第53話 エピローグ
目を覚ますと、目の前に見慣れない顔があり、心臓が一瞬止まったような錯覚を起こすが、すぐに彼女が昨日私を拾ってくれた女性だと気付き、ほっと胸を撫で下ろした。
隣で眠る優香さんを起こさないよう慎重に身体を起こし、薄暗い部屋を見渡して炬燵の上に置いていた眼鏡を掛け、時計を確認する。昨日眠ったのが何時だったのかはよく覚えていないが、結局いつもと同じ時間に起きてしまったらしい。
下手に動いて優香さんを起こしてしまうと良くないだろうと、背中を丸めてじっと時計が時を刻む音に耳を傾ける。
ふと、優香さんはこの時間まで寝ていて大丈夫なのかと心配になった。私の父は六時前には家を出る。それは会社までの距離が離れているからという理由もあるのだが、優香さんも何かしらの理由で朝早くに出掛けなければならない可能性がある。
しかしそれなら大人である彼女は予め自分で目覚ましを掛けるなりしていて、勝手に起きそうなものだが、万が一の事がある。学校ならば遅刻をしても周りに殆ど影響は無く、自分が怒られるだけで済むが、社会人ともなれば自分一人の遅刻というちょっとしたミス一つで周りに大きな影響を及ぼし兼ねないだろう。
実際に優香さんがどんな仕事をしているのかは分からないので、結局どうする事もできないのだが、やはり心配な物は心配だ。
優香さんは規則的な呼吸を繰り返し、静かに眠っている。見つめていたら気が付いてくれないだろうかと、自分でも有り得ないと思いながら期待してみるが、当然起きる気配は無い。
彼女は不思議な人だ。いくら私が未成年とは言え、見ず知らずの人間を躊躇無く家に招き入れ、今もこうして暢気に隣で眠っている。助けてくれた時も、いつから見ていたのかは知らないが、必死に助けてくれた。私ならきっとあの時の私と同じような状況に居る人を見つけても、見て見ぬ振りをしていただろう。
彼女と蒼依は全く似ていないが、蒼依もきっと、彼女と同じ行動を取るだろう。落とし物を拾えばわざわざ交番に届け、他人が痴漢の被害に遭ったと知ると、迷わず警察に行った。蒼依も彼女と同じように困っている人を見つけると迷う素振りすら無く助けに行くのだ。
それが蒼依の尊敬できる所であり、好きな所だ。私にできない事をあっさりとやってのける蒼依は好きな人であると同時に憧れの人でもあった。そんな彼女のようになりたいと願いながら、思うように行かない自分に腹が立っていた。
はぁ、と溜め息を吐く。ちらりと横を見ると、彼女は変わらず静かに眠っていた。いっそ二度寝でもしようかと思ったその時、隣で眠っていた優香さんが突然飛び起きて、炬燵机がガタン、と音を立てて浮き上がった。
「いったぁ……」
大丈夫なのだろうか、と思いながら彼女を見る。
「ごめん、おはよう」
何に対する謝罪なのかは分からないが、一先ず「おはようございます」と返す。
「一瞬誰かと思った……」
優香さんは身体を起き上がらせ、ぶつけた腕を擦りながら笑い、よいしょ、と声に出しながら炬燵から出て立ち上がった。
「まだ六時じゃん」
「……」
仕事は大丈夫なのかと訊ねようとしたが、緊張して声が出なかった。
「えっと……紅音ちゃん、もしかして結構前から起きてた?」
「いえ……」
上手く声が出ず、代わりに首を横に振る。
「そう? 私も今日は休みだから、眠かったらまだ寝ててくれてもいいけど……」
「……」
「まぁ、とりあえず朝ご飯にしようか」
優香さんは苦笑し、テレビの電源を入れると、髪を手櫛で軽く整えながら台所へ向かった。少し遅れて私も炬燵から抜け出すと、恐る恐る台所を覗き込み、思い切って声を掛ける。
「あの、何か手伝う事とかって……」
「あぁ、大丈夫。朝ご飯って言っても殆ど冷食だから。あっ、アレルギーとかある?」
「いえ……」
「なら良かった。紅音ちゃんはそっちで待っててくれてても大丈夫だよ」
優香さんは炊飯器のタイマーを設定すると、リビングの方を指差した。
「えっ、でも……」
「良いの良いの。こう見ても料理は得意な方だから」
優香さんは笑ってそう言ったが、ただでさえ寝る場所も、今着ている服も、昨夜の夕飯までも提供してもらった側としては罪悪感で居た堪れない。しかし家主である優香さんが手伝いは必要無いと言っている以上、私は何も言えなかった。
