ある物語の冒頭
アマネ
ある物語の冒頭・相合傘
初めて相合傘で帰った日のことはよく覚えている。
けど、何を話したかは全く覚えていない。
触れ合う肩に、あなたの温もりに、いつもより近い声に。
心臓が高鳴り、頭は真っ白だった。ちょうど明るい雨空のように。
恋心やら、青春やら。それは何年も前の、遠い思い出。
———ある物語の冒頭
/1
書き込んだ付箋を剥がし、画面の端に貼り付ける。
ディスプレイの縁をぐるりと囲むように貼られた付箋たちには、ある物語の冒頭部ばかりが綴られている。
それらを眺めて、一枚を手に取る。それは雨の日の思い出、志保と私の帰り道での出来事をモチーフとした短文。その一枚が目についた理由は、きっと今夜も雨が降っているからだろう。夕方ごろから降り出した雨は静かに春の町を濡らしている。
私、未草水咲(みぐさ-みさき)はただの一般人。女性、会社員、二十六歳、恋人は無し、配偶者も無し、片想いの相手は有り。なお叶わない模様。趣味は小説を書くこと。高校を出て、なんとなく大学へ進学し、なんとなく事務の仕事を得て現在に至る。志保は私の幼馴染で、同級生の美人だ。今は遠いところに住んでいて、たまに連絡を取ったり年に一度か二度会う間柄。
改めて付箋に書かれた短文を読む。手書きの文字はあまり上手ではなく、ずっとコンプレックスだったがどうにも上達しなかったなと思う。それにしてもずいぶんとポエミーな短文だ。きっかけとなった思い出は確か中学生の頃だったからこういった文章になることも不思議ではないと思うが、やはりこの歳になって自分のポエムを読むと背筋がぞわっとする。何より、書かれているのは志保との思い出だ。懐かしい青春の思い出。瑞々しい片想い。眩しい黄金時代。仕事が終れば一人きりの部屋でキーボードを叩く今の毎日と比べてしまうと涙が出そうになる。そうはいっても、楽しくて書き続けているのだから仕方ない。
私が小説を書く理由は単純で、美しいものが書きたいから。頭の中に浮かんだ景色とか、綺麗な思い出とか、素敵な言葉とか、そういうものをカタチにしたい。
でも、長文をカタチにする機会は少なくて、気が付けば短文ばかり量産してしまう。そのままではディスプレイが付箋で埋まってしまうので、それらを元に小説を書いてみるのだが短文を書く方が楽しいので、机に向かう私の目の前には『ある物語の冒頭』ばかりが溢れかえっている。とはいえ、その一つ一つは私の内側から出てきた言葉たちで、貼り付けられたまま忘れられていくのは可哀想。だからたまたま目についたこの子をベースに小説を書こうと思う。
深呼吸を一つ。淹れておいた緑茶で唇を湿らせ、背筋を伸ばす。
さて、この物語の続きを綴りましょう。
/2
『夕方から夜にかけての降水確率は四十パーセント、折りたたみ傘があると安心です』『ちょっとミサキ、今日雨降るって言ってたから傘持っていきなさいよ』
朝、登校前に聞いた言葉たちを思い出す。四十パーセントなら大丈夫だろうとタカをくくっていた私は傘を持たずに家を出た。その結果がこれ。私は中学校の登校口からざあざあと降りしきる雨を見ている。幸いにもカーディガンを鞄に忍ばせていたため寒くはないが、カーディガンでは雨を防げない。名前は強そうなんだけどな、カーディガン。
授業が終わる頃に降り始めた雨は景気良く降り続き、一時間以上が経過した今も止みそうな気配はない。そろそろ十七時に差し掛かろうとする空は不思議なほどに明るかったが、暗闇に変わるのも時間の問題だろう。
「どーしたもんかな。走って帰る、にはちょっと遠いし。でも止みそうにないから走るなら早いほうがいいよねぇ」
独り言を吐いて、一緒にため息も吐く。学校から私の家までは歩いて三十分ほどかかるので、走ったところで二十分ほどは雨に濡らされるだろう。走るのは苦手でもないが得意でもないのであまり取りたい選択肢ではない。それに制服も鞄も靴もビショビショになってしまうと明日の登校にも差し支える。迎えを呼ぼうにも両親はまだ帰宅していないだろう。その辺に刺さっているビニール傘を拝借する手も考えたが、やっぱり気が引けるので思いつかなかったことにした。どうしようかと悩むだけで時間は過ぎるし、ため息も出る。座っている廊下も、寄りかかっている下足箱も、どこか冷たくなってきているような気もしてなんだか寂しい気分になってきた。
