第52話 4月1日

 瞼を開くと、薄暗い部屋が映り、朝だという事に気付く。重たい身体を起き上がらせる気にはなれず、蹴飛ばされた布団を被り直し、壁の方を向いて目を瞑る。それが三度目にもなると、眠気など微塵も感じられなかった。


 無意識的に伸ばした手で携帯を探すが、すぐに携帯の充電をしていない事を思い出して腕を布団の中に引っ込める。


 静かな空間で眠気も感じていないのに目を瞑ってぼうっとしていると、ふと今日がアルバイトの日だという事を思い出して、心臓がきゅっと縮こまった。


 鉛のように重たい身体を腕でベッドを押して何とか起き上がらせ、ベッドから足を下ろし、肺に溜まった澱んだ空気を吐き出した。


 蒼依が死んだ。部活が終わり、家に帰る途中、私とも何度か歩いた道で信号無視をした車に撥ねられ、病院に運ばれたが助からなかったらしい。報せを聞いた私はすぐには信じられなかった。少し早めのエイプリルフールなのではないかと疑った。しかしそうやって疑いながらも、連絡が来なかった理由に納得ができてしまった。


 半信半疑のまま葬式に行った。そんな大勢を巻き込んだ大掛かりなドッキリなんて有り得ないと分かっていながらも、自分の目で見るまで信じたくなかった。けれども黒い箱の中で横たわる蒼依の白い顔を見た瞬間、私は駄目になった。


 蒼依の事が頭に浮かび、涙が滲む。ぽたぽたと涙が滴り、手の甲に当たって弾ける。


 袖で涙を拭い、眼鏡を掛け、重い腰を上げて部屋を出る。


「あぁ、おはよう」


 台所に居た母がいつものように声を掛けてくれるが、私はそれに応えられなかった。


「ココアで良いか?」


 今度は心の中で返事をして、頷いた。


「顔洗ってき」


 母に言われ、洗面所に向かう。


 ガラガラと扉を開け、電気を点けて歯磨きをする。口を濯ぎ、顔を洗ってリビングに戻る。ココアを一口飲み、一番消費期限の近い菓子パンを食べる。


 こんないつも通りの何気ない動作一つ一つが今はとても億劫に感じる。今食べているこの菓子パンも、食べるのがめんどうに思えてくるが、残すのは私の良心が許してくれなかった。


 朝食を食べたら、また歯磨きをして、アルバイトに行く準備をする。途中、コンタクトをしていない事に気が付いたが、もうめんどうだから良いかと諦め、着替えを済ませ、荷物を持って下に降りてくると、母が「大丈夫か?」と心配してくれる。ここで大丈夫じゃないと素直に弱音を吐けるような性格をしていたら、もう少し生きやすかったのだろうか。


 まだ時間ではないが、私は逃げるように家を出た。少し家を出なかったうちに身を震わせるような寒さはどこかへ行き、桜も咲き始めるような暖かさになっていた所為で、駅までのんびりと歩いただけで少し汗を搔く羽目になった。


 風の吹き抜けるホームのベンチに座って待つ事五分。見慣れた電車が到着し、貸し切り状態の車輌に乗り込み、いつもは座らない運転席のすぐ近くの席に座って目を瞑る。


 蒼依の事があり、私はアルバイトをする意味を失った。ただ嫌な思いを胸に押し止めながら働き、使い道の無いお金を貰うだけだ。今日のアルバイトだって、別に行かなくたって良い。雇ってもらっているのだから、行かなければならないのは分かっているが、もうそんな事はどうでもよくなってきていた。


 私は所詮アルバイトで、私が居なくても大して仕事量は変わらない。元々私が居なくても何とかなっていたのだから、私が居たところで何も変わらないのだ。寧ろ未熟な私が居る事によって他の人たちの邪魔になっている事も少なくなかったのだから、居ない方が良いのではないだろうか。


 そんな心持ちで居たからだろう。


「もう今日は帰ってええよ」


 いつもと同じように任された仕事をやり始めてから暫くして、店長が冷たくそう言った。


「そんな顔色悪い状態で店に立たれても困るし」


 その声には呆れの色が見えた。


「それに、やる気も無さそうやしな」


 吐き捨てるように呟かれた言葉に、涙が溢れそうになる。私には泣く資格などこれっぽっちも無い事など分かっているのに、私の意思に反して涙が滲んでくる。


 怒られた理由は言われなくても分かっている。ただでさえレジ打ちができないというのに、フロアの仕事すらも真面にできなかったからだ。手を抜くつもりは無かったが、何をやっていても喪失感が忘れられず、不意に頭の中が真っ白になり、仕事をする手が止まってしまっていた。一度は先輩に心配という名の注意も受けたがそれでも改善されなかったから、こうして怒られる事になったのだろう。