渋々炬燵に戻り、欠伸を噛み殺して優香さんを待つ。待っている間、テレビに映る見慣れないニュース番組をぼうっと眺める。誰々が脱税していただとか、野球でどこが勝っただとか、そんな興味の無い下らないニュースばかり流れるのはどこも同じらしい。
少し新鮮だったのは天気予報だろうか。当然と言えば当然の話なのだが、表示される地方が近畿地方ではないだけで違和感があった。よくよく聞いていると番組で話しているアナウンサーも知らない人で、話される言葉も聞き慣れないイントネーションの言葉が多く、偶に分からない言葉もあった。
そうやって暢気にテレビを楽しんでいると、「紅音ちゃん、ちょっといい?」と優香さんから声が掛かり、無意識に身体に力が入り、心臓が掴まれたように大きく鼓動する。
慌てて立ち上がり、台所へ向かうと、優香さんが茶碗を持って出てきた。
「お茶が今麦茶しか無いんだけど、大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「じゃあそれあっち運んどいて」
優香さんの視線を追うと、そこにはお茶の入った容器とコップ、それから白ご飯が盛られた茶碗などが置いてあった。
「分かりました」
起きてから時間が経ち、何度か声を出したお蔭で声はスムーズに出るようになったが、失敗をすると怒られるという恐怖から胸が締め付けられたように息苦しくなる。
お茶とコップを炬燵机に運び、他にも何か手伝える事は無いかと台所に戻ると、それも運んで、と優香さんに指示された通りに白ご飯を運ぶ。
「足りなかったらまだもう少しご飯余ってるからね」
「……はい」
足りないどころか、普段は朝食を菓子パン一つで済ませている私からすると充分過ぎる程の量が並べられている。しかしそれに文句を言える筈も無く、手を合わせ、遠慮がちに口に運ぶ。
暫く黙って食べながらテレビ番組を見ていると、不意に優香さんがテレビを消した。
「ねぇ、やっぱり気になるから訊いても良い?」
何の事を指しているのか、何となく察しつつも首を傾げて優香さんの言葉を待つ。
「昨日はどうしてあんな所に居たの?」
「……」
どう答えようかと、食べる手を止め、開いた口を閉じる。
「いや、何となく分かっては居るつもりなんだけど、悩みがあるなら頼ってほしいなぁと思ったり……」
相変わらずよく分からない人だ。川岸に立って泣いていた見知らぬ人間を家に入れただけでなく、食事まで用意をしてくれた。大人として当然の事をやっているだけなのかもしれないが、正直な所、同性とは言え、何をされても良いという覚悟はしていた。それなのに優香さんは手を出してこないどころか、触る事を躊躇している様子すら窺えた。
そんな優香さんにいつの間にか気を許していたのか、ただ都合が良かっただけなのか、私は話してしまおうという気になった。
「好きな人が死んじゃったんです」
「えっ?」
「高校生になって初めてできた友達で、私の事を好きになってくれたんです。正直私ってあんまり性格は良くないし、一緒に居ても絶対楽しくない筈やのに、蒼依はどんなけ私が卑屈になっても優しくしてくれるし、愛してくれて……。だから私も蒼依にどうにかお返ししようと思って、蒼依のためにがんばろうって決めたのに……」
視界が歪み、声が震える。頭の中で言葉が散乱していて、その中からそれらしい言葉を選ぶものの、口から出ている言葉が文章になっているのかが分からない。
「蒼依のためならなんでもできるって思ってたのに、その蒼依が居なくなって、全部どうでもよくなったというか、がんばる意味が分かんなくなっちゃって……。それで昨日アルバイトで怒られちゃって、もういいやって」
「それで死のうと思ったん?」
訊ねられ、思い返す。
「……死ぬつもりじゃなかったんですけど……」
「じゃあどうしてあそこに居たの?」
「……」
自分でもその理由が分からず、俯き、黙るしかなかった。
「いや、ごめんね。答えにくいだろうからそんな無理して答えなくて良いんだけど……」
優香さんの言葉が途切れ、時計の音がカチ、カチ、と部屋に響く。目に溜まった涙を袖で拭ってから、借りた服だった事を思い出す。
「紅音ちゃんってどこから来たの?」
「えっ?」
意識を別の所へやっていた瞬間、突然全く違う質問をされ、思わず聞き返した。
「イントネーションとか聞く感じ関西の人なのかなぁとは思ってるんだけど……」
「あっ、えっと……京都です」
