窓の外は水槽の中
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窓の外は水槽の中
『窓の外は水槽の中』
あふれる汗で制服のブラウスを濡らしながら、学校まで2キロの道のりを自転車でかけていく。田んぼの真ん中を走る農道はどこまでもまっすぐに続いていて、その先には学校が見えるのに一向に近づかない。空は青く、地平を見渡せばどこまでも緑の田んぼが広がっている。
これが私の住んでいる町の初夏の景色だ。
学校に近づくにつれて、徐々に顔見知りが増えていく。おはよう、おはようと声を掛ける生徒たちの中を縫いながら自転車の速度を上げていく。
正門を抜けて体育館の裏側にある自転車置き場に自転車をとめる。鍵はかけない。どうせこんなボロ自転車盗む奴いない。
玄関で靴を履き替える。玄関は人でごった返している。登校してきた生徒や朝練を終えた運動部員の汗で息が詰まりそうだ。廊下を曲がり、階段を3階にある自分の教室まで上る。教室のドアをくぐると、突然に生臭い臭いが鼻をついた。
教室の後ろの水槽からその匂いは漂ってくる。
1学期の最初、先生が教室で何かを飼おうと言って家から熱帯魚を持ってきたのだった。最初のころはみんな興味を持って世話をしたりのぞき込んだりしていたのだけれども、今はもう飽きられて放置されている。時々誰かが餌をやっているようだけれども、水槽の中には藻が茂り、水槽のガラスも茶色く濁っている。
朝の会までしばらく時間がある。鞄の中の本を取り出して読もうか、と思った時、ふいに教室がざわついた。
「口裂け女が登校してきた」
誰かが小声でささやく。
その“口裂け女”が後ろのドアからそっと入ってきた。立花幸奈。近くにいたクラスメートがそっと彼女に道をあける。彼女は教室の後ろの隅にある、この3か月誰も座らなかった席に着いた。うつむきがちに椅子に座る彼女。彼女の口は、この暑さだというのに大きめのマスクで覆われていた。
「おーい、席につけ、ホームルームを始めるぞ!」
担任の小田原先生の声でふとみんな我に返る。始業のチャイムが鳴っていることに誰も気が付かなかったようだった。みんなが慌てて自分の席に着く。小田原先生がみんな席に着いたのを見渡して、そして、立花幸奈に気づいた。
「おっ!立花!来てたのか!よかった。明日からも来いよな!じゃあ、出席をとる」
と、わざとらしく声を上げる。
どうやって触れたらいいのか、先生もわかってない様だった。
◇ ◇ ◇
立花幸奈が事故にあったのは、4月の、苗づくりが終わったころだった。
夕暮れの国道を友達と一緒に自転車で走っている時にハンドルをダンプにひっかけられて、そのまま数メートル引きずられたという。幸い命に別状はなかったが、アスファルトに思いっきりこすりつけて、顔の皮膚がずたずたになったらしい。そのニュースは事故の翌日に学校や母親からの噂で聞いた。この町は小さくてどんな出来事も一瞬で広まるのだ。その翌日から立花幸奈は学校へ来なくなった。入院が終わっても、病院での治療が終わっても、家に引きこもって一歩も出ていないらしい。たまにごみ捨てに出たところを目撃したという話もあり、その時は大きなマスクをしていたとか、いや、顔中縫い跡だらけだったとか。そういう噂が立った。
その、立花幸奈が、今学校に来ている。顔に大きなマスクをつけて。
「幸奈、元気だった?心配したよ。電話で連絡しても全然でないしさ、事故の時さ、隣で突然大きな音がして。すごいびっくりしたんだよ、でもさ、無事学校に来れるようになってよかったよ」
話しかけているのは、幸奈と仲良しだった長澤葉月だ。事故の時に一緒にいて、救急車を呼んだのも彼女らしい。ほか、3人くらい、仲の良かったクラスメートたちが、立花幸奈を取り囲んでいる。まるで腫れ物に触るみたいに。自分たちは、あなたのことを心配していたんだっていうアリバイ作りだと、私は思った。
◇ ◇ ◇
立花幸奈が登校するようになって2週間が経った。
