくださいよ!」

「最初は親切心で教えてやろうとも思ったが……そんな俺のことをやれ友達が少ないだとかやれムッツリだとか馬鹿にしてくるんだもんな。イエロー二枚でペナルティだ」

「そんなぁ……そもそも友達が少ないって最初に言ったのは草野くん自身なのに」

「俺の自虐に迂闊に同調するな。寸止めで済んでいた自傷行為がお前の後押しで思わぬ出血を伴うことがあるというのを胸に刻め」

「うわぁ、女々し…いやなんでもないです」

「聞こえてるからな。まあ噂とやらになんの興味もない俺が一日で十二個も集められたんだ。お前と洋平が本気出せばすぐにでも集められるだろうよ、頑張れ」

「そうですね、こうなったら草野くんには負けていられません。今日中に噂を根こそぎかき集めて後で『学校の七不思議トップ100』を草野くんに聞かせてあげますよ!」

「勝手にすればいいけどさ、そのタイトルは止めといた方がいいぞ。後で絶対変更を余儀なくされるから」

「そんなの分からないじゃないですか!そうと決まれば早く学校に行かないと!ほら急ぎましょう!」

「ちょ、おい!」

 どうやらやる気に火がついた晶は鼻息を荒くして俺の手を掴むと学校に向かってダッシュで走り出した。

 今日こそはひょっとしたら気持ちのいい朝を迎えられるのだろうかと僅かに期待を寄せたりもしたのだが考えることは昨日と何も変わらない。

 ……あぁ、学校なんて滅びればいいのに



 晶に手を引かれてダッシュで登校した結果、学校には予想よりも五分早く到着した。

 たかだか五分を足で稼いだくらいで晶はどれだけ噂を集められるというのだろうか。

 そんなことをぼんやりと考えながら教室に向かっていると廊下に四角くて赤い何かが落ちているのに気がついた。

「これは……スマホか」

 誰かが落としてのだろうか、落ちていた真っ赤な折りたたみ型のスマホケースを手に取って開いてみる。

 一瞬気が引けたものの電源を入れてみるとロック画面が表示されその待ち受け画面には猫じゃらしと戯れている猫の様子が写っていた。

 おそらくこのスマホの持ち主が猫じゃらしを使いながら撮影をしたのだろう、撮影した人物の姿は写り込んでいないものの猫じゃらしを持つ右手だけがかろうじて確認できる。爪が綺麗に赤く塗られている右手が。

 赤いスマホケースに赤い爪ってもしかして……

 半ば信じられない気持ちを押し殺して俺は職員室に向かった。

「失礼します」

 職員室に入って岩沢先生を探すと奥の方の席に座っているのを見つけた。やはり少し慌てた様子でおそらく自分のものであろう真っ赤なカバンの中を漁っている。

「おはようございます岩沢先生。ちょっとよろしいですか?」

「あぁ、草野か。悪いんだが少し忙しくてな、急ぎでなければ後にして欲しいんだが」

「あの……それってもしかしてこれの事だったりします?」

 俺はそう言ってさっき拾ったスマホを差し出す。

「……驚いた。よく私がスマホを無くしたと分かったな。それにそれが私のものであることも」

 岩沢先生はポカンとした様子で俺の差し出したスマホを受け取った。普段赤鬼と呼ばれる彼女からは拝むことのできない表情を目の当たりにして思わずドキッとしてしまう。

「い、いえ、別に確信があったわけではなかったんですけどスマホケースの色とかでもしかしたらと……すいません、本当は良くないとは思ったんですけどロック画面見ちゃってそしたら真っ赤な爪が写り込んでたので……」

 ロック画面まで見てしまったことまで伝えるかは直前まで迷っていたが岩沢先生の表情に動揺したことでボロを出してしまった。

「別にいい、おかげでこうして手元に戻ってきたのだからな。そもそもロック画面の画像なんて誰かに見られて困るものにはしないだろう?だからお前も気にするな」

 岩沢先生なりに気を遣ったのか俺に対して優しい言葉をかけてくれるが果たしてそれを本心として受け取ってもいいのだろうか。

 本当は知られたくないプライベートな一面が生徒にバレてしまって恥ずかしいが強がって冷静さを保っているだけではだけではないかと邪推してしまう。

「猫……好きなんですね」

「愛している」

 俺の質問を言い終わるかどうかのタイミングで先生即答してきた。

「そ、そうですか。ちなみに家で飼ってたりするんですか?」

「私の家に四猫ちゃん、実家には七猫ちゃんが一緒に暮らしている」

「え、猫ちゃん?」

「猫ちゃんだ」

 気がつくといつの間にか先生の表情は普段の赤鬼と呼ぶにふさわしい冷徹さを取り戻していたのだが決定的に俺からの彼女への見え方が違う。そしておそらくそれはもう二度と元に戻ることはない。

 しかし、これは思わぬチャンスと呼べるのではないだろうか

「……あのですね、ちょうど岩沢先生を見込んで相談があるんですけど」

「相談?何を見込んでいるのかは知らないが私でよければ聞こうか」

「ありがとうございます。えっと俺の知り合いがこの前捨て猫を拾ったみたいなんですけど生憎その人の家では飼うのが難しいらしくて里親を探してい」

「分かった。私でよければ喜んで家族に迎え入れよう」

 今度は言い終わる前に返事が返ってきた。この人猫のこととなれば本当話が早いな。

「話が早くて助かります。それでは知り合い、浜崎夢子っていううちの高校の後輩なんですけどそいつには俺の方から伝えておきますので受け渡しについての詳しい話は後ほど進めるという形でよろしいでしょうか?」

「ああ。それで構わない。ちなみにどんな猫ちゃんなのか草野は知っているのか?」

「えっとちょっと待ってください。浜崎さんから猫……ちゃんの画像をもらっているので」

 そう言って俺は自分のスマホに電源を入れて浜崎からもらった子猫の画像を表示した状態で先生に差し出す。

 というかこの人どんな猫なのか知らないのに引きとるって言ったんだな、すげーよ。

「きゃわいい」

 俺のスマホを受け取ると先生はぼそっと呟いた。この姿を一度でも見れば彼女を赤鬼と呼ぶ生徒なんて一人もいないだろう。

「先生?」

 俺のスマホをじっと見つめたまま先生は微動だにしない。おそらく猫と自分だけの世界に入り込んでいるようだ。

 その世界に入ることのできない俺は何もすることがないのでキョロキョロと周りを見渡してみる。するとちょうど先生の席の後ろにたくさんの鍵が掛かっているのが視界に入った。

 おそらく生徒が部室を利用する時なんかに持ち出すのだろう。中学時代部活をやっていた時も似たような仕組みだったのをふと思い出していた。

「すまない、少し自分の世界に入っていた。スマホは返すぞ」

 いつの間にかこちらの世界に帰ってきた先生からスマホを返される。

「可愛がってくれそうで何よりですよ。少し気になったんですけど部室の鍵が必要な時って岩沢先生に一言言えば大丈夫なんですかね?」

「ん?まあ私でなくてもいいんだが席が一番近いから鍵を利用する者は私に一言断ってからそこの利用表に記入して借りていくことが多いな……だがお前は確か部活には入ってなかっただろう?相当な理由なく鍵を利用するのは残念ながら許可できないぞ」

「いえ、別にそういうつもりじゃないです。ただ朝練している部活が結構あるんだなと思いまして。男子バスケ部の鍵も借りられてるみたいですけど笠原が来たんですか?」

「そこに鍵がないならそうなんじゃないか?あいつは私よりも学校に来るのが早い時もあるからおそらく今日も私より早く来て練習をしてるんだろう、最近は昼休みも練習がしたいからと言って鍵を借りに来るから大した者だよ」

 俺は先生の言葉に耳を傾けながら利用表を確認する。確かに利用表には笠原の名前が記入されていて日付の欄も確認すると今日一番最初に鍵を持ち出しているのも笠原だということが分かった。

「笠原が真面目に部活に取り組んでるのが意外か?」

「つい最近っていうか昨日まではそうだったんですが今はそうでもないです」

「そうか、まあお前は人を外見だけで評価するようなタイプではないみたいだしな」

「へへっ、それはどうも。じゃあ俺はそろそろ教室に戻りますね」

「分かった。繰り返しになるがスマホを拾ってくれて助かった。猫ちゃんについてはよろしく頼む」

「はい、後で浜崎には伝えておきます」

 俺はそう言って職員室を出て教室に向かう。

 教室に着いてから一限目の授業の準備をしているとしばらくしてから笠原が大きなコンビニ袋を持って教室にやってきた。

「うーっす草野」

「あぁ、おはよう。朝練終わりか?」

「そうそう、あー疲れた。マジもう無理」

 笠原はそういうと椅子に深くもたれかかりながらコンビニ袋から焼きそばパンを取り出して頬張った。

「昨日といい今日といいよく食うな」

「何?飯が欲しいの?昨日ので味を占めたのかもしれないけどタダじゃやんねーぞ。ってか味を占めるだって、ウケるんだけど」

「いらねえよ、一人で笑ってろ。今日は朝練やってきたんだろ?やっぱそんだけ動くとなるとそれなりに食わないと一日持たないものなのか?」

「まあなー、自分でいうのもなんだけどウチのバスケ部って俺にかかってる部分も大きいし?周りの期待に応えるためにもそれ相応の努力って奴が必要なわけよ」

 笠原は少し照れ臭そうにしながら焼きそばパンを頬張りつつ答える。

「そいつは殊勝なこって」

「主将?へへっ、残念ながらまだ俺は主将じゃねえんだよ。まあそいつも時間の問題だろうがな」

「多分意味が違うが……別にいいか。そういや今朝岩沢先生に用があって少し話したんだが」

「え、赤鬼⁉︎……お前どんな悪いことしたんだよ?」

 相当驚いたのか俺の言葉を遮るようにして笠原は聞いてくる。

「別に大したことじゃない。ただの……授業の質問だ。その流れで少し雑談になってな、笠原は部活に真面目に取り組んでるって感心してたぞ」

 岩沢先生との今朝の具体的な会話の内容はここではあえて伏せておくことにした。話したところで笠原が信じるとも思えないし実際目の当たりにした俺ですら未だに上手く受け入れることができないからだ。

「あの赤鬼が?それ絶対嘘だろ、あいつがそんなこと言う訳ねえもん」

「別に素直に受け取っていいと思うけどな。いつも部室の鍵をお前が取りに行くんだろ?練習にはいつも一番乗りだってところを見てくれてたんだろうよ」

「一番乗り?あぁ、まあ朝練とかは俺しかいないから一番も何もねえけどな」

「え?そうなのか?」

「放課後の部活以外はあくまで俺が自主的にやってるだけだからさ、朝から晩まで一日中他の皆を無理に付き合わせるつもりはねえよ。物事の優先順位は人それぞれだ」

 そう言って笠原は最後の一口になった焼きそばパンを口に放り込む。

「なあ笠原」

「ん?」

「こんなこと言うのは柄じゃないんだがお前って凄い奴だな。尊敬するよ」

「はははっ、だから褒めても飯はやらねえって」

 笠原は笑いながら食事を切り上げて朝の授業の準備を始めた。

 こいつは……聞けば聞くほど主人公だな。

 しかし同時にここまでの会話で俺の中である考えがいよいよ現実味を帯びてきた。

 別に証拠があるわけではないんだが……確認するとすれば今日の昼休み辺りがちょうどいいだろうか。

 

 

 それから午前のホームルームと授業はいつもと同じように滞りなく進み昼休みになった。

「あーようやく授業が半分終わったな、ピカ飯にしようぜ」

「悪りぃ、今日はちょっと予定があるんだ。また今度な」

「えぇ、マジかよそういうのは先言えって……しゃあねえ、他の奴探すか」

 俺と昼食が摂れないと分かると他に飯に付き合ってくれる相手を探しに笠原は教室を出て行った。

 俺の目の前の席には誰もいない。既に笠原は自主練に向かったようだ。

 さて、じゃあ俺も行くとするか。

 俺も食事の準備をして笠原のいるであろう体育館へ向かった。

 昼明高校の体育館は俺達生徒の教室のある本校舎からは少し離れた場所に立地しており第二校舎とも隔離されているため体育館に向かうには上履きを一旦外履きに履き替えて体育館に着いたらまた上履きに履き直すという手間が発生する。

 そういうわけで一旦下駄箱に向かおうとしていると偶然晶とすれ違った。

「あれ?草野くんじゃないですか!」

「一日二回も待ち伏せっつうのは流石に度が過ぎると言えるんじゃないか?」

「出会って早々ひどい!そんなことするわけないじゃないですか!こっちだってそんなに暇じゃありません!」

「じゃあ何してるっていうんだ?」

「今朝言ったじゃないですか、今日中に七不思議を百個見つけるための聞き込みですよ!」

「改めて自分で口に出してみておかしいと思わないか?それで百個は見つかったのか?」

「んー、残念ながら芳しくはないですね…朝から情報をかき集めても新しく見つかったのは今のところ五つだけです」

「今朝の時点で集めてた七不思議は九つだったけか?合わせて一四個。良かったな、俺を追い抜けたぞ」

「そんなの別に嬉しくありません!これは自分との戦いなんです!」

 ムキになっているのか晶は強い口調で俺に訴えかける。

 しかし、偶然とはいえこれは俺にとって都合のいい状況なのかもしれない。

「そうかよ……ところで良かったら今日も一緒に昼飯食べないか?」

「食べます!」

 晶は即答する。直前までアスリートじみたことを言っていた気がするがそんなことはどうでも良くなったらしい。

「そうか、なら待っててやるから飯持って来い」

「はい!」

 そう言うや否や晶はダッシュで自分の教室に戻っていった。

「お待たせしました!」

「うし、それじゃ行くか」

 三十秒も経たないうちに晶は弁当を持って戻ってきて俺達は外履きに履き替える。

「晶、上履きも持ってこいよ」

「え?昨日みたいに中庭で食べるんじゃないんですか?」

「今日は趣向を変えようと思ってな、少し歩くぞ」

「ちょっと待ってくださいよ、上履き取ってきますから」

 晶が下駄箱に上履きを取りに行くのを待ってから俺達は体育館へと向かった。

「上履きを持って来いって言うからもしやとは思いましたが体育館とは……なんでわざわざこんな所でご飯を食べようと思ったんですか?」

 体育館に到着して早々晶は頭に浮かんだ疑問を口にしつつ体育館の中に入る。

 昼明の体育館は玄関と体育コートの間が少し長い廊下で繋がっていてその廊下の壁には等間隔で扉が配置されている。各扉の向こうはいずれも体育館を利用する部活の部室が用意されており、大まかに言えば体育コートと部室棟という間取りになっている。

「昨日浜崎さんから名前出てた笠原ってやつがいるだろ?あいつに用事があるんだが昼休みは自主練で体育館にいるみたいだからついでに飯を食おうと思ってな」

「え⁉︎それなら早く言ってくださいよ!いくら私でも面識のない人と草野くんの食事に割り込むような真似はしませんよ!」

「最初はそうも考えたんだが案外お前もいた方が今後の話がスムーズになるかもなと……お、いたいた」

 再び上履きに履き替えて廊下を少し進むと休憩用のベンチに笠原が腰掛けて食事を取っていた。ベンチのそばにはバスケットボールと今朝見た時よりも中身が減ったコンビニ袋が置いてある。

「よお、笠原」

「あれ?草野……と誰?なんでこんな所にいんの?」

「こいつは一年の稲垣晶。俺と同じ中学出身で……まあ友達だ」

「ど、どうも」

 晶は借りてきた猫のように大人しく挨拶をした。

「ふぅん、で?なんでここにいるのかはまだ分かんねえんだけど」

「そう邪険にするなよ。ちょっとお前に聞きたいことがあったからついでに飯でもどうかなと思っただけだ」

「聞きたいこと?そんなのわざわざ昼休みに体育館にまで来なくたっていつでも聞けるだろう」

「こうした方が何かと都合が良いと思ったんでな。なあ、いいだろ?どうしても飯を一緒に食いたくないって言うなら用件だけ済ませて退散するよ」

 俺がそう言うと笠原は諦めたのかため息をついた。

「別にいいよ、晶ちゃんだっけ?ほらここ座って」

 笠原はそう言ってベンチからコンビニ袋とバスケットボールをどかして立ち上がるとバスケットボールを地面に置いて椅子代わりに座り直した。ベンチには俺と晶が使えってことだろう。

「あ、ありがとうございます!」

 晶は笠原がいた場所に座って俺もその隣に座って弁当を取り出した。

「で?聞きたいことって何よ?」

「えぇと、そうだな……じゃあ単刀直入に聞くけど」

 こういうことには慣れていないので緊張してしまっているのが自分でも分かる。

 気分を落ち着けるために少し間をあけて再び口を開く。

「学校の七不思議を広めてたのお前じゃないのか?」

 

 

「は?」

「え?草野くん何言ってるんですか?」

 笠原と晶が二人してポカンとした顔でこちらを見る。

「といっても何か証拠がある訳じゃない。そもそも噂話を流し始めた個人を聞き込みで探ろうなんて往々にして不可能っていうのが相場だ。あくまで昨日今日入ってきた情報を寄せ集めたらお前が怪しい人物として浮上してきたからこうして聞いてるんだ」

「……あーダメだ!悪いけどお前が何言ってんのか全然分かんねえ。証拠はねえけど俺が怪しいって言われたら俺が何言っても無駄じゃん、それってほら何て言ったけ?『ないことを証明する』みたいな有名なやつ」

「悪魔の証明か?そんな大袈裟な話をするつもりはない。どこかの名探偵みたいにお前を殺人事件の犯人だとかで吊し上げる訳でもないし雑談だと思って気楽に付き合ってくれよ。で、繰り返しになるがお前が七不思議を広めたんじゃないのか?」

 俺がそう言うと笠原は怪訝な顔をした。

「違うよ、俺は関係ない。そもそもなんで俺が怪しいって思うんだ?昨日の夜お前に会った時にも話したけど俺は七不思議なんかに興味ねえしもそもそも七不思議の内容を七つも知らねえよ。あ、言っとくけどこれ嘘じゃねえからな?その悪魔の証明とやらをさせんなよ」

「そうですよ、昨日草野くんが笠原先輩と何を話していたかは知りませんけど私が調べた限りだと噂を聞いたって人の中に笠原先輩の名前は出てきませんでしたよ」

 仮に七不思議を広めた犯人だからといってそれは別に悪いことでもないのだが痛くない腹を探られたからか笠原は明らかに機嫌が悪くなる。

「そうか、ついでに晶に一つ聞きたいんだが夜の校舎に落武者が現れるっていう噂話を聞いたことはあるか?」

「ええと……いえ、初耳ですね」

「じゃあプールから子供の幽霊が現れて水の中に引き摺り込むっていうのは?」

「それも初耳ですね……一体何なんですか?」

「あともう一つ人体模型が夜中走り回ってるってのもあったがそれらは全部昨日の夜笠原から聞いたんだ。そうだよな?」

「そうだけどそれが?」

「あの時俺が誰からその噂を聞いたか尋ねた時バスケ部の後輩達からだと言っていたよな?」

「それも言ったよ。だからなんだって言うんだ?さっきからもったいぶりすぎて何が言いたいのか全然わかんねえし」

「さっきも言ったが俺はお前を噂を広めた人物だと決めつける証拠は持ってないからな。順序を追って丁寧に話した方がなぜ俺がそう思ったかが伝わりやすいと思ったんだが……まあ続けるぞ。これも昨日のことだが昼休みに浜崎さんから俺達は他の七不思議の内容を聞いていたんだ」

「浜崎って……浜崎夢子ちゃん?お前夢子ちゃんと知り合いなの?」

「晶が同じクラスの友達でな。訳あって昨日初めて知り合った。その時聞いた七不思議の噂の数は六つ、さらに浜崎さんが言うにはそれらは先週の水曜日に同じ学年のバスケ部の男子から聞いたそうだ」

「確かに私もそれは聞きました。でも草野くんが今言った通りその七不思議を話していたのは男子バスケ部の一年生ですし草野くんもあの時その意見には賛成していたじゃないですか」

「あぁ、今でも俺の意見は変わってない。浜崎さんの言っていたことは本当だと思っている。俺が気になったのはクオリティの低い七不思議とやらが急に広まっているという点だ」

「は?どういうことだよ?」

「俺は昨日の昼休みに七不思議を六つ聞いた。その時点で七不思議と呼ぶにはお粗末なものだがそれが昨日の夜には十一個。今日の朝にはもう一つ増えて十二個だぞ。おまけにその中にはこの学校には置かれていない二宮金次郎蔵にまつわるものまである。他にも体育館の不思議が二つもあったりと七不思議の内容自体が滅茶苦茶だ」

「それについては俺も同感だよ、でも七不思議みたいなオカルト話に限らず噂話ってそういうもんだろ?誰が言ったかもよく分かんねえ話を面白がって暇な奴らが尾ひれや背びれやらをあちこち足して新たに垂れ流す。そうしてそれを聞いたどっかの暇な奴らが新しく噂を……ってな感じで結果よく分かんねえものになっていつの間にか誰も興味がなくなってる。探せばそんなのどこにでもある話だし特別不審がるもんじゃないと思うんだけど?」

「それが噂を広めた奴の狙いだとしたら?」

「……何が言いたいんだ?」

「そいつにとって不都合な出来事がバレそうになった時、それを隠すにはクオリティの低い噂話の中に混ぜて時間と共に風化させればいいってことだよ」

「だから何度も言わせんなって、もったいぶらずに言いたいことがあるなら言えよ」

「そうですよ、ちょっと草野くん探偵ぶってる感じがします。証拠はないって自分で言っててその態度はちょっとキモイです!」

 痺れを切らした笠原の語気が一層荒くなる。ついでに晶も。

 こちらも焦らすつもりは毛頭ないのだが、こうして実際にやってみるとドラマで見る探偵のようになってしまう。

「悪かったよ、じゃあ言うけどさ……笠原、お前ここで猫飼ってるだろう?」

 俺が発した言葉の後しばらく体育館に静寂が訪れる。

「はあ⁉︎今まで猫の話なんて一回も出てきてねえぞ!マジで意味わかんねえ!」

「今度は端折りすぎですよ!なんでそうなるんですか!会話力なさすぎですこの会話馬鹿!」

 さっきよりも一層怒気のこもった二人の声が飛んでくる。

「じゃあどうしろって言うんだよ!こっちが丁寧に話してやったら散々文句言ったくせに!馬鹿馬鹿バーカ‼︎」

 思わずこっちも熱くなって声を荒げて対抗する。普段の俺らしくない言葉が出てしまったが頭がプッツンしてしまったためそんなことを気にする余裕はなかった。

 笠原と晶対俺という二対一と言う構図での睨み合いがしばらく続くとどうやら一足先に冷静さを取り戻したらしい晶が話を切り出し始めた。

「……いいでしょう、そもそも草野くんが勿体ぶって話していたのが原因とはいえ、説明に飛躍ができてしまった責任は私達にもあります。なぜそうなったのか正直興味があるのも事実ですし。ここはどうでしょう?草野くんの多少の説明下手には目を瞑るとして笠原先輩も一旦最後まで草野くんの話を聞いてみるのは」

「……分かった」

「草野くんもそれでいいですね?」

「俺は最初からそのつもりだっての……」

 俺と笠原も晶に続くように落ち着きを取り戻した。

「じゃあ話を戻しますけどその笠原さんが体育館で猫を飼っていると草野くんは考えているみたいですけど……ひょっとしてそれって夢子ちゃんが拾った捨て猫のことを言ってるんですか?」

「そうだ」

「それって明らかにおかしいですよね?子猫を拾ったのは夢子ちゃんですし今の所は夢子ちゃんの家で一時的に引き取っている状態なんですからここでは笠原さんは一切関係ないじゃないですか」

「浜崎さんは自宅で猫を飼っているとは言っていなかった。晶は浜崎さんが実際に家で猫を飼っているのを見たのか?」

「そこまではしていないですけど……でも流石にそれはただの揚げ足取りというか普通会話の流れから察してそう思いませんか?」

「俺も昨日の昼休みの時はそう思ったが不自然に学校の七不思議が広まったことに何かしらの特別な理由があるとしたらどうだろう?例えば浜崎さんは自宅で子猫を飼うことができずこのままだと最悪保健所に連れて行くしかない。そんな彼女の事情を偶然知った笠原が共謀して引き取り相手が見つかるまで一時的に学校で猫を飼うことを画策したがある日学校で不自然な物音や鳴き声を耳にしたという生徒の声を二人のどちらかが知った。子猫を隠れて飼っている秘密を隠すために咄嗟に思いついた学校のオカルト話を流すことでその情報を煙に巻こうとしたんじゃないか?そう考えれば時系列的にも一致するしな。浜崎さんが子猫を拾ったのが先週の月曜日、彼女がバスケ部の男子から七不思議を六つ聞いたというのが先週の水曜日。これは、というよりこれも憶測だが体育館で不審な物音を生徒が聞いたという情報を知った笠原がそれをごまかすために手を打って男子の後輩達にこの学校にまつわる噂話を流すことで面白がった後輩達が女子のバスケ部にも噂を流したんだと思う。それで他の人から聞いたという言い訳を手に入れた浜崎さんは後日晶にも伝えて昨日俺のところにもその話が回ってきたっていうのが俺の考える見立てだ」

「……つまり草野くんは夢子ちゃんと笠原さんが手を組んで学校の七不思議を広めたって言いたいんですよね?でも草野くんはの話だと夢子ちゃんが猫を家で飼っていないことが前提になってますけどどうしてそう思うんですか?」

 晶は至極真っ当なことを聞いてきた。

「……多分浜崎さんは重度の猫アレルギーなんだと思う。昨日話した時はずっと顔が赤くて声が上ずっていただろう?その時はただ俺達に緊張しているからだと思ったんだがあれは猫アレルギーの症状にも合致する。俺の姉貴がそうなんだけどアレルギー反応が強い人なんかは猫に触れた人に近づいただけでも症状が出るみたいでな。学校では笠原が猫の面倒を見ていたとしても秘密を共有している以上最低限の接触は避けられなくて浜崎さんはアレルギー症状が出たんじゃないか?現に今日も体調不良で休んでるみたいだしな」

「……夢子ちゃんにアレルギー症状があるかについてはもしかしたらそうかもしれません。私はてっきり慣れないことで無理をしてたからだと思っていましたが最近夢子ちゃんの体調が悪そうだったのは事実ですし。うーん、でも……笠原先輩にはこれまで大人しく聞いていただきましたが草野くんの話を聞いてみてどうですか?本当に学校で猫を飼ってるんですか?」

 晶に話を振られてこれまで彼女との約束を忠実に守って俺達のやりとりを静観していた笠原が口を開く。

「どう思うも何もねえよ。夢子ちゃんが猫を拾ったなんて初めて聞いたし。何度も言ってるが証拠のない話を延々と聞かされても俺の意見は変わらない。そもそもなんだけどお前がその話を俺にする理由って何?ありえねえ話だけど実際俺達が猫を学校に隠してたとしてそれを暴いた後ってお前はどうすんのよ?学校で飼うなって言うならその猫はこのままお前がさっき言ったみたいに保健所に行くことになる訳だけどそれってただお前が妄想話をひけらかして自分だけが気持ちよくなってるだけなんじゃねえの?」

「それについては問題ない。引き取り相手なら今朝見つかった」

「え!そうなんですか⁉︎」

 晶が驚いた様子でこちらを見る。こいつは本当に俺のことを里親探しの頭数に入れていなかったらしい。晶のことは無視して話を続ける。

「笠原の言う通り俺もこんな妄想だらけの話なんてするつもりはなかったし普通に浜崎さんに連絡すれば丸く収まったんだが生憎彼女は今日学校に来ていないからな。万が一にも本当に子猫が学校で飼われていたならこの環境は子猫を飼うに適しているとは思えないし夜中放置するのも良くないだろう。それなら一日でも早く引き渡した方がいい、違うか?」

「……そういうことならその点については異論はねえよ。じゃあさ、肝心のその猫ってどこにいんの?生憎バスケ部の部室は俺以外も使ってるし誰にも見つからない場所なんてここにはないぞ」

「それは私も気になります。でも逆に言うと猫ちゃんが学校にいるって証明できれば今まで草野くんが言っていたことも当たっていると言えるんじゃないですか?」

「今まで俺の話した仮定があっていたとするなら後はそんなに難しくない。体育館には現在誰も使っていない場所が一つあるだろう?」

「え?そんな場所ありましたっけ?」

「柔道部の部室だよ」

「柔道部……あっ!」

 晶は俺の答えを聞いて少し考える素振りを見せるとどうやら自分でもその意味に気づいたようだ。

「気づいたみたいだな。柔道部は新しく建てられた武道場で部活をやるようになったから今は体育館を利用していないんだよ。今朝部室の鍵を確認した時その使われていないはずの体育館の柔道部の鍵はなかった。これは笠原がバスケ部の部室の鍵を持ち出す時に一緒に拝借したんだろう。鍵の持ち出しの手続き自体は簡易的なものだし誰も使わない鍵が一つ少しの間パクられたくらいならそう気づかれないし日頃常習的に鍵を借りにくる笠原ならなおさらだ。周りに不審がられることもなくやり遂げられる」

「なるほど、確かに昔の柔道部の鍵が今朝職員室になかったっていうのは明らかにおかしいですね」

「それがあったからこうして笠原が一人で体育館にいる時を見計らって来たんだよ。お前も連れてきたのはその方が俺に秘密を気づかれたと浜崎さんが知った時のケアをしてもらうのにちょうどいいと思ったからだ。昨日話した感触だと彼女は罪悪感で自分を責めそうな感じがなんとなくしたんでな」

「なるほど……」

 晶はどこか感心したような様子で俺の方を見ている。

「さて、退屈だったかもしれないがこれで俺の考察は以上だ。ただ今朝体育館の柔道部の部室の鍵がなかったのは確認したんだが昼休みも持ち出されているかは確認していなくてな。そこんところはどうなんだ?」

 俺は笠原に尋ねる。笠原はしばらく口を閉ざしたまま何かを考えているようだがどこか様子がおかしい。俺からはどこか焦っているようにも見えた。

「……最初に言わせてくれ。誓って俺は猫のことなんて知らない。本当に知らないんだ。なんなら今から電話でもいいから夢子ちゃんに聞いてくれよ」

「無茶言うなよ、俺が浜崎さんと知り合ったのは昨日だぞ?ただでさえ彼女は体調を崩しているのにそんな人に向かっていきなり『証拠はないけどお前学校で隠れて猫飼ってるだろう?』なんてこと言える訳ないだろうが」

「でもお前の言う通り柔道部の部室から猫が見つかったらその事は夢子ちゃんにも伝えるんだろう?だったら結局は伝えるんだから同じじゃねえか」

「順序の問題だ。猫を隠れて飼ってる確証が持てたら流石にその状況を放置するわけにはいかないから浜崎さんに連絡はさせてもらってすぐにでも引き渡しの手続きを始めようと思う。ただそうするには俺としても連絡するための大義名分が必要なわけでそのためにも柔道部の部室を確認する必要があるんだ」

「全然理解できねぇ!なら晶ちゃんから連絡するなら付き合いもあるみたいだし問題ないだろう?別に秘密を知ってるとかは言わなくていいしテレビ通話で家の猫の様子を見せてくれって言えば解決するから!」

「うーん……もし夢子ちゃんのおうちに猫ちゃんがいたとしても体調が悪いのに無理に猫ちゃんに近づけさせるのは気が引けますし、おうちに猫ちゃんがいないのなら今草野くんが言ったみたいに夢子ちゃんを困らせることになります。どちらにせよ事前に確証が必要だという考えは私も同じなので笠原先輩には申し訳ありませんがそのお願いは聞けません」

「あーっもう!なんで二人ともそうなるんだよ!夢子ちゃんに聞けば一発でわかるんだってマジで!」

 笠原は徐々に口調が荒くなり苛立ちを隠そうともせず俺たちに向ける。

 ただ笠原の様子は少しおかしい。こいつが柔道部の部室を確認させたくないのは明らかだが猫のことは知らないと頑なに言い張っている。ひょっとして柔道部の部室にはもっと知られたくない別の秘密があるのだろうか。

「どうやら話し合いでは埒が開かないみたいだな。晶、部室の中を覗いてきてくれ。この廊下の奥から二番目の扉だ。恐らくだが鍵は空いてるはずだ」

「え、私がですか?……はい、分かりました!」

 晶はそういうとベンチから立ち上がって駆け足で柔道部の部室に向かった。

「あ!ちょっと待てって」

「大人しくしてろ」

 俺は晶を追いかけようと立ち上がった笠原の肩を掴んで静止した。

「離せよ草野!」

 笠原は俺の腕を掴んで払い退けようとする。その力は凄まじくこちらが少しでも気を緩めれば体ごと倒されそうな威力だった。

「何でそんなにムキになってるんだ?猫がいるかを確認するだけだぞ?」

「だからそんなの知らねえって!何度言わせんだよ!」

「じゃあ何を隠してるんだ?」

「それはっ……」

 笠原が俺の質問に答えるのを言い淀んだのと同じタイミングで晶が柔道部の部室のドアのぶに手をかけた。そしてそのまま手をひくとそれに合わせて扉も開く。やはり部室に鍵はかかっていなかった。

「やっぱり草野くんの予想通り鍵はかかっていないみた……ヒィッ‼︎」

 扉を開いて部室の中を覗いた晶は突然驚いた声をを上げ腰を抜かしてその場にへたり込んだ。

「おい⁉︎晶‼︎」

 俺は掴んでいた笠原の肩から手を離してすぐさま晶のもとに駆け寄る。

「大丈夫か⁉︎」

 俺は座り込んだまま何かに怯えて震えている晶の肩に手を置いて語りかける。

「草野くん、あ、あれ……」

 晶は震える右手で柔道部の部室を指差した。俺も晶に促されるまま晶の元から離れず部室の中へと視線を向けた。

「これは……一体どういうことだ?」

 部室の中にいたのは昨日浜崎さんから見せてもらった子猫なんかではなかった。

 そこには夥しい量の食べ物の残骸と数枚の学校のジャージが散乱しており、その中心にポツンと置かれた俺の腰くらいの大きさの黒い塊。

 いや違う、塊なんかではない。一瞬塊に見えたそれの隙間からは僅かにだが青白い顔が見え隠れしている。

 それは自身の体をほとんど覆うほどまでに髪の伸びた子供だった。

「だから何度も言っただろう?猫なんて飼ってないって」

 

 

「どういうことか説明してもらおうか」

 その日の学校を終えた夜、俺と晶と笠原と昔の柔道部の部室にいた謎の少女の四人は洋平のマンションに来ていた。招かれたリビングには学生の一人暮らしの家にしてはやや不釣り合いな横長のダイニングテーブルが設置されており片側に俺と晶、反対側に笠原と少女、そして両者に挟まれる位置に洋平といった具合でコの字になるように全員がダイニングチェアに座っており、各自の手元には先程洋平が用意してくれた飲み物が置かれている。

 笠原はまるで誰かに殴られたかのように左の頬が大きく腫れていて洋平に淹れてもらったコーヒーを飲もうとするも口の中がしみるようで顔をしかめており、隣にいる少女はこのただならぬ雰囲気にすっかり怯えていて笠原の制服の裾をギュッと掴んでいる。

「説明か……一体どこから話せばいいのやら」

 家主のこれから尋問でも始めるかのような険しい顔で投げかけてきた質問に対して俺はどう答えるべきか逡巡する。

「全部に決まってるだろうが!突然『大事な話があるから今日も家に行きたい』なんてお前が言うからずっと待ってたのにやっと来たと思ったら何人もゾロゾロと連れてきやがって。組み合わせが意味不明すぎて相談内容も全然予想できねえしこえーよ!」

「すいません、やっぱりいきなり大人数で押しかけるなんて迷惑ですよね」

 晶は申し訳なさそうに洋平に謝る。

「あ、いや、別に晶を責めてる訳じゃ……とにかくその女の子は誰なのかとなんでこのメンツを連れてきたのかをきちんと説明しろ」

「……お前が今夢中になってる学校の噂話あるだろう?」

「それがどうした?今その話はなんの関係もないだろうが」

「関係あるから話してんだよ。それでその噂話を最初に流していたのが笠原だったんだ。で、なんでそんなことをしたかというと実はこいつは周りにバレないようにこっそりと学校の中で妹を生活させていたんだがある日不審な物音を聞いたって」

「ストップ。途中耳を疑うようなことが聞こえてきた気がするが俺の聞き間違いか?」

 俺が話していたにも関わらず洋平が途中でそれを遮ってきた。話があまりにぶっ飛んでて説明すんのもめんどくさいからサラッと流したかったが流石にその考えは甘かったらしい。

「そう思うのも無理ないとは思うが事実だしそれについて思うこともあるのも分かるけどとりあえず今は黙って聞いてくれ。それで話の続きだがある日学校で不審な物音が聞こえると生徒達の間で噂になり始めて秘密が発覚するのを恐れた笠原がそれを誤魔化すために適当な学校の噂話を流したんだよ。事実にあえて出鱈目な情報を混ぜることで情報の信憑性を有耶無耶にしてしまおうってな。そしてこれまでに集めた不審な情報をもとに推理することでその事を突き止めた俺は今日の昼休みに晶を連れて笠原が学校で妹の面倒を見ている現場を押さえる事にした。計画通り現場を押さえる事には成功したもののいざ事情を聞いてみると笠原なりに妹を学校で生活させる理由があったらしい。でもだからといってそのまま笠原の妹を学校に放置して置くわけには当然いかないのでそれなら一旦洋平の家で預かってもらえないかと思ってここに連れてきた。まあ、簡潔に経緯を説明するとこんな感じだ」

「『こんな感じだ』じゃねえよ!なんで笠原は妹を学校で生活させてたんだよ⁉︎なんでお前がそんな事を突き止められたんだよ⁉︎なんでその子を俺の家に預けようとしてんだよ⁉︎全部説明しろつってんだろう‼︎」

「突き止めたって……何を言ってるんですか?結局あの時の草野くんは全然的外れな妄想話をしてただけでさくらちゃんを見つけたのって全くの偶然じゃないですか」

「は?そうなのか?おいピカ、テメェこの期に及んでふざけたこと抜かしてんじゃねえぞコラ!」

 わざわざ事の経緯を説明してやったというのにそんな俺に対して激昂する洋平とドン引きする晶。そして突然自分の名前が出たからか笠原の横にいる少女、さくらちゃんがビクッと一瞬体を震わせた。

「ただでさえ説明したところで本当の事とは信じ難い出来事が起きてるんだぞ?俺がその事に気付いた経緯まで丁寧に話してたら絶対にキャパオーバーでお前の頭がパンクするからわざわざ本題を邪魔しないようにサラッと説明したんだよ」

「おい、俺のこと馬鹿にしてんのか?」

 普段であればこの程度の悪態を突いたところで一言大きな声で文句を言い返してきて終わるのだが生憎今の洋平は相当ストレスが溜まっているようでいつもとは違う静かなトーンで俺に聞いてくる。

 こいつとは長い付き合いだから分かる。これは怒りの前の静けさというやつであと少しでも刺激を与えれば間違いなく手が出るだろう。

「どうしても聞きたいっていうなら説明してやってもいいがお前らは良いのか?晶に言わせれば的外れな妄想話らしいが今からその妄想話をもう一回最初から最後まで全部丁寧に話すとしてそれを聞く気力はあるのか?」

 俺は晶と笠原の方を向いて尋ねる。笠原は黙ったまま答える様子は見られなかったが晶の方はどうしようか悩んでいるようだった。

 そして少し間を置いてから晶が口を開き始めた。

「少し言い方に難がありましたが草野くんの言うことも一理あります。これは完全にこちらのせいなので言い出しづらかったのですが訳あって星くんのおうちにお邪魔するのがだいぶ遅くなってしまいましたし私はこの話し合いを見届けたらすぐに家に帰らなければならないのでできるだけ脇道にそれるような話は避けていただきたいです。草野くんがさくらちゃんを見つけたのは本当に偶然、それこそ炊飯器でお米を炊いてたとはずなのに何故かたこ焼きができてしまったっていうくらい荒唐無稽な話なので聞く価値がないことは私が保証します」

 流石に言い過ぎだと思った。というよりなんだ今の例えは?腹が減ってるのか?