「京都から来たの!?」
優香さんの大声に驚きながら、はい、と唇を動かしながら首肯するが、声は出なかった。
「すごいね。ちょっとした冒険じゃん」
「……」
どういう反応をすれば良いのか分からず、愛想笑いを返すと、部屋は再び時計の音だけになった。気まずさを誤魔化すように優香さんはお茶を一口飲み、私もそれに倣うようにコップに入ったお茶を飲み干すと、ごくり、と喉が鳴って居た堪れない気持ちになる。
「そうだ、一つ訊いておきたい事があるんだけど、良い?」
声が出なかった代わりに、優香さんを見て首を傾げる。
「ご両親から殴られたりとかってある?」
よく分からないまま首を横に振って否定する。それから少し考えて、虐待を疑われている事に気付いた。
「本当に? 怖くて言えないとかじゃない?」
「……はい」
頷きながらどうにか声を絞り出して、自分は虐待を受けていないと主張する。
「じゃあ、大丈夫か」
何の話をしているのか分からず、眉を顰める。
「いやね? 昨日紅音ちゃんのお母さんに電話したでしょ? その時に紅音ちゃんがうちに居ますよーっていうのを伝えたんだけど、迎えに来てくれるらしいから」
「えっ?」
「で、それからちょっと考えたんだけど、もし紅音ちゃんが親から暴力受けたりしてるようなら帰さない方が良いんじゃないかなぁって思ったりもしてたんだけど、大丈夫そうね」
そういう事か、と納得するその一方で、結局親に迷惑を掛けてしまった事に胸が痛み、静かに溜め息を吐いた。
それからご飯を食べ終わり、食器を片付け、元々やるつもりだったという家の掃除を手伝う。本当に手伝い程度なので、優香さんから貰った物を考えるとまだまだ足りないのだが、家出してきた高校生である私には優香さんにあげられる物など何も無い。と、そこで一つあげられそうな物を思い付いた。
「あ、あの」
クローゼットに掃除機を片付けている優香さんに声を掛ける。
「どうしたの?」
「助けていただいたお礼……というか、その……」
言いたい事を上手く伝えられるように浮かべたいくつもの言葉が頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、口が空回りする。こんな簡単な事ですら上手くできない自分に戸惑いながらも伝えようと声を絞り出す。
「お金……」
「お金?」
優香さんの顔には困惑が浮かんでいた。
「その……私、アルバイトしてて、お金なら払えるので……」
言いながら鞄の中を探るが、お金を払うには銀行から引き出さなければならない事に気が付き、手を止める。
「宿泊料って事よね?」
「えっと、そう……ですね」
顔を上げ、首を傾げる優香さんを見て頷く。
「有り難いけど、それを受け取ると私が犯罪者になっちゃう気がするんだよね」
「あっ、……そうなんですか?」
「うん。紅音ちゃんはまだ未成年でしょ? 未成年の人を家に泊めるの自体親の許可が無ければ犯罪だし、まぁ、それは昨日のうちにちゃんと許可は取ったから良いとして、そこでお金を払われちゃうと所謂援助交際になると思うんだよね」
「あっ……えっと……」
「紅音ちゃんにそのつもりが無いっていうのは分かってるからね? えっ、無いよね?」
「は、はい。それはもちろん」
「良かった。まぁとにかく──」
その時、どこかから聞き覚えのあるメロディーが部屋に響き渡った。優香さんはその音の発生源である携帯を開き、「ちょっとごめんね」と立ち上がって寝室へ向かった。
盗み聞きをする趣味は無いのだが、テレビも何も付いていない静かな部屋ではどうしても優香さんの声が聞こえてしまう。聞き取れた限りではどうやらもうすぐ迎えが来るようだ。それから優香さんは集合場所を指定してリビングに戻ってきた。
「もうすぐこっちに着くって」
「……」
返事の仕方に迷い、一先ず首を縦に振る。
「帰りたくない?」
優香さんが苦笑しながら私の方を向いて膝を突く。
「紅音ちゃんが成人してたらこのまま居てくれても良いよって言えるんだけど、まだ私も犯罪者にはなりたくないからね」
優香さんは優しい人だ。自殺を図るような人間を拾って、無償で寝る場所とご飯をくれた。ついでに着る物もくれて、私を元気付けようとしているのか、適度に距離感を持って話しかけてくれる。