最初のころこそ幸奈に話しかけていた長澤葉月たちも今は遠巻きに見ているだけで、まるで最初からいないみたいにふるまっている。あの水槽の魚と一緒だと思った。私も人のことは言えないけれども。今まで誰もいない机だったのと同じように立花幸奈はまるで透明人間になったようだった。
朝、いつものように汗だくになって教室の扉をくぐる。ここ数日なぜか扉をくぐるときに違和感を覚えていた。そして今日、その正体が分かった。あの生臭い臭いがしない。教室の後ろの水槽、その水槽が澄んでいる。ガラスもきれいに掃除されていて、水槽の中を銀色のひれをもつ小さな熱帯魚が泳ぐのが見えた。お前、生きてたんだ。
教室の後ろまで行って、水槽をのぞき込む。水草の中に紛れ込むように、小さい魚が10匹くらい。大きめのひれのお腹に銀色の線を持つ長い魚が5匹くらい悠々と泳ぎまわっている。底の方に、地味なのずんぐりとした魚が2匹くらい砂の上を這っている。これだけなんか熱帯魚っぽくない。よく覚えてないけど4月にはいなかった気がする。
「なんだろうこの魚」
「アルジイーター」
思わず声に出た疑問に、後ろから答えがあった。
立花幸奈だった。
「水槽の苔を食べてくれるの。他の熱帯魚と一緒に入れておくと、掃除が少し楽になる」
「立花さんが入れたの?」
「うん」
「もしかして水槽の世話をしてるのも立花さん」
「うん、暇だったから」
「偉いね。魚好きなの?」
なんて言っていいのかわからなくて、多分間違えた。
「ううん、可哀相だったから」
◇ ◇ ◇
それからたまに、立花さんと一緒に、みんなが帰った後の放課後や誰もいない朝礼前、魚の世話をするようになった。餌をやり、たまにガラスを掃除して。マスクをしたままの立花さんは暑さで息苦しそうにしていたけれども、マスクを外そうとはしなかった。
「息苦しいんじゃないかな?」
「え?」
立花さんが言った。
「この魚たち、上の方でパクパク息をしてて。こういう熱帯魚の水槽って大体ポンプがセットであるじゃない?あのブクブクするやつ。あれ、いるんじゃないかな」
◇ ◇ ◇
翌週の日曜日。私たちはバスにのってショッピングセンターまで来ていた。
ポンプを入れたいと先生に相談すると、学校の予算では買えないということだった。でも、私たちが勝手に買って据え付ける分には問題がないという。だから立花さんと相談して、自分たちで買ってつけてやることにした。
私たちの住む校区からショッピングセンターはかないり遠い。自転車で行けないことはないけれども、1時間半くらいかかる上に、この炎天下を走っていったら汗でびしょびしょになってしまう。それに立花さんが、まだ自転車に乗るのは怖いということでおとなしくバスで行くことにした。
バス停で待ち合わせた立花さんは、白いワンピースに同じく白のパーカーを羽織っていて、なんかデートみたいだな、って思った。田んぼからは一段高いところを走る国道のバス停でバスを待つ。そして時間通りにバスはやってきた。バスの中はクーラーがついていたけれども外と同じように暑かった。ショッピングセンター前のバス停で降りて中へ入る。ショッピングセンターの中は驚くほど涼しくて別世界に来たみたいだった。服やカバンのショップを冷やかしながらお目当てのペットショップへ向かう。広い吹き抜けのあるエリアの1階にそのペットショップはあった。狭い入り口をふさぐように小さいガラス箱が並び、その中にまだ生まれたてのような犬や猫が閉じ込められていてこちらを見ている。その並ぶガラスケースを抜けて奥へ進むとそこに熱帯魚のコーナーがあった。壁に埋め込まれた小さな水槽の中に色とりどりの魚が泳いでいる。やたらと愛想のいい店員に、ポンプを探しているということと水槽のサイズを伝えると、4900円程度のポンプを勧められた。多少高いが想定の範囲内だった。立花さんと半分ずつ出し合って買った。お会計をしているときに、ふと、すぐそばにあった水槽の中の魚と目があった。
大きくて立派な羽をもった、赤い魚。
思わず見惚れていると、立花さんが隣に立っていた。私と同じように赤い魚を見ていた。
