其の十 出会いの季節

「改めてありがとう、亜紀。ほんとに助かったよ」


現在時刻は午後六時。日が西に傾きつつある空の下、私たちは公園のベンチに腰掛けていた。


「どういたしまして。それより、腕の傷は痛くない? お医者さんは大丈夫って言ってたけど」


あの後、私が一番にしたのは目覚めた亜紀を連れて病院に駆け込むことだった。友達同士の喧嘩、で押し通した私にお医者さんはけげんそうな顔をしていたけれど、消毒さえきちんとすれば感染症の危険はないと言ってくれた。今度、保険証を持って行かなくては。


「うん。全然。亜紀は?」


「私も大丈夫。ところで、なんで綾は家から出たの? 急いでたって聞いたんだけど」


責めるつもりは一切ないが、単純に気になるのだ。なぜ、彼女は安全な家の中から出てしまったのだろう。その疑問を口に出せば、綾は恥ずかしそうに頬をかいた。


「いや、それがね。ちょっと見てよ」


その言葉とともに、彼女は携帯の画面を開いてこちらに見せる。メールの受信欄の一番上には、どういうわけか私の名前があった。


「えっと、件名は……『危ないから、今すぐ家から出て』?」


「そ。兄さんが部屋に入ってきて、盛塩が崩れちゃったんだよね。で、それを直してる時にこれが送られてきてさ。パニックになってついうっかり」


当然だが、私はそんなメールを送ってはいない。そもそも、私と彼女のやり取りはチャットツールが主で、たまに電話をするくらいだ。たしか、彼女のメールアドレスすら私は知らなかったはずだ。


「ああ、そいつはたぶん悪霊が機械に干渉して送ってきた偽のメールだな。盛塩が崩されたんだろ? なら、そのせいで結界が弱まったところに付け込まれたんだと思うぞ」


私の肩越しに画面を覗き込んでいた矢宵の言葉を綾に伝えれば、彼女は目に手を当てて天を仰いだ。


「いやー、やっぱり? 家出てすぐに、おかしいって思ったんだよ。私、亜紀にメール教えてないなって。でも、そのときにはもう体の自由が効かなくてさ。あれ、でもあいつまともな文章送れたんだ」


そう言われてみれば、今までに送られてきたものはすべて文字化けしていた。二人で首を傾げていると、矢宵が答える。


「ああ、それは一回そいつに取り憑いたからだろう。力を増して、できることが増えたんだろうな」


なるほど、と納得しつつ綾に伝える。ところで、一つ気になることが残ったままなのだが。


「そういえば綾、あいつ結局何だったの?」


そこを私は知らないままだ。それに関しては矢宵も分からないようで、彼も興味深げに彼女を見つめている。私の問いを聞いた綾は、何かを思い出したのか顔をしかめてため息を吐いた。


「ああ、それね。あいつ、私のストーカーだったよ」


「え、ストーカー?」


思わぬところで話題が戻ってきて、思わずそう聞き返す。心底気持ち悪い、と言いたげに彼女は吐き捨てた。


「そう。近所だかどっかに住んでる知らないおっさん。いつまで経っても私が振り向いてくれないから呪術に手を出したんだって。取り憑かれたときに何回も聞かされた。振り向くも振り向かないも、そもそも顔も知らないっつの」


「それは災難だったね。……なら、あれを食べちゃったのってまずかったんじゃない?」


後半は矢宵に問いかける。正直いい気味だと思うけど、それはそれとして死体が出たりしたら後味が悪い。そんな私の思考を汲み取ったのか、彼は指を立てた。


「それに関しては場合によるな。呪術の種類と、代償に何を焚べたかにもよる」


いわく、物や呪文程度なら一ヶ月ほど起き上がれないだけですむ。髪や爪なら、二度とそれが生えてこない。血や肉を使っていたら、一生残る大怪我に。それ以上の何かを捧げていたなら――。


「これ以上は言えんな。それとも、今夜の伴にはは悪夢をお望みかい?」


「いや、遠慮しとく」


「賢明だな。まあ、いずれにしろあいつはもう君たちの人生には関わってこんさ。腹の中でよく言い聞かせておいたからな。もう、君たちの顔を見ることすら死んでもごめんだろう」


そう言って、彼はからからと笑った。不思議そうな顔をしている綾には簡潔に説明して、家に送り届ける。家の人に怪我について追求されるかと思ったが、拍子抜けなほどにあっさりと受け入れられた。



彼女が家の中に入っていくのを見届けて、私はきびすを返す。横道を二つほど過ぎたあたりで、彼の方を振り向いた。


「ねえ、矢宵――」


けれど、もうそこには誰もいなかった。ただ、夕方の風がそこを吹き抜けていくだけ。まるで最初から私一人だったかのように、ただアスファルトに夕日が降り注いでいた。



「夢って、ことはないか」


あれだけのことがあったのに、まさかすべて私の幻覚だったとは思えない。それに、確かめる方法なら一つある。


「待っててよ、矢宵。恩をかけるだけかけておいて、帰っちゃうなんてさすがにないでしょ」


明日、錦神社に行こう。そして、今度こそ言うのだ。助けてくれてありがとう。これからもよろしく、と。

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異境探偵宵紅葉 夏蜜柑(海) @natsumikan-sorube

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