落ち込んでいた所にちょっと優しくされて、過剰に良く感じているだけなのかもしれないが、私の優香さんに対する不快感は全くと言って良い程無い。
「私が思うに、紅音ちゃんがこうやって飛び出してきちゃったのって、言っちゃえば気の迷いというか、そういう物だと思うんだよね」
説教の雰囲気を感じて、炬燵から出て優香さんの方へ向き直る。
「好きな人が居なくなった哀しみはちょっと私には想像付かないんだけど、紅音ちゃんは今ちょっと自棄になっちゃってるだけで、本当に死にたいわけじゃないんでしょ? ご飯だって食べてくれたしね。飛び出してきちゃった理由も虐めとかそういうのじゃないみたいだし。あんまり喋ってくれないのは多分私の事ちゃんと警戒してるからだと思ってるんだけど……」
答えられるような間を与えられたが、ここで馬鹿正直に首を縦に振れる程の度胸は無かった。
「まぁ、とにかく、私で良ければこれから先も頼ってくれて良いからね。もうちょっとしたら紅音ちゃんのご両親が来るみたいだから、そろそろ私たちも待ち合わせ場所に行かないといけないんだけど……ちょっと待ってね」
優香さんはそう言って炬燵に手を突いて立ち上がると、寝室の方へ行き、何やら小さな紙を戻ってきた。
「はい。これ私の電話番号とメールアドレスね。無理にとは言わないから、家に帰って気が向いたら連絡して」
疑問に思いながらそれを受け取り、どうしようかと迷って、一先ず財布に入れておく事にした。
「私もこの家に一人で居ると寂しいからさ、話し相手になってくれると嬉しいかな。ついでに人生の先輩として相談に乗ってあげる事もできるし。まぁ、後はそうだなぁ……また死にたくなったりしたら私に会いに来て。いや、他に頼れる人が居たらそれでいいんだけどね。遠いし」
「なんで……」
どうしてこんなに親切にしてくれるのか、そんな疑問が口から漏れ出した。
「そうだなぁ……。強いて言うなら、私が寂しいからかな。一目惚れって言うとまたちょっと違うかもしれないけど……いや、ごめんね。慰めるとかそういうの私には無理だわ」
優香さんは恥ずかしさを誤魔化すように笑い、すっと立ち上がる。
「それじゃあそろそろ行こうか」
「……はい」
鞄を持ち、立ち上がろうとすると、あっ、と優香さんが声を上げた。何事かと思いながら鞄を肩に掛けた瞬間、とある違和感に気付いた。
「紅音ちゃん、服どうする?」
優香さんの言う通り、私が今着ているのは寝る用に借りたジャージだ。昨日着ていた服は濡れてしまっていて、とても着られるような状態ではなかった。
一先ず自分の服を返してもらうが、やはりまだ濡れていて、着られない事もないが、躊躇してしまうのも仕方が無いだろう。
どうしようかと服を抱えて迷っていると、優香さんが寝室の方から呼び掛けてきて、恐る恐る寝室を覗き込むと、中から手招きをされる。
「サイズが合うかどうかは分からないけど、年単位で着てないのがいくつかあるから、あげる」
「えっ?」
「さすがにあの濡れたやつ着て帰る訳にはいかないでしょ? どうせ私も着てないやつだし。なんなら次会う時に返してもらうとかでも良いけど……いや、やっぱり要らないからあげる」
優香さんはそう言いながらいくつかの服をベッドに投げ捨てていき、ちょっとした山が出来上がっていた。それからこれが似合いそう、やっぱりこっちか、と燥ぐ優香さんにされるがままになり、結局シンプルなシャツとパーカ、それからスキニーパンツを貰う事になり、それに着替えて今度こそ家を出る。
「忘れ物は無い?」
「はい。多分」
「それじゃあ行こうか」
ここに来てから鞄の中身を殆ど出していないので、優香さんに盗られていない限り忘れ物は無い筈だが、念の為に確認しながら優香さんの後についていく。
駐車場に連れて来られ、車を持っていた事に驚きつつ、丸く可愛らしい車の助手席に乗り込む。芳香剤か何かが置かれているのか、少し嗅いだだけで酔ってしまいそうな香りが漂っていた。
「もしかして新車の匂い苦手?」
一瞬顔を顰めた所を見られていたのか、優香さんが訊ねてくる。
「……はい。ちょっと……」
「ごめんね。ほんとつい最近買ったばっかりなの」
「いえ、乗せてもらってるので……」
「次乗せる時にはきっと大丈夫だから」
優香さんはそう言って車のエンジンを掛け、車を発進させる。