「……分かった。ピカの推理とやらについては聞かない事にするからその他の事についてさっさと話せ。それと晶もしかして腹減ってたりするか?たこ焼きはないがご飯は冷凍してる奴なら出せるけど」

「……いえ、結構ですので早く話を進めましょう」

 どうやら晶の説得によって洋平の溜飲も一時的に下がったらしい。それとやっぱり晶は腹減ってると思うよな?飯を断るのも少し迷ってたし。

「じゃあ早速話の続きを、と言いたいところだがなんでさくらちゃんを学校で生活させてたかについては笠原、お前が自分の口から言うべきだ」

 これまでずっとまるで他人事のように静観していたのに突然話を振られた笠原は不機嫌そうに俺を睨みつけた。

「なんで俺がわざわざこいつにまで話さなきゃいけないんだよ?そもそも俺はこの状況に納得していないのに無理矢理お前が連れてきたんだろうが。お前と晶ちゃんには隠し通すことは無理だったから仕方なく事情を話したっていうのにそしたら速攻で他の奴にバラしやがって。考えらんねぇよ」

「『もうしばらく誰もいない部室でさくらちゃんを生活させたいから見て見ぬふりをしてくれ』なんてお願い聞ける訳ないだろうが。それに洋平の家に連れて行く提案を出す前に他の代替案を四つも出してやったのに全部却下しやがって。学校以外でさくらちゃんの面倒をみる方法を考えられないならお前に俺のやり方をとやかく言う資格はない」

「笠原先輩……事情を知っているだけに非常に言いづらいのですががこれについては草野くんの方が筋が通っていると思います。内容が内容なだけに事情を知っていたとしても他人だから余計な口を挟むなという理論はこの場では通用しないです。口出しするにしてもしないにしても私達は既に関係者であり共犯者にもなり得るのですから。ならばより有益な提案を出した草野くんの案は採用されるべきですし笠原さんも協力すべきです……まあそんなことに星くんを巻き込んでしまった事については申し訳ないという他ありませんが」

 俺と晶の論理の波状攻撃が効いたのか笠原は悔しそうな顔をするも言い返す言葉を絞り出すことができないようだ。そして諦めたからなのか大きくため息をついた。

「こいつは樫本さくらつってな、離婚して出てった俺の親父が他の人と再婚してその再婚相手との間に生まれた子供で……まあ俺の異母兄妹ってことになるのか?分かんねえけど」

 笠原はさくらちゃんの頭に手を置きながらポツポツと説明を始めた。

「てことはそのさくらちゃん…とお前は元々は別々に暮らしていたってことか?」

 洋平が気になったことを質問してきた。

「そうだよ、なんなら俺もこいつに会ったのも先週が初めてだ」

「……」

 洋平は黙ったままコーヒーを飲んだ。

「まあ順を追って経緯を説明するとだな、二週間前の月曜日、俺が部活を終えて帰ろうとしたら学校の前で親父が一人で待ってたんだよ。つっても両親が離婚してから会ったことなんてなかったから最初見た時は誰なのか全然分かんなかったけど。そんで少し世間話をした後にそれで何の用があって来たのか聞いたら言うんだよ『今度しばらく仕事で家を空けないといけないから代わりにさくらの面倒を見てくれないか?』ってさ。ありえねぇよな、十年以上顔を合わせたことなんてなかったのに久しぶりに会ったと思ったらこれだぜ?意味分かんなすぎて聞いた時思わず笑っちまったよ」

 笠原はその時のことを思い返したからなのか呆れ返った様子で笑いながら語った。

「お前の当時の心中はお察しするとしか言えないが……さくらちゃんの母親はどうした?親父さんが家にいられなくても母親はまだ家にいるんじゃないのか?」

「なんか重い病気を患っているみたいで入院してるんだってよ。しかも俺の所以外にさくらの面倒を見てくれそうなアテもいないって言うし娘は不登校で普段学校にも行ってないからそれほど面倒見なくていいとまでほざくんだからすげえだろ?」

「……だとしても肝心な事はまだ解決していないぞ。それでどうしてさくらちゃんを学校で生活させる事になるんだ?」

「草野と違って星は勘が鈍いな。さっき言った通り超久しぶりに会った父親からいきなり会ったこともない妹の世話を頼まれたんだぞ?俺ですら受け入れ難い内容なのに俺の母親を説得できると思うか?お袋に至ってはこいつはまさに他人なんだぜ?」

「それは……」

 笠原から逆に質問で返され洋平は答えに詰まる。

「そもそも笠原の親父がこいつを学校で待ち伏せてた事自体不自然だ。普通この手の頼み事っていうのは息子じゃなくて母親の方にする物だろう?それをしないってことは二人に確執があったと考えるのが一番しっくりくる」

 俺は笠原の説明に解説を付け加えた。

「そう言うこと。親父の方はお袋の説得も含めて後処理を全部俺に丸投げしようとしたんだろうな。そんな訳で普通に考えた場合俺に提示された選択肢は二つ。親父の頼み事を引き受けて母親を説得して俺の家でさくらの面倒を見るか頼み事を断ってこいつのことを見捨てるかのどちらかだ」

「見捨てるって……それは流石に言い過ぎだろう。お前にここまで言うのは酷かもしれんが親父さんの仕事とやらにさくらちゃんを付き添わせるように説得したりはしなかったのか?」

「当然そんなの最初に言ってやったよ。けどそれは無理なんだってさ。今までの説明で分かるとおりあいつはどうしようもないクソ野郎なんだよ。自分にとって少しでも都合が悪けりゃ平気で家族を見捨てる。昔からそう言う奴だった」

 笠原の冷静であるように装っているがその内側では怒りの感情が爆発しているのは誰の目から見ても明らかだった。

「あの、度々こんなお願いをして申し訳ないのですがこことは違う部屋、寝室があれば借りられませんか?とてもさくらちゃんに聞かせていい内容とは思えませんしもうこんな時間ですし……」

 このまま話を進めさせる訳には行かないと思ったのか晶が会話に割り込んで洋平にお願いをした。部屋の時計を確認すると午後九時を少しすぎていた。

「晶ちゃんには悪いけど本当に今更だよ。自分がこんな目にあってるんだからさくらだって俺の言ったことなんかとっくの前に気づいてる」

「でも……」

「別にいいぞ」

 晶が発言に詰まったタイミングで洋平が口を開いた。

「え?本当ですか?」

「ここまで話を聞けば大筋は予想がつく。笠原はさっき言った二つの選択肢のどちらも選ぶ事ができなかったが苦肉の策としてさくらちゃんを学校で生活させることを思いついた。それで親父さんの頼み事にはとりあえず承諾しておいて後日さくらちゃんを預かったらその作戦を実行したって事だろう?それでその秘密がピカ達に露呈した後は他に頼れそうな人の所で世話になろうってことでうちに来た。これはさっきピカが言っていたな」

「ああ」

「まだ後二、三聞きたいことは残っているがとりあえず晶が言っていた事もあるし先にさくらちゃんを休ませてやろう。晶、そこのリビングを出てすぐの扉の向こうが客間になってるからさくらちゃんを連れて行ってやってくれ。部屋の押し入れに布団が入ってるからそいつも頼む」

 笠原は客間の場所を指差して晶に言った。

「分かりました。星くん本当にありがとうございます!ほら、さくらちゃんも今日は疲れただろうしもう寝ようか」

 晶は洋平にお礼を言って立ち上がるとさくらちゃんを誘ったが当の本人はまだ戸惑っているようで笠原の顔をじっと見つめて服の裾を掴んだまま中々その場から動こうとしない。

 見かねた笠原が「行ってこいよ」とだけ投げやりな感じで言うとようやく立ち上がってのろのろと晶の跡について一緒に寝室へと向かった。

「ありがとうな」

 二人がいなくなったタイミングで俺は洋平に礼を言った。

「お前に言われる事じゃない。それよりさっきも言ったが笠原にはまだ少し聞きたいことがある」

「なんだよ?」

「主にさくらちゃんのことだ。彼女は今まで学校のどこで生活してたんだ?」

「体育館の中にある昔の柔道部の部室。あそこの部活って今は武道場を使っているからちょうど誰も使っていなくてガラ空きなんだよ」

「そうか、それで彼女はいつからそこで生活してた?」

「先週の土曜日だよ。その日はちょうどウチの学校で練習試合があったから体育館が使えてちょうど良かったし試合後に自習練で残るって言っとけば誰にも見つかる事なく柔道部の部室までさくらを連れて行くことができたしな。それで夕方過ぎた辺りで学校の前で待ち合わせすることになってたからしばらく待ってたらさくらが来たんだよ」

「ちょっと待て。それは彼女一人だけでか?」

「そうだけど勘違いするなよ?俺も当然親父がさくらを連れて来るもんだと思ってたからな?だって俺はさくらと会ったこともない訳だし親父の紹介なしに初めましてなわけないだろうって。まあ結局あいつの糞っぷりが俺の予想を超えてた訳なんだけど」

「……じゃあ返答次第なところもあるが一応これで最後の質問だ。聞いた事をまとめるとお前はさくらちゃんを一週間以上部室で生活させてた事になるよな?それにしてはさっき見た限りだと随分彼女は身綺麗なように見えたが具体的な身の周りの世話はどうしてた?ほら実際は色々と困るだろう、着替えとか食事とかトイレとか」

「それはお前の家に行く前に晶ちゃんが銭湯に連れて行ってくれたんだよ。でも着替えに関しては俺も困ったな、あいつ俺の家に泊まりにくるつもりだったくせになんの準備もしてこねえんだもん。仕方ねえから俺の持ってる学校のジャージを渡したよ、まあそれも全然サイズ合ってなかったけど。トイレは……あいつには悪りぃとは思ったけど誰もいなくなるまで我慢できないようならオムツで用を足してもらったよ。でも食事に関してはちゃんと食い切れないくらい十分な量与えてたからな?」

「そうか……分かった、もう聞きたいことはない」

 洋平は静かにそう言うと黙ったまま笠原のことをじっと見つめる。

「……何が言いたいんだよ?俺は自分のやれる範囲のことはちゃんと全部やってたぞ」

 なあ笠原よ、お前はまだ気づいていないのか?これが怒りが爆発する前の静けさだと言うことに。

「ふう、ようやく布団が敷き終わりました!それで話し合いの方はいかがでし」

「お前は殺す」

 晶が客間から出てきたのと同じタイミングで洋平は笠原に向かって飛びかかり拳を振り上げた。

「止めろ」

 こうなる展開は事前に読めていたので俺は洋平が手を出す前に羽交い締めにしてこれ以上笠原に近づけないようにする。

「あぁ!なんでまたこんなことになってるんですか⁉︎」

「離せってピカ!笠原の顔見りゃ分かるさ、どうせお前だってこいつのことぶん殴ったんだろ?だったら俺にも一発殴らせろよ!」

「俺が手出す訳ねえだろ、蹴っとばしただけだ。とにかく落ち着けって」

「なんなんだよお前ら!ちゃんと話聞いてたか⁉︎どう考えても悪いのいきなり現れた糞親父の方でなんで俺がキレられなきゃいけねえんだよ‼︎」

 リビングに集まった四人がそれぞれ言いたいことを言っているような状態でカオスと表現する他ない。

「ああそうだよ、お前の親父さんは糞野郎だよ、俺の目の前に現れたらすぐに蹴り殺してやりたいくらいの糞だ。でもなお前だって負けず劣らずの糞だろうが!お前がさくらちゃんにしてたことを考えてみろ!動物扱うのとなんも変わんねえだろうが!」

「じゃあどうすりゃ良かったんだよ!他に良い方法なんてあるわけねえだろうが!」

「学校で生活させんのが他の方法よりマシだったみたいな言い方してんじゃねえ!人としての生活ができていない時点でそのやり方は破綻してんだろうが‼︎しかも秘密がピカ達にバレた後もその生活を続けようとしてたんだよな?それこそさくらちゃんのことを考えずに自分の体裁気にしてるだけじゃねえか!」

 洋平は唾を飛ばしながらこれまでに溜めていた怒りをここぞとばかりにぶちまける。

 この前に一度怒りの爆発を腹の中に抑えていたこともあって流石に今回の勢いは凄まじく抑えるだけでもやっとだ。

「そんなの当事者じゃねえから好き放題言えるんだよ!お前だっていざ俺の立場になったら絶対同じことをするに決まっているっ!」

「なんだとっ……」

「洋平!」

 洋平は俺の拘束を無理矢理振り解いて笠原に掴みかかろうとしたのでに俺は再度力を入れて洋平を動けないようにして嗜める。

 その時、一連の騒動が気になったのか先ほど客間に消えていたさくらちゃんが扉を少し開けてこちらの様子を覗いているのが俺の視界に入った。少し遅れて洋平もそれに気付いたようで全身の力がすぅっと抜けていくのが俺の方にも伝わってきた。

「……分かったよ。もう暴れたりしないから離れろって」

 洋平は両手を上げて無抵抗の意思を示して俺に話しかける。その言葉に従って俺が拘束を解くと洋平は大きく深呼吸を一回挟むと笠原に向かって話しかけた。

「お前に言いたいことはまだあるが今夜はもういい。それより今後の話を進めようと思うがいいか?」

「……分かったよ」

 笠原も内心不満がまだ残っているようだったがそれは飲み込んだようだった。

「そう言うことだからこんな時間だし晶はもう帰っていいぞ。てか帰ってくれ」

「え?えぇっと、もう少しでしたらまだここにいられますし私的にはこの話し合いをできれば最後まで見届けたいのですが……」

「気持ちはわかるが時間切れだ。お前がどの辺りに住んでるかは知らんが俺達が通ってた中学の校区内ではあるだろ?あの辺りだと今から電車で帰っても三、四十分はかかるしそう考えたらこれ以上の長居は許可できない」

 洋平は交渉の余地を見せることなくはっきりと自分の意志を示した。

「……分かりました。星くんがそう言うのでしたら私は帰りますね」

 晶はそう言うと自分の荷物をまとめ始めた。

「まあそんな心配すんなって!今後の話し合いと言ってもいつまでウチで暮らすとかその間の費用をどうするとかそういう細かい所のすり合わせがほとんどだから。なんなら話がまとまったら後で連絡するよ」

 洋平は普段の明るい調子に戻って晶を宥めた。

「……はい!じゃあ連絡待ってますね!星くん、今日は本当にありがとうございました!何か困ったことがあればすぐに言ってくださいね!」

 晶も明るい態度で洋平にお礼を言いながら頭を下げた。

「あいよ。ピカ、俺は笠原とこのまま話ておくから晶を駅まで送ってやってくれ。なんならお前もそのまま帰っても良いぞ」

「あー、晶を送ってくのは大丈夫だけどできれば今日もお前んちに泊めてもらいたいと思ってたんだがダメか?」

「いや、別にいいぞ」

「すまんな、また世話になる。じゃあ行こうか」

「はい!皆さんお先に失礼します」

 そう言って俺達は洋平の家を出た。

 

 

「わざわざ送ってもらってすいません」

 洋平の家を出て俺達は駅に向かって歩いていると晶が謝ってきた。

「気にすんな。そういや最寄駅に着いた後は?歩いて帰るのか?」

「いえ、さっきお母さんに連絡したら車で迎えに来てくれるって言ってました」

「そうか、そりゃあ良かった。安心したよ」

「気にかけてくれてありがとうございます……あの、さくらちゃんの件はとりあえず一安心、と言ってもいいんですよね?」

 晶は心配そうな顔で俺に確認してきた。

「あぁ、洋平様様だな」

「本当にそうですよ!こう言ってはなんですが……星くんって昔からあんなに頼りになる人でしたっけ?」

「そう思う気持ちも分からんではないが中身は案外中学の時から変わってないぞ。確かにあいつは自分の考えやルールを何よりも優先する奴だから頑固者だとか我が儘に見られることもあるがそこさえクリアすれば割となんでも話は聞いてくれる奴だった。それが自分に得のない話であってもな」

「へぇ、流石付き合いが長いだけのことはありますね」

「お前とさほど変わんねえって」

「ふぅん、そうですか……それにしても今日は色んなことが起こりすぎて大変でしたね。もう体と頭がくたくたですよ!」

「そうだな」

「そうだなって……私が疲れてるのって元はと言えば草野くんのせいですからね!草野くんのへっぽこ推理話に付き合わされてなければ私はこんな大変なことに巻き込まれてないんですから!」

「恥ずかしいやつをぶり返すなって。それのおかげでさくらちゃんを見つけることができたんだから結果オーライだろう?」

「それはそうですけど……」

 俺の開き直った態度が気に入らないのか晶はぶつぶつと文句を俺に聞こえるかどうかの小さい声で呟いている。

「……そんなに納得がいかないのならやり直したらどうだ?」

「え?」

 晶は大きく目を見開いてこちらを見つめる。

「何驚いた顔をしてんだ?言ってる意味は分かるだろう?」

「いや、あの……まさか草野くんの方からその話を持ち出すなんて思ってなかったので面食らったと言いますか」

「見たところ周りに誰もいないみたいだしここならお前の秘密がバレることもないんじゃないかと思ってな。まあ、聞かれたところで信じられるような話でもないが」

「いや、話を持ち出した場所についての理由はどうでもいいんですよ。聞きたいのはなぜ草野くんの方から私のその、力についての話を持ち出してきたかの理由です!中学の時に私の秘密を打ち明けて以来一度もそんな素振りなんて見せなかったのに不自然じゃないですか!」

「それはそういう約束だったからわざわざ話題を掘り起こすようなことは避けてただけだ。だけど今回の件に関してはお前の言う通り俺のせいでこんな面倒事に巻き込んでしまっただろう?俺もそれなりに責任は感じているしならいっそお前は今日俺と昼休みに会わなかったことにしてこの件の関係者から外れて貰った方がいいかなと考えてたんだよ。お前なら可能なんだろ?その—」

 俺は少し間を置いて晶の目を見つめながら言葉を続けた。

「タイムリープの能力ならさ」

 稲垣晶は過去を遡るという現実離れした異能をその身に宿している。

 漫画やアニメの世界だけのものだと思っていた非日常というのは拍子抜けするくらい身近に存在する。それは齢一五にして俺が晶から学んだことだった。

「……私が言うのもなんですが自分で言ってて恥ずかしくなったりしません?」

「茶化すなよ、我慢してんだから」

「ふふっ、すいません。ちょっとだけ嬉しくて」

「はぁ?何で?」

「だって確かに私の秘密は誰にも口外しないっていう約束はしましたけどそれにしたって言わなすぎなんですもん!二人きりの時だって全然言う素振りを見せないから興味ないのかなとか思ったら学校の噂話とかのオカルトめいたことは毛嫌いするしで今度は私のことも内心気持ち悪いと思ってるんじゃないかって考えちゃって……正直不安だったんです!」

「なんだそりゃ……俺はオカルトそのものが嫌いというよりはそういった類の噂話に付随する誰かが適当にでっちあげた情報で盛り上がるっていう雰囲気が肌に合わないってだけだ。ましてやお前には昔その力で助けてもらったっていう返しきれない恩がある訳で……感謝こそすれど気味悪がることなんてありえねえよ。これまでこの事を口にしなかったのはさっきも言ったからもういいよな?それくらい感謝してるから約束を守ってただけだ」

「そうだったんですか⁉︎良かったぁ……本当に本当に心配だったんですからね!もっと私に興味持ってくださいよ!」

「悪かったよ、まさかそこまで気にしてるとは思わなかった。それで改めて聞くんだがどうする?お前の力を使えば今日のいざこざに巻き込まれることは避けれると思うんだが」

「それは愚問という奴です。結局今日をやり直したとしても私はさくらちゃんのことははっきりと覚えているわけですから知らないふりをしたままやり過ごすことなんてできません。たどる結末は今と何も変わりませんよ」

「まあお前ならそう答えるか、薄々分かってはいたけど一応聞いてみただけだ」

「……草野くんの方こそいいんですか?」

 晶は先ほどまでの嬉しそうな表情から一転して真剣な眼差しで俺に問いかける。

「『いいんですか?』って……何が?」

「ほら、結局今日の昼休みに披露した推理話は結局的外れに終わったじゃないですか?あの後夢子ちゃんに確認を取ったら夢子ちゃんが猫アレルギーだってことは当たってましたけど家にはちゃんと猫ちゃんいましたし……」

 晶のいう通りあの後引き取り手が見つかったという名目で彼女に連絡を取り、飼えない事情について聞いてみたところやはり彼女が猫アレルギーだからということだった。念のため猫は今どこにいるのか聞いてみるとわざわざ彼女の母親がビデオ通話の状態で別の部屋で寝ている子猫の様子を見せてくれたのだった。

「だからぶり返すなって、恥ずかしいんだから……なんでその話を今持ち出すんだよ?」

「いえ、ですからその推理が間違っていることをもっと早く知っていれば逆に草野くんがこの事態の当事者になることはなかったわけで……」

「言いたいことは分かった。お前がタイムリープで今日を遡って俺の推理が間違っていることをそれとなく早めに伝えておけば俺が体育館に近寄ることはないから後は俺が今日やってきたことを全部お前が引き受けて俺は何も知らずに日常生活を送ることができる。そんなところか?」

「まあ、概ね合ってますけど」

「俺も舐められたもんだな」

「え、そんな訳ないじゃないですか![#「!」は縦中横]私は草野くんのためを思って」

「結果的に捨て猫ではなかったが俺は笠原が何かを隠しているってところまでは突き止めてたんだ、遅かれ早かれ真相には辿り着くさ」

「……とてもそうとは思えませんが」

「それに俺のやったことをなぞるっていうなら洋平に頼るってことになるだろう?お前と笠原と洋平で俺に隠し事なんてそれこそ無理があるって。組み合わせが不自然すぎるし俺はあいつの家に入り浸っているからな。絶対ボロが出るに決まっている」

「うぅっ……確かにそうかもしれないです」

 見事俺に言いくるめられて晶は何も言えなくなっていた。

「それに何より……俺を含めて他の誰かのためにもうその力は使わないっていう約束だったろう?もう忘れたのか?」

 あの時俺との間で交わしたいくつかの約束、その中でも最も重要なルール。

 その気になれば割と何でもできるこの力は何でもできるからこそタチが悪い。日頃ニュースで何気なく見るような不幸な事故が晶にとっては回避できる未来となる。しかし当然全ての事故を未然に防ぐことなど不可能なわけでそうなると晶は救う命の選択を迫られることになるのだがそんなことを一々考えてたら体が持つわけがない。まあそういう趣旨で定めたルールだ。

「そうですね、うっかりしてました……っともう駅が見えてきましたよ。話し込んでるとあっという間ですね」

 暗くてよく分からなかったがその時の晶の表情は笑ってはいるようにもそしてどこか寂しそうな表情をしていたように思えた。

「あぁ、じゃあ気をつけて帰れよ」

「はい!ここまだ送っていただいてありがとうございました!草野くんもお気をつけて」

 そういって晶は俺に頭を下げてから駅の方へと消えていった。

 

 

 晶を駅まで送り届けてから洋平の家に戻ると二人の間での話し合いはほとんど終わっているようだった。

 内容を大まかにまとめるとまずさくらちゃんを洋平の家で預かる期間は来週の金曜日までということになり今日を含めて十一日間ということになったらしい。これは笠原が父親との間で元々約束していたさくらちゃんを預かる期間がそうだったからというものでその間にかかる諸々の費用は全て笠原が持つことになった。まあこれは当然だろう。

 そしてさらに洋平が笠原に提示した条件というのがさくらちゃんを洋平の家で預かる期間中笠原も洋平の家で生活するというものだった。

 洋平からしてみればこれまで全く面識のない少女といきなり二人きりで生活しなければならないのだからそこに抵抗感があるのも無理ないだろう。

 しかし笠原は洋平の出した条件に難色を示した。

 笠原の言い分は流石に毎日家を空けるというのは家族を説得するのが難しいというものでこれもまた言い分としては最もであるため両者の主張は平行線を辿ったままというところで丁度俺が洋平の家に戻ってきたのだった。

 このままでは双方とも折れそうになかったので見かねた俺は笠原が洋平の家に行けない日は代わりに俺が泊まるという提案をして二人を説得して何とか納得してもらうことになった。

 そういうわけで今後についての話し合いに折り合いがついたところで笠原も今夜は泊まっていくというのでそれぞれ寝室に移動して眠りにつくことになった。

 

 

 翌朝俺はリビングのソファで目を覚ますとテーブルで笠原とさくらちゃんが朝食を食べていた。

「おはよう、洋平は?」

「……あいつは朝練があるからって出てったぞ。俺もこれ食ったらすぐ出るから」

 笠原とさくらちゃんは昨日予めコンビニで買っておいた惣菜パンを食べている。

「お前も朝練に行くのか?洋平の家にいる時くらいゆっくりして行けよ」

 俺笠原の向かいの椅子に座ってテーブルに置かれたコンビニ袋から適当に惣菜パンを取り出して包んである袋を開けてパンを一口齧る。

「あのな……これまでほぼ毎日真面目に朝練してんのにここにきてちょくちょくサボりだしたら周りが不審がるだろうが。カモフラージュってやつだよ」

「ふぅん、まあそういう事なら別に言う事はないけど」

 俺はそう言って再び惣菜パンを一口頬張る。

「それにしても草野ってこうやって周りが飯食ってても全然起きねえのな。確かお前の家ってかなり遠いだろ?普段この時間に起きてたら間に合わないんじゃねえの?」

「そりゃあ普段は無理して起きてるだけでその気になれば俺はずっと寝れるぞ」

「へぇ、そりゃあ羨ましいこって」

「そういやお前今夜はどうするんだ?泊まっていくのか?」

「えっと……悪りぃ。今日は家に帰るからお前にこいつの面倒を見てもらうことになるわ」

 笠原はそう言ってさくらちゃんの方に目を向けた。

「了解」

「てかお前の方こそ大丈夫なのか?確か月曜日から星の家に泊まってんだろ?親とか何も言わねえの?」

「俺が通学に結構時間がかかるってことは親も分かっているからな。おまけに洋平のことだって中学の時から知っているしあいつの家に泊めてもらうって言えば割と融通はきくよ。まあ手土産持ってけってうるさいけど」

「なるほどな……さてと、じゃあ俺はそろそろ行くわ。こいつは家にいるけど一応戸締まりの方はしといてくれって星が言ってたから後は頼んだ。おい、今日は俺こっちに戻って来ないけどちゃんと大人しくしとけよ」

 笠原は席を立つとさくらちゃんの頭に手を置きながらそう言った。

「……分かった」

 さくらちゃんは聞こえるかどうかの声の大きさで返事をした。

 そういえばさくらちゃんの声を聞いたのはこれが初めてな気がする。

 さくらちゃんの返事を聞いて笠原はそのまま家を出て学校に向かっていった。

 笠原と洋平がいなくなったため俺とさくらちゃんの二人きりでこの家に残された。

 ……気まずい。

 洋平が笠原も家に泊まるように条件を付けた理由が身に染みて分かる。

「……あー、昨日はゆっくり眠れたか?」

「……」

 さくらちゃんはパンを頬張ったままこくりと首を縦に振った。

「そうか、まあ久しぶりに布団に入れたんだもんな。学校のあんな狭い所で何日も暮らすのはかなりしんどかっただろう?まだ子供なのによく我慢したよ。俺なら一日で根を上げてる」

「……」

 さくらちゃんは黙ったままパンをまた一口頬張った。おそらく返事をするつもりはないということだろう。

 彼女は俺のことを嫌っている、というよりは俺に対して怯えているというのがおそらく正しい。

 もちろんそれが彼女が元々人見知りで臆病な性格によるものというのも正しいがそれにしても俺に対する心の閉ざし方は晶や笠原よりも一層固いのもまた事実なのである。

 心当たりはある。というのも昨日の放課後さくらちゃんと晶が銭湯から出てきたちょうどその時に俺が笠原の顔面を蹴っ飛ばす場面に遭遇したからだ。

 俺がそんなことをするに至った経緯は晶達が銭湯に入っているのを待っている間に昨日洋平が笠原にした質問と同じようなことを聞いて同じように腹を立てたからであるがそんなことはさくらちゃんからすれば関係ないわけで彼女の中で俺という存在は恐ろしいバイオレンス野郎という印象なのだろう。

「……家にずっといると暇だったりしないか?この家ゲームとか時間潰せそうなもの全然置いてないし。欲しいものがあれば帰ってくる時持ってくるけど」

 俺も人のことを言えたものではないがそれにしても洋平は無趣味だからな。ましてや小さい子供が好きそうなものとなればこの部屋に到底あるとは思えない。

「……」

 やはりさくらちゃんは黙ったままで返事をする素振りを見せない。

「……はぁ。じゃあ俺もそろそろ」

「……みゃーくん」

「え?」

 いよいよこの空気に耐えかねて普段より少し早いが洋平の家を出ようとした時、さくらちゃんが口を開いた。

「ごめんよく聞こえなかった。ミャアクン?それってなんかのおもちゃか?」

「……おもちゃじゃない。みゃーくんはお兄ちゃん」

 俺がおもちゃと呼んだことがさくらちゃんの不興を買ったのか彼女は少しムキになった口調で俺に言った。

「あぁ、悪い悪い。まさか笠原のことをみゃーくんって呼んでるなんて思わなかったんだよ。あいつさっきは今日こっちに泊まれないって言ってたけど一応顔だけ出せないか聞いておくからそれでいいか?」

「……」

 俺はさくらちゃんに確認をとってみたが彼女は黙ったまま首を横に振った。

「これも違うのかよ……みゃーくんってのは笠原とは違うのか?」

 さくらちゃんは黙ったまま首を縦に振って頷いた。

 みゃーくんってのは笠原とは別のお兄ちゃんらしいが依然として何者なのかがはっきりとしない。

 文字通り家族という意味での兄が笠原の他にいるとはあいつからも聞かされていないのでそちらの線は可能性は低いとは思うがないと断定はできない。再婚相手の母親の方にもしかしたら連れ子がいるかもしれないからだ。だとしても笠原の元にさくらちゃんだけが来ているという点からもやはりその線は考えづらいが……

「そうか、じゃあみゃーくんにはどこに行けば会えるんだ?約束はできないけどもし見つかったらさくらちゃんに会ってくれるように俺が頼んでやる。それでいいなら探しておくよ」

「……あげちゃったから分かんない。多分どこかに行っちゃった」

「あげちゃったってみゃーくんを?誰に?」

「いーちゃん」

「いーちゃん……」

 誰だよいーちゃん。どこ行ったんだよみゃーくん。

 駄目だ。会話が全く進まないので頭が痛くなってきた。

 これが洋平や晶が相手だったらとっくにキレて話を切り上げてるが今目の前にいるのは俺に怯えていたさくらちゃんだ。

 しかし会話を重ねることでようやく心を開きかけているのでこれを無駄にするわけにはいかない。それにさっきのさくらちゃんの言葉に僅かながらヒントはあった。そこから何か手がかりを得られればいいのだが。

「あー、話をまとめるとさくらちゃんはみゃーくんに会いたいけどいーちゃんって子にあげたからどこに行ったのか分からない……っていうことでいいんだよな?」

「……うん」

 さくらちゃんは首を縦に振って頷いた。

 さっきまでは黙ったまま首を振って返事するだけだったので少しずつだがこちらに歩み寄ってきていると考えていいだろう。

「そうか、聞きたいんだけどみゃーくんってどれくらいの大きさなんだ?」

「……これくらい」

 さくらちゃんは自分の肩幅より少し大きく両手を広げた。

「お父さんかお母さんに買ってもらった?」

「……うん」

 何となくだが分かった気がする。さくらちゃんの言うみゃーくんとはやはり生き物を模した少し大きめのおもちゃ、おそらくぬいぐるみのようなものだろう。俺がおもちゃと言って不機嫌になったのは彼女にとってみゃーくんが家族同然に大切なものだったからというわけだ。

「いーちゃんはどこにいるのかは分からないのか?もしみゃーくんがさくらちゃんの大事なものならいーちゃんに謝って返してもらうこともできると思うけど」

「……智樹お兄ちゃんの所に行く時に会っただけだから多分どこかに行っちゃったと思う」

 さくらちゃんは寂しそうな顔をしてそう答えた。

 どうやら彼女は笠原と出会った日、確か先週の土曜日だったか。その日笠原と出会う前に会ったいーちゃんという子にみゃーくんをあげてしまったということらしい。

「そうか、でもさくらちゃんにとってみゃーくんは大切なお兄ちゃんだったんだろう?どうしてそんな大事なものを初めて会ったいーちゃんにあげたりなんかしたんだ?」

「……だっていーちゃん泣いてて可哀想だったんだもん!」

 そう言うとさくらちゃんはみゃーくんのこと以外にも今まで堪えていたものが溢れ出したのかとうとう泣きだしてしまった。

「あぁっ、ごめんごめん!責めてるわけじゃないから!頼むから泣かないでくれよ!」

「だって、だって……一人ぼっちで……可哀想だったからぁ……ひぐっ」

「本当ごめんって……マジでどうすりゃいいんだこれ」

 泣きじゃくるさくらちゃんを宥めようとしてとりあえず頭に手を置いたもののそこからどうしたらいいのかが分からず俺はただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。 

 

 

