第51話 3月19日

 プシュゥ……という音と共に鉄の扉が開いた瞬間、私はホームに降り立ち、同じ制服を着た人たちの先頭となって改札を出ると、真っ直ぐに蒼依の元へ向かう。蒼依は俯いて携帯を見ており、驚かせてやろうと思ったが、あと数歩近付けばというところで不意に蒼依がこちらを向いて目が合った。


「おはよう、蒼依」


 何でもない風を装って小さく手を振って駆け寄り、同じように手を振り返してくれた蒼依の手を握り、学校に向けて歩き出す。


「おはよう。ちょっと久しぶりね」

「そうね」


 今朝起きた時は久々の登校に少々憂鬱な気分で過ごしていた私だったが、電車に乗って移動しているうち、いつの間にか蒼依に会える事に浮かれていたらしい。一週間近く会わなかっただけで、二日に一度は電話で声も聞いていたのにも拘わらず蒼依を恋しく想っていたのだという事に気付き、えへへ、と気恥ずかしさを誤魔化すように笑う。


「今日って別に何も要らんかったやんな?」


 今日は終業式だけなので、いつもの重たい教科書は鞄に一つも入っていない。ここまで来て確認したところでどうしようもないのだが、少しでも不安を解消しておきたかった。


「うん。教科書販売があるから、注文用紙があれば大丈夫」

「やんな。持って来てるし大丈夫」


 左手で肩に提げた鞄を掴み、ほっと息を吐く。それから話の流れに沿って「蒼依は?」と訊ねる。


「自分で言ってて忘れてたら馬鹿でしょ」

「いやぁ、分からんで?」


 私も蒼依に限ってそんな初歩的なミスをするとは思ってはいないが、わざとからかうように言うと、蒼依はくすりと笑った。


「今日はやけに上機嫌ね。そんなに私に会えるのが嬉しいん?」


 お返しと言わんばかりに蒼依が言う。照れるのも癪なので、堂々と「もちろん」と胸を張って答える。プレゼントを貰っても嬉しいと感じない私だが、そんな私でも今抱いている感情が嘘ではない事くらいは分かる。


「何てったって一週間振りやからなぁ」

「それにしてもテンション高くない?」

「下げた方が良い?」


 そう言って蒼依の顔を覗き込むと、蒼依はほんの少し眉間に皺を寄せて私を見る。


「それは止めて。紅音がテンション低い時は冗談抜きで気力が吸い取られる感じするから」

「えぇ……酷くない?」

「まぁ、テンションは高い方が可愛いし、今の状態を維持して欲しいところではあるんだけど……」

「それは無理」


 自分でも今のテンションは不自然なくらいに高いと感じているので、考えるよりも早く即答すると、蒼依は私がそう答えると分かっていたかのように「でしょうね」と言って笑った。


 学校の近くまで来て、繋いでいた手の力を緩めると、心地の良い圧迫感が無くなって手が離れる。その間も蒼依は言葉を途切れさせず、私も何食わぬ顔をして会話を続ける。いつものように見張り番をしている先生方と挨拶を交わし、昇降口で上履きに履き替え、心做しか普段より賑やかな校内に入っていく。


 狭い石階段を上り、慣れ親しんだ教室に後ろの扉から入る。


「おはよう」


 椅子の背凭れに脱いだコートを掛け、前の席に座っていた美波に声を掛けると、美波は俯かせていた顔を上げ、私を見てマスクで口が隠れていても分かるくらいに真顔から笑顔へ変化させた。


「おはよう。元気してた?」


 美波は携帯の電源を切ると、身体をくるっと回して私の机を肘置きにする。


「元気やで。美波は?」

「それがねぇ、私は軽く風邪引いたんですよねぇ」

「あっ、そうなん?」


 何も入っていないかのように軽い鞄を机の横にあるフックに掛け、後ろ手にコートのポケットから携帯を探していると、携帯と一緒に小さい袋のような物と、それに包まれた固い感触が指に当たった。


