何億光年の団欒

杜松の実

  

「あなた」

 突然の呼びかけに根津ねづ健太郎けんたろうは肩をぴくりと吊り上げ、「すみません」と呟き左へ退いた。自分の大きな体がまた他人ひとの邪魔になっていると感じたからだ。根津は首だけを回して声の方を見た。そこに立っていたのは、険のある声には釣り合わない幼さ残る少女である。

 背の低い少女が電灯でも見上げるように首を曲げて根津を見詰めている。市街で見かける制服の一つを着ている所から、少女が中学生であることが分かる。根津は今日が祝日でないことを記憶を辿って確かめ、六月のこの初旬は当然夏休みでないことを改めて握る。そうして、少女が昼下がりに図書館に居ることの不自然さを、不自然であることとして認めるに至る。驚きに硬くなった肩は変わらず硬直の姿勢を維持していた。

 根津は辺りを見回したくなる。衝動が試験管の中にとくとくと注がれていく苦しみがある。新月のような彼女の目に息を掴まれている根津の目は、しかし逃げられない。日常に空いたポケットな不安は、それもまた日常に過ぎない。通って来たわだちを振り返って見たとき、模様にさえならない平凡な凹凸の一つひとつである。しかし、轍の先端でポケットに手を入れている現在にとっては、先の見えない、風が吹き込む洞穴のようだ。

 少女の方では、自分よりもずっと大きな男に見下ろされ、強気はおもむろに萎み半歩後退るも、片足はその場を離れないでいる。言いたげな口は固唾を呑み込み、

――漸く開かれた。


杜松ねずの実の偽物ですよね」


 洞窟を鳴らす少女の声は波紋となって根津の顔を打った。

 杜松の実は、杜松という樹になる実であり胡椒や山椒のように、一つの枝にいくつもの小さな粒が生る。ジンというスピリッツの原料として知られ、そのためジュニパーベリーの名称の方が知られている。ジンはカクテルに用いられる素材という認識が強く、ジンそのものを趣向する向きは、お酒を嗜む者の中でもマイノリティとされる。

 言わば、ジュニパーベリー、もとい杜松の実は通じる言葉としての市民権は得ていない。

 そのことが少女の意図を明瞭に伝えた。

 吹きかけるような声になって、

「いえ」

 そう答えることしか出来ない。

 途端、少女はほんの僅か、華やぐように目を見開いた。そしてはっきりと一歩後ろへ下がり、居住まいを正して頭を垂れてみせる。

「失礼しました」

 台詞のような、

 無駄のない声だった。

 彼女は去って根津だけがそこに残される。



 根津は彼女の後姿が図書館をあとにするのを見送ると、本棚の前を離れてスマホを取り出した。カクヨムページ内のユーザー名検索に「杜松の実」と入れる。ヒットしたのは一件のみだった。画面を引き下げネットを更新させるも、変わらず一件のみだ。透かさず「ねず」や「杜松」といった関連するワードを入れてみるも、「杜松の実」を示すような名前をしたユーザーは他に居ない。

 スマホ握る手をだらりと下ろして辺りを、あの少女は居やしないかと扇風機のようになって頭を回す。既に帰った少女が居る筈もなく、往復させても空疎な形になって、少女が立っていた位置に目が留まる――。

 蜘蛛の子のように散らかった思考は、そうして一所に囚われていく。

 確かに根津は小説を書くとき、自身を大胆にあるいは鋭く反映させた人物を描く。根津と深い交流を持つ者がどんな偶然か、杜松の実の小説を読んだならば、それと気付くことは考慮に入っており、それはよしとしていた。そのような相手であれば知られることは何ら傷にはなり得ないと安心しており、いっそ気付かれやしないかと幻想を見てもいた。

 閲覧用に設けられた椅子に座ろうと窓へ歩もうとする。脚は立っているが、心臓が重たく感じられる。それを抱え上げようと肩はなお強張る。窓辺に安息があるような錯覚を信じ込ませて、根津は自分を運ぶ。

 知られるはずはなかった、誰にも。気付き得ることは不可能だった。どれだけ親密な者であっても、杜松の実から根津を分かることは出来ない。なぜなら杜松の実は、話す言葉に出来なかったことだけを綴っていた。杜松の実に書かれることを、根津は表現したくても出来なかった、足らなかった。だから、根津を知る者に杜松の実の中に根津を見付けることは出来ないはずだ。

 腰をだらりと下ろしてスマホを握る。ツイッターを立ち上げ杜松の実に紐づけているアカウントを開く。根津の知らない所で、杜松の実と隔てる絶対の壁が、きりで繋がっていく。七百件程度の投稿を一息にスクロールさせる。完璧でこその硝子の壁は、小さな傷によって飴細工のような脆い気配になっていく。そんな感覚が背中を押さえる。果たして根津に結び付く投稿は一つもなかった。

 彼女は誰なのだろう。

 スマホを胸ポケットに押し込んで、膝に肘を預け、前屈みになると、黒ずんだワックスの板張りが映る。

 関わりを持たない他人が、根津が杜松の実であることを知っていたという事実は、誰であっても杜松の実が根津であることを知り得るという、パノプティコンな圧迫感を生み出し、後ろ目が気に障る。

 彼女はどこで知ったのだろう。

 年季の入った空調がからからと音を立てて湿った空気を回していく。

 根津にとっての大事な誰かが杜松の実を見付け、からかうつもりで、どこかの少女を遣いに出したのかもしれない。

 あり得ない。根津と杜松の実を直結させられる者が、それらの小説を読んだ上でからかって来ることは考えられなかった。



 すっくと立ち上がり、緩めることなく図書館を後にし公民館の厚いガラス戸を押して、曇り空の下に出た。表の通りを道なりに当て先はない。履き潰しているスニーカーは軽い。梅雨を迎えていつ振りかの雨のない一日予報、日課の散歩に立ち寄ったのがこの図書館であった。闇雲に歩いてみてもどの道も知った道で、この小さな街で歩かなかった道はない。それでも、どこかに知らない場所はないかと探すような心持で先を急ぐ。