「友達が亡くなったのがショックなのは分かるけど、仕事するって言って来たからにはやってもらいたいねんか。だから集中できひんねやったら帰ってもらって大丈夫やから」


 店長の言葉がするりと私の頭の中に入ってきて、そのまま通り抜けていく。


 気が付くと、私は荷物を持って店の外に出てきてしまっていた。まだ外は明るく、日差しも暖かい。


 妙に感覚の鈍い足を動かし、近場にあったベンチに腰を下ろす。頭上には庇があるが、陽が少し傾いているお蔭で全身に暖かい光が当たる。時折吹く風は丁度良い具合に冷たく、日光がより心地良い物に感じる。


「どうしようかなぁ」と思っている事を声に出してみる。声に出した所で何も変わらない。今この場には私しか居ないのだから。


 はぁ、と深い溜め息を吐く。ぼうっとアスファルトを見つめていると、ふと彩綾と夕夏の二人の事が浮かんだ。


 二人とは遊びに行く話を無かった事にしてから何も話していない。反応から察するに、二人も蒼依の事については知っていたようで、二人からは私を気遣うような言葉がいくつか送られてきたが、まだ何も返せていない。いや、これから先も返す事は無いかもしれない。


 再び溜め息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。これ以上ここに居ても良い事は何も無い。


 店の表側へ移動し、横断歩道を渡って駅に向かう。その間もこれからどうしようかと頭を悩ませていた。


 何も思い付かないまま改札を通り、電光掲示板を見た私は、胸に刺さる罪悪感を圧し殺して京都行きの電車に乗った。


 扉が閉まり、電車が動き出す。学校に行く途中で何度も見た景色が窓の外を流れていく。軈て黄檗駅を過ぎ、蒼依が住んでいた六地蔵駅も過ぎていった。ドクン、ドクン、と心臓が鼓動し、胸が締め付けられるような感覚に襲われ、微かに呼吸が荒くなる。


 この胸を締め付ける感覚はきっと罪悪感だろう。今私がしようとしている事によって恐らくショックを受けるであろう家族への罪の意識だ。ここまで少なくないお金を注ぎ込んで育ててくれた両親の労力を全て無に帰そうとしている。それが罪である事くらい、馬鹿な私にも理解できる。


 しかしそれ以外にも、私を家に引き戻そうとする見えない力を感じていた。これが一体何なのか、私にはよく分からない。分からないが、それは罪悪感以上に強力な物のようにも感じる。


 吐き気とともに激しくなっていく鼓動をどうにか静めようと、目を瞑り、胸が一杯になるまで空気を取り込み、充足感が胸を満たした辺りで、数秒掛けて肺に満ちた空気を吐き出す。周りの人に変に思われないよう静かにそれを何度か繰り返していると、ほんの少しだが胸を締め付ける感覚は薄れた。


 電車は終点の京都駅に到着し、私はキャリーバッグや大きな袋を持った観光客たちの後ろに続いて電車を降りた。そして人の流れを遮らないよう端の方をゆっくりと歩き、階段を上って改札前の少し開けた場所まで来ると、また邪魔にならない端の方で立ち止まり、ずらりと並ぶ電光掲示板を見上げる。


 行きたい場所があるわけではない。目的地なんて無いのだから、最悪どれに乗っても構わない。お金は幸いにもアルバイトで稼いだ物がある。ICカードには千円程しか入ってなかったとは思うが、財布には一万円札が少なくとも一枚は入っている。銀行に預けているお金を含めれば、きっと行こうと思えば日本のどこへだって行けるだろう。それくらいのお金はあったと記憶している。


 もうどれでも良いか、と私は視線を下ろした先にあった階段を降りる。途中の案内表示には大津・草津という文字が見えた。どうやら滋賀県の方へ向かう電車らしい。行った事はあるが、電車で行くのはこれが初めてだ。もっと言えば一人で県外に出るのも初めてかもしれない。