「うん。もう熱も下がったし、咳も出ぇへんから大丈夫なんやけどね?」


 美波の言葉に相槌を打ちながら携帯と一緒にそれを取り出して机に置く。


「飴とか要る?」


 それの正体が何なのか思い出した私はそれを指差して訊ねると、美波は少し眉間に皺を寄せた。


「えっ? どっから出してきたん?」

「コートのポケットにずっと入ってた」


 ずっと、と言うと少し語弊があるように思えるが、四日くらいは経過しているので、完全に嘘というわけでもない。


「要らんわそんなん。自分で食べて」

「えー、要らんの? 蒼依は?」


 良いタイミングでやってきた蒼依にも同じように訊ねてみると、蒼依はそれを手にとってくるくると指先で転がすように回した後、私を見る。


「誰かから貰ったん?」

「うん。ホワイトデーやからってアルバイト先の先輩……前言うてた岸さんがくれはったやつ。実際に貰ったんは十三日やけど」

「人に貰ったやつ他人にあげようとしてたん?」


 美波が私を訝しむような目で見ていた。


「えっ? うん。ずっとポケットに入れたまんま忘れててん」

「紅音ってアルバイト先の人にバレンタイン渡してたん?」

「ううん? 渡してないけど、なんか貰った」

「逆チョコみたいな?」

「ホワイトデーやから逆でもチョコでもないけどな」


 そこでふと、浩二からホワイトデーのお返しを貰っていない事を思い出し、蒼依の後ろを見てみるが、浩二はまだ登校してきていないようで、教室のどこにも見当たらなかった。


「どうしたん?」


 突然きょろきょろしだした私に蒼依が訊ねてくる。


「いや、そういえば浩二からお返し貰ってへんなぁって思って」

「あぁ、そういえばあげてたっけ」

「そう。まぁ、ホワイトデー当日は学校休みやったからしゃあないっちゃしゃあないけど……」

「貰える物は貰っとかなね」


 被せるように美波が私の言葉を代弁してくれたので、私は「そういう事」と頷き、頬杖を突く。


 少しして、ざわざわと賑やかな廊下の方から聞き覚えのある声が聞こえてきて、その声が私の横を通り過ぎると、急に会話が途切れた。しかしその声の持ち主である彼女たちの足音は教室に入ってきて、その次の瞬間、私の肩を叩くように手が置かれ、「おはよーう」と頭上からその声がした。


「おはよう」と言いながら私は肩に置かれた手を退けると、夕夏が私から彩綾を引き剥がしながら「おはよう」と返してくれる。


「相変わらず朝から元気ね」


 蒼依が呆れたように壁際に追いやられた彩綾を見て言った。


「いや、二人がテンション低いだけやからな?」

「でも今日の紅音はいつもよりテンション高めだから」

「これで?」

「大分落ち着いてきたけど」

「じゃあいつも通りやん」


 蒼依と彩綾が話し始めると、何故か二人だけの空間が出来上がる時がある。私はそれに寂しさを感じながらも、間に割って入れないので二人のやり取りをただ眺めるか、夕夏と話すしかできなくなる。


 癖のように夕夏を見ると、夕夏も私の方へ顔を向け、互いに困ったように笑う。それを見ていた美波がにやにやと笑みを浮かべながら訊ねてくる。


「二人は浮気相手?」

「なに? 紅音、また夕夏と浮気してるん?」


 蒼依は微かに口を弓なりにして私を見ていた。


「またってなんやねんな。一回もした事無いし」

「ほんまにしてたら割とショックやねんけど」


 今度は彩綾まで冗談に乗ってくる。


「だから浮気してへんて。なぁ?」


 助けを求めて夕夏を見ると、「えっ?」と夕夏は目を見開いて私を見てくる。


「えっ? じゃなくて。なんでそっちの流れに乗んねん」

「……彩綾への意趣返し?」


 夕夏は首を傾け、目線を彩綾に向けた。


「えっ、私何かした?」

「紅音の肩触ったやん」

「浮気判定厳しくない?」

「浮気とは言ってないけど……。そっか、浮気してたんや……」

「いやいや、そういう揚げ足を取るようなんは無しやわ」


 また別の所で始まってしまった言い争いから意識を逸らし、何となく黒板の方へ視線を向けると、視界の隅に浩二が映った。つい先程ホワイトデーの話題で名前を出したばかりで、半ば無意識に見ると、ばっちりと目が合った。その次の瞬間、チャイムが鳴り響いた。