「あ゛[#「あ゛」は縦中横]ぁぁ……疲れた」

「大丈夫ですか?まだ学校に着いてもいないのに体力使い果たしちゃってるみたいですけど」

 疲弊し切った様子でフラフラと歩く俺を見て晶が心配そうに聞いてくる。

「大丈夫じゃねえよ、すげえ大変だったんだからな。学校終わったらまた今日も洋平の家に戻らなきゃいけないなんて考えるだけでも億劫だ……」

 あの後俺は泣きじゃくるさくらちゃんをにひたすら謝りながら宥めるというのを彼女が泣き疲れて眠るまでひたすらくり返し続けた。おかげでいつものように偶然を装って待ち伏せしている晶をあしらう体力すら残ってはいなかった。

「それにしてもさくらちゃんがそれほどまでに感情を表に出して泣いただなんて正直信じられません。草野くんの言い方が相当きつかったんじゃないですか?」

「んなことする訳ねーだろ……さくらちゃんからすればいきなり学校の小さな部室に押し込められたと思ったら今度は知らない奴の家に住むことになったりで相当ストレスのかかる生活を続けてきたんだよ。それで今までに溜まりに溜まったものが偶然、俺の些細な一言で溢れ出た訳で責任の半分はどう考えても笠原にある」

「うわぁ、責任を逃れるために必死に言い訳を考えたんだ……でもそう言われると確かに私達ってさくらちゃんに結構辛い思いをさせてるのかもしれないですね」

「しれない、じゃなくてしてんだよ。本来関係のない洋平まで巻き込んでるんだからそこの自覚はしっかり持っとけよ」

「……はい、そうですよね。すいませんでした」

 俺が釘を刺すと晶はシュンとした様子で謝ってきた。

「分かればいいんだよ。そういや子猫の件だけど浜崎さんの体調について何か聞いてるか?」

 俺は少し気まずくなった空気を変えるために別の話題を切り出した。

「あ、それなら今朝夢子ちゃんから連絡がありまして今日は学校に来るみたいです。それで里親になってくれるっていう……岩沢先生でしたっけ?その先生の都合さえ良ければ今日にでも引き渡そうかなと考えてるらしいのですが大丈夫そうですかね?」

 なんでうろ覚えなんだよ、と思わず言いそうになったが岩沢先生は晶のクラスの授業を受け持っていないのだろうと悟ったのでそれは言わずに胸にしまった。まだ晶達一年生は入学して二ヶ月くらいしか経っていないのだから学校にいる教師のことを把握していないのも無理はないだろう。

 まあ、それを考慮したとしてもインパクトのある見た目をしているとは思うのだが……

「それなら後で俺の方から聞いておくよ。けど引き渡しの方法はどうするんだ?浜崎さんが学校まで子猫を連れて来れるのか?」

「いえ、流石に夢子ちゃんも病み上がりですから無理はさせられません。今日引き渡すということで話がまとまれば放課後私が夢子ちゃんと一緒に夢子ちゃんの家に向かって猫ちゃんを受け取ったら私が運んで夢子ちゃんが後からついてくるという形でまた学校に戻ってきますのでその後引き渡しを行うというのでどうかなと考えてます」

「ふぅん、聞いてる限りだとなんだか面倒臭そうだな。浜崎さんの家はこの辺りなのか?」

「私も実際に行ったことはないのでよく分かりませんがそれほど遠くはないんじゃないですかね?確か帰り道は駅の方面ではなかったと思うので電車通学ってわけではなさそうですし」

「なるほどな、了解。じゃあその辺のことを岩沢先生に伝えておくよ」

「お願いします、その岩沢先生は猫ちゃんを大事にしてくれそうな方なんですか?」

「多分、あの人以上の適任はいないよ」



 その後晶と他愛のない会話を交わしながら登校している内に学校が見えてきたので校内に入る手前で晶とは別れ俺はその足で職員室に向かう。

 職員室に入ると自分の席でおそらく今日の授業の準備をしている岩沢先生を見つけたので俺は先生に近づいて声をかけることにした。

「おはようございます。今お時間大丈夫ですか?」

「あぁ、草野か。猫ちゃんについてか?」

「相変わらず話が早くて助かります。そうですね、その猫ちゃんについてお話が会ってきました」

「聞こうか」

 岩沢先生はそう言うと作業の手を止めて俺の方に体を向けて聞く姿勢になった。

「先生が子猫の里親になってもいいと言ってくれていることを浜崎さんに伝えたところ彼女の方もそれを了承してくれました。それで先生さえ良ければ今日にでも引き渡しは可能ということなのですがどうでしょうか?」

「ふむ、今日猫ちゃんを引き取ること自体は可能だが具体的な引き渡しの方法は考えているのか?」

「ああ、それなら浜崎さんと彼女の友達が今日の放課後一旦家に子猫を取りに帰るそうです。それで子猫を持って学校に戻ってきたらその場で先生に引き渡すという形を取ろうと考えているみたいなんですけどそれで問題ないですかね?」

「私もそれについて特に異論はないが……浜崎の友達というのは初めて出てきたな。その生徒はただの付き添いということか?」

「そういえばそうでしたね。実は浜崎さんなんですけど彼女結構な猫アレルギー持ちでして昨日もそのせいで寝込んでたんですよ。それで病み上がりの浜崎さんに無理させないようにってことで彼女の友達の方が家から学校までの子猫の運搬役をやることになったらしいです」

「……なるほど理解した。そういう事情なら浜崎さえ良ければ放課後彼女の家まで私が車で行って直接猫ちゃんを引きとるという形をとってもいい」

「え?いいんですか?」

「別に構わない。その方が引き渡しもスムーズだし浜崎も病み上がりなのに何度も学校を往復するのは大変だろう」

「そうですね、確かにその方が浜崎さん達にとっても楽だと思います」

「じゃあ浜崎にもそれでいいか直接確認をとっておきたいから昼休みにここに来るように言っておいてもらえるか?」

「分かりました。浜崎さんにはこの後伝えておきます」

「伝言役を何度も押し付けてしまってすまないな」

「いえ、お願いをしてるのはこちらの方ですから気にしないでください。それじゃあ俺はこれで失礼します」

「ああ、また後で」

 岩沢先生はそう言うと再び自分の机の方へと体を向き直して仕事に戻った。

 俺は職員室を後にして自分の教室に向かう途中ポケットからスマホを取り出して先程の先生との一連のやりとりを浜崎さんにメッセージアプリで伝えると「分かりました‼︎連絡していただきありがとうございます‼︎」という文章と『ありがとニャン♡』と目がハートマークの猫が喋っているスタンプがすぐに送られてきた。

 いや、いくらなんでも現実とキャラが変わりすぎだろう。

 それについて触れるべきか迷ったが変に傷つけてしまっても困るので今回はスルーすることにした。

 岩沢先生といい浜崎さんといい猫というものは人を変えてしまう強力な何かを持っているのかもしれない。そんなことを考えながら俺はスマホをポケットの中にしまった。



 その後は何事もなくいつも通り授業をこなして放課後になったので俺は荷物をまとめて学校を出ようとすると俺の下駄箱の前で鞄を持った晶が立っていた。

「待ち伏せ姿が様になってきたな」

「褒めても何も出ませんよ?」

「褒めてねえし。何の用だよ?」

「いやぁ、今日の放課後は夢子ちゃんの猫ちゃんの引き渡しに付き添う予定だったんですけどその必要がなくなりまして」

「岩沢先生が浜崎さんの家に直接引き取りに行くことになったのか?」

「あれ?ご存じでしたか?」

「その話を浜崎さんに持っていったのは俺だからな。先生に伝言を頼まれたんだよ」

「そうだったんですか。というわけで放課後の予定がぽっかり空いてしまったのでそれならさくらちゃんの様子を見に行こうかなと思いまして。草野くんは今日も星くんの家に泊まるんですよね?一緒に行きましょうよ」

「まあそういう事なら別にいいぞ。ただちょっと寄り道するからそれに付き合ってもらってもいいか?」

「それは別にかまいませんが……買い物か何かですか?」

「あぁ。とりあえず歩きながら話すか」

 俺はそう言いながら下駄箱から外履きを取り出して上履きから履き替えると晶と共に学校を出た。

 

 

「それで寄り道するってさっき言ったましたけどどこに向かってるんですか?」

 行き先をまだ言ってなかったので俺の半歩後ろにくっついていた晶が横に並んで聞いてくる。

「アウン。ここから少し歩いたところにあるのは知ってるだろ?」

 アウン、正式名称アウンモールは全国各地に展開する食料品に衣料品、映画おもちゃなんでもござれの大型ショッピングセンターだ。

 そのアウンが昼明高校から歩いて十分ほどの距離に建てられているのでこの時間帯だと暇を持て余したウチの生徒なんかをよく目にしたりする。

「友達と放課後に何度か遊びに行った事ならあります。アウンで何を買うんですか?」

「晩飯の材料。昨日は洋平の家に行くのが遅かったしコンビニで適当に買ったもので済ませたけど流石に毎日さくらちゃんに適当な飯を出すっていう訳にもいかないから今日明日の分くらいの飯は作っておこうかなと思って。それとあれだな……さくらちゃんの着替え」

「あぁ、そういえばさくらちゃん宿泊の用意は何も持ってないんでしたっけ。良かったですね私が付いていて」

「そうだな、それについては助かる」

 正直さくらちゃんの服についてはどうしようか悩んでいた。晶が買い物に同行してくれる前は流石にさくらちゃんのためとはいえ女児用の服やましてや下着なんかを買うのにはかなり抵抗があったため男の子と女の子どちらでも着れるようなデザインのもので妥協してもらおうと考えていた。

「えへへ、それにしても草野くんが料理できるなんて意外ですね」

「別に大した腕前じゃないけどたまに洋平の家に泊めてもらったお礼に作ってやってるんだよ。今時レシピなんて簡単に調べられるから材料さえあれば割と何とかなる」

「そうですか、星くんって一人暮らしですけど自炊はされないんですか?」

「弁当は持参してるしやれないことないらしいが実際どうなんだろうな。俺の見てる限りだと一応米は炊いているみたいだけどおかずなんかは惣菜や冷凍食品とかで済ますことが多い印象だよ。まああいつが料理できたとしても頼り切りになるのも悪いしそこは当てにはしてない」

「なるほどなるほど、そういう事なら私もお手伝いしますよ!」

 晶が鼻息を荒げながらアシスタント役に名乗りを上げてきた。

「必要ない、お前は俺の厨房に入るな」

「ひどい!俺の厨房って星くんの家なんだから星くんの厨房でしょ!」

「どうせお前だって別に普段料理するわけじゃないだろう?素人二人が集まって一緒に料理しても互いに邪魔して効率が悪いだけだ」

「邪魔って……普通男の人って女の子が一緒に料理するって言ったら喜び勇んで受け入れるものじゃないんですか?」

「ならねえな。バーベキューとかで普段ろくに料理しないやつがテンション上がって焼きそばを作り出したりすることがあるだろ?多分あれ眺めてる時と同じ気分になる」

「えっ……もしかして二年前私がバレンタインに手作りチョコを渡した時もそう思ってたんですか?」

「まあ俺が料理している間お前はさくらちゃんの面倒をみててくれよ、その方が効率がいいし」

「そんな風に思ってたんですね!信じられない!死んでください!」

 二年越しの真相を知って怒りの種を突如芽吹かせた晶は俺の背中に死ねという言葉を連発しながらグーパンチを何度も浴びせてくる。

 幸いそこまで痛くはないため俺は意に介さない態度を貫いて歩き続けていると立ち並ぶ他のどの建物よりも一際大きな建物が視界に入ってきた。。

「お、見えてきたぞ。実はアウンに来るのって久しぶりになんだけどやっぱいつ見てもでかいよな」

「ぜぇっ…ぜぇっ……女の純情を……弄ぶクズは…ぜぇ……死ねっ……」

「大丈夫か?頑張りすぎてキャラ変わってんじゃねえか」

 心配になって俺が立ち止まるとここまでほぼ息継ぎなしで暴言と暴力を行使し続けた晶は体力を使い果たしたようで手を両膝に置いて肩で息をしている。

「ぜぇっ……誰のせいだと…ぜぇっ……思ってるんですか……」

「悪かったって。冗談に決まってるだろ?あの時もちゃんと感謝しながら食ったよ。ここまで好き放題殴らせてやったんだからいいかげん機嫌直せよ」

「生意気なっ……ぜぇっ…自転車に乗れない癖に……」

「それは今関係ないだろうが!八つ裂きにすんぞ!」

 全く予想していなかったタイミングで晶が俺のタブーに触れてきたためつい脊髄反射で罵倒する言葉が飛び出しそれを追うように数瞬遅れて怒りが込み上げてきた。

「……ふぅ、スッキリしました。あれ?もうアウンに着いてるじゃないですか。ほら、こんな所でぼさっとしてないで行きましょうよ!」

 俺に一撃を食わらせることに成功してすっかり気をよくしたのかさっきまでの毒気は消え失せて晶はアウンに向かって一人歩き始める。

「……ったく。自分勝手すぎんだろ」

 俺は釈然としない気持ちを何とか押し殺して晶の後を追いかけて一緒にアウンの中へと入っていった。

「それで草野くん、ご飯とさくらちゃんの服のどちらの買い物から済ませます?」

 そう聞いてくる晶の手にはいつの間にか買い物かごが握られていた。

「お前もいるんだしここは分担していこう。俺は今日明日の食材を買っておくからお前はさくらちゃんの服を何着か買っておいてくれ。金は後で払うからレシートは捨てんなよ?」

 俺は晶から買い物かごを取り上げながら言った。

「えー!せっかくだし一緒に買い物しましょうよ!」

「我がまま言うな。お前が俺のところについて来たってやることなんてないし俺がお前について行ってもできることなんて何もねえんだから時間の無駄だろ?」

「正論ばかり並べないでくださいよ……まあ、分かりました。それじゃあ先に買い物を済ませた方が連絡するということでいいですか?」

「あぁ、それじゃまた後で」

 こうして晶と別れた俺は食料品売り場へと向かった。

 さて、今晩の献立だがどうしたものか。だいたい洋平の家で料理を作るとなるとカレーになるんだがさくらちゃんが辛いものが大丈夫か分からないしな。

 そんなことを考えながら俺は野菜コーナーの前でしばらく立ち棒けてアイデアが降りてくるのを待つ。

 ……肉じゃがにしよう。少し甘めの味付けにすれば子供の舌にも合いそうだしあれならカレーの具材も調理工程だって大差ない。それに煮込んでいる間に作り置きのおかずでも作っておける。

 俺はスマホを取り出して料理アプリを開く。そのアプリ内で作り置きできそうなメニューを調べていると大根の葉を使ったナムルのレシピが目に入った。

 大根の葉のナムルか……和食に合いそうだし白い根の方は味噌汁の具にすればいいだろう。

 献立が決まった所で俺は材料となる野菜を次々と買い物かごの中に放り込んでいきその後もあちこちぶらぶらしながら肉や洋平の家に常備されていない調味料、さくらちゃん用のお菓子などその他適当に必要そうなものを買い物かごに入れてレジで精算を済ませたところで晶に電話をかける。

「もしもし。もうそっちの買い物は終わったんですか?」

「ああ。そっちは?」

「こっちももうすぐ終わります」

「じゃあ俺がそっちに行くよ。子供服売り場って確か休憩する広場が近くにあったよな?」

「そうですそうです。それじゃあ待ってますね」

 そう言うと通話が切れたので俺はスマホをポケットにしまって晶のいる子供服売り場へと向かった。

 

 

 子供服売り場に近づくとレジを出た所で大きな買い物袋を持った晶が立っており俺を探しているのかキョロキョロと辺りを見渡している。

「あ、草野くん!」

 俺を見つけた晶が声をかけてくる。

「そっちも買い物終わったのか……というか見るからに袋がデカいんだが買いすぎなんじゃないか?」

「えー、女の子が着回せるくらい服買おうと思ったらこのくらいしますって。他にもパジャマとか靴下とか下着とかも買いましたけど無駄使いはしてませんよ?」

「ふぅん、まあ買い物を一任したのは俺だしお前がそういうならこれ以上は言わねえよ。じゃあ金返すからレシートくれるか?」

「それは星くんの家に帰ってからにしましょうよ。草野くんの方は何を買ったんですか?えぇっと人参にじゃがいもに玉ねぎに大根にお肉……今夜は大根カレーですか?」

 晶は俺の買い物袋の中身を覗き込んでメニューを予想してきた。

「聞いたことねえよそんなカレー。肉じゃが作って大根の方は味噌汁とナムルに使うんだよ」

「ほぉー、いいですね。私も好きですよ肉じゃが」

「そういや聞いてなかったけどお前も食ってくのか?」

「え⁉︎駄目なんですか⁉︎」

「駄目じゃねえけどそれなら早めに親に言っとけよ。急に晩飯はいらないって言われるのが一番困るんだからな」

「うわぁ、お母さんと同じこと言ってる……草野くんからうちの母親を感じるのってなんかちょっと気持ち悪いですね」

「馬鹿言ってねえでさっさと連絡しろ」

「はいはい、ちゃんと連絡しますからそんなプリプリしないでくださいよ」

 晶はそう言ってスマホを取り出すと親にメッセージを送っているのか素早く指を動かしている。っつうか何だよプリプリって。

「はい、お母さんに連絡は済ませましたよ!私も肉じゃがいただきますからね!」

「分かったよ、それじゃあ洋平の家に行くか」

 そう言って俺達はアウンを後にした。

 

 

「こんにちはーさくらちゃーん!遊びに来ましたよ!」

 洋平の家についた俺達が家の中に入るとさくらちゃんはテレビを見ながらリビングの床に座っていた。

「来るのが遅くなっちゃってごめんね!一人でお留守番してるの退屈じゃなかったですか?」

「……」

 さくらちゃんは黙ったままで何も答える様子はない。

「そうだ、さくらちゃん着替え全然持ってなかったでしょう?今日服を買ってきたからせっかくだし試着してみよっか。じゃあ草野くん料理の方はお任せしますね」

 そう言って晶はさくらちゃんの手を引いて客室の方へと消えていった。

 今回ばかりは晶がいてくれたことに感謝だな。さくらちゃんとは今朝泣かせてしまったばかりなので正直気まずかったし晶が相手をしてくれるおかげで俺の方は料理に集中できる。

 俺はアウンで買ってきた食材を持ってキッチンの方へ向かい料理の準備を始める。

 

 

「ただいまーっと。あれ?晶も来てたのか」

 俺が料理を一通り終え、もうすぐ肉じゃがの煮込みが完了するというタイミングで家主である洋平が帰ってきた。

「えへへ、お邪魔してます」

「さくらちゃんの服買うのを手伝ってもらったんだよ。ついでに飯も食ってくってさ」

「ほーん、それが買ってきた服か?似合ってるじゃん」

 洋平は新しい服に着替えたさくらちゃんを見ながらそう言った。

 さくらちゃんの格好は首にフリルをあしらわせた白い長袖の服の上から黒いキャミワンピースを着たというものでまるでこれから高級レストランにでも行くのかと思うくらいフォーマルな印象が出ている。

「ほら、星くんも似合ってるって言ってますよ。良かったね!」

「……」

 さくらちゃんは相変わらず黙ったままだったがどうやら照れているようで顔を赤らめてワンピースの裾をぎゅっと握っていた。

「はははっ、照れてんな。てかいい匂いしてるけど何作ってんの?カレーじゃないよな?」

「肉じゃがだよ。ちょうどできたところだし飯にするか。ついでくから運んでってくれ」

「はーい」

 俺は作った料理を次々と皿に盛り付けていきそれを各自がテーブルの自分の席に運んで全員が席に着いた所で食事を始めた。

「いただきまーす。ハムッ……うわぁ⁉︎この肉じゃがものすごく美味しいじゃないですか!」

 肉じゃがを一口食べた晶が驚いたような顔で俺に言った。

「口にあって何よりだ」

 スマホの料理アプリでレシピを見ながら作っただけだが褒められて悪い気はしない。

「確かにこりゃうめえな。こんなの作れるんだったらもっと前から出してくれよ。カレーばっかじゃなくてさ」

「それはお前に何食いたいか聞いてもなんでもいいとしか言わねえからだ」

「いや、前に餃子とか唐揚げが食いたいって言ったら面倒臭いからそれ以外にしろって断ってきたじゃねえか。面倒臭くない料理なんて聞かれても分かんねえし……」

「カレー以外が作って欲しいなら少しは料理のことを勉強するんだな。どうしても餃子と唐揚げが食いたきゃ冷凍食品でいいんじゃねえか?あれ普通に美味いぞ」

「そんなの知ってるって。たまには出来立てが食いたいっつう話だよ」

 そう言って洋平はまた一口肉じゃがを食べた。

 晶と洋平の評判は中々の好評だったようで安心した。肝心のさくらちゃんの方を見てみるとちょうど肉じゃがの一口目を食べた所だった。

「どうださくらちゃん、少し甘めの味付けにしてみたんだが食べられそうか?」

「……美味しい」

 さくらちゃんはそう言うとすぐにもう一口じゃがいもを頬張っていた。

「そうか、それは良かった。おかわりならまだあるから食べたかったら言ってくれ」

「はい!おかわりいいですか!」

「あ、俺も」

 いつの間にかご飯を食べ切っていた晶と洋平が茶碗を俺に向かって差し出してきた。

「食うの早すぎるだろ。っていうかお前らは自分でよそってこい」

「「えぇ……」」

 二人は露骨に不満そうな顔をすると渋々と炊飯器の所に向かっていった。

 さくらちゃんは食べるスピードは遅いものの黙々と肉じゃがを口に運んでいる。どうやら相当気に入ってくれているようでこちらとしても作った甲斐があったなとつい嬉しさが込み上げてくる。

「そういやさくらちゃんって普段はお父さんと一緒に暮らしてるんだよな?お父さんの料理だと何が好きなんだ?」

「……分からない」

「分からないって……あまりお父さんって料理が得意じゃないのか?」

「……お弁当を買ってくれる」

「……そっか、仕事で忙しいんだもんな。ごめんな、変なこと聞いちゃって」

 さくらちゃんは首を横に振って再び肉じゃがを食べ始めた。

 彼女の父親といえば現に今だって家を空けなければいけない程仕事が忙しいのだから食事を作る余裕がない可能性など少し考えれば思いついたはずなのについ舞い上がってしまい迂闊な質問をしてしまったと後悔する。

「もう星くん!ご飯の上に肉じゃがを乗せるなんてお行儀が悪いですよ!まだ机に置かれてるのも食べ切ってないでしょ!」

「えー、どうせおかわりするんだから一回で全部済ませた方が楽だろ?」

 俺が自分のミスに落ち込んでいると晶は大盛りのご飯を、洋平は大盛りのご飯に肉じゃがを乗せたものを手に持って戻ってきた。

「子供がいる前でみっともないことはよせよ」

「はいはい、次はちゃんと食べ終わってからまたおかわりに行きますよーっと」

「米の方はまた炊けば大丈夫だけど他のは明日の分でもあるんだからちゃんと残しとけよな」

「あ、そうなのか?」

「お前が明日飯を作るっていうなら別に食べ切ってもいいけど」

「いや、それはやめとくわ。部活後に飯作る体力なんて残ってねえし」

 そういうと洋平は肉じゃが丼を頬張った。



「あー美味しかったです!ご馳走様でした!」

 洋平宅での夕食を終えてから俺は晶を駅まで送っていた。

「そりゃあ良かった。にしても結構食ったな」

 明日の分も含めて予め多めに米を炊いていたのだが洋平と晶が予想以上に食べたため殆ど残らなかった。

「ふふっ、だから草野くんの料理が美味しかったからですって。次は何を作ってもらおうかなー」

「なるべく楽なやつで頼む」

「分かりました。それじゃあ次までに考えておきますね」

「あぁ……ってそういや忘れてた。さくらちゃんの服の代金」

「あ、そういえば……私もすっかり忘れてましたよ。草野くんも律儀ですねえ、そのまま忘れたふりしておけば良かったのに」

「そういう訳にもいかんだろう。ほら、レシートよこせよ」

「はいはいちょっと待ってくださいね」

 そう言って晶は自分の財布を取り出してレシートを渡してきた。

「……おいおいおいおいマジかよ」

 受け取ったレシートを見て驚愕する。子供服のセットが三着にパジャマが一着、その他下着や靴下など諸々含めて総額四万六千円。

「いくらなんでも高すぎんだろ!」

「えー?アウンの時は納得してくれたじゃないですか」

「それはまさかこんなにも高いもん買うとは思ってなかったからだよ!なんだよこの子供服の値段、絶対ブランドもんだろ……」

 思い返せば確かにさっきお披露目していたさくらちゃんの服装はいかにもよそ行きで着ていくような高級感溢れるものだった。

「もう!そんなに言うんでしたら別にお金なんか払ってもらわなくても結構ですよ!」

 俺の態度を見て気に食わなかったのか晶は怒りながらそう言った。

「いや、そういう訳にはいかない。いかないんだが……来週まで待ってもらってもいいか?流石にこの額は持ち合わせてないから今すぐには払えない」

「だからいらないですって!なんですかせっかく買い物手伝ってあげたのに……そんなに私の買うものに不満があるならあの時一緒に買い物してくれたら良かったじゃないですか!」

 今思えば本当にその通りだと思う。俺が大根が安いなどと考えていた時、晶はそれを帳消しにするどころでは済まない買い物をしていたのだから。女児向けの服を買う際の一時の恥など捨て去ってしまえば良かったのだと俺は後悔した。

 そんなことを考えている間に晶は怒って先に行ってしまった。

「あ、おいちょっと待てよ!晶!」

 俺は慌てて晶の跡を追いかけていった。

 

 

「ただいま」

「おかえり。今さくらちゃん風呂入ってるから上がったら次お前入れよ」

 洋平はソファにくつろぎながらテレビ番組を見ていた。

「いや、俺は最後でいいよ」

 俺はそう言ってダイニングテーブルの椅子に深くもたれかかると天を仰いだ。

「どうした?ものすごい疲れてるじゃねえか」

「あぁ……なんか今日一日中誰かに謝ってばっかりだったなと思って」

 あの後俺は駅に向かう道中晶に謝り続け何とか金を受け取ってもらう約束だけはしてもらった。

「なんだ、どうせ晶になんか余計なこと言ったんだろう?そりゃお前が悪い」

「だから謝ったんだって。その件はもう済んだから掘ってくるんじゃねえ」

「はいはい、それにしても色々と大変だっただろう?今日って水曜日だし本当はフットサルの予定が入ってたんじゃねえのか?」

「まあそうだったけど事情が事情だしさくらちゃん放っといて遊んでもいられんだろう」

「あー……すまん」

 自分が部活をしていたことに引け目を感じたのか洋平は謝ってきた。

「お前は気にするな。幸い一昨日やれたんだし予定が前倒しになったとでも思っとくよ」

 ちょうど俺がそう言い終えたタイミングでパジャマ姿に着替えたさくらちゃんが風呂から戻ってきた。

「おぉ、パジャマも買ってもらったのか。似合ってる似合ってる。ピカもそう思うよな?」

 さくらちゃんの着ているパジャマは黒を基調とした猫がモチーフのデザインになっておりフードの部分には猫耳と思われるものが付いている。

「そうだな、似合ってるよ。今度晶にお礼言おうな」

 さくらちゃんは照れているのかフードを深く被り小さく頷いた。

「じゃあ次は俺が風呂入るわ……っといっけね、忘れるところだった」

 洋平はソファから立ち上がり風呂場に向かおうとしていたが途中でその方向を変え自分の鞄の近くまで行くとゴソゴソとその中身を漁り出した。

「何してんだ?」

「いや、ちょっと待て……よし、これで全部だな」

 そう言って洋平は鞄から大量の本を取り出すとさくらちゃんの元まで近づいてそれを地面に置いた。

「ほら、さくらちゃんにプレゼント」

「どうしたんだそれ?」

「図書室で子供でも読めそうなやつ探して限度一杯借りてきたんだよ。俺が言うのもなんだがこの家ってただ広いだけで時間潰せそうなものってなんもねえからさ。さくらちゃんも退屈だっただろう?あんま大したもんじゃないけどなんか気に入ったもんがあったらまた似たやつ探して借りてくるから教えてくれよ」

 地面に積まれた本を見てみると児童書や間違い探しの絵本、動物や料理の図鑑に至るまでジャンルを問わずあらゆる内容のものとなっていた。

「……ありがとう」

 さくらちゃんは一番上の本を手に取り洋平に小さな声でお礼を言った。

「どういたしまして」

「こんなのよく見つけてきたな」

「案外学校の図書室ってのも馬鹿にできねえぞ?行くのなんてほぼ初めてだったけど児童向けの本も結構置いてあったし今流行ってるドラマとか映画の原作を紹介するコーナーなんかもあったりしてただブラつくだけでも大きめの本屋みたいで面白かったな」

「そうか……たださくらちゃんの面倒見るのを手伝ってくれるのはありがたいんだがお前がこれ以上余計な気を使う必要もないんだぞ?本を借りに行くのだって言ってくれれば俺がやったのに」

「そんなこと言ってもお前今日朝から体力使い果たして死んでたじゃねえか。やらなきゃいけないこと全部一人で抱え込んでパンクしてたら笠原がさくらちゃんにやったことは間違いだって責められないだろう?だから気にすんな」

「……そうだな、お前の言う通りだよ。ありがとう」

「はいよ、じゃあ俺風呂入ってくるわ」

 そう言って洋平は風呂場へと消えていった。

 その後さくらちゃんは洋平からもらった本を夢中になって読み続け俺は洋平と交代で風呂に入った後明日の授業に備えて軽く予習を済ませ、いい時間になったところで各自それぞれの寝室に戻り眠りについた。



 翌朝、スマホのアラーム音で目を覚ます。体を起こして辺りを見渡すとダイニングチェアにパジャマ姿のさくらちゃんが座って本を読んでいた。

「おはよう、もう朝飯は食べたのか?」

「……うん」

「そうか」

 俺はキッチンの方へ向かうと五枚切りの食パンといちごジャムが置いてあったので中から一枚取り出してジャムを塗る。そして電気コンロの上に置かれたやかんの中のお湯をて使ってインスタントコーヒーを淹れるとそれらを持ってさくらちゃんの隣に座った。

「昨日からずっと本読んでるだろう?面白いものはあったか?」

「……うん」

「そうか、なら洋平のプレゼント作戦は成功だな。あいつに言ってやれよ。きっと喜んで新しい本を持ってくるぞ」

 俺はそう言ってパンを一口齧る。さくらちゃんの読んでいる本を横から覗き込むと色んな種類の動物の写真が掲載されておりそれぞれの写真の近くには各動物の詳しい説明が書かれていた。

「それって動物の図鑑だろう?確か洋平の持ってきた本の中でも一番デカいやつだったよな」

 俺が質問をするとさくらちゃんは黙ったまま図鑑を机に置くと俺の目の前にスッと寄せてきた。

「どうした?」

「わんちゃん」

 さくらちゃんは図鑑の日本犬を紹介しているページを指差した。

「そうだな、わんちゃんだな」

「……なんて読むの?」

「ん?あぁ、漢字が読めないのか」

 図鑑の内容をよく見てみると漢字にはふりがなが振られておらずさくらちゃんは読むことができなかったらしい。洋平のやつも流石にそこまでは気が回らなかったようだ。

「なんて読むの?」

「悪い悪い、これは柴犬って言うんだよ」

「……しばいぬ」

「そうだ、そんなに珍しい犬種じゃないし一度くらいは見た事あるんじゃないか?」

「けんしゅ?」

「犬の種類ってこと。人間でも日本人とかアメリカ人とか色々いるだろ?それの犬バージョンって事だよ。分かるか?」

「……うん」

 さくらちゃんは小さく頷いた。

 その後食事をしながらさくらちゃんの質問責めに付き合い続けてふと時計を確認するとそろそろ家を出ないといけない時間なってきた。

「さてと、じゃあ俺は学校に行ってくるよ。暇だったらテレビ見ててもいいし腹減ったら冷蔵庫にあるもの好きに食っていいから。後お菓子も昨日買ってきたからそれも食べていいぞ」

 俺はそう言って荷物をまとめると玄関に向かうとさくらちゃんが後ろをついてきた。

 どうやらお見送りをしてくれるらしい。出会った頃と比べて随分と懐いてくれているようで思わず笑みがこぼれる。

「じゃあ行ってきます。パジャマ後でちゃんと着替えろよな?」

「……」

 さくらちゃんは何も言わず俺に向かって手をゆっくりと振った。

 

 

 昨日のこともあってか登校中晶に会うことはなかった。普段あいつがウザ絡みをしてくる時は鬱陶しいとしか思わなかったがいざいないとなると不思議と調子が狂う。

 なぜだろう。昨日の別れ方が良くなかったからか、良くも悪くも晶と登校することが日課となってしまったからか。

「お、草野じゃん。おはよう」

 そんな事を考えながら歩いていたらいつの間にか学校に着いていたらしい。下駄箱で靴を履き替えていた笠原がこちらに気付いて挨拶をしてきた。

「おはよう、朝練終わりか?」

「あぁ、てか知ってて聞いてるだろそれ」

「まあな」

 俺も靴を履き替えるために自分の下駄箱まで歩くと笠原に近づいたからか柑橘系の制汗剤の香りがふわっとと漂ってくる。

「そうかよ……そういやお前昨日もあいつの面倒見てくれたんだよな?マジサンキューだわ」

「別にいいんだけどさ、今日くらいはお前が面倒見ろよ。あれから一度も顔出してねえじゃねえか」

 俺は靴を履き替えながら笠原に言った。

「あー……もちろん手伝うつもりはあるんだけどさ。やっぱ親説得すんのが難しいっていうか、バイトと部活で夜だって忙しいし」

 笠原はそう言って教室に向かって歩き出したので俺もその後を追う。

「一昨日もそんな話を聞いてあの時は納得しかけたが本来最初の話だと基本面倒を見るのはお前でどうしても都合がつかなければ俺が代わりを務めるってことになってたはずだ。俺だって暇だから面倒見るのを引き受けてるわけじゃない。責任と負担は俺たちの間で分散されるべきだ」

 あの時以来どうもその辺が曖昧になっていると感じたので俺は言うべきことを言った。

「そう言われると返す言葉がないんだけどよ……なんか今日のお前機嫌悪くね?あいつと喧嘩でもしたか?」

「そんなわけねーだろ。今朝だって俺が学校行くのを見送ってくれたぞ」

「マジで⁉︎ならむしろこのままの方が良かったり」

「しない。俺だってこれから毎日面倒見るのは流石に無理だしそうなるとあの娘が俺に依存しすぎるのもあまりいいことじゃないだろう」

「……」

「ひどいことをしてしまった手前お前が顔合わせるのが気まずいっていう気持ちも分かるよ。でも第一印象が最悪だった俺でも今となっちゃ結構仲良くなれた訳だしこれからの関係性がどうなるかはお前次第なんじゃないか?」

「……分かったよ。いちいち正論ばかり言いやがってなんも言い返せねえじゃねえか。ちょうど来月から中間試験が始まるし友達の家の勉強会にちょくちょく参加するってことで親には言っとくからそれでいいだろう?」

「あぁ」

「言っとくけど俺だって毎日は無理だからな?」

「分かってる。そこはお互いの予定を考慮しながら考えていこう……じゃあこの話はひと段落ついたってことでお前にはこれをやる」

 そう言って俺は財布の中から二枚のレシートを取り出し笠原に渡す。

「なんだよこれ?」

「レシート。あの娘の面倒見る間にかかる費用はお前持ちだって話は忘れてないよな?昨日の飯代の他に着替えとか必要そうな物も買っておいたから支払いの方を頼む」

「あーそういやそんな話になってたな。すっかり忘れてた」

「おい」

「冗談だよ。ちゃんと覚えてるし払う払う……って高‼︎」

 あまりにもこちらの予想していた通りの反応を見せてくれるものだから面白くて心の中で笑みが溢れる。

「なんだよ、この値段は!何買ったらこんなに高くつくんだよ!」

「そんなでかい声出してると周りに聞かれるぞ。さっきも言った通り着替えとかの日用品だよ。女物の買い物だからってことで晶に一任したんだがあいつの金銭感覚は俺達とここまで違うということには気付けなかった」

「だからってこんな金額になるのか?子供の小遣いでポンと出せる額じゃないだろう⁉︎」

 俺の忠告を守って笠原は声のボリュームを落としてはいるが動揺しているのは相変わらずだった。

「他人の家の懐事情なんて興味ないし詮索したことはないけど意外とそういう家が裕福な奴だって周りにいるかもしれないぞ?」

「まあ、現に晶ちゃんがそれに当てはまるっぽいしなくはないんだろうけどさ……」

「てな訳できっちり返せ、と言いたい所だが流石に額が額だし俺にも買い物を晶に一任した責任がほんの若干だがある、とも言えなくもないから今回出す金額は俺と折半でいい。どうせ今手持ちはないだろうし来週までに用意してくれれば俺の方からまとめて晶に返しておくよ」