「ねえ、思ったんだけど」
「この魚、あの水槽に入れちゃダメかな」
5680円。決して安くはないけれども、あの水槽の中をこの魚が泳いでいるのを頭の中で思い描いたら、決して高い買い物ではないと思った。
◇ ◇ ◇
教室の後ろの水槽の中を、赤い大きな魚が泳ぐ。
ポンプがブクブクと泡を立てて、水の中に新鮮な空気を送る。
水草は光合成をしながら小さい魚たちの居場所を作り、銀色のひれをもつ魚がまるでお供のように赤い魚のあとをついて泳ぐ。
床に散った餌の残りや生えてくる苔たちを褐色の魚たちがきれいにする。
小さな、調和のとれた世界があった。
クラスメートたちは、ポンプと赤い魚が来たとき珍しがって水槽に群がって、誰がやったのかを詮索したりもしたけれども、私たちだってバレることはなかった。その喧騒も一週間くらいで終わり、水槽のことよりもうすぐ始まる夏休みをどうするかということに教室の話題は移り変わっていた。
「もしかしてさ、スカウトされちゃったりして、ほら私かわいいから」
教室の前の方で、長澤葉月が騒いでいる。友人たちと夏休みに東京に遊びに行く予定を立てているらしい。長澤葉月とその仲間たちは、教室でも目立つグループだ。
そして、4月まではあの中に立花幸奈もいた。
目の前の立花さんをみる。さらりとした髪、きれいな体のライン。日焼けしてもキメの細かい肌。マスクから覗く切れ長のきれいな目。その右目の下あたりからマスクの中に、引き攣った跡が入り込んでいる。
立花さんは、きれいな女の子だった。この学校の誰よりも。
私は、立花さんに憧れていた。
◇ ◇ ◇
いつも、教室の後ろで本を読んでいた。ひとりで。
ちょっと人よりも頭が大きくて、体育の赤白帽が特注だった。
いくら手入れをしても肌がざらざらのままだった。
顔のニキビが治らなくて、顔はいつも凸凹していた。
目が小さくて、鼻も小さくて。それが顔の真ん中に寄っていて、ただでさえ大きい顔がさらに大きく見えた。
ダイエットを頑張っても、全然痩せなくて、いつも太い手足を持て余していた。
うまく友達が作れなかった。
クラスメートたちの集まりの後ろを、仲間からはぐれた魚みたいに、ひょこひょこと、ずっとついていっていた。
本を読んで、違う世界のことを想像しても、ここにいる私自身の体が、その夢を見ることを諦めさせた。
誰も私を見ない。まるで私がここにいないみたいに。
そんな私の前に、可哀相な立花さんが現れた。
◇ ◇ ◇
「ねえ、私たちも、夏休み、私たちもどこかに行かない?長澤さんたちみたいに、泊まりで」
思い切って、立花さんに声をかけた。
「でも。夏休み、水槽の世話もあるし」
「1日か2日なら平気だよ。ねえ、行こうよ」
「うん、それじゃあ、お母さんに聞いてみる」
◇ ◇ ◇
行き先は、東京ディズニーランド。
夜行バスで行って、昼間遊んで、夜、東京でホテルに泊まって、夜にまた夜行バスで帰ってくる。1泊4日の旅行。
時期は夏休みに入ってすぐ。子供だけで行くなんて、といって両親は最初渋ったけれども、ちゃんと勉強もするから、といって説得した。ショッピングセンターに旅行先で着る服を立花さんと一緒に買いに行った。立花さんが私の服を選んでくれて、着てみると、びっくりするほどかわいかった。4日間の荷物をカバンに詰めると、思ったよりもパンパンになってしまって、お母さんの旅行鞄を借りた。夜、夜行バスの停留所までは立花さんのお母さんが送ってくれた。立花さんの家に行くと、立花さんは緑色の素敵なトランクに荷物を詰めていて、ちょっと私のカバンが野暮ったくて嫌になった。立花さんのお母さんに、何度も、幸奈をよろしくね、と頼まれた。バスの中、隣り合った席で仮眠をとった。
朝5時にバスが東京駅に到着して、それからすぐにディズニーランドに向かったのに、入場ゲートはもうすでに長い列だった。こんなに多くの人、私たちの住んでる町じゃ祭りくらいでしかみることができない。早朝だというのにもう日が強く照っていて、その中を1時間も行列に並んだ。暑いね、動かないね。って立花さんと言い合って、でもそういうのも楽しかった。