 後ろで行われていた言い争いもそれをきっかけに終わりを迎え、まだ時間があるからと軽く雑談をした後、それぞれ自分の席に戻っていった。


 いつ浩二にホワイトデーの事を訊こうか迷っていると、先生が教室に入ってくると同時に本鈴が鳴り響く。チャイムが鳴り終わって教室内が静かになると、先生からちょっとした連絡事項があり、防寒具として許されている膝掛けを持って終業式に向かう。


 式典とは言っているが、入学式や卒業式のように入退場や祝辞などは無く、あったとしても表彰くらいの物で、後は校長を初めとする教師陣が春休みでの過ごし方など長ったらしい有り難いお言葉を聞いて終わりとなる。


 寒い体育館も六百人が集まればそれなりに暖かくなるが、それはそれとして固い床に座ってじっとしているというのもなかなか苦痛なもので、何度も体勢を直しながらスピーカーから聞こえてくる声を聞き流す。


 少しうとうとし始めた頃に終業式が終わり、号令が掛かって慌てて立ち上がると、感じていた眠気が吹き飛んでいった。


「疲れた~」


 体育館の外に漸く出られた私は澄んだ空気を肺に取り込み、両腕を上げて大きく伸びをする。ついでに少し身体を捻ってやると、ずっと同じような姿勢で居たために、身体がバキバキと小気味良い音を立てた。


「もうこれで一年終わりなんだね」


 感慨深そうに蒼依が言った。「そうね」と私が頷くと、蒼依は私の右手を取って、両手で温めるように挟み込んだ。周りには普通に私たちの知っている生徒がたくさん居て、私もほんの少し抵抗しようとしたものの、これくらいなら変に見られる事は無いだろうと右手の力を抜いて蒼依に委ねる。


「クラス一緒になるかな?」


 蒼依は特に何かを気にする様子も無くいつもの調子で言った。


「気が早くない?」

「別に今から楽しみにしててもいいでしょ?」


 妙にテンションの高い蒼依を珍しく思うあまり、私は「まぁ、ね」と曖昧に返事をする。


「二年生からは七組が短大とか専門学校目指す人で、八組が国公立大とかを目指す人になるらしくて……」

「そうなん?」

「そう」

「てっきり理系と文系で分かれるもんやと思ってた……」

「私もそう思ってたんだけど、先輩曰く違うみたいよ?」

「へぇ。まぁでも、それやったら一緒になるんちゃうの?」

「いや、八組の方にも伊藤さんが居るでしょ?」

「あぁ、その人がどっちかにもよるんか」

「そうそう。できれば一緒が良いなぁって」

「そればっかりは先生次第やからなぁ」


 そんな事を話しながら階段を上り、私たちの教室に戻ってくると、すぐに先生も教室にやってきて、ホームルームが始まる。


 いつものように連絡事項がいくつか伝えられ、それから通知表を渡される。通知表と言っても小学校の時のような厚紙ではなく、ノート一ページ分の薄い紙に出席日数と科目毎の単位数や評価点、平均点などが書かれているだけの簡単な物で、先生からのコメントなどはどこにも書いていない。