 普通なら初めての一人旅に心を躍らせている頃なのかもしれないが、私の胸にあるのは不安と罪悪感ばかりで、期待する心など持ち合わせていなかった。


 少しして見慣れない電車が到着し、本当にここに乗って大丈夫なのかと、きょろきょろと周りの人を見ながら電車へ乗り込み、運良く空いていた窓側の席に腰を下ろす。すぐに隣にイヤホンをした女性が乗ってきて、鞄を抱き締める腕に力を込める。


 軈て電車は動き出し、窓の外に映る景色が知らない物へと変わっていく。都会らしいビル群はすぐに無くなり、住宅街を抜け、地下に入る。そこを抜けるとまた住宅地に出て山科駅に停車する。


 景色をぼうっと眺めながら流れてきたアナウンスに耳を傾けると、どうやら次は大津で、もう滋賀県に入るらしい。隣に座っていた女性は大津駅で降りていき、代わりに男性が勢い良く隣に座り、半ば無意識で身体を窓際に寄せた。


 それから電車は何事も無く進み、街を抜け、何となく親しみを覚える田園風景を通り、草津や近江八幡、彦根など、どこかで耳にした事のある地名をいくつか過ぎると、米原という駅で乗り換えができるとアナウンスが流れた。


 ずっと同じ電車に乗っていても詰まらないので、乗り換えてみようと電車を降りる。


 ホームからは私の住む加茂町と似たような景色が見えた。米原駅は新幹線も通っているという事もあってか、加茂駅よりも大きいようで、新幹線が止まるホームの奥には背の高いビルも見える。


 階段を上り、どの電車に乗り換えようかと電光掲示板を見る。一番乗り場の方に変わった模様の電車が停まっていて気になったが、どうやらそれに乗ると京都に戻ってしまうようなので、もう帰ろうという誘惑を振り払って名古屋方面へ向かう電車が来るホームに続く階段を降りる。


 橙色の線が入った銀色の電車に乗り、空いていた席に座って、視線を窓の外へ向ける。


 まだ外は明るいが、確実に日は傾き、落ちてきていた。家を出てからもう五時間近く経っており、勢いのまま家出をしてからももう二時間が経とうとしている。


 電車が動き出すまでの少しの間、手が無意識に携帯を探すが、携帯は充電もせずに家に置きっ放しになっている。暇潰し用の小説が鞄の中に入っているが、生憎と気分ではない。こんな時に蒼依が居てくれたら、ともう叶わない願いが浮かび、目が熱くなった。


 電車が動き出し、電車は田畑の広がる自然豊かな道を進んでいく。


 風景を見る気分ではなくなり、鞄を抱き締め、目を瞑る。目的地など初めから無いのだから、どれだけ眠っても問題は無い。


 眦から涙が溢れ、頬を伝っていくのを感じるが、いっそこのまま枯れるまで泣いてしまおうと、鞄を強く抱き締め、目を閉じる。そうすると、自分が思っている以上に疲れていたのか、いつの間にか眠ってしまっていた。


 目を覚ますと、ちょうど名古屋駅に到着する直前だった。降りても良かったのだが、隣に座る男性に話しかけなければならないのも気が引ける。それを考えているうちに立ち上がる事すらもめんどうに思えて、閉まる扉を眺めていた。


 私はこれからどうするのだろう。窓の外を流れるビル群を眺めながら他人事のように思う。ちょっとした思い付きで始めた旅なので、着替えも、食糧も、夜を過ごす場所も何も無い。着替えと食糧はお金で何とかなるとしても、恐らく年齢確認をされるため、泊まれる場所は無いだろう。そうなれば野宿するしかなくなってしまうのだが、補導される可能性もあれば犯罪に巻き込まれる可能性だってある。


 考えていくうちに家に帰りたいと思う気持ちが高まってくるが、ここまで来て帰ってしまうと負けた気分がして嫌だった。何に負けた事になるのかは分からない。一度決めた事をすぐに諦める情けない奴だと馬鹿にされるのが嫌なのかもしれない。


 親は心配してくれているだろうか。妹はこんな姉をどう思うのだろうか。どうせすぐに帰ってくるだろうと思われていそうな気もする。そんな時に帰ってしまえば馬鹿にされるのは間違いない。