入場してもアトラクションに並ぶ度にすごい列で、遊びに来てるのか並びに来てるのかわからないねって話をした。ショップで、ミッキーの帽子を買って、一緒にかぶって写真を撮った。人の並んでないイッツアスモールワールドのボートに乗って、不気味に笑う人形を見ながら、怖い怖いっていってゲラゲラ笑ったりした。
ディズニーランドの中は、本当に夢の国みたいで、そしていろんな人がいた。外国人もたくさんいた。肌の黒い人、白い人、赤い人。男同士て手をつないでいる人。車いすの人。すごい刺青をしてる人。腕の先がない人。夏なのに真っ黒でフリルのたくさんついた服を着てる人。そして、いろんな人がいるのを、みんなそれが当たり前みたいに、誰も気にしない。
「あー、本当に暑いね」
立花さんはそういって、マスクを取った。
立花さんのおでこから、汗が滑り落ちて頬を撫でる。
口の右側から、大きな縫い跡が、耳の方へ伸びていて、それが木の枝のように三叉に枝分かれしている。右頬の上は、赤黒く膨らんでいて、引き攣った皮膚が、右目の下の皮膚を引っ張っていた。
痛々しい傷跡。
それでも。
立花さんは綺麗だった。
◇ ◇ ◇
パレードを見るのに場所取りが必要って知らなくて、昼間のパレードは結局見れなかった。でも、夜の、エレクトリカルパレードはどうしても見たくて、1時間半前からパレードのルートの前に座ってパレードの始まるのを待っていた。7月の終わりは日が長くて、まだ夕焼けも始まらない。薄暗くなってきた空を、二人座りながら眺めていた。
「ねえ、ありがとう」
「何が?」
「旅行に誘ってくれて。連れてきてくれて」
立花さんはもうマスクをしていない。
「本当に楽しいね。ここ」
「うん」
「私、こんなところがあるなんて、思いもしなかった」
「うん」
「ねえ、高校出た後、進路って、もう決めた?」
「…まだ」
「一緒に、東京に出ない?」
「……」
ふいに、ドーン!と大きな音が鳴って、キラキラと電球の輝く車が道の向こうから夕闇の中をやってくる。
「ほら、立花さん!みて、始まったよ!パレード」
「ほんとだ!すごい!きれい!」
電飾で飾られたイモムシ、手足の長いよくわかんない生き物、パレードは30分ほどかけて私たちの前を通り過ぎていった。そのあと、お土産を見て回って、シンデレラ城から打ちあがる花火を見て、閉演間近にディズニーランドを後にした。立花さんへの返事はできないままだった。
◇ ◇ ◇
浜松町、というところのビジネスホテルに泊まった。ふたり一部屋。チェックインはドキドキしたけれども、やってみたら簡単だった。今日は汗もかいてとにかく疲れた。荷物を開きもせずベットに倒れこむ。思ったよりも固い。
「あはははは」
と笑って、立花さんも隣のベットに倒れこむ。
「どっちが先シャワー浴びる?」
「えー、じゃあジャンケンで負けた方」
「いやなの、シャワー」
「しんどい、このまま寝たい」
「だめじゃん」
「見てみて、テレビ、8個もチャンネルある。え?これ、エロいのも見れるんじゃない?」
ジャンケンの結果、私が先で立花さんが後になった。入れ替わるとき、立花さんの裸を見た。均整の取れたプロポーション。私のとは全然違う。そんな彼女の背中に大きく走る大きなムカデみたいな跡。事故の時の傷だ。多分、立花さんの家族以外は見たことのない傷跡。私だけが見た。少しの優越感を感じて、すぐに自己嫌悪。この優越感は、自分だけが知ってるということからなのか、それとも、彼女にだって欠点があるということに対する優越感なのか。
◇ ◇ ◇
翌日は、ホテルをチェックアウトした後、東京駅のコインロッカーに荷物を預けて、東京巡りをした。