 そういえばこんな点数を取っていたな、と懐かしく思いながら一番重要な評定の欄を見ていると、美波の手が視界に入ってくる。


「紅音、どうやった?」


 小声で美波が訊ねてくるので、見えるように紙を美波の方へ押しやる。


「すごっ、五と四ばっかりやん! というか全部四以上?」

「うん。美波は?」


 吊り上がろうとする頬を抑えながら訊ねると、美波は「いやいや」と声に合わせて顔の前で手を振る。


「こんなん見た後で私の見せるん恥ずかしいわ」

「人の見といて自分の見せへんのは狡くない?」


 そう言うと、美波は自らの机の上に置いてあった紙を持って口元を隠す。


「笑わんといてや?」

「一と二ばっかりやったら笑ったるわ」


 鼻を鳴らし、美波のそれを受け取った。机の上に置いて見てみると、あれだけ驚いていた美波も三が付いているのは体育のみで、それ以外は全て四以上だった。


「美波も全然低くないやん」

「まぁ、提出物はしっかりしてたし、欠席もしてへんしな」

「なるほどね」


 それで言えば私の成績で四が付けられている科目は、提出物を忘れていた物ばかりだ。体育に関しては自分の運動神経を恨むしかないが、それ以外の科目は私がもう少し気を付けてさえいれば点数を落とさなかったと考えると、なかなかに悔しい物がある。


 蒼依はどうだったのだろうかと思っていると、先生が手を叩いて注意を向ける。美波も話すのを止めて正面に向き直った。どうやら通知表を渡し終えたらしく、教室が静かになったところで、今度はまた別のプリントが最前列の人に配られる。


 美波からそれを受け取り、先生の話を聞きながらプリントに目を通す。アンケートの形式になっているが、やっている事は少し前にやったような一年の振り返りと同じような物だった。


 アンケートは十数分もすれば終わり、回収される。それからこの後に控えている教科書販売についての説明が軽くあった後、先生の指示に従い、名簿の前から順に教科書を買いに行く。


 忘れ物があると怖いので、鞄を持って席を立ち、教室を出て蒼依を待つ。


「お待たせ」

「ううん。今来たとこ」

「そらそうでしょ」


 そんな下らないやり取りをしつつ、教科書販売をしている一階の教室に向かう。


「紅音、成績どうだった?」


 他のクラスの迷惑にならないよう、小声で蒼依が訊ねてくる。


「三は無かったで」

「さすが」

「蒼依も絶対無いやろ」

「うん」


 もちろんだとでも言いたげに頷き、通知表を見せる蒼依はとても嬉しそうな表情をしていた。私はそれを受け取り、予想通りと言えば予想通りな並びをしている数字に思わず笑いが溢れる。


「三どころか四も無いやん」

「いや、家庭科は四だった」

「あっ、ほんまや。見逃してたわ」


 試験の点数も当然のように全て平均以上で、学校を一度も休んでいないので、もちろん欠席はゼロ。うちでは順位が出るわけではないので、本当のところは分からないが、恐らく蒼依が学年で一番の成績なのだろう。この上部活でも上級生からも頼られるくらいの楽器の腕前だというのだから、恋人としての贔屓目無しに見ても文句の付け所の無い優等生だ。