すると、突然折り畳み傘が差し出された。足音も気配もなかったのに、誰だろう。驚いて持ち主を見上げると、そこには見慣れた美人が立っていた。
「傘、ないんでしょ?」
通学用のカバンを肩にかける凛とした立ち姿。彼女はシホ。私の幼馴染。そして、私の、片想いの相手。
いつから仲良くなったのか、なんてことは当然のように覚えていない。気が付いたら一緒にいて、気が付いたら仲良くなっていた。背が私より少し高くて、笑顔が素敵で、明るいのに独りの時間も好む彼女はまるで猫のようにふらふらといろいろなところで過ごしている。登下校が一緒になることもあるが、特段約束をしているわけでもないので、偶然会ったら一緒に過ごす関係。私は彼女との適度な距離感が心地よくて、いつもその姿に憧れていた。シホは何をしても様になっている。それはすらりとした背格好と長い手足のせいかもしれないし、端正な顔立ちのせいかもしれない。肩にかかるくらいのこげ茶の髪が揺れる姿が妙に似合っていて、何をやっても私より上手くこなしているから羨ましくなる。
そんな彼女と今日は偶然ここで出会ったわけだが、私が傘を持っていないことが見透かされていたようだ。それが少し嬉しくて、少し悔しい。
「……シホを待ってたの。暗いから寂しいと思ってさ」
出てきた言葉はやっぱりどこかちぐはぐだった。シホを待っていたという割に、私は彼女が今までどこで何をしていたのか全く想像がつかない。誰かと遊んでいたのか、どこかで勉強していたのか。一緒に育ってきたと言って過言ではないくらいの時間を過ごしているけれど、シホの行動は予想できない。そんなところも彼女の魅力だと思う。
「へぇ、ずいぶん可愛いことを言うようになったね。じゃあご褒美に、はい、これ」
「なに。持てってこと?」
「そ。持たせてあげる」
差し出された傘を受け取ってはみたものの、私は彼女よりも背が低い。どう考えたってシホが傘を差したほうがいいのだが……って、待って。シホ、一本しか傘持ってないの?
それじゃあ相合傘だ。降って湧いた幸せに感謝しつつも、変に緊張して口の中が乾く。
「濡れないように、ちゃんと差してね?」
無表情のまま小首をかしげる仕草に、思わず見惚れそうになった。私は咳払いでそれを隠して、必死に手を伸ばしながら折り畳み傘を差したのだった。
そのあとの帰り道は何を話したのかよく覚えていない。
結局、途中でシホが傘を持ってくれてぴったりとくっつきながら家まで帰った。いや、正確には肩が触れるたびに少し離れようとしたのだが、シホがそれに目敏く気づいて寄り添ってくるのだ。危うく車道まではみ出しそうになった私だったが、それを見かねたシホが傘を自分一人で使い始めたため私は彼女に寄り添って歩かざるを得なくなった。いつもより少し大きい歩幅で、いつもより少し近い距離で。
話した内容は覚えていないのに、その時のことはよく覚えている。
雨が降っているのに不思議と明るい灰色の空。いつも通り、ころころと変わる彼女の表情。傘に跳ねて地面に弾ける雨の香り。普段より近くで感じる甘いシホの声と匂い、そして肩から伝わる彼女の体温。
私はずっと緊張したままで、心臓は普段の五割増しに鼓動を刻む。気づかれていないだろうか、あ、今日体育の授業あったけど汗臭くないかな、待って、やっぱり近い、あ、相変わらず顔がいい。頭は真っ白で人間として正常に機能していたかすら怪しく思える時間だった。
学校からの距離は私よりもシホの家のほうが遠い。暗くなり始めていたので、家まで送ろうかと申し出ると、そのあと水咲を独りで帰らせるのは意味がわからない、と断られた。確かにその通りだ。
「じゃあまた明日、学校でね」
別れの挨拶はいつも短く、シンプルに。それがシホの心がけなのだと聞いたことがある。私は彼女の言う『また明日』が好きだった。それだけで明日が楽しみに感じる魔法の言葉だ。
「うん、また明日」
私がそう返すとシホは満足そうに頷いて帰っていく。私はその後ろ姿をしばらく眺めていた。彼女は私の視線に気が付いていたのか、それともただただそんな気分だっただけなのか。普段よりも少しだけ、弾むような足取りで帰っていった。