浜松町を出てすぐ東京タワーに上った。展望台に上って、「見ろ、人がゴミのようだ」って立花さんがいうので、私は「みんなーにげてーっ」っていった。二人してゲラゲラ笑った。原宿でクレープを食べた。テレビでよく見る竹下通りを歩いてみた。すごい人込みだった。道の途中の店を冷やかしながら歩いた。みんなオシャレな恰好で、自分たちのジャスコでそろえたときにはすごくかわいく見えた服が野暮ったく見えた。新宿のアルタ前にも行った、新宿駅は大きくて、出口がわからなくて何度も迷ってしまった。
立花さんはもう、マスクをしていなかった。誰も、私たちのことを見なかった。
◇ ◇ ◇
東京から帰ってきた翌日。学校へ魚たちの世話に行った。果たして魚たちは無事だったけれども、赤い大きな魚の体に、小さな斑点があったのが気になった。
◇ ◇ ◇
2学期が始まった。
日焼けした生徒たちで、教室の中がざわついている。夏休みに金髪に染めた男子や、雰囲気の変わった女子。まだ夏休みの気配が抜けきれず、わいわいと騒いでいる。
立花さんは、学校では相変わらずマスクをつけている。ここは田舎の町で、東京ではないのだ。私も私で、教室の中で目立たないように過ごしていた。教室の隅で、まるで、いないように。
2学期の初日の日は出席を取って2学期の教科書が配られて終了になった。殆どの生徒が来ていたが長澤葉月が来ていないのが気になった。
◇ ◇ ◇
長澤葉月が学校に来ていなかった理由は、その日の夜、食事中に母から知らされた。
「知ってる?長澤さんのところの葉月ちゃん、あんたと同じクラスの。あの子ね、妊娠して中絶したんだって。夏休みの間に。ほら、あの子たちも東京に遊びに行ってたじゃない?で、その時に、出会った男の人とやっちゃたんだって、とてもそんな子に見えなかったのにねえ。やっぱり東京って怖いわねえ、あんたたちそんなことなかったの?大丈夫?この間はOKしたけれども、もう東京へ行くの、絶対禁止。危ないから」
最悪だ。この母親も。この町も。
◇ ◇ ◇
長澤葉月は1週間後に登校してきたが、全く別人のようになっていた。自分の容姿に絶対の自信を持っていて、体の中からあふれるキラキラとしたオーラが今までの彼女にはあったのに、今は、とても小さくなってしまっていた。人からの視線の刃から体を丸くして身を守っているようだった。長瀬葉月の取り巻きだった女子も、今は腫れ物のように葉月を扱って近寄らない。夏休みに東京に行ったときに、それ以外にも何かがあったのだと思う。
教室の後ろの水槽は、赤い魚の斑点がだんだん大きくなって、体の色もくすんできた。泳ぎもゆっくりになって、いつもその後ろをついて泳いでいた小さい魚も離れていった。
「ねえ、立花、一緒にお昼食べない?」
「あ、うん」
「なんか久しぶりだね、立花とこういう風にすんの」
「ほら、なんか、ずっと、立花、近寄らないでオーラ出してたじゃん?」
長瀬葉月の取り巻きだった女子が、立花に声をかける。
「ねえ、食べよって」
この子たちは知らない。立花さんは誰かとお昼を食べない。いつもマスクの下から、ウィダーインゼリーを飲んで、それをお昼にしていた。
「うん、じゃあ」
立花さんはお昼を食べない。…そのはずだったのに。
耳に手をかけて、マスクを外して、ウィダーインゼリーに口をつけた。目の前にいるクラスメートの目に、マスクを外した立花さんの顔が映る。
「あー、なんか」
「普通だね」
目の前が暗くなる。
立花さんは、目の前の、「思ったより大したことないじゃん」とか「気にならないよ」とかいうクラスメートに曖昧に笑っている。やめて、と声が上がりそうになる。でも、思いとどまった。思いとどまってしまった。だって、
だれも、私のことを見ていない。
◇ ◇ ◇
それから、立花さんは、“昔の友達”と一緒にご飯を食べるようになった。
教室の真ん中で机を2つほどくっつけて、椅子を寄せ合って座る。立花さんを挟んで左右に三輪さんと中村さん。そして、その反対側に私。
立花さんは家からお弁当を持ってくるようになってきた。サラダや果物も入った華やいだ色。私の茶色いお弁当が恥ずかしくなる。左右から話しかける友達に、相槌を打ったり笑ったり。時々、立花さんが私に話を振ってくるけれども、吃ってしまってうまく答えられない。面白いことを返そうとして、ちょっと沈黙している間に、次の話題に移ってしまう。