「ほんまにすごいなぁ」

「ありがとう。がんばった甲斐があったってものね」


 通知表を返すと、蒼依はそれを二つ折りにしてファイルに挟み、鞄に仕舞った。それから蒼依は私の方に手を差し出してきて、「ん」と何かを要求してくる。


 まさか手を繋ごうと言っているのかと少し正気を疑ったが、先程の流れから通知表が見たいのだろうと察して鞄を漁る。


「はい」

「見てもいいの?」

「見たかったんじゃないの?」

「いや、そうなんだけどね?」

「別に見られて恥ずかしいような事は書かれてないし」

「じゃあ遠慮無く」

「階段転げ落ちんといてや」

「大丈夫」


 蒼依はそう言ったが、やはり階段を見ずに歩かれるのは怖くて仕方が無かったため、気休めにでもなればと蒼依の腕を掴んでおく。


「体育四なんだ」

「そうやで?」

「別に保健のテストの点数悪くなかったよね?」

「うん。でも私球技苦手やから」

「あぁ」


 蒼依は何かを察したように笑い、頷いた。


「喧嘩なら買うけど?」

「何も言ってないでしょ」


 蒼依はそう言いながら私の通知表を折り畳んでから、あっ、と声を上げた。


「ごめん、折っちゃった」

「あぁ、別にええよ。折られて価値が下がるような物でもないし」

「メルカリで高く売れたり」

「するわけないやろこんなもん」


 中途半端に折られた通知表を改めて二つ折りにして、ファイルに挟んで鞄に仕舞う。


 階段を下りて行くと、段々と人の声が大きくなる。一階まで降りると、私たちと同じように教科書を買いに来たのであろう他のクラスの人たちが教室の前に列を作っていた。廊下を覗き込んで状況を確認してから列の最後尾に並ぶ。


 こんなに並んでいては結構な時間が掛かるだろうと思いながら並んだが、教科書は既に纏めてある物を受け取るだけのようで、一人一人にそれ程時間は掛からないようだった。少し進んで教室の中を見てみると、どうやら受付が六つあるようで、それによってあっという間に私たちの番が回ってきた。


 必要な教科書が書かれたプリントを受付の人に渡し、紙で括られた教科書が大量に入った大きな紙袋を貰い、さっさとその場を後にして、先に出ていた蒼依に合流する。


「鞄要らんかったな」

「ね。考えてみればこれだけあると鞄に入りきらなかったかも」

「あぁ、確かに」


 重い紙袋を腕に提げ、階段を上って教室に戻る。ガラガラと音を立てて蒼依が扉を開けると、教室中の視線が集まり、後ろに居た私はそれらの視線から逃れるようにそそくさと自分の席に座る。


「おかえり。思ったより早かったなぁ」

「うん。列は出来てたけど全然待たされへんかったわ」

「そうなんや」


 美波と話していると、次の五人が呼ばれて教室を出て行った。


「因みに今は何やってんの?」

「今は自習やから、正直暇」


 そう言われて周りを見てみると、自習とは言われても勉強道具を持って来ている人は少なく、授業中ではあるため携帯で何かをするわけにもいかず、小声で近くの友人と話すか机に突っ伏して寝ようとしている人が多いようだった。


「じゃあ本読んどこうかな」


 幸いにも私は暇潰しの道具を持っているため、鞄から小説を取り出して栞が挟まっていた場所から読む。


 少ししたら美波が教科書を買いに席を立ち、十分ほどしたら戻ってくる。それからまた時間が経ち、小説の半分くらいまで来た辺りでチャイムが鳴り響く。まだ教科書を買いに行っていて不在の人が居たが、先生は号令を掛け、一年生最後の授業が終わった。


 美波と軽く別れの挨拶を交わした後、余韻に浸る事も無く、いつものようにコートを着て、荷物を持って蒼依の元へ向かう。


「蒼依は今日部活の人等と食べるんやんな?」

「うん。ちょっとパートで話し合いがあるから」

「そっか。じゃあ私も帰ろうかな」

「うん。気を付けてね」

「ありがと。蒼依も部活がんばってな」

「うん。ありがとう」


 またね、といつものようにあっさりと別れる。人によっては今日から暫く会えなくなってしまうが、蒼依とは春休みにも会う約束をしている上に、ほぼ毎日連絡を取り合っているのだから、寂しさも何も感じない。同じように彩綾と夕夏とも遊ぶ約束をしているため、寂しがる理由などどこにも無い。