「……」

 俺がそう言うと笠原は歩きながら何か考え込んでいるようで沈黙の時間が続く。

 まさか俺のこの提案が不満だとでも言うのだろうか?こっちだって本当に本当のことを言えば責任があるだなんて思っちゃいないしこいつが不憫に思えたから身銭を切ってやったと言うのに。なんなら本当の本当にこちらには非がない食事代まで折半にしてやったと言うのに。

「いや、その必要はねえよ」

 予想を上回る答えが返ってきた。

「必要はないって……お前立場分かってんのか?踏み倒しは許さねえぞ」

「そうじゃなくて全額俺が払うって言ってんだよ」

 そう言うと笠原は自分の財布を取り出して中から万札を数枚抜き出して俺に渡してきた。

「ほら、五万だ。これで足りるだろ」

 俺は笠原から渡された万札を数えると確かに五枚あった。

「……」

「なんだよ?釣りなら今までの迷惑料ってことでやるから返さなくていいぞ」

「いや、そうじゃなくてさ……なんでこんな大金をすぐに出せるんだよ?晶の金銭感覚が俺達とは違うって話さっきしたばっかだろう?」

「その話の前にも言ったけどあいつの面倒見るのにかかった金は俺が負担するって約束はちゃんと覚えてたからな。ある程度まとまった金は事前に用意していたんだよ。まさかここまで持ってかれるとは予想してなかったけどさ」

 笠原は飄々とした様子で答える。

「そうか……まあそういうことなら今日にでも晶に返しておくよ」

 俺はそう言って自分の財布に笠原からもらった五万を入れようとするがこんな大金を触ることなどほとんどないため持つ手が震えて中々上手く入らない。

「おいおい、手が震えてんじゃねえか!」

 そんな俺の様子を見て笠原は笑いながら言った。

「うるせえ、こんな大金いきなり持たされるとは思わなかったんだから仕方ないだろう!ついさっきまでお前も俺と同類だと思ってたのに一瞬で裏切りやがって」

「お前こそ勘違いすんなって。これは俺がバイトして稼いだ金であって金銭感覚はめちゃくちゃ庶民派だからな?今回は初期費用だから仕方ないって割り切ることにするけど流石に今後もこんな出費がかさむような買い物は止めてくれよ?」

「それは気をつけるけどさ……そういやお前バイトって何してんの?」

「あー……コンビニの夜勤」

「夜勤ってお前それ校則違反のやつじゃねえの?」

 うちの高校ではバイト自体は禁止されていないものの深夜の時間帯のバイトは校則で禁止されている。というよりそもそも法律で禁止されていると確か一年の入学当初に担任の教師から言われた気がする。

「これはお前だから教えたんだからな?絶対他の奴には言うなよ」

「てことはやっぱ深夜働いてんのか……なんでそんなことする必要があるんだよ」

「あれ?他人の懐事情に興味はなかったんじゃないのか?」

「それは……」

 笠原に一本取られ思わず言葉に詰まってしまった。

「ははっ、冗談だよ。まあ別に複雑な事情ってわけでもねえぞ?母子家庭の親が子供を私立の高校に通わせるのも一苦労、なんて話今時珍しくもないしな」

 なんてことはない顔をして笠原は言うが、俺は野暮なことを聞いてしまったと後悔した。

 笠原がさくらちゃんの面倒を見ることに消極的だったのは本当に忙しかったからだしそもそも笠原と彼女は……

「なあ笠原、やっぱりさっきの金の話だけどさ」

「渡した金なら受け取らねえぞ」

 俺が全てを言い切る前に笠原は断ってきた。まるで俺がそう申し出ることが事前に分かっていたみたいに笠原の切り出す言葉は早く、その口調は力強かった。

「いや、そうは言ってもだな」

「くどいって。好きじゃねえんだよ同情されんのがさ。お前にこの話をしたのはそういう所に妙に聡いと思ったからだけど俺の思い違いだったのか?」

「……悪い。気をつけるよ」

「バイトの秘密さえ守ってくれりゃあ別にいいよ。それより朝からそんな辛気臭い顔すんなって。教室入った時に間違いなく不審がられるぞ」

 そう言って笠原は右手で歩いている方向を指差す。どうやら話している間に俺達の教室の手前まで来ていたようだ。

「あぁ、そうだな」

 笠原の言うことももっともだと思ったので俺は教室の扉の前で目を瞑って一度大きく息を吸い気持ちを整えてから扉を開け教室の中に入っていった。

 

 

 その日の午前の授業を終えた昼休み、俺は中庭のベンチに座っていた。

 周りを見渡せば友達や恋人と一緒に昼食を楽しむ者達で溢れかえっており自意識過剰だと分かっていても俺だけ隣に誰もいないという状況がポツンと浮いているようにも思えてしまう。

 別に一人で昼食を摂るつもりではないのだが果たして来てくれるだろうか

「お待たせしました」

 そんなことを考えていたら待ち人である晶が目の前に立っていた。

「あ、本当に来た」

「来たって……呼んだのは草野くんの方じゃないですか」

 俺は午前中に晶に中庭で一緒に昼飯を食おうとメッセージを送っておいたのだが返答がなかったため果たして本当に来るかどうかは今まで分からなかった。

「そりゃそうなんだけど昨日の今日だし今朝だってお前一人で学校に行ってただろ?もしかしたらシカトされてもおかしくないなと思ってた」

「まあずっと喧嘩したままっていうわけにもいきませんし」

 そう言って晶は俺の隣に座った。

「「……」」

 互いに話を切り出そうとしないまま時間だけが緩やかに過ぎていく。

「……悪かった」

「え?」

「昨日のことだよ。値段見たらびっくりしてつい感情的に色々言ってしまったけどお前なりにさくらちゃんを元気にさせたいと思ってやったことなんだよな?あの娘買って貰ったパジャマが相当気に入ったみたいでさ、すげー嬉しそうにしてたよ。俺が服を買っててもきっとあんな風に喜ばせることはできなかった」

「草野くん……」

「そう考えたらお前は俺が頼んだ通りのことをやってくれた訳だし金額について特に条件付けたわけでもないのに後からグチグチ文句言うなんて筋が通ってないもんな」

「もう大丈夫ですよ。草野くんの言いたいことは伝わりました」

 晶は俺に優しく言った。

「本当は分かってたんです。さくらちゃんを喜ばせたい気持ちとかせっかく私に任せてくれた草野くんの期待に応えたい気持ちが先行して暴走気味になっちゃったこと。だから悪いのは私だって頭の中では思ってたのにどうしても謝ることができなくて……すいませんでした」

 そう言って晶は頭を下げた。

「そうか、ならお互い悪かったってことで仲直り、で良いよな?」

「……はい、そうですね!」

 良かった。晶はいつもの調子を取り戻した。

「はあっ……疲れた。」

「ふふっ、私もさっきまでずっとモヤモヤを抱え込んでました。」

「……お前なら抱え込む必要なんてなかったんじゃないのか?」

「どういうことですか?」

「あれだよ」

 俺は中庭に設置された時計を指差し逆時計回りにゆっくりと回す。

「あぁ、なるほど」

「お前ならやり直すことなんて訳ないだろう。変に引きずるくらいなら都合のいいように行動を変えれば良かったのに」

「そうやって簡単に言いますけどね、やり直すのも色々面倒くさいんですよ」

 まるでこいつ分かってないな、とでも言いたげな顔をしながら晶は言った。

「面倒臭いって、そんなことはないだろう。いくらでもやり直せるんだから自分の納得いくように行動すればいいじゃないか」

「草野くんが考える程万能じゃないですよ。私が遡ることができるのは最後に目を覚ました時点って決まってますしそうなると遡る度に髪型セットしたり朝ご飯食べたりで大変なんです。それにいわゆるタイムリープをしたとしても体の活動してた時間の方は遡ることができなくて継続されるんです。だから何度も同じ日を繰り返すなんてことは活動時間が蓄積されちゃって眠たくなっちゃうんで不可能なんですよね」

 秘密を共有してからそれなりの付き合いだったが能力の詳細については初めて聞かされることばかりだった。

「そうだったとは知らなかった。そういや中学の時もそこまで能力のことを詳細には聞かなかったもんな」

「当時は私自身も詳しく分かってなかったんですよ、むしろ気味が悪くて受け入れることすら難しかったくらいですから。まあとにかくそういう訳で余程の事じゃない限りやり直したりはしないですよ」

「毎朝俺を待ち伏せする時に使ってる癖に」

「何か言いました?」

「いや、何も……そうだ。これ渡しとくわ」

 俺は休み時間に購買で買ってきた封筒を差し出す。

「なんですこれ……あ、お金」

「昨日お前に立て替えてもらった金が入ってる。中にレシートも入れておいたから合ってるか確認してくれ」

「でもお金を渡すのって確か来週じゃ……」

「笠原にも金を準備する猶予は必要だと思ったからそう言ったんだけどあいつにレシート見せたらすぐに渡してくれたよ」

「へえ、そうですか……でもやっぱりこのお金なんですけど」

「受け取ってやれよ」

 俺は晶の言いたい事は分かったので笠原が俺にしたように彼女が言い切る前に遮った。

「え?」

「金はいらないって言いたいんだろ?俺も笠原に金は折半するって言ったけどキッパリと断られたよ。そういう約束だから金は俺が払うってさ。あいつの意思も固いみたいだったしここは黙って貰っとけよ」

「……はい、そういう事なら分かりました。このお金は受け取っておきます」

 そう言って晶は封筒を制服のポケットにしまった。

「あー、ようやく手放すことができた。お前も笠原もよくこんな大金持って平気でいられるよな。俺なんか午前中授業どころじゃなかったぞ」

「ふふっ、まあ私の場合はクレジットカードですから大金を持ってる実感というのは湧きにくいのかもしれないですね」

「持ってるんだな、クレジットカード。羨ましいと思ったことはあるけどやっぱり俺はしばらくいらねえわ」

「そうですか?便利なんですけどね……ところで今日は洋平くんの家に行くんですか?」

「いや、今日は笠原の番だ。今夜は久しぶりに自分のベッドでゆっくりするよ」

「それがいいと思いますよ、ここのところ草野くん疲れてるみたいでしたし」

「俺もお前に同じことを言ってやるよ。色々手伝ってくれるのは助かるけどもうすぐ中間試験だぞ?手伝う方に気を取られて勉強できなかったなんて言い訳は無しだからな?」

「……草野くん、さっき自分で言ったばかりなのにもう忘れちゃったんですか?」

「忘れたって、何を?」

 俺がそう聞くと晶はまるで悪戯を思いついた子供のような笑顔で時計を指差して逆時計回りに回転させた。

 

 

「ただいま」

 今日の授業を全て終えて俺は三日振りに自宅に帰ってきた。

「なんだお前か、知らない男が家に入ってきたと思ったぞ」

 リビングに入るとソファで読書をしている学制服を着た女性がこちらを一瞥して冷たい口調で言った。

「……少し家にいなかっただけで弟の顔を忘れんなよ」

 目の前にいる彼女は草野泉。俺の一つ上の姉だ。着ている制服は昼明のものではなく海南高校、俺の第一志望だった高校のものだ。そして俺はこの女が苦手である。

「そんなどこにでもいるような顔数日見なければ忘れるさ。何日もどこで遊び呆けてた?」

「別に。洋平の家に泊めてもらってただけだよ」

「洋平……あぁ、あのチビのことか」

「チビって……あいつとっくに俺の身長抜かしてるからな?」

「そんなことはどうでもいい。で、そのチビの家は何日でも遊んでいられる程楽しいのか?」

 姉ちゃんの中の洋平の身長は変わらなかったらしい。

「さっきからなんでそんなに突っかかってくるんだよ。母さんにはちゃんと連絡してるし反対されてる訳じゃないんだから別にいいだろう?」

「それはついこの間までずっと気の抜けた生活を送っていたお前が最近になってようやく少し明るくなったから母さん達は気を使って強く言えなかっただけだよ。お前がその優しさに必要以上に甘えようとするなら誰かが釘を刺さないとな」

「……言いたいことは分かったけどさ。別に遊んでた訳じゃないんだって」

「ほう、なら私が納得いくような理由を説明してみろ」

「嫌だね、なんでわざわざ姉ちゃんを納得させなきゃいけないんだよ」

「いいから言えよ」

 かすかに怒気のこもった冷たい声が部屋の中に響く。これは洋平の時と同じ嵐の前の静けさという奴だ。一つ違う点があるとすればその嵐によって俺が死ぬということだろうか。

 こうなればもはや逆らうことはできない。

「……もうすぐ中間試験が始まるから洋平の勉強を見てやってたんだよ。色々あいつには世話になってるしその恩返しも兼ねてってことで。だから遊んでた訳じゃねえよ」

 逆らうことはできないがだからと言って『洋平の家で小さな女の子と生活してました』なんてことも言えるわけがない。という訳でここは今朝笠原が考えた言い訳を拝借させてもらうことにする。

「……」

 姉ちゃんは黙ったままピクリとも動かない。

 表情が読めない……まさか嘘だとバレたか?いや、そんなはずはない。今の発言におかしな点などなかったはずだ。

「そうか、つまりお前はその勉強会のために昨日アウンでわざわざ食材や子供服を買ってたということなんだな?」

 俺は死ぬことが確定した。

「……なんで姉ちゃんがそれを?」

「中学の時の友達が教えてくれたんだよ。お前が女と一緒に買い物袋を持ってアウンにいたってさ」

 そう言って姉ちゃんは読んでいた本をパタリと閉じてソファの前にあるテーブルの上に置いた。

「光が本当のことを言ってくれなくて私は寂しい」

「待って。説明するから話を聞いてくれ」

「その必要はないよ。お前は私に嘘をつくというのがどういうことなのかを十分分かっているはずなのにそれでも嘘をつくことを選んだんだ。その覚悟ならお姉ちゃんにも伝わったさ」

 姉ちゃんはソファから立ち上がりゆっくりと俺の所まで近づいてくる。

「待て待て待て待て待って待って待って!違う!違うから!」

「言い出せなくて辛かっただろう?もう無理に抱え込む必要はないんだ。楽になっていい」

 殺される殺される殺される殺される殺されるコロコロコロコロ

 姉ちゃんが右手をゆらりと持ち上げた。彼女のことをよく知る俺からすればその姿は断頭台にしか見えない。そしてその右手の形をしたギロチンは振り下ろされ—

「……え?」

 なかった。

 ギロチンだと思っていた右手は優しく俺の頭の上に置かれている。

「姉ちゃん?」

「友達から聞いた時は私も流石に驚いたぞ?まさかお前がシングルマザーと付き合っているなんて」

「え……姉ちゃん?」

「そりゃあ言いたくはないよな、一回り以上歳上の彼女の家に泊めてもらってるとか子供の服を一緒に買いに行ったなんて。母さん達が知ったらゲロと血の泡吐いて気絶するのは目に見えてるもんな」

 姉ちゃんは俺の頭をポンポンと優しく叩く。

「姉ちゃん、違う……話を聞いてくれ」

「私も最初知らされた時はそれを受け入れることは正直できないと思った。でもこれまで覇気のない生活を送っていたお前にどう接していいか分からなかった私と違ってその人達はお前の側で生きる希望として寄り添ってきたんだということに気づいてしまったらそんなの認める以外ないじゃないか」

「姉ちゃん!」

「だからだ」

「ンギィッ⁉︎」

 突如頭に置かれていた右手の指が脳天に刺さる

「お前の恋愛は応援してやる。だから私と父さんと母さん、それと彼女さんとその子供のことを裏切るような真似は絶対にするなよ?もしそんなことしたらお前を父さんの金玉にぶち込んで初めから人生やり直させるからな?」

「は、はいっ……分かりました……分かりましたから……離してっ……」

 俺は悪魔ととんでもない契約を結ばされてしまった。あとごめん父さん。

「よろしい。でも流石に今回みたいに何日も家空けたりするのはもうやめとけよ?最近この辺りも物騒らしいし母さん達も本当は心配してるんだから。まあハメ外したい気持ちは分からなくもないんだけど……あれ?お前の場合はハメたいんだっけ?」

 そう言って姉ちゃんは俺の頭に刺さった指を抜くとテーブルに置かれた本を手に取り自分の部屋へと戻って行った。

 支えを失った俺はその場に受身を取ることなく倒れ込む。

 肝心なことを忘れていた。この人は俺の姉なのだ。ということは俺がさくらちゃんと猫を勘違いしていたのと同じように全く見当違いなことを事実だと思い込む癖まで同じなのだ。

 そんなことを考えながら俺の意識は深く深く暗闇へと沈んでいく。深く深く……

 

 

 再び意識を取り戻した時、俺はリビングのソファの上で横になっていた。おそらく父さんあたりが俺をソファに寝かせてくれたのだろう。部屋は電気が点いておらず窓から漏れてくる街灯の光や月明かりなんかがほんの僅かに部屋の中を明るくしている。

 徐々に脳が覚醒するにつれて自分がどういう状況に置かれたのかについて思い出し顔から血の気が一気に引いていくのが自分でも分かった。俺は自分のスマホを取り出し震える手で電源を入れて時計を確認する。

 ディスプレイに表示された時刻は十二時十分。まだ起きているか少し怪しい時刻だが僅かな望みをかけて俺は晶に電話をかける。

「……って何やってんだ俺は」

 呼び出しのコール音が数回鳴った後、俺は晶が電話に出る前に自分から電話を切った。

 晶の能力は他人のために使わない。

 寝起きで頭が混乱していたとはいえ俺はあいつとした約束を破ろうとしてしまった。

 ましてや自分のためにだなんて……

 晶は神ではない。だから誰にも知られる事なく誰かを救わせたりしない。人の不幸や失敗や後悔の掃き溜めなんかにさせやししない。俺の人生に神は必要ない。

 俺は自分に繰り返しそう言い聞かせて再び眠りについた。

 

 

「あ、もしもし。おはようございます、草野くん!」

「……あぁ、おはよう」

 朝の六時半。いつもならこのような休日の早朝に晶から電話が掛かってきたところで出るようなことはしないのだが生憎掛けてきた理由に心当たりがあるためそういうわけにもいかなかった。

「昨日、というか正確には今日ですけど草野くん夜電話かけてきましたよね?すいません、その頃には寝ちゃってて気がつきませんでした」

「気にすんな、俺の方こそあんな時間に電話なんかかけたりしてすまなかった」

「いえいえ、それで用件はなんだったんですか?深夜にわざわざかけてくるくらいですから急ぎの話なのかなとか思ったんですけど」

「別にそういう訳じゃなくて単純にスマホの操作ミスで間違ってお前に電話がかかってしまっただけなんだよ。すぐ謝りの連絡を入れようとも思ったけどそれで起こしたりしても悪いからしなかったんだ」

「なんだそんな事だったんですか。もうっ、何事かと思ってドキドキしてたんですからね!」

「反省してるよ、次からは気をつける」

「わざとじゃないんでしょうし別に怒ってはないですよ。そういえば草野くんって今日の予定はどうなってます?星くんの家には行きますか?」

 一旦夜の件について話がまとまると晶は話題を変えてきた。

「あぁ、そういえばまだ決めてなかったな。笠原の予定次第なところもあるからあいつが自分の家に帰らないといけないなら代わりに俺が泊まることになるだろうな」

「なるほど。実は私昨日さくらちゃんに会いに行ったんですよ」

「なんだ、真っ直ぐ自分の家に帰るんじゃなかったのか?」

「そのつもりだったんですけどね、やっぱりさくらちゃんの様子を一目見ておこうと思ったんですよ。それでその時星くんと笠原先輩に今日の予定を聞いたんですけど星くんと笠原先輩は夕方までそれぞれ練習試合があるそうです」

「ふぅん、ということは今日はほとんど洋平の家にはさくらちゃん以外誰もいないことになるな」

「そうなんですよ!笠原先輩は『普段俺らが学校に行ってる時と変わらないから別に問題ないだろう』って言ってて気にしてないみたいですけどやっぱりあんな小さい子一人でお留守番させるなんて心配じゃないですか。なのでこれから私はさくらちゃんの様子を観に行こうかなと思うんですけどよかったら草野くんも来ませんか?」

 なるほど。どうやら俺に電話をかけてきた本題というのはこっちの方だったらしい。

「そういう事なら構わんぞ。作り置きしといた飯も体育会系の男が二人もいたら残ってる可能性も低そうだしな、ついでに飯作りに行くよ」

「本当ですか?いやぁ、そんなつもりで誘ったわけじゃなかったんですけどそういう事ならせっかくだしお願いしちゃいますね。ちなみに私今日はなんだか餃子が食べたい気分です」

「……俺を誘った理由はそれか」

「だから違いますって。とにかくそういう事なので星くんには私の方から連絡して準備をすませてから向かうつもりですけど草野くんはどうしますか?」

「食材を買うにしてもまだ近所のスーパー開いてねえしな。それに歩いて洋平の家に行くとなると……そっちに行けるのは昼過ぎぐらいになると思う」

「そうですか、分かりました。では私はひと足先に行きますので」

「あぁ、また後で」

 俺はそう言って電話を切った。



「おはよう」

「……」

 晶との通話で目が覚めてしまったので朝食を摂ろうとリビングに向かうと姉ちゃんが先に朝食を摂っている最中だった。

「どうした、挨拶の仕方を忘れたのか?」

 俺が何も言わないので姉ちゃんは嫌味のジャブを放ってくる。

 こいつの方こそ昨日俺に何をしたのか覚えていないのだろうか

「……おはようございます」

 当然そんなことは口が裂けても言えないため大人しく挨拶を返した。

「ん。お湯ならさっき沸かしたばかりだから飲みたい物があれば使うといい」

「……分かった。てか姉ちゃんなんでこんな時間に起きてんだよ?普段ならまだ寝てるだろ」

 俺はキッチンへと足を運びコーヒーを淹れる。

 姉ちゃんの通う海南高校は俺の家から徒歩二十分圏内にあるので普段から彼女の一日の開始時刻は遅く、そのため朝顔を合わせることなど滅多にないのだが今日はそうならなかった。

「何、私も今年は受験生だからな。たまには図書館で勉強でもしようと思って早く起きたんだよ」

「ふーん」

 俺は適当に相槌を打ちながら姉ちゃんの服装を観察すると白いニットのトップスに花柄のロングスカートといったコーデでテーブルの上には紺色のベレー帽が置かれており春らしさが感じられる装いとなっている。

「何か言いたげだな?」

「別に。花柄のスカートなんて持ってたんだと思って」

「ジロジロと私の服を見るな気持ち悪い」

 そう言って姉ちゃんは自分のコーヒーを一口飲んだ。

 ……男だな。

 姉ちゃんは俺の言葉に動揺している素振りは一切見せないものの着ている服がそれを雄弁に物語っている。なぜなら彼女の服のセンスは付き合っている男の趣味に百パーセント依存しているからだ。

 最近までよく目にしていたパンク系のファッションを着ていない所を見ると前の彼氏とは既に破局していて今日は新しい彼氏との初デートといった所だろうか。

 それに以前母さんから聞いた話だと姉ちゃんの成績であれば志望大学の推薦が十分狙えるということなのでわざわざ受験勉強を真面目に頑張る必要などないはずだ。

「はいはい、すいませんでしたね……っと」

 当然そんなことも姉ちゃんに言えるわけがないので俺は適当に謝ってやり過ごすとコーヒーを持って姉ちゃんの向かい側の椅子に座る。そしてこれ以上無駄に会話をしなくて済むようにテーブルに置いてあったテレビのリモコンを手に取るとテレビをつけてニュース番組にチャンネルを合わせた。

「—本日は天気の崩れた一日となり今日の夜から明日の朝にかけて所により強い雨が降るでしょう」

 ニュース番組では天気予報をやっていてちょうどこの地域の天気の様子を紹介している所だった。どうやら今日は一日中天気は悪いようだ。この後洋平の家に行かないといけないのだが傘を持って行った方がいいかもしれない。

「また今日も出かけるつもりか?」

 突拍子もなく姉ちゃんが問いただしてきた。

「は?」

「今天気予報を見て少し考え込んでいただろう?何か外出する用事があるからなんじゃないのか?」

「姉ちゃんには関係ないだろ」

「……はぁ。昨日の今日だからあまり小言を言うつもりはない。ただ程々にしておくように」

「だから分かってるって。飯食ったならさっさと行けよ」

「家族の優しさというものが分からない奴だな……まあいい、お望み通り消えてやるさ」

 そう言って姉ちゃんは食事を片付けるとテーブルに置いてあったベレー帽を手に取りポシェットを肩に掛けた。サイズを見るに彼女のポシェットにはとてもじゃないが勉強道具が入るとは思えない。

「じゃあ行ってくる。お前もいつもみたいに遅くならないように。あと傘を忘れるなよ」

「小言は言わないんじゃなかったのか?」

「減らず口め」

 どっちがだよ。

 姉ちゃんはベレー帽を被るとリビングから出ていった。

 全く、ようやく口うるさい奴が部屋からいなくなった。これで優雅な休日の朝を迎えることができる。

「あら、休みなのに今日は早いのね」

「おはよう、なんか目が覚めて……」

 休日だからかいつもより遅めに起きてきた母さんを見て愕然とする。

 母さんは姉ちゃんの着なくなったパンク系の服に身を包んでいた。



 午前八時、俺が家から十数分ほど歩いた所にある公園のベンチに腰掛けてもうすぐ一時間が経とうとしていた。思い返せばこれほどまでに無駄な休日の過ごし方をしたのも割と久しぶりかもしれない。俺の心情を表しているかの様に空は分厚い雲に覆われておりそのせいか公園で遊んでいる子供の姿を一人も見かけない。

 当初の計画はこんなはずではなかった。近くの店が開店するまで家でテレビでも見ながらゴロゴロしているつもりっだったのだが母親のパンク姿を目の当たりにし同じ空間にいることに耐えられず逃げるようにして家を飛び出してしまったのだ。

 

 どうしてうちの女はこうも着る服にこだわりがないんだよ……

 

 姉ちゃんが自分の着る服に無頓着で彼氏の趣味に左右されるのと同様に俺の母親というのも服装に一切の興味がなく自分の服を買っている姿など一度も見たことがない。まさに着れればなんでも良いを体現している人物なのだ。

 そのため姉ちゃんに新しい彼氏ができるとかつての元彼の趣味に合わせた服は母さんの元に流れていくというのが我が家での習慣となっておりそのせいでたまに今回のように不幸な事故が起こる。

 こうなると俺にできるのは姉ちゃんが早々に今の彼氏と別れて新しい彼氏を作ってくれることを祈ることしかない。今朝の姉ちゃんの格好も母さんが着るには少々若造りすぎる気もするがパンクよりは数段マシだと言えるだろう。

「まあ二、三週間は我慢ってとこか」

 幸いと言っていいのか分からないが姉ちゃんの彼氏の入れ替わりはかなり激しい。理由は単純で彼女がめちゃくちゃモテるからというのと男に彼女の本性がすぐにバレるからだ。姉ちゃんの身の回りにいる男で顔面は整っているのに前歯が数本足りない奴は元カレだと思ってもいい。

「何を我慢するんだ?」

「え?……って先生⁉︎」

 突然後ろから声をかけられて振り向くとそこには岩沢先生が両手に黒い子猫を抱えて立っていた。普段学校で見るような後ろで髪をまとめるようなことをしておらず着ている服も赤いとはいえば赤いのだが上下ジャージという装いであるため雰囲気がまるで違っており一目見ただけでは誰だか分からなかった。

「びっくりした。先生がなんでこんなところにいるんですか?」

「何、この前引き取ったこの子を一度検査してもらおうと思ってな。実家に帰ったらお前がここで呆けているのを見かけたから声をかけたんだよ」

 先生は俺の隣に腰掛けると子猫の頭を撫でながら言った。

「実家って……この辺りなんですか?」

「あそこニャ」

 先生は子猫の前足を手に取って指差した。その方向には周りの家より一際大きな建物が建っており正面の壁には「いわさわ動物病院」と大きな文字で書かれている。

「え、マジっすか?先生の家って動物病院だったんですか?」

「マジだニャ。僕のママのパパとママもお兄ちゃんも皆お医者さんなんだニャァ」

 先生は子猫の前足をパタパタと動かしながら声色を変え会話を続ける。ただし、完全には子猫になりきれていないから、あるいは逆に完全に憑依しているからなのかもしれないが顔の表情が一切変わらないため諸々の可愛らしい仕草のギャップも相まってかえって不気味に見える。

「へえ、そうだったんですね……」

「そうだニャ」

「……」

「……」

「……」

「…………最初家からお前を見かけた時はせっかくの休日なのに教師が声をかけに行くのも無粋かと思って自粛したんだがいつまで経ってもそこから一切動こうとする気配がなかったんでな。気になって声をかけることにした」

 先生は猫の魂を自分の体に降ろすのをやめ素の状態でここに来た理由を打ち明けた。殊猫のこととなれば豹変する先生であっても俺が一切反応しなかったのが耐えられなかったということだろうか。

「そうだったんですか、それはわざわざどうも。でもご心配には及びませんよ、ヤマモトに買い出しの用があって店が開くまでここで時間潰してただけですから」

 ヤマモトとはヤマモトマートのことでこの辺りに住んでいる人なら一度は必ずお世話になっているスーパーマーケットのことである。

「……」

 先生はどうも納得していないような表情で何も言わないままこちらをジッと見つめる。両手に抱えられた子猫がそんな主人の気持ちは知ったことではないと言いたげに大きなあくびを一つした。

「もしかして疑ってます?」

「自覚はあるんだな、正直怪しいと思っている」

 先生は即答した。真っ向から怪しいなんて言われたのは意外だったが不思議と不快な感覚は覚えなかった。

「まいったな、本当のことを言ってるんですけどね」

「確かお前の家はこの辺りだろう?それなら何も家を出てわざわざここで時間を潰す必要はないじゃないか」

 流石担任と言うべきだろうか、あるいは単純に実家の近所だったからということだけかもしれないが俺の住所を把握していたことには驚いた。

 先生の言うことはもっともで俺だって本当はそうしたかった。しかしこっちにだってそうすることができなかった事情もあるわけで……身内の恥部を晒すことに一瞬ためらいを覚えたものの聞けば先生も俺のことを心配して声をかけたと言うのだから事情を話さないというのもなんだか不誠実な気がしたので打ち明けることにした。

「……おっしゃる通りですよ。実は突然母親がロックに目覚めてましてね、同じ空間にいるのが耐えられなくて飛び出してきたんです」

「悪いが言ってる意味が分からない。もっと丁寧に説明しろ」

「説明も何も……今言ったことが全てですよ。俺の母親っていうのが服に一切無頓着な人でしてね、今朝起きたら俺の姉がもう着なくなったパンク系のファッションを自分の歳も考えずお下がりで着てたんですよ。それでヤマモトが開店するまで母親を見てるのがキツくてここに避難してきたって訳です」

「……お前周りから説明を飛躍しすぎだと指摘されたことはないか?」

 つい最近もそんなことを言われて一悶着あったことを思い出した。

「その顔を見るに図星のようだな。そう言われるということは自分の頭の中で話を完結させた時点で満足してしまっている証拠だ。癖になっているなら社会に出てから苦労するから早い内に直したほうがいい」

「……はい」

 せっかくの休日だというのに担任から説教を喰らってしまった。

「まあ事情はおおよそ理解した。その上で言わせてもらうならばくだらんな。心配した分時間を無駄にした気分だ」

 先生はわざとらしいくらい大きなため息をつくと抱いている子猫に「ねー?」とまさに猫撫で声で同意を求めていた。

「いや、流石にそれはあんまりですよ。先生だって自分の母親が世紀末みたいな服着てたら嫌でしょ?」

「お前は同意を求める相手を間違えているよ。私が他人のファッションセンスにとやかく言える人間だと思っているのか?」

「それは……」

 言われてみれば先生自身ファッションが常軌を逸しているのだった。そして何より本人にその自覚があるということが驚きだった。

「赤鬼、だったか?そう陰で呼ばれてることくらい私だって知ってるさ。それでも私は赤い服が好きだしあれを着ることで仕事に身が入って真剣に生徒と向き合える気がするから人からどう思われようと止めるつもりはない」

 心なしか先生の言葉に熱が込もっている様な気がする。少し前からそうだったが俺はこの人のことを赤鬼だと思うことはない。鬼として見るには彼女はあまりにも人間味が強すぎる。

「ましてやいくら母親といえども女性に向かって服のことをあれこれ言うなんて男が廃る行いだとは思わないか?」

「……すいません」

 俺からすれば女性の前に母親であるし男である前に息子であるという言い分があるしそれが一般的な感覚であるという自負も持ち合わせているのだが生憎相談相手が一般的な感覚を持っているとは言い難いためここは早めにこちらが折れることで無駄な議論を避けることに決めた。

「全く、そんなことで何時間も無駄に時間を潰そうとしていたなんて信じられないな。もうすぐ試験だってあるというのに空いた時間を公式の一つや二つ覚えることに費やすという発想になぜ至らないの」

「その猫って浜崎さんから引き取った子なんですよね?実際に見るのって初めてなんですけどやっぱ画像で見るより可愛いなー」

 先生は体が温まってきたのか知らないが今度はその身に赤鬼の魂を降そうとしていたので俺は慌てて違う話題を振りそれを阻止しようと試みた。先程の先生を赤鬼と思うことはないという言葉は撤回する。せっかくの休日をこれ以上台無しにされてたまるか。

「……」

 流石に話題の変え方が露骨すぎたのか先生は不服そうな顔をしてこちらをジッと見つめていたがどうやら折れてくれたようで「撫でてみるか?」と言いいながら子猫を俺に差し出してきた。例の真っ赤なスーツでないと仕事に身が入らないといった旨の話はひょっとしたら本当なのかもしれない。

「いえ、家族にアレルギー持ちがいるのでそれは遠慮しておきます」

「そうか、それは可哀想に」

 先生は俺が子猫に触れないことに対して心底同情した表情を見せると再び自分の胸元に子猫を抱き寄せた。

「その子の名前ってもう決めてあるんですか?」

「そういえばまだ紹介していなかったか。では紹介しよう、私の娘のいろはちゃんだ」

 先生は再び猫撫で声で「いろはだニャー」と子猫の心の声を代弁した。

 毎回俺はそれに対して無視を決め込んでいるというのにめげずに演じ続けるのはどういう心理状況なのだろう。彼女にとって猫とはもはや神であり宗教なのかもしれない。

「それは随分と可愛らしい名前ですね、どうしていろはなんて名前を?」

「別に大した理由じゃない。浜崎からこの子を受け取った時に入っていた段ボールに『いろは仏具店』と書かれていたからだよ。単純だが可愛いだろう?」

 由来の方はあまり可愛くはなかった。いくら段ボールとはいえ仏具の入っていたものに猫を捨てるなんて無神経というか、とんだ罰当たりもいたものだ。

「そうですね、単純ですけど大好きなお母さんがつけた名前なんだからきっといろはちゃんも気に入ってると思いますよ」

 俺はそんなモヤモヤとした気持ちは伏せながら無難に返しておいた。

「私の母性を刺激するような真似はよせ。この子の弟か妹が産まれることになるぞ」

 うわっ、気持ち悪っ‼︎

「そうですか、はは母っ……おっと、もうこんな時間だ。俺買い物があるんでこの辺で失礼しますね」

 とても教師が生徒に放っていいとは思えない言葉に度肝をぶっこ抜かれた俺は今すぐこの場から退散しようと立ち上がる。

「そうか?確かヤマモトが開くにはまだ時間がかかると思うが……」

「いえ、ヤマモトはもう開いてます!今日は先生にとっても貴重な休日だというのに付き合っていただきありがとうございました。それでは」

「あ、あぁ。また学校で」

 俺はきっちり四十五度頭を下げて少し戸惑っているようにも見える先生に背を向けると足早にその場を後にした。

 数分間急ぎめで歩いた後、背後を振り返って公園が見えなくなったことを確認すると俺は足を止めて息をつく。

 あの人の猫を冠した深淵に潜む狂気の際限のなさには驚かされてばかりだ。あれに比肩するものなど存在するのだろうか。俺の頭の中では岩沢先生を人と鬼と猫のどれに分類していいのかがいまいち定まらず三者の間であちらこちらへと揺れ動いている。

 そんなくだらないイメージを脳内から振り払って俺はスマホで時計を確認すると八時十五分を過ぎた頃だった。公園で先生とそれなりに話していたと思ったのだが実際はそれ程時間は進んでいなかった。そして俺がさっき言ったヤマモトがもう開いているという事実もない。ヤマモトが開店するまで後およそ四十五分をどう過ごしたものか。

「…………」

 ……本気で探せば見つかるものだろうか?まだ見ぬ恋人のシングルマザーって奴は。

 そんな考えが浮かぶ時点で心に異常をきたしているのは自覚しつつも俺は当てもなくふらふらと歩き始めるのだった。



「ただいま」

 時刻は十一時十分を少し過ぎた頃、俺は洋平の家に到着しリビングに入ると私服の晶とパジャマ姿のさくらちゃんが並んでソファに座っており、晶が本を読んであげている最中のようだった。