理科の授業で理科室へ移動するときも、道いっぱいに広がる彼女たちの後ろをひょこひょこと、おいていかれないようについていく。ああ、いやだ。いやだ。これじゃ、前と同じだ。立花さんと会う前の、私と同じだ。うまく友達ができなくて、でも、一人になるのが怖くて、女子のグループの後ろを金魚の糞みたいについていって、何とか面白いことを言おうとして、でもできなくて、人の冷めた視線が怖くて、仲間外れにされておいていかれるのが怖くて、いつもニコニコと愛想笑いばっか浮かべて。
立花さんは、両隣の友達たちと、屈託なく笑いながら歩く。私は、その後をついていく。
水槽の魚の世話をする時間が無くなっていく。餌をやるだけになっていって、少しずつガラスが濁っていく。赤い魚の斑点はどんどん大きくなっていった。
◇ ◇ ◇
「ねえ、合コンしない? 隣の学校の男子から誘われてるんだけど」
三輪さんが言った。もう夏も過ぎ、日も少しずつ短くなってきたある日の放課後のことだった。
私たちは窓際の椅子に座りながらどうでもいい話をしていた。学校の先生のこととか、男子のこと、最近流行のテレビ番組のこととか。窓から涼しい風が流れ込んでくる。窓の外には一面、黄金色の稲穂が見える。空には刷毛でさっと塗ったような雲が流れることなくじっと止まっている。
「いつ?」
「今度の金曜日」
「あー、私空いてるわ」
「たださ、向こうの男子3人なんだけど」
目の端で私をみる。わかってる。私が邪魔なんだ。こんなとき、なんて答えたらいいのかも、ちゃんとわかってる。
「あ…。ごめん、その日、ちょっと用があって、だから、私いけない。パス」
「そっか、仕方ないね、残念。また、今度、機会があったら行こ」
「うん」
これでいい。これで何も問題ない、いつも通りだ。なのに。立花さんが。
「ねえ、その用事ってどうしても外せない?用事ずらせるんだったら、一緒に行こうよ。人数が一人くらい男女で合わなくったって大丈夫だって。私も、一緒に来てくれた方が嬉しい」
「やめて」
思わず声が出た。自分でも信じられなかった。三輪さんと中村さんが怪訝な目で見ている。
「あの、トイレ」
「あ、私も」
「ついてこないで」
そういって席を立つ。後ろを見ない。教室を出ても、気取られないように、ゆっくりと歩いて、トイレに向かう。トイレの個室に入って、倒れこむように座り込んだ。見下された。情けをかけられた。自分とは同じだと思ってたのに。違う、本当は、これが当たり前だったんだ。口から嗚咽がこぼれる。涙が止まらない。もしかしたら、立花さんが追いかけてくるかも、って思ったけど、扉を叩く人は誰もいなかった。
◇ ◇ ◇
金曜日、立花さんたちが放課後、教室から出て行ったあと。私は家に帰る気もせず、図書室に逃げ込んでいた。ここだけは学校でクーラーが効いていて涼しいし。閲覧机では受験を控えた3年生が静かに勉強をしていた。
邪魔をしないように、適当な本を取り、奥の椅子席に移動する。そこに見知った顔があった。長澤葉月だった。あちらもこっちに気づいたらしく、目の端で会釈をする。離れて座るのも意識しているようで気まずくて、彼女の隣の椅子に座った。しばらく、お互いに自分の持ってきた本を読んでいたが、
「最近、魚の世話してないの?」
長澤葉月が話しかけてきた。すぐに即答できないでいると、
「幸奈と一緒に、世話してるの知ってたよ」
知られてた。誰にも知られないようにしてるつもりだったけど。
「幸奈、すごく綺麗だったじゃん」
「…はい」
「だからさ、ずっと一緒につるんでて、相応しいっていうか、釣り合うっていうか。なんかうまく言葉が出てこないけど、でも、そういうのあるじゃん。自分と同じランクの人間っていうか」
「…わかる」
「でさ、幸奈が、事故にあって、顔があんなんなったとき、あー、終わったな、って。もうこの子ダメだなって」
