錦の大狐
「取り憑いて体を乗っ取るなら、多少挙動不審でも声をかけられない場所が好都合だ。加えて、人間の足でそう時間がかからない近場であることが望ましい」
街中を歩きながら、矢宵は私に説明する。ただそう言われても、日曜日の午後の住宅地は静かなようでいて誰かしら歩いている状況だ。
「今日は日曜日だから、どこの施設も大体開いてる。公園はこんでるし、学校は部活だし……」
「逆に今日だけ休んでる店とかはないのか。あるいは、やっててもがらがらの場所とか」
「ううん、お店は人通りの多いところに立てるから、誰かに見つかると思う。がらがらってなると、全部を把握してるわけじゃないけど」
公民館は常に人が少ない。けれど、今日は料理教室か何かを開催していたはず。人の少ない公園にもいくつか心当たりがあるけれど、大体地域のスポーツクラブが使っていたはずだ。
いや、今日活動していないクラブが一つある。
「
「でかした! 近いか」
「自転車でゆっくり行って十分だから、走れば二十分くらい。急ごう!」
そこからは、それはもう必死で走った。基本的にインドア派の私にとっては、バス停から綾の家までと合わせて人生で一番走った体験だったかもしれない。
葛田川の周りは堤防になっていて、そのすぐ下にあるカヌー乗り場は河川敷に下りないと中が見渡せない。河川敷を散歩している人もいない今は、まさに無人のスポットだ。
「先に行ってる。君は安全なところから来い!」
そう言うなり、矢宵は堤防から河川敷に飛び降りた。和服の裾をはためかせて宙を舞い、綺麗な動きで着地する。その後を追いたい気持ちをぐっとこらえ、私は階段を駆け下りた。
「――綾!」
カヌー乗り場には、確かに綾がうずくまっていた。しかし、様子がおかしい。こちらに助けを求めないばかりか、矢宵とにらみ合っている。
「まずいぞ。大分乗っ取られかけている。素直に除霊されてくれる雰囲気ではなさそうだ」
「ああ、来るな! 綾を傷つけられたくなければ、そこでじっとしていろ!」
本来の彼女なら絶対にしない顔の歪め方をして、しわがれ声で綾が叫ぶ。取り憑いた霊のものだろう言葉の中で、妙に「綾」と呼ばれた名が耳障りだった。
「どうする、亜紀。除霊するなら、あの子の体は無事ではすまない。それに、君にも危険が及ぶ可能性がある」
その言葉に彼女をよく見てみれば、異様なほどに伸びた爪がその肌に傷をつけていた。あれが首を切れば、確かに怪我ではすまないだろう。私の考えを読んだのか、綾の唇が笑みの形に歪んだ。
けれど、それが何だというのだ。
「構わない。やって、矢宵」
矢宵は、少し眉をひそめてこちらに意識を向ける。綾が目を見開いた。
「いいのか。綾が、俺の綾が傷ついても」
その言葉が、引き金だった。先程まであれほど沸き立っていた血が、瞬く間に冷えていく。けれど、これは冷静になっているのとはわけが違うものだ。むしろ、これは。
「構わない。あんたなんかに渡すくらいなら、どれだけ傷ついても。でも、その代わり――」
爆発するときを求めて静まり返った怒りだ。
「傷つくときは、私も一緒だから」
自分でも驚くほどの瞬発力で距離を詰めた私は、地面に押し倒した綾をはがいじめにする。腕に爪が突き立って血の跡を残したけれど、その程度今さら痛くもない。
「よくやった、亜紀。そのまま固めていてくれ。元凶を引きずり出す!」
その言葉とともに、彼が綾の胸に手を突っ込む。肌を突き抜けた手はしばらく何かと格闘していたが、じきによどみのような塊を持って引きあげられた。
「残念だったな。これで詰みだ」
そう言うなり、矢宵は手の中の淀みを口に放り込んだ。グチャ、とかベチャ、とかで表されるような嫌な音がして、それなりに大きさのあった淀みはすべて矢宵の中に消えてしまった。
「え、食べ……」
「ああ。まずいし臭いな。次からは狐の姿に戻って食おう」
あんなものを食べた後だというのに、彼は当たり前のように口元を拭っている。驚いている私に気がついたのか、少しばつが悪そうな顔をして彼は頬をかいた。
「ああ、これのことは気にするな。それよりよくやったな、亜紀。悪霊成敗、これにて完了だ」
それと同時に、綾の体がふっと動きを止める。
「綾!」
けれど、次に聞こえてきたのは穏やかな寝息だった。そのことに安堵して思わず涙がこぼれる。引っかかれた傷はまだ痛かったけれど、気にせずぎゅうぎゅうと彼女を抱きしめる。今は血に汚れた腕でも、綾を抱いていたかった。
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