 蒼依が居てくれたら、きっとこの旅も楽しい物になっただろう。先程通り過ぎた名古屋で降りて観光したり、このまま東京まで行ってディズニーランドに行ったりと、蒼依と二人なら楽しめる場所はいくらでもある。それこそこの次の駅で降りて、知らない土地を歩き回るだけでも充分に楽しめただろう。


 私たちはまだ高校生になったばかりで、蒼依は部活があり、私もアルバイトをしていてあまりデートをする時間が無かった。高校を卒業すれば大学やアルバイトでそれなりに忙しかったかもしれないが、私も今以上にお金が貯まり、気軽に遠出する事だってできただろう。


 また涙が滲み、瞬きをすると、溢れた涙が静かに頬を伝う。蒼依が亡くなってから一週間以上経っているというのに、まだ涙は涸れないらしい。


 気付けば空は暗くなり始めており、山の向こうは微かに赤み掛かっている。そんな時間になっているのなら、お腹が空いてくるのも当然だろう。そろそろどこかで夜を過ごす準備をした方が良いのかもしれない。


 今どの辺りに居るのだろうと路線図を探すが、見える範囲には広告しか無かった。携帯を持っていればこんな小さなめんどうも無くて済むのだが、持っていない物は仕方が無い。


 アナウンスで刈谷駅という名前が聞こえたがそれがどんな場所なのかは全く分からない。窓から見る限りでは私の住んでいる所と大差無い風景に見える。それは電車が減速し始めても変わらず、確かに多少背が高く大きな建物は増えたものの、奈良駅の周辺と同じような雰囲気を感じた。


 もし奈良駅と同じような場所なら、少なくとも食べる場所はあるだろう。しかしそのためには隣に座っている男性に降りる事を伝えなければならない上に、ここまで来たのだから、どうせなら終点まで行ってみたいような気持ちもあった。


 どうせホテルやカラオケも年齢確認をされた時点で終わりだ。日が沈むまでこの電車に乗っていたのだから、終点ももうすぐだろう。それからコンビニなんかを探して腹を満たせる物を買えば良い。


 それから電車に暫く揺られ、空に赤色が見えなくなった頃、豊橋駅に到着し、隣に座っていた男性に続いて電車を降りた。人の列と壁の案内表示を見ながら出口を目指す。四千五百円で京都から愛知までの距離を来られるのかと感心しつつ、外に続いていそうな方へ向かう。


 京都駅程はややこしくなく、すぐに空が見えた。車道の上に作られている広場をふらふらと興味を惹かれた方に歩いて行き、大通りの向こうまで見えるところから下を覗き込んでみると、そこには京都では見た事の無いくらいに広々とした道路と、その真ん中を通る路面電車の線路があった。線路は私が今居る広場の下を通っているが、駅があるのかどうかは分からない。乗ってみたい気持ちはあるが、今日はもう乗る時間は無いだろう。


 手摺りに沿って広場を進み、様々な看板が掲げられている辺りで階段を降りると、すぐそこにコンビニがあった。迷わずそこに入り、夕飯として食べるおにぎりを二つ買った。


 夜を過ごす方法として一つ思い浮かぶ物があるが、それだけは避けて通りたい。かといって他に方法は何も浮かばない。ホテルは恐らく私だけでは利用できないだろう。カラオケやネットカフェなんかも恐らく未成年では利用できない。二十四時間営業している飲食店に行ったとしても、高校生の私が一人でずっと居座れば、最悪の場合警察を呼ばれて歩道される可能性がある。公園などに行っても同じ事だろう。


「どうしようかなぁ」と言いながら、一先ず目の前の道を真っ直ぐに進んでみる。横断歩道を渡り、初めて見たひつまぶしの幟にちょっとした感動を覚えつつ、どこまでも突き当たりが見えない真っ直ぐな道を歩く。


 その途中にいくつもホテルがあったが、どこも高そうな雰囲気で、気軽に入っていけるような場所ではなかった。私がもう少し社交的で、接客も楽しくできるような人間だったなら、こういう場所でも入っていけたのかもしれない。


 社会に出れば所謂ビジネスホテルを利用する機会もあるのかもしれないが、自分がそういう事をしている姿が全く想像できない。アルバイトですら上手くできないのに、会社員として上手くやっていく自信は無い。


 人付き合いが苦手で、電話も接客も苦手。勉強と運動はそこそこできるが、そんなもの社会人になったら殆ど役に立たない。もっと人と付き合う事をやっておけば良かったと思うが、意識してできるようになるのならこんな人間には育っていない。アルバイトだってもっと上手くいっていただろう。