「あれ、草野くんもう来たんですか?ぎりぎりまだおはようございますの時間ですね。というかただいまって草野くんこの家に馴染みすぎですよ」

「いや、いいんだ」

 俺はヤマモトで買い込んだ食材を袋ごとキッチンに置いてリビングへと戻る。

「いいんだって……よくないと思いますけど」

「俺は今朝起きてから今までずっと心に安寧はなかった。結局この家以上に居心地のいい場所なんてなかったんだ。いや、この家にしか安寧はない。だからただいまで合ってるんだ」

 俺は独り言のように呟きながら休める場所を探す。基本この家のソファは俺のベッドを兼ねた特等席になっているのだが残念ながら先客で埋まっているため仕方なくソファの置かれたカーペットの上にドサっと寝転がる。

「何言ってるのか全然わかんな……って草野くん!私スカートなんですけど!」

 晶がギョッとした表情でスカートを抑えながら叫んだ。

「覗く趣味はないから安心しろ。少しでいいから休ませてくれ」

 俺は右手で顔を覆ってスカートを覗かない意思表示を示した。

「そういう問題じゃないんですよ!お行儀が悪いからやめてください!」

 そんな俺の行動など全く意に介さないといった態度で晶はソファに座ったまま俺を足でゲシゲシと遠くに押し出そうとしてくる。

 所詮座った女子の蹴りなど大した威力にはならないが休みたいという気分を害するには十分過ぎる威力だった。数発蹴りを貰っていよいよ我慢のコップから水が溢れた時、俺は蹴りを入れようとする晶の右足を左手で掴んだ。

「えっ⁉︎ちょっと草野くん何してるんですか!」

「頼む、晶……俺からこれ以上居場所を奪わないでくれ。今は俺のただいまを黙って受け取って欲しい」

 俺は顔を覆っていた右手の指を開きその隙間から晶をジッと見つめる。

「そんなのどうでもいいからっ、足離してくださいよ!あ!今パンツ覗いた!見ないでください!見ないでっ……見るなー!」

 晶は俺が晶の右足を掴んでいる左手を自分の右手でなんとか解こうとして反対側の左手でパンツが見えないようスカートを抑えており、残った左足で俺に追撃を与えている。その姿はまるで一人立体ツイスターゲームでもやっているかのように滑稽なものだった。

 晶のそばでさくらちゃんだけはどうしたらいいのか分からずおろおろと俺達の攻防を見守っていた。

「分かったっ……分かりましたからっ!……手を離してください!」

 何が分かったのか俺には分からなかったが晶から左足の追撃が止んだのでこちらも掴んでいた右足を離した。晶は「ゼェッ、ゼェッ……」と息を切らしていた。

「……はぁっ、いきなりなんなんですかもう!とにかくカーペットに寝転がるのはダメです。私がソファからどくんで使ってください。どうしても寝たいんだったら自分で布団ひいてください!」

 少し落ち着いたのか晶は怒りというよりも呆れが上回った様子で俺を見ながら言った。

「いや、昼食の準備もしなきゃいけないしソファで少し休むだけにするよ」

「そうですか……じゃあお好きにどうぞ」

 晶はソファから立ち上がると俺に座るように促した。

 今日、いや今日だけに限らずここ最近で初めて女性に勝利した気がする。

 俺はヨロヨロと晶から勝ち取ったソファの場所まで近づくと深く腰をかけた。

 隣に目線を向けると先程の騒ぎに動揺した様子でさくらちゃんが俺の方をジッと見つめていた。

「久しぶりに会ったのにいきなりびっくりさせてごめんな。別に喧嘩とかじゃないし心配しなくて大丈夫だから」

 俺が謝るとさくらちゃんはゆっくりと首を横に振ると少しの間何かをためらった表情をした後「……おかえりなさい」と小さな声で言ってくれた。

 俺はその瞬間涙が込み上げてくるのを察知して手で顔を急いで覆う。

「え⁉︎もしかして草野くん泣いてるんですか?」

「泣いてねーよ。てかなんでさくらちゃんまだパジャマなんだ?着替えなら買ってあるだろう?」

 このままでは泣く事は必至なのでとりあえずパッと思いついた別の話題を晶に振った。

「それがですね、さくらちゃんがそのパジャマを相当気に入ってくれたみたいで着替えたがらないんですよ。草野くんが似合ってるって褒めるもんだから今日も見せようと思って着てたんんだよねー?」

 振った話題が不味かった。まさか久しぶりの勝利に酔いしれる間も無くこんなカウンター技が来るなんて思ってもいなかった。

 涙腺はこれ以上ない程刺激され涙は瞳の上で表面張力によってギリギリ落ちるのを踏みとどまっている。しかし目頭の熱は引かず今もまだ体の中で涙が作られていることが自分でも分かる。いや、涙腺だけではない。胸より少し下の奥の方からも涙以上に熱く、そして大量の何かが溢れてきている。

 もしかしてこれは—

「母性、なのか?」

「うわっ、気持ち悪っ‼︎」

 顔を手で覆っていたおかげで自分の世界に入り込んでいたところを晶の一言で一気に現実に引き戻される。反論の一つでも言い返したいところであったが幸いにも瞳に溜まっていた涙も引いてくれたのでひとまず飲み込んでおくことにした。

「なんなんですか草野くん、さっきからずうっと様子が変ですよ?」

 晶の声からは持ち前の明るい雰囲気は消え失せており晶の顔を見ずとも俺のことを本気で心配していることが伝わってくる。

「悪い悪い。なんかめんどくさいのが朝からずっと立て込んでさ、まいってたんだ」

「それはさっきも聞きましたけど……疲れてるならその、やっぱり眠ったほうがいいんじゃないですか?食材は草野くんに買ってきてもらいましたし料理は私がやっておきますよ」

 晶はいつもよりも甲斐甲斐しいというかなんというか……むず痒い。しかしその気遣いは今の俺には無用というものだ。なぜならさくらちゃんによって生まれた母性によってこれまでの疲労がまるで初めからなかったかのように消え去ってしまったのだから。

「それなら大丈夫。疲労も回復したし今から飯を作るよ」

 俺は顔を覆っていた手をどかしてソファから立ち上がる。

「えぇ、結局大して休まないんじゃないですか。さっきまでのやりとりって一体……」

 晶はなんだか納得いってないような表情でこちらを見ていたがそんなことは意に返さず俺はキッチンの方へと向かった。



「いい匂いがしてきましたねぇ!まだ出来ないんですか?」

 料理を始めてからおよそ一時間、十二時を過ぎた辺りから晶はそわそわして落ち着かない様子で空腹を我慢しているのは誰の目から見ても明らかだった。。

「もうすぐだから大人しくしてろって」

 先程仕込んだ餃子をフライパンに敷き詰め蒸し焼きにしていて焼き上がるのを待つだけだ。米も既に炊き上がっているし飯にありつけるまでさほど時間はかからない。

「ただいまー」

 餃子が焼き上がるのを待っていると部活のジャージ姿の洋平が帰ってきた。

「あれ?星くん早いですね、今日は練習試合があったんじゃないですか?」

「そうだったんだけど行く予定だった対戦校の地域がすげえ雨降ってるらしくてさ。グラウンド使えねえってことで中止になったんだよ。で、そのままお開きっていうのもなんか勿体無いし学校で午前中だけ練習してきて帰ってきたわ」

 洋平は肩にかけていたスポーツバッグをダイニングテーブルのいつも自分が座っている椅子のそばに置いた。

「そうだったんですか、確かに今夜くらいからこの辺りも天気が崩れるって予報では言ってましたね」

「そうそう、台風とまではいかないみたいだけどそれでもかなり荒れるっぽいから雨に降られる前に早めに帰った方がいいぞ。ってかすげーいい匂いしてるな、もしかして餃子か⁉︎」

 洋平は鼻をスンスンとさせながら軽快な足取りでキッチンの近くまでくるとこちらを覗き込んできた。

「正解だけど予定が変わったなら連絡くらいしろよ、お前みたいな大喰らいの飯をすぐに用意できるとは限らねえんだからな?」

「あー悪りい悪りい。なんせこっちも色々急だったからさぁ、そこまで頭が回らなかったんだよ」

 洋平は両手を目の前で合わせて謝罪のジェスチャーを取る。以前から食いたがっていた目の前の餃子のこと以外考える余裕がないのか謝罪の言葉を口にするも反省しているようには全く見えない。

「ったく、ほら出来上がったから持っていけ」

 完全に焼き上がるには少し早い気もしたが俺は手に持った大きな平皿をフライパンの上にかぶせてからひっくり返し餃子を皿に落とす。そしてフライパンをどけて綺麗な焼き目のついた餃子が皿の上に並んでいるのを確認してから洋平に渡した。

「あざーす!」

 洋平は大袈裟に平皿を受け取りながらお辞儀をするとテーブルへと運んでいった。

「晶、俺以外のご飯よそってもらっていいか?」

「別にいいですけど草野くんは食べないんですか?」

「先に食べてくれ。あれだけじゃすぐ足りなくなるだろうから俺はもう一皿焼いておくよ」

「そうですか、それじゃ遠慮なく先にいただいちゃいますね」

 晶はまっすぐキッチンに向かってくると食器棚から茶碗を人数分取り出しご飯をよそい始めた。「それなら焼き終わるまで待ってますよ」なんてことを言ってくれるかもしれないと一瞬期待したものの焼き上がった餃子を前に晶がそんなことを口にするわけもないかとすぐに考えを改めて俺は追加で餃子を焼き始めた。



「「いただきます!」」

 料理が並べられたテーブルの方から洋平達の声が聞こえてくる。俺はまだキッチンで追加の餃子を焼いていたためさくらちゃんの声は聞き取れなかったが両手を目の前で合わせているところを見るにちゃんといただきますと言っていたのだろうと思う。

「やっば……これ美味しいですよ」

「あぁ、確かにやばいなこれは」

 餃子を口にした晶と笠原からそんな感想が聞こえてきた。その語彙力はなんとかならないものかとも思ったがやばいくらいには二人の口に合ったようなので褒め言葉として素直に受け取っておくことにした。

「いやぁまさかこんなに美味しい餃子が作れるとは、自分でもびっくりです」

「は?これって晶が作ったのか?」

「餃子を包むのは私とさくらちゃんも手伝いました!」

 晶は自慢げに胸を張る。作り置きの分も考えると相当な量の餃子を作らなければならなかったので包む作業だけは暇そうにしていた二人にも手伝ってもらったのだが晶が自分の何に驚いているのかは俺にもよく分からない。

「なるほどな、確かに言われてみれば餃子の形に個性が出てるわ。これは……さくらちゃんが作ったやつだろう?」

 そう言って洋平が箸で持ち上げた餃子は中に入れた餡が多過ぎて包み込むことができず皮からはみ出た不恰好なものだった。

「違う……私じゃない」

 さくらちゃんにしては珍しく少し感情的に首を横に振ってそれを否定した。さくらちゃんは元々手先が器用なのか初めてにしては案外上手に包めていたし終盤になる頃には俺の包むものとさほど遜色はなくなっていた。それ故に洋平の言葉は心外だったのだろう。

「当然俺でもないぞ」

 言うまでもないことだと思っていたのにさくらちゃんの作ったものではないと分かるとなぜか一瞬洋平がこちらをチラッと見たので先んじてあいつが言いそうな言葉を否定しておいた。

 そして洋平は消去法で最後まで残った人物の方を見ると慈愛に満ちた表情で優しく笑いかける。

「いっぱい食べたかったんだな」

「ちょっと!そんな可愛い孫を見るような目で見ないでくださいよ!味は一緒なんだから別にいいじゃないですか!」

 晶はさくらちゃん以上に心外だという言いたそうな顔で訴える。そう思うのなら自分の作ったものを食べればいいのに彼女の小皿にはちゃっかり俺かさくらちゃんが作ったと思われる綺麗な形の餃子が置かれていた。

「冗談だって。そうなると次はさくらちゃんの作ったやつも食ってみたいけど見つけるの難しいなぁ」

 洋平は晶の作った餃子を口に放り込んでさくらちゃんの作った餃子を探し始めた。晶も言っていた通りどれを選んでも味は変わらないのは洋平自身も分かっているはずだがさくらちゃんを喜ばせるために一芝居打とうということなのだろう。その光景がなんだか微笑ましく思えてつい笑みがこぼれる。

「これと……これとこれ、これも」

 さくらちゃんは自分の作ったものをきっちり見分けられるようで少し自信ありげに手に持っていた箸で餃子を指し示す。その箸の使い方を見て晶が注意するかもと心配したが流石にそのような水を差す真似は控えたらしい。

「おぉ、よく自分の作ったやつが分かったな。じゃあ一番美味そうなこれをもらおうっと」

 そう言って洋平は餃子を一つ取って頬張る。

「美味い!今までに食った餃子の中で一番やべえ!」

 洋平は餃子を飲み込むとさくらちゃんに向かって大袈裟に驚いてみせた。若干演技くさい気もするし演技なら事前にもっとマシな感想を考えておけとも思ったがどうやらさくらちゃんも満更でもないようで嬉しそうな表情をしていたので俺は何も言わず追加で焼き上がった餃子を平皿に移して茶碗にご飯をよそった。

「すげえよさくらちゃん、絶対料理の才能あるって。こんなにできるなら次も食いてえなぁ」

「無茶言うな馬鹿」

 俺は洋平に釘を刺してテーブルの上に追加の餃子の乗った皿を置くと茶碗を持って洋平の隣の椅子に座った。

「馬鹿って……随分な言い方じゃねえか」

「こんな小さい子に飯たかってんだからそう言われても仕方ないだろう」

 そう言って俺も餃子を食べようとするとさくらちゃんがじっとこちらを見ていることに気がついた。直接口に出すわけではないもののその目は何かを期待しているものだというのははっきりと伝わってきた。

 餃子を取ろうとする手を止めて少し逡巡した後、その意図を察して俺は先程さくらちゃんが箸で指していた餃子を選んで口に運んだ。

「美味いよ、よく出来てる」

 俺は身を乗り出してさくらちゃんの頭を撫でると彼女は照れくさそうにしながら少し顔を伏せた。

「むうっ……草野くん!私の作ったのも食べてくださいよ!というかなんだか私の作った奴だけやけにお皿に残ってる気がするんですけど!」

 俺たちがさくらちゃんだけを贔屓しているのを快く思わなかったのか晶は平皿ごと俺の方へ差し出してくる。確かによく見てみると平皿に残った餃子の半分以上が中の餡が顔を出していた。子供と張り合ったって仕方がないだろうにとは思いつつなんとか餃子の形を保ったものを選んで口にした。

「安心しろよ、これもちゃんと美味いぞ」

「……それで?」

「それで?それだけだが?」

「……」

 晶は何かを訴えかける目でこちらを睨みつける。何が言いたいかくらいは予想がつくも生憎それに応えてやるつもりはない。

「おいおいピカにしては察しが悪いな。別に今更目の前で多少いちゃつかれたところで俺は僻んだりしないぜ?」

 場の空気が悪くなりそうなのを察した洋平が会話に割って入ってきた。おちゃらけた役を買って出ることでなんとか茶を濁そうとしたのだろうがこちらとしてはあまり気分のいいものではない。かと言って晶の方を見ると洋平の出した助け舟が余計に彼女をつけあがらせたのかより一層期待した目線を向けてくる。こうなるともう簡単に引き下がってくれるとも思えなかった。

「分かったよ。ほら、頭をこっちに出せ」

「え……はい!」

 ご褒美をもらえると思い込んだ晶はお辞儀するようにぺこりと頭を下げてこちらに軽く身を乗り出した。下を向いたことで当然視線は下がるし前髪も垂れ下がっているので晶からは俺の姿を視認することは難しいだろう。俺はさくらちゃんの方を見つめて彼女がその視線に気づくと、頭を撫でるジェスチャーを送った。

 俺の意図は伝わったみたいでさくらちゃんはこくりと頷くと晶以上に大きく身を乗り出しておずおずと晶の頭を撫で始めた。

「……へへっ、へへへっ」

 ただ頭を撫でられているだけのはずなのに垂れ下がった前髪の隙間から僅かに見える晶の顔からは微笑み以外にも……なんと表現すればいいのか、とにかくスケベ的なものも漏れ出していた。恐るべしさくらハンド。

「もう十分だろう」

 ひとしきり晶を満足させたであろう頃合いを見て俺はさくらちゃんに椅子に座り直すように促す。それに従いさくらちゃんは撫でていた手を急いで下げると食事を摂る振りをした。本人は何食わぬ顔をしているつもりかもしれないが洋平同様演技は上手だとはお世辞にも言い難かった。

「……ふうっ、なかなか結構なお手前でした」

 晶は恍惚とした表情を浮かべて夢見心地な気分に浸っている。さくらちゃんの違和感に気づくだろうかという俺の心配は無用で済んだらしい。

「そいつは良かった」

「ったく、許可したとはいえアツいもん目の前で見せつけやがって。それをおかずにしたら米が無くなっちまったよ」

 洋平は空になった茶碗を俺たちにやれやれといった表情で披露した。それはいくらなんでも芝居と台詞が臭すぎるだろう。

「変なこと言ってねえで早くついでこい。どうせ食うんだろう?」

「当然」

 洋平は席を立つとおかわりをしにキッチンの方へと向かっていった。

 そういえばさくらちゃんもおかわりは必要ないのかと思って彼女の手元の食器を確認すると意外にも箸の進みがいつもより遅かった。

「さくらちゃん、もしかして腹減ってない?」

 気になって思わず俺は声をかけた。

「え……?」

「いや、あまり食べていないみたいだったからさ。もしかして餃子が苦手だったとか?」

 一応子供でも食べやすいようにニンニクは入れず優しい味付けになるように工夫は凝らしたつもりなのだがひょっとしたら口に合わなかったのかもしれない。

「違う」

 さくらちゃんは否定の意思をはっきりと示すように首をブンブンと横に振った。確かに自分から聞いたもののその可能性は低いとは思っていた。餃子を包む作業も積極的に楽しみながらやっていたように見えたし俺達がさくらちゃんの作った餃子を食べているのを見て嬉しそうにもしていた。今回の食事自体を楽しんでいるのは間違いないだろう。となると彼女の食事が進んでいないのは食事以外に原因がある可能性が考えられるがそれは一体……

 俺が考え込んでいる姿を見て何を勘違いしたのかさくらちゃんは茶碗を手に持つと米を掻き込み出した。

「おいおい、そんな急いで食うなって。喉詰まらせるぞ」

「ボバン、ボイビイバラ(ごはん、美味しいから)」

「分かった、分かったから落ち着け!お茶いるか?絶対無理して一気に飲み込むなよ?」

「どういう状況だこりゃ?」

 ちょっとしたパニックが起きていると茶碗に山盛りの米をよそった洋平が戻ってきた。

「うるせえ、黙って餃子つついてろ」

「ひでえ……」

 洋平はすごすごと自分の席に着くとこちらの様子を見守りながら食事を再開し始め、俺の方はさくらちゃんが頬張った米をお茶で少しずつ流し込ませてなんとか事態を収めることに成功した。

「……はあっ、なんか飯食うの急かしたみたいでごめんな。飯も餃子もまだあるしさくらちゃんは自分のペースで食っていいから」

 落ち着いたところでひとまずさくらちゃんには謝っておいた。食事が進んでいなかった原因は不明のままだが追求しようとした結果がこれだ。別に食欲が沸いていないわけではないようだし今は無理に深掘りすることもないだろう。さくらちゃんも無茶な行動を反省したのか今度はゆっくりと箸を運び始めた。

 そういえば晶がやけに大人しい気がする。先程さくらちゃんの引き起こしたプチパニックなんかはあいつも一緒に慌てふためいている方がむしろ違和感がないのだが……

 ほんの少しだけ気になったので晶の様子を見てみるとその答えは至極単純でさくらちゃんに頭を撫でられたことで依然として夢見心地で悦楽の世界に浸っていただけだった。

 「いつまで惚けているんだ」と晶のでこに箸をブッ刺したくなる衝動に駆られたものの、よく考えればむしろこの状況で俺にとって都合の悪い部分など一つもありはしないということに気づいたためここは箸を引っ込めて経過を見守ることに方針を定めた。

「なあ、なんかさっきから晶の様子おかしくね?」

 流石普段から何かと察しの良い洋平も晶の異変には気が付いたみたいだが表立って言うのは気が引けたのか俺に耳打ちをしてくる。

「さあ?」

「さあって……こうなったのはお前のせいだろうに」

「それは心外だな。弾を込めたのはお前だし引き金を引いたのはは俺じゃない」

「別に比喩表現が聞きたいんじゃねえんだよ。それにその銃をさくらちゃんに渡したのはお前だろうが」

 洋平にしては随分と頭の回る反論が返ってきた。言い返す言葉に窮したわけではなかったがなんだか面倒くさくなってきたので沈黙でこのままやりとりを終わらせることにした。別にいいじゃないか、おかげで一人当たりの食べられる餃子の量が増えるというものだ。

「へへ、へへぇ……」

「おい、晶の体透けてきてねえか⁉︎気のせいじゃねえと思うんだけど!」

 俺は慌てている洋平の言葉を無視して平皿に残っていた不恰好な形の餃子を口に運んだ。

 

 

「……なあ、そろそろ休憩にしようぜ」

 洋平は手に持っていたシャーペンを放り投げ体を大きく伸ばした。目の前にはノートや教科書が広げられている。

 時刻は午後五時手前、特に午後の予定を決めていなかった俺たちは期末試験が近いということもあって試験勉強をして過ごすことになった。さくらちゃんは以前洋平が図書室から借りてきた本を読んで時間を潰しており時折り集中力が切れたのか窓の外を眺めたりしている。一つの部屋に四人も集まっている割には物静かな雰囲気が流れていた。

「それさっきも言ってただろ」

 俺は自分のノートに向けた視線を外さず返事をする。

「そりゃあ言うさ、別にまだ試験準備期間ってわけじゃねえんだし今からここまで根詰めてやる必要もないんじゃねえの?」

 洋平の言うことは別に間違ってはいない。うちの高校に限った話ではないと思うが試験の一週間前からは試験準備期間ということで放課後の部活動や委員会などの活動が休止となるため部活動に入っている生徒達はその時期から勉強に本腰を入れ始めるのがほとんどだと聞く。

 洋平も御多分に洩れずその部類に入るということで、午前中だけだったとはいえ部活終わりに試験勉強というのはいまいち気分が乗らないのだろう。

 俺はノートに走らせていたペンを止め今度は顔を上げて洋平の方を向いた。

「今回お前の家に結構入り浸らせてもらってる訳だがその事を姉貴につっつかれてな。お前の試験勉強を手伝ってやってるからだと言ったんだよ」

「姉貴っていうと……泉さんか」

 洋平は中学時代の記憶を引っ張り出せたらしい。向こうはお前のことをチビだとしか認識してなかったというのに大したものだ。

「でもあの人って確か海南だろう?ならわざわざそんな言い訳を律儀に守らなくたってバレる心配もないだろうに」

「俺も最初はそのつもりだったんだがな。どうやらあいつ、友達づてで俺の情報を手に入れているらしい」

「は?どういうことだよそれ」

「この前アウンにさくらちゃんの服を晶と買いに行っただろう?その時の様子を友達とやらに見られていたらしくてな。どういうことだと詰められた」

「おいおい……もしかしてそれってやばいんじゃねえのか?」

 洋平は眉を顰めて真剣な顔つきになる。突然自分の名前が出てきたからか晶も何も言わないものの顔をあげてこちらの会話に耳を傾けている。

「それに関しては安心していい。何故そうなったかは俺にも分からないが姉貴はあの時俺がアウンにいたのは交際しているシングルマザーと彼女の子供の服を買うためにデートをしていたからだと思い込んでいる。家に帰らないのもそいつの家に入り浸っているからだろうってな」

「いや、なんでそうなる!」

「私子供なんていないんですけど!」

 双方こちらが予想した通りのリアクションを披露してくれた。強いて言えば晶の顔の紅潮具合が予想よりも高いといったところだろうか。

「だから言っただろう『何故そうなったかはよく分からない』って。とにかくここで俺が言いたいのはその友達とやらはうちの高校の生徒の可能性が高いってことだ」

「あぁ?なんでそんなことが言えるんだよ?」

 洋平は明らかにシングマザー云々の話に関してまだ納得のいっていない表情をしているが話を進めるためにそこは堪えて疑問を投げかけてきた。

「姉貴は『中学の時の友達が教えてくれた』って言っていたんだよ。あの言い方からして海南の生徒ではないだろうしそもそもあの学校からアウンじゃ気軽に通える距離じゃない。となるとその友達は海南以外の高校に通っていると考えられるが俺と晶は放課後寄り道せずにすぐにアウンに向かったし買い物だって二人で分担したから滞在時間もさほど長くはない。以上のことからアウンで俺を目撃したのはここらの地域にある学校の中でアウンに一番近い昼明の生徒の可能性が高いって訳だ」

 俺は少々長くなった説明を終えてほっと息をつく。直前まで試験勉強を挟んでいたおかげか脳の回転がいつもより早かった気がする。

「別に今の話にいちゃもんをつける訳じゃないですけどお姉さんは『中学の時の友達』って言っていたんですよね?その言い方だと私達と同じ高校生だとは限らないんじゃないんですか?ほら、草野くんのお姉さんって昔からその、いろんな人から人気がありましたし……」

 晶は手を挙げて思いついた疑問をぶつけてきた。後半部分はやけに奥歯にものが挟まったような言い回しだったがその意図は伝わっている。我が姉ながらあの容姿を持ってすれば交友関係は同世代にとどまるとも限らない、そんなところだろう。

「それについては否定しない。でも相手はアウンで俺の顔を見て姉貴の弟だと分かったんだぜ?なら俺とは中学の時に面識のある人物に限られてくる訳だからやはり世代はそれほど離れていないと考えるべきだ。例外があるとすれば俺が中一だった時に姉貴の友達とやらが中三だった場合だな。そうなるとそいつは現在大学生か社会人だが……まあ例外は例外だ。そこまで考えてたらキリがない」

「それでウチの高校にスパイがいて試験結果を泉さんにチクられる可能性があるから俺は真面目に試験勉強をしなければならない、と?」

「そういうわけだ、話が早くて助かる」

「それってお前のせいじゃねえか!……ってちょっと待てよ」

 洋平は立ち上げって激昂したかと思いきや何かに気づいたらしく立ち上がった体勢を維持したまま数秒考え込む。

「さっきの話だと泉さんはお前がシングルマザーの家に転がり込んでると思ってるんだよな?ならあの人の頭の中に俺って出てこないって事になるだろう?じゃあ俺の試験の結果なんてどうでもいいじゃねえか!」

 洋平は目を輝かせながら自信ありげに自分の考えを披露した。こいつも俺と同様先程まで試験勉強をしていたおかげか珍しく考えが冴えている。

「そうだな、俺もその誤解を解こうとさっきも言った言い訳を姉貴に伝えたんだが全く聞く耳を持たなかったよ」

「おおそうか、やっぱそういうとこは流石姉弟!」

 顎髭を撫でながら洋平は言った。自分の考えが正しいと分かったことで気を良くしたのか失礼なことを言っているのにこのハゲからは悪びれる様子が全くない。

「だがな」

 俺はそんな洋平の思惑を否定する意思を込めて再び口を開いた。

「俺はこの誤解を黙って放置しておくつもりはない」

「はぁ?何言ってんだよピカ、せっかく都合よく泉さんが勘違いしてるんだからそのままにさせておいた方が絶対良いに決まってるじゃねえか」

「本当にそうか?このままお前の試験結果が思わしくなかったらどうなると思う?」

「どうなるって……どうもならねえだろ」

 洋平は少し苛立った様子で顎髭をつまんでは離す手癖を繰り返す。

「さくらちゃんの面倒を見てる間くらいならそうだろう。だが長期的に見ればあいつにさらに誤解の根拠となる材料を与える事になる訳だしそれは俺がまだ見ぬシングルマザーとの将来が一歩近づく事を意味する」

「そんな大袈裟な。別に誤解させたままで後になって別れたとかなんか適当なこと言って誤魔化せば済む話じゃねえか」

「詳しい内容はここでは控えるがそうなった場合俺は……この世からいなくなる」

 さくらちゃんや晶がいる手前父親の金玉云々を言うのは気が引けたためあえてここでは言葉を濁した。

 それにしても改めて考えてみれば姉ちゃんはあれだけ男を取っ替え引っ替えしているのにも関わらず俺にはそれを許してくれないというのもおかしな話ではないだろうか。別に俺自身そんな芸当ができるわけもないしこの不満を本人に直接ぶつける勇気もないので考えるだけ無駄なのだがどうも釈然としない。

「だからそれも大袈裟……」

「ではないかもしれないですね」

 反論しようとしていた洋平が途中で言葉を続けるのを止め晶が助けるように続きの言葉を発した。

 流石俺と中学校からの付き合いなだけはある。二人とも姉ちゃんとは多少なりとも面識があるからこそ彼女の狂気も知るところなのだろう。

「そういうわけでお前が期末試験でいい結果を出すか俺がまだ出会っていないシングルマザーと結ばれるか、どちらかの嘘を本当にしなければならない。どちらを選ぶかは言うまでもないよな?」

 俺がそう投げかけると洋平は「ぐぅっ…」と唸りながら頭を悩ませていた。無意識なのか右手で顎髭を捻っており見ていてあまり気分のいいものではない。

「星くん、勉強するしかないですよ。そうしないと草野くんお姉さんに酷いことされちゃうんですよ?」

 晶はそんな洋平の様子を見かねて説得を試みる。

「そりゃあ分かってるけどさ……そうだ、そもそも俺が試験を頑張ったところで泉さんの誤解を解くことにはならねえじゃねえか。子供服買ってたのは事実なんだし。高校生のお前がわざわざ子供服買ってた理由なんて説明つかないだろう?」

 余程勉強がしたくないのかそれともただムキになっているだけなのか洋平は新たな反論の糸口を見つけてきた。

「そんなこと知り合いの妹だとかお前の姪だとかの服を買うのを手伝っていたとかでなんとでも言い訳できる。なんなら仮にあの時アウンで知り合いと鉢合わせたらそう言い訳して切り抜けるつもりだった」

 嘘ではない。アウンは放課後ウチの学生がよく利用していることは織り込み済みだったのでアウンに向かう道すがらその辺の対策はある程度考えていた。

「本当にそううまくいくか?泉さんが聞く耳を持ってくれなかったってさっきお前は言ってたぞ?」

 洋平はなおも食い下がる。心なしか反論の言い回しがどこか皮肉屋めいていて少しだけ鼻につく。

「そうなったのは主に姉貴の性格のせいだというのは間違いないがそれ以外に俺が反論するには置かれた状況があまりにも不利すぎたっていうのも一因にある。何日も家に帰っていなかった。子供服を買ってたことを知られた。でも本当の事情は明かせない。こんな縛りプレイで有効な反論材料もなしじゃあ説得するのは難しいに決まってる」

「だからって……俺の試験結果が泉さんの誤解を解く切り札にはなり得ないだろう」

「なり得るかもしれないしなり得ないかもしれない。ただ姉貴は確かに暴走気味な一面はあるがああ見えて地頭はそこそこある。感情が知性を上回らない状態でやたら機嫌がいい時を狙えば話を聞いてくれるかもしれないし誤解だって解けるかもしれない」

「海南行ってんだから賢いのは分かってるって。ってかやっぱりよく聞いてみりゃかもしれないだらけのザルな作戦じゃねえか!なんだよ、そんなんじゃこっちだってやる気が出ねえなぁ」

 洋平の中で勝ち筋が見えたのか顎髭をやや嬉しそうに撫でながら言った。俺への同情だけでは試験勉強をさせるのはどうにも難しいらしい。そうなると次は報酬か罰のどちらかをチラつかせてやる気を強引にでも引き出す作戦に切り替えなければいかないのだが……

「星くん、それは許しませんよ」

 報酬と罰のどちらを採用するべきか思案してたところで晶が口を開いた。洋平に勉強を促しているという点では一つ前の晶自身の発言と変わりないものの言葉にかかる質量がまるで違っていた。

「晶?」

 その異変には洋平も気付いたらしく顎髭を撫でる手を止めて晶の方を向いた。

「いいですか?星くんが試験勉強を頑張っていい結果を出すことはもはや言うまでもないことで決定事項なんです。ああだこうだ色々いちゃもんをつけたところでそれは覆りませんしただ勉強から逃げたいだけの言い訳にしか聞こえませんよ?」

「……俺が勉強から逃げたいのは否定しないが言い分としての筋は俺の方が通ってないか?」

「通っていたらなんだって言うんですか?それで草野くんの身の安全を保証できるんですか?」

「いや……でもそれは俺が勉強したとしてもだな」

「同じではないでしょう。星くんが結果を出せば誤解を解く糸口にはなり得るかもしれないんですから」

「かもしれない、か」

「何が言いたいんです?」

「……」

「そのお髭、剃ってもいいですか?」

「……はぁっ、分かった分かった、降参だ。真面目に勉強するよ」

 洋平は大きくため息を吐くと白旗を上げた。

 すげえよ、晶のやつ俺とほとんど同じことしか言ってないのに洋平の屁理屈武装を勢いだけで強引にねじ伏せやがった。

「だそうですよ、良かったですね草野くん!」

 晶がこちらを向いてとニッコリと笑った。

「あ、あぁ……助かった」

「ったく、話が通じなくなる程怒らなくてもいいだろうに……それで結局俺は試験で何点取ればいいんだよ?」

「そうだな……別に校内で名前が貼り出される程上位に食い込めとは言わない。ただ姉貴の友達がどこに紛れているかが掴めない以上赤点なんか取って追試を受けてる所をそいつに見られることだけ避けてくれれば十分だ。それなら今から対策してれば十分間に合うよな?」

 ウチの学校では通例として試験の総合得点の上位五十名が掲示板に張り出される。そこに洋平の名前が載ればなんの問題もないのだがそれはあまりにも無謀というものだろう。いや、万が一にもあり得ない話だが俺より上位だった場合かえって話がややこしくなるか。

「なんだそれだけでいいのか。楽勝楽勝」

「そういうのは今まで追試を受けてこなかった奴の台詞だぞ。それに一応お前に勉強を教えてたって言い訳が成立するくらいにはウチの家族内でのお前の評価はアレだからな?」

「まだ成立してねーしお前も通ってる学校俺と同じだろうが」

 最近ようやく気にしなくなってきたコンプレックスを的確に攻めてきた。言い返してやりたかったが先に仕掛けたのは俺だし洋平の言い分の方が筋が通っていたので反論の言葉が出てこなかった。

「……とにかく、楽勝だというなら結果を出してくれ。仮にも追試なんて受けることになったらどうなるかは覚悟しておけよ?」

「覚悟って、お前何する気だよ?」

「内緒だ。せいぜい頑張れ」

 心からそう願う。俺だって大切な親友の有る事無い事を自分の姉に言いふらして命を差し出すような真似はしたくない。

 でも俺が「父さんの金玉にぶち込まれる時はお前も一緒だ。友よ」作戦の実行に踏み切るくらいにはお前の抉った傷口が深かったんだということも分かって欲しい。ただ、それだけなんだ。

「なあ、ピカ教え」

「うーっす。やけに靴が多いと思ったらお前らも来てたのか」

 洋平はまだ追求したそうだったが間が悪く笠原が帰ってきたため中断されてしまった。

「あ、笠原先輩おかえりなさい!お邪魔してます」

「おかえり。てか来てたって……晶から聞いてたんじゃないのか?」

「いや、星から昼飯作りに来るって聞いてたからまだいるのは正直想定外だった」

 笠原はあっけらかんとした顔でそんなことを言う。

「な訳ねえだろ。それじゃ昼過ぎからお前らが帰ってくるまでさくらちゃんの面倒見る奴が誰もいなくなるだろうが」

「あぁ、そうか。悪い悪い。まあ結果オーライってことで」

 笠原は特に悪びれた様子もなく誰も利用していないソファに座るとスポーツバッグからペットボトルのジュースを取り出して口に含んだ。

「そういえば笠原先輩は今日練習試合だったんですよね?結果の方はどうでした?」

「あぁ、なんてことなかったよ。適当に軽く捻ってやった」

「ほぉ、そうですか、流石エースですね!」

 晶が感心した様子で笠原のことを褒める。てっきり俺が先程笠原に抱いた感情を察して場の空気が悪くなる前に話題を変えたのだろうと思ったのだが、その当ては外れていたようでこちらとしてはあまり面白くはない。