 重い荷物を片手に教室を出て、階段を降りる。昇降口で靴を履き替え、上履きを袋に入れて出て行こうとすると、浩二が昇降口に入ってきて目が合った。


「あっ、ホワイトデー」


 真っ先に頭に浮かんだ言葉をそのまま口にすると、「一言目がそれ?」と浩二は苦笑した。


「いや、朝言おうと思ってたんやけど、機会が無かったというか、忘れてたというか」

「まぁ俺も切り出すタイミング迷ってたから丁度良かったわ」

「もしかして追い掛けてきた?」

「まぁ、そうやな。いつも蒼依とかとご飯食べてから帰ってるから今日もそうすんのかなぁと思って友達と喋ってたらいつの間にか二人とも居らんくなっててめっちゃ焦ったわ」

「そうなんや」


 気付いてしまったからには貰うまで帰るわけには行かず、壁に凭れて視線をあちらこちらへ彷徨わせながら待っていると、靴を履き替えた浩二が白い袋を手渡してくる。


「えっ、靴くれんの?」

「いや、靴はこっちやって。靴にしてはちっさ過ぎるやろ」


 私の間抜けなボケに浩二は差し出してきた右手とは反対側の手を持ち上げて示す。そこには教科書が入っているであろう大きな紙袋とちょうど靴が入りそうな大きさの袋があった。それからまた手を入れ替えて、先程の白い袋を手渡される。


「こっちがホワイトデーのお返し」

「これ中見ても良い奴?」

「別にええけど……」


 言葉を濁らせた浩二を不思議に思いながらも、袋から立方体の小さな箱を取り出し、側面の透明な部分から中身を覗く。


「何これ、カップケーキ?」

「うん。初めは香水とかにしようかと思ってんけど、さすがに重すぎるなぁと思ってそれにした」

「へぇ」


 浩二は恐らくホワイトデーのお返しにあげる物の意味の話をしているのだろうと予想は付いたが、香水にどういった意味があるのかは分からないので、曖昧な返事をする。


「ありがとうな」

「おう」


 ここで食べるのは行儀が悪いだろうと、形が崩れたりしないようにそっと箱を袋に仕舞う。好きな物が自分でもよく分かっていない私だが、食べ物に関しては甘い物が好きだと自信を持って言える。その所為か自然と頬が上がってしまっている事に気が付いたが、それをわざわざ抑えようとは思わなかった。


「因みに手作り?」


 ふと気になって訊ねてみる。


「俺ができると思う?」

「意外とできそう」

「残念。実はできひんねん。だからそれはお店で買った美味しいやつ」


 へぇ、と無愛想な返事をしながら袋に書かれてある文字を見てみるが、私の知らない店の名前だった。


「食べた事あんの?」

「昨日の夜食べたけどめっちゃ美味しかったで」

「楽しみにしてるわ」


 じゃあまた、とお別れをしようと思い、口を開こうとするよりも先に、浩二が「教科書重いやろうし、駅まで自転車の籠に入れて行こか?」と提案してきた。申し出自体はとても有り難く、楽が出来るなら遠慮無くそうしたいところだが、今の私には蒼依という恋人が居るため、何も考えずに頷くというのは難しかった。


 今朝も夕夏が彩綾に浮気だなんだと言っていたが、浮気のライン引きは難しい。疚しい事が無いのだから堂々としていればいいのではないかと思う一方で、自分は蒼依が誰かと二人きりで帰っていたら嫉妬や不安で胸を一杯にしている癖に、自分がそれをやっていいのかとも思う。


 そんな事を考えている間、浩二は黙って待っていてくれていた。悩むと時間が掛かるので、考えているアピールのために「うーん……」と声に出しながらとりあえず歩き出してみると、浩二は黙って付いて来てくれる。


 亀のようにゆっくりと歩きながら考え、駐輪場まで来たところで、勢い半分に決める。


「やっぱり遠慮しとこうかな。わざわざ駅まで歩いて来てもらうのも申し訳無いし」

「別にそれくらい大丈夫やで?」

「いや、荷物もさすがに二つ乗っけたら下り坂とかしんどいやろうし、大丈夫」

「そっか」


 残念そうにしているのが声に滲み出ており、沸き上がる罪悪感を振り払うように訊ねる。


「浩二はこの後バイトやろ?」

「うん。よう覚えてんなぁ」

「いや、適当に言うただけやけど」

「あぁ、そう」


 浩二は心做しかまた肩を落としたように見えたが、見なかった事にする。


「浩二もさっさと帰ってバイト行く準備しとき」

「うん。そこまで言うならそうしよかな」

「食べた感想はまた言うたるし」

「おう。じゃあ俺は先帰るわ」


 浩二はそう言ってペダルに足を掛け、自転車に跨がる。


「うん。気を付けてな」

「紅音もな」

「うん」


 今度こそ、またね、と手を振り、あっという間に小さくなっていく背中を見送った。それからすぐに荷物を乗せてもらえば良かったと後悔しつつ、私も学校を出て坂を下っていく。