 見覚えのないどこにでもあるような街角、泡立つ胸、は角の先を見通すと同時に凪いでゆく。確かに一度か二度か、そんな程度は通った道だった。根津は歩みを止めない。

 彼はポジティブである。彼は根明である。前向きである。肯定的な受動的な前進的な寛容的な往生的な停滞的な殊勝な気質の持主である。故に気に病まないことにした。受け入れ楽観し楽しむことにした。この昼中の出会いを小説にしようとしている。それは悩みを抱え続けられない非力さ故である。

 触れてくるような質量を持った言葉が、小説の種になることは知っていた。とりわけそれらは良い小説になることも。その言葉の持つ色や輝きを、あまさず表現しようとするからだ。

 少女の言葉を反芻する。

「あなた、杜松の実の偽物ですよね」

 見上げる少女の一杯の黒目。

「あなた、杜松の実の偽物ですよね」

 背後から呼び止める刺すような声。

「あなた、杜松の実の偽物ですよね」

 小さな鼻に乗っけられた縁の大きな眼鏡。

「あなた、」

 反芻するだけで止まってしまう。展開されていかない。

 この言葉を表現できる小説の、人も世界も思いつけない。

 根津の身に起こった没するような息苦しさだけはリアルでも、彼女の言葉の背後が見えて来ない。聴こえた言葉は、抽象画のように感じ入るばかりで何も分からないものだった。何ものとも分けられないものだった。

 自宅アパートが景色の細部と見える低地に躍り出た。用水路に突き当り、腰ほどの高さである錆びた白塗りの柵がぐるりとしている。駆けて飛び出させば、足は掛かる。そんな小幅の水路のへりが足を止めた。ここ数日の雨水が柔く濁った水となってコンクリートの溝を流れていく。

「杜松の実の偽物ですよね」

 言われた言葉を彼女と切り離してみても、言葉そのものが明瞭と手に取れない代物であった。やはり言葉は、それが表す彼女の思いがどこにあるのかという、可能性の海の上を雲のように漂っており、輪郭を捉えることはできない。

 一陣の風が水路に沿って吹き降ろされ、根津はパーカーを胸の前で閉じるように腕を組む。季節外れの笹の葉が流れに乗って下ってゆく。

 杜松の実は、根津の持つペルソナの一つであり、演出にまみれた人格である。根津の一面に過ぎず明確に「つくられた面」である。内質の表現手段という役割から、偽物の直接な定義である「似せてつくられたもの」に適格する。さらに、全体に対する一部という向きは「本物に劣るもの」という第二義的定義にもよく合致する。偽物と言うのならば、根津こそが本物であり杜松の実を偽物の方とするのが妥当である。

 ナイロンのフードを被ると、あっちからそっちへと曇り空を描くような濡れた風が、耳元でざわめくようになる。騒々しく。間断なく。非言語に。鬱陶しく。

 但し偽物であっても、杜松の実を根津へと置き換えることは正しくない。本物である方が望ましいという行いは成り立たない。杜松の実には杜松の実としてのアイデンティティがあり位置があり、自立している。根津は「偽物」という言葉を用いた少女に対して、見当違いな憤慨を感じるようになる。

 この気持ちは何だろう。

 掌が汚れるのも構わず、柵を掴む。洗い流されなかった塵が触れる。その冷たさに、冷たさの他は何も感じない。

 偽物があって本物がある。たくさんの僕がいる。

 僕とは一体何だろう。僕の中のどこを「僕」と呼ぶのだろう。

 分からない。

 あらゆる僕に共通する部分、あらゆる僕の最大公約数が、「僕」なのだろう。

 多分、そう思って来た、気づくことなく。

 でも、もしかしたら。僕たち全部を合わせた最小公倍数が「僕」なのかもしれない。その中にはつくられた僕や嘘の僕、欠けてる僕だってあるけれど、どれもがきっと「僕」なのかもしれない。

 そう感じる。

 ありったけ、全部でひとつの「僕」だ。

 それぞれの僕は周りに即応してそこに居る。僕らはそれぞれが世界と地続きに繋がっている。その世界とその僕は対応していて切り離せない。そんな僕らが一体となって「僕」ならば、そうして僕たちをつくる世界もまた「僕」となる。

 それが腑に落ちる。

 どうしてかは説明できない。言葉にならない。

 世界が「僕」だなんて。そしたら世界と「僕」を隔てるものがなくなって、当然僕だって居ないことになってしまうのに。可笑しい。そんなの変だ。でも、変だ。お腹の辺りが温かい。

 だから、聞いてもらおう。会いにいこう。

 根津は見上げた自宅に背を向けて、駅へと歩き出した。

 黒い雲の下、洗濯物を巻き上げるような風が吹く。

 夜となれば雨が降る。

 傘がない。







――何億光年の団欒








































  ほら 雨粒に雲が映る

  中に空がある

  そこには天の川があって

  三日月がある


  無限の宇宙は

  ビックバン一粒から始まって

  だからすべてはきょうだいで


  無限の旅路を

  高らかに語らって飛び立った

  だから火星で吹く風を

  誰もが記憶している


  一本の樹の東と西の葉が

  朝日と夕日を分け合うみたいに

  木星で咲く花と

  繋がっている


  何億光年の団欒に

  僕は思わずくしゃみした






































<参考文献>

・谷川俊太郎「二十億光年の孤独」

・井筒俊彦「コスモスとアンチコスモス」

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