/3
キリの良いところまで書き終えて、私は一つ息を吐いた。
凝り固まった肩回りをほぐしながら時計に目をやると、時刻は二十三時を少し過ぎたところ。短文をちょっとした短編に仕上げられて満足した。気分的なものだけではなく、身体も達成感を覚えているのか、頑張った見返りに何か甘いものが食べたくなった。
買い置きのチョコレートでも摘まもうかと机の上を漁るが、あいにく切らしてしまったようだ。我慢するか、それとも買いに行くか。ちらりとカーテンをめくったら雨が上がっている。雨が降っていないのであれば外出するのもやぶさかではない……やっぱり甘いもの食べたいよな、こんな時間だけどな。カロリーへの罪悪感を欲望が上回ったので財布を掴み、マスクで半分顔を隠しながら家を出た。
「あれ、水咲先輩。こんばんは」
自宅近くのコンビニが見えてきたころ、見慣れた美形に声をかけられた。
伸ばした髪を後ろで緩く結んだ顔の良い中世的な男性はどこにいても目立つ。彼は志保の弟で蛍(ほたる)という。おそらく、私の片想いを唯一知っている人物だ。
「こんな時間に一人で外出なんて危ないですよ」
「お互い様でしょ。ていうか、ここのコンビニ、家からちょっと遠いんじゃない?」
「あー、うちの近くにこのコンビニチェーン無いんで。プライベートブランドとか、好みあるじゃないですか」
蛍の掲げた袋の中身は伺い知れなかったが、きっと彼の場合、辛くてジャンクな食べ物だろう。
「そういえば、姉さんから連絡きました?再来週帰ってくるって」
寝耳に水。青天の霹靂。寝てもいないし青空でもないけど。
「聞いてない。えっ、聞いてないよ。再来週?」
「ボクもさっき聞いたんで。メッセージ来てません?通知スルーしちゃってるとか」
「そんなはず……」
言われて端末のメッセージを起動すると、たしかに志保からのメッセージが届いている。『再来週そっちに帰るから、日程合えばどこか行こう!』『できれば水族館!』
絵文字もなくシンプルな、見慣れたメッセージ。どうやら連休でもない時期に志保が帰省してくるようだ。彼女は遠方で独り暮らしをしていて年に何度か帰省してくるのだが、その時期はいつも不定期だ。おそらく彼女の気が向いたときにふらっと帰ってくるのだろう。メッセージの送信時間を見るに、どうやら書き物に集中していたため通知に気が付かなかったようだ。
「水族館行こうって言われるんじゃないですか?ボク、誘われたけど断ったんで」
彼の言ったとおりのメッセージが届いていたため、私は言葉が出ない。やはり、弟ともなると志保の考えていることがわかるのだろうか。
「連休でもないこのタイミングで帰省してくる姉さんって何考えてるんですかね、相変わらずわかんないけど。でも、水族館デートじゃないですか」
よかったですね、と蛍は満面の笑顔を向けてくる。この姉弟は顔も明るいところもよく似ているので心臓に悪い。
「デート、って。茶化さないで」
「本心で言ってますよ。姉さんと水咲先輩がくっつけばいいのに、って。姉さんの猫みたいな性格に合わせられるの、先輩くらいでしょ」
これはいつものことなのだが、彼は私の背中を押してくる。私が女で、志保が女だということも理解したうえで。私は志保の考えていることも読めないが、蛍の笑顔の裏にあるものも読めない。もっとも、私が深読みしすぎなだけで、彼は純粋に懐いている姉の友人を応援しているだけなのかもしれない。
「じゃ、お腹すいたんで帰りますね。夜道にお気をつけて。あっ、そういえば水咲先輩の好きなプリン売ってましたよ」
それじゃと会釈をして、蛍はふわふわとした足取りで帰っていった。
その背中を見送って、私は再びメッセージアプリを起動する。
『水族館いいね。日程合わせるから、教えて』
志保に対してシンプルな返信を送る。
志保が帰ってくる。志保に会える。
マスクをしてきてよかった。化粧をさぼっているのを隠すためだったが、こんなに緩んだ口元を誰かに見られるわけにはいかなかったから。
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