 何度も持ち手を入れ替えながら歩く事二十分。駅に着くなり到着した電車に乗り込み、運良く空いていた席に座って、はぁ、と深く息を吐いて脱力する。痛む手を見てみると、持っていた指が赤くなってしまっていて、あまり効果は無いと分かりながらも両手を擦ったり揉んだりしてみる。


 中途半端な所で終わってしまっていた小説を読み終わり、少しして電車を乗り換え、加茂駅で降りる。そこからはまた重たい荷物を片手に家まで歩き、漸く辿り着いた家の玄関に教科書を置いて、廊下に座り込んで一息吐く。それ程疲れてはいないのだが、何となくやる気が無かった。


 暫くそのままぼうっと過ごした後、立ち上がって荷物を自室に運び入れる。家には当然誰も居らず、私は静かな空間で黙々と荷物を片付ける。


 貰った教科書の確認も終わり、制服から部屋着に着替えてベッドに寝転がったところで昼ご飯を食べていない事を思い出し、浩二から貰ったカップケーキを食べる。たった一つだけだったが、何故かそれだけで満足できてしまった。


 時間はまだ十三時になったばかりで、やろうと思えば何でもできるくらいには時間が有り余っている。勉強をしなくてはならないわけでもなければどこかに行かなければならないわけでもない。それは昨日までと何も変わらないのだが、暇潰しに本を読むのもゲームをするのも昨日までにやってしまった。あと思い付く限りでできるのは勉強くらいの物だ。


 そういえば、と今日貰った教科書にまだ殆ど目を通していない事を思い出した。早速先程棚に並べたばかりの数学の教科書を取り出し、ベッドに腰掛けて表紙を捲る。当然書かれているのは知らない言葉ばかりだが、軽く説明を読んだだけで何となくどういう物なのかは理解できた。私はこの理解して知らなかった事が分かるようになるのが勉強の楽しい所だと思っている。あとはこれらをこの先覚えていられるかどうかだ。


 軽く、と思いながらノートを広げて初めの方の問題を解いてみると、数学という好きな科目に手を付けてしまったからか、段々と気分が乗ってきて、あっという間に一時間が過ぎ、気が付いた頃には十五時になろうとしていた。


 休憩がてら携帯を持って部屋を出ると、帰ってきた時には開いていた筈の妹の部屋の扉が閉まっていた。変わり者の空き巣でなければいつの間にか帰ってきていた妹が中にいるのだろう。声を掛けようかとも思ったが、私のように集中して何かをしていたら申し訳無いので、そっとしておく。


 あまり物音を立てないよう慎重に階段を降り、台所でコップ一杯の水を飲んで喉を潤す。小腹が空いたからと軽く食べられるような物は菓子パンくらいしかなく、明日の朝食を今食べてしまうわけにはいかないので、空腹には目を瞑って炬燵に入る。


 座椅子を枕にして寝転がり、炬燵布団を肩まで被る。何か無いかと携帯で動画を検索してみるが、気になる物は何も無い。炬燵に入らず部屋に戻れば良かったと軽く後悔しつつ、昼寝をしようと瞼を閉じて、考え事をしないように呼吸に意識を向ける。暫くすると意識が徐々に沈んでいくような感覚になり、そのまま眠りに落ちた。