「天気の方は大丈夫だったのか?洋平は試合先が雨で中止になったみたいだが」

「マジで?確かにこっちもずっと曇ってたけど降られはしなかったかな。まあどっちにせよ試合は屋内だし天気とか関係ねえけど」

 笠原は俺が変な質問してきたと思ったのか少し呆れたような顔で見てくる。別に俺だってさほど興味はなかったが咄嗟に思いついた話題がそれだったのだから仕方がない。

「そういやここらへんでも夜から雨が降るんだったか。ならそろそろ晶は帰った方がいいな。ピカはどうする?笠原は今夜もうちに泊まっていくみたいだからお前は好きにすればいい」

 天気のことを思い出した洋平が時計を確認しながらそう言った。

「そうですね、じゃあ少し早いですが私はこの辺で失礼します」

「俺は……そうだな、今日は俺も帰るよ。ただ晩飯も餃子ってのは飽きるだろうし帰る前になんか適当に作っておくか」

「それは正直助かる」

「え、餃子あんの⁉︎なら俺餃子がいいんだけど」

 笠原が目を輝かせて言った。

「話聞いてたか?明日まで我慢するか今食いたきゃ自分で焼け」

「えぇ、疲れてるからそれは無理……じゃあ草野は忙しいみたいだし今日は俺が晶ちゃんを駅まで送って行こうか?」

「いえ、まだそれ程暗くはないですし一人で大丈夫ですよ。先輩もお疲れでしょうからゆっくりしていてください」

「あ、そう?悪いね、なんか逆に気を使ってもらっちゃって」

「いえいえ、ではまた……明日はひょっとしたら無理かもしれないですけど近いうちにまた来ますので。じゃあね、さくらちゃん!」

 晶はさくらちゃんの手前で軽く身を屈めると手を振って別れを告げた。確かに明日の天気次第では来ようにも来られないだろう。さくらちゃんもそれに応えるように手を振り返して双方別れの挨拶を済ませると晶は荷物をまとめてリビングを後にした。

「さて、じゃあさっさと済ませるか」

 俺は袖を捲ってキッチンへと向かう。料理にかまけて雨雲に捕まるわけにはいかないのでパッと終わらせて帰ることにしよう。

 

 

「—そういうわけで今日は家に帰れないから。くれぐれも姉貴には帰るつもりだったってことをちゃんと説明しといて。え?だから姉貴だって……近くに知り合いがいるんだってことくらい親なら察してくれよ!……あぁ、ごめんごめん!謝るから姉ちゃんには説明してください……!はい……はい、じゃあまた明日」

 俺が携帯の電話を切るとやけに背中に視線を感じたのでゆっくりとその方向に振り返るとなんとも言えない表情でこちらを見ている三人の姿があった。

「……なんだよ?」

「……」

「いや、なんか今の電話だけで色々分かったっていうか」

「それな。草野の家庭内カーストとか」

「うるせえ!飯取り上げんぞ!」

 俺は恥ずかしさをかき消すように声を荒げて叫んだ。

「なんだよ、家族仲がいいのは別に悪いことじゃねえだろ?」

 笠原が俺を嗜めるようなことを言うがニヤケ面を抑えられず本心ではないことは明らかだった。

「思ってもねえくせに。黙ってろ」

「まあまあ、それよりも風呂入ってこいよ。そんなずぶ濡れで部屋にいられちゃこっちだって困る」

 俺は自分の足元に視線を落とすと確かに洋平の言う通り顎や髪から滴った水滴で小さな水たまりが出来ていた。

 そう、俺はこいつらの夕飯を作った後すぐ家に帰ろうとしたのだが三十分程歩いた所で雨に振られてしまったのだ。雨と風の勢いは凄まじくもはや傘がなんの役割も果たしていないという状態でここから一時間以上かけて家に帰るのは不可能だと判断した結果、俺は洋平宅に引き返すことにしたのだった。

「そうさせてもらう」

 俺はこの家に戻った時に洋平から渡されていたスポーツタオルで足元に水たまりをふきとると浴室へと向かった。

 

 

 入浴を済ませてリビングに戻ると洋平と笠原はどうやら食事を終えたらしく洋平はキッチンで何か作業をしているようで笠原の方はソファに座ってバラエティ番組を見ていた。

「温まったか?」

「おかげさまで。服まで貸してもらって悪いな」

 生憎今日は着替えを持って来なかったし着てきた服も雨でずぶ濡れになったため洋平の部活ジャージを拝借することになった。そのこと自体は感謝以外ないのだがサイズがどうも合わず少し動きずらい。

「別に気にすんなよ、それに似合ってるぞ?今からでも入部するつもりはないか?」

「おだてても俺は木に登らない」

 俺も夕食を食べようと洋平のいるキッチンの方へ向かう。何をしているのか気になってはいたが洋平は食べ終わった食器を水に浸していたらしい。

 俺はキッチンにあった料理を盛り付けてテーブルに向かうとさくらちゃんの隣の席につく。

「よう、さっきぶりだな」

「……うん」

 さくらちゃんは一応返事はしてくれたものの心なしか元気がない気がする。別に普段から晶のようにはつらつとしている訳ではないのだがなんというかまるで最初に出会った時のようなどこか不安が入り混じっている、そんな雰囲気が見てとれた。

 さくらちゃんの前に置かれた食器を見てみると昼飯の時と同様箸の進みが良くなかった。

 俺は自分の皿に盛り付けられた野菜炒めを一口食べてみる。特に味に問題があるとも思えないのだがかと言って変に勘繰ろうとして昼飯の時みたいに無理に飯をかきこまれても困るのでどうしたものかと思案する。

「ピカ風呂上がったし次どうする?お前入るか?」

 キッチンの方から洋平の声が聞こえた。

「あー、俺は後ででいいよ。客人だし」

 笠原はテレビから視線を外さないまま答えた。発言とは裏腹にその様子から家主を持ち上げようという気概は感じられずただバラエティ番組を見ていたいというのが本音であるのは明らかだった。

「分かった、じゃあ俺先に入るから」

「あいよ、ゆっくりでいいぞ」

 そんな会話を済ませて洋平は浴室へと消えていった。

 俺は中断された思案を再開した。といっても特に思い当たることなんて……

 ふと、さくらちゃんの方を見ていてあることに気がついた。

 さくらちゃんの視線が時折り食事の方から外れることがあった。最初は笠原の見ているテレビが気になっているのかとも思ったが視線を辿ってみるとそういうわけでもないらしい。さくらちゃんが見ているのはリビングを通り越えた窓の向こうだった。といっても窓の向こうの景色は日も落ちかかっている上に大雨のせいで何も見えたものではない。

 そういえば昼飯の時もその後の自由時間もさくらちゃんは窓の外を時折り見ていたことを思い出した。別に今ほど見通しが悪くなかったところでここから見える景色に感慨に耽る程のものなどなかったはずだがだとしたらさくらちゃんは一体何が気になっているのだろうか。

 窓の向こうにあるもの……この家にはないもの……

 あぁ、もしかしたら

「家に帰りたい、か?」

「え?」

 さくらちゃんは少し驚いた様子でこちらを向いた。反応を見るに当たりなのかもしれない。

 考えてみれば当前のことだった。こんなに幼い子があちらこちらにタライ回しにされていれば家が恋しくなるだろうなんて考えは本来真っ先に思い当たるべきはずなのに勝手に仲が打ち解けてきたとばかり思い込んでいてその考えに今まで至らなかった。

 —さくらちゃんには辛い思いをさせてるかもしれない、じゃなくてさせてるっていう自覚を忘れるな

 正確な文言は違っているかもしれないが確かそんな内容の説教を先日晶にしたばかりなのにどうして俺はそんな大切なことを忘れてしまえたんだ。

 自分に対する怒りが込み上げてきて箸を持つ手に力が入りかけるのをなんとか堪える。さくらちゃんを威圧するような真似をするわけにはいかない。これ以上愚行を重ねてなんかたまるか。

「そうだな……もうすぐっていうのは難しいけどさ。あと一週間くらいしたらちゃんと家に帰れるから。約束するよ、だから心配すんな」

 食事が進んでいないことを指摘するわけにはいかないので要領を得ない言い方になってしまってどうにも歯痒い。

「……」

 さくらちゃんは何も言わないまましばらく呆然としていたかと思うと食事を切り上げて自分の寝室である客間へと向かっていった。

「え、さくらちゃん……飯は⁉︎要らねえの?」

 俺の問いかけにギリギリ聞き取れないくらいの小さな声で何かを言った気がするがそのまま客間の中へと消えてしまった。

 間違いなく何か気に触るようなことを言ってしまったという焦りと初めて作った飯を残されたというショックで思わず視界が歪む。

「やらかしたな」

 笠原はニヤケながら言った。

「うるせえな、分かってんだよそんなことは」

「本当か?とてもそうは思えねえけど」

 相変わらず笠原はニヤけたままだったがその笑った表情がまるでこちらの本心を見透かしているようにも思えて少し不気味に見えた。

「……お前はなんでさくらちゃんが怒ったのか心当たりはあるのか?」

「さあ?あいつ何にも言わねえしそんなの分かる訳ねえじゃん」

「お前も分かんねえなら思わせぶりな態度取ってんじゃねえよ、おちょくってる場合じゃねえだろうが!」

 笠原の態度に思わず声を荒げた。

「んー、それを言うならあいつのこと分かったような態度で接して見事やらかしたお前の方はどうな訳?」

 その言葉を聞いた瞬間脳の思考が停止する。

「それは……」

 続く言葉が出てこない。

「さくらを見つけた時は猫だと思い込んだんだっけか?毎度学習しねえよなお前も。まあアイツを隠してた俺が言うのもアレだけど」

 俺が反論できないのを察してか笠原は言葉を続ける。

「深読みしすぎて見当違いで相手傷つけて自分も落ち込んでってさぁ、そんな即興のすれ違いコント見せられてもこっちは笑えねえって。お前は人の話にもっと耳を傾けるべきだし相手が言いたがらないのなら下手に勘繰らずにそっとしておくべきなんじゃねえの?」

 その言葉を聞くのはこれで何度目だろうか。中途半端な自分本位というのは罰せられるべき罪なのだとさえ思えてくる。

「……悪かった」

「俺に謝られてもな」

 確かに笠原の言う通りだ、と思った矢先洋平が風呂から上がってきた。

「あー、さっぱりした」

「昨日も思ったけど風呂上がるの早すぎねえか?」

「なんだよ、褒めたって何も出ねえぞ?」

「いや、別に褒めてねえし」

 笠原がゲンナリした顔で言った。

「じゃあ次お前入れよ……あれ、さくらちゃんは?トイレか?」

 テーブルに残された食べかけの食器を見つけた洋平が当然の疑問を投げかけた。

「……」

「なんか調子悪いからもう寝るってさ」

 何も言い出せない俺の代わりに笠原が適当な嘘で先程あった出来事を誤魔化した。

「マジかよ、それって大丈夫なのか?」

「別に一日寝りゃ良くなんだろう、俺も寝る時一緒だし面倒見とくから明日の朝までそっとしといてやってくれ」

 笠原は俺の方を見たりはしなかったが最後の一言は何故か俺だけに向けたものである気がした。

「まあ、そう言うなら……」

「さて、おちょくるのもこの辺にしとくか。おかげでいくらか溜飲も下げられたし」

「溜飲?」

「いや、こっちの話だから気にしなくていい。じゃあ風呂入ってくるわ」

 笠原は見ていたバラエティ番組がCMに切り替わったタイミングでテレビの電源を切ると浴室へと消えていった。

「何?お前笠原となんかあった?」

 笠原がいなくなったのを見計らって洋平が先程までさくらちゃんが座っていた席に着くと俺の方に話しかけてきた。

「なんでもねえよ」

「あ、そう」

 洋平はそう言ってさくらちゃんの食べかけの野菜炒めを食べ始めた。

 こういうところで深く追求してこない辺り本当に洋平は空気が読める奴だと思う。さくらちゃんの食べかけの飯を食べたりする卑しさに目を瞑れば今の俺にはこいつのことが羨ましくて仕方がない。

 まあいいさ、やらかしてしまったことはどうしようもないのだから今日のことはしっかり悔いて明日の朝さくらちゃんに謝ろう。さくらちゃんも腹だって空かせてるだろうし賄賂というわけではないが朝食も腕を振るったものにすれば機嫌を良くしてくれるかもしれない。

 そんなことを考えながら俺は残っていた夕飯をかきこんだ。



 夕食を済ませてしばしの団欒を楽しんだ後、俺達はそれぞれの寝室に移動し床についたのだがソファで完全に熟睡していたところを少し離れたところから聞こえてくる不快な音によって俺は目を覚ました。雨が窓を激しく打ちつける音の中であっても異質な音としてはっきりと耳に入ってくる。

 音の正体を探るとどうやら就寝前にテーブルに置いていたスマホがバイブレーションを鳴らしていたかららしい。振動が一定の周期で続いているということは当然誰かが俺に通話をかけてきたということなのだが……こんな時間に一体誰が?

 俺は兎にも角にもまず不快な音を止めなければと思いソファから寝惚けた体を起こしテーブルに置かれたソファに手を伸ばそうとするが起き抜けで体の操作が上手くいかずソファから転がり落ちる。

 鈍い痛みとそれによって込み上げてきた怒りでじわじわと意識が覚醒する。許さん、文句の一つでも言ってやらねば気がすまん。再び体を起こしてスマホの画面を確認するとディスプレイには稲垣晶の文字。右上に小さく表示された時刻は五時十六分を示していた。

 俺は通話ボタンを押してスマホを耳元に当てる。

「あ、もしもし!良かった繋がった!」

「良くねーよ!何時だと思ってんだてめえ」

 ソファからずり落ちた件も込めて尚且つまだ寝ているであろう他の奴らを起こさない程度に声量を調節しながら怒りをぶちかました。

「そんなことはどうでもいいですから!とりあえず落ち着いて私の話を聞いてください!」

 俺の怒声が飛んで消えてしまう勢いで晶は反論してきた。

 その勢いといいこんな時間に電話をかけてきたことといい何か事情があるということなのだろうか。

「……なんだよ」

「いいですか、最初に草野くんに確認して欲しいことがあります」

「確認?何を?」

「えっと、できるだけ他の人が目を覚さないように気をつけながら玄関の方まで行ってもらえますか?」

「は?なんでそんなこと」

 随分とおかしなことを言う。電話をかけてきたのは晶の方なのにそっちが寝ぼけているのではないだろうか。

「いいから早く!」

 再び晶の怒声が飛んできた。口ぶりからして何か焦っているような雰囲気が感じ取れる。

「分かったって……」

 俺は晶に言われるままスマホを持ちながらなるべく音を立てないように玄関の方へ向かった。

 実際洋平の家は一人暮らしのマンションにしては廊下が長いのだが未明の暗さも相まって先が中々見通せず余計に長く感じる。途中にある洋平のいる寝室に近づくと小さな音が聞こえてきたのでスマホの灯りを扉にかざすとドアが完全に閉め切られてはおらず中で鳴っている音楽が漏れ聞こえているのだと分かった。おそらく入眠用のBGMの類か何かを切り忘れたのだろうと思ったが万が一晶との会話を聞かれるのも何だかよくない気がしたので俺はそっと扉を閉めた。

 スマホの灯りを頼りになんとか玄関前まで到着すると俺は一層声を潜めて晶との通話を再開した。

「着いたぞ。そんで何すればいいんだ?」

「分かりました。それでは玄関に置かれている靴がいくつあるか数えてください」

「は?どういうことだ?」

「……正確に言うならその部屋にいる全員分の靴がちゃんとあるかを確認して欲しいんです」

 俺はそこまで言われて少し嫌な予感がした。全員の靴って、そんなのあるに決まってるじゃないか。だってこんな時間に……外だって大雨だっていうのに。

 俺は恐る恐るスマホの灯りを玄関の方に向けて置かれている靴を確認する。

 そしてその光景を目にして思考が停止した。

「もしもし?どうでしたか?草野くん」

 耳元から離れたスマホから僅かにだが晶の声が聞こえてくる。聞き取りづらかったがそんなことを言っていたと思う。

 俺はゆっくりと耳元まで持っていった。

「……どうなってんだよ」

「え?」

「どうしてさくらちゃんの靴がないんだ?」

 そこには当然あって然るべきものがなかった。

「そんな……」

 晶の希望の絶たれた声が聞こえてくる。電話越しであってもその時の晶の表情は安易に想像ができた。

「なあ、こんな時間に電話かけてきたってことはもしかしてお前」

「……はい、草野くんの想像で合ってると思います。私は—」

 晶は数拍間を空けて再び口を開いた。

「タイムリープの能力を使いました」

「……そうか」

 他の人のために能力を使ったのか、俺との約束を破ったのか、今聞きたいことはそんなことではない。そんなことはどうでもいい。俺が聞きたいのは

「さくらちゃんはどこにいる?」

「……すいません、それは私にも分からないんです」

「じゃあとりあえず経緯を全部詳細に教えてくれ」

「分かりました。ただ時間もあまりないので聞き逃さないようにお願いします」

 脳内の情報を整理する時間が必要だったのか少しの間沈黙が続いた後、再び電話口から音声が聞こえてきた。

「まず私がこの事態を知ったのが今朝の六時三十分過ぎのことです。笠原先輩が目を覚ましたところ同じ部屋で寝ていたはずのさくらちゃんが見当たらないことに気がつきました。初めはトイレに行っているだけかと思い確認に行くと当然誰もいなかったそうです。それで異変を察した先輩が家の中を捜索したところ今の草野くんみたいにさくらちゃんの靴がなくなっているのを発見して間も無く星くん草野くんを起こすと辺りの捜索を始めました。私が草野くんから連絡を受けたのもこの時です。ここまで大丈夫ですか?」

「あぁ」

「分かりました。連絡を受けて私も捜索に加わわろうとしたのですが生憎のこの天候ですので電車の運転の見合わせが発生してしまいすぐには合流できませんでした。それで結局星くんの家にいた三人で捜索を開始したそうです。ですが辺りを捜索しても残念ながらさくらちゃんを見つけることはできませんでした……」

 さくらちゃんを見つけられなかったという晶の声は少し震えており電話越しにもその悔しさが伝わってきた。

「すいません、続けます。十時頃に私が遅れて合流した後しばらくさくらちゃんを探していたのですがこのまま闇雲に捜索を続けて時間だけ浪費するのもよくないという星くんの提案で私達は一度家に戻りこの事態に具体的にどう対処するかについて話し合うことになりました。そして家に戻ると星くんはもはや私達だけで対処できるものではないと言って警察に相談することを提案したのですが……笠原先輩がこれに強く反対したんです。さくらちゃんがいなくなったことを警察に話せばそれまでさくらちゃんが星くんの家にいた理由も話さなければならないので事態が必要以上に大ごとになるのは避けたい、と。子供の行ける範囲はそれほど遠くはないはずだからこのまま私達だけで捜索を続けるべきだと先輩は主張したんです。二人の間で意見が対立したので私と草野くんがどちらの立場につくのか意見を求められて……私は星くんの意見に賛成しました。警察に事情を話すことでこちらの都合で巻き込んでしまった星くんにさらに迷惑をかけてしまうかもしれないことに正直躊躇いの気持ちはあったのですが星くん自身が警察に相談すべきだと主張しているのにそういった配慮をするのも違うと思ったので。草野くんもかなり悩んでいましたが最終的には星くんの意見に賛成の立場をとりました。そういう訳で多数決により方針が決まった私達は警察署に向かったんです」

 長く話して息がもたなかったのか晶はキリの良いタイミングで話すのをやめた。微かに呼吸の音だけが漏れ聞こえてくる。

「……それで笠原は納得したのか?」

「いいえ、最後の方まで抵抗していましたがそこは星くんと草野くんが強引に押し切って……まあ私達が警察に相談すると決めた以上笠原先輩一人が抵抗したところで何の意味もないと思うんですけど。それで警察署に着いて事情を話したところ……すぐに捜索は始まったんだと思います」

「思います?分からないのか?」

 脇道に逸れて無駄に時間を使うのは避けようと思って下手に横槍を入れるような真似は控えていたのだが晶の自信の無い言い方に思わず口を挟んでしまった。

「警察署でさくらちゃんとのこれまでの経緯を話したらその、やはり大人に相談もせず学生だけで小さな子供の面倒を見ていたことやその前の学校で生活させていたこともバレてしまったんですけどそのことを不審に思われたみたいで……笠原先輩の予想していた通り事件性のあるものとしてまるで取り調べのような……いえ、今思えばあれは取り調べだったんだと思います。とにかく私達は警察署から動くことはできずにさくらちゃんが見つかるまで待機するしかなくなったので警察が具体的にどのように捜索をしていたのかまでは申し訳ありませんが分かりません」

「それは……災難だったな」

「いえ、私達のことは別に大したことではないです。それよりも……」

「晶?」

「私達が警察署にいる間さくらちゃんが見つかったという連絡が全然なくて……さくらちゃんが無事なのかも分からないしでも私達にはどうすることもできなくて……そんな状態が何時間も続いて不安で一杯になっていたらようやく警察の人が教えてくれたんです。『昼明川の下流でさくらちゃんが持っていたと思われる傘が見つかった』って」

 最後の一言は見なくても泣いていると分かるくらい声が震えていた。

「さくらちゃん、家を出る時草野くんの持ってきた傘を持って行っちゃったみたいで……それでその傘も酷く破損していておそらく上の方から流されてきたんだろうって警察の人は言ってて……でもそれってさくらちゃんももう……ごめんなさい。助けられなくて本当にごめんなさい」

 涙まじりの振り絞った声で電話の向こうで晶が謝ってくる。

 玄関を再度確認してみると確かに晶の言う通り昨日傘入れに差しておいたはずの俺のオレンジ色の傘がなくなっていた。

「事情は分かった、大変だったな」

「ぐすっ……取り乱してしまいすいません。でも私の知っている情報はこれで全部草野くんに伝えました。なので草野くんにはこれからどうすればさくらちゃんを無事に見つけ出すことができるか一緒に考えて欲しいんです」

「言われなくてもそのつもりだ」

 俺は間髪入れず思ったことをそのまま口にした。

「ははっ……ありがとうございます。それじゃあ時間もないですし早速本題について話しましょう。私達はこれからどのような行動を取るべきだと思いますか?今から警察に相談すればもしかしたらさくらちゃんは見つかるかもしれませんし有効な手ではあると私は思うんですが」

「……確かにお前の言うことも一理ある。ちなみにお前達が警察に行った時間とさくらちゃんの傘が見つかったと警察から聞かされたのは何時頃の話なんだ?」

「時間ですか?ええと、警察署に着いたのが確か十二時過ぎで傘が見つかったと教えてもらったのは動揺していて正確ではないかもしれませんが夕方の七時頃だったと思います」

「そうか。その情報を根拠にして主張を通すのは無理があるのは分かっているがそれでも半日以上俺達の身動きが取れなくなる可能性があるのはかなり痛い。警察の捜査もどれくらい大規模なものになるのかも今の所掴めていないしそれなら手がかりを持っている分俺達で探した方がまだ幾分かだけマシな気もする」

「そうですか、ならここは草野くんの方針で行きましょう。私もすぐそちらに向かうので草野くん達は先にさくらちゃんの捜索をお願いします」

「ちょっと待て。向かうってお前、どうやって来るつもりだ?」

「確認してみたところまだ電車の運転は見合わせていないみたいなので今から行けば間に合います」

「……分かった。くれぐれも無理はするなよ」

「はい、それではまた後で連絡します」

 そう言って晶との通話が切れた。

 俺はスマホをポケットにしまいこれからやらなければならないことを頭の中で組み立てながら同時並行で笠原のいる客間へと向かっていた。とにかく時間がない。思考で行動を止めることは許されない。

「起きろ笠原!」

 俺は扉を開けて客間に入ると笠原の布団をひっぺがしながら声を張り上げた。

「うをっ⁉︎何だよいきなり!」

 俺のあまりの剣幕に笠原は一気に目が覚めたのか寝惚けた様子もなく上半身を起こすとただただ驚いた表情でこちらを見た。

「さくらちゃんがいないんだよ!」

「は⁉︎嘘だろ?」

 笠原は先程以上に驚いた表情を見せるとすぐに隣に敷いてあるさくらちゃんの布団に目をやる。

「トイレに行ってるだけとかじゃ……」

「そんなのとっくに探してる!靴も無くなってるし俺の傘も消えてんだよ!」

「おいおいおいマジかよ……」

 笠原は現実を受け入れられないのか力が抜けて再び倒れそうになる体を震える両手で支えていた。

「おい!なんかそっちの方からさくらちゃんがいないって聞こえたぞ!」

 俺の声は洋平の部屋まで届いたらしく笠原と同様に慌てた表情で洋平が客間の中に入ってきた。

「あぁ、俺もトイレで目が覚めてさっき靴がなくなってるのに気が付いた」

「やべぇじゃねえか!外土砂降りだぞ!」

「なんであいつ……外に出たがる素振りなんて見せたことなかったのに」

 笠原はいまだ呆然とした状態で独り言のように言葉を吐いた。

「とにかくチンタラしてる場合じゃねえ。今すぐ探しに行くぞ!」

 俺は笠原の首根っこを掴んで布団から引っ張り出して玄関へと向かった。



「……信じられん。こんな大雨の中さくらちゃんは出て行ったっていうのか」

 玄関を開けて外の様子を改めて確認した洋平が素直な感想を述べる。

 洋平の言う通り外の様子はまだ日が出ていない上に空は分厚い雲に覆われているため余計に暗く台風と比べても遜色がないほどに雨風が強い。風によって横向きに降る雨が地面に浸かっている水面を激しく打ちつけている。

「同感だが事実だ。そういえばお前らに確認しておきたいんだが昨日は何時まで起きていた?」

 俺はエレベーターのボタンを押して昇ってくるのを待っている間に二人に尋ねた。

「俺は……なんだかんだで一時くらいまで試験勉強をしていたからそこから寝たとして一時半くらいじゃないか?」

「そうか、笠原は?」

「……多分俺もそれくらいの時間だったよ」

「その時さくらちゃんは?」

「あ?いたに決まってんだろ」

「一応聞いただけだ。となるとさくらちゃんは笠原が最後に確認した一時半から俺がいないことに気付いた五時十五分の間に家を出たことになるのか」

「全然絞り込めてねえからそれ」

 笠原は苛立ちの感情を込めた言葉を俺にぶつけたが言う通りだったので何も言い返せないでいると待っていたエレベーターの扉が開いた。

 俺たちはエレベーターに乗り込むと一階のボタンを押して到着するまで待機する。

「なあ、他に思いついたことはないのか?どんな些細なことでもいい」

 俺は僅かな希望に縋って二人に問いかける。

「些細なことって言ってもな……お前に起こされるまで寝てたわけだし何もねえよ」

「そうだな、俺も同じ……いや、ちょっと待てよ」

 洋平も笠原に同意しかけた途中で何かを思い出したのか口を閉ざしたまま考え込み始めた。

「お前ら昨日の夜、一時半以降トイレに行ったか?」

「いや、俺は行ってない」

「俺もさくらちゃんがいないことに気づく前は行っていないけどそれがどうした?」

「ほら俺の寝室ってトイレに近いだろ?それで俺が寝た後誰かがトイレの水を流す音で一回目を覚ました気がするんだよ。その時は別に誰がトイレに行ったかなんて全然気にならなかったからすぐ寝たんだけどお前らじゃないってことはさ……」

「あいつがトイレで目を覚ましたってことか、もしかしたらこれ手がかりになんじゃねえの⁉︎」

 笠原が興奮した様子で俺の肩を叩きながら言った。

「そうだな、さくらちゃんがいつ頃家を出たのか絞り込めるかもしれない。それでお前が一度目を覚ました時が何時頃だったかは覚えてるか?」

「覚えてるも何も……その後すぐ寝たって言ったろう?時計なんて見てねえし何時ごろだったかまでは分からん」

「何だよそれじゃあ意味ねえじゃん。無駄に期待だけさせんなよ」

「うるせえな、ピカが些細なことでもいいって言ってただろうが」

 二人ともただでさえ気が立っているため密室の中一髪触発の空気が流れる。

「なあ、お前って寝る時はいつも音楽を聴いてるのか?」

 俺は今までの会話とそれ以前に集めた情報を元に気になったことを洋平に聞いた。

「音楽?聞かねえけどなんで?」

 洋平が聞き返したタイミングで一階に到着してエレベーターの扉が開いたので俺たちはエントランスに移動した。

「今朝トイレに寄った時お前の部屋から音が漏れてるのが聞こえたからさ」

「あぁ、それか。試験勉強があまりに退屈だったもんでラジオを垂れ流してたんだよ。それでそのまま寝落ちしたからつけっぱなしになってただけだ」

「勉強したまま寝落ちってことは部屋の明かりとラジオをつけたまま机で突っ伏したまま寝たってことか?お前途中トイレを流す音で一度目を覚ましたって言ってたけどそんな状況ですぐに二度寝を決め込むなんてことは可能なのか?」

 俺が今朝洋平の寝室の扉の隙間を確認した際部屋の明かりが消えていたことは伏せたまま不審に思った点をぶつけてみた。

「試験勉強はいつも布団の中でスマホの灯りを頼りにやってんだよ……別に冗談を言ってるわけじゃないからな?流石に今の状況は弁えてるしだからこそ俺は事実だけを述べている」

 思わぬところで洋平がふざけた勉強法をしていたことが露呈した。普段であればブチギレをかましてもおかしくないところだがこいつの言う通り今は差し迫った状況だったためそれは一旦胸の奥にしまっておいた。

「じゃああの音はラジオだったのか……なあ、お前が一度目を覚ました時ラジオもつけっぱなしだったんだろう?その時どんな内容が流れていたのかって覚えてないか?」

「そういや……なんか聞いた気がするな。と言っても普段から聞いてるわけじゃないし番組名なんて分かんねえけど……なんか女の人が話してて音楽が流れてた気がする」

「寝る前に聞いてた番組は?どこの放送局だ?」

 俺は自分のスマホを取り出し番組表を検索する。

「だから番組名なんて気にしたことねえから分かんねえけど……多分地元FMの奴だよ」

「……でかしたな洋平。時間帯がだいぶ絞り込めたぞ」

「マジか⁉︎」

「あぁ、その放送局で深夜一時三十分以降女性パーソナリティがやってるラジオ番組は一つしかない。『DJ春野パオ子の煉獄ネットワーク』放送時間は早朝四時三十分から四時四十五分の十五分間。少なくともさくらちゃんはこの時間以前はまだ家にいたはずだ」

 俺は二人にスマホで検索した番組表で該当する番組を二人に見せる。

「煉獄……どんな番組なのか全く想像がつかんが今はあまり耳にしたくない言葉だ」

「でもこれであいつがいなくなった時間は四時三十分から五時十五分の四十五分間に絞り込めたってことになるよな?今が五時半過ぎだから最長で外出してから一時間ちょっと。最短なら十五分だ。家を出たばかりならまだこの辺りにいるかもしれない」

「それなら手分けして探すぞ。ひとまず洋平と笠原は二手に分かれてマンションの付近を捜索してくれ。さくらちゃんは俺のオレンジ色の傘を持っているだろうから近くにいればこの暗さでも目立つはずだ」

 幸い、とは言えない状況ではあるがまだ日の出ていない時間帯に加えてこの荒れ狂った天候のせいで人の気配は全くと言っていい程ない。そんな状況の中さくらちゃんが目立つ色の傘を携えていれば嫌でも目立つだろう、そんな半ば希望にも近いものに縋りながら俺は二人に指示を出した。

「了解!でもピカは?どうするんだよ?」

「俺はさくらちゃんを学校からお前の家まで連れてきたルートを辿ってみる。付近を探して見つからないようなら二人とも俺のところに合流してくれ。あの時洋平に家に来たルートは笠原も覚えているよな?」

 笠原の言う通りまださくらちゃんが近くにいればいいがそうでなければ三人で探すのは無駄でしかない。時間が経てばそれだけ捜索範囲が広がるのと俺だけが晶から僅かながら手がかりをもらっていることを踏まえての判断だった。

「あぁ、問題ねえよ」

「じゃあ行くぞ。さくらちゃんを見つけたら連絡入れるからすぐスマホを確認できるようにしとけよ」

 その言葉を皮切りに俺たちは三手に分かれてさくらちゃんの捜索を開始した。

 

 

 捜索を開始して三十分が経とうとしていた。天候は相変わらず最悪で捜索を開始して数分も経たない内に横殴りの雨によって全身はずぶ濡れになり洋平の家から拝借した傘はもはやただ持っているだけの飾りでしかなくなっていた。

「クソッ、ハズレかよ……」

 俺は昼明川に架かる橋の周囲を見渡しながら誰に聞かせるでもない言葉を空中に放った。

 ここは学校と洋平の家のおよそ中間に位置しておりさくらちゃんを洋平の家に連れて行く際にも通った場所だったためさくらちゃんの傘が昼明川の下流で見つかったという晶の話を聞いた時真っ先に思いついた場所だった。しかし、周囲を念入りに探したものの生憎彼女の姿はどこにも見当たらない。

 橋の下に目をやると昼明川はこの大雨によって見慣れない程までに水かさを増し流れの勢いもそれに比例して凄まじく普通の感覚で言えばこの濁流を見て近づこうとはまず思わない。

 それなのにさくらちゃんは……

 嫌な方向に想像が膨らみかけたその時スマホを入れていたズボンのポケットから振動を感じた。耳を澄ますと雨と川の流れる音にほとんどかき消されていたが着信音も微かに聞こえてくる。急いでスマホを取り出して画面を確認すると笠原からの着信だったので俺は通話ボタンを押し耳元に当てた。

「もしもし、さくらちゃんがいたのか⁉︎」

「いや、こっちは見つからなかった。だからこれからお前んところに合流しようと思ってそっち向かってんだけど今どこよ?」

「そうか……俺は今昼明川の所に来てる。川に架かってる橋……昼明橋の前だ」

 俺は橋の側に設置された看板に書かれている文字を見ながら言った。何度かこの橋を渡った記憶はあるが橋の名前が昼明橋であることはこの時初めて知った。

「分かった。それならもう少しで着くと思うからちょっと待ってろ」

 そう言うとすぐに通話が切れて数分と経たない内に昼明橋の向こうから傘を差さずに手に持った状態でこちらに走ってくる笠原の姿が見えた。

「よう、そっちも……まだ見つかってないんだよな」

 少し息を切らした様子の笠原が水を吸った重みで垂れ下がった前髪をかきあげながら問いかけてくる。

「そうだけど……お前傘はどうしたんだよ?」

「差しててもこの雨じゃ意味ねえだろう。走るのにも邪魔だったし」

 確かに傘を差していない笠原と差している俺の服の濡れ具合にはほとんど大差がなかった。 俺もそうしようかと一瞬だけ迷ったがスマホが水没して使えなくなる可能性を少しでも下げたかったので思いとどまった。

「お前がそう思うなら好きにしたら良いけど、それより洋平はどうした?なんでここに来ていないんだ?」

 俺は続けて笠原がここに来た時に感じた疑問をぶつける。俺はこいつらと別れる際後で二人で俺の所に合流しに来いと言ったはずだが何故かその片割れが見当たらない。

「それなんだけどさ、お前ん所に向かおうってなった時万が一さくらが家に戻ってきた場合に誰もいないっていうのも不味いんじゃねえ?って話になって結局星が自宅のマンション付近で待機しながら捜索を続けるってことになったんだわ」

 笠原の説明を聞いた瞬間、何勝手に無駄なことをやっているんだと怒りそうになるもなんとか寸前で堪える。

 いくら家で待っていようとさくらちゃんが自宅に戻らないことは俺と晶だけが知る情報でありそれは笠原達には明かすことはできないからだ。仮にこの状況でその情報とそれを知ることができた晶の能力について説明したとして到底受け入れてもらえるとは思えないし余計に混乱を生むだけの未来しか見えない。

「……分かった。なら俺とお前で捜索を続けよう」

 俺と晶だけが知る情報を明かせない以上、客観的に見れば笠原達が下した判断は合理的であると評するしかなくこれに無理に異論を唱えて時間を浪費するのも得策とは思えなかったので捜索の方に脳の働きを再び切り替えることにした。

「確かさくらを星の家に連れて行ったルートを辿りながら探す、で合ってるよな?」

「あぁ」

「……それってなんか確信でもあったわけ?そりゃ闇雲に探すよりはマシだと考えたのかもしれないけどあの時のお前やけに自身ありげっていうか速攻で俺達に指示出してたしそこん所少しだけ気になってたんだけど」

