ある物語の冒頭・寝落ち通話

通話越しに弾んでいた声が徐々に丸みを帯びて、形を失っていくのにそう時間はかからなかった。

もう寝たら?と笑いながら声をかけても、彼女は眠ろうとしない。

私と話す時間が幸せだから、と。

その声はどんなお菓子より甘くて。

あーあ。このまま、夜が明けなければいいのに。


/4

「突然の帰省だけど、何か用事があったの?」

「別に?なんにもないよ?なんとなく休みたくなったから帰るだけ」

 イヤホンから聞こえてくる志保の声はどことなく間延びしていて、ずいぶんリラックスしているように感じる。来週に志保と二人で水族館に行く予定なのだが、その摺り合わせをメッセージのやり取りで進めているうちに突然彼女が『通話したい!』と言い出したのだ。時刻はまだ二十三時を回った頃だが、彼女はすでにベッドで寝転がっているらしく時折シーツの擦れる音が聞こえてくる。一方の私は相変わらず机に座りパソコンと向き合っていたのだが、話しながら文章を書くことが致命的に苦手なため一度執筆の手を止めて志保との会話に集中することにした。

「そういえば蛍くんが言ってたよ。志保は何考えてるかわかんないって」

「はー相変わらずひどい弟だよ。そんな、ね。何考えてるかわかる人なんていないじゃん」

「まぁ……そうかな。でも志保はほかの人より何考えてるかわからないって言われがちだよね、猫みたいだし」

「猫……猫かぁ。それって褒めてる?」

「志保は猫みたいに可愛いよ」

「もうちょっと感情込めて」

「……志保は可愛いよね、猫みたいで」

 突然の演技指導にやや戸惑いながら彼女を褒めると、満足したのか声にならない笑い声が聞こえてきた。たしかに志保は自由で掴みどころがないと思われがちだが、私には彼女の考えていることがなんとなくわかる。きっと付き合いが長いせいだろう。今日は志保自ら通話をかけてきているので褒めたりじゃれあったり構ってほしい日だと思っていたが、それはおそらく当たっていたようだ。

 志保の心の内が少しばかりわかることを嬉しいと思う反面、彼女が私のことをどう思っているのかという点に考えを向けるとそれは私の心に暗い影を落とす。私は志保のことを特別な人だと考えている。気がつけば、彼女に憧れていた。それは彼女の凛とした立ち姿だったり、素敵な笑顔だったり、やりたいと決めたことに飛びついていく真っすぐさだったり、何をやってもそつなくこなすところだったり様々だ。その中でも特に私が憧れたのは、志保の独自性というか独立性というか、そういったところだった。志保は何をするにも『自分がどうしたいか』をまず考えているように見える。私はこうしたい、だからこれをやる。私はこうなりたい、だからこれをやる。私はこうありたい、だから、これを選ぶ。いつもいつも、ただ”なんとなく”日々を過ごしてしまう私にはその姿が眩しくて格好よく見えるのだ。

 ディスプレイに貼り付けられた『ある物語の冒頭』たちを指で弄びながら、おおよそ一時間が過ぎたころ。日付が変わるか変わらないかの瀬戸際。来週の予定は疾うに決まりとりとめのない話を続けていたが、十分ほど前からだろうか、志保の声がふわふわと柔らかくなったように感じる。そろそろ眠たいのだろうか。いつもは凛として真っすぐ、といった印象の声が少しずつ丸くなっていく。

「今にも寝落ちしそうだよ、もう寝たら?」

「えぇー寝たくない……眠い……でも寝たくない……」

 志保のわがままは途中からほとんど言葉になっていなかった。もう半分以上眠っているのだろう。

「もう寝なよ。来週も会えるんだし」

 約束がなかったら、私も早々にベッドへ入り志保と一緒に眠りにつくまで話を続けただろう。でも、彼女とは会う約束をしているのだから、こうしてはっきりと目覚めたままで微睡む志保の声を楽しんでいる。

「うーん……でも、でも……水咲と、話すの久しぶりだし。楽しいから幸せなんだ、も……」

 今日の志保は構ってほしいだけでなく、ずいぶんと甘えたがりの日だったようだ。それにしても、彼女の言葉が甘くてとても嬉しい。この時間がずっと続けばどんなに幸せだろうと思いながら、来週になれば実際に会えるという楽しみも待っているので、早く時間が過ぎればとも思う。まだ寝たくない、という志保の可愛いわがままと比べて私のわがままは欲深いなと我ながら苦笑が漏れる。


 話し声のような、寝言のような音はやがて寝息に変わり、どうやら、志保は通話の向こうでとうとう眠りについたようだ。

「おやすみなさい、志保」

 返事を少し待って、やっぱり返事がなかったので私は通話を切断した。きっと志保はベッドの中で幸せな夢をみていることだろう。

 私は今の可愛らしい志保を物語に書き足そうとして、やめた。この可愛らしさを知っているのは世界中で私だけ、なんて思い上がりではなく、ゆっくりとこの思い出を噛みしめてから『この間は可愛かったよ。おねむの志保ちゃんが』と来週会ったときにからかってやろうと思ったからだ。

 だから、それまで、ふわふわの志保は私の心の中にしまっておこうと決めたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ある物語の冒頭 アマネ @sizusizuamane

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