 ふと目が覚めると、玄関の方から物音が聞こえてくる。朧気な意識の中、瞼を開いて音がする方へ顔を向けると、スーツを着た母が居た。


「おっ、目ぇ覚めた?」

「うん。おかえり」


 炬燵から這い出て身体を起こし、時計を見ると、昼寝にしては長すぎたようで、十八時を過ぎてしまっていた。


 携帯を開くと、蒼依から『部活終わった』と五分程前に一言だけ送られて来ていた。既読を付け、『お疲れ様』『気を付けて帰ってね』と返し、夕飯の準備をしに台所に向かう。


「成績はどうやった?」


 ぼうっとしていた間に着替えを済ませた母が訊ねてくる。


「成績はまぁ、三は無かった」

「えっ、すごいやん!」


 褒められている事は理解できるが、母があまりに大袈裟に驚いて見せるので、子ども扱いされているように感じたからか、少し腹が立った。


「今日は何するんやっけ」

「えっと、今日はねぇ……」


 自らの苛々を誤魔化そうと強引に話を変え、包丁やまな板を用意し、母と手分けして夕飯を作る。その途中で妹が降りてきて、父が仕事から帰ってくる。それから少しして夕飯が完成し、一斉に食べ始める。


 食べ終わったらいつものように妹が先に入り、父に食器洗いを任せる。その間、私は炬燵に入ってのんびりと過ごす。


 蒼依から返事が来ていないかと携帯を覗いてみるが、もうそろそろ帰っていても不思議ではない時間なのだが、何も連絡は無かった。充電が切れたのか、単に見ていないのか。少し心配ではあるが、そういう事もあるだろうと特に気にしなかった。


 妹と交代で風呂に入り、歯磨きやスキンケアなどを済ませてから父に譲り、携帯を持って部屋に戻る。蒼依からはまだ連絡が無く、徐々に寂しさと不安が大きくなってきた。催促も兼ねて『お風呂入ってきた』と送り、いつ連絡が来ても良いように画面が見える状態でテーブルに置いて、何をしようかと考えながら数学の教科書をパラパラと捲る。


 国語や物理など、気になる教科書を取り出し、暇潰しに目を通す。合間に携帯を見るが、蒼依からの連絡は無い。嫌な予感が頭を過ぎり、不安が膨れ上がる。

電話を掛けようかと思ったが、もし出られない状況なら申し訳無いなと思い、『大丈夫?』とメッセージを送る。当然既読は付かない。そのまま五分が経ち、十分が経っても既読は付かなかった。


 半ば自棄になって勢いのままに電話を掛けてみたが、応答は無かった。心配だからと言ってあまり連続でやっても迷惑だろうと思う一方で、不安は大きくなっていく。


 いつだったか、毎日電話をしているのはおかしいと美波に言われた事がある。確かに寝る前の勉強のついでとは言え、平日休日問わず毎日電話をしていると、段々と話題が無くなってしまっていたので、毎日するのは控えようという事になった。


 その後も色々と調べていると、人によっては連絡を取るのも毎日ではないという人も居るという事を知って衝撃を受けた。更に先程の私のように連絡が無いからと催促をするような人は一般的に重たいと言われてしまうらしい。そうは言っても心配で堪らないのだから仕方が無いように思うのだが、世の中には平気な人も少なくないらしい。


 ベッドに入り、布団を被って連絡を待つ。ゲームや音楽の動画を流し、騒ぐ鼓動を落ち着かせ、一時間が経ち、二時間が経った。いつもならそろそろ寝ようかと話している時間になったが、蒼依からの連絡は無い。彩綾たちに訊ねてみようかとも思ったが、そこまですると本当に重たい女だと言われてしまいそうで気が引けた。


 もしかすると学校に携帯を忘れて帰ってしまったのかもしれない。それならこうして待っていても仕方が無いから寝てしまおう。きっと明日になれば蒼依から連絡が来るに違いない。そう自分に言い聞かせ、何度も深呼吸を繰り返し、漸く眠りに就いた。


 そして蒼依から何も連絡が無いまま二日が経ち、送られてきたのは蒼依の訃報だった。

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