車は住宅街を出て真ん中で区切られた大きめの道路に出ると、そのままその道を真っ直ぐに進んでいく。周りの景色を見ても、カーナビを見ていても、今居る場所がどういう場所なのか当然分からない。
「ここからちょっと行った所に大きいイオンがあるんだけど、そこで待ち合わせになってるから」
「イオン……」
「行った事ある?」
「ここのは無いですけど……」
「さすがに地元のは行った事あるか」
「はい」
「迎えに来るのがもっと遅くなるならそこで一緒に買い物でも、なんて思ってたんだけどね。思ったより来るのが早かったわ」
「そうですね」
私は半ば無意識にそう言った。正直、優香さんと過ごしている時間は悪くない。優香さんが本当の所はどう思っているか知らないが、もし許されるのならばこのまま一緒に暮らしても良いのではないかとさえ思える。
それは優香さんが言っていたように、気の迷いなのかもしれない。嫌な選択肢から逃げる私の悪癖が出た結果、そう感じてしまっているだけなのかもしれない。
これから私は家族に会わなければならない。会って何を話せば良いのか分からないが、怒られるのは確実だ。
はぁ、と静かに溜め息を吐くが、優香さんはそれを聞き逃さなかった。
「会うの怖い?」
「……はい」
優香さんには見えていないだろうが、頷きながらそう答えると、優香さんはあはは、と声を出して笑う。
「まぁ、親を心配させたんだから仕方無いね」
それは自分でも分かっているつもりだが、やはり避けられる物ならば避けたい。怒られないで済むのならそうしたい。けれども親を心配させたのは紛れもない事実であり、親は仕事を休んでまで迎えに来てくれている筈だ。怒られる理由は充分過ぎる程にある。もし自殺を図った事まで知られると、どうなるか分かったものではない。
「ちゃんと謝って、理由を説明して、悩みがあるならちゃんと相談しなさいね。頼ってもらえないのは悲しいものよ?」
妙に実感の籠もった優香さんの言葉に頷き、膝に抱えた鞄の紐をぎゅっと握る。
軈て車がイオンに到着し、店の近くの空いていたスペースに停車する。それから優香さんが車を降りるのを見てシートベルトを外し、車を降りる。すると急に家族に会うという実感が湧いてきて、鼓動が急激に早くなり、息苦しさを感じる。
学校よりも遥かに大きな建物の正面入り口に来て、逃げ出したい衝動を必死に抑えながら両親を待つ。
少しして、何となく顔を上げると、遠くに両親と妹の姿が見えた。その瞬間、心臓がドクンと一つ大きく鼓動し、吐き気を催して胸を押さえる。そうすると、優香さんの手が背中に添えられた。
「大丈夫?」
その心配そうな表情は、偽物には見えなかった。きっと本気で心配してくれているのだろう。何の根拠も無いが、そう思えた。
そして三人がもう声を張らずとも聞こえる距離まで来ると、妹が駆け寄ってくる。私と殆ど身長の変わらない妹の大きな体を受け止め、ぎゅっと抱き締め返す。妹は泣くのを我慢しているのか、一言も喋らず、ただ私を力一杯に抱き締めてくれていた。
その間両親は優香さんに挨拶をしていた。軽く一言二言交わした後、母と目が合った。
「大丈夫やったか?」
絶対に怒られるだろうと思っていた私は呆気に取られ、鞄が肩から摺り落ちた。
「怒られるって思ってたやろ」
そう訊かれ、私は素直に頷いた。
「知らん番号から電話掛かってきたかと思って何事やと思ったら、家出した娘を保護してるって言われるしびっくりしたけど、紅音も未成年とは言えもう高校生やしな。一人暮らしでも問題無いくらいの事はできるから正直そんなに心配してなかったわ。浅井さんも良い人そうやったしな。ちゃんとお礼言うたか?」
「えっ、うん」
長々と話されて途中から意識が妹の方へ向きかけていた私は咄嗟に頷き、優香さんを見るが、よく思い出してみると、礼を言った覚えは無かった。しかしそれに気付いても家族の見てる前で畏まって礼を言うのは気恥ずかしく、声が喉で引っ掛かってしまう。
「はい。ちゃんと言ってくれてましたよ」
優香さんが私の代わりに答えた。そのついでと言わんばかりに私がどうしていたかなどを話し始め、どうにか聞かないようにしようと妹の頭を撫でてやり過ごす。
大人三人が一頻り話した後、今度こそ私が説教される番が回ってくるかと思いきや、何故か優香さんへの礼を兼ねて一緒に昼食を食べる事になった。食事処に向かう最中も、食べている間も、トイレだと言って逃げてしまいたかったが、それは妹に抱き付かれている事によって叶わなかった。