 いつだったか、蒼依が私に専業主婦でも良いなんて事を言ってくれていた。蒼依が仕事をして、私は家事をする。蒼依が疲れて家に帰ってきた時に笑顔で出迎え、家では二人でのんびりテレビを観て、夜は一緒に隣で眠る。そして朝は蒼依の隣で目を覚まし、朝ごはんを一緒に食べる。そんな在り来たりな家庭を思い描いていたが、蒼依が居なくなったこの世界ではもうそれは叶わない。


 私のその夢は蒼依と一緒である事でしか叶わない物だった。蒼依が居なくなった今、そのためにがんばっていた事は全て無駄になった。怒られながら働いて、稼いだお金もゴミ同だ。


 はぁ、と溜め息を吐く。ずっと真っ直ぐ歩いているうちに、町の中心から離れたのか、明かりが付いている建物が少なくなり、ぽつぽつと立っている街灯と車のライトを頼りに進む。


 どれくらい歩いたのか、直線の道が終わり、緩やかな坂を上ると、大きな川があった。緩やかな弧を描いている橋の真ん中辺りで足を止め、手摺りに凭れかかるようにして川を覗き込む。


「疲れた」


 思わず呟き、肺一杯に溜まった空気を吐き出した。歩いた距離としてはそれ程無かったとは思うが、それまでずっと座っていたからか、妙に疲労が溜まっている。


 爪先を地面に付けて足首を回しながらじっと川を眺めていると、自殺という二文字が頭に浮かぶ。そのために来たわけではないが、それもありなのではないかとも思えた。


 川は夜空と同じく黒く、底は見えない。流れはあまり速くないように見えるが、暗くてよく分からない。音を聞く限りではやはり流れは速くないようだが、これだけ大きな川の流れが緩やかだとは思えない。こんな所に今飛び込めば、誰にも見つからずに死んでしまえそうだ。


 その考えが頭に浮かんだ瞬間、ドクン、と鼓動が一つ大きく鳴った。それを皮切りにして鼓動が普段の倍以上になる。いつの間にか感じなくなっていた息苦しさも戻ってきて、呼吸が荒くなる。それに気付いて深呼吸を何度か繰り返してみるが、気が楽になるのはほんの一瞬だけで、すぐにまた苦しくなる。


 一先ずその場を離れようと、来た道を戻り、街灯も何も無い真っ暗な川の堤防にある階段に腰を下ろし、足を投げ出して一息吐く。


 目の前まで来て分かったが、この川の流れはそれほど速くはないらしい。とは言えやはり底は見えないので、橋の上から飛び込めば簡単に死んでしまいそうだ。


 ふと、興味が湧いた私は、靴を脱ぎ、靴下も脱いで裸足になる。ひんやりとした石の感触が足の裏から伝わってくる。座るだけ。水に足を浸けられる場所に座るだけだ。


 ドクドクと煩い鼓動を聞きながら、一歩ずつ、慎重に階段を下りていく。あと一つ降りれば水だという所で深呼吸をして、半ば勢いで水に足を入れると、足首までが冷たい水に覆われ、思わず身体が縮こまる。端の方だからか、流れはあまり感じない。


 はぁ、はぁ、と呼吸が荒くなっている事に気付く。別に死のうとしている訳ではない。ただ、このまま進んでいけばどうなるのだろう、という好奇心に駆られているだけだ。


 左手で服の袖をぎゅっと握り締め、また一歩、段差を降りると、一気に膝下までが水に浸かり、冷たい感触が全身に伝わる。カチカチと歯が音を立て、より一層呼吸が荒くなる。


 怖い。


 弱音を吐く心から目を背け、震える膝を見て見ぬ振りをして、また一歩前に踏み出そうとする足から力が抜けそうになるのを必死に堪えながらゆっくりと足を前に出すと、足の付け根までが水に飲まれた。


 怖い。怖い。怖い。怖い。死にたくない。


 涸れたと思っていた涙が溢れ出し、頬を伝って流れ、視界が滲む。それでも私の中にある何かが邪魔をして、足が後ろに下がらない。


「ぁ……うぐっ……」


 呻き声のような物が喉から絞り出される。蛇口が壊れたように涙が溢れる。


 この恐怖から逃れるためには後ろに下がれば良いだけなのに、そんな簡単な事が分からなくなる程に私はパニックになっていた。


「大丈夫ですか!?」


 女性の叫ぶような声が聞こえたかと思えば、左腕を掴まれ、痛みを感じて顔を顰める。その次の瞬間、抱き上げられるようにして水から引っ張り上げられ、女性と一緒に石の上に倒れ込んだ。