「あんたと、幸奈がつるみ出したときも、なんか、終わった連中同士が傷舐めあってんな、てそう思った。だって、前の幸奈だったら、あんたなんかに声掛けないし、自分のランクに合わせた相応しい相手で選んだんだなって」
「そう思ってたんだけど、間違ってた」
「幸奈が、夏休み明けから変わったの、あれ、あんたのおかげだよ。多分」
「私、多分、幸奈とは友達じゃなかったんだ。三輪や中村とも」
そういって、長澤葉月は、席を立ち、少し伸びをしてから。
「私にもあんたみたいな友達がいればよかった」
図書館の出口へ向かっていった。
◇ ◇ ◇
合コンに行ってから、立花さんは変わった。マスクを外して学校に来るようになった。男子が一時期ざわついたけれども、女子が普通に接してるのをみて、すぐに何も言わなくなった。丸めるようにしていた背中もまっすぐになって、よく笑うようになった。私が知らない、そして、みんなが昔から知っていた立花さんだった。一方、私は、三輪さんと中村さんと立花さんのグループから抜けた。いや、もともと入っていなかったのだ。ただ、この数か月私が立花さんと一緒にいたっていうだけで、三輪さんと中村さんが仕方なく一緒にいたっていうだけなのだ。私は、立花さんと知り合う前と同じように、教室の隅で、一人で過ごす。私の知ってる私だ。
放課後の夕日が差し込む誰もいない教室。みんなが帰った私は一人残っていた。教室の後ろにある水槽。ガラスはずいぶんと濁っていた。ポンプは動いているのに何となく息が苦しそうだ。
可哀相。そう思った。だから掃除をすることに決めた。
ポンプの給水口の汚れをとり、スクレーパーでガラスの苔をかきとる。バケツで汲んできた水に中和剤を入れて、カルキを抜く。元の水をを1/3ほど残して、コップで水を入れ替える。底砂を半分ほど入れ替えて、よく洗ってから戻した。いつもは二人でやっていた作業が、一人でやると倍以上の時間がかかってしまった。ようやく掃除が終わって、中の魚たちをみる。立花さんと一緒に買ってきた魚は、病気でもうボロボロになっていて、あの大きく優雅だったひれも、あちこちちぎれてしまっている。鱗があちこちはがれているようだった。その魚の周りを小さい魚がまとわりつくように泳いでいる。仲がいいな、と思ってみていたのだが、ふと、気づいてしまった。
大きな魚の体を、小さな魚たちが寄ってたかってついばんでいる。
大きな魚は身をよじって逃げようとしているけれども、この小さな水槽の中では、逃げ場なんてなくて、ただただ寄ってたかって、体をかじられるのに任せている。前はこんなのことなかったのに。なんで。答えはわかってる。病気になったからだ。病気になって弱くなったから。ただ、弱いから。
ぞっとした。吐き気がした。
だって、それじゃ、それじゃまるで。
私と立花さんじゃないか。
この教室は水槽の中だ。そして、窓をみた。夕日の中に、どこまでも稲穂が広がる。どこまでも行けそうなのに、どこにも行けない。窓の外も、水槽の中だ。
◇ ◇ ◇
次の日の朝、学校へ来ると、あの魚が死んでいた。
体を半分、水の上に浮かべて、ぶよぶよと漂っていた。不思議と悲しくなかった。他の魚は大きな魚が死んだことも気にせず、自分たちの居場所を好き勝手に泳ぎ回っている。
「ごめん」
突然かけられた声に驚く。立花さんだった。
「なんで謝るの」
「私が…、一緒に世話をしなかったから…」
「違う。この魚は勝手に死んだんだよ。病気になったから。ここじゃ生きれなかったんだ、それだけだよ」
立花さんの方を振り向けない。
「立花ぁ!UNOやろうぜ!魚とかほっといてさ」
三輪さんが立花に声をかける。
そして立花さんが私に声をかける。
「あの。ねえ、一緒にしない、UNO」
「なんで」
「だって。ひとりになっちゃう」
なにかが、私のなかで、切れた。
「バカにするな!」
大声がでた。今まで、人の前で、出したのことのないような大声。みんなが、私を、見てる。
「私が、可哀相だからそんなこというんでしょう!上から見下して!」
「違う、私は、あなたに助けられて、だから、今度は私が!」
立花さんも負けず大声を出す、私を、まっすぐに見て。