そして油断していた頃に私への説教が始まり、居心地は最悪で、ご飯の味など殆ど分からなかった。
食事代はお礼を兼ねて私が奢り、それからあっさりと優香さんとは別れた。その後、せっかくここまで来たからと施設を端から順に見て回る事になったのだが、私と両親の間に気まずい空気感がずっと漂っており、結局フードコートでクレープを食べた程度で帰る事になった。
慣れ親しんだ車の後部座席に乗り、シートベルトを締める。
「紅音。何か言う事は?」
不意に父がそう投げかけてくる。
「えっと……迷惑掛けてごめんなさい……?」
これで合っているのだろうかと空気感を窺いながら言う。
「今回はほんまに運が良かっただけやからな? 偶々あの人が優しい人で助かったけど、下手すると犯罪に巻き込まれてたかもしれんねんで?」
「……」
こういう時、どう返事をすれば良いのか分からない。少なくとも「分かってる」と答えた所で適当に答えていると思われて怒られるだけだろう。
「それに家に連絡入れてくれてなかったらあの人は犯罪者になってたんやで?」
それも分かっている。優香さんから聞かされて知った事ではあるが、そう何度も言われなくても分かっている。とは言えわざわざ反論して事を荒立てる意味も無いので、私はまた黙ってやり過ごす。
軈て父は諦めたのか、大きな溜め息が聞こえ、車が動き出した。そして居心地の悪い雰囲気のまま車は進んでいく。喋るのが好きな妹も口を開かず、父はもちろん、母も私に話を振ってこない。
許されたのか、呆れられたのか、よく分からないまま家に着き、どこかぎこちなさを持った状態で夕飯を作り、いつものように風呂には行って自分の部屋に戻る。
そうして私の長いようで短い旅は終わった。
それから週が明け、始業式の日がやってくる。いつもと変わらない朝の風景を眺めながら学校へ向かう。ただ一つ違うのは、蒼依が居ない事だけ。
いつも駅前の広場で待っていてくれた蒼依の姿が無い。分かっていた事なのに、涙が溢れそうになる。周りの人が楽しそうに話しているのを見る度に、蒼依の存在が浮かぶ。たった二週間で吹っ切れるものではなかった。
学校に着き、一人で離れた場所からクラスを確認し、教室に向かう。私の席は一年生の時と同じ前から二番目。一番前は蒼依の席だった。
蒼依の席には先生が来ても、チャイムが鳴っても、誰も座らない。
始業式のため、体育館へ移動する。私の前はずっと空いたままだ。そして始業式が始まり、長ったらしい話の後、蒼依が亡くなった事があっさりと告げられた。
その時ばかりは蒼依の事を想って悲しむ者も居たが、そんな人も数日経てば蒼依の居ない日常に慣れていった。
まるで、蒼依が忘れられていくようだった。私も蒼依の声を忘れ始めていた。それが堪らなく嫌だった。私の頬を撫でる手の温もりも、私を抱き締める腕の力強さも、私を見つめる綺麗な目も、私に囁かれた甘い言葉も、少しずつ私の中から消えていく。
ちゃんと好きだった筈だ。大切にしていた筈だ。それなのに、あまりにも簡単に失われていく。それが苦痛でならなかった。この苦痛から逃げ出したくて、今度こそ死んでしまおうという考えが浮かぶ。しかしその時、優香さんの言葉が思い出される。
『死にたくなったら私に会いに来て』
まるで呪いのような言葉だ。この言葉の所為で私は死ぬ事ができなかった。わざわざ守る必要も無い口約束だ。約束した覚えも無い。けれども不思議とこの約束は破りたくなかった。
蒼依が居なければやりたい事なんて無い。蒼依ほど勉強も運動もできない。音楽の才能も無ければ、妹のように絵も上手くない。他人に誇れるような物なんて何も無い。怖い事から逃げて、嫌な事から逃げ続ける。そんな出来損ないの私でも、誰かに必要とされる限り、生きていかなければならないのだろう。
左腕に刻まれた赤い線を見つめながら大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出してから、すっかり口癖になってしまった言葉をぽつりと呟く。
「死にたい」
そうすると、ほんの少しだけ、胸が軽くなったような気がした。
出来損ないの私 深月みずき @mary_key
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