 何が起きたのか分からず、呆然と私の目の前に居るスーツを着た女性を見つめていると、女性は私を見て大声を上げる。


「何してるんですかこんなとこで! 危ないでしょ!?」


 女性の怒鳴る声は私の耳を通り抜け、その間に私は彼女に助けられた事を理解した。


「怪我とかしてませんか?」


 女性が肩で息をしながら訊ねてきて、私は黙って頷いた。


「こんな所で何してたんですか?」

「……」


 私は何をしていたのだろうか。何をしようとしていたのだろうか。もともと目的は無かったし、少なくとも死のうとしていたわけではなかった。


「もしかして、家出?」

「……」


 考えるよりも先に首肯する。


「高校生? 大学生? たぶん高校生だよね?」

「……」


 私はまた黙ったまま肯定する。すると女性は少し何かを考えるような仕草をして、突然立ち上がった。


「立てる?」


 私は差し出された手を躊躇いがちに取り、立ち上がる。水に濡れた服が重い。


「これ、あなたの荷物だよね?」

「……はい」


 小さいながらも漸く声が出た。


「うち、ここからそんなに遠くないから、良かったらうちに泊まっていって」


 女性はそう言って暫く私を見つめた後、私の鞄を持って階段を上っていく。


「ほら、早く」


 急かされるがままに、私は脱いだ靴を手に持ち、女性の後を追って階段を上る。


 女性の家は橋を渡った先にあるらしく、私の鞄を持ったままコツコツと靴を鳴らして歩いて行く。その一歩後ろからついて行っていると、不意に女性がこちらに振り返った。


「私はあさいゆうかって言うの。優しい香りで優香ね。あなたは?」


 突然始まった自己紹介と、どこか聞き馴染みのある名前に驚きながらも「伊東紅音です」と呟くように答えた。


「紅音ってどういう字を書くの?」


 どうしてそんな事を訊ねるのかと不思議に思いながら答える。


「口紅の紅に音で紅音です」

「あっ、二文字なんだ」


 へぇ、という興味があるのか無いのかよく分からない声が車の走行音に掻き消される。


「あっ、そうだ。そろそろ自分で持って……って、それ何? えっ? 靴履いてなかったの!?」


 どうして、と訊かれたら、ただめんどうだったからと答えるしかなかった。


「ごめんね。全然気が付かなくって。ほら、待ってるから早く履いて。なんか私が虐めてるみたいじゃん」


 履いていなかったのは私の問題なのに、謝られてしまったがために少し罪悪感が湧いてくる。


 足の裏の石を手で払い、裸足のまま靴を履く。一緒に脱いだ靴下はパンツのポケットに入れておいた。それから鞄を受け取り、優香さんと並んで歩く。


 暫くして辿り着いたのは大きなマンションだった。私みたいな者が入っていいのかと躊躇っていると、また「早く」と急かされ、小走りで後を追う。


「こんな大きいマンションに住んでるけど、私が住んでるのって一階なんだよね」


 優香さんはそう言って笑うが、私は初めて見る建物に驚くばかりで笑う余裕は無かった。


 ネームプレートに浅井と書かれた部屋の扉が開かれ、案内されるままに中に入る。


「遠慮無くーって言いたいところだけど、ちょっと待っててね。タオル持ってくるから」


 靴下を脱ぎ、洗面所と思しき部屋に消えていった優香さんはバスタオルを持って戻ってきた。


 鞄と交換でバスタオルを受け取り、靴を脱いで、申し訳無く思いながら濡れた足を拭く。


「さっ、上がって」


 恐る恐る廊下に足を踏み入れ、できる限り汚さないように爪先立ちでついて行くと、浴室に案内される。


「今からお湯湧かすから湯船は使わせてあげられないけど、先にシャワー浴びちゃって」


「……すみません。ありがとうございます」


「じゃあごゆっくり」


 どうしてここまで親切にしてくれるのだろうか、と疑問に思いながらも、濡れた服を脱ぎ、綺麗に畳んで隅っこに置いておき、シャワーを浴びる。


 洗剤を使うのは申し訳無いからと水を浴びるだけにしておこうかと思っていると、「シャンプーとか自由に使ってもらって良いからね。あと着替えも置いとくから」と声が掛かった。しかしそう言われたからといって遠慮無しに使える程図太い神経を持ち合わせていないので、自らの長い髪を恨みながらシャンプーとボディーソープだけを借りた。