「それが見下してるっていうのわかんない?! 第一、私に、最初、声をかけたのだって、私が、可哀相だから、自分と同じレベルだからって思って、そうやって、声をかけたんでしょう!」
「それは、最初はそうかもしれないけど!」
「かわいそうだから、自分と同じような!」
「それは、違う、そうじゃなくて!」
「顔がそんな風にならなければ、私のことなんて見もしなかったくせに!」
その言葉で、一瞬で立花さんの顔が強張る。顔から血の気が引いていく。ゆっくりと立花さんが顔の傷跡を撫でる。言ってしまった。言ってはいけないことを。心臓が鷲掴みにされたように苦しい。
私は、逃げ出した。
教室の後ろの扉を開けて、廊下を駆け抜けて、階段を下りる。上履きを履き替えることも忘れて、校門から飛び出した。校門からまっすぐに続く農道を必死で駆ける。息が苦しい。涙が溢れる、酸っぱい唾が口の中にあふれる。終わりだ。もう全部終わりだ。今まで大切にしてきたもの全部終わり。自分で壊してから気づいた。私は、立花さんのことが好きだった。本当の友達だと思ってた。そして、きっと、立花さんも私のことを友達だと思ってくれていた。それなのに、それを私は終わらせてしまった。
「…まって…ねえ…まっ……」
後ろから立花さんの声が聞こえる。聞こえるはずないのに。でも聞こえる。振り返ると、立花さんが自転車にのって追いかけてくるところだった。自転車乗れないんじゃかったの?鍵掛けてない自転車を盗んでのってきてる。自転車とかずるい。必死で走っているのに、どんどん距離を詰められる。私は思いついて、畔を越えて田んぼの中に逃げ込む。稲穂をかき分け倒しながら、必死で逃げる。ガチャンと自転車が倒れる音がして、続けてガサガサと草をかき分ける音がする。「まって、まって」と声が聞こえる。突然、襟首をつかまれて、そのまま、田んぼの中に引き倒された。そのまま、立花さんが私の上に馬乗りになる。ハァ、ハァと、どちらのものかわからない息遣い。息が上がって声が出ない。最初に声を出したのは立花さんだった。
「ごめん」
「私、あなたがいることを知らなかった。顔が、こんなになるまで、気づきもしなかった」
そういう立花さんの表情はぐちゃぐちゃで、あと、涙と、鼻水と、汗でドロドロになっていた。
「最初は、確かに言うように、自分と同じレベルだから、って思ったからかもしれない」
「でも、そのあと、一緒に魚の世話をしたり、ポンプを買いに行ったりして」
「東京に一緒に行って」
「ここから連れ出してくれた」
「私が、マスクを外せるようになったのだって、あなたがいてくれたからだよ」
「ここじゃないどこかがあるって知って、この町が世界の全部じゃないって知って、こんなこと、大したことじゃないって思えた。合コンの時も、男子に裏でコソコソ言われたけど平気だった。全部、あなたがいたかならんだよ」
立花さんがボロボロと涙をこぼす。私の顔の上に、まるで雨が降るみたいに。溺れそうになる。私も、同じような顔をしてるんだろう、きっと今。
「私も、最初、立花さんが話しかけてきたとき、ズルい気持ちだった。あの立花さんが、私と同じになった、可哀相になったって」
「私は、ずっと、ここで、一人で。誰かの顔色を伺うことしかできなくて、でも、私と同じような立花さんにあえて、友達になって、本当に、楽しかった」
「ここは水槽の中で、世界の全部で、この世界で、私は、誰か選んだりできないからそんな権利はないから、だから、立花さんが来てくれて嬉しかった。私には立花さんしかいなかった。だからこれが、友達だって思ってるのかわかんない。もっと卑怯な何かで」
「だから、ごめんなさい、私すごく良くない」
立花さんが、私の指に指を絡める。思いっきり私の上半身を引き上げた。そして、私の顔をまっすぐにみてこう言った。
「出よう、この世界から、この水槽の中から!」
end
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