 笠原は俺に疑問をぶつけてくる。あの時は勢いに任せて俺の指示に従ったが改めて冷静になってみて盲目的に俺の方針に従うことに疑問を感じたのだと思う。

「別に何か確信があったわけじゃない。消去法的にこのルートをさくらちゃんが通った可能性が高いと思っただけだ」

「それだけの根拠で捜索する場所を絞って本当に大丈夫なのか?探さず通りすぎた所にあいつがいる可能性だってあるだろう?」

 俺の答えに納得いかない笠原は食い下がる。こいつの不安と必死さは十分伝わっているが今は構っている時間も惜しい。

「とりあえずただここで立ち止まっていても時間の無駄だ。方針についてはひとまず捜索を続けながら話し合おう」

「……分かった」

 相変わらず笠原は完全に納得したわけではなさそうだが時間を無駄にしたくないという点だけは一致していたようで俺達は捜索を再開し学校へ向かって歩き始めた。



「消去法、は言いすぎたかもしれない」

 俺は川沿いを上流に向かって早歩きで進みつつ辺りを見渡しながら笠原に話しかける。

「じゃあなんだよ、確証じゃないにしても捜索範囲を絞る相当な理由がちゃんとあるって言いたいのか?」

「俺は相当な理由があったのはさくらちゃんの方だと考えている」

「は?」

「普通に考えればそうだろう?こんな時間に外は大荒れの天気。なんとなくでふらっと出かけようなんてまず誰も思わない。それなのにさくらちゃんは家を出たんだから」

「そんなのわざわざ言わなくたって……そうに決まってんだろ」

「相当な理由がさくらちゃんにあったとすればそれは何か、生憎そっちは手がかりがなさすぎて絞り込むことは難しい。なら理由ができた時期は?さくらちゃんが洋平の家を出た理由は分からなくても逆に言えば家を出れば彼女にとって何かが解決したのかもしれない事情があったんだと考えられるよな?本来この付近の土地勘がないはずの彼女がそう思ったってことは相当な理由ができたのはこの街に訪れた時、つまりお前と出会った日以降の可能性が高いはずなんだ」

「……」

 笠原は黙ったまま俺の話に耳を傾けていた。

「この街でさくらちゃんに洋平の家を飛び出さないといけない程の何かが起きたのだとすれば自ずと場所は限定される。さくらちゃんのこれまでいた場所は昼明高校と洋平の家とその間の道すがら、まあ洋平の家はこの場合除外されるわけだが……いや、まだあるか」

「まだ?どこだよ?」

「さくらちゃんがお前と出会う前だよ。そういえばさくらちゃんは一人でお前に会いに来たって言ってたよな?そうだ、もしかしたらその時に何かがあったのかもしれない」

 ちょうど俺の説明が言い終わるタイミングで川の反対側に広い道が見えてきた。川から離れるようにその道を渡ればあの時さくらちゃんを連れて行った銭湯があるのだがそこから学校までのルートに昼明川に接する場所は存在しない。この場所以外でさくらちゃんが昼明川に近い所に行っていなければ可能性の高いものとして考えられるのは二つ。

 この先のルートでさくらちゃんは何かをした、あるいは確認した後戻ってくる途中川で事故に遭う。もしくはもう既に……手遅れになっているかだ。

 考えたくもないが晶の話では夕方の七時になってもさくらちゃんは見つからなかったということだから最悪の想定をしない訳にはいかなかった。

「……なあ、お前がさくらちゃんと最初に会った時のことを教えてくれ」

 俺は早歩きをやめその場に立ち止まって笠原に尋ねた。

「は?それならこの前説明しただろ?」

「もっと詳しくだ。今思えば不審な点がいくつかあった」

「……それなら時間がねえんだし今度は俺がさっきみたいに歩きながら説明してやるよ」

「駄目だ。お前には今から死ぬ程集中してもらって当時の記憶を全部思い出してほしい」

「そんなこと言ってる場合かよ!時間がねえってお前だって分かってんだろうが!」

「いいから時間をくれ。もしかしたらさくらちゃんがお前に会う以前の足取りの手がかりが掴めるかもしれないんだ」

「あぁっクソッ!分かったよ!付き合ってやるからさっさとしろ!」

 笠原は頭をガシガシと掻きながら声を荒げて言った。

「助かる」

「で、何を詳しく話せばいいんだよ?ヒントもないんじゃ話す内容はこの前の説明と何も変わんねえぞ」

 笠原は焦りと苛立ちの混ざった口調で俺に問いかける。

「まずさくらちゃんは……いや、時系列に沿って整理したい。最初お前の親父さんが会いにきたんだったよな?久しぶりに会ったって言ってたけどそれは親父さんが遠く離れて住んでいたからか?」

「さくらのことを聞くんじゃなかったのかよ……まあいいや、これまで音信不通だったのは単純に両親の仲が悪かったから……いや、それ以上に親父が俺達に興味がなかったんだと思う、親父には新しい家族もいたみたいだしな」

「じゃあ物理的に会うことが難しい場所に住んでたわけじゃないと?」

「……あぁ、別れ際親父が近くに停めてた車に乗る所見たけどナンバープレートはここから確か二つ三つ離れた町のものだったから別に会おうと思えばいつでも会えたんじゃないか?実際にあいつを押し付けには来れたわけだし」

 その時の事を思い出して笠原は嫌そうな顔をしながら言った。

「分かった、じゃあ次はさくらちゃんと初めて会った時のことについて質問だ。確かお前の話じゃさくらちゃんは一人で待ち合わせ場所に来たって言ってたよな?それに彼女は何も持っていなかったとも。合ってるか?」

「そうだ、合ってる」

「間違いないか?本当にさくらちゃんは何も持っていなかったのか?」

「しつこいな、だから何も持ってなかったって……」

 おそらく俺と同じことに思い至った笠原は途中で言葉を止めハッとした様子でこちらを見つめると「何も持っていない……」と独り言のように呟いた。

「おかしいよな?今改めて確認したがやはりさくらちゃんはこの街に土地勘がない。普段はここから離れた所で暮らしてるんだから当然だよな?それならどうして彼女は手ぶら、しかも一人でお前の所に来れたんだ?」

「……」

「歩いてきたというのは可能性としては低いだろう。親父さんだってお前には車で会いにきたくらいだし小さな子供がそう簡単に行き来できる距離じゃない。だとすると現実的なレベルで可能性のあるものは親父さんに車で途中まで送ってもらったか電車かバス、タクシーみたいな交通機関を利用したかだ」

「……車で送ってもらったっていうのは選択肢から消してもいいんじゃないか?わざわざさくらを待ち合わせ場所の途中で放り出すっていうのはどう考えたって不自然すぎる」

「そうだな、同様の理由でタクシーも消してしまっていいだろう。となるとさくらちゃんがこの街に来たのは電車かバスということになるわけだがそれでも不審な点はまだ残る」

「手ぶらだったことだよな?」

 笠原が割り込む形で俺の言いたかったことを口にした。

「あぁ、電車で最寄り駅に降りたにせよバスで最寄りの停留場に降りたにせよそこからさくらちゃんが待ち合わせ場所である学校までは多少なりとも距離がある。なんの手がかりも持たずともさくらちゃんなら学校に辿り着くだろうなんて考えは強引すぎるだろう。そもそもどちらも利用すれば当然運賃がかかる。財布は持っていなかったのか?」

「……持ってなかった、と思う」

「そんな自信無さげな回答では困る。当時の記憶を詳細に思い出してくれ」

「うるせえな、こっちだって必死に思い出してんだよ!そもそも財布がなかったからってそれがあいつが乗り物を利用していないことにはならねえだろう。片道代の小銭だけ親父からそのまま持たされたとかなら問題はクリアできる」

「いいから思いだせ。財布は持っていたのかいなかったのか、どっちだ?」

「……持っていなかった。手ぶらだったって言っただろう。あいつは出会った時本当に何も持っていなかったんだよ」

 このままやりとりが平行線を辿ることを危惧した笠原が折れる形となって当時のさくらちゃんの様子を明かした。

「じゃあ話をまとめるとさくらちゃんは親父さんから着替えとかの宿泊道具や財布、お前との待ち合わせ場所までのルートが分かる地図なんかを一切持たされず当日家を出たってことになるが」

「有り得ねえよ……あの野郎でも流石にそこまで放任したりするとは考えにくい」

「俺もそう思う。万が一さくらちゃんがお前と出会えないなんてことになれば困るのは親父さんの方だからな」

「てことは少なくともあいつがこの街に来た時には手ぶらじゃなかった?」

「その可能性は高い。断定できるとまでは言えないがそう考える方が流れとしては自然だ」

「ならあいつが持参していた荷物は途中で無くしたってことになるわけだけど……もしかしてそれを探すために家を出たのか⁉︎」

 笠原は真相にたどり着いたと思ったのか興奮気味に俺に語りかける。

 俺はそんな笠原の言葉を聞いてあることを思い出す。

「……みゃーくん」

「は?今なんて」

 先程の興奮した表情とは打って変わってポカンとした顔で笠原は俺の顔を覗き込む。

「みゃーくん。今の会話で思い出したがさくらちゃんはこっちに来る時にみゃーくんっていうおそらくぬいぐるみのようなものを持ってきてたらしいんだ」

「……そんなの俺聞いてねえんだけど」

「そうなのか?まあさくらちゃんにとって家族みたいなものらしいからお前のことが怖くて言い出せなかったのかもな」

「なんだよあいつ……でもそれなら出て行った理由ってほぼ確定じゃねえか。落としたかなんだか知らねえけどその大事なぬいぐるみを探すために家を出たんだよ。で、どこでなくしたって言ってたんだ?」

「……それは分からない」

「は?」

 笠原がつい先ほど見たポカン顔を再び披露する。

「さくらちゃんはそのみゃーくんとやらをいーちゃんっていう子にあげたって言っていてその子はどこに住んでいるかは彼女も分からないらしい」

「いーちゃん?お前マジで何言ってんだよ……つーかさくらも言動が滅茶苦茶じゃねえか、なんで大事なもんを簡単に手放すんだよマジで……」

 相変わらず俺の説明するさくらちゃんの言動が理解できないのと掴みかけたと思った手がかりが無駄に終わりそうだということを悟った笠原は体から力が抜けたのかその場に崩れ落ちそうになるのを持っている閉じた傘を杖代わりにしてなんとか支えている。

 さくらちゃんにも彼女なりに事情があったんだと言うことを伝えたかったがそんなことをしている余裕がないことも同時に理解していた。ただそのこと以上に今までの会話のどこかで感じた違和感が俺の脳と心の大部分を埋め尽くしている。

 この違和感の正体はなんだ?

 何を見逃した?何を忘れている?何を間違えた?

 一滴残らず探し出せ、思いだせ、再考しろ—

 俺は記憶の深い所まで潜り込みこれまでにあったことを思い出す。

 洋平、笠原、浜崎さん、姉ちゃん、母さん、先生、晶、さくらちゃん

 今までの会話や行動に至るまで全部、全部、全部。脳に押し寄せる情報は俺の側を流れる濁流にも似ていた。

 そして俺は一つの結論に辿り着く。

 別に確証があるわけではない。これまでにあったことをバラバラにして再びつなぎ合わせてできただけの歪な答え。

 所詮俺程度じゃ脳を全力で稼働させてもこのレベルが限界で最終的には神頼みってことか……

「草野!おい草野!しっかりしろ!」

 気がつくと目の前に笠原がいて俺の体を両手で支えていた。どうやら俺はその場に倒れ込んでいたらしい。

「ハァッ……ハァッ……笠原……大丈夫だ」

 俺は笠原の肩を借りて立ち上がる。着ていた服は泥で汚れていた。

「本当に大丈夫かよ?歩けるなら一旦星の家に戻ったほうがいいんじゃねえのか?」

「……本当に大丈夫、ただの立ちくらみだ。それより笠原、ありがとうな」

「あ?……あぁ、気にすんなよ。別に今更泥がついたくらいどうでもいい」

「いや、そうじゃなくて」

「は?」

「昨日言ってただろう?勝手な思い込みは捨ててもっと人の話に耳を傾けろってやつ」

「言ったけど……もしかしてさくらの居場所が分かったのか⁉︎」

「おかげさまでな、思い当たる場所が一つある。それは」

 その時俺のズボンのポケットから振動を感じる。それはスマホの着信によるもので幸いまだ水没でイカれてはいないようだった。ディスプレイを確認すると晶からの着信だったため俺は電話に出る前に笠原に再び話しかけた。

「ちょっと電話に出るからその間お前は洋平をここに来るように電話で呼び出してくれ」

「その電話掛けてきてるのが星なんじゃねえのかよ?てか家空けても大丈夫なのかよ?」

「そこらへんの説明は電話の後にしてくれ。今はとにかく人手が欲しいんだ」

「……分かった」

 笠原はそういうと自分のスマホをズボンのポケットから取り出し電話をかけ始めた。防水仕様なのかは分からないが笠原のスマホは生きているようだった。

 その様子を確認した後俺はスマホの通話ボタンを押す。

「もしもし!草野くん!さくらちゃんは見つかりましたか⁉︎」

 スマホを耳元に当てるや否や晶の声が聞こえてきた。

「まだ見つかってはいない、晶は今どこにいる?」

「そうですか……私の方は今駅に着きました。それですぐにでもそちらに合流しようと思うんですけど草野くんはどちらにいますか?」

「あーその前にお前にはやって欲しいことがあるんだ」

「やって欲しい事?なんですか?」

「それは—」

 

 

 外の天気は相変わらず大荒れで雨が弱まる様子はない。大雨と日の出前のせいで視界は最悪と言ってもいい。そんな状況の中ポツンと地面付近に見えるオレンジ色の何かがかえって異質な物として目立っていた。

「こんな所にいたのか」

「え?」

 歩道橋の階段の下に佇むオレンジ色の物体の正体、傘を差したまましゃがみ込んでいたさくらちゃんがこちらを見上げた。その顔はまるで信じられないものを見ているかのように驚いた表情をしている。

「探したぞ、本っっっ当に」

「……なんで」

 目の前の光景がまだ現実として受け入れられないのかさくらちゃんは思ったことを素直に口にした。

「その前に皆に連絡させてくれ。あいつらも必死になってさくらちゃんのことを探してたんだからな?」

 俺はそう言いながらスマホを取り出すと笠原に電話を掛けた。

「もしもし俺だ。さくらちゃんが見つかった。あぁ無事だ、今歩道橋の下にいる。お前の方から洋平に連絡入れて一緒に来てくれ。それじゃ」

 簡潔に重要なことだけを伝えて電話を切るとそのままスマホをズボンのポケットにしまい込んだ。

「近くにいるしすぐ来れるってさ、来たらちゃんと謝れよ?できるよな?」

「……うん」

 無事見つけることができた安堵が心の中を埋め尽くしていたとはいえやはりこれだけは言っておかなければならないと思ったのでやや真面目なトーンでさくらちゃんに注意をした。

 その雰囲気を察したからか初めて俺から注意されたからかは俺には判別つかないもののさくらちゃんは反省した様子で二人の間にはしばらく会話はなく雨が地面を激しく叩く音だけがその場に流れている。

「よっこらせっと」

 俺はさくらちゃんの隣に移動してその場にしゃがみ込んだ。

「いーちゃんのことがそんなに心配だったか?」

「……!」

 さくらちゃんは黙ったままこちらを見るがその表情はまるで俺に心の中を見透かされたかのような発言に対して驚きが隠せないといったものだった。

「その様子だとどうやら正解みたいだな、それと安心していい。いーちゃんはちゃんと家族に会えたし今も元気に暮らしているよ」

「……本当?」

「本当だよ。実はいーちゃんのママとは知り合いなんだ……そういえば写真があったっけ。見るか?」

 俺はスマホを取り出して画像フォルダを開き目当てのものを見つけるとさくらちゃんに渡す。

「……」

 さくらちゃんはスマホを持ったまま動かない。いや違う、僅かにだが彼女の肩は震えていた。

「……ひぐっ」

 さくらちゃんの持つスマホにポツリポツリと水滴が落ちる。さくらちゃんは俯いてこちらから顔色は伺えなかったがそれが雨によるものではないことだけは分かった。

 俺はさくらちゃんの頭にそっと手を乗せる。

「友達のためによく頑張ったよ、さくらちゃんは」

「……うわぁぁん!」

 外の世界の恐怖や黙って家を出たことによる俺たちへの引け目、それにいーちゃんを気にかける思いといった彼女の中で溜め込んでいた様々な感情が安心したことによって一気に涙となって溢れ出る。

 俺は彼女の頭に置いていた手を肩の方までずらすとそっと俺の体に引き寄せた。さくらちゃんは俺に体を預けると持っていたオレンジ色の傘を手放し両手を俺の腰へと回して力強く抱きしめると顔を俺の体に埋めたまま大声で泣き続けた。

 今は好きなだけなけばいいさ。

 心の中で呟き俺は彼女の背中をさすりながら笠原たちが来るのをただ待ち続けた。

 

 

 さくらちゃんに抱きつかれたままでいることおよそ五分、少し遠くの方から二人の人影がこちらの方へと走って近づいてくる。

「よお」

 俺は走ってきた二人、笠原と洋平に声をかけた。

「ようやく見つけた……っておい、何が合ったんだよ⁉︎」

 おそらくここに来るまで全力疾走をしていたであろう笠原が俺に身を預けているさくらちゃんの姿を見て息も絶え絶えに驚いた表情で俺に尋ねる。

「大丈夫。疲れて眠っているだけだ」

「……ったく自分勝手なやつだな。疲れてんのも眠いのもこっちの方だってのに」

「まあそう言ってやるな。さくらちゃん昨日の晩もろくに飯食ってなかったしあまり寝れてもいないんだろう?見知ったピカを見てそれまで張り詰めていたものが切れたんだろうし説教はひとまず家で休ませてからにしようぜ」

 洋平が毒づく笠原の肩に手を置いて宥める。

「分かってるって。草野、こいつは俺がおぶって帰るから体を起こすの手伝ってもらっていいか?」

「あぁ、頼んだ」

 俺は寝ているさくらちゃんをゆっくり抱きかかえると身をかがめた笠原の背中に彼女を預けた。

「よっと……なんだ、こいつ結構重いな」

「バスケ部のエース様ならそれくらい朝飯前だって言ってくれよ」

 洋平が揶揄うように言った。

「うっせえ、ほらさっさと帰るぞ」

 笠原は背中で眠るさくらちゃんを片手で支えると空いたもう片方の手で傘を開いて洋平の家の方へと歩きだしたので俺達もそれに続くようにして後を追った。

 

 

「それにしても本当にお前の考えが当たってたとはな」

 洋平宅に向かう道中、不意に笠原が話しかけてきた。

「まあ一か八かなところはあったから見つかって正直ほっとしてる」

「だとしても二週間近くも前に偶然見かけた捨て猫の様子が気になって家を出たなんてさ、そりゃあこいつのとった行動も信じられねえけどそれを思いつくお前の頭もどうなってんだって話だよ」

「だから一か八かだったって言ってるだろう。想像力を働かせただけで別に人より賢いとかそういう話じゃない」

 事の顛末はさっき笠原が言った通りこの街で偶然出会った捨て猫、彼女曰くいーちゃんがこの大雨の中無事でいるのか心配で様子を見るために洋平の家を飛び出したといういざ蓋を開けてみればあっけない瑣末なものだった。

 俺達は晶づてに浜崎さんから聞いた情報をもとに彼女がいーちゃんを拾った場所に向かったが既にその場所にさくらちゃんはいなかったため手分けして付近の捜索を始めたところ俺が歩道橋の下にいたのを偶然見つけたといった具合だ。

「だからそれがすげえって言ってんのに何で分かんねえかな……でも何でその考えに辿り着くことができたんだ?結局俺達はろくに説明も受けないままお前の言う通り動いてたからそこらへんいまだにピンときてないんだけど」

 これでも結構疲れてんだけどな……前の方を見ると洋平は俺たちよりも少し先を歩いていてこちらの会話が聞こえている様子はない。

 まあ、笠原も言うように俺の指示にたいして文句も言わず従ってくれたんだから種明かしくらいはしてやるか。

「……さくらちゃんの行動に不可解な点があったっていう話はさっきもしただろ?」

「あ?あぁ、俺と初めて会った時手ぶらだったていう話か?」

「そうだ。本来この街に土地勘のないはずの彼女が何も持たずに徒歩でお前のところまで来られただなんて普通に考えれば無理がある話だからな。俺は少なからず地図に似た何かやもっと言えば数日間の宿泊道具なんかも親から持たされていたんじゃないかって考えた」

「その辺りはさっきも聞いた話だな」

 続きが気になっているようだ。順番に説明してるんだからちょっと黙っていてほしい。

「ならさくらちゃんが持っていた荷物はどんなものだったと思う?」

「荷物?どういうことだ?」

「言葉通りの意味だよ。さくらちゃんは宿泊道具や何やらをどうやって持ち歩いていたのかってこと」

「そりゃあ……リュックとかキャリーケースとかそんなんだろ?」

「それじゃあ答えとして不十分だ。リュックとキャリーケースのどっちだ?」

「どっちって……そんなの分かる訳ねえだろ」

「考える前から諦めんなよ。それに別に難しく考えることはない。さっきも言ったけど必要なのは想像力だ」

 俺がすぐに答えを教えるつもりがないと察した笠原は諦めて自分で考えはじめた。

「ったく……こいつの持ち物で考えられるのは宿泊道具とかだよな。それで道具の中身は主に着替えが数日分とかだから……そう考えると結構な荷物になるしキャリーケースか?」

「それは俺にも分からない」

「おい!」

 背中で眠るさくらちゃんを起こさないように気をつけながら笠原が切れた。

「仕方ないだろう、答え合わせはさくらちゃんが起きてからにしてくれ。でも俺も同じ結論に至った。この前さくらちゃんの洋服を買いに行ったがあの量を子供用のリュックに詰め込むのは多分難しいし背負って歩くのだって一苦労だろうしな」

「じゃあこいつが持っていたのがキャリーケースだったとしてだ。それが何の手がかりになるって言うんだよ?リュックでも別に状況は変わらねえだろう?」

「いや、キャリーケースであればさくらちゃんが途中で荷物を手放した理由として考えられる候補が一つ増える」

「はぁ?」

「両手が塞がっていた場合だよ。当然だろう?リュックと違ってキャリーケースは手で持って運ぶんだから両手が塞がっていたら運べない」

「そりゃあそうだけどよ……つまりこいつは途中でキャリーケースを捨てて何かを両手で持って運んだってことか?何を?何で?」

 ついさっき考える前から諦めるなと言ったばかりなのにこいつときたら……

「そのさくらちゃんの拾ったのがいーちゃんだったんだよ」

「……全然分かんねえから解説を頼む」

「またさくらちゃんの不可解な言動について話が戻るが俺との会話で彼女は大切なみゃーくんを友達のいーちゃんにあげてしまったと言ったんだ。俺達は知り合ったばかりの友達に自分の大切な物をあげたという点にばかり目が行っていたが考えてみればそれ以上におかしな点が他にあった。なぜさくらちゃんはいーちゃんとすぐに友達になれたのか」

「あぁ……」

 ここまで言ってどうやら笠原も気づいたらしい。

「本人がすぐそばにいるのにこう言うのは気が引けるがさくらちゃんはすぐに他人と打ち解けられるようなタイプではないだろう?聞けば普段から引きこもりがちだと言うし俺たち以外の人に対してもそれは同じと考えるのが自然だ。それなのにいーちゃんとだけはすぐに仲良くなれただなんておかしいよな?それに不可解な点は他にもある。俺がいーちゃんの居場所を聞いた時さくらちゃんは分からないと言っていたと思っていたがそれは正しくない。正確には『智樹お兄ちゃんの所に行く時に会っただけだから多分どこかに行っちゃったと思う』って言ったんだ」

「……こいつ俺のことそんなふうに呼んでんのか?」

「大事なのはそこじゃない。俺が気になったのは『多分どこかに行っちゃったと思う』の部分だ。その時は子供特有の変な日本語の使い方くらいにしか思わなかったがちゃんとさくらちゃんは本当のことだけを言っていたんだよ。まあより正確に『多分誰かに拾われてどこかに行っちゃった』くらい言ってくれれば話はもっと早かったんだが」

「……」

 ここら辺で笠原の相槌あたりが来てもおかしくはなかったんだがなぜか黙り込んでいるので無視して続けることにした。

「一緒に数日暮らしてみて分かったけどどうやらさくらちゃんは動物のことが割と好きみたいだったしぬいぐるみのことも家族のように扱っていた。そんな彼女がすぐにいーちゃんと友達になれたって言うんだからひょっとしたらって思ったんだよ。幸い俺も人ではないいーちゃんには一匹心当たりがあったんでな……おい、ちゃんと話聞いてるか?」

 さっきから笠原の様子がどこか心ここに在らずといった状態だったので気になって声をかけた。これじゃあ俺が話したくて話してるみたいじゃないか。

「……あぁ、ちゃんと聞いてたって。お前の話でさくらとその捨て猫に関係性があったってとこまでは分かった。けどよ、キャリーケースを手放して捨て猫を運んだ理由についての説明はまだなんじゃねえか?」

 ちゃんと聞いてやがった。それなら無視はやめてほしい。

「それもさっきの説明の繰り返しになるんだが……俺が何でみゃーくんをいーちゃんにあげたのかって聞いた時さくらちゃんは『ひとりぼっちで可哀想だったから』って言ったんだよ。これを聞いてお前はどう思う?」

「どう思うって……そうだったんだなくらいにしか思わねえよ。さっきのさくらの台詞と違って違和感を感じるところなんてどこにもない」

「そうだよな、段ボールの中に一匹子猫が捨てられていてピーピーないていても誰もその猫を気にも止めようともしない。お前が想像したのはこんな光景だろう?」

「ピーピーはないてなかったけどそんなところだよ。お前は違うって言いたいのか?」

「その想像した光景が間違っているとは言わない。お前の言う通り今回のさくらちゃんの台詞に不可解な点はないんだからな。ただもう一つの解釈の仕方があるんじゃないかって俺は思うんだよ」

「何だよそれ。勿体ぶらずに早く言えって」

 俺の考えを聞くのが待ち遠しいのか笠原の語気や態度が荒くなる。こうも期待されると焦らしたくなる気持ちも湧いてくるがそれでさくらちゃんを起こしてしまうのも申し訳ない。

「子猫が人目につかないような場所でひとりぼっちでないていたっていう考え方だよ。その場合ならさくらちゃんが偶然子猫、いーちゃんを見つけたと考えれば彼女がキャリーケースを手放した理由も説明がつく」

「……わざわざ人目のつきそうな場所に子猫を運んで移動させたってことか」

「さくらちゃんといーちゃんの接点に気付いてからはそれを補強する根拠をひたすら想像する作業だ。捨て猫を拾った浜崎さんの家は晶が言うには駅の方向とは違うみたいだからさくらちゃんはバスを利用した可能性が高い。でもうちの高校に一番近いバス停はなぜか学校からもアウンからも中途半端に遠くて人気がないし人通りが少ないんだよ。だから偶然いーちゃんを見つけたさくらちゃんはキャリーケースを手放していーちゃんを人目のつきそうな場所まで運んだ。その後荷物を取りに戻らなかったのは……これも想像するしかないが地図が使い物にならなくなって戻れなくなったからだろう。多分さくらちゃんが持っていた地図にはバス停から学校までのルートしか記載されていなくてそこから彼女は大きく外れてしまったからな。でも幸いその場所が浜崎さんの登校ルートでもあったように学生の往来は少なからずあったはずだ。バスケ部だってその日部活の試合があったんだろう?帰宅中の学生が向かってくる方へと歩いていけば時間はかかるが地図を持たずともうちの高校に辿り着けなくもない」

「……それであの時あんなに待たされたのか」

 ポツリと笠原が妙に納得したように呟く。

「これで種明かしは以上だ。どうだった?俺のツギハギだらけの想像話は」

「……ここまで想像に想像を塗り固めた話は初めて聞いたな。お前ならその気になれば今すぐ俺を大悪党にでも仕立て上げられるんじゃねえの?」

「お望みとあらばやってやろうか?」

「冗談だって。でも助かった。本当に。草野がいなきゃもしかしたら手遅れになっててもおかしくなかったし感謝してるよ。マジでありがとう」

 ふざけあっていたと思ったら笠原はいきなり真面目な面持ちになって俺に感謝の言葉を伝えてきた。今感謝の言葉がいくつあったんだ?

「やたらと感謝するな気持ち悪い。俺はラッパーの親になったつもりはない」

「はははっ!っておい、話し込んでたら星の奴めちゃくちゃ遠くにいるじゃねえか!追いかけようぜメーン?」

 誰がメーンだYO

 背負っているさくらちゃんを揺らして起こさないよう気をつけながら早足で洋平に追いつこうとする笠原の跡を追おうとした時ポケットにしまっていたスマホの通知音が聞こえてきた。

 スマホを取り出して内容を確認してから俺は先へと進んだ笠原を追いかける。

「今晶から連絡きて駅の方まで来てるみたいだからちょっと迎えに行ってくる」

「晶ちゃん?何で駅に来てんだよ?」

「簡単に事情を話して浜崎さんにいーちゃんを拾った場所を聞いてもらってたんだよ。俺がこんな時間に電話しても出てくれるか怪しかったからな。そしたらあいつもさくらちゃんを探すって聞かなくてさ、まあ結局無駄足に終わったわけだが」

 俺はその場で適当にでっち上げた嘘を笠原に伝えた。

「そうか、晶ちゃんにも迷惑かえちまったな……分かった、会ったらお礼を言っといてくれ」

「了解。ここからだと……一回引き返した方が早いかもな。それじゃあまた後で」

「おう」

 簡単に挨拶を済ませると俺は踵を返し晶の待つ駅の方へと向かった

 

 

「あ、草野くん!」

 駅に到着すると雨に濡れないように入り口の手前で晶が立っていた。見たところ晶は雨具類を持っておらずリュックだけを背負った身軽な装備だった。恐らく動きやすさのことを考えて傘ではなく雨ガッパをリュックの中に仕込んだのだろう。

「悪い、随分と待たせてしまったな」

 俺は晶に近づきながら持っていた傘を閉じる。

「いえ、さくらちゃんが見つかったんですからそれくらいどうってことないですよ!」

「……」

 晶の顔を見る。見かけ上は明るく振る舞っているし顔色だって悪くない……だが。

 俺はもう一歩晶に近づくと彼女に背中を向けて身を屈める。

「……草野くん?」

「乗れよ。洋平の家までおぶってやる」

「え⁉︎い、いやいいですよ!おぶってもらうなんて恥ずかしいですしそれに草野くんだってお疲れでしょうし!」

「この状況で外出歩いてる奴なんて俺達くらいしかいねえよ。それに疲れてんのはお前の方だろうが」

「あうぅ」

 晶は俺に言いくるめられて断る言葉が出てこないようだった。

「早くしろ。いつまで俺をこの体勢のままにするつもりだ?」

「……絶対に重たいとか言わないでくださいよ?絶対ですからね!」

「思わねえよ」

「じゃあ……お言葉に甘えて」

 そう言うと晶は恐る恐る俺の背中に体を預けてきた。手を俺の体の前に通したのを確認すると俺は片手で晶の体を支えながら立ち上がる。

 ……なるほど、そういえばこいつってろくに運動しない癖に飯だけは一丁前に洋平と同じくらい食ってたっけ。それなら納得がいく。

「あ!今絶対重たいって思ったでしょ!言わないって約束したのに!約束したのに‼︎」

「だから言ってねえだろうが、それより暴れんなって……んぐぅ⁉︎」

 突如背中で暴れ出した晶を落とさないように支えていると晶は俺が抵抗できないことをいいことに首を絞めてきた。

「私は重たくなんかないですから!そうだ、リュック!リュックのせいです!」

「分かった……それでいいから手を離せ……」

 何とか声を絞り出してそう言うとようやく首から晶の手が離れた。

「もう!ちゃんと反省してくださいよ?」

「ゼェ……ゼェ……言ってねえのに……」

「何か言いました?」

「……いや何も。それじゃあ行くか」

 俺は改めて体勢を立て直すと傘を開いて駅を出た。

 

 

 洋平の家に向かって歩き始めて数分が経った。先程までは焦りや不安を増幅させるしかなかった雨が傘をたたく音は相変わらず弱まる気配はないというのに心に余裕が生まれた今となっては僅かばかりの心地良ささえ感じる。

「草野くん」

 しばらく黙っていた晶が突然話しかけてきた。背負っているせいで普段とは比較にならないほど顔が近く耳元で声が聞こえるため思わず心臓の動きが跳ね上がる。

「なんだまだ起きてたのか、寝ててもいいんだぞ?」

「いえ、大事なことがまだ言えてなかったので」

「大事なこと?何だよ?」

「お礼ですよ。今回のことは本当にありがとうございました。さくらちゃんのことを見つけられたのは草野くんのおかげです」

 俺の体に回していた晶の腕に少しだけ力が入るのが伝わってくる。その言葉を聞いて俺の心が僅かに濁るのを感じた。

「何言ってんだよ、冗談でも笑えない」

「冗談なんかじゃないですよ。本当に感謝してるんです。草野くんからさくらちゃんが見つかったって連絡をもらった時ようやく助けることができたんだって」

「やめろよ」

「え?」

 俺は我慢ができずに晶の言葉を遮った。

「やめてくれ。俺はお前にだけは感謝される資格はない」

「そんなことないです!だってさくらちゃんが見つかったのは草野くんのおかげで」

「俺じゃないだろう。俺は何もしていない。俺はただ……お前の言った通りに動いただけだ」

 俺は言葉にしたくない気持ちを押し殺して何とか振り絞るようにして声を出す。雨音のせいもあって最後に口にした言葉は自分でも聞き取れるかどうかといったくらいに小さかった。


 俺は洋平の家で眠っていたら突然晶から電話で起こされてさくらちゃんがいなくなったこととさくらちゃんがいる可能性のある場所、そして以前の俺がそれに思い至った経緯を説明だけされて後は言われるがままに行動していたに過ぎない。


「それは……そうですけどでもさくらちゃんが猫ちゃんを拾った場所に向かったことを思いついたのは草野くんです」

「でも実際は間に合わなかったじゃねえか!」

 思わず荒げた声が出てしまう。

 結局晶がタイムリープをする前の俺達はさくらちゃんを見つけることは叶わなかった。その時間の浜崎さんはまだ眠っていて晶からの電話に出ることはできずいーちゃんが最後にいた場所を特定することもできなかったからだ。

「何を……何で草野くんは怒ってるんですか?」

 晶は本当に今の状況が理解できていないようで心配そうな声で俺に聞いてきた。

「俺は……俺が許せねえんだよ」

「どういうことですか?」

「別に俺は自分のことを特別頭がキレる奴だなんて思っちゃいない。受験にだって失敗してるしこの間なんかは人を猫と勘違いしてたくらいだ。所詮最後の肝心なところではうまくいかない半端な奴なんだよ。そんな俺がさくらちゃんを見つけ出すことができたって……じゃあ聞くけど晶、本当は何度さくらちゃんを助けることができなかったんだ?」

 さくらちゃんが見つかった今でも分からないことはまだある。さくらちゃんの持っていたであろうキャリーケースの行方は?学校までの行き先が記載された地図はどこにある?