 浴室を出ると、下着とシャツ、それからジャージが置いてあり、バスタオルで身体の水気を取った後、罪悪感を積み重ねながらそれを着て洗面所を出る。


「どう? サイズ合ってる?」

「はい。ありがとうございます」


 私よりも優香さんの方が少し背が高く、服のサイズは私と殆ど変わらないようだった。


「じゃあ夕飯作るんだけど、カレーで良い?」

「あっ、えっと……おにぎりを買ってあって……」

「あぁ、そうなの? 二人分作ろうと思ってたんだけど……」


 どうしようか、と優香さんは唇に指を当てて考え始める。私としては優香さんは優香さんで食べてくれれば良いと思っているのだが、それ以前にどうしてこんなにも良くしてくれるのかが訊きたくて堪らない。


「まぁ、そのおにぎりは置いといて、一緒に食べない? どうせ一人で食べても寂しいし。ついでに話聞かせてよ」

「……」


 どう答えて良いか分からないまま首を縦に振る。


「よし、じゃあちょっと待っててね……って言ってもご飯が炊けるまで二十分くらい掛かるんだけどね」


 そっち座ってて、と背中を押され、リビングの炬燵に座らされる。何も頼んでいないのに、ここまで良くされると、何かをしないと申し訳無くなってくるのだが、余計な事をしない方が良いのではないかという思いもあり、迷っているうちにご飯が炊けたようで、それからあっという間に完成したカレーが目の前に置かれた。


「そっち甘口なんだけど、中辛が良かったりする?」


 やっぱりレトルトなんだ、と思いながら首を横に振る。


「そう? じゃあ、いただきます」

「いただきます」


 手を合わせ、躊躇いがちにスプーンを手に持ってカレーを口に運び入れる。言っては悪いが、想像通りの味がした。


 少しして優香さんがテレビの電源を入れ、芸人の笑い声が部屋に響く。


「そういえば、おにぎりって何買ってきたの? コンビニのやつ?」


 ふと頭に浮かんだ、お酒を飲んだのだろうかという疑いを振り払いつつ、鞄からコンビニで買ったおにぎりを机の上に並べる。


「ツナマヨと……塩です」

「まぐろとか高菜とかじゃなくて塩なんだ。好きなの?」

「はい。まぁ……」

「へぇ」


 それから少しの間沈黙が生まれ、場を持たせるためにお茶を一口飲む。


「んー……何があったのか訊こうかと思ったけど、保護者の人に連絡入れるだけにしようかな」

「えっ?」

「あっ、もし親に虐待されてるとかなら言ってね? まぁ、連絡先が変わるだけなんだけどね?」

「えっ、いや、そういうのは無いんですけど……」


 視線を下げ、少し考えた後、思い切って訊ねてみる。


「あの、なんでこんなに……その……し、親切にしてくれはるんですか?」

「あれ? もしかして関西の人?」


 思わず溜め息を吐きそうになったのを、既の所で堰き止める。


「あぁ、ごめんね。えっと……まぁ、何となく?」


 首を傾げる優香さんを見て、同じように首を傾げる。


「まぁ、そういうのは良いじゃん。とりあえず、保護者の人に連絡入れさせて。でないと私誘拐犯になっちゃうし」


 その言葉を聞いて、声も出ない程に驚き、目を見開いていると、優香さんは苦笑した。


 優香さんによると、未成年者の家出は捜索願が出される可能性が高い上に、保護した人は下手をすると誘拐犯みなされる可能性があるらしい。説明する合間に何度も保険を掛けるような言葉を言っていたので、どのくらい信頼できる情報なのかは分からないが、そこまで親にも、優香さんにも迷惑を掛けたくはないため、私は素直に家の電話番号を教えた。


 優香さんは私が携帯を持ち歩いていない事に驚きつつも家に連絡を入れてくれた。その後も私が家出をした理由を深く訊かれる事も無く、何故か炬燵で一緒に寝る事になり、疲れていた私の意識は一瞬で落ちていった。

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