 いくら頑張ったところで俺の頭脳なんてそんなものだ。想像力をどれだけ働かせたところで所詮は想像。今回のように上手くいく可能性なんてサイコロの目を言い当てるよりも低いのは分かりきったことだ。それは裏返せばその分晶がさくらちゃんを助けられないという経験を重ねた可能性が高いということに他ならない。

「……」

 晶は何も答えない。顔色を如何うことはできないが流石にこのタイミングで眠ってしまったということはないだろう。

「聞き方が酷だったか?嫌なら別に言わなくてもいい。どうせ言ったところでそれが真実かどうかを検証する術は俺にはないしな。ただ今朝電話でお前から聞いた説明をそのまま鵜呑みにする程俺は俺のことを信じちゃいないし何よりお前は優しすぎる。他人のために誰からも感謝されることのないその能力を使うお前なら俺に余計な心配をさせないための嘘の一つや二つくらい平気でつけるだろうな」

「……だから怒ってるんですか?私が人のためにタイムリープを使ったから。本当は何度も何度もたくさんタイムリープしてその度にさくらちゃんを助けられなかったことを草野くんに黙っていたから……だから草野くんは怒っているんですか?」

 怯えているとも恐れているとも判断のつかないような声色で晶が聞いてきた。そして言い方から察するにやはり晶はタイムリープを何度も行っていたらしい。だとしたらこいつは一体いつから寝ていないのだろうか。

「それは違う。さっきも言ったが俺が許せねえのは俺だけだよ。きっと俺はさくらちゃんをすぐ助けることができないことは薄々分かっていてお前にタイムリープを使わせることを前提にして行動していたんだ。お前から聞く俺の行動は危機が迫った状況の割にはどこか少しだけ余裕がある。洋平が自宅付近に待機するのを見逃したり捜索を中断して笠原の記憶を思い出させたり……しかもそうした無駄の多い行動をとったということを晶づてでわざわざ今の俺に知らせてるってこともいやらしい。それは今回も当てが外れてさくらちゃんが見つからなかった場合は晶のタイムリープに頼る前提で動けっていう俺だけに伝わるメッセージなんだ」

 自分の凡庸さと性格の悪さをよく理解理解しているからなのかこれだって単なる想像でしかないのに不思議と確信に近いものがあった。

 晶は電話の向こうで何度俺に対してさくらちゃんを助けられなかったと涙混じりに謝ったのだろう。その声を聞いたはずの俺はどんな気持ちでタイムリープ先の俺にだけ伝わるメッセージを晶に託したのだろうか。

 分からないことは多いし想像するだけでも吐き気がしてくる。

「お前の辛さを本当の意味で分かってやれる奴も、肩代わりしてやれる奴もどこにもいないってことを俺は十分理解していたはずなのに……それなのに俺は結局心のどこかで最終的にはその力に頼ればいいやって考えて行動していて……今の俺にもそうする以外の方法が思いつかねえことが許せねえんだよ!」

 だから全部言ってやった。肝心なところで役に立たないくせに俺にだけ伝わるメッセージなんて卑怯なアイデアだけは思いつくクソ野郎は罰せられるべきだと思った。少なくともこんな奴が晶から感謝されるだなんてことがあっていいわけがないだろう。

 晶は何も答えなかった。いっその事途中で眠りに落ちて俺の話を聞いていなかったなんてことにはならないかと未だに邪な期待をしてしまう自分が心底嫌になるが背中から伝わる震えがその可能性を否定していた。

 だがこれでいい。悲しませて泣かせるくらいのことをしたんだから当然だろう。

「ふふっ」

 沈黙を貫いていたはずの晶の口から声が聞こえてきた。いや、これは声というか—

「ふふっ……ふふふふ……あははははっ!」

「おい!何笑ってやがる!」

 晶は今までに見たことがないくらい大声で笑っていた。

 震えていたのも泣いていたからではなくただ笑いを堪えていただけだったみたいだがだとしてもなぜそうなっているのか全く想像がつかない。

「すいません、そんなことで怒ってたのがおかしくておかしくて。草野くん真面目な感じだったので我慢しようと思ったんですけど……ふふっ、無理でした!」

 全く悪びれた様子もなく謝罪を口にしながら晶は目元を手で拭っていた。違う。俺の予想していた涙はそっちじゃない。

「さっきのどこに笑える要素があんだよ?俺はお前を利用するような真似をしたんだぞ?」

「草野くんが今言ってるのって『さくらちゃんが家からいなくなった後名探偵みたいに居場所をすぐに特定できなかった俺は無能すぎて辛い』ってことですよ。そんなの流石に自意識が過剰すぎますって。それに私を利用するしか方法が思いつかなかったって、私の事情を知っていれば誰だってそう考えるでしょう?そんなのただの考え方の問題ですよ。草野くんは完璧じゃないし私だって同じです。でもそんな二人が力を合わせたからさくらちゃんを無事に助けることができた。そのことを喜んでお互いがお互いにありがとうを言って家に帰ればいいだけの話じゃないですか」

 晶は平然としながらそう言った。それは心の底から思っている嘘偽りのない言葉なんだと思う。

「……お前がそう言ってくれるのは嬉しい。その言葉で内心救われた部分もある。でも俺の中にあるお前に対する罪悪感は完全には消えないし消しちゃいけないものだとも思うんだ」

 だから俺も本心を返した。晶のいうように考え方の問題であってもそう考えてしまった時点で俺の中に既に罪は生まれてしまっている。たとえ考え方を変えようと考えたことは変わらない。罪は消えないんだ。

「だからそんなこと私は気にしていないんですよ。じゃあ私も草野くんに謝りましょうか?『自分一人で問題を解決できずに草野くんを利用してしまってごめんなさい』って」

「それだけは絶対にやめてくれ」

 流石にこれ以上罪悪感を重ねては晶を背負うこともできなくなりそうだった。

「当たり前でしょう。そんなの私だってしたくありません。でも草野くんがしていることってそういうことですよ?」

「……」

「それでも、駄目なんですか?」

「……すまない」

 最後まで俺は晶の望む言葉をかけることはできなかった。ただ互いに感謝だけを伝えて喜びを分かち合うような対等な関係でいることは俺にはできない。そしてそれは何も今日のことがあったからじゃない。きっとお前は悲しむだろうから今まで言えなかったしこれからも言うつもりはないけど俺は昔からお前のことを心のどこかで崇めてしまっているんだ。

 神様じみた能力を持っているからか、実際にその力で助けてもらったからなのかは今となっては俺にも分からない。ただ言いようのない漠然とした畏敬のような気持ちを晶に対して密かに持ってしまっていた。彼女がそれを望まないと分かっていたのに。

 これは絶対に晶に知られてはいけない秘密であり俺の抱える罪の本当の形。晶に他人のために能力を使わないように約束させた理由だって本当は大層なもんじゃない。晶が悲しむと分かっていてもそんな姿を目の当たりにすれば嫌でも崇める気持ちが抑えられないから。ただそれだけだ。それだけのことなのに想像しただけで俺は罪悪感で死にたくなる程苦しくなるんだ。

「……はぁ、もう良いですよ。結局水掛け論になっちゃいそうですしなんだか疲れちゃいました。ふぁあ……申し訳ありませんが……このまま眠っても良いですか?」

 晶は一つため息を吐くとあくび混じりに会話を切り上げることを提案してきた。

「あぁ、家に着いたら起こしてやる」

「お願いします……おやすみな…さぃ」

 気を失ったと言い換えても良いくらい晶はあっという間に眠りについた。それだけ無理をしていたということなのだろう。一分も経たない内に耳元には晶の寝息の音が入ってきた。

 これだけ晶と密着していると普通の女子なんだと改めて感じる。いや、密着していない時だってこいつが普通の女子であることに変わりはない。普通に飯を食って普通に学校……には行ってないかもしれないが普通に勉強して普通に友達と話して普通に家に帰る。

 それでいて多分、俺のことが好きなんだろう。

 漫画やアニメで見るような持て余した力に溺れて悪に堕ちるようなタイプではないことは分かっているし俺だって普段は能力の事を意識しないように接しているつもりだ。それなのに時折俺の心に晶に対する畏敬の気持ちが広がる瞬間がある。もっと言えば畏敬と表現するのが正しいのかどうかも分からない。まるでコーヒーにミルクを垂らした時のように黒でも白でも灰色でもない濁った何か。それが俺の心を埋め尽くす時のことを考えるとどうしようもない不安に駆られる。だから晶の気持ちに応えることはできない。

 いつか俺の抱える秘密については伏せたままその事は伝えなければいけないとは思ってはいる。ひょっとしたら既に伝えたことがあって晶はそれをなかったことにしたのかもしれない。 もし仮にそうであったとしたら今の曖昧な状況は曲がりなりにもこいつが望んだ形ということだしそれはそれで良いとも思う。卑怯な考えだが俺にとっても今の距離感が最も居心地がいい。

 

 そもそも神様なんてものがいたとしてなんでそいつは晶に神様じみた力を与えたのだろう。

 人のため?社会のため?世界のため?どれも馬鹿げている。そんなに何かを救いたければてめえが直接やればいいだけの話だ。それなのにわざわざこんな普通の人間に過ぎた力を与えて使い方を試すような真似しやがって……そのとばっちりで俺が面倒くさい性格になっちまったじゃねえか。

「……学校と一緒に神様も滅びてくんねえかな」

 そんな誰に聞かせる訳でもない独り言を呟きながら俺は洋平の家へと帰っていった。

 

 

「だーれだ?」

 ある日の朝、いつものように学校に向かっていると背後から近づく何者かの手によって俺の視界は塞がれた。

「……」

 俺は質問に答えることなくその手を払いのける。

「あぁっ!反則は駄目ですよ!」

「こっちは疲れてんだ、朝からお前の遊びになんか付き合ってらんねえよ」

 後ろを振り返るとくだらない悪戯を仕掛けてきた犯人、晶は不服そうな表情でこちらを見ていた。

「むうぅ、せっかく一緒に登校してるっていうのにツレないです……だいたいまだ学校にも着いてないのに何を疲れることがあるんですか!」

「お前今が試験準備期間だってこと忘れてるだろう?」

「そういえばそうでしたね」

 こいつは……

 俺は突然の目隠しによって止まっていた足を再び学校に向かって動かし始めた。

「あ、ちょっと!待って下さいよ!」

 晶は慌てて追いかけると俺の横に並んだ。

「もう、久しぶりに会えたからもうちょっと愛想よくしてくれると思ったのに」

「……体調の方は大丈夫なのか?」

「えー?もしかして心配してくれました?」

 晶は俺の顔を覗き込むとニンマリと笑った。

「そりゃあお前は風邪なんかこじらせるような奴じゃないと思っていたからな。こんだけ休んでたら少しは気にもするさ」

 さくらちゃん捜索の一件の後、晶は大雨の中外を出歩いたことや精神的な疲労が原因で体調を悪くしてしまい今日まで学校を休んでいたので今日は実に一週間ぶりの登校ということになる。

「素直じゃないですね草野くんは。でもおかげさまでこの通りすっかり元気になりましたよ!」

 そう言って晶は歩きながら目の前の誰もいない空間に向かって正拳突きを繰り出した。お前の元気の証明ってそれであってるのか?だとしたらお前が元気なところなんて今まで一度も見たことなかった気がするが。

「まあいいや、元気そうでなにより」

「はい。ただ私が寝込んでる間さくらちゃんと会えなかったのはどうしても心残りですね」

「風邪をひいてしまったものは仕方ないだろう。それに何も会えずじまいって訳じゃない。さくらちゃんが家に戻るのは今日の夜だから別れの挨拶をする機会はまだある」

「……そうですよね、私もちゃんとさくらちゃんにお別れがしたいです」

「あぁ、なら今日の放課後洋平の家に寄っていけよ。さくらちゃんもきっと喜ぶ」

「はい!」

 その後俺たちは今日の晩飯を何にするかや試験勉強の話など他愛のない会話を交わしながら学校へと向かっていった。



 その日の学校の授業が終わり現在時刻はもうすぐ午後七時を迎えようとしていた。

「限界だ!なあピカ、来ない奴はほっといて先に食っちまおうぜ?」

 テーブルに置かれた唐揚げを睨みつけながら洋平が言う。

「駄目だ。さくらちゃんのお別れ会も兼ねてるんだから全員が揃うまで大人しく待ってろ」

「ぐぬぬっ、だいたいなんで晶も笠原も来ねーんだよ!今は部活だって休みだし遅れる理由なんてないだろうが!」

 洋平の家では俺と洋平、さくらちゃんの三人が既に出来上がった夕飯を囲みまだ来ていない二人の到着を待っていた。

「俺にキレられてもな。晶からは放課後用事を済ませてから向かうとだけ聞いているが……まあこれでも眺めて落ち着けよ」

 俺はそう言いながら洋平に英単語帳を手渡した。

「ファック!」

 洋平は俺の英単語帳を叩き落としながら叫んだ。

「おい!さくらちゃんにそんな言葉聞かせんな!」

「……ふぁっく?」

「覚えなくていい!忘れなさい!」

 空腹によって俺も洋平もイラついていたこともありあと一悶着でもあればお互い手を出してもおかしくない雰囲気を醸し出していた中、突如リビングの扉が開いた。

「お邪魔します!いやぁ遅くなってしまってすいません!」

「お邪魔しますっと……お、唐揚げじゃん」

 扉の方に目を向けるとそこには晶の姿があり、少し遅れて笠原が遅れて入ってきた。笠原のの方は手に何やら大きめの紙袋をぶら下げている。

「おせえって!飯冷めちゃうじゃねえか!」

 洋平は遅れて来た二人に噛みついた。

「本当に申し訳ないです。用事の方が思いの外手間取っちゃいまして……さくらちゃんもごめんね?せっかくのお別れ会なのに遅れちゃって」

 晶は言葉通り申し訳なさそうな顔をしながらさくらちゃんに謝った。

「……ううん」

 さくらちゃんはそんなこと気にしていないと言いたげに首を横に振った。今朝予想していた通り久しぶりに晶に会うことのできた嬉しさの方が勝っているようだ。

「なあ、飯の後で食おうと思ってケーキ買って来たけどひとまず台所に置いとけばいいか?」

 笠原が紙袋から一回り小さい紙袋を取り出しながら言った。

「なんだ遅れた理由ってそういうことかよ。ならいいや。さっさと飯にしようぜ!」

 一人納得した洋平はさっきまでの怒りを引っ込ませ二人に席に着くよう促した。

「いや、だからどこに置けばいいんだって」

「そんなの適当に置いとけよ。それより早く飯!」

「……ったく」

 笠原は呆れた様子でため息を吐くと台所にケーキの入った紙袋を置くとテーブルの空いている席に着いた。

「これで全員揃ったな。じゃあさくらちゃんのお別れ会を始めようか」

 俺がそう言いながら飲み物の入ったグラスを持ち上げると周りもそれを真似するようにグラスを持ち上げた。

「乾杯」

「「乾杯‼︎」」



 夕食と食後のデザートも食べ終わりお別れ会を一通り終わらせた俺達はさくらちゃんを見送りに駅の前まで来ていた。

「これでさくらちゃんともお別れか……」

 先程まであんなに楽しそうにしていたはずの洋平だったが別れが近づいて来ていることを実感したのか惜しんだ様子でそんな言葉を吐いた。

「……星には色々迷惑かけたな」

「なんだかんだで楽しかったよ。また一人暮らしに戻るのが少し寂しいくらいだ」

「そう言ってくれると助かるよ……お前達もありがとうな」

 改めて感謝を伝えるのが照れくさいのか笠原はどこか力無さそうに笑いながら言った。

「あまり感傷的になりすぎるな。どうせ来週も学校で会うんだしその時後悔するぞ?」

「そうですよ!私も迷惑だなんてこれっぽっちも思ったことありません!」

「そうか……じゃあそろそろ行くか。さくらも最後に挨拶しとけ」

 笠原がさくらちゃんの背中に手を置きながら言った。

「あ、ちょっと待て」

 突然何かを思い出したかのように洋平が口を開いた。

「どうした?」

「俺も感傷に浸りすぎてすっかり忘れるところだった。ほらこれ」

 そう言って洋平は見送り行くだけなのになぜかわざわざ持ち歩いていた学生鞄から何かの入った袋を取り出すとさくらちゃんに手渡した。

「開けてみな」

 洋平に促されるままさくらちゃんが袋から中身を取り出すとそれは動物の図鑑だった。

「どうしたんだよこれ?」

 予想していなかった展開に俺は思わず洋平に尋ねる。

「何、せっかくだし餞別でもと思ってさ。さくらちゃん動物の本が特に気に入ってたみたいだったから本屋で良さげなの探して買って来たんだよ。あ、今度のはちゃんとふりがな振ってあるの選んだから安心していいぞ」

「……ありがとう」

 さくらちゃんは受け取った図鑑をギュッと大事そうに抱きしめながら言った。

「どういたしまして」

 洋平はそう言うとさくらちゃんの頭の上に手を置いてニカっと笑った。

「……そういうことならこれも今渡しとくか」

 目の前の光景を眺めながら笠原はそう呟くと自分の持っていた紙袋から何か大きな物を取り出した。ピンク色の大きなクッションのようなもので猫に似た形をしているそれはどこか見覚えのあるものだった。確かあれは

「みゃーくん!」

 あまりのサプライズにさくらちゃんは思わず先程まで大事そうに抱えていた洋平からもらった図鑑を手放すと笠原からみゃーくんを奪い取るようにして取り上げた。

 洋平の目の前で地面に落ちるおそらく買ったばかりの本。それを黙って見つめる洋平。そして図鑑の時以上に大事そうにみゃーくんを抱きしめるさくらちゃん。俺はどこに視線を移したらいいのか分からなかった。

「……」

「……」

「……悪りぃ、タイミング的にちょうどいいかと思って」

「……気にするなよ。あれってさくらちゃんが大事にしてた家族みたいな奴だろう?家族には勝てないさ」

「……本当悪かった」

「……ああ」

 辺りが一気に気まずい空気に包まれる。

「どうしましょう?私星くんの顔見れないんですけどどうしましょう?」

 俺にだけ聞こえるような小声で晶が打開策を求めてくる。

「俺もだ。というかどうしたんだあれ?もしかしてお前と笠原が遅れて来た理由って」

 俺がみゃーくんに見覚えがあったのは以前、浜崎さんから送られてきた捨て猫、今はいろはちゃんの画像の中に写り込んでいたからだった。

「はい。草野くんのおかげでみゃーくんは岩沢先生の所にあるのは分かったので細かい事情は伏せたまま夢子ちゃん経由で渡してもらえないか頼んだんです。それで先生が自宅にみゃーくんを取りに帰るのを待っていたら結構時間がかかっちゃいました。笠原先輩から渡してもらったのはその方が仲直りできるきっかけになるかもしれないしいいかなって思ったんです」

「お前……そういうことは早く言えよ。俺だけ何も用意してねえことになるだろうが」

 俺は小声で晶を叱った。当然餞別なんてものは用意してこなかったし今から駅の売店で何か買おうにもみゃーくんを超えるようなものは売っていない。洋平の二の舞になるのは目に見えている。

 かといってここで何も渡さないのもな……

「……おい、ちょっとお前の鞄漁るぞ」

 俺はすっかり灰になっている洋平に一応一言だけ断りを入れて鞄の中を物色した。

 灰は何も答えなかったが気にせず物色を続ける。そしてノートを取り出してまだ使われていない白紙のページを一枚ちぎると筆記用具の中からボールペンを借りて手早く必要な情報を書き記してさくらちゃんの元まで近づく。

「さくらちゃん」

 俺が声をかけるとみゃーくんとの二人だけの世界から引き戻されたさくらちゃんがこちらを向いた。

「悪い、実は俺さくらちゃんに渡すもの何も用意してなくてさ。急だったからこんなものしか渡せないんだけどよかったら」

 そう言って俺は先程こしらえた紙切れを渡した。

「……数字?」

「ああ、俺の電話番号……何か困ったことがあったら連絡してくれよ。別に困ってなくてもいい。遊びたいとか話したいとか……そうだ、俺の飯が食いたくなった時とかさ。とにかくせっかく友達になれたんだからまた会おうぜ」

 俺の編み出した苦し紛れの作戦。それは次回に持ち越すということだった。

「草野くん……なんか付き合ったことが一度もないのに初めてナンパに挑戦した人みたいですよ」

「黙ってろ」

 自分でもこんな物を渡すなんてどうかしてるとは思う。プレゼントで紙切れを渡すのなんて子供の時両親の誕生日に渡した肩叩き券以来だ。それだって親は自分の子供から貰うから嬉しいのであって俺なんかがさくらちゃんに渡したところで……

「ありがとう……ピカお兄ちゃん」

 さくらちゃんはそう言って抱きついてきた。

 突然のことに頭の中が真っ白になる。どう言うことだ?これは……喜んでもらえたと捉えてオッケーなのだろうか?

「あ、あぁ……いつでも連絡してこいよ?」

「うん……」

 俺は手持ち無沙汰になった手をさくらちゃんの頭に置いた。

 しばらくそのままでいるとようやくさくらちゃんは離れて地面に落ちている洋平から貰った図鑑を拾い上げて俺達のいる方へと向き直った。

「ピカお兄ちゃん……晶お姉ちゃん……洋平お兄ちゃん……智樹お兄ちゃん……みんなありがとう……大好き」

 さくらちゃんは一人一人の顔を見ながら名前を言うと恥ずかしそうに笑って感謝を伝えた。

「あぁ……俺もだ!」

「私もです!」

 晶といつの間にか肉体を再生させていた洋平が泣きながらさくらちゃんに抱きついた。

 さくらちゃんもそれに応えるかのように涙と笑顔がごちゃ混ぜになった顔で二人を抱きしめていた。

「草野はいいのか?」

 そんな様子を見つめながら笠原が俺に尋ねる。

「これ以上母性が溢れたら家に持ち帰ってしまいそうだから我慢するよ」

「……そうか。じゃあ別れの挨拶も済んだことだし悪いけどそろそろ出発だ。行くぞ、さくら」

 笠原がそう言うとさくらちゃんは名残惜しそうにしながらも二人の元から離れて笠原の手を繋ぎ駅の乗り場へと向かい出す。二人が改札を越えてその姿は徐々に小さくなっていくのを俺達は見えなくなるまで手を振りながら見送った。

「……行っちゃいましたね」

 晶が手を振るのを止めてゆっくりと降ろした。

「そうだな」

「じゃあ俺達もこれで解散にするか。晶はこのまま電車で帰るだろう?ピカはどうする?」

「……俺も今日は電車で帰るよ」

「え?いいんですか?」

「たまにはな。最近はフットサルも行けなかったから少しは余裕がある」

「てことは今日は俺一人か……嫌なんだよなパーティ終わりの残骸を一人で片付けんの」

 これからのことを思ってか洋平はうんざりしたような顔をしている。

「試験勉強も忘れるなよ?」

「分かってるって。ほらさっさと帰れ!」

 釘を刺すことを忘れない俺に追い払うような手振りをしながら洋平は言った。



「どうですか?久しぶりに電車で家に帰る気分は?」

「最高。一生乗っていたいくらいだ」

 俺は電車の座席に深く腰をかけて電車通学気分を満喫していた。乗車している人数は不思議と少なく座席には随分と余裕があった。普段乗らないからよく分からないが金曜の夜はなんとなく混雑しているイメージがあったので正直意外だ。それとも偶然混雑時の合間を縫えたと言うことなのだろうか。

「何言ってるんですかもう……それにしても色々なことがありましたね」

「そうだな」

「これが全部たった一、二週間の間に起きた出来事だなんて信じられますか?こんな刺激的な生活を続けてたら来年には私おばあちゃんみたいになっちゃうかもしれません」

「……」

 その言葉を聞いて俺の心は微かに濁る。

 晶にとってはなんてことのない冗談だったのかもしれないが笑って返してやることができなかった。

 当然だ。俺はこいつと違って警察で取り調べを受けた記憶もなければさくらちゃんを救えなかった記憶なんてものを何も持っていないのだから。俺みたいに辛かった記憶や経験は全てなかったことになんて晶はできないのだから。

「草野くん?聞いてますかー?今の笑うところだったんですよー?」

「なあ、今度また同じようなことがあってもさ……もう能力を使うのはやめとけよ」

「え?」

「やっぱりその能力って危険なんだよ。現にお前何日もぶっ倒れてさ。一々他の人のために使ってたら身がもたねえって」

 まるでお前のためを思って言っているというような口ぶりで思ってもいない言葉が平然と出てくる。でもそれは違う。俺はただ俺の知らないところでお前が辛い思いをしているかもしれないと想像することが怖いだけなんだ。

「……それは今回のさくらちゃんのようなことを言ってるんですか?」

「そりゃあ流石に今回みたいな大事はもう起こらないだろうけどさ、もしもまた何か問題が起きるようなことがあっても同じ失敗はしない。その時は俺が絶対なんとかしてやるからもうそんな無理はするな」

「はぁ。やっぱりその自意識の高さだけは今すぐどうにかなるものではないですね」

 晶はため息を漏らしながらそう言った。

「……俺のことは信用できないか?」

「そんなことないです。この前も言いましたけど草野くんは私が期待している以上のことを自分に求めているんですよ。別にいいじゃないですか人のことを猫ちゃんだと勘違いしても。猫ちゃんのことを人だと勘違いしても。そうやって間違い続けても頑張って正解に辿り着こうとする草野くんの方が私は好きです」

「……」

「まあこう言ってもどうせ納得してくれないのは前回のことで織り込み済みなので別にいいですよ。元々他人のために使わないことは私達が最初にした約束ですし。せいぜい私が無かったことにしたいと思う程の辛い目にあわずに済むよう頑張ってください」

「……ふっ、なんだよ最後の弱者目線と上から目線が手を取り合った言い方は」

 なんだかんだで晶が要求を受け入れてくれたことで俺の心に僅かな緩みが生じ思わず笑みが溢れた。

「さあ?ツンデレの新種とかなんじゃないですか?」

 晶は悪戯が見つかった子供のように笑い返しながら言う。

 俺達は静かに笑い合いながら僅かに揺れる電車に身を預け自分たちの住む街へと帰っていった。



 —遡ること数時間前。その日の授業は既に終わり草野達の教室には一人だけを残し誰も残っていなかった。

「失礼します。いやぁ遅くなってしまってすいません、随分待たせちゃいましたね」

 教室の扉が開き学生鞄と紙袋を携えた晶が中へと入ってくる。

「てっきり忘れられたのかと思ってたからホッとしたよ」

 笠原は自分の席についたまま読んでいた英単語帳を閉じると晶の方を見る。

「はははっ、忘れるなんてそんなわけないじゃないですか。放課後時間を作ってもらうようにお願いしたのは私の方なんですから」

「お願いね……でも二人きりで話がしたいって電話で言われた時は正直びっくりしたよ。気を悪くしたら謝るけどぶっちゃけ俺晶ちゃんとはそこまで仲良くなれたとも思ってなかったし」

「いえいえ、私もいきなり呼び出したりなんかしたら先輩は驚くんじゃないかなとは思っていましたので。気にしないでください」

「そうか、なら早速本題に入ってもらってもいいかな?さくらの送別会まであまり時間もないしさ」

 笠原は教室の壁に掛かっている時計に目を向けながら言った。

「あ、そうですよね!すいません私ったら。でも用事自体はすぐ済むので大丈夫です。先輩にどうしても渡したいものがあっただけなので」

 そう言って晶は慌てた様子で学生鞄をそばにあった机の上に置くと空いた手で紙袋の中身をゴソゴソと物色し始める。

「渡したい物?それなら別に送別会の時にでも」

「じゃじゃーん!」

 笠原の言葉を遮るようにして晶は紙袋の中から何かピンク色の大きな物を取り出した。

「……それは?」

 晶の取り出したそれは子供の肩幅よりも一回り大きいパッと見た限りぬいぐるみともクッションとも判別のつかない何かだった。本体部分に施された刺繍や取り付けられた耳のようなものからかろうじて猫をモチーフにした物であるということだけは笠原にも伝わってくる。

「あれ?ご存知ないですか?みゃーくんですよ!」

 晶はみゃーくんを両手で抱きかかえながら言い、笠原の方からは彼女のきょとんとした顔がみゃーくん越しに見え隠れしている。

「……みゃーくん?」

 一方で笠原の方も晶以上にきょとんとした顔で彼女の言葉を反芻していた。

「……そうじゃないかなと思ってはいたんですけどその様子だとやっぱり今回は草野くんからみゃーくんのことは聞かされなかったんですね」

「今回?ごめん、さっきから晶ちゃんの言ってることがよく分からない」

「あぁ、すいません。実はこれさくらちゃんの持っていたぬいぐるみなんですよ」

「は⁉︎マジで?」

 笠原は驚いた様子で椅子から立ち上がった。

「はい、さくらちゃんが先輩と初めて会う前に偶然捨て猫のいーちゃんを見つけたっていうのはご存じですよね?その時にさくらちゃんはいーちゃんが一人で可哀想だからという理由で持ってきていたこのぬいぐるみのみゃーくんをあげちゃったんですよ」

「……」

「でもせっかくならさくらちゃんに返してあげたいじゃないですか。それで夢子ちゃんにぬいぐるみをどうしたのか一応聞いてみたらやっぱり岩沢先生にいーちゃんを渡す時に一緒にあげたと言われたので夢子ちゃん経由で先生に返してもらうようにお願いしたんです。おかげで先生にみゃーくんを家に取りに帰ってもらったのでこれだけ時間がかかってしまったんですけど」

 晶は少し申し訳なさそうな顔をしながら言った。

「事情はなんとなくだけど分かったよ。でもなんでそれを俺に渡すんだ?わざわざ放課後まで俺を引き止めなくたってそれこそこの後の送別会で直接さくらに渡してもよかったんじゃないか?」

 笠原は今だに晶の行動の真意が掴めないといった顔をしておりその目つきはほんの僅かだがいつもよりも険しい。

「なんで?まさかここまで聞いて分からない訳ないですよね?だって先輩はさくらちゃん以上にこのぬいぐるみのことを探してたんですから」

「……随分とおかしなことを言うんだな。俺がそいつを探していたって?晶ちゃんが説明してくれるまで目の前に出されても何なのか分からなかったそれを?」

「確かにそれには私も多少驚きましたけどよくよく考えてみれば何もあり得ない話ではないです。さくらちゃんのお父さんはさくらちゃんがまさかこのぬいぐるみを手放すだなんて思ってなくて先輩に詳しい情報を教えなかったんじゃないですか?こんなにも目立つ見た目ですし女の子がぬいぐるみを持ってくるという情報さえあれば一目でこれのことだと分かりますもんね。おまけにほら、ここ見てくださいよ。何かが縫い付けられてるなぁっと思って見てたんですけどよく見たらこれバス停から学校までの地図なんです。きっとこれもさくらちゃんのお父さんがぬいぐるみを手放すことのないように保険を掛けてたんじゃないですかね?もしかしたらそれで安心しちゃって詳しい説明をしなかったのかも」

 そう言って晶はぬいぐるみの胴体周りに縫い付けられたゼッケンのようなものを指差す。おそらくマジックで手書きされたそれはそもそもぬいぐるみ自体のつくりが陳腐なためデザインの一種のようにも見えなくもないがよく見ると確かに他の箇所と比べて年季が新しく比較的最近付け加えられたものだということが分かる。

「ここでいきなり親父の話が出てくるか。そりゃああいつの事を偉く気に入ってるのはこれまでの付き合いで俺も分かってはいたけどそういう所は見習わなくてもいいと思うぞ?」

「まあ推測が先行しすぎてるのは否めませんけど……でも少なくとも平日だったここ五日間、先輩がこのぬいぐるみ、みゃーくんを探していたのは間違いないって断言できますよ」

「……どうしてそう言い切れるんだ?」

「だってずっと跡を付けてましたから」

 晶は平然とした顔で言い切った。

「嘘だろう?体調が悪くて学校に来ていなかったんじゃないのか?」

 先程の晶の台詞には驚かされたのか笠原の顔に隠しきれない動揺が広がる。

「うーん、これについては説明が難しいんですよね。本当のことを言っても信じてもらえないでしょうし。まあちょっとした裏技を使ったということにしてください」

「裏技?さっきから何を言ってるんだ?」

「だから内緒ですって。とにかく、私が尾行していたところ先輩は昼明川の辺りをずっと捜索していましたよね?まあさくらちゃんがキャリーケースを捨てた場所が分かったのは本人から聞いたからだと大方予想はつくんですが日をまたぐごとに徐々に範囲を下流に変えていた所を見るに先輩はキャリーケースの中にみゃーくんが入ってると勘違いしていたんじゃないですか?捜索範囲を変えたのはキャリーケースがこの前の大雨によって増水した川に流されたんじゃないかと考えたから。違いますか?」

「……」

 笠原は何も答えない。しかしその動揺した表情が実際に答えを口にする以上に雄弁に物語っていた。

「そんなところ探しても見つかる訳ないんですけどね。みゃーくんもキャリーケースも。なんならキャリーケースの方も今どこにあるか教えましょうか?」

「知ってるのか?」

 笠原は振り絞るような声で聞き返した。その声はまるで恐ろしいものと対峙しているかのように震えていた。

「はい。今は警察署に落とし物として届けられていますよ。まあおかげで大変な目にも遭いましたけど……」

 後半部分を笠原に聞きられないような小さな声で晶はつぶやいた。

「……それで晶ちゃんはどうしたいんだよ?」

「どうしたい、とは?」

「とぼけるなよ!そこまで言うってことはもう全部分かってるんだろう⁉︎俺を警察に突き出すつもりなのか⁉︎」

 笠原は声を荒げて晶に詰め寄る。

「止まってください」

 笠原の手が晶に届きそうになる寸前の所で晶が声を発し同時に笠原の手が止まった。

 晶の声は笠原とは対照的に今までになく落ち着いたものだったがその冷静さがかえって晶の言葉に逆らってはいけないと笠原に思わせる程の恐怖感を植え付けることになっていた。

「どうか判断を間違えないでください。こうした状況になった以上もはや先輩がこの場において自分で行動を選択することはできません。それでも変な気を起こそうとするなら待っているのは先輩が今想像した通りの未来です」

 晶がそう言い終えると笠原はまるで何かを諦めたかのように伸ばしていた手をゆっくりと降ろした。

「理解していただけたようで何よりです。それに安心してもらっていいですよ。私は先輩を警察に突き出そうなんて考えてはいませんから」

「……信用していいのか?」

「ええ、誰かを裁こうだなんてそんなの性に合いませんし面倒臭いだけなのでやりたくないですよ。私は別に神様でもなければ善良な一般市民という訳でもないんです。あ、もちろん先輩が私の出す条件を守っていただくことが前提ではありますけど」

「条件?」

「今日の送別会以降、今後一切草野くんに干渉することはやめてください」

 晶の出した条件に呆気に取られたのか笠原は口を僅かに開いたまま何も言えずにいた。

「どうしました?」

「いや、そんなことでいいのかと思って……というか草野は俺のしていたことに気づいていないのか?」

「当たり前でしょう。逆に聞きますけど今まで草野くんの何を見てきたんですか?あの人は最後の最後で大事なことを見落とすおっちょこちょいな人ですよ」

「……てことはこのことに気づいているのは晶ちゃんだけなのか?」

 笠原の先程降ろしたばかりの手がピクリと動いた。

「さっき変な気を起こさないように警告しましたよね?」

 晶はその手に冷たい視線を向ける。

「……」

「どうしてもこのまま草野くんと仲良くしていたいというのならどうぞ。その後どうなるかはご自分の目で確かめてください」

 晶は相変わらず冷たい目で突き放すように言った。

「……いや、やめておくよ。どう考えたってリスクの方がやばすぎる」

 笠原は悔しそうにそう言い捨てた。

「そうですか、懸命な判断だと思います」

「でも本当にそんな条件でいいのか?」

「はい。確かに本音を言えば迷惑な先輩には今すぐにでもこの街から消えて欲しいくらいですけど流石にそんなことをすれば草野くんも不審に思うでしょうし何より悲しませてしまいますから。これくらいの条件が落とし所なんですよ」

「……そんなに草野のことが大切か?」

「もちろん!草野くんは私にとって神様みたいな人ですから。草野くんが危険な目に遭いそうになれば私はどんなことでもしてでもそれを無かったことにして普通の人生を歩ませてあげるんです。これまでも、これからも」

 晶は先程までの表情とは打って変わって明るく笑いながら言った。

「……いかれてるな」

 頭の中で思った言葉が意識せず笠原の口から溢れる。

「そう思うのなら先輩はきっと誰かを好きになったことがないんですよ。誰かを本気で好きになれば普通の女の子にだってこれくらいのことはできるんです」

 晶がなんてことはないといった顔で自分の正当性を主張するのを見て笠原はもはや何も言い返すことができなくなっていた。

「ってもうこんな時間じゃないですか。サクッと終わらせるつもりだったのに随分と話し込んじゃいましたね……というわけで皆を待たせちゃってますし早く済ませちゃいましょう。私の出した条件に納得していただけるのならこのぬいぐるみを受け取ってください」

 そう言って晶は抱きかかえているぬいぐるみを笠原の前に突き出す。

「……条件を飲めば本当に俺のしていたことを黙っていてくれるのか?」

「それはもう、絶対誰にも言いませんし全部綺麗さっぱり忘れますとも!」

 笠原は少しの間逡巡した後、手を振るわせながら恐る恐るそのぬいぐるみを受け取ろうとするも晶の手はぬいぐるみを掴んだ手を離さない。

「くれぐれも約束を違えないでくださいよ?もしも私を裏切るようなことがあればその時は全部思い出しますから。本来お金に余裕のなかったはずの先輩が気前よくお金を払えていたことも。先輩のお父さんが突然姿を消した理由も。近頃この辺りの若い人が怪しい物を売って捕まったりしていることも。このぬいぐるみの中には何が入っているのかも……全部思い出しますから」

「あぁ……約束するよ」

 笠原がそういうとようやくぬいぐるみから晶の手が離れた。

「じゃあ話し合いも済んだことですし早く送別会に向かいましょうよ!あ、でも星くん達は怒ってるかな……何か買って行った方が良いかも。先輩はどう思います?」

「……ケーキとかで良いんじゃないか?」

「ケーキ!良いですね、私も食べたいです!実は駅の近くに前から気になってたお店があるので途中寄っていきましょう!」

 言うや否や晶は近くの机に置いていた学生鞄を手に取り教室の扉の前まで移動した。

「ほら、何してるんですか!ぐずぐずしてたら置いて行っちゃいますよ?」

 晶なりの約束を守るという意思表示なのかまるでつい先程までのやり取りがなかったかのように無邪気に振る舞う姿を見て笠原はさらに恐怖を覚えるのと同時に二度と晶に逆らうことはできないのだということを理解した。

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君がないていたから 市村